はてなキーワード: 新潮文庫とは
メモを取っているので一冊にかける時間が長い。とはいえ、世界史の教科書では一行で終わっていた出来事の細部を知るのは面白い。
東アジア史が中心。
価値観が現代とは変わってしまっている点が多数あり、今読むときついと感じる箇所も。
旧約聖書を読み始める。
旧約聖書を読了。学生時代に新約聖書を通読したから一応全部読んだことになる。
生物の標本にまつわる本を読みだす。やはり生物学は面白い。ネタが尽きない。
ジョジョを読み終えた。それにしてもハルタコミックスばっかりだ。
十三機兵防衛圏については友人に薦められたからクリア後のノリで買った。
今年はたくさんいけた。行かない月もあった気がするが、それはそれ、そのときの気分に従った。
「シン・ウルトラマン」★★
「プラットフォーム」★
「12モンキーズ」★★★
(長くなったのでブコメ)
国語の授業が、道徳の授業になっている(成り下がっている)ことだと個人的には思っている。それが倫理学的な議論や思考を涵養するものならばまだ良いが、大抵は素朴なモラル話に終始している(いた)と思っている。その一方で、道徳の授業・教材にワイルドの『幸福の王子』を使ったりしていた。あれは破滅願望BL作品だったことに、大人になってから気づいた。
ところで、自分は小学生の頃から読書好きだったのだが、年齢の離れた兄が、当時兄の通学していた高校で使用されていた国語の教科書を読ませてくれた。その時に読ませてもらったのは、安部公房の『壁』(新潮文庫)に収録されている一編「赤い繭」だった。大人になった今も訳がわからない物語だが「高校生にもなると、こんなに訳がわからない作品を、学校の授業とかでやるんだ!面白い!すごい!」と思い、何だか高校生になるのが楽しみになり、ワクワクしたものだ。小学生の自分に、背伸びした読書を教えてくれた兄には、今でも感謝している。
しかし、実際に自分が高校生になった時、国語の現代文の授業は、夏目漱石の『こころ』のKがホニャララする部分を読まされて辛気臭いモラル議論とかやらされたり、ウンザリした記憶しか無い。
受験で得点を稼ぐために、それなりに古文や漢文の勉強はしたけど、あれも徒然草とかじゃなくて、今昔物語とか宇治拾遺物語とかの面白おかしい話とかを題材にしてくれていたら、もっと勉強を楽しめたのではないだろうか。
昼前にでてガストでチキンくってリサイクルショップを軽く冷やかし
谷口ジロー「犬を飼う そして…猫を飼う」
を立ち読み
小川一水の郵便局なんちゃらの1巻が100円だったからクーポンつかって10円でGET
七つの黒い夢(2006年2月 新潮文庫)「10月はSPAMで満ちている」
ってやつ
正直つまらなかった
桜坂洋はオール・ユー・ニード・イズ・キルしかよんでなくてよくわかる現代魔法は読んでない
あとはスタートボタンを押してください ゲームSF傑作選(2018年3月 創元SF文庫)「リスポーン」
はわりとおもしろかったんだけどなー
乙一の短編もさらっと斜め読みしたけど文章に懐かしさを感じたけど面白くはなかった
別のブコフへ
つくみずのしめじシミュレーションが100円だったけど飼わない
きのう何食べた?が1-6巻100円でけっこうまよったけど、もう電書でもってるし何度か読んでるからいいかなと思ってガマン
布教用でもいいかもと思ったけど100円になってるだけあってちょっと汚かったしなー
なんかトランクひきずってる人がおおい
小川一水の天冥の標2巻が100円であったからクーポンで10円でゲット
別のブコフへ
あめぱらついたけどなんとかかえれた
あめはそこまでふらなかったようだ
まあいい
1にちがいすつしてつかれたな
マッカーサーは、中学生ぐらいの年齢で入学した西テキサス士官学校のころから、性的なことしか頭にありませんでした。近くにある聖メアリー女学校まで遠征すると(笑)誰彼なく声をかけまくってます。一応マッカーサーの通っている士官学校も女学校もミッション系の学校でしたが、エロマッカーサーの頭にはそんなことは関係ありませんでした(笑)
その後も、マッカーサーは49歳の時に16歳の少女に手を出してるほどの、重度のロリコンで、人生で常に性欲に忠実(笑)に生きてきた男ですから(笑)
英雄(笑)は昔から色を好むと言いますし、女と金と名誉に尋常ならざる拘りを見せたマッカーサーの行動原理は正に英雄のそれでしょう(笑)
マッカーサーは初婚が四十路と典型的なモテない男でしたが、ウェスト・ポイント士官学校在学中には、モテないダサい高校生がやりがちな『俺は何人の女とヤッた』自慢をやっている(笑)
ちなみにマッカーサーが入学するまでのウェスト・ポイントの記録(笑)は7人の女性と関係したのが最高だったそうですが、マッカーサーが8名と関係して記録を塗り替えた(笑)と吹聴していたそうです。
マッカーサーは近くのホテルに常駐していた母親ピンキーに監視されており(笑)そんなマネはとても無理だったので、これまたマッカーサーの武勇伝(笑)でしょう。下らないですね。
※参考:ジェフリー・ペレット著『ダグラス・マッカーサーの生涯 老兵は死なず』P.81
それでモテない暗黒の学生生活を送った反動で、マッカーサーは士官学校を卒業すると女狂いとなりました(笑)
と言ってもモテないのは相変わらずだったので、マッカーサーがやったことは現在でいうストーカーでした(笑)
1907年にマッカーサーはミルウォーキーのファニーベル・ヴァン・ダイク・スチュアート嬢という金持ちの娘に惚れて、仕事すら手に付かない状態まで入れ込んでしまいます(笑)
しかしスチュアート嬢はキモくて野蛮なマッカーサーには全く興味がなく、まったく相手にされなかっため、どん詰まったマッカーサーはラブレターを出しまくります。
スチュアート嬢が身の危険を感じたのか、ミルウォーキーから故郷のニューヨークに帰った後も追撃(笑)しているぐらいなので、かなりの執拗さです(笑)
そのラブレターの中の一つを紹介すると
私が愛するのはあなた
何にもまして
なぜにあなたは私を愛してはくれないのか
という、「自分がこんなに好きなのになぜ相手は自分の事を好きにならないのか?おかしいじゃないか(憤怒)」みたいな典型的なストーカー思想の手紙であり、こんな手紙を何十通も送られてきたスチュワートさんはさぞかし恐ろしかったことでしょう、そりゃ逃げたくもなるよ(笑)
これでも十分やばいんですが、マッカーサーはトドメとばかりに(笑)27頁にも及ぶマッカーサーとスチュワートが主役の韻文劇を創作(笑)し、その脚本をスチュワート嬢に送りつけるという暴挙に出ます(爆笑)
その内容は
軍人であるマッカーサーがスチュワート嬢と結婚し、散々二人でセックスした後に馬に乗って二人で戦場に赴く。
そこで、マッカーサーが重傷を負い、スチュワートの献身的な看護で一旦は回復するが、その後さらなる激戦でマッカーサーは戦死し、スチュワートは自分の夫マッカーサーを誇りにして余生を過ごす。
という中二病どころではない、もし普通の人なら、こんな妄想を考えている事がバレた時点で確実に自殺するような凄まじい(笑)内容でありましたが、マッカーサーは躊躇することなくこれをスチュワート嬢に送ってます(困惑)
こんな不幸の手紙以下の汚物をもらったスチュワート嬢の気持ちは想像すらできませんが、マッカーサーの期待も空しく、スチュワート嬢は最後までマッカーサーになびくことはありませんでした(当たり前ですが)
※参考:ジェフリー・ペレット著『ダグラス・マッカーサーの生涯 老兵は死なず』P.109
若い頃モテない暗黒人生を送ったマッカーサーは四十代になって、元上官の愛人でバツイチ子持ちという見えている地雷、ルイーズ・クロムウェル・ブルックスとようやく結婚しますが、彼女は離婚歴もあり、また参謀総長のパーシングやその副官キュークマイヤーなど片手では収まらない男性と交際するなど、非常に性経験が豊富な女性でした。
そこで、女性経験に乏しい(というか殆どない)マッカーサーが旦那になったものですから、彼女の不満は相当なもので
とか
「ダグラスはペ○スをオシッコをするためのものとしか考えてないのよ」
とか
パーティで出席者に向けて、自分の指を曲げて見せて、マッカーサーの○ニスが萎れた形にしてマッカーサーの性的能力の乏しさを表現した
結局、マッカーサーは生来のセコさとマザコンと男性機能の乏しさを理由に離婚されます。
その後、傷心のマッカーサーは新任地のフィリピンで、マニラ・オリンピックスタジアムでボクシングの試合を観戦中に16歳のイザベル・ロザリオ・クーパーという混血のモデルに一目惚れし(笑)副官のトマス・ジェファソン・ディヴィスに命じて、イザベルを愛人とする交渉をさせてます。部下に愛人交渉をさせる上官(それも少将)とか嫌すぎますよね、さらにその時のマッカーサーの年齢が49歳ですから・・・ガチで性犯罪でしょ(呆れ)
※参考:ジェフリー・ペレット著『ダグラス・マッカーサーの生涯 老兵は死なず』P.285
この副官のディヴィスという副官は気の利いた(笑)男で、結局マッカーサーは帰国後にこのイザベルにもフラれるんですが、そのあと傷心のマッカーサーを慰めるためにワシントンの郊外にコールガールを呼ぶための専用のアパートを借りています。マッカーサーはそこに頻繁に来ており、好きなプレイは、コールガールをルイーズやイザベルに見立てて激しく罵倒するプレイだったと後日スッパ抜かれてます(笑)
また、マッカーサーとデイヴィスは仲良く(笑)一人のコールガールと3Pすることもあったそうで(笑)部下と3Pする上官(それもこの時は大将)とか嫌すぎますよね(呆れ)
※参考:ジョセフC・グールデン著『Korea:The Untold Story of the War』
話はかなりそれましたが、日本では、毎日がGHQ司令部のあった第一生命館と嫁・とクソガキが待っているアメリカ大使公邸の往復であったので、日本女性を食いまくっているヒマはなかったようです。
しかし、日本に進駐当初に、日本女性にセクハラを試みたことは明らかになっています。
1945年8月30日、厚木飛行場に到着したマッカーサーは横浜へ直行。ホテル・ニューグランドを日本で最初の宿泊の場としました。
