はてなキーワード: 美術とは
もうすぐ誕生日を迎えて33歳が終わるので、いい機会だと思って平成初期生まれである自分のロマンス観の奥底に眠る作品について、水面まで引っ張り上げて雑語りしてみた。なお性別は男。
GL:これ
ガールズラブと項目を立てておいてなんだけど、実は未だによくわからない概念(もしかして期待して読みに来たかもしれない人がいたらゴメンなさい)。とりあえず自分のステートオブジアートとして率直な気持ちを残したいと思う。
BLの方で書いたように、筆者は昔からティーン向けの少女漫画や少女小説を摂取していたので、(少)女同士の関係性は友情(たまに愛憎)のものとしてプリセットされていた。なので女と女の距離が近くても「ああそういう感情ね」として頭の中の知っている感覚にラベルを振り分けていた。そこに特別な名前を付けることはなかった。ただ「友情・親愛」と。
その後、オタクとして成長すると共に、だんだんと百合という概念が男オタクの間に伸長してきたが、百合市場が出来上がるのを横目に眺めるだけで、自分自身がどうこうということはなかった。
覚えている限りだと、高校生の時(2006年くらい?)にオタク同級生の間で少女同士の関係性を題材にした漫画だったかラノベが友人の男オタクの間で流行っていたと思う。なんだっけ……4コマ漫画で……メガネの女子の眼の前で授業机の中から大量の煮凝りがぬぽって落ちるシーンだけは覚えているんだけど……。当時は百合という言葉は使っていなかった気がするけど、可愛い女の子同士がいちゃいちゃしているのがいいんだ、みたいなことを言っていた気がする。自分はそれに対して、特に思う感情はなかった。いや、逆に今更?という感情だったかも。なぜならば既にその場所は訪れたことがあったから。
自分が初めて少女同士の恋愛にも似た感情のやりとりを意識したのは、小説だった。図書館で借りてきたとある作家の小説で読んだS(エス)といううら若き乙女同士の関係。女学校に通う少女同士の疑似恋愛。そこにあったのは上辺は花畑を舞う蝶のように煌めき美しいが、内側に潜ると内蔵のようなヌメついた湿った感情だった。疑似恋愛、嫉妬、そして混じる疑似ではない気持ち。
そんな作品を読んできていたので、かわいい子とかわいい子がかわいいことをしている、みたいな作品に喜んでいるオタ友がどうにも幼く見えてしかたがなかった。
そうして百合とかGLとはあまり仲良くないまま、女同士の関係は友情というフォルダに入れて今の年齢まできたのだけど…………ただ……心の中で唯一引っかかっている、消化できなかった少女同士の関係があった(過去形)。それが恩田陸の小説「蛇行する川のほとり」に出てくる若い女子高生二人の関係性だ。
タイトル | 蛇行する川のほとり |
作者 | 恩田陸 |
本作は、高校美術部に所属する女子部員たちが、野外音楽堂で行う演劇の背景美術を仕上げるために夏休みに川のほとりにある合宿を行うというシーンから始まる。(一応)主人公の毬子は憧れの美術部の先輩である香澄さんに合宿に誘われ、有頂天で彼女が主催する合宿に参加する。本来ならば年頃の少女たちの楽しいお泊り会となるはずだったのだが、香澄さんをはじめとする他の参加者は、彼女に何かを企んでいるような、隠しているような態度を取る。次第にただの楽しい合宿ではないことが分かってきたころ、毬子本人が忘れていた幼い頃にあった事件が浮かび上がり彼女の過去を照らしてくる。そして過去を失い、少女は大人になる。
本作のあとがきで、作者の恩田陸は「私が感じていた『少女たち』を封じ込めたいと想って書いた」と記している。その言葉の通り、本作には様々な「少女」が登場する。まだ大人と子供の奇跡の狭間をうつろう毬子、過去を持たない完成された香澄、彼女の相棒で天才肌の絵描き芳野、一足先に大人へと羽化した真魚子。4つの章を通じて彼女たちは多様な顔を見せる。無垢でいながらも自分でも把握していない秘密を握っている毬子、どこまでも独立して半身の芳野にすら内心を明かさない香澄、優れた美術家の観察眼で本質を見抜きながらも最も大切な自分の中の香澄への気持ちに気付いていない芳野、そしてとある事件がきっかけでその輪に無理やり入れられた真魚子(まおこ)。章ごとに語り手が代わり、一つの側面の形質は、語り手へと姿を変えてると主観となる。
本作には、登場人物のうちに公式に女女カップルと呼べる組み合わせが存在する。香澄と芳野だ。常に二人で行動し、二人で一日を過ごし、どこでも二人の世界を作る。互いに互いを引き立て合うようなお似合いの二人。しかし二人は望んで一緒にいるわけではない。過去を共有してしまって、もはや離れられないのだ。お互いに過去という鎖を結びあってしまったと言っても良い。しかし、少なくとも芳野の方は、共に鎖を結びあった相手が香澄で良かったと思っている。
