はてなキーワード: 感受性とは
https://anond.hatelabo.jp/20241114083257
生贄は年中無休で求めてるので書いちゃう~~~惚気たい~~~~勝手に書く~~~~キモイとか言わないでよ~~~
コメントをいただいた気がしたんだけど見つからなくて、ここはフェイク入れまくって書いてるからあれだけどとりあえず彼氏は2つ以上4つ未満の歳の差だよ~。
ただもうこの程度の年齢差、中年になると誤差だなと思う。
出会った当初「彼が妹と同い年」という身近な比較対象があったこともあって高校生の頃はこの差が本当に大きく感じたもので、
ここ何年かで「人生いたずらに歩んで無為に年を取ったな~」って凹むことが多かったけどこういうところで考え方が変わってくるところで同時に面白さも感じる。
今思えば歳の差を強く意識してるのは私だけだったのかなあと思うも、多分彼も多少は補正入ってたと思うんだよね。
だって、当時あったドラマや漫画は女性向け男性向け問わず「年上彼氏と年下彼女」みたいなテンプレート恋愛がとにかく多かったから。
先輩後輩とか、先生生徒とか。
案の定だけど、彼も私をそういう目では見てなかったと思うんだよね。(ちょっと願望も入ってるけどさ…)
正直「これは恋愛の気配…?」と思ったタイミングが何度かあったけど、大体彼が問題に見舞われて弱ってるタイミングで「助けて増田さあん…」というのが多くて、
そこでは「頼れる姉御」みたいな接し方をされてた気がしてこれは恋愛ではないなっていう。
私も「なんか…なよなよしてる男だな」って思ってたし。
お互い不器用だったのかな~~ていうか私の感受性が◎んでたのかな~~
ともかく今書いてて思ったけど「ドラマや漫画が作りあげたステレオタイプの恋愛」への憧れが強いんだろうな。
そんな中でのこの秋、紅葉狩りとイルミネーション鑑賞、芸術・食欲・スポーツ等々全部の秋を満喫してるのマジさいこう~~~~
もう秋っていう季節は我々のためにあるな!まちがいないわ!冬もいただきだぜ!
付き合う前と付き合った直後は「人前でいちゃつくなどヤマトオノコにあらず」とかやってた彼がさ~今は都度で手を差し伸べてくるんだって~~
大喜びで手を繋いてもらっては「いや~今視野に入る男の中で一番ハンサムだと思うわ」って思いつつ幸せいっぱいで歩いてるよ。
こんな未来が待ち受けてるなんて思いもよらなかったのは、私自身がこんなデロデロになったことがなかったからっていうのもあるけど
とにかく彼がそういうことを提供してくれて&私も享受しちゃうゾ★みたいな感受性があるからだよな~~~そこは年取ってよかったな~~成長してる~~
齢三十を迎えてからというもの「人生こんなもんか」という感覚が頭の中をついて離れない。
かといって希死念慮はなく、どうにか人生を前に進めたいのだが、どうにもこうにもこの思念に阻まれている気がする上に、具体的なビジョンもない。
諸先輩方にこの年代で同じような感覚を経験し、払拭できた人がいれば助言をいただきたい所存。
年齢は30、性別は男。
それなりに良い大学を出て、就職と同時に一人暮らしを始めて以来東京在住。
経済的な苦しさはない。
加えて、恥ずかしいことにセックス依存気味で、週末はマチアプ等で知り合った女を家にあげていることが多い。
このため、完全に自分が原因なのだが、あまりに身体を許してくれる女が多いため若干女不信気味。
就職から9年余、新卒の頃のような不器用さはなくなり、仕事も卒なくこなせる。
ただ、新鮮な刺激や、何かを切り開いていくような高揚感は既にない。
友人との交友、目も眩むような恋愛や同棲生活、ワンナイトの愛、美味しい料理に高い酒、海外旅行、転職活動、感動するような音楽・映画、真夏の音楽フェスティバル、大切な友人の結婚式、身近な人間の死etc
一人の人間が人生で経験するライブイベントや摂取するコンテンツは結婚と子育て以外、あらかた済ませた。
一人3〜4万のフレンチ、海外旅行で行く欧州の世界遺産、仕事の新規プロジェクト、初めて会った女とのセックス、どれをとってももはや「こんなもんか」。
俺の感受性が死んだだけのか、なにか精神的な病なのか、環境を変えることで何かが変わるのか、結婚も子育てもない人生は現代人にとって長すぎるのか。
昨日36歳にして人生で初めてLINEブロックされたんけど、これショックでかすぎて記録したい。
私が思春期時代にも着拒とかあったけど、このコミニュケーションインフレ時代に、それまで仲良くしてた(と当人だけ思っていたわけだが)相手から「突然ごめんやけど、お前とは金輪際なんの言葉も受信したくないし何の関わりも持ちたくないのでブロックします。RIP🙏」って30代後半の死んだ感受性でもめちゃくちゃメンタルやられるな?
しかも恋人とか家族とか親友といった重要な他者でもない、上司なのに、こんなにも心がぐちゃぐちゃだ。検索履歴が「LINEブロック意味」「LINEブロック性格やばい」「LINEブロック倍返し」などで埋まっていく飲み虚しい。後悔と戸惑いで意識リソースすべて持ってかれるの虚しい。
こんな、こんな心を動かされることがまだあるんだ。
ネガティブ感情による攻撃は、怨恨による不条理や不利益が溢れ出る命の泉なので、くそうざいキショい頼むから4んでくれ、と思っても着拒やブロックはしない。多少利害が絡む相手ならば。しかしそれをおいても攻撃せざるを得ないハラスメント案件を無自覚に発生させていたこの事実が、その無言による糾弾が、いちばん堪える。
これまでの自分の言動、加害意識はなかったその言動すべてがハラスメンタルでしたという事実を突きつけられ、この存在自体が無価値どころか有害であるという自認で、意識ある時間がすべて自己を脅かしタイムになる。今日仕事あったからまだよかったが明日は日曜だし死ぬだろう。
中年期の感受性でこんなにも心揺さぶられることは最近とみになかったし、なんなら「ひとの気持ちを想像してみましょう」をガチでやれる機会をくれらあたりさすが上司なんだけど、これまで7年一緒にやってきたから、めっちゃ感謝してるから、それでも大好きだから、やっぱりすごく悲しくてさみしいわ。
週明け1on1どうすんのこれよ。
昨日36歳にして人生で初めてブロックされたんだけど、これは、ショックでかすぎて、記録したい。
私が思春期の時代にも着拒とかはあったけど、このコミニュケーションインフレ時代に、それまでふつうに仲良くしてた(と当人だけ思っていたわけだが)相手から「突然ごめんやけど、お前とは金輪際なんの言葉も受信したくないし何の関わりも持ちたくないのでブロックします以上」やられるの30代後半でもメンタルめちゃくちゃやられるな?