当時、ニュー・グランドには唯一辞めずに残っていた26歳の(山口由美著「クラッシックホテルが語る昭和史」では24歳)女性社員霧生正子氏がいました。
マッカーサーと護衛の空挺隊員は、ニュー・グランドに到着すると、男性社員を集め後ろ手を組ませて身体検査をしましたが、霧生正子氏にもそれを要求し、身体検査をすると通告しました。
護衛の空挺隊員には女性兵士はいなかったので、男性兵士が身体検査にされるのを嫌がった霧生正子氏は、「こんの野郎」と憤慨し、その命令に従わず、ホテルウーマンらしく前で手を組みました。
霧生氏の強い意思に押された、マッカーサーはそれを許可し、霧生氏には空挺隊の中尉がおっかなびっくり身体検査をしています。
霧生氏が気丈な女性でなければ、マッカーサー自らが身体検査と称しセクハラをするつもりだったのかも知れません。
また、霧生氏は自宅を空襲で失っていた為、マッカーサーらのことをイヤでこの野郎と思っており「家をかえせ」と言った事もあるほど、強い敵愾心を抱いたまま硬い表情で米軍兵士と接していました。
米軍兵士らは困ったのか「笑え」と霧生氏に命令し、それでも霧生氏は媚びないので「おれ等は悪くない、東条英機に文句言え」と責任転嫁したあげく、霧生氏に毎日コーヒーやらチョコやらを献上しにきたそうです。霧生氏は美人だったので、マッカーサーらには下心があったんでしょう(笑)
まぁ、マッカーサーも周りに連合国の高官らの目があるなかであまり無理もできなかったようで霧生氏がマッカーサーの毒牙にかかることはありませんでした。
よかったですね。
※出典 USArmyInJapan A Japanese lady who worked for GEN MacArthur
https://www.youtube.com/watch?v=0RqsjRRkUpQ
https://www.youtube.com/watch?v=Cvh6uW0Yxek
鼻の下を伸ばしただらしないいやらしい顔で、女性従軍記者マーガレット・ヒギンズ女史に不必要なほど接近し、その右手でヒギンズ女史の腰を弄るマッカーサー
現在で例えれば、自衛隊の司令官が女子アナにこんなことしてればどうなるか火を見るより明らかなように、典型的なセクハラですね(笑)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12184777592
2004年に刊行された『ライトノベル完全読本』(日経BP社)では、「表紙や挿絵にアニメ調のイラストを多用している若年層向けの小説」
←新潮文庫とかで表紙がそういうイラストになってる若年層むけ文学作品が該当、それこそ太宰とか
榎本秋は自身の著書における定義として「中学生/高校生という主なターゲットにおいて読みやすく書かれた娯楽小説」
←中学生と高校生でけっこう違う気がするけど、「SF 純文学っぽい」「ファンタジー 純文学っぽい」で検索すれば出てくるんじゃないかな。
あるいは「青年期の読者を対象とし、作中人物を漫画やアニメーションを想起させる『キャラクター』として構築したうえで、それに合わせたイラストを添えて刊行される小説群」
森博嗣は、著書『つぼねのカトリーヌ』(2014年)において、「会話が多く読みやすく、絵があってわかりやすい小説」
純文学って、文学のための文学というか、言語表現そのものを楽しむものかなと個人的には思っていて、
上の定義にあるような「読みやすさ」と相性が悪いかもしれない。
平山瑞穂とかはどうかな。
『樅ノ木は残った』(もみノきはのこった)は、山本周五郎の歴史小説。江戸時代前期に仙台藩伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」を題材にしている。
従来は悪人とされてきた原田甲斐(原田宗輔)を主人公とし、江戸幕府による取り潰しから藩を守るために尽力した忠臣として描くなど、新しい解釈を加えている。4部からなり、本編の合間に藩の乗っ取りを企む伊達兵部(伊達宗勝)とその腹心・新妻隼人の密談を対話形式で描く断章が幾たびも挿入されている。
1954年7月20日から1955年4月21日まで、中断の後に1956年3月10日から1956年9月30日まで『日本経済新聞』に連載され、書き下ろしを加え、1958年に講談社(全2巻)で刊行された。1959年に毎日出版文化賞を受賞した。現在は新潮文庫版が刊行されている(改版全3巻)。新潮文庫版の累計部数は100万部を超える[1]。
おっさんが飲み会で真実の愛について延々語るだけなので、哲学書の入門編にいいんじゃないかな。楽しそうにしてるおっさんはいいぞ。
どうしてフィクションで人は感動するかについて述べた本の走りで、後半は散逸しているんだけど、カタルシスについてはなるほどなあ、とは思った。作家になりたいんだったら普通にハリウッドの三幕構成の本を買ったほうがいいかもしれないが、この読書リストを読んでいる人は実用的な知識よりも読んでいて楽しいかどうかを求めている気もする。
読もうと思ったまま長い時間が過ぎてしまった本で、まだ読めてない。アウグスティヌスが若いころややりたい放題やっていた時期のことも書いてあるらしいので、宗教書として以外にも楽しめるんじゃないだろうか。
塩野七海がエッセイですごく推していたから読んでみたけれども、普通に面白い。例えば、中途半端に生かしておくと復讐されるから、いっそとどめを刺しておけ、みたいなことが書いてあって、優しいと人から言われてしまう自分には大いに刺激になった。ところで「孫子」もそうだが、戦争や政治学について書かれた本はたいてい「そもそも戦争は大悪手で、戦争になる時点で何かやらかしてる」という趣旨の言葉があり、全くその通りだと思う。
未読なんだけど、結婚とはある種の契約なんだから、まず処女と童貞がお互いに裸を見せ合ってからだ、みたいなディストピア的な描写もあるらしく、ディストピア文学好きの人は楽しめるんじゃないかな。あとは非モテ界隈の人とか。実際、完全な平等な社会を目指そうとするとどっかしら歪みが出るもので、それについて考えるのにも使えそう。
自然科学的な考え方、ロジカルシンキングのマニュアル。長くないのですぐ読める。得るものがあるかどうかはわからないけど、逆に普段している論理的思考がそもそも存在しない時代があったことは、実感しておくと歴史を学ぶ上で面白いかも。
平凡社の上巻を読んで挫折。純粋な理性っていうけれども、ヒトの心にはデフォルトで時間とか空間とかの枠組み、基本的な概念が組み込まれているよね? 的な話をやたら細かく述べていく内容だったように記憶している。長いので三行でまとめたくなる。
この本に限らず、いくつかの哲学書は「この本さえあればあらゆる哲学的論争をおしまいにできる」「この本からあらゆる結論が導き出せる」的なスタンスで書かれたものが多い印象。
エヴァヲタなら読まなきゃという謎の義務感から読んだ本。要は、どうすれば自分を信じることができるか、について語った本であったような気がする。自分は救われないだろうという絶望から、それでも神を信じるという境地に至るまでの道筋を延々と語ったようなものだった、はず。
自分は特定の信仰を持たないが、どうせ自分なんてと己を見捨てた境地から、まあ自分は自分だよね、的な気分に至った経験がある人が読むと楽しめるだろう。
「善悪の彼岸」と「ツァラトゥストラはかく語りき」なら読んだ覚えが。自分はカトリックの中高一貫校出身であったせいか、キリスト教思想にある欠点を指摘したこの本を面白く読んだ。キリスト教になじみがなくても、たとえば来世があると考えることで現在を生きることがおろそかになるといった指摘は、興味深く読めるんじゃないだろうか。あとは、増田で定期的に出てくるルサンチマンがどうこうとかいう話が好きな人にもおすすめ。マッチョぶってるところはあるが。
新潮文庫の「夢判断」「精神分析入門」「トーテムとタブー」「一神教の起源」なら読んだ。フロイト自身はヒトの心を脳から探りたかったらしいのだけれど、当時はMRIやら何やらはまだないので対話式の治療法を導入したらしい。
彼の理論は今となってはツッコミどころがたくさんあるのだろうけれど、クラインだとかビオンとかについて触れるなら頭に入れておきたいし、心理学特にパーソナリティ障害について読むなら知っておきたい。自分はフロイトやアドラーよりもユング派だが。
ラブストーリーの「ナジャ」だけ読んだ。謎めいた女のあるある的な話だ。
「論理哲学論考」だけなら読んだ。これもカントみたいに「俺が哲学のくだらない争い全部終わらせてやる」的な立場で書かれている。定理がずらずら並んでいるだけで、余計な表現がなく、簡素。
ただ、言語の限界について今の人が持っている感覚ってのは大体この時代の人が言っていたことだった気がするし、そういう意味では面白いんじゃないかな。この辺は数学ともかかわっていて、ペアノとかゲーデルとかヒルベルトとかその辺興味があったらいかがでしょう。
ちなみにウィトゲンシュタインがポパーとの議論でキレて火かき棒を振り回したヤバいやつだというのは哲学界隈では有名らしい。
シン・ウルトラマンの予告編でちらっと映っていたので読んだらいいかもしれない。
この本そのものは未読で「悲しき熱帯」ともう一冊なんか専門書を読んだことは覚えている。面白かったエピソードの一つは、ある民族は身分を入れ墨にするんだけど、入れ墨のない人間(白人たち)を見て面食らう。要するに身分証明書を持ってないようなものだから。
定期的に異民族と共に暮らすドキュメンタリーが読みたくなる性分なのだが、それはたぶん、自分のやり方や考え方が絶対じゃないってことをよく教えてくれるからで、これも本を読む効用の一つだろう。趣味なので効用なんて本当はどうでもいいが。
面白い。僕自身のスタンスとしては、日本人が海外で誤解されていることを批判するんだったら、自分も外国に対する偏見や無知を減らそうと努力するのが筋だと思っていて、それの理論的な補強をしてくれた本。身近に外国人の多い環境ではないが、すぐに役に立たないからと言って読まないというのはなんか違うんじゃなかろうか。自分はイスラーム世界やインドについて、どれほどわかっているのだろう?
