はてなキーワード: 第三の男とは
#メモ
主人公は五属性使える。全技術がちょっと使える。史上二人目ですごい。でも属性がケンカしないようにしなきゃなのでキャパが低い。〇〇学入門だけを受けて卒業しようとしてる。留年生みたいな気まずさと初代校長以来の五属性使いという妙なすごさが同居してる。陰キャなので呪文を詠唱しない(神経と連動して使用する契約をしている)。使い魔も5体いる。
相棒は有能戦術開発者で戦闘シミュレーションの猛者。でも低容量ザコなので学会で発言権がない。それゆえにシコシコシコラーの異名を持つ。戦術を組む上で稀有な三属性以上を1秒オーダーで切り替えて使う必要があると痛感している。機械的な使い魔がいる。
第三の男はエネルギッシュで人にエネルギーを分け与える役。不器用なザコ。心やさしいオーク的なやつ。汚えげっ歯類を使い魔と呼んで使役している。
■序文
本稿は戦前の天皇のインナー・サークルとしての宮中グループに焦点をあてながら、昭和平成史を読み解くことを目的としている。宮中グループは宮中側近グループなどとも呼ばれ、これまで定義としてあいまいさを残してきた。本稿では宮中グループを宮中側近にいた政・官・軍を含めたエリート集団と位置付け、これまで一括りに論じられることが多かったこのグループを牧野伸顕中心の「薩摩系宮中グループ」と木戸幸一中心の「長州系宮中グループ」に切り離し、対比している点を特徴としている。薩摩系宮中グループは皇室との関係においては貞明皇后、秩父宮夫妻、高松宮との結びつきが強く、昭和天皇の母君である貞明皇后のインナー・サークルとも言える。また、彼らは英米のエスタブリッシュメントと戦前から深く結び付き、親英米派として国際協調を重視した自由主義者であり、英米から穏健派と呼ばれた勢力である。このため皇室と英米有力者との仲介者として宮中外交を支えた。英米との接触の中で宗教的感化を受けてクリスチャン人脈を多く抱えていたことも特徴としてあげられる。その歴史的な背景はザビエル来航450周年を記念して建立された「ザビエルと薩摩人の像」(鹿児島市ザビエル公園)が象徴している。これに対して長州系宮中グループは昭和天皇のインナー・サークルとして昭和の戦争を主導した勢力である。岸信介や松岡洋右を仲介者に陸軍統制派と手を握りながら戦時体制を築いた。単独主導主義的な強硬派と見なされることも多いが、アジアの開放を掲げた理想主義者としての側面もある。戦前から靖国神社が彼らの拠り所となってきたことは、靖国神社にある長州出身の近代日本陸軍の創設者・大村益次郎の銅像が見事に物語っている。かつては「薩の海軍、長の陸軍」という言葉もあった。地政学的に見れば前者は海洋勢力、後者は大陸勢力となるだろう、また、明治期に医学を教えたドイツ人医師・エルヴィン・ベルツは、日本人を薩摩型と長州型に分類し、それらが異なる二系統の先住民に由来するとしながら、薩摩型はマレーなどの東南アジアから、長州型は「満州」や朝鮮半島などの東アジア北部から移住した先住民の血を色濃く残していると考えていたことも興味深い(『DNAから見た日本人 』斉藤成也・筑摩書房)。前者は縄文人、後者は弥生人の特徴を残しているのだろうか。大陸からの渡来人によって縄文人が日本列島の南北周縁に分散したと考えることもできるだろう。本稿では明治維新の内乱の過程で賊軍の汚名を着せられた武士階級の出身者やその子孫が数多く登場する。薩長藩閥によって立身出世が阻まれながらも、佐幕派は賊軍の汚名を晴らすべく、ある者は語学力を身につける過程でクリスチャンとなって薩摩系宮中グループに接近し、ある者は軍部を率いて長州系宮中グループと手を握り、またある者は共産主義に傾斜していった。特に陸軍の悲劇は、勝てば官軍の東京裁判で再び汚名を着せられたことだろう。しかし、勝てば官軍は世の常であり、その最たる例が靖国神社の原点にあることを再びここで取り上げる。日本の敗北は長州系宮中グループの敗北も意味した。薩摩系宮中グループは戦時下において悲しいほどに非力であったが、戦後、英米から選ばれし穏健派エリート集団として勝ち残ることになる。薩長の明暗を分けたのは情報力の差である。これは未来永劫語り継ぐべき重要な教訓である。戦後、薩摩系宮中グループの流れを受け継いだ吉田茂は、元祖「反ソ・反共」として、「経済優先、日米安保重視、軽武装、改憲先延ばし」の吉田ドクトリンを掲げて保守本流を築いていった。この吉田はカトリックとして本流らしい最期を迎えた。この吉田一派をポツダム体制派と見なし、反吉田旋風を巻き起こしながら、見事に復活したのが長州系宮中グループを受け継いだ岸信介である。岸も賊軍の汚名を晴らすかのように国際政治の舞台に復帰する。元祖「反ソ・反共」に対抗して、統一教会などと「勝共」を掲げたが、所詮保守傍流に追いやられた。平成の時代になって「政治優先、対米自立、再軍備、自主憲法制定」を柱とする岸ドクトリンのたすき掛けリレーが小泉純一郎によって再スタートする。そして今、第一走者の小泉純一郎から第二走者の安倍晋三へと受け継がれた。安倍の背後にはさらに強力な第三の男も控えている。この3名すべてが岸及び岸の同志につながる家系である。
池澤夏樹=個人編集 世界文学全集II-11所収 ピンチョン「ヴァインランド」
岡地稔「あだ名で読む中世史 ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる」☆
今尾恵介「ふしぎ地名巡り」★
奥野克巳「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」
ピーター・ゴドフリー=スミス「タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源」
テッド・チャン「息吹」★★
ピエール・バイヤール「読んでいない本について堂々と語る方法」☆
イリヤ・ズバルスキー、サミュエル・ハッチンソン「レーニンをミイラにした男」☆
チャールズ・C・マン『1493――世界を変えた大陸間の「交換」』★★★