しかもべつに恋人とか家族とか親友といった重要な他者でもない、職場の上司なのに、こんなにも心がまっくろだ。
土曜の検索履歴が「LINEブロック意味」「LINEブロック性格やばい」「LINEブロック倍返し」などで埋まっていく。意識のリソースすべて持ってかれる。すごい。こんな、こんな心を動かされることが、まだあるんだ。
ネガティブ感情はリスクであり、不条理や不利益を生み出す源泉なので、なんらかの利害関係がある以上くそうざいキショい4んでくれ、と思っても着拒やLブロックはしない。しかし、それを発生させるほどのハラスメント案件を発生させていた事実が、その無言による糾弾が、いちばん応える。
これまでの自分の言動、加害意識はなかったその言動すべてが、加害意識がないゆえにその最悪さを増し、ハラスメンタルを決めていたという事実を突きつけられる。この存在自体が無価値どころか有害であったのか。
中年期の死んだ感受性で、こんなにも心揺さぶられることはなかったし、なんなら「ひとの気持ちを想像してみましょう」をガチでやれる機会なんて最近なかなかないから流石は上司なんだけど、これまで7年一緒にやってきたから、めっちゃ感謝してるから、それでも大好きだから、すごく悲しくてさみしいですよ。
自由に対する価値観が時代と共にどのように変遷してきたかについて考えると、フランス革命と現代の日本の状況を比較することで、その違いが明確になります。
フランス革命の時代には、封建的な身分制や絶対王政の下で「自由」が抑圧されていました。啓蒙思想家の影響を受けたフランス市民は、自由、平等、友愛の実現を掲げて立ち上がり、王政を打倒し、社会を根本から変革しようとしました。フランス革命における自由の価値観は「命を懸けてでも達成すべき理想」であり、抑圧からの解放と民主的な社会の実現が主な目的だったのです 。
一方、近代以降の自由主義や民主主義が世界中に広がることで、多くの国では基本的な自由や人権が保証されるようになり、特に日本のような成熟した民主主義国家では「自由」が前提となっています。戦後の日本国憲法は個人の自由や基本的人権の尊重を大前提としており、教育や法律によってその価値が守られてきました。しかし、自由が当然視される状況では、それが「意識しなくても存在するもの」として捉えられやすく、自由に対する強い感受性や価値観が低下する傾向も見られるのです 。
また、現代の日本においては、自由に対する「制限」にも関心が薄くなる場合があるのは、社会的な安定や秩序を優先する傾向が強まったためと考えられます。特に、1990年代以降の経済停滞やグローバル化の影響により、日本では安定と安全が重視され、個人の自由が制限されることへの抵抗が薄れる現象も見られます。こうした状況の中で、自由に関する意識の低下は、歴史的背景と社会の成熟、経済的・政治的な安定が関連していると言えるでしょう。
自由への価値観が歴史と共に変遷するのは必然であり、フランス革命のように自由が「得るべきもの」だった時代と、現在のように「当然のもの」とされる時代では、自由の捉え方が異なるのは当然とも言えます。この変化は、歴史の中で価値観や社会構造が常に変化し続けていることの証拠であり、また人々の意識が環境や時代背景によっていかに影響を受けやすいかを示しています。
ジュネーブ - 国連女性差別撤廃委員会(CEDAW)は、最新のセッションでベナン、カナダ、チリ、キューバ、日本、ラオス人民民主共和国、ニュージーランド、サウジアラビアの8か国について審査を行った後、各国の評価結果を発表しました。
この評価結果には、各国が「女性差別撤廃条約」を実施する際の前向きな側面に加え、委員会が懸念している主な課題や勧告が含まれています。主な問題には次のような点が挙げられます:
委員会は、女性に対する性差別的暴力の高い発生率について依然として懸念を示しました。具体的には、家庭内暴力や性的暴力、女性性器切除(FGM)、児童婚が含まれます。また、サヘル地域の紛争の影響により、難民や国内避難民、移民、亡命申請者の女性に対する性差別的暴力のリスクが高まっていると指摘しました。委員会は、特に乳児を含むFGM撲滅に向けて、医療提供者や文化的・宗教的指導者と協力するなどの具体的な対策をベナンに求めました。また、性差別的暴力の被害を受けた女性に対する十分なシェルターや他の保護および支援サービスを確保するよう促しました。
さらに、政府、国民議会、公務員、外交サービス、軍隊、国際機関、民間セクターにおいて、意思決定ポジションに女性が少数派であることが観察されました。委員会は、ベナンがすべての意思決定機関において男女平等(50:50)の達成を求める法的および立法上の枠組みの見直しを勧告しました。また、公的および民間の領域における女性の指導的地位への参画が少ない根本的な原因を特定し、対策を講じるよう呼びかけました。
委員会は、家庭や社会における男女の役割と責任についてのジェンダーステレオタイプや家父長的態度に取り組む政策が、社会のあらゆるレベルで男性を対象としていないことに懸念を示しました。カナダに対して、女性差別撤廃とジェンダー平等の促進に男性を含めるよう求めました。これらの対策は、伝統的な男性性と女性性の概念に挑戦し、女性や少女に対するあらゆる形の性差別的暴力を減らし、家族や社会におけるジェンダー役割に関する家父長的な固定観念を打破するために、社会規範を変革するものであるべきだと委員会は強調しています。
また、委員会はインディアン法の改正にもかかわらず、カナダにおいて先住民の女性や少女に対する性差別が続いていることに深い懸念を表明しました。男女が自分のインディアンの身分を子供に平等に継承する権利を確保するため、さらなる法改正を行うようカナダに求めました。さらに、以前にその身分を否定されていた先住民女性とその子孫に対し、インディアンの身分を付与し、インディアン法に関連するものを含む先住民女性およびその子孫に対する人権侵害に対する完全な補償へのアクセスを制限する法的障壁を取り除くよう、カナダに求めました。