どっからがいきでどっからが野暮なのか、直方体を使った図があった気がするが忘れた。
「遠野物語」しか読んだことがないし、それも「マヨヒガ」のことしか覚えていない。
自分が現代思想に出てくる名前がわからなすぎて最初に読んだ本の一つ。四コマ漫画だがかなり本質をとらえており、いしいひさいちの本業は何だったのかよくわからなくなる。素直に笑っておきましょう。勉強ってのは楽しみながらするもんだ。
上のリストでは省略した20世紀哲学者が実名で登場するミステリなんだけど、フーコーがサウナで美青年とイチャイチャしたり、七十年代の音楽を聞きながら薬をキメたりしているので、現代思想だのポストモダンだのをかじったことがあるならおすすめ。著者がやりたかったのは、たぶん上の世代の脱神話化というか、強すぎる影響の破壊なんだろうけれども、ここも素直に笑っておくのがいい。
以上。
留学先で女性を妊娠させて見捨ててしまう話なので、近頃は評判が非常によろしくない。そのくせ、この文体のせいで美しいと感じてしまう自分がいて、実はこれ、レトリックや文体によって騙されることに注意しろっていう警告なんじゃないかって気もする。「自分のおすすめ編」にも書くつもりなんだけど、ナボコフ「ロリータ」もそういう自己正当化がとにかくうまい。
余談だが、鴎外自身は東洋人だったこともあり、留学先では写真を撮らせてくれと頼まれたことがあったという。それに対して、構わないけどもあなたの写真も逆に撮らせてくれ、と言って、相手も満足させつつ日本人としての尊厳も守ったことがあって、これは割と好きなエピソードの一つ。まあ、漱石よりは世渡りがうまいよな。
古風な文体で挫折しかかるも何とか読破。これよりは幼馴染系の「たけくらべ」のほうが好きだったなあ。増田では古文がいるかどうかで議論になったことがあったらしいが、古文がすらすら読めるほうがこういう趣味というか楽しみが増える気もするし、純粋に実用面だけでいえば法律用語や古い公文書を読む必要がまだあるんじゃないのかな。
「舞姫」の話の続きだけど、古典文学にもやっぱりクズエピソードは結構あり、じゃあどれを教えてどれを教えないかは割と難しい。
僧侶が山間で美しい妖怪と出会う話。文庫のちくま日本文学全集で読んだ。全集と銘打っているけど、このシリーズは日本の近現代文学作家のベスト盤みたいな感じで、チョイスはいいのだけれどときどき抄、つまりダイジェスト版みたいなのが紛れていて、コンプリートしようとは思わなかった。
話としては幻想的ですごく好き。幻想譚が好きな自分がどうして泉鏡花にどっぷりはまるまでいかなかったのかが不思議なほどだ。当時は、著名な作品をどんどん消化しようと思って乱読していたからかもしれない。そういう意味でも、課題図書を読破することが自己目的化した読書には幾分害がある。
とても好き。小説が読めなくなったときには、文豪の書いたこうした随筆というか、風景描写の豊かな文章を読むことで、自分のリズムを整えたくなる。外出の難しい昨今、こうして空想の世界でだけでも豊かな自然のなかで過ごしたいものだ。五感が刺激される文章というのはなかなかない。
我輩を吾輩に修正。
ここ最近は漱石の評判はあまりよろしくないと聞く。所詮は当時の欧米の文学の輸入に過ぎないとか、結局は男社会の文学だとか。言われてみれば確かにその通りなのだけれども、日本の近代文学の開拓者にそこまで求めちゃうのも酷でしょうと思わないでもないし、この作品からたったの十年で「明暗」にまでたどり着いたのだから、やっぱりすごい人ではないかと思う。五十になる前に亡くなったのが惜しまれる。
で、肝心の内容だが。基本的におっさんがおっさんの家をたまり場にしてわいわいやる日常ものなので、当時の人にしか面白くないギャグを除けば、普通に笑える。最終回は突然後ろ向きになるが、もしかしたら漱石の本分はユーモアにあるのかもしれない。
余談だが漱石の留学時代の日記に付き合いのお茶会について「行カネバナラヌ。厭ダナー」とのコメントを残している。
素直に面白かった。若干のプロパガンダっぽさがなくはないが、読んだ当時は差別する側のねちっこさや意地の悪さが良く書けているように思われた。とはいえ、昨今は善意から来る差別についても考える時代であり、問題はより複雑になった。
被差別部落問題については気になっているのだがなかなか追えていない。日本史について読んでさまざまな地域の実例について断片的にかじった程度だ。それでも、地域によって温度差やあったり、差別対象が全く異なっていたりすることがわかり、どこかで日本全体の実情について知りたく思っている。
女中の布団の残り香を嗅いで悶々とする話だってことは覚えているんだけれども、読んだときにはあまり印象に残らなかった。なぜだろう。自分が読んできた近代文学は、基本的にダメな奴がダメなままうだうだする話ばかりだったからかもしれない。その多くの一つとして処理してしまったか。
で、自分が好きなのは飢え死にするほど悲惨じゃないくらいのダメさであり、親戚のちょっと困ったおじさんくらいのダメさなんだろうと思う。
読んだことがない。ただ、ドナルド・キーンの「百代の過客〈続〉 日記に見る日本人」によればこんなことを書き残しているそうだ。「僕ハ是レカラ日記ハ僕ノ身ニ大事件ガ起ツタ時ノミ記ケルコトニ仕様ト思ツタガ、矢張夫レハ駄目な様デアル。日記ヲ記ケ慣レタ身ニハ日記ヲ一日惰ルコトハ一日ヲ全生涯カラ控除シタ様子ナ気ガスル。夫レ故是レカラ再ビ毎日ノ日記ヲ始メ様ト思フ」(意訳。日記書かないとその日が無かったみたいで落ち着かない)。ここでツイッターに常駐している自分としては大いに共感したのである。そのうち読もう。
読んだはずだが記憶にない。「暗夜行路」で娼婦の胸をもみながら「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶよくわからないシーンがあったが、そこばかり記憶に残っている。これを読んだ当時は、この小説のように自分がどれほど理想を抱いていたとしても、モテないからいつかソープランドに行くのだろうな、とぼんやり思ったことを覚えている。
ちなみに、自分が初めて関係を持った女性は貧乳だった。だがそれがいい。
お父さんとうまくいっていない人は子供の才能をつぶす話である「清兵衛と瓢箪」が刺さるんじゃないかな。あとは少女誘拐犯視点の「児を盗む話」もよかった。
大学時代知り合った文学少女から薦められて読んだはずなのだが、覚えているのは「阿房列車」の何編かだけだ。それと、いつも金に困っていて給料を前借りしていて、そのことのまつわるドタバタを描いた作品や日記もあって、そうした印象ばかり残っている。
関係ないけど就職活動中に、この文学少女から二次関数を教えてくれと言われ、片想いしていた自分はそのためだけに都内にまで足を延ばしたことがある。いいように使われていたなあ、自分。あいつには二度と会いたくないが、元気にしているかどうかだけは気になる。
めんどくさいファンがいることで有名な作家。全集には第三稿や第四原稿が収録されており、比較するのも楽しい。俺は〇〇は好きだが〇〇が好きだと言ってるやつは嫌いだ、の○○に入れたくなる作家の一人。○○には「ライ麦畑で捕まえて」「村上春樹」「新世紀エヴァンゲリオン」「東京事変」などが入る(註:この四つのものとその愛好家に対する歪んだ愛情から来る発言です。僕も全部好きです。すみません)。サブカル系にはこれがモチーフになっているものが数多くあり、その点では「不思議の国のアリス」と並ぶ。
思想に偏りはあるが、独特の言語感覚や観察眼は今でもすごく好きだ。余談だが新書の「童貞としての宮沢賢治」は面白い。