ジョン・サザーランド「ヒースクリフは殺人犯か? 19世紀小説の34の謎」
東京創元社編集部「年間日本SF傑作選 おうむの夢と操り人形」
高丘哲次「約束の果て―黒と紫の国―」
堀晃ほか「Genesis 一万年の午後 創元日本SFアンソロジー」
水見稜ほか「Genesis 白昼夢通信 (創元日本SFアンソロジー 2) 」
村上春樹「ラオスにいったい何があるというんですか? 紀行文集」★
サリンジャー「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年」。
チョン・ソヨン「となりのヨンヒさん」
「ガラン版千一夜物語 1」★★★
「ガラン版千一夜物語 2」
「ガラン版千一夜物語 3」
「ガラン版千一夜物語 4」
「ガラン版千一夜物語 5」
「ガラン版千一夜物語 6」
ジョン・サザーランド「ジェイン・エアは幸せになれるか?―名作小説のさらなる謎」★★
ジョン・サザーランド「現代小説38の謎 『ユリシーズ』から『ロリータ』まで」
J・P・ホーガン「未来からのホットライン」
ロバート・アーウィン「必携アラビアン・ナイト 物語の迷宮へ」★
ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」(光文社)★★★
ジュリアン・バーンズ「フロベールの鸚鵡」
イアン・マクドナルド「黎明の王 白昼の女王」
オルガ・トカルチュク「逃亡派」☆
ユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来」上巻☆
ユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来」下巻
住吉雅美「あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスン」★★★
ルーシャス・シェパード「タボリンの鱗 竜のグリオールシリーズ短篇集」
オルガ・トカルチュク「昼の家、夜の家」
エイミー・B・グリーンフィールド『完璧な赤 「欲望の色」をめぐる帝国と密偵と大航海の物語』
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ4」
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ5」
タクブンジャ「ハバ犬を育てる話」☆
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ6」
ホアン・ミン・トゥオン「神々の時代」★
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ7」
ローデンバック「死都ブリュージュ」
ホセ・ドノソ「夜のみだらな鳥」
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」上巻
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」中巻
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」下巻
入江亜季「北北西に曇と往け」(一)~(四)
石黒正数「Present for me」
澤江ポンプ「近所の最果て」
カシワイ「光と窓」
月ごとに一番面白かった本を3冊選び、★をつけた。ただし、どうしても入れたかったものは☆をつけた。月ごとの順位なので、たとえばパク・ミンギュにはもっと星をつけたいのだがそれが反映されていない。
数えてみたが、2020年に読んだのは活字149冊、漫画22冊だった。毎月12冊から13冊読んでいると思っていたので、単純計算で150冊を超えると思ったが、ぎりぎり足りなかった。とはいえ、毎月10冊という目標は達成している。
1年を通して見ると、ノンフィクションばかり読む時期や、SFばかり読む時期などが明確に交代していることがわかる。特に、4月から6月はSFとファンタジーがほとんどだったが、8月以降SFを全くと言っていいほど読んでいないし、逆に11月、12月は1冊をのぞいてノンフィクションがない。
また、芥川賞をはじめとした日本の現代文学をほとんど手に取っていない。ベストセラーやエンタメ、ホラーもない。逆に、韓国やタイ、ペルーやチリなど、日米欧以外の海外文学の割合が高い。
意識してきたわけではないが、自分の好むジャンルは科学や歴史のノンフィクション、神話、行ったことのないラテンアメリカやアジアの文学、メタフィクション的であったり奇妙な味がしたりする短篇集、古典、であるようだ。一方で、女性作家の割合は低く、特に日本の現代女性作家をほとんど手に取ってない。一時期は多和田葉子だとか江國香織とかをよく読んでいたので女性作家が嫌いなわけではなく、ヴァージニア・ウルフも好きだし、ハン・ガンも自分の中では大当たりだったので、もう少し割合を増やしてもいいかもしれない(追記。身につまされる話よりも読んでいて気持ちのいい本を読む率も増えた)。
割合の話でいえば、大学時代はもう少し文豪の作品を多く読んでいたように記憶している。それと、いくつからの例外を除き、世間の動きや話題とは遊離したチョイスばかりである。世の中から目を背けているわけではないが、日々の雑事とはまた違う視点に立てたのはありがたかった。新型コロナウイルス関連の記事ばかり読んでいては気がめいってしまう。
今年は少し冊数が少なくなるかもしれないが、引き続き毎日の気晴らしとして、気が向いたものを好きなように読んでいきたい。
以上。
前のレビューをみんな読んでくれて、ラグビーの見所が伝わったというのが嬉しいので、注目の対戦カードが立て続けに3試合行われた21日の試合も続けてレビューすることにする。
義務感は感じてないけど、さすがにいい試合すぎて、これはちょっと書きたくなったので。