委員会は、最高裁に設置された「ジェンダー平等および差別撤廃のための技術事務局」の設立を称賛しましたが、依然として母親や妻としての伝統的な役割を強化するジェンダーステレオタイプが根強く存在していることに懸念を示しました。これらのステレオタイプは、女性の社会的地位や自律性、キャリアの見通しを制限しています。また、メディアで女性政治家が「繊細」や「感受性が高い」といった表現で描かれ、外国人排斥的で人種差別的な発言や男尊女卑の理想が目立つことについても懸念を表明しました。委員会は、女性や少女を対象としたヘイトスピーチに対抗する政策をチリに採用するよう促し、政府関係者やメディア関係者に対してジェンダーに配慮した言語や女性の前向きな描写に関する訓練を提供するよう求めました。
さらに、チリにおける広範な性差別的暴力、特に性的暴力や高いフェミサイド(女性殺害)率について深い懸念を示しました。サイバーストーキングやハラスメント、親密な画像の無断共有など、オンライン上の虐待の増加についても指摘しています。委員会は、女性に対するあらゆる形態の性差別的暴力が犯罪であることについての啓発活動を強化し、被害者の保護を改善するようチリに要請しました。また、オンライン虐待に対抗するためのより厳しい措置として、明確かつ十分な罰則の導入や、プラットフォーム提供者が有害なコンテンツの報告や削除を怠った場合の責任を追及するよう求めました。
委員会は、農村部の女性が土地使用権(10%)や農業技術、教育および保健サービス、特に性と生殖に関する保健サービスへのアクセスが限られていること、さらに彼女たちが労働時間の80%を無償労働に費やしていることに懸念を示しました。委員会は、インフラや種子、機械、設備、拡張サービス、研究情報へのアクセスなど、女性農業者への農業支援サービスを強化し、適切な報酬を提供するようキューバに求めました。
また、委員会は、公共および私的領域におけるあらゆる形態の性差別的暴力を犯罪化する包括的な立法が不足していることについて、以前からの懸念を再表明しました。委員会は、女性の権利擁護団体との協議を経て、すべての形態の性差別的暴力を犯罪化する包括的な立法を速やかに策定し採択するよう、キューバに要請しました。
委員会は、既存の差別的規定に関するこれまでの勧告の多くが未だに対処されていないことに懸念を示しました。特に、夫婦が同一の姓を使用することを義務付ける民法第750条の改正に向けた措置が取られておらず、事実上、女性が夫の姓を採用することを強いられることが多い現状についてです。委員会は、日本に対し、結婚後も女性が旧姓を保持できるよう、夫婦の姓の選択に関する法改正を行うよう求めました。
さらに、委員会は、母体保護法第14条が規定する制限的な例外のもとで、配偶者の同意が必要とされることにより、合法的な中絶へのアクセスが制限されている点についても懸念を表明しました。委員会は、日本に対して、女性が中絶を求める際の配偶者同意要件を撤廃し、すべてのケースで中絶を合法化するよう法改正を行うことを要請しました。また、安全な中絶サービス、特に中絶薬を含むサービスが、すべての女性や少女に対してアクセス可能で、手頃で、十分に提供されることを確保するよう求めました。
委員会は、法的禁止にもかかわらず、18歳未満で結婚する女性が30.5%に達するなど、同国における児童婚の高い発生率について懸念を示しました。特に、15歳から結婚を認める「特別かつ必要な場合」という不明確な規定を含む家族法に注目しました。委員会は、ラオスに対し、最低結婚年齢18歳の例外をすべて撤廃するよう家族法を改正することを求めました。また、児童婚を支持する社会規範に挑戦するために、伝統的リーダーやメディアを巻き込んだ公共の啓発キャンペーンを実施するよう呼びかけました。さらに、児童婚の犯罪化、加害者の起訴、被害者への十分な支援サービスの確保を強く求めました。
委員会は、非政府組織や女性活動家の活動に対する過度の制限についても懸念を表明しました。また、女性活動家に対する報復事例についても懸念を示しました。委員会は、NGOの登録要件を見直し、女性の権利団体やその他の組織が過度の制限なしに自由に活動できるようにするよう同国に求めました。また、女性人権擁護者やその他の活動家に対する報復についての調査と処罰を行うよう呼びかけました。
委員会は、女性に対する性差別的暴力および特別措置に関する国の四半期ごとの公表報告、特に男性のトラウマやその家族・人間関係に対処する「彼女はあなたのリハビリではない」というプログラムについて言及しました。しかし、過去5年間で家庭内暴力や親密なパートナーによる暴力が60%増加していること、特にマオリや太平洋諸島出身の女性、民族的および宗教的少数派の女性、障害を持つ女性がより高い割合に直面していることに深刻な懸念を示しました。委員会は、ニュージーランドに対し、女性に対する性差別的暴力の根本的な原因や複合的要因に対処する政策を策定するよう求めました。また、被害者支援サービスを適切に提供し、社会的に不利な立場にある女性に対する性差別的暴力からの保護を強化するために法執行を強化するよう呼びかけました。
マオリ女性(Wāhine Māori)に関して、委員会は、ニュージーランドが国連先住民の権利に関する宣言(UNDRIP)への支持を撤回したことや、ワイタンギ条約を実施するための具体的な措置を講じていないことに懸念を示しました。これは、同条約の条項の再解釈と見なされる可能性があります。委員会は、ニュージーランドに対し、UNDRIPへのコミットメントを再確認し、国の政策や立法が宣言の原則および条項と整合するようにし、ジェンダーの視点を統合することを求めました。
委員会は、サウジアラビアが法律および実践において死刑を維持していることや、2020年1月から2024年7月の間に異なる国籍の女性11人が処刑されたことについて、深い懸念を表明しました。委員会は、サウジアラビアに対し、死刑の執行を停止し、死刑囚のすべての女性の処刑を中止し、死刑を懲役刑に減刑することを検討するよう強く求めました。また、サウジアラビアのテロ対策法(2017年)およびサイバー犯罪法(2007年)について、これらが女性人権擁護者に対する脅迫、逮捕、拘留、旅行禁止を科すために使用されていると報告されていることに関して、委員会は、特に男性後見制度の廃止や旅行禁止を求める活動家に対し、嫌がらせや監視、恣意的な逮捕・起訴、委員会との接触や関与に対する報復から解放され、正当な活動を行い権利を行使できるよう保証するようサウジアラビアに求めました。