知り合いにいつもぬいぐるみのキーホルダーを持ち歩いてかわいがっていた男がいたが、それで本人が落ち着くのならいいと思う。不安の多い世の中で、人が何か具体的に触れるものにすがるってどういうことなんだろう、って、ってことをこの作品を思い出すといつも考える。どこで読んだか思い出せなかったが、これもちくま文庫の全集でだった。
狭いコミュニティの中でこじれていく人間関係の話ではあるけれども、新潮文庫の場合は表題作よりも他の話のほうが気に入った。印象に残っているのは十二人の旅芸人が夜逃げする「時間」と、ナポレオンがヨーロッパの征服に乗り出したのはタムシのせいだったという「ナポレオンと田虫」。
実はこの作品は読めていない。谷崎作品は割と好きで、「痴人の愛」「刺青・秘密」「猫と庄造と二人のおんな」「細雪」は読んだ。「痴人の愛」という美少女を育てようと思ったら逆に飼育される話は自分の人生観に多大な影響を与えたし(例の文学少女に気持ちをもてあそばれても怒らなくなってしまったのもこれが遠因だろう)、「細雪」はただ文章のリズムにぷかぷかと浮くだけで心底気持ちがいい。ついでに、戦時中の生活が爆弾が実際に降ってくるまでは震災やコロナでただよう自粛の雰囲気とそっくりだったこととよくわかる。
ところで、最近久しぶりに谷崎作品を読もうと思ったら、ヒロインの名前が母と同じだったのですっかり萎えてしまった。というか、ここ最近趣味が「健全」になり始めていて、谷崎作品に魅力を感じられなくなっている。感覚がどんどん保守的になっていく。これはいかん。
高校生の頃に読んだのは確かに記憶に残っているのだけれど、高校生に川端康成のエロティシズムが理解できたかどうかはよくわからない。たぶんわかっていない。せいぜい伊豆の踊子の裸の少女を読んで、ロリコンを発症させたことくらいだろう。
太宰はいいぞ。自分は愛される値打ちがあるんだろうか、というテーマを本人の育った境遇やパーソナリティの偏りや性的虐待の疑惑に求める説は多いが、そういう心理は普遍的なものでもあり、だから多感な時期に読むとわかったつもりになる。芸術に何歳までに読むべきという賞味期限は原則としてないが、これもできるだけ若いうちに読んでおくといい。太宰の理解者ぶるつもりはないが。
もっとも、本ばかり読んで他の活動をないがしろにしていいものだとは全く思わない。あまりにもドマイナーな本を読んでマウンティングするくらいならバンジージャンプでもやったほうが話の種にもなるし人間的な厚みも出るというものだ。たぶん。
天才的。男性のあらゆる種類のコンプレックスとその拗らせ方を書かせたら彼の右に出るものは少なかろう。ただ、大学を卒業してから突然読めなくなってしまった作家でもある。息苦しくなるまで端正に磨きこまれた文章のせいかもしれない。
極限状況下でのカニバリズムをテーマにした小説なんだけれども、途中から戯曲になって、「食べちまう葬式ってえのは、あっかなあ」などとやけにのんびりした台詞が出てくるなんともユニークな小説。ただし、これは単なるブラックジョークではない。物語は序章、戯曲の第一部、第二部と別れているのだけれども、その構成にきちんとした意味がある。
人類全体の原罪を問うようなラストは必見。あなたは、本当に人を食べたことがないと言えますか?
祖父母の家から貰ってきた作品で、愛蔵版らしくカバーに入っていた。カフカにはまっていた時期だから楽しんだ。カフカの父親の影から逃れられない主人公とは別の種類の渦巻にとらわれてしまった主人公がだらだら、ぐだぐだしてしまうのだが、カフカが男性によって抑圧されているとしたら、こちらは女性に飲み込まれている文章だ。
未読。不条理な陸軍の中で、最強の記憶力を頼りにサバイブする話だと聞いて面白そうだと思い購入したのだが、ずっと積んだままだ。これに限らず、自分は戦争ものの小説・漫画をあまり読んでない。戦争に関しては文学よりも歴史書からアプローチすることが多い。
これは自分の悪癖だが、戦争ものになると庶民よりも知識人にばかり感情移入してしまう。
大江健三郎は初期の作品をいくつかと、「燃え上がる緑の木」三部作を読んだきりで、どういう態度を取ればいいのかよくわかっていない作家の一人だ。狭い人間関係の中のいじめだとかそうした描写に病的に関心のあった時期に読んだせいで適切な評価ができていない。
「燃え上がる緑の木」は新興宗教や原子力発電といった(結果的には)非常に予言的であった作品であったが、癖が強くカトリックの宗教教育を受けた自分であっても世界観に入り込むのに時間がかかった。「1Q84」よりもきつい。面白いが。
大学時代の友人に薦められて読んだ。「この家の主人は病気です」と、飢えて自分を食ってしまったタコの詩ばかりを覚えている。覚えているのはこれだけだが、この二つが読めたからいいか、と考えている。大体、詩集ってのはピンとくる表現がひとつでもあれば当たりなのだ。そして、それはあらゆる書物にも当てはまることである。
祖父が学生時代に送ってくれたのだけれども、ぱらぱらとしか読んでいない。
子供向けのものだった気もするし、近々原文にチャレンジするべきか。自助論(西国立志編)なんかと合わせて、自己啓発書の歴史を知る意味でも興味深いかもしれない。
読もうと思って読めていないけれども、これまたドナルド・キーンの本で面白い記述を見つけた。「墨汁一滴」の中に、つまらない俳句を乱造しているやつの作品にはどうせ碌なもんなんてありゃしないんだから、そういう連中は糸瓜でも作ってるほうがマシだ、という趣旨のくだりがあるそうだ。創作する上でのこういう厳しさは、いい。
「ローマ字日記」しか読んだことがない。たぶん日本で最初にフィストファックが描写された文学かもしれない。春画はどうか知らないけど。
堕落と言いつつもある種の誠実さについて語った本だった気がするが、それよりも新潮文庫で同時に収録されていた、天智天皇と天武天皇の家系にまつわる謎についてのほうが印象に残っている。
(1)はこちら。anond:20210212080317
好き。ただし、当時の人にしかわからないパロディやジョークが多く、というかこの本を通じてしか残っていないのもあるので、純粋に笑えるかどうかはわからない。とはいえ、わからないなりにナンセンスさは楽しく(「ぽっぺん先生」シリーズにも引き継がれている)、トーベ・ヤンソンなどいろいろな人の挿絵も楽しめるし、こじらせ文学少年・文学少女とも仲良くなれるかもしれない。大学時代の読書サークルは楽しかったなあ。
ドストエフスキーの小説は基本的に頭がおかしい。ドストエフスキー自身がギャンブル依存症でユダヤ人嫌いのヤバいやつだし。
登場人物は基本的に自己主張が激しくて感情に溺れやすく、数段落数ページにまたがって独白する。プライドが無駄に高くて空想癖がひどく、思い込みが激しくて人の話を聞いちゃおらず、愛されていないのに愛を語る。そしてそんな奴らが大好きだ。
ぜひとも増田をロシア文学沼に落としたいのだが、いかんせん「悪霊」を含む五大長編から挑戦するのはハードルがあまりにも高いので、「永遠の夫」か「賭博者」か「地下室の手記」か「白夜」からがおすすめ。ロシア文学はいいぞ。
ところで、高校時代の友人曰く「ドストエフスキーにはまるのは自己愛と自己嫌悪の衝突を必死にプライドで支える人間、言い換えるとモテない」とのこと。ひどい。
こっちはスマートなほうのロシア文学。一家が没落して家や土地を売らないといけないのに、家の経済状態をわかっておらず(認めず)すぐに物乞いに金貨を上げちゃう、現実の見えていないお母さんのキャラが強烈。ギトギト描写するドストエフスキーに対し、勘所をびしりと抑えるチェーホフ。
実家のお母さんと(特にお金関係で)うまくいっていない人におすすめ。