門外漢の自分が考えるに、多分世の中のGL?百合?好きは、芳野編を大いに好むと思う。そこで繰り広げられるのは、互いに誰よりも近く、親密で、そしてお互いに内面の99%まで理解しているのに、その残りの1%が、相手への愛が本当にそこにあるのか分からないという愛の物語だ。芳野編の、今まで無意識に避けてきた香澄の肖像画を描くことで、自分の中の気持ちを形作るという展開はとても美しいものがあると思う。
ただ、自分はこの二人の関係性は処理出来ていた、と思う。友情、親愛、そして強い愛情と。自分が最も咀嚼できなかったのはもう一つの組み合わせ、毬子と真魚子の方だった。
同級生の中でも子供っぽい毬子と、級友に先駆け一足先に大人になってしまった真魚子。恋愛面でもお子様な毬子と既に大学生の恋人がいる真魚子。正反対の二人は対極に位置するからか、親友同士であった。香澄と芳野という二人と比べると、一生離れずに共にある彼女たちに対し、高校生の間は親友でも卒業したら普通に進路が離れ疎遠になり、それでもたまに会ってお茶をする、というような関係だろう。仲良しで大好きだけど、互いに混じり合う程に近いわけでもなく、恋人よりも好きというわけでもない。そう、それだけなら十分に理解できたんだ。
物語の後半、とある事情により毬子の代わりに真魚子が合宿に参加することになる。自分が一番よくわからなかったのがそこだった。毬子が事情により参加できなくなるのは分かる、でもあんな事態になったとは言え、真魚子が嫌っていた香澄たちのところに単身乗り込むようなことをするのか、と。だって毬子と異なり彼女にはなんにも過去の事件に因縁が無い。だからいくら毬子に頼まれたからって、わざわざ事態を究明するために乗り込む必要はなく、ほとぼりが冷めるまで、物語が閉じるまで放っておけばいい。しかし、彼女は乗り込んだのだ。
この機序がずっと咀嚼できていなかったのだけど、最近、もしかし自分の考えは順序が逆であるかもしれないと気が付いた。頼みを受けて乗り込まねばならないほど、本当は彼女にとって、親友は本当に大切な存在だったのだ、と。誰よりも冷静で頭が切れる真魚子であっても、いや毬子の親友の彼女だからこそ動かざるを得なかったのだと。その時、すとん、と腑に落ちた音がした気がした。
香澄と芳野の唯一無二の分かち難い強固な結びつきとはまた違った、同級生の親友というどこにでもある女子高生の毬子と真魚子の結びつきも、それはそれで一つの思春期の素朴な輝かしい感情の頂点なのだと。
便乗して書くぞ
汚いヨルクラその1。ヨルクラはSupercellとかYOASOBI的なものだったけど、こっちは美少女版東海オンエアといった感じか。主人公がガチクズなのがいかにもYoutuberっぽい。警察に捕まらないようにね。
汚いヨルクラその2。こちらはVtuber。佐倉綾音に下ネタを言わせるのが目的っぽくも見えるけど、あの人若手の頃にちんこもいじゃうからとか言ってたしな。Vtuber文化よく知らないので、いまいち何をやっているのか理解できていない。てっきりジャージにメガネのすっぴんで中の人が出てくるかと思ったら、Vtuberのガワまんまという演出だった。
「地方都市で女の子が集まってなんかやる」系。チアリーディング。P.A.Worksのお家芸。ただ背景美術はPAっぽくないポップな感じ。群馬なのにゆず。チアとパルクールなのに鉄壁スカート。別にパンチラが見たいわけじゃないけれど(短パンでも履かせればよくね?)、チアリーディングで鉄壁スカートは不自然。それ以外はよい。
こちらは鎌倉パルクール。いや、時代背景的にパルクールじゃないんだろうけど、人生ゲームとかやってるしパルクールでいいだろ。
岐阜日常ミステリ。こちらは背景美術が実写的でEDは完全実写。シネマスコープ・サイズで菜なれ花なれとは色んな意味で対象的な印象。米澤穂信と神戸守なのにところどころ西尾維新とシャフトみたいな演出を感じる。
P.A.Worksって今期3本もやっていて、それぞれ作風がぜんぜん違う。キャラは一番アニメ的なのに、背景は一番実写的。原作ゲーム未プレイなので「おお、これ鉄腕ダッシュでやってたやつだな」ってなってます。これシリーズ構成花田十輝なのね。
汚い着せ替え人形(ビスクドール)。ビスクドールからスパダリ成分抜いてキモオタカメ子成分注入した感じ。前田佳織里と鬼頭明里ってこの手のに大体いるよな。消費型オタクはどう頑張ってもカッコよくはなりません。
よくある同居ものラブコメから外して、やたら静かに質アニメ的に作ってる。ラッキースケベとかはないので、そういうのが嫌いな人も安心して見れます。ただこれ、ここから面白くなるんだろか?