委員会はまた、すべての移民労働者、特に移民女性家事労働者に対する保護が不十分であることに懸念を示しました。移民労働者は労働法の最大労働時間、残業代、年次休暇、医療休暇に関する規定から明示的に除外されています。さらに、主に女性で構成される移民家事労働者は、法的地位が雇用主に結び付けられている制度の下で管理されており、経済的および身体的虐待、売買春、搾取のリスクにさらされています。委員会は、サウジアラビアに対し、労働法を改正し、すべての移民労働者に対する保護を拡大するよう求めました。また、移民女性労働者が虐待的な雇用契約を報告できる機密かつ独立した苦情処理メカニズムの設立、さらに女性移民労働者の職場や寮に対する定期的な労働検査の実施を求めました。
ハイキューが最終回を迎えた際、Twitterで感想を漁っていたら、「なんでバレーしてるだけなのにこんなに泣けるんだろう」というファンの投稿が目に入った。自分はハイキューで泣けるほどの感受性はとうに持ち合わせてなかったが、そこから数えて24年前にほとんど同じ気持ちを味わっていた。
井上雄彦の作品に通底するのは徹底したリアリズムである。彼が本作で行ったのは、本気でバスケットボールに挑む人間の思考と感情をつまびらかにするだけで面白くなるということの証明と、人気が出なかった時のため不良路線でも行けるような作風を選んだことだけである(当時バスケットボールがマイナースポーツであったことに留意したい)。この結果、フンフンディフェンスを除くあらゆる要素が後世のスポーツマンガにリアリティの基準点をもたらすこととなった。
桜木花道がバスケットマンに変貌するたった4ヶ月の物語は、命のやりとりや世界が終わることよりも一本のシュートの成否の方が遥かに切実で重要な問題になりうることを、今なお我々に伝えている。
講談社は1970年代末期には後発のジャンプにマンガ業界の盟主の地位を明け渡しているわけだが、それを奪い返す最大のチャンスが90年代後半に訪れた。DB幽白スラダンといった作品が終了した暗黒期のジャンプを、金田一はじめの一歩GTOを擁するマガジンは苛烈に追い上げ、ついには発行部数で逆転したのである。
その中で強引に看板作品に祭り上げられ、ジャンプの屋台骨を支えることになったのが本作だ。後に和月伸宏は「次につなげたい」という気持ちで描いていたと語っている。明治という激動の時代の中で不殺の剣士・剣心が刀を交える相手は、旧時代に未練を持つ者や、新しい時代の荒波に飲み込まれた者たちであった。黄金期と暗黒期の狭間で奮闘した本作のありようは、皮肉にもそこに重なって映る。
ワンピナルトが出てくるまでを空白期間にせず、少年マンガ誌の代表というジャンプのアイデンティティを守りぬいたのは同時代の誰も比肩できない功績だ(幕張や封神演義やBOYSにこの役割を代替できたか考えてみてほしい)。現代のジャンプ読者はもっと、もっと本作に感謝すべきだと、佐藤健の超人的なワイヤーアクションを眺めながら思うのである。
連載終盤、もはや燃え尽きる寸前だったといううすた京介は後年、「マサルさんはシュールではなく、ベタをシュールに見せていただけ」と語っている。自分を含め、多くの読者は同意しかねるだろう。彼が未来永劫に参照点となりうる新たなベタを作り上げたことに疑いの余地はないからだ。
本作はギャグマンガでやってもいいことの範囲を大幅に拡大した。キャラクターの行動原理なんてなくていい。話の展開は唐突でいい。絵柄は毎ページ変わっていいし上手くなくていい。読者が知らなさそうなパロディだって入れてよいのである。現代の観点では至極当然と思える要素を2年弱、全7巻に惜しげもなく詰め込んだ。
彼の次回作(ピューと吹く!ジャガー)ですらも、ついにその革新性を更新することはなかった。90年代にうすたに憧れ新人賞に応募した有象無象のワナビー達も誰一人として出来なかったことを考えれば少しは気が休まるだろうけども。
闇の人格を持つ主人公によるダークヒーローものというコンセプトで始まった本作は、ほどなくしてマジック&ウィザーズという架空のTCGを中心にした物語に変化した。この変化が、数十枚の紙束を並べる行為を、玩具・ゲーム業界において最も存在感のあるエキサイティングな遊びに位置付けることになる。
コナミでは社内の遊戯王関連の部署をしばしば「造幣局」と呼ぶそうだが、紙を刷って売上1兆円に到達するコンテンツなど他に存在しないことの証左である。こうした状況に、高橋和希の優れたキャラクターデザイン、ストーリー構成が大きく貢献したのは言うまでもない。ゲームが友情を育むツールになりうると示し、メディアミックスの力を世に知らしめた功績は間違いなく彼のものだ。
世界で最も多く発行された単一作者によるマンガ作品について何か語るべきことがあるだろうか?まだ言及すべき余白が。本作のように自然にカテゴライズを避ける作品というのは極めて少ない。友情、夢、自由、強さという最もありふれたテーマに挑み、ついにそのすべてを超然と飲み込み描き切ろうとする本作を何らかの箱に入れて理解するのは難しい試みに思える。
毎週月曜日にワンピを読んで喧々諤々と考察できる世界に我々は慣れ切ってしまった。30年間マンガ業界の頂点に君臨する男がいるという現実に。一定の年代以上の人間にとって、本作の終わりがジャンプという雑誌の終焉に見える人がいても無理のないことだ(今ワンピの次に長寿連載しているのはハンタを除けば2019年連載開始の夜桜さんである!)。ルフィと尾田栄一郎という二人の男の、幼少期から練り上げた夢の果てを世界中が見届けようとしているのだ。我々がこうした光景にふたたび立ち会えるかは疑わしい。
幽白は極めて質の高い作品でありながら、冨樫義博が抱える巨大なアイデアの数々を収めきれた作品ではなかった。それでも仙水編と、その後に異例の月一で掲載されたレベルEで前人未踏の領域に踏み込んだ彼は、自身4作品目の連載においても既視感のある展開とご都合主義を執拗なまでに避け続けた。彼の描くキャラクター達は自身が取れる最善の選択を積み上げた末に、我々が期待する最善以上のドラマを生み出す。幾度もの休載を挟みながら。
「今週の『HUNTER×HUNTER』は休載いたします」の表記(今はこれすらなくなったが)を昼下がりのコーヒーブレイクと何ら変わらぬ平常心で見られるようになってもなお、自分に限ってはこんな感じであった───「HUNTER×HUNTERの最終回を読める可能性があるというだけで、どんなクソみたいな人生でも生きる理由が生じる」