未読。怪作「木曜日だった男」は読んだんだが。ミステリはあまり読んでいないのでそのうち読む。
誰もが冒頭のマドレーヌの香りから想起されるママンとの思い出についてしか語らず、たぶんみんなちゃんと読んでないからなのだが、実は無職のマザコンが自分の性の目覚め(野外オナニーを含む)やソープ通いや失恋の思い出について延々と語っている話で、何度語り手に向かって「働け!」と言いたくなったことか。
しかし、実のところ登場人物の九割がLGBTという当時としては非常に先進的な小説で、さらに当時炎上していたドレフュス事件という両陣営を真っ二つに分断した冤罪事件をネタにもしているので(今でいえばMeTooやBLMに相当する)、実は差別反差別についていろいろ語っている増田たちにすごく刺さる内容だと思う。俺差別してないし~、あいつは〇〇人だけどいいやつだよ~、的な態度もぐさりとやられている。最高でしかない。
ちなみに、金に苦労しないボンボンがうだうだ恋愛で悩む小説が好きになったのはこの本のせい。「アレクサンドリア四重奏」とかね。
不条理ギャグすれすれで訳もわからずひどい目に合う小説。いきなりこの小説にチャレンジするのはしんどいので、まずは「変身」か岩波文庫の短編集を読んで、カフカのノリが気に入ったら読むといいんじゃないかな。
読んでいるとカフカがお父さんのことめちゃくちゃ苦手だったってのがびりびり伝わってきて気の毒(カフカは線の細い文学青年、父は叩き上げのビジネスマン。想像できるでしょ?)。お父さんとの関係がこじれている人におすすめ。
最高のダメ人間小説。精神勝利法なることばはどこかで聞いたことがあるんじゃないだろうか。作者は当時の中国人の意識の低さを批判したつもりらしいが、万人に刺さる内容。
ちなみに自分はダメな人間、情けないやつ、どうしようもないやつが大好きなので「指輪物語」のゴクリ(ゴラム)だとか、「沈黙」のキチジローだとかが大好きです。
さえないおっさんが妻の浮気を知りながら一日中ダブリンの町をウロウロするだけの寝取られ小説で(途中で女の子のスカートをのぞいて野外オナニーもする)、このリストの前に出てきた「オデュッセイア」のパロディでもある。
これだけだと何が面白いのかよくわからないのだが、実は当時の反英的な機運の高まっているアイルランドの空気を活写している。それだけではなく小説の様々な実験的手法の見本市みたいになっており、和訳もすごい。たとえばある章では英文学の様々な文体を歴史順に真似て英文学の発展をパロるのだけれど、和訳ではその章は祝詞に始まって漢文になり、漱石や芥川の文体を経て現代小説になるという離れ業で訳している。これがもっと無茶苦茶になると「フィネガンズウェイク」になるのだけれど、すでに言語の体をなしていないのでまだ読めてない。
上記の説明でドン引きしないでください。「ダブリン市民」をお勧めします。
結核療養サナトリウム小説。北杜夫ファンの間で有名な「ねーんげん的」の元ネタ。あらゆる知識を山のサナトリウムで吸収した主人公の運命やいかに! 「ノルウェイの森」で主人公が京都山中の精神病院にこの本を持っていくのは村上春樹なりのジョークか。
ただし、やっぱり長いので美少年萌えな「ヴェニスに死す」か陰キャの悲哀「トニオ・クレーゲル」にまずチャレンジするのがおすすめ。
はまったら「ブッデンブローク家の人々」や「ファウストゥス博士」を読もう。
洗脳エンドのディストピア小説なんだけど、増田で「一九八四年」が古いと言われてしまうんだったらこれはどうなるんだろ。読むんだったら他の「すばらしい新世界」とか「ハーモニー」とかと読み比べて、ディストピアの概念が現実の社会の変化に合わせてどんな風に発展してきたからを考えながら読むと面白いのかも。
未読。長すぎる。
未読。
文学サークルの友人に勧められて読んだんだけど、とんでもない小説だった。あらすじとしては、野望に取りつかれた南部の人種差別主義者が自分の帝国を作るために理想の女性と結婚するが、その女性に黒人の血が混じっていたために離婚して別の女性と結婚することから始まる、二つの家系の因縁話なのだが、時系列がしっちゃかめっちゃかなのでとにかくその男の妄念とその子孫の不幸ばかりがじりじりと迫ってくる。あまりにもすごかったのでフォークナーの他の作品は読めておらず、黒人差別を扱った小説も怖くて読めていない。
未読。
読んだがよくわからなかった。うつ状態のときには時間の経過さえも苦痛で、それを救ってくれるのは音楽だけだ、的な話だったか。とにかく本を読み漁っていたころ、新潮文庫のサルトル短篇集を意味も分からず読んでいたのを思い出す。わけもわからないままヌーベルヴァーグを観ていた頃だ。さっき出てきた高校時代の友人曰く「フランス映画のあらすじはセックスして車で逃げて殺されるだけだ」とのことだが、起承転結に還元できない小説を楽しむようになったのはこの頃からだった。
未読。
短いのですぐ読める。ゴドーはいまだに再臨しないキリストのアレゴリーだという説もあるが、実際のところはよくわからない。意味の分からない話だけど、僕らの人生も結構意味不明だよね、みたいな感じか。
未読。「愛人」は読んだが記憶のかなた。まだ幼くて没落する富裕層とその爛れた愛を十分に楽しめなかった。
どうでもいいが自分が年上萌えに目覚めたのは「海辺のカフカ」のおねショタシーンです。
レムの作品の中では一番好き。たとえ出てくる科学技術の描写が古くなっても(SFだとこういうことはよくある)、理解できない対象として立ちふさがるソラリスという惑星の描写は古びない。
SFは考えうるあらゆる可能性を検討し、人類の達成しうることや宇宙の中での意味について想像力の境界をどこまでも遠くまで広げていく文学だ。中には人類がろくでもない理由で滅亡してしまったり、人間など取るに足りないという悲観的なヴィジョンに至ってしまったりするものまであるが、それでさえ美しい。なぜなら、想像力がヒトという種の肉体に縛られまいと羽ばたいた結果なのだから。
最近SFをろくに読んでいないが、元気が出たらまた読みたいものだ。
初めて読んだラテンアメリカ文学。起こりえないことが起こり、名前がややこしいので誰が誰だかすぐに混同され、しかもそのすべてが意図的である。混乱してもとにかく読み進めてほしい。目の前で起きる不可解な出来事をまずは楽しもう。
慣れてきたら、これが不条理としか言いようのない南米の歴史の縮図だとかそんなことを考えてみるのもいいかもしれない。この本のおかげでボルヘスに、バルガス=リョサに、ドノソに出会うことができた。
一説によるとこの本が文庫化されるとき世界の終末が近づくという本の一つ(未確認情報)。新潮社がなぜか頑なにハードカバーしか出さない。ちなみに「薔薇の名前」にもそうした風説がある。
インド独立の瞬間に生まれた子供たちが全員テレパシーの使い手だった! こんな話があの岩波文庫に収録されるんだから世の中わからない。
主人公は裕福な家で育つが、じつはそれは出産時の取り違えによるものであり、誤って貧しいほうで育ってしまった子供が復讐にやってくる。それも、真夜中の子どもたち全員を巻き込む恐ろしい方法で。
インドとパキスタンの分裂、人口抑制政策、そういったインドの歴史をちょっと頭の隅っこに入れておくと面白いが、昼ドラ的な入れ替わりの悲劇の要素のあるSFとして娯楽的に読める。権力を持った強い女性に対する嫌悪感がほんのりあるのが難点か。
ちなみに、「悪魔の詩」も読んだが、(亡くなった訳者には本当に申し訳ないが)こっちのほうが面白かった。あれは当時のイギリスのポップカルチャーがわかっていないと理解が難しい。
独自の神話的なヴィジョンで有名らしいんだが、邦訳あったっけ?