ロシアのウクライナ侵攻に日本で最も頭を抱えたのはこのアニメの関係者だろう。上坂すみれがロシア語喋ってるの久しぶりに見る気がする。内容は普通のラブコメ。ヒロインがEDでJ-POP歌うのは定型。
OPがわたせせいぞう感(または久米田康治感)。安部公房全集が出てきただけで満足。普通この手のアニメの文芸部は太宰治か宮沢賢治か芥川龍之介しか出てこないから。
村上春樹なんか読む小学生なんかいないし、ガルシア・マルケスなんか読むJKなんかいない(偏見)。いや、安部公房なんか読む高校生も今どきいないだろうけど。
それらが積み重なってできたものなんだ、って感覚が培われていくのだろう。
そもそも、ある一定の教育を受けて倫理観を育み、試験を突破するからこそ
社会的信用を得られて、それが自信に繋がってるということはあるかもしれない。
ま、それだけに不正行為をすれば吊るし上げられるのは仕方のないことだけど。
組合等を作って団結する能力と意欲、そして想像力が全くないこと。
例えばアダルトゲーム業界ではソフ倫のような業界団体を作るとか
能力は無かったのかもしれないが、きちんと外部の力を借りてでもやり遂げた。
外部圧力に対抗するというインセンティブもあったのだろうけど。
「けどさ。正直、正直な話。"絵"なんてマジでどうでもよくない?」とバカにする元増田。
「いやまあ、美術館に行くとかは楽しいし。綺麗な絵を見るのは心の保養につながると思う。
昔から、才能のある人間に、金持ちが支援して作るようなものだろ、美術品なんかは。
それに無限にお金を払ってくれるほど、価値があるとなぜ思ってしまったんだ?
本当に自分が描きたいものを空想し、技術を磨き、完成させる。自分一人。腕一本で。
描くたびに評価に晒され続ける。
インターネットの出現によってそれは段違いの速度になった。
やるなら漫画か、アニメか映画か、きちんと共同作業が必要な場にしないと。
結局コミュニケーションが取れないからだまくらかされてるだけ。
描き続けてもいい。
でも、"好き"を仕事にしちゃいけない。
いずれ苦しくなるから。
あらゆることが晒され、評価され、自分の目に飛び込んでくるこのディストピアでは。
すり抜けへの呪詛があふれるのは、途中参加勢の方が圧倒的に多いのも一因だろう
長期プレイヤーと比べると引きたいガチャに復刻も入ってくるため数年くらいは微課金じゃ慢性的な石不足になるはず
もちろん微課金以下なのに推し愛などの影響で凸や餅に浮気しちゃう人が多いのもある
そのへんはコツコツプレイが重要な中華ゲーへのキャッチアップが遅れた分と自分のこだわりを貫いた分により自縄自縛してるせいで、ギャンブル性や課金圧に問題があるわけではない
すり抜け仕様がほぼ唯一にして最大のギャンブル性だからそこをなくしたほうが良心的というケチはつけられるが、PU確保の期待値・金額的にはすでに十分良心的な部類なので、(武器ガチャ仕様以外は)受け入れられる範囲だろう
俺はギャンブル性というかランダム性を完全に排除するべきだとは思わない、多くの人にとってハンドリングしやすく収束させやすい範囲にとどめて残す分にはユーザーにとってもメリットがあると思ってる
それ前提で細かい実費用や獲得数の差はあれ、現実的な予算で十分遊び尽くせることに相違はないと思う
どうしても性に合わないキャラをスキップしたり、楽しめない戦闘イベントをスキップしたりと個々で計画を調整しながら柔軟にプレイしていけばいいと思うし、そうできるだけの懐の広さはあると感じてる
そもそもキャラ引けてるか否かはゲーム体験としてそこまで核じゃないとも言える
隔verごとに過去のネトゲ前例からは考えられない規模のマップ追加がきたり、美術や音楽に意趣を凝らしたゲーム内外のコンテンツに触れられているなら、それだけで月額+αくらいは余裕で元がとれた感覚になるユーザーも多いはずだ
あまりこういう感覚を得られるゲームはなくて上位の中華ゲーやのめり込んでいるときのアイドルゲーくらいだと思うが、リアルタイム体験とかメディアミックスとかが鍵なんだろうな
日本ユーザーはガチャにばかり目を向けすぎてゲームを楽しむことに関して本質を見失ってると思う
石集めのためだけに労役のようにコンテンツを消費しようとする人の多さを見るに、悪い意味でソシャゲ文化に適応してしまった代償をまさに支払っているように見える
まあ崩壊3rdのシナリオは感動させ力に全振りしてて理解の点で読み手を置いてけぼりにしがちって点で精緻さに欠けてるのは確か