いまや冨樫は少しずつ体調を取り戻し、我々は一時期とは比べ物にならないほどコンスタントに彼の創り出す世界に触れることができる。何百何千もの作品がジャンプにおいて連載され、本作に近い作品、それ以上のものを期待し続けてきたが、その度に彼の偉大さを突き付けられるだけなのだろう。
前例のないテニスマンガでの成功、女性読者の流入、クールで生意気で強い主人公像、菊丸が分身して以降のテニヌ...といった誌面上で読み取れる新規性だけでは、本作のもたらした文化のごくごく一部しか語りえない。
1000曲近いキャラソン、出役としての役割を求められる声優たち、2.5次元文化の源流かつ若手俳優の登竜門としてのテニミュ...現代における狭義のオタク文化の根を辿れば、必ずテニプリが残した功績にぶち当たる。「推し」という文化が、人間を描くあらゆるコンテンツに侵食して久しいが、許斐剛が生み出した世界は、ジャンプで築き上げられたあらゆるファンダムの中でもっとも複雑で永続的な強度を保ち続ける、史上最も「推す」に値する文化であり続けている。
すみませんほんとに書くことが思い浮かびませんでしたでも世界的にマンガ文化を広めた功績は鳥山に並ぶと思ってますマジで
あまりに多くの言及がこの作品になされ、そのどれもが口をそろえて言う。「描き分けが上手い...絵の引き算が上手い...ルビ振りのセンス...久保帯人は中二病...ストーリーが薄い...」これらすべてはもちろん真実だ。
連載中、ワンピナルトブリーチの三枚看板の最後尾というポジションが崩れることは一度もなかった。果たしてこの評価が妥当だったのかは分からないが、少なくとも我々ネット民は久保帯人のセンスをバカにし過ぎたことに対し大いに反省すべきところがあるのではないだろうか。海賊、忍者のような明確なモデルがいないのに、久保帯人はどうしてあれほどまでに洒落たキャラクターとセリフ回しを無尽蔵に生み出せたのか、系統立てて説明できる理屈は未だ見つからない。もしその答えが彼の脳内にしかないとするならば、我々は本作を源流に大いなる歴史が作られていく可能性を認めなくてはならないだろう。
デスノートという作品は複数の点で極めて例外的な成功を収めた。肉体的攻撃を伴わない心理戦、一切の引き伸ばしをしない、公権力、宗教的崇拝、欠点の無い主人公、ゴシック的キャラ造形、ダークヒーロー、死亡エンド...
本作に散りばめられたこれらの要素は、すべて従来のジャンプ漫画では邪道、あるいは不要とみなされてきた要素であった。このような野心的な作品がメディアミックスにおいても成功を収め、国民の誰もが知る作品となったのは驚異的だ。この作品が出たことは心理戦を描こうとする後世のマンガ家にとっては悲劇かもしれない。夜神月ほど賢く、悪どく、魅力的なキャラクターを矛盾なく作れる人間は大場つぐみくらいしかいないのだから。
2010年代にジャンプを購読していた人間はみな共通してうすぼんやりとした不安を抱えていた。「ワンピの連載終わったらジャンプってオワコンじゃね?」
ジャンプの終わりという、週刊少年マンガ誌という形態の終わりと同義に思える未来を避けるべく、集英社は読者以上に血眼になって後継者を探し求めた。しかし我々の期待も空しく、トリコ暗殺教室ヒロアカソーマブラクロ約ネバドクスト呪術といった平成末期の傑作たちすらも、尾田栄一郎が築き上げた領域には辿り着けなかったように見えた───ただ一つの例外を除いては。
「家族、友人への愛」「困難を乗り越える強さ」という普遍的なテーマにフォーカスした吾峠呼世晴の連載デビュー作は、あらゆる世代へ届く成功を収めた。特に、劇場版『無限列車編』は社会現象化し、国内の興行収入1位を達成するなど、経済的にも文化的にも大きなインパクトを残すことになった。
出版業界の衰退、コロナ禍、趣味の多様化といった逆境の中で、マンガが世界的なムーブメントを引き起こすことがまだ可能であると証明した本作は、令和を生きる日本人の心象風景に残る新たな「国民的マンガ」として、時代に選ばれたのだ。
ひとりのスターの存在がプラットフォームの価値を定義することは古今ジャンルを問わずあることだ。ダウンタウンの登場がお笑い養成所という存在をメジャーにしたように、米津玄師の登場がニコ動の文化をオーバーグラウンドなものにしたように。
2014年に創立したジャンプ+というプラットフォームの目的である「紙とデジタルの垣根をなくし才能を育てること」が名実ともに達成されたのはいつだったのか?それは初めて本誌とジャンプ+両方でスターとなった人間の登場によって定義付けられる。
かつて秋田の片田舎から新都社に「長門は俺だ」という名前で投稿していた少年は、その衝撃的なストーリー展開で我々を魅了する存在となった。ファイアパンチ以降、ジャンブ+はあらゆるWebコミックサイト、いや雑誌を含め、もっとも野心的な作品を読める場所のひとつとして認知されるようになった。
藤本タツキの本誌への到着は新たな才能の鉱脈をインターネットに求める時代の始まりを告げ、媒体の違いというものがマンガの面白さになんら本質的な影響を及ぼすことはないという事実を我々に突き付けたのだった。
心を漂わせながら電車に乗っていると、BGMだった環境音が突如として鋭利な情報をもって脳を揺らしてくることがある。
吊り革を持った僕の向かいに立つ、マスクをした中年男性(以下おっさん)が、友人であろう斜め向かいに立つ同じく中年男性(以下友人)に放った”ファニーゲーム”とは、きっと映画史上最も不快な作品と謳われているホラー映画のあれのことだろう。10年ほど前に鑑賞した記憶が大脳から引っ張り出されてきた。
ところでファニーゲームにオリジナルとリメイクがあったことを知らなかった。僕が観たのはどちらだったんだろう。いずれにせよ、確かに記憶ではファニーゲームはなかなかに癖の強い映画だった。主人公に一切の救いがなく、作中大半は虐待行為で構成された終始バイオレンスな描写。あれはひどく人を選ぶような作品だろう。
おっさん「リメイクもまあまあなんだけどさ、オリジナルはほんっとにやばいよ」