未読。
卒業旅行でパリに持って行った。たぶん時期的には最高だったと思う。とにかく血だとか死だとか堕落だとか退廃だとかそういうのに惹かれる人生の時期というのがあり、まさにそのときに読めたのは幸せだった。もっとも、所詮自分はそれらを安全圏から眺めていただけだったが。
同じく卒業旅行でパリに持って行った。残念ながらフランス語はわからないのだが、フランスのサンドイッチは最高だった。当時はまだピュアだったのでキャバレーやフレンチカンカンは見に行っていない。
未読。
未読。
ドストエフスキーの作品がカーニバル的、つまり一斉にいろんな出来事が起きてしっちゃかめっちゃかになって、日常の価値観が転倒する、みたいな内容。確かにドストエフスキーの作品は爆弾抱えた人間が一か所に集まってその爆弾が一斉に大爆発、的な内容が多い。
ただ、これ以上のことは覚えていない。実はあまり文芸批評は読まない。
未読。
疲れたので続編をやるかは不明。日本文学や哲学・思想は海外文学ほど読んでないし。まとめてみて、遠ざかっていた文学に久しぶりに手を伸ばしたくなった。
池澤夏樹=個人編集 世界文学全集II-11所収 ピンチョン「ヴァインランド」
岡地稔「あだ名で読む中世史 ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる」☆
今尾恵介「ふしぎ地名巡り」★
奥野克巳「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」
ピーター・ゴドフリー=スミス「タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源」
テッド・チャン「息吹」★★
ピエール・バイヤール「読んでいない本について堂々と語る方法」☆
イリヤ・ズバルスキー、サミュエル・ハッチンソン「レーニンをミイラにした男」☆
チャールズ・C・マン『1493――世界を変えた大陸間の「交換」』★★★
ジョン・サザーランド「ヒースクリフは殺人犯か? 19世紀小説の34の謎」
東京創元社編集部「年間日本SF傑作選 おうむの夢と操り人形」
高丘哲次「約束の果て―黒と紫の国―」
堀晃ほか「Genesis 一万年の午後 創元日本SFアンソロジー」
水見稜ほか「Genesis 白昼夢通信 (創元日本SFアンソロジー 2) 」
村上春樹「ラオスにいったい何があるというんですか? 紀行文集」★
サリンジャー「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年」。
チョン・ソヨン「となりのヨンヒさん」
「ガラン版千一夜物語 1」★★★
「ガラン版千一夜物語 2」
「ガラン版千一夜物語 3」
「ガラン版千一夜物語 4」
「ガラン版千一夜物語 5」
「ガラン版千一夜物語 6」
ジョン・サザーランド「ジェイン・エアは幸せになれるか?―名作小説のさらなる謎」★★
ジョン・サザーランド「現代小説38の謎 『ユリシーズ』から『ロリータ』まで」
J・P・ホーガン「未来からのホットライン」
ロバート・アーウィン「必携アラビアン・ナイト 物語の迷宮へ」★
ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」(光文社)★★★
ジュリアン・バーンズ「フロベールの鸚鵡」
イアン・マクドナルド「黎明の王 白昼の女王」
オルガ・トカルチュク「逃亡派」☆
ユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来」上巻☆
ユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来」下巻
住吉雅美「あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスン」★★★
ルーシャス・シェパード「タボリンの鱗 竜のグリオールシリーズ短篇集」
オルガ・トカルチュク「昼の家、夜の家」
エイミー・B・グリーンフィールド『完璧な赤 「欲望の色」をめぐる帝国と密偵と大航海の物語』
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ4」
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ5」
タクブンジャ「ハバ犬を育てる話」☆
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ6」
ホアン・ミン・トゥオン「神々の時代」★
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ7」
ローデンバック「死都ブリュージュ」
ホセ・ドノソ「夜のみだらな鳥」
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」上巻
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」中巻
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」下巻
入江亜季「北北西に曇と往け」(一)~(四)
石黒正数「Present for me」
澤江ポンプ「近所の最果て」
カシワイ「光と窓」
月ごとに一番面白かった本を3冊選び、★をつけた。ただし、どうしても入れたかったものは☆をつけた。月ごとの順位なので、たとえばパク・ミンギュにはもっと星をつけたいのだがそれが反映されていない。
数えてみたが、2020年に読んだのは活字149冊、漫画22冊だった。毎月12冊から13冊読んでいると思っていたので、単純計算で150冊を超えると思ったが、ぎりぎり足りなかった。とはいえ、毎月10冊という目標は達成している。
1年を通して見ると、ノンフィクションばかり読む時期や、SFばかり読む時期などが明確に交代していることがわかる。特に、4月から6月はSFとファンタジーがほとんどだったが、8月以降SFを全くと言っていいほど読んでいないし、逆に11月、12月は1冊をのぞいてノンフィクションがない。
また、芥川賞をはじめとした日本の現代文学をほとんど手に取っていない。ベストセラーやエンタメ、ホラーもない。逆に、韓国やタイ、ペルーやチリなど、日米欧以外の海外文学の割合が高い。
意識してきたわけではないが、自分の好むジャンルは科学や歴史のノンフィクション、神話、行ったことのないラテンアメリカやアジアの文学、メタフィクション的であったり奇妙な味がしたりする短篇集、古典、であるようだ。一方で、女性作家の割合は低く、特に日本の現代女性作家をほとんど手に取ってない。一時期は多和田葉子だとか江國香織とかをよく読んでいたので女性作家が嫌いなわけではなく、ヴァージニア・ウルフも好きだし、ハン・ガンも自分の中では大当たりだったので、もう少し割合を増やしてもいいかもしれない(追記。身につまされる話よりも読んでいて気持ちのいい本を読む率も増えた)。
割合の話でいえば、大学時代はもう少し文豪の作品を多く読んでいたように記憶している。それと、いくつからの例外を除き、世間の動きや話題とは遊離したチョイスばかりである。世の中から目を背けているわけではないが、日々の雑事とはまた違う視点に立てたのはありがたかった。新型コロナウイルス関連の記事ばかり読んでいては気がめいってしまう。
今年は少し冊数が少なくなるかもしれないが、引き続き毎日の気晴らしとして、気が向いたものを好きなように読んでいきたい。
以上。
石破 茂 です。
謹んで新年のお慶びを申し上げます。本年も何卒よろしくお願い申し上げます。
昨日、一都三県を対象とした緊急事態が再宣言され、昨日発表された東京の感染者も過去最多の2447人となりました。
感染者の増加は確かに重大事ではありますが、冬になって空気中の水分が減って飛沫が遠くまで飛びやすくなるのは当然のことですし、寒冷地では換気の機会も減少することも考えられます。PCR検査数の増加によって陽性者が増えるのもまた当然のことです。
かくなる上は、感染者数ばかりに注目することなく、限界ある国家資源や医療資源を、重症者と死亡者を減少させることに重点化して配分すべきなのではないでしょうか。
「どうすれば重症化・重篤化しないか、どうすれば死に至らないかが重要であり、対策も情報発信も、このことを重視すべき」と昨年の感染初期よりテレビなどでも何度か申し上げてきたのですが、なかなかそうはなりません。
医療関係者の献身的な努力によって、アビガン、レムデシベル、ヘパリン、デキサメトゾンなどの薬、人工呼吸器類(ネーザルハイフローやECMOなど)、普及率世界一のCTなど(この多くを今回初めて知りました)を用いた治療法も随分と進歩し、救命率もかなり上がっているはずなのですが、そのような報道もあまり聞くことがありません。漠然とした感染者数よりも、基礎疾患を持つ方や70代、80代、90代の高齢の方の罹患率、感染者数と死亡者数の正確な分析などの方が知りたいと思うのは私だけでしょうか。
日本人が欧米に比べて人口当たりの感染者数や死亡者数が極めて低いのも、同じ都道府県内でも市区町村によって状況が全く異なることにも必ず理由があるはずで、その科学的な分析が進められれば、もっと精緻な政策が打てるのではないでしょうか。
生活習慣の相違、国民皆保険制度の存在、極端な格差社会ではなく分厚い中間層が存在していることは決定的に重要な要素であり、この持続可能性を維持できるかが最大の課題です。
諸外国、特にスウェーデンの対応についても様々な論評がありますし、同政府のコメントも承知していますが、この国において「『寝たきり老人』(とても嫌いな語感です)が居ない」ということとも関連性がある宗教観や死生観の問題が、改めて問われているように思われてなりません。
日本特有の同調圧力とゼロリスク志向の強さも改めて感じています。「自粛警察」などという不可思議至極な活動は、今のところなりを潜めているようですが、戦争中の「パーマネントはやめませう」「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」などという「愛国的な」活動が想起されて、とても嫌な思いが致しました。ヘルスリテラシーの低さについても、自らを省みて、これもまた然りと思います。