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21日は面白い試合が目白押しで、全く違う個性がぶつかったオーストラリア×フィジー、似た者どおしのシーソーゲームとなったフランス×アルゼンチンも良かったのだけど、この日最注目のカードということと、増田本人が普段から南半球のラグビーを追っており、選手の個性もとりたい戦術も理解してるということで、ニュージランド・オールブラックスと南アフリカ・スプリングボクスの試合としたい。
南アフリカというと4年前、日本がアップセットを演出したので、ライバルとみなす向きもあるけど、実力でいったら日本は話にならないくらい負けている。
で絶対王者のオールブラックスはいうと、圧倒的に強い彼らが肝心なところで負ける時、相手はフランスか、このスプリングボクスであり、因縁でいうとこちらの方が深い。
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ゲームが始まる前に、オールブラックスは伝統のウォークライ、ハカのパフォーマンスをしたのだが、その演目は「カパオ・パンガ」であったのにちょっと驚いた。
通常、予選では、もう一つのバージョンである「カマテ」が演じられることが多いのだが、大勝負の時しか出ない「カパオ・パンガ」であったのはオールブラックスも相当な気合いが入っていたのだろう。
ちなみに、ハカは通常、リードとよばれる独唱からはじまり、これだけはマオリの血を引くメンバーでないといけない。
今回のリードはTJペレナラ。第二スクラムハーフ。最近は彼が多い。
世界最高とも言われる第一スクラムハーフのアーロン・スミスも資格があり、彼がリードだったこともあるが、国際試合の旅先で女性をトイレに連れ込み、セクシーな行為に及んだのがオールブラックスっぽくないと懲罰を受け、代表から外れていた時期があり、その時からペレナラがリードになった。
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さて試合の方だが、伝統的にこのカードはロースコアになることが多く、その理由はスプリングボクスのとる戦術にある。
彼らはボールを持つと、非常に単調な攻めを繰り返し、パワーをテコに相手の苦し紛れのペナルティを狙ったり、キックを蹴って落下地点でど迫力のタックルをかまして、ポロリから→リスタートのスクラムでパワーで押しつぶして前進を狙う。
大事なのはディフェンスで、キックでボールを渡すので、絶対突破されてはならず、それさえ可能ならロースコアにコントロールできる。
オールブラックスの華麗なパス回しと走力は世界一だが、それを止めうるのが「単純なガタイのデカさ」「常識はずれのパワー」「きれない集中力」「決してサボらない真面目さ」そして「異常なくらいの単純さ」というのが面白い。
実際この試合でもスタートはスプリングボクスが狙い通りコントロールしていた。
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ただ、計算違いが生じたのは前半20分ほど。
予想外を演出したのはオールブラックス10番、リッチー・モウンガ。
彼は前W杯から3年ほど、本日15番に入ったボーデン・バレット、怪我で今大会出場できなかったダミアン・マッケンジーの陰に隠れて、司令塔としては「第三の男」扱いされていたが、今年になって地元NZのチームでの活躍で頭角を現し、オールブラックスの10番を射止めていた。
オールブラックスは、このどちらかと言うと手堅さと抜け目なさを信条とする地味なモウンガと天才的な閃きのある派手なバレットの2人を併用し、実質W司令塔を形成していた。
モウンガについては、栄光のオールブラックスの司令塔という、ラグビー界において文句ない立場にいるのだが、「天才」だの「イケメン」だの「最注目選手」だのともてはやされるバレットと比べて、彼自身のプレースタイルのせいかルックスのせいか、立場に見合った注目をされてると言い難く、なんかちょっと悲哀を感じさせるものがある。
彼が自陣で平行に蹴ったキックパスをきっかけに、オールブラックスは一気にトライを陥れる。
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その後も、モウンガかバレット、どちらかが密集に巻き込まれて機能停止しても、もう一方がゲームを組み立てるので止まらない、という攻めにスプリングボクスは対応できない。
前半で計2トライを献上。
この時間帯はあまり長くなく、2トライを与えてしまった一瞬以外はディフェンスもよく機能し、前半のほとんどの時間がむしろスプリングボクスのロースコア狙い戦術の通りに進んでいた、でも結果として一瞬の破綻で点差は開いてしまった。
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後半はトライがないとプランが遂行できないスプリングボクスだが、驚くべきことに彼らはあまり戦術を変えず、なんとオールブラックスの一瞬の油断から逆にトライをもぎ取ってしまった。
ここら辺は、自分たちのやることを信じて崩れなければ、幸運が一定確率でやってくると言うことかもしれない。
さらに後半20分、SOポラードが虚をついてドロップゴールを狙うと、これが入り、当初の予定通り、「トライはいらない、キックで刻むぜ」戦術を現実的に見える線まで引き戻した。
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しかし、その後、お互いがあまり大きなミスをしないまま時間は経過し、いくつかの幸運の中でオールブラックスが獲得したペナルティーキックを、地味な男モウンガが確実にきめ、スプリングボクスの勝機はじわじわと離れていった。
スプリングボクスとしては長時間ゲームをコントロールし、自分たち好みのゲームを演出したにも関わらず、前半に一瞬の隙で奪われた2トライで試合を失うという結果になってしまった。
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ゲームの概観としては、オールブラックスもスプリングボクスも非常に出来が良く、プールに彼らを脅かす敵がいないことから、双方決勝トーナメントに進む可能性は高いと見る。