おっさんがマスク越しに強く、しかし控えめに放つ言葉は、不特定多数が空間を共有するー車両内にも関わらず、この三人の耳にしか届いていない。他の人からは、3分前の僕と同じようにBGMとして処理されている環境音なのだろう。
この事実が、今いる空間の限定性をより一層と深めていく。コトラーはこれを述べたかったんだなと近代マーケティングの父の顔が頭をよぎる。
しかし、僕が当時に観たものがオリジナルなのかリメイクなのか気になって仕方なくなってきた。正直なところ、たしかに癖は強かった内容だが、僕の中ではそこまでの衝撃を残した作品というわけではなかった。
おっさんの感受性がよほど豊かなのか。または、僕が観たものがリメイクで、オリジナルは本当に脳裏に焼き付くほどの衝撃作なのか。
話を盗んで聞いているだなんて決して察せられないように、客観的には次の予定を確認するような素振りで、ポケットからiPhoneを取り出してファニーゲームを検索する。顧客は本心をそう簡単には見せない。
そうやって二人にiPhoneの背を向けるようにしてリサーチをしてみると、二つの事実を入手することができた。
一つは、僕が当時観たファニーゲームはリメイク版であったこと。
もう一つは、ファニーゲームは、オリジナルもリメイクも、どうやら大して内容が変わらないようであること。
なんだそういうことか。つまりこの話は、おっさんの感受性がよほど豊かだったというだけだったようだ。
こんな刹那的な他人と偶然的に感性がマッチすることなんて、そう簡単にあるわけがない。マーケティングがいつ何事にも通用する銀の弾丸だなんて勘違いしてはいけない。
iPhoneをポケットにしまい、活性化した脳を落ち着かせ、また心を漂わせる姿勢に戻ろうとする。
おっさん「ネットで調べると、リメイクもオリジナルもほとんど変わらないと出てくるんだけど、それは台本の話。オリジナルは、全然違う部分でほんっとにやばいよ」
驚くべきこのコトラー、ものの見事に僕の懸念を払拭してきた。漂おうとしていた心は銀の弾丸によりぶちのめされた。
友人の相槌はとても控えめで、それは話の主導権を委ねることに決めたことを意味している。この山手線内回り3両目2扉前は、いつの間にか彼の手のひらで転がされていた。
なんならマスクをしているのも、口元が見えない為になんか謎めいているように見えて特別感を感じてきた。右手に付けたでかい数珠も魔術師みたいでかっこいい。
全然違う部分って一体どこだ。それは自分の目で確かめろという示唆であろう、僕の考察力への期待さえ込めてくれている。
毎日が平凡で刺激がないと感じることがある。それは幸せなことではあるけれど、退屈だ。
退屈な時間を過ごすくらいなら死んでもいいやなんて思うこともある。
仕事もプライベートも結果がある程度予測できてしまって面白くない。ただただ粗悪な酒をくらって退屈な日々を誤魔化して生きてる今は誰かの役に立っているのだろうか。
そう思う日々が続き憂鬱である。「何が全部つまらないだよお前が物事を楽しむ感受性が欠乏してるんだろつまらないのはお前だよ(引用)」だとか言われると、確かにその通りだなと思う。
感受性が欠乏しているというよりも、推測できてしまうことが面白くない。
だから毎週ロト7を買うことにした。毎週の楽しみができた。医者もいらなくなった。当たるとは思ってないけど、毎週宝くじの結果を見るのが生きがいになっている。
ある意味宝くじに救われたのかもしれない。パチスロ競馬よりも当たる可能性は低いけど、その低い可能性に "賭けている自分" がいるのが楽しい。
働いたら負け理論やダンピング防止理論を感受性の豊かな時期に浴びて「俺もストライキに参加するぞ!」とニートになったのが20年前。
でもある日「プロレタリアの中途半端なストライキなぞ無意味だ。世界を変えたいなら自分がルールを作る側になるべき」と考え「官僚」になった。
Q.貴方は会社の人事です。転職エージェント経由で「長いニート歴のある高卒(しかも定時制だ!)。職歴は公務員のみ。趣味はネットとゲームのみ。特技もなく、前職の経験は役所の事務員」という非常に虚無い応募者が来ました。採用しますか?
ほぼ平成生まれなのにJTCの果ての果てみたいなお役所で働き続けること、それが俺に残された人生だった。
悲しい。
もしも思春期の俺がネットにかぶれず「いやーゆーて一過性のものでしょ?つうか散々個人的生存戦略を走ってきた世代の語る「今度こそ一緒に堕ちようね」とか信じるだけアホでしょ?」と考えられていれば。
俺はそこそこ頭がいい。
御三家よ旧帝は無理でも早慶マーチぐらいは狙えた地頭があるはずだ。
それを完全に無駄にした。
反ワクや嫌韓で人生を棒に振った奴らこそが俺の兄弟なわけだな。
あー辛い。
死ぬまでロクに残業代も出ないしスキルも身につかない仕事をするんだろうな。
メールソフトの使い方も知らない現場上がりの爺さんにEXCELを教えて、見返りに砂消しの上手い使い方を教わる。
これが俺の人生なんだな。
完全テレワークでクリエイティブな仕事を令和の倫理観ですすめる人生にはもう戻れないんだ。
後悔しかねえよ。
俺はさ、氷河期共に騙されたんだよな結局。
アイツラ吠えるだけ吠えておいて自分らはヘコヘコするだけじゃねーか。
レジェンドアサシンYの登場で目が冷めたよ。
本気の奴が一人でもいたら起きてた未来が起きないままの20年だったんだって。
お前らは結局本気で世界を変える気はなくて、ストライキさえも他人にやれというだけで自分はコソコソ告げ口するだけの太鼓持ちしてたんだ。
完全に理解したよ。
騙された。
本当に悔しい。
村上春樹は、日本および世界文学において、いくつかの重要な文学的達成を遂げたと評価されています。以下、多角的な視点からその功績を分析します。
村上春樹は、1980年代から現代にかけての日本文学を代表する作家の一人であり、特にポストモダン文学の文脈で高く評価されています。彼の作品は、従来の日本文学の伝統やテーマから脱却し、グローバルな感性やポップカルチャー、サブカルチャーを積極的に取り入れることで、新しい文学のスタイルを確立しました。これにより、村上は日本文学を世界文学の文脈で再定義する役割を果たしました。
2. 小説技巧
村上春樹の作品は、独特な語り口、現実と非現実が交錯するメタファー、シンプルながらもリズム感のある文章で特徴づけられます。彼のスタイルは、読者を異世界に誘いながらも、同時に自己反省や存在の意味を問いかける要素を含んでいます。また、村上の作品には、オープンエンディングや多義的な解釈が可能な要素が多く、読者の解釈を促す手法が多用されています。