日本においては大勢の世論(「空気」)に抗って異論を差し挟むことは忌み嫌われますが、政治は世論に迎合しすぎてポピュリズムに堕してはいけない、よく自重自戒せねばならないと思っております。
失業率が1%上がると自殺者が1,000人から2,000人増えると言われていますが、ここ数か月の自殺者の増加、特に女性の割合の増加はとても気がかりです。また、病院にあまり行きたくない、ということで、がんの定期健診の受診数も大幅に下がっています。
風邪やインフルエンザが「根絶」されることがないように、新型コロナウイルスも「根絶」される、ということはないでしょう。ただし治療法が広く共有され、重篤化を防ぐことができ、ワクチンが広く行きわたり、感染拡大が収束した時に、自殺者が激増し、がんによる死亡者が大幅に増えてしまったとすれば、それは「人類がコロナに打ち勝った」証とは言えないのだと思います。
政権は厳しい状況の中であらゆる方面からの批判に晒されながらも可能な限りの対応をしているのであり、我々は少しでも国民の支持と理解が得られるように努めなくてはなりません。
昨日のアメリカ議会へのトランプ支持者の乱入と死傷者発生の事態について、トランプ大統領に責任がないとはとても言えない状況でした。選挙結果について異議を唱えるだけならともかくも、支持者に対して議会への乱入を扇動するようなスピーチなどは、民主主義の実力行使による否定と紙一重であり、見たくもない光景でした。
トランプ大統領が就任した時、「言を左右して相手を困惑させ、自分にとって最も有利な取引を仕掛ける『サスペンスとディールの大統領』となるのではないか」と申し上げたと記憶していますが、まさにその通りの4年間であったと思います。大統領当選時の勢いをもって議会選挙を経た結果、共和党も明らかに変質を遂げました。昨年の大統領選挙でトランプ氏に投票した米国有権者は7380万人、この人々が更に先鋭化するのかも全く見通しは立ちません。
自由を建国の精神とするイデオロギー国家、国民の8割が神の存在を信じ、4割が毎週日曜に教会に通う宗教国家、アメリカ国民という意味での民族国家、こういったアメリカの本質はバイデン政権になっても変わることはありません。そうであれば、それぞれの自画像、理想像、基本的な価値観が対立する米中の軋轢は今後一層激しくなり、日本はより一層厳しい選択を迫られることになります。安全保障についての法体系も、装備も、運用も、アメリカ依存から脱却し根本から見直すべきだと思いますし、今までのような問題先送りでは国益を損じると考えます。
それでもなお、同盟国である米国が新政権によってその美点である復元力を発揮し、アメリカ民主主義の理想に立ち戻ることを心より期待しています。
年末年始、生来の怠惰さに加え、雑事に追われて勉強らしい勉強も出来なかったのですが、中川恵一准教授(東大附属病院)の「コロナとがん」(海竜社)、小林よしのり氏の「コロナ論」(扶桑社)、橋爪大三郎氏の「中国VSアメリカ」、同氏の大澤真幸氏との対談「アメリカ」(共に河出新書)、加藤陽子氏の「それでも日本人は『戦争』を選んだ」(新潮文庫)、は極めて示唆に富む大変に興味深いものでした。
合間に久々に再読した、没後50年となる三島由紀夫の短編・中編(新潮文庫)の文章の独特の華麗さにも魅了されたことでした。
週末の日本列島はまた寒波の襲来に見舞われそうです。皆様ご健勝にてお過ごしくださいませ。
ガースーがコロナ対策でコケてもうダメそうってことで、次期総理の話をしたくなるやつもいるだろうが、少なくとも石破は全然だめだぞ
https://b.hatena.ne.jp/entry/ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/blog/2021/01/post-3bb9f8.html
相変わらず持ってまわった言い方で読解力が必要だが
感染者の増加は確かに重大事ではありますが、冬になって空気中の水分が減って飛沫が遠くまで飛びやすくなるのは当然のことですし、寒冷地では換気の機会も減少することも考えられます。PCR検査数の増加によって陽性者が増えるのもまた当然のことです。
陽性率やばいの見てないのかね
「どうすれば重症化・重篤化しないか、どうすれば死に至らないかが重要であり、対策も情報発信も、このことを重視すべき」と昨年の感染初期よりテレビなどでも何度か申し上げてきたのですが、なかなかそうはなりません。
どうすればいいの?
死んだ議員はどうすればよかったの?
会食ぐらいで騒ぐなよってか?
小林よしのり氏の「コロナ論」(扶桑社)、橋爪大三郎氏の「中国VSアメリカ」、同氏の大澤真幸氏との対談「アメリカ」(共に河出新書)、加藤陽子氏の「それでも日本人は『戦争』を選んだ」(新潮文庫)、は極めて示唆に富む大変に興味深いものでした。
武蔵大学北村紗衣先生のディストピア文学の読み方が話題になっている。「ディストピア文学を自分の住んでいる日本に結び付けないのは問題」が話題になるのも当然で、数多くの専門家が北村紗衣先生の教えに反しているためである。
フィクションに限っては、人はユートピアよりもディストピアが好きだ。その心理は、ホラー小説や絶叫マシンを楽しむ心理に似ているのかもしれない。エンタテイメントとして「死」を疑似体験することで、私たちは命の価値を噛みしめ、平凡な日常の輝きを見つめ直すことができる。それと同じメカニズムで、「お話」としてのディストピアに浸ることによって、自分が身を置いている現実の良いところを再確認し、フィクションのディストピアが未来の現実にならないようにするには何を心がけるべきなのかと考える機会を得る。(書評 ディストピア・フィクション論…円堂都司昭著)
自分が今いる良いところの再確認(「日本はディストピア作品みたいになってない(これからもならないようにしよう)」)は、ディストピア作品が自分のいる場所を描いているとして読むことの真逆である。
「こうなったら嫌だな」とは思いつつも、現実感はありませんでした。ただヒトラーやスターリン下の世界では、こういうことが起こり得るのかなとは思いましたが。(社会人になって1984年を読んだ感想)
フランスの作家による新たなディストピア小説の出現だ。(略)終盤で一度ならぬ“どんでん返し”がある。本作はある種、現在のアメリカ、あるいはアメリカに象徴される利潤追求第一の物質的競争社会に対する、シビアな警告と挑戦状ともいえるだろう。(『透明性』/マルク・デュガン 書評)
(小川洋子著)『密やかな結晶』(英題The Memory Police、スティーブン・スナイダーさん訳)も「神話のような響きがあり、寓話(ぐうわ)でも、ディストピアでもある」と評された。帽子、リボン、小鳥、様々なものが消滅していく島で、秘密警察が消滅が滞りなく進むよう監視の目を光らせる物語だ。
日本では1994年に刊行された作品だが、選考委員は「何年も前に書かれていながら、あまりにも現代的で目を見張らされた」と驚きを口にした。米トランプ政権下などでフェイクニュースが横行して真実が失われ、コロナ禍で人々が集まる様々な活動が控えられる現実が作品世界に重なった。(興野優平)=朝日新聞2020年9月2日掲載(ブッカー国際賞、「ディストピア」がキーワード 小川洋子「密やかな結晶」も最終候補)
イギリスの文学賞選考委員であるが、ディストピア作品をアメリカと関連付けている。
身も蓋(ふた)もない本音で支持を集めるトランプを見て個人的に想起したのは<3>庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(新潮文庫・497円)だった。(略)「感性」がつぶしにかかる戦後民主主義ひいては人間の文明という「知的フィクション」を守るために薫くんは戦っているのである。だが勝ち目は見えず、敗北すなわちディストピアの到来が覚悟されて終わる。「知的フィクション」に、たとえば「ポリティカル・コレクトネス」(差別や偏見を含まない言葉遣い)などを代入すれば、トランプ危機との近しさが見えるだろう。 (ディストピアの予感)
日本を舞台としたディストピア作品をアメリカと結び付けている。
果たして今後、世界はどうなっていくのか。世界情勢とともにディストピア小説の動向を追ってみると、新たな発見があるのではないでしょうか。(【ディストピアとは?】「監視社会」や「行動の制限」などの“あるある”から徹底解説。)
ディストピア作品を世界情勢に結び付ければ発見があると書いている。
トランプ氏は、メキシコ国境の壁、難民やイスラム圏からの入国制限など過激な政策を進めているが、「独裁者を彷彿(ほうふつ)とさせる姿がこうした小説を連想させるのかもしれません」と山口さんは推測する。(好調ディストピア小説 トランプ政権誕生で脚光!? 小松左京さん「アメリカの壁」も電子書籍で)
文芸春秋では「小松さんはSF作家であると同時に優れた文明史家でもある。小松さんの鋭い洞察に触れることで、米国でいま何が起きているのか考える契機になるのでは」と話す。(同上)
批評家の佐々木敦さんは「トランプ氏の存在自体が戯画的。以前は考えられなかったようなことが起こっている」と指摘。「現実がフィクションを超えてしまった。今を知るための手がかりとしてディストピア小説が読まれているのでないか」とみている。(同上)
(北村紗衣先生の教えでは、間違った解釈や浅薄な解釈となる)日本以外に結び付けるというディストピア作品の解釈は、学生だけではなく、書評の専門家にも多く蔓延していることが実例で明らかになった。「アメリカはディストピアだ」と言っておけばよいといった間違いで浅薄な解釈が、日本のみならず、イギリスの文学賞選考委員にまで広がっていることは、驚愕すべき事実である。数々の専門家も間違えている、「ディストピア作品を新しく、深く解釈するために、自国に結び付けることを常にしなければならない」というディストピア作品解釈の素晴らしい方法を公にされた武蔵大学と北村紗衣先生に感謝し、世界中の人にぜひとも広めてほしい。
anond:20191016163058だけど、ちょっとブコメに誤読マン多すぎない? なんで? 3つくらい具体例を示してるのに何でそういう理解になるの?