そうなると、1ヶ月後に彼らは再び相まみえるかもしれない。
なかなか楽しみではある。
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ブコメで質問があり、増田的にも非常に印象的だったので、フランス×アルゼンチンにおけるドロップゴールについて解説を試みたいと思う。
多分だけど、チームとしての戦術ではなく、個人のとっさの判断だと思う。
ドロップゴールは陣形やゲームスピードから、出そうなタイミングがわかるものだが、あの時「これは蹴るぞ」というタイミングでは全くなかった。
ゲーム全体の流れを思い出してほしいんだけど、あのゲームは前半、フランスが圧倒的に優位に進めていたものを、後半、アルゼンチンがゲームを辛抱強く戻して、ペナルティーキックで刻んで追い上げていた。
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特徴的なのはキックとモールで、前半、双方まったくキックを蹴らず、ムキになって走り合っていた結果、フランスがゲームを支配していたのが、後半アルゼンチンはキックを蹴ったり、モールで押すようになり、長時間の走りあいにこだわらなくなった。
その結果、ゲームが落ちついてアルゼンチンは刻みながら追い上げ、ついには逆転した。
この時点で、計画的にアルゼンチンがゲームのコントロールを自分たちのものにしていた。
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フランスにとっての後半は、前半とうって変わってコントロールできない上にじわじわ追い上げられてしまいに逆転されるという非常に嫌なムードに飲まれそうになっていた時間だった。
そこにリザーブで入ってきた奴がまったく空気に合わせずにシレッとドロップゴールを決めて流れをブった切ってしまった。
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俯瞰で見てる奴がゲームをまるっきり変えてしまうのは、どことなく会社などで中途採用のよそ者がガラッと慣習をやぶって風穴をあけるのを連想させる。
あれはラグビーのフィジカルな面でなく、「我慢のスポーツ」「コントロールのスポーツ」としてのメンタルな面をよく表していたと思う。
ラグビーでは、戦術やフィジカルといった見えるものと、もっと上位にあって見えづらい「客観性」「空気」「メンタル」みたいなものが勝負を大きく左右するケースがあるので、そこにも注目してみると、味わい深くなると思う。
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あ、あとついでに、オールブラックスの選手、リーコ・イオアネのNZから日本に向かう様子を本人が投稿した動画のリンクを貼っとくわ。
彼は「恩人が日本人なので日本語の名前を息子につけたい」と希望した両親に危うく「リエコ」と名づけられそうになったが、「それ女の子の名前やで」と訂正され、「リーコ」になった経緯がある。でも綴りはRiekoやんけ。
そんな人たちもやってくるW杯、みなさん楽しんでほしい。
以前36話までの段階で、クッソ長文の直虎考察を書いた増田です。
さてこの前の38話で直虎の恋愛話は終わり(多分)
37、38話は思ったよりハードな展開ではなかった。というか直虎がちゃんと仕事してたのでハードにならなかったと言うべきか。信玄の死因は笑ったw
龍雲丸も死亡退場じゃなくて良かったけど、ある意味死亡退場より重かった…
そしてまた長文を書いてしまい、発表する場所がないので(ブログとかやってないんで)増田に投下する。
誰かに読んでいただけたら嬉しい。
最近のハードな展開で忘れ去られ気味だけど、少なくとも城主になってから気賀ゲットまでの13話~27話は、
(時々「今川に命狙われるけど武力で敵うわけないので知略で何とかする」と言う戦国大河らしい展開も挟んでいたものの)
「親や親戚の急死で実家の零細企業を知識も経験もゼロで継ぐ羽目になった女社長、
いざ会社の内情を見てみたら超人材不足だわ借金まみれだわ社員(家臣)には女の癖にと反発されるわ
親会社(今川)はいちいち邪魔してくるわ、さあどうする!?」的な。
結局は、それを色々努力して解決したのに戦で全部ぶち壊し、と言う戦国大河らしい展開になった(史実です)訳だけど。
んでまあ、女のお仕事ドラマと言ったらよくある要素が「恋と仕事の両立」。
(「恋」は結婚とか出産とか家庭とかと置き換えてもいいし、「仕事」は夢とかやりたい事とかと置き換えてもいい)
現代物の作品なら最近は「最初から都合よく両立出来るor困難があっても何だかんだで最後は両方手に入れてハッピーエンド」が大多数、
あと「恋は叶わなかった(或いは最初から興味なしだ)けど仕事では実績出したよ!」があるくらいだけれど、
時は戦国、史実で主人公は一生独身かつ城主としての実績も大した事ないと決まっているこのドラマでそんな都合の良い終わり方は無理だろう。
でも番宣では恋愛はやるらしい、んじゃその辺はどう片付けるのか、と思ってたわけですよ。
んでどうだったか。
まず、直虎と深く関わる第一の男・直親について。
幼馴染の許婚であり、幼くして親の今川への謀反のかどで井伊谷から逃げざるを得なかった悲劇の美少年であり、
大人になって戻って来たら皆の期待を集める唯一の井伊の男の跡継ぎであり、キラッキラの爽やかイケメンであり、
主人公とは家の事情で結ばれず他の女と結婚したものの、内心では永遠に主人公を愛し続ける悲恋要員であり…
「よくよく考えるとこいつ性格悪くね?」と視聴者に思わせる言動
(隠し里の責任をさらっと政次に押し付けたり、子供がなかなか出来ずノイローゼで不妊様状態な妻・しのを
気遣う事もなくまるで他人事だったり)を取って
ネットでサイコパスイケメンとか爽やかクズとか散々に言われつつ(でも直虎は気付かない)