村上春樹は、アメリカの作家であるレイモンド・チャンドラーやカート・ヴォネガット、ジョン・アーヴィングなどの影響を受けていることを公言しており、それらの作家たちと同様に、日常に潜む異質な出来事やシュールなユーモアを取り入れています。しかし、彼の作品はそれを単なる模倣ではなく、独自の日本的な視点や感受性を織り交ぜて再構築する点で独特です。このことが、村上を単なる「翻訳的」作家にとどまらない存在にしています。
4. 後世への影響
村上春樹の影響は、日本国内だけでなく世界中の作家たちにも及んでいます。彼の作品のスタイルやテーマは、多くの若手作家たちに影響を与え、村上の影響を受けた「ポスト村上世代」ともいえる作家たちが台頭しています。また、彼の作品が世界中で翻訳され、幅広い読者層を獲得していることから、村上は日本文学の国際的認知度を高める役割を担ったともいえます。
村上の作品では、自己探求、孤独、失われた時間、人間関係の複雑さなどの普遍的なテーマが頻繁に描かれます。これらのテーマが現代社会の不安感や疎外感と強く共鳴することにより、多くの読者が村上の作品に共感を抱いています。特に、彼の作品に見られる現実逃避や非現実との対話は、現代人が抱える精神的な問題や自己探求の葛藤を反映しています。
6. ポップカルチャーとの融合
村上春樹の作品には、音楽(特にジャズやクラシック)、文学、映画などのポップカルチャーが頻繁に引用されます。この要素が彼の作品に親しみやすさと多層的な深みを与え、特に若い世代の読者層に支持される要因となっています。
村上春樹は、ポストモダン文学の旗手として、日本文学に新しいスタイルと視点をもたらし、グローバルな視点での文学的交流を推進しました。彼の作品は現代社会の問題に対する鋭い洞察と普遍的なテーマを兼ね備え、後世の作家や文学に大きな影響を与え続けています。その文学的達成は、技術的な革新だけでなく、世界的な文学の文脈での再評価を促す点においても顕著です。
◆再追記
anond:20241026155116←皆さんの意見を受けてリライトしました、よかったら読んでみてね
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ランキングではなく、連載開始順に並べただけです
忌憚なき意見、待ってるぜ
黎明期レジェンド枠。サービスエロがジャンプマンガの大きな側面を担っていた事実は否定できないし、そもそもこの作品の売上が無かったらジャンプが存続してたかも怪しいので入れざるを得ない。
黎明期レジェンド枠2。ジャンプ黎明期の売り上げを支えつつ、不良系マンガを一大ジャンルとして確立させた意味で実は物凄く偉大な作品。これが無かったらろくブルも東リべも存在しない。
ギネス記録である40年にわたる長期連載、そしてサブカルチャー全般を積極的に題材として取り入れたことで現代日本の風俗、文化を凝縮したような史料的価値を持つ作品になった点を評価したい。
黎明期レジェンド枠3。売り上げもさることながら、見開きを用いたド派手な演出の数々や、「荒唐無稽な能力バトル」というジャンルを確立させた点を評価したい。(このジャンルのパイオニアはアストロ球団なのだが、後進への影響はこちらが上かなと思う)
リングにかけろが確立したバトルマンガ路線を、当時の少年たちが大好きだったプロレスに絡めることでさらなる高みへ導いた作品。初めてのジャンプ黄金期を作った作品で、キン消しをはじめ一般社会への影響力もすごい。いわゆる「友情・努力・勝利」はほとんどキン肉マンで作り上げられたといっても過言ではない。
勝利や友情といったそれまでのスポーツマンガの王道を抑えつつも、キャッチーな必殺技を取り入れ実際のスポーツ以上のエンタメ性を付与した。マンガ史全体としてはドカベンがこのジャンルのパイオニアだけど、ジャンプで言えばキャプ翼がそれ。海外で人気が爆発したほぼ初めてのジャンプ作品という点も重要。この作品がなければメッシはサッカーやってなかったかも。
80年代のジャンプの象徴といえる作品。創刊以来、ジャンプの主たる系統であった劇画タッチやハードボイルドな男向けの作風の最高到達点。
ラブコメから選ぶならこれ。決して革新的な要素があったとは言えないが、当時のジャンプが唯一苦手としていた王道ラブコメで人気を得たことが重要。ポップ路線を持ち込み、ジャンプ紙面の多様性はより進むことになる。
90年代中盤のジャンプ黄金期を牽引した作品であり、連載が終了してなおもジャンプ、日本のマンガ文化の頂点に君臨する作品。急激な路線変更、無理やり感ある後付け設定と引き延ばしなど、負のジャンプらしさをも象徴している。
国民的作品として定着してきたのはここ数年って感じはするけど、現代の異能バトルマンガはほぼ全てジョジョ3部の影響下にあると思うので入れざるを得ない。
バスケマンガ、いやスポーツマンガ史上の最高傑作。勝利と成長の喜び、敗北と挫折の苦さがこれ以上なく詰まったタイムレスな名作。もし序盤の不良マンガ路線を継続していたら日本のバスケットボールの歴史は(恐らく悪い方に)大きく変わっていただろう。
特筆して後世への影響や売り上げがずば抜けている印象はないけど、DB幽白スラダン終了後ワンピナルトブリーチが現れるまでの柱としてジャンプ暗黒期を支えた世代の代表として入れておきたい。
純粋なギャグ枠から一作入れたかった。ナンセンス、シュールさを主体としたギャグをジャンプ誌上で成功させた最初のマンガ。下品さやエロさを排除した純粋な面白さを追求した点が重要。その影響度は「マネもほどほどに...」という注意書きが当時の新人賞の要項に書かれるほどだったそう。
正直マンガ作品としての完成度は大したことない。だが集英社における映像媒体以外のメディアミックスとして最大の成功例であり、TCGを日本に定着させた初めての作品であり、暗黒期の集英社(とコナミ)に莫大な富をもたらしたことが重要。お金は正義。
大河ドラマ的な作風であったり、連載中であったり、作画コストが高すぎたりで他作品へ与えた影響がまるで感じられない(マネしたくてもできない)点が評価を迷うポイント。それでもなんだかんだ国民的マンガ、ジャンプの看板の地位は譲ってない。幼少期から温めた構想を週刊連載で30年かけてやる人間って歴史上存在しないと思うので、そういう意味では既にマンガの枠を超えた注目度になりつつある。