こんな基礎的概念をいちいち説明するのアホらしいんだけど、消極的に~をやりたくないっていう自由が消極的自由で積極的にやりたいことやる自由が積極的自由ではありません。
行動を制約されず好きなことをできるのが消極的自由で、そもそもその行動のためのリソースを得られる、自由の物質的基盤を手に入れられるっていうのが積極的自由です。
「自由に書きたい本を出版したい! 国家に検閲されたり出版を禁止されたりしたくない!」という要求が消極的自由を求めているいっぽう、
「確かに検閲はないけど紙の値段高すぎて自由に出版できる状況じゃないじゃん! 政策的介入してもっとお値段下げてよ!」というのは積極的自由を求めている。
「好きなところに住みたい! 強制移住なんてさせられたくない!」というのを問題にするのが消極的自由で、
「確かに住居選択の自由は保証されてるけど特定のエリアにしか水道引かれてなくね? 実質的に選ぶ自由がなくね?」というのを問題にするのが積極的自由。
「お小遣いの範囲でならどんな本を買ってもお母さんは関知しません」が消極的自由で、
「でもお小遣いが月額500円じゃ新潮文庫も買えないじゃん! せめて3,000円ちょうだい!」が積極的自由。
「好きなイラストをポスターに描いても検閲されない日本は自由の国!」は消極的自由が保障されている状態だけど、
「でも好きなイラストを自由に描くためには画材を買うお金がいるよね。イラストレーターの給料が安くて自由に絵を描けない……」という状態ならば積極的自由が損なわれている。
「どんな性教育をしようが親御さんの自由です」が消極的自由で、
「でも事前に歪んだ情報が入ってくるような環境だと私がやりたい性教育ができなくなる」というのは積極的自由を求めているわけ。
こう並べれば、なんで消極的自由の方が重視されるべきか、なんで元増田の要求が積極的自由とみなされるか、ってのもわかるでしょ。
積極的自由も重要だけど、それは消極的自由のほうが重要だって認めた上での話でしょ。
現代自由主義では、消極的自由の保護だけだと実質的に自由が制約された状況(=積極的自由がない状況)が改善されないので、積極的自由も保護していくべきだと主張することが多いし、私もそれを支持する。
場合によっては、比較衡量のうえで、大きな積極的自由を獲得するためにささやかな消極的自由を犠牲にすることもありえるだろう。
でも、原理原則としては、消極的自由の方が積極的自由よりも重い。
最初の増田でも書いたように、国は俺に六本木ヒルズに住めるだけのカネを補助すべきだ、と主張したら頭がおかしい人だろう。この場合、俺が六本木ヒルズに住むための物質的基盤は保障されていないので、俺には六本木ヒルズに住む積極的自由がないことになる。でも、それを問題だと思う人なんているわけがない。
しかし、もしも、合法的に居住し家賃も毎月きちんと払っているのに、国が俺を六本木ヒルズから追い出したらどうか? それはひどい、住居選択の自由を侵害している、国家権力の横暴だ、とみんな怒るのではないか。これは俺の消極的自由が侵害されている状態で、それは多くの人に不公正だという感覚を抱かせるだろう。
多くの場合は、六本木ヒルズじゃなくて義務教育とか女子教育とか最低限の住居とかそういったものが賭け金になっているから、積極的自由は必要だ、と主張されることが多いんだけど、こういう極端な例を考えてみると、消極的自由は原則的に保護されないといけないけど積極的自由はまあ程度問題だよなという話になる。つまり消極的自由の方が重い。
これが消極的自由と積極的自由の違いだ。行動や動機が積極的か消極的かなんてこれっぽっちも関係ない。
なので、
いや、なんとなくおかしいというか、例示の文脈に恣意性を感じる。献血にくる人を増やしたいから人気漫画とコラボするって献血のあれは、どっちかと言ったら積極的自由って概念に入れるのが正確じゃないかと。
つまり公的機関が性的イラストを掲示したいと思う積極的自由は公の場で性的イラストを見せられたくないという消極的自由に劣後するわけね。筋の悪い議論
お色気イラストで客を呼びたい、なら積極的自由に、子供の環境に性的刺激を持ち込まないで欲しい、なら消極的自由になるような(´-`)既特性なんかも考えると視点によってがらりと変わるよね
詭弁。原理原則としては同意するが、当該問題への適用が雑。掲示は明らかに他者に広報(干渉)する目的でされているから積極的自由ともいえるし、これを差別表現とする立場なら見ることを強制されないのは消極的自由。
アホかこいつ公共の場所で性的な表現を披露したいって方が積極的な自由の範疇だろ、猥褻な絵画を見たくないがなんで積極的な自由の追求になるんだ
積極的自由と消極的自由”解りやすく言うと「やりたい放題やる」自由と「遮断したい」自由ね。でもそれ精神年齢とかで個人差あるモノだから間尺合う人とだけ付き合いたい
このへんのコメントは軒並み、問題文を理解していませんね、零点、でおしまい。漢字は正しく書けてるみたいだから部分点はあげようかな。
義務教育なんて積極的自由の最たるものでしょ。日本社会における消極的自由を実現するためには日本語の読み書き能力とか日本社会についての基礎知識とか計算能力とかそういったものが必要で、それを叩き込む――つまり、自由を実現するためのリソースを与える――のが公教育の役割。
言論の自由を実践するためには表現を世に問うための読み書き能力が必要だし、職業選択の自由を実践するためには望みの職業に就くためのスキルとかが必要だよね。
政府批判をしても逮捕されない、自由に好き勝手言える、といった消極的自由を保障されたって、日本語の読み書きが全然できない人とか日本社会の仕組みを全然知らない人とかは実際問題としてその自由を使いこなすことができないじゃん。だから最低限の消極的自由だけじゃダメで積極的自由が必要なんだよ――というのが現代自由主義では割と受け入れられている考え方だと思う。
積極的自由の恩恵は俺もお前もこの社会に生きるほとんどの人が受けているんだよ。
ただ、上で書いたようにあくまで程度問題。「女だから十分な学力を持っていても医者になれない」とかは直接的に職業選択の自由が侵害されてるから大問題になったけど、そもそも大学に行けるほどの教育を受けてないから医者になる道が最初からなかった、というのが問題視されることは少ない。医者になる気があって能力もある人間が性別を理由に選ぶ機会を奪われるのは消極的自由の侵害だから絶対にあっちゃいけないとみんな考えてるわけだけど、医者になれるだけの能力を育てる機会を持てなかったからそもそも選ぶ機会そのものがなかったというのは積極的自由が欠如していたということだから問題になりにくい。でもこれも直接的に奪われるのとは違った形で自由を持っていないともいえるよね。ではどこまで国家が介入するべきか? どのくらいの不自由までに国家が責任を負うべきか? というのが、現代自由主義でよく議論される点。
我々法学徒は民法の最初に出てくる「悪意」で、あっこの世界は字面を字面通り読むと単位がもらえないんだなーと理解する(理解できないと単位を落とす)が、一般人はそういう洗礼は受けていないので
文学部卒ワイ「なるほど~~~~~~~知らなかった~~~~~~~」
英語でもnegative libertyとpositive libertyだからこれ以外に訳しようがないんだよね……
句点毎に改行入れるのはわかるけど読点に改行入れる人って(´・_・`)しかも全部の読点に入っている訳でもなければ、句点との差や話の区切りの見やすさにつなげる訳でもない
流石にこの文章を読んで読点での改行の意図をご理解いただけないのであればずいぶんと日本語の読解力が、その、なんというか、必要最低限に届いておられない方なのだなという感想しか湧いてこないですね……
前の記事でもこの記事でも増田自身程度問題とわかっていながらその線引きを増田の正義における絶対的に正しいものと仮置きして喋ってるように見えるからいかんのでは?
程度問題って書いてるのは「積極的自由をどこまで保障すべきか」なんだけど私そこの線引きに関して何か断言したっけ? 義務教育は絶対に保護されるべき積極的自由だと主張したけど、そのほかの論点では特に断言とかしてないよね。
まあ、「何が消極的自由で何が積極的自由か」とかそういう話では線引きした上で断言したけど、私そこに関しては「程度問題」って言ってないよね。大丈夫? ちゃんと日本語読めて議論の流れ追えてる?
“匿名の市民だけのための、匿名の都市――扉という扉が、誰のためにもへだてなく開かれていて、他人どうしだろうと、とくに身構える必要はなく、逆立ちして歩こうと、道端で眠り込もうと、咎められず、人々を呼び止めるのに、特別な許可はいらず、歌自慢なら、いくら勝手に歌いかけようと自由だし、それが済めば、いつでも好きな時に、無名の人ごみにまぎれ込むことが出来る、そんな街――のことを、一度でもいいから思い描き、夢見たことのある者だったら、他人事ではない、つねにAと同じ危険にさらされているはずなのだ。
増田って「見る・見られる」にまつわる思考の本質をついてるサービスなんだなって思った(文章は、安部公房「箱男」(新潮文庫)23頁)