最後は史実通り、今川に殺されるという悲劇のヒーローとしての結末を迎え、
直虎に「直親の遺志を継いで自分が女だてらに井伊家を継ぐ!」と言う思い切った行動を取らせる理由となった。
…はずだったが、後に逃亡先で現地の女との間に作っていた隠し子の存在と
直虎に言っていたクソ甘い口説き台詞の数々と同じ事をしのにも言っていた事実が発覚し、
直虎にとっての彼の評価は「死しても永遠の恋人たるキラキラ王子様」→「ただのスケコマシ」と大暴落を遂げる。
その直親は、直虎に「今川の命で出家させられ還俗出来ない=結婚出来ないなら、
一旦死んだ事にして今川誤魔化して、こっそり俺と結婚して子供産んでくれ」と言う。
これはつまり、直虎はそれまでの人生とか社会的地位とか将来とか全部失うけどどーでもいいよ、
ただ俺の妻になって子供さえ産んでくれれば、と言う発想だ。
他人の人生をそこまで蔑ろにして平気なのも、彼が視聴者の多くにサイコパスと言われた理由の一つでもある。
直虎は散々迷った挙句にそれを断る(そして直親は家の存続の為に宛がわれたしのと結婚する)が、
もし断っていなかったら、直虎は「直親の妻」と言う立場以外全てを失った状態で
彼のスケコマシな本性を知る事になっていたわけだ。
現代的に言えば、「僕と結婚して専業主婦になってよ!」と言う男と恋愛脳に浮かれて結婚したら
そいつは妻の人生や色々な苦悩など何も考えないサイコパスな上に浮気性だった、ってな感じの話だ。
次は第二の男・政次。
彼に関しては、以前(https://anond.hatelabo.jp/20170911183646)やたら長文を書いたのでここでは短く済ませるが、
直親と同じく直虎の幼馴染であり、幼い頃は直親しか見てない直虎に横恋慕する三角関係要員であり、
(直親の死後も龍雲丸がそのポジションに入る為、相変わらず三角関係要員である)
大人になってからは「直虎や井伊家と対立する裏切り者の今川派の家老」を演じつつ、
実際は直虎や井伊家を守る為に行動する事になる(直虎には途中でバレるが、その後も表面的には対立関係を演じつづける)
直虎にとっては幼馴染であり、政次の行動の真意を理解してからは
(城主としての)仕事上は誰よりも信頼している大切なパートナーとなって行ったが恋愛感情はない。
政次の方は直虎に恋愛感情を持っていたが、最終的には「殿をしている殿(直虎)が好き」だからと
直虎に自分の妻になる事より「殿」であることを望み、自分はそんな直虎を仕事上で支えつつ
他の、今まで自分のプライベートを支えてくれていた女・なつと結婚する道を選ぶ。
現代的に言えば、キャリアウーマンを好きになったが、相手は自分の事を恋愛対象として見そうにないし、
自分もあくまで相手の仕事をしている姿が好きなのであって、相手が仕事を辞めて自分と結婚して平凡な主婦になる事は望まない、
だから結婚は他の「家庭的な」女とするが、キャリアウーマンな相手とは一緒に仕事を続けていきたいという仕事仲間の男、ってな所か。
そしてその直後に敵の罠にかかって反逆者として処刑される。
そして第三の男・龍雲丸。
武家の子だが幼い時に戦で親や周囲の人間全てを失い、盗賊に拾われて盗賊業で食って来た、
今は似たような境遇の流れ者や孤児を集めた盗賊団の頭、というオリキャラ。
直虎は最初こそ彼に直親を重ね合わせていたが、やがてそれとは別に、家に縛られた自分にはない彼の自由さに惹かれていく。
また龍雲丸の方も、直虎が他の武家とは違って底辺アウトローである自分や仲間たちをちゃんと人として扱い信頼しようとする姿に共鳴し、
直虎から持ち掛けられた木材泥棒スキルを生かした木材伐採の仕事を請け負う事で
直虎にとっては超人材不足の解消、龍雲丸にとってはカタギの仕事で稼げるというwinwinな関係を築く。
そしてそれをきっかけに龍雲丸は流れの盗賊業から足を洗い、仲間とともに井伊谷の近くの商人の街・気賀に定住して
よろず請け負い、という言わば人材派遣会社社長として生きるようになる。
だが、この辺りを支配していた今川が弱体化して徳川(や武田)との戦乱の世となって行く中で、
気賀は徳川軍による民衆多数を巻き添えにした大量虐殺(史実上の「堀川城のなで斬り」)の舞台となり、
龍雲丸も自分以外全ての仲間を失う事となる。
ここで瀕死の状態で直虎に助けられた龍雲丸は、同じようにやはり徳川と今川の戦いに巻き込まれて
城も領土も勿論城主としての地位も、更に政次も失って意気消沈して井伊家の再興を諦めた直虎と
「全てを失って自分だけ残ってしまった者同士」の繋がり、悪く言えば傷の舐め合い的な恋愛関係に発展し、
直虎は龍雲丸と共にただの一農婦として生きようとする。
井伊谷の民から元城主として愛され頼られ、彼らと共に生きようとする直虎と違い、
元々井伊谷には何の思い入れもない上に、農作業は行わず一人で炭を焼くだけの生活で
他の農民との繋がりも作れていない龍雲丸は退屈な生活に次第に嫌気が差し、
知り合いの商人から来た、大都市・堺に来て一緒に商売しないかという誘いに乗り気になる。
直虎も迷った末に一緒に堺に行こうとするが、領主時代に井伊谷を豊かにしようと努力して盛り立てようとした結果が
やっと実を結ぼうとしている中で井伊谷から離れる事など出来ない、
家も城も失っても井伊谷の城主である事を捨てる事など出来ない、と言う(恐らく自分では認識し切れていない)本音を
理解していた龍雲丸に井伊谷に残るべきだと説得され、堺に行く事を選んだ龍雲丸と別れる事となる。
ってな展開だったのが最新話の38話。
現代的に言うなら、お互い愛し合ってはいるがお互いキャリア志向もあり、同居ではやりたい事が果たせない、
そしてお互い恋愛の為に仕事を諦められるほど恋愛脳でもないし、相手にそうなる事も望まない故に別れを選ぶカップル、という所か。
因みにこの直虎と龍雲丸の結婚生活、どこか男女逆転した夫婦に見えた。
外で働いて村の実質的なリーダーとして周りから頼られ活躍する妻と、家で働いている引き籠り気味夫、というのが。
(龍雲丸が食事の用意をしている所で直虎が帰ってきた辺り、家事も龍雲丸がしているっぽい。家にいるから当然か?)