残酷で先の読めない展開、異常に複雑で難解な設定、それでいて少年マンガ的なシンプルな熱さを持ち合わせた稀有な作品。「続きが気になるマンガ」を描かせたら冨樫以上の人間はいない。ハンタの最終回を読むまでは死ねない。
サスペンスを主体としたマンガとしてこれ以上ない完成度。ジャンプ作品を大別するとバトルものスポーツもの恋愛ものギャグもののどれかになるが、それ以外のジャンルで最も成功を収めた作品。
ワンピース以降不在だった、圧倒的な看板力を持つマンガ。趣味の多様化、出版不況といった逆風を跳ね返し、国民的な作品を生み出す力がマンガにまだあると示した功績がデカい。
今のジャンプがジャンルレス化している最大の要因はジャンプ+の影響であり、その代表格ともいえる藤本タツキを入れないわけにはいかない。まだそこまで顕在化してないけど、今後10年でタツキフォロワーが無限に産まれそうな予感がするので入れておく。
◆追記
ブリーチ→個人的にはリストに入れるべきか一番迷った作品。るろ剣と入れ替えてもいいかも。売上的にも後世の影響的にも入っていいと思うけど、他の超長期連載作品と比べ終盤面白さを保ててなかったところがちょっとマイナス。実際掲載順もどんどん下がってたし
銀魂→人気売上的にはあり、メディアミックスの成功度も高い。ただ銀魂がなかったと仮定した時のマンガ史的影響力があまり感じられないので外した
シティハンター→人気売上的にはあり、ただハードボイルドでもコメディでも上の作品が複数あるように思う
テニプリ→正直候補に入れてなかったけど腐人気の拡大とテニス人口の拡大という意味ではたしかにアリだなと思った。入れ替えるならチェンソかデスノかな
ハンタより幽白→これ言うと公平性を欠いてると言われそうだが、俺は冨樫がジャンプ史上もっとも偉大なマンガ家であるという前提で全作品を評価している。幽白は序盤の人情モノ路線と打ち切りで冨樫の作家性が薄まっているように感じるため、より純度の高いハンタを選出。ただ未完に終わったなら幽白でもいいと思う
リンかけより聖闘士星矢→書いたように能力バトルマンガのパイオニア的存在であることを重視した。1作家1作品縛りなければ入れてもいい
ひばりくん→もともとギャグマンガとして書かれた作品なので評価に迷う。入れ替えるならオレンジロードなんだけど、あえてオレンジロードを入れたのはジャンプでギャグ要素を排した恋愛マンガをヒットさせたことによる後世への影響を重視したからなので...
サーキットの狼→ジャンプ史においてレース漫画の存在感がさすがに薄すぎると思う、必然的に後世への影響力も低く評価せざるを得ない
漫☆画太郎→画太郎のギャグは面白いけど汎用性や他作家への影響に欠ける。なぜなら絵柄ありきで、良くも悪くもマネができないから。俺がうすたのギャグを高く評価する理由は、ストーリーににも絵柄にも下ネタにも頼らない純度の高さ(=マンガにおける笑いの一般化)にある
呪術→はっきり言って候補にも挙げてなかった。同世代のチェンソ鬼滅より明確に格下だし、そもそもコンセプトがジェネリック版ハンタでしかない以上このリストには入れられない。冨樫になくて芥見にはある面白さがあるとするならば俺とは感受性が根本的に合わない
男塾→あれは劇画タッチとバトルものという過去のメインストリームをメタにしたギャグマンガなので、他作品の影響を大いに受けた側。このリストには入らない
お茶とコーヒー、どちらも日常的に飲まれている飲み物ですが、なぜコーヒーの方が依存性が高いと言われているのでしょうか。その理由について、詳しく解説していきます。
コーヒーの方がカフェイン含有量が多い傾向がある: 一般的に、コーヒーは茶葉よりも1杯あたりのカフェイン含有量が多いです。
コーヒーの方がカフェインの吸収が早い: コーヒーに含まれるクロロゲン酸は、カフェインの吸収を遅らせる働きがありますが、お茶に含まれるカテキンはより強力にカフェインの吸収を阻害します。そのため、同じ量のカフェインを摂取しても、コーヒーの方がより早く血液中に吸収され、効果を感じやすくなります。
テアニン: 緑茶に多く含まれるテアニンは、カフェインの興奮作用を緩和し、リラックス効果をもたらします。そのため、緑茶を飲むと、カフェインの刺激を感じながらも落ち着くことができます。
タンニン: コーヒーにも含まれるタンニンは、カフェインと結合してその吸収を妨げます。しかし、緑茶に含まれるカテキンはタンニンよりもカフェインと強く結合するため、緑茶の方がカフェインの作用が穏やかになる傾向があります。
習慣: 毎日同じ時間にコーヒーを飲むなど、習慣化されていると、コーヒーを飲まないと落ち着かないと感じることがあります。
味覚: コーヒーの苦味や香りが好きで、それを求めることで依存性が高まることがあります。
心理的な効果: コーヒーを飲むことで活力が湧いたり、集中力が高まったりするといった効果を期待し、それを得たいがために依存してしまうことがあります。
上記のように、コーヒーの方がお茶よりも依存性が高い傾向があると言えますが、あくまでも一般的な傾向であり、個人差が大きいことを忘れてはいけません。
体質: カフェインに対する感受性は個人差が大きいため、同じ量を飲んでも人によって影響が異なります。
飲む量: 摂取量が多いほど、依存性が高まるリスクは高まります。
飲む時間: 寝る前にコーヒーを飲むなど、適切な時間に飲まないことも依存の原因となります。
まとめ
コーヒーの方がお茶よりも依存性が高いと言われるのは、カフェインの含有量や吸収率の違い、そしてその他の成分の影響が考えられます。しかし、依存症になるかどうかは、個人の体質や飲む量、習慣など、様々な要因が複雑に絡み合って決まります。
飲む時間を決める: 寝る前のコーヒーは避け、覚醒作用を活かせる時間帯に飲みましょう。
カフェインレスを選ぶ: カフェインが気になる場合は、カフェインレスのコーヒーやお茶を選びましょう。
他の飲み物も楽しむ: コーヒーやお茶だけでなく、水やハーブティーなど、様々な飲み物を楽しみましょう。
大切なのは、自分の体と相談しながら、無理なくコーヒーやお茶を楽しめるようにすることです。