そして龍雲丸は、盗賊団の頭をやったり気賀で商売していた頃よりだいぶ鬱屈した姿で描かれている。
それがまるで「夫の馴染みの土地に嫁入りしたはいいが、夫が楽しそうに生活しているのとは対照的に
今までやっていた自分に合う・やりがいある仕事には戻れずつまらない仕事を押し付けられ、
地元民とも馴染めず鬱屈している嫁」に見える。男だし、婿入りした訳でもないけど。
それでも愛する配偶者の為に我慢してる、ってのも「嫁」っぽい。
だから龍雲丸が最終的に直虎の為に井伊谷に残るという選択を取らない(取りたくない)のも、そりゃそうだよな、と思えるし、
直虎が堺に行けば今度は直虎がそういう生活になるだけだろう、と言う予測もついて
この二人が別れるのは致し方ないという気分にさせられる。
愛さえあれば一緒に幸せに生きていけるわけではないよね、と言う嫌なリアリティがここにもある。
現代日本でも、片や日本片や海外で仕事したいとか、相手が転勤族だけど仕事辞めてついて行きたくないとかで
別れるカップルというのは多いんじゃなかろうか。
或いはその時に相手に合わせて自分の仕事ややりたい事を諦めて、鬱屈した人生歩んでる人も。
まとめると、
・女の人生の事など考えず、これまでの人生捨てて俺と結婚して子供産んでよとか言い出す男は要注意
・女が仕事(キャリア)を優先しようとすると結婚できない、男が結婚したい女は「家庭的な女」である
・結婚しても夫も妻も両方とも自分がやりたい仕事優先だと結婚生活は続けられない
・妻がやりたい事やって夫がそれに合わせる、という生活は夫の方が鬱屈生活になる
9か月かけて女主人公と仕事、更に三人の男との関わりを書いて結論がこれかよ!という。
勿論これは時代劇であって現代日本とは置かれている前提が違うんだけど、明らかに現代にも通じるように描いてる。
直虎が、キャリア至上主義で男も結婚も要らない!と言うキャラでもなければ
そこまで仕事が出来るキャラでもない(これで城主としての能力は超優秀ってならともかく、実績はそこそこ成果は挙げてるもののそこまでではない)
かと言って仕事なんかどうでもいいだろどうせ出来ないんだしレベルな無能でもなければ
恋愛至上主義で愛さえあれば仕事なんかどうでもいいの!というキャラでもない、って所もリアルだ。
恋も仕事も両方欲しくても、実際に女が両方手に入れるのはどれだけ大変な事か。
(今後井伊家が再興され徳川家の重臣まで上り詰めるのは、あくまで直虎の子供ポジの直政の実績であって直虎の実績じゃないし、
これまでの現実的な描き方から言って「直政が成功したのはぜーんぶ直虎のおかげ」と言う都合良い展開にはならなそう。
というか今更そんな展開になったら萎えるわ)って所で落ち着くであろう事も史実が物語っている。
うん、大多数の女の人生ってそんなもんだよね。
井伊谷を豊かにしたってのだけでも、史実からしたら盛ってるんだろうし。
こういう所もスイーツ大河ではなくハバネロ大河と言われる所以なんだろうな、と思いつつ、
そりゃ視聴率上がらんわ、明らかに女性向けに描かれてるのに日曜8時にこんな嫌な現実見たくない女性も多いだろ、とも。
最近流行るドラマって、半沢直樹とかドクターXのような正義の主人公が俺TUEEEEEでスカッと系か、
逃げ恥のような明るく楽しいラブコメで仕事も結婚もゲット!か、だし。
俺はまったく強くなく支配国のご機嫌伺いしながらの地味展開と人死にまくりの鬱展開の繰り返しで、女主人公は恋も手に入らず仕事も微妙…
どこが面白いんだよと言われそうだけど、面白いんだよ。別に恋愛だけ描いてるわけでもないし(そちらの比重は割と少なめ)
なので見てない人いたら(見てないのにこんな長文読んでる有り難い人がいたらだけど)NHKオンデマンドで見てー。
月額972円で最新2話分以外は全部見放題だからさー。それで他の大河も朝ドラもNHKスペシャルもその他NHK番組も色々見れるよ!
今後は直虎と直政の(義理の)親子関係が主軸なようだけど、やはりリアリティ溢れる反抗期の息子の子育ての悩み路線になるんだろうか。
※前提として、AVは視聴者の性癖や趣味にかなり影響されます。自分の記述は、全て自信を持っていますが、自分の主観に基づくものであり、自分が異常な性癖の持ち主であればそもそも最初から間違っていることもありえます。その真偽は本人である自分にはわかりません。
今日、TSUTAYAでAVを借りようと思ってお店に入った。だが、何も借りずに出た。初めてだ。
いつもは、AVは10本ぐらいまとめて借りる。女子校生、熟女、巨乳、ギャル系、コスプレ、ロリ系、素人etc...と、30分から1時間ぐらいかけて会社帰りにじっくり厳選し、いろいろなジャンルを横断して借りている。そこまで毎回借りているのに、今回初めて何も借りずに店を出た。
性欲が衰えた?それとも、飽きた?あるいは、他のものを借りたくなった?
いや、どれでもない。AVはレンタルビデオ店でバイトしていた時から飽きるほどパッケージを見てきて、そして200本か、それ以上か、多くのAVを観てきた。
そして、毎日2回は抜いている。美人の婚約者(生身の女性です)がいながらもここまでの絶倫っぷり、正直自分でも異常だと思っている。
それでも単純に、「観たい!」と思ったAVが無かったのだ。なぜだろうか。
今回はそれを紐解きながら、AV業界になんら関係無いただの25歳のお兄さんがAV業界に警鐘を鳴らそうと思う。
AVコーナーに入った時(前々からこうなっていたが俺は気が付かないようにしていた)、そこに並んでいるパッケージの女優が、全員同じ見た目に見えたのだ。
それは、アイドルに関心の無い人間がジャニーズやAKB48が全員同じに見える現象と同じだ。
茶髪か黒か金髪で、ストレートで、まつげが長くて、巨乳。ランキング上位に来ているのはそういう女優ばかりではないだろうか?
肯定的にに捉えれば、これはある意味1つのAVの偉大な進歩とも言える。
AVは昔に比べて女優が美人でアイドルのような見た目になり、容姿にケチのつけようがなくなった。
それは作り手や、俺以外の大半の視聴者の好みがそれを求めているからかもしれない。そして、それに対して女優が、元々の持ち味や、メイクや、整形、演技で応えた結果かもしれない。
もしかしたら、自分が異常な性癖の持ち主なだけで、大半の視聴者はそれでいいと思っているのかもしれない。
だが、そうだとしても、自分は現状のAV業界はよくないと思っているし、これから衰退すると思う。
作り手、女優、視聴者、あらゆる人々が美人を追求した結果、確かに美人が生まれた。だが、その一方で最近のアイドルと同じように「皆が好みに感じる容姿」であるために、見た目が同じになってしまったのだ。
話は変わるが、AVは何のためにあるだろうか。
あるいは、有り余って仕方のない性欲を吐き出したい若者のために?
人それぞれに存在意義はあるだろう。
だが俺はそれらのどれでもないと思う。
AVは何のためにあるか。
それは「この女を脱がせたい」という欲望や、
「この女がベッドで乱れるところを見たい」という夢を叶えるためにある。
どういうことだろうか。
ところで今日あなたは通勤中あるいは通学中に駅で、道路で、電車で、バスで、何人の女性とすれ違っただろうか?
うち、何人に対して「この人を犯したい」と思っただろうか?
首都圏で、通勤ラッシュに巻き込まれているのであれば、最低でも2〜3人はそういう人がいただろう。
その「すれ違った人を脱がせたい」「すれ違った人の胸を見てみたい」「すれ違った人におちんちんぶちこみたい」という夢を、できるだけ願った人の欲望を投影して、できるだけ似せて叶える装置がAVだ。
TVの旅番組が一定の人気を確保しているのは、少し背伸びすれば手に届く範囲でできる旅行を夢見ることができるから。行ったつもりになれるのが旅番組で、イッたつもりになれるのがAVなのだ。
だから痴漢モノやナンパモノが流行るわけだし、「嫁の姉が……」といったありそうで無いシチュエーションの作品に長く一定の需要がある。
わかりやすく言うと、脱衣ブロック崩しや、脱衣麻雀の類をやったことがあるだろうか?
遊んだ経験がある人は、失敗すると何度も何度も繰り返し、運が悪いと何時間も経過していることがあったり、なんとかソースを探して画像を直リンクで探そうとした経験が必ずあるはずだ。
その原動力はなんだろうか?それこそ「この女を脱がせたい」という欲望だ。そういう意味では脱衣ブロック崩しや脱衣麻雀は合理的なシステムとも言えるし、男たちがAVを観るための理由で、AVの存在意義だろう。
だがその「この女を脱がせたい」という欲望を駆り立てる魅力が、今のAVには無い。
「今朝駅ですれ違った女の裸を見たい」「おしとやかに見える同僚の女がベッドで乱れる様子を見たい」という欲望を駆り立てるようなものでないといけない。
だからといって「AVに脱衣麻雀やブロック崩しをつけろ」という意味ではない。それは障害を増やすだけであり、ストレスを溜めるだけだ。溜めるのは精液だけでいい。
「すれ違った女の裸が見たい」というかなわぬ難しい欲望に対して、
AVがただの「皆が好きな絶世の美女」しか用意できず、ちょっとブサイクでも「今朝新宿駅ですれ違った女」に相当する役者を用意出来ていないのが問題なのだ。
「脱がせたい」という欲望を叶えるためにAVはある(と俺は思っている)が、それを駆り立てるためには作り手はどうしたらいいだろうか?
例えば、出演している女優が絶世の美女でも、すれ違った女でも、同じような見た目で、最初から全裸で待機していたらどうだろうか。多分、視聴者は萎えるだろう。
最近のAVのパッケージを見て欲しい。絶世の美女が最初から全裸か、全裸に近い形で写っていないだろうか?
そうでなくても、裏返すと全裸でおちんちんぶちこまれてあえいでる画像が出てこないだろうか?
あるいは、全裸じゃなくても、普段ありえないようなスケスケの制服とかに見を包んでたりしないだろうか?
それはきっとAVのパッケージのデザイナーが必死に考えて作ったモノなのかもしれないし、訴求効果を高めた結果だろう。
「どうすればエロく見えるか」を追求した結果できあがったものだろう。
だが、それではダメだと思う。
自分が思うに、AVに映る女とは、小学生の時に母親が作ってくれたお弁当のようなものだ。
お弁当は、開けるまで何が入っているのかわからない。開けるまでのドキドキがある。
一番上の蓋をパカっと外して、2つ目の箸とかが入っている白い蓋を外して、おかずと白いごはんが見えるまでの、1枚ずつ蓋を外していく過程にこそ楽しみがある。
AVも同じだ。
普段裸を絶対に見ることができないような女性がパッケージに写っていて、その中身で裸を見ることができる。その過程が今のAVには圧倒的に欠けている。
最初からスケスケだったり、全裸だったら、確かに視聴者の目を惹くが、楽しみを最初から奪ってしまうという悲しい事になってしまう。
そんな「平坦化」したAV業界だが、作り手はマンネリを感じたのか、最近変化球が多くなっていないだろうか?
どれも、斜め上に先鋭化していて空振りしている気がしてならない。
コスプレAVについては、版権の問題もあるかもしれないが、男の娘に関しては大島薫以外男の娘以前に男じゃねーか!!と叫びたくなるような出来である。
一方、AVの引き合いに出していたアイドル業界だが、今は何が起こっているだろうか?
アイドルに関してはあまり詳しくないので詳細な説明は避けるが、AKBやももクロやハロプロ等、既に盤石な地位を築いたアイドルに各プロダクションが競って肩を並べようとする競合があまりに多いせいで、今何が起こっているだろうか?
自分が思うに、話題性を重視するあまり、先鋭化していないだろうか?
そうすると何が起こるだろうか?
ごく一部の熱狂的なファンだけが、何百万単位でお金をつぎ込み、残りの人々は離れていく。
さて、ここまで散々自分の主観で現状のAV業界の危機を叫んだが、今後どのようなAVが作られていくべきだろうか?
自分が思うに、以下の3つがある。
「今日すれ違った女を脱がせたい」という願望を叶えるのであれば、
アイドルのようなホームラン級の美女よりも、10人のそこそこヒットを打てるそこそこの女優を発掘すべきだ。
あと選択肢が増える。
女優に多様性を持たせるのもいいだろう。例えば日本人にかぎらず、日本初の黒人女優とか、中東系の女優とかはどうだろう?
前述の通り、「服の中身を見る楽しみ」を演出すべき。
これは暴論かもしれないが、自分は本気でそうすべきだと思っている。
AV女優がブログやTwitterを開設していて、日常生活について垂れ流していても、新作の宣伝になるかもしれないが、視聴者からすると
「こんなに身近な存在なのに、ヤらせてくれないんだろうな」と感じてしまい、少し辛いものがある。
AV女優は、自分がAVに出ていることをブログやTwitterで宣伝するのではなく、身近な男友達にLINEで教えてあげよう。
きっと教えてもらった人はドン引きするかもしれないが、その後一番の熱心なファンになる。
事実、俺が今まで一番抜いたAVは、大学の友達が出ている奴だ。
あとでブコメとかで「女性の性的搾取」とかそういうのが出てきそうなんで先に言っておく。
俺はAVについて話しているわけで、女性について話してはいない。搾取がどうとかキレイ事いってんじゃねえ、AV観て何が悪い。
谷垣・河野両氏に続く第三の候補とされる西村氏出馬への指摘として、あまり見かけない部分を(半分思い付きだが)書いてみる。(以下敬称略)
いくつかのブログやBBSを見て回ったところ、彼は「河野票(若手への世代交代派)を削ぐための当て馬」という意見を見かける。まぁ普通に見ればそうなのだが、それだけだと思うとどうにも不思議な部分がある。
まず、彼の主張は河野とあまりに違いすぎ、それでいて谷垣の主張と被る部分が多い。
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2009091900223
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2009092100296
これは「河野票を削ぐ」という目的のみを持っている場合、明らかに失策と言える。彼の主張に同意する存在が「ただ若手というだけ」で、西村がいない場合に河野を支持するか?という問題に行き着くからだ。
例えばこれが
「小泉改革路線支持」
「安保・外交課題など野党にとっては影響力の乏しい部分だけ河野との差異を強調(それが河野支持に回れなかった理由と説明)」
などの主張をしていれば、また話も違ってくる。
西村という人物の経歴的にはこういう主張も十分に可能な筈で、それ故の人選という見方もできるくらいだ。
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-998.html
このままでは、実際に彼が食う層は「若手にすべきだが河野では」という理由で「政策的に谷垣にしよう」と考えてた層も含まれてしまうだろう。むしろ「対河野専用当て馬」であれば、本来は最も取り込まなければいけない「谷垣(長老支配・派閥支配)でなければ誰でも良い」という層が逃げ出すような話が、公示直後にメディアを通じて流されてもいる。
http://ichita.blog.so-net.ne.jp/2009-09-19
事前運動があったなら兎も角、唐突な出馬表明であれば余計に下種の勘繰りのネタになる。まして今回投票権を持っているのはインサイダーである国会議員や党地方組織の人間だ、こういう話が早期から表沙汰になる以上、彼らの行動は当然こうした噂を踏まえたものとなるだろう。こういう状況下では「若手にすべきで河野は嫌だが仕方ない」となってたかもしれない人達が「一応若手だし西村にしとくか」と妥協する可能性は限りなく0になったと言えるのではないだろうか。
では彼の立候補はまるっきり無駄か?それとも別の思惑があるのだろうか?
私はひょとすると「谷垣の勝ち過ぎ警戒」のために引っ張り出されたのではないか?と考え始めている。
今回の選挙では地方票の割合が多く「彼に国会議員票で負けても地方票で逆転が可能」と言われているが、それ以上に党長老が心配しててもおかしくない事がある。それは「地方で圧倒的な得票」を得てしまうと「国会議員軽視の可能性」が出てくるのではないか?という事だ。
これはごく身近に小泉という先例があり、長老たちも散々手を焼いた記憶があるだろう。地方組織からは「小泉改革路線が地方組織をズタズタにした」という感覚があるとされ、河野が「小泉路線の継承」、谷垣が「小泉改革の否定」を旗頭にした場合、地方票が谷垣に殺到する可能性がある。仮に河野と2者での対決となったとして「地方票300対0」という結果になった場合、谷垣がこれを理由に暴走しないという担保がない。
一端総裁についてしまえば選挙での公認権などで強力な権限を持つ事ははっきりしている。反麻生の動きがいずれも腰砕けになった要因もこれだという主張も散見される。
http://www.news.janjan.jp/government/0907/0907187332/1.php
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20090722/168980/
森たち長老が野党にまで落ちた未だに総裁選に口を出すのも、次の選挙で差し替えられるのが怖いからかもしれない。
「私が総裁になれたのは議員票以上に地方組織からの支援があったからだ!」
谷垣がこう言い出して長老の言う事を聞かなくなったら?そうならないために、谷垣への支持は「地方中心」「地方票だけでも谷垣総裁」という状況になっては困る。
だからこそ、西村が狙っている(指示された)のは「河野に流れる地方票の削減」ではなく「谷垣に流れる地方票の削減」なのではないのだろうか?
まぁこれも下種の勘繰りではあるので、単に西村が自分の役割を理解してなくてアホな事言ってるだけかもしんないけど。