ゲーム性もスマホゲームとしては頑張ってる方だけどアクションかというと大味なキャラチェンバフどーんに終始して凝ったグラフィックでごまかしてるだけだな
でもホヨバと一括りにできるもんでもないぞ
スタレのピノコニー編や原神のスメール、フォンテーヌあたりはシナリオもマップデザインも美術も設定も音楽も過去の全ゲーム史上トップクラスといえるくらい味が濃くて精緻に練り込まれた作りだと俺は感じたぞ
そのへんまで触れてなお大味だと思う人は見過ごしてる部分が多すぎるか、細かい部分に神が宿ってることを軽視しすぎる性格が大味な消費者かどっちかだな
もしくは課金しすぎて自発的にヌルゲー化しといて大味と言ってるパターンもわりとある
全体的に大味じゃないゲームに触れたいならゼンゼロが一番いいぞ
スペースキーのキャラチェンパリィを駆使すると気持ちいいながらもアクションとしては多少簡単で万人寄りになるが
極限回避を中心に単騎でやろうとするとフロムゲー並にやりごたえのあるゲームになるし
リアルタイムにますます盛り上がっていく神ゲーと並走する喜びを一緒に味わおうぜ斜に構えてないでさ
俺は2021年の原神23年のスタレに続いてThe Game AwardのBest Mobile受賞狙える出来だと思うんだけどどう思う?
この増田、つい強い文面で否定したくなってしまったが、それは良くないと思った。
なので、文面から拾える情報を元に提案っぽいことを書いてみようと思う。
記事を読んだところ、ご両親は加齢で農業をするのも大変なような。
少し手伝いをしてはどうだろうか。
そもそも、人類は農業を始めたことにより定住し、社会を発展させることができた。
文字通り、文化の土壌であり、文化的だと考えることはできないだろうか。
規模も作物もわからないが、農業は試行錯誤の連続だ。工夫のし甲斐もあるだろう。
農業は大変だし、本業もあることだから簡単に手出しできないこととは思うが、一考の価値はあると思う。
物を選べば天井知らずだが、物を選ばなければ割と安い
・プロジェクター 5万~
スクリーンは安いのなら3万くらいからある。吊り下げとか置き型とかは環境による。でかいから置き型の場合は保管場所に気をつけろ。
サラウンドも意外と安い。ヤマハのスピーカーセットとアンプで10万しないくらいだ。
プロジェクターも安いのがあるが、ルーメン値という明るさが少ないと部屋を真っ暗にでもしないと見えないから気をつけろ。ただ、安いので試すのも一つの手だ。
短焦点は距離的に魅力があるが、スクリーンも専用のものが必要だ。
これにPS5でも繋げば大画面でBDなり配信サイトで映画を楽しめる。物足りなかったら設備をアップグレードする楽しみもある……と思う。
部屋のカーテンに気を使ったり、色々と楽しくなる……はずだ。
Amazonで検索したら自家焙煎の機械が数万から売っていた。
車で一時間半かけて行ける映画館は多分イオンモールとかだろう。
だとすれば、カルディでコーヒー豆を買うことができる。通販でも買える。
増田の望みがスタバでリモートワークしたいとかだったらすまん。
増田は車の運転ができるようだ。なら、どこか遠出するのはどうだろうか。
車と金があれば、移動できる範囲は広がるし、できることが増える。自由だ。
フルリモートがどんな環境かわからないが、日中町の方で仕事して、金曜夜になったらそのまま車で小旅行とかちょっと憧れる。
増田はデザイナーだそうだ。なら、美術的な知識と素養が高いはずだ。
せっかくだから、田舎の風景の写真を撮るとか絵に描くとかやってはどうだろうか。
今はネット上に発表する手段が沢山ある。暇つぶしにはなるだろう。
しかし、都会というのは歩いているだけ色んな情報が入って来て行動の「きっかけ」を掴みやすい環境だというのはわかるつもりだ。
残念ながら、田舎にはそういうのがない。その刺激の少なさが良い面でもあるのだが、都会に慣れた増田には退屈に感じることだろう。
都会と田舎で生活のギャップはどうしたってある。あとはどう折り合いをつけれるかだ。
良い機会だから「都会ではできなかったこと」「若いころやりたかったこと」に思いを馳せてはいかがだろうか?
ここ数年でストーリーが抜群によかったのは俺の触った中ではスタレのピノコニー編、原神のスメールとフォンテーヌのメイン、あと原神のキャラクエいくつかだな
分かりにくさを脇におけば崩壊3rdの古の楽園編もかなり良かったがアニメ補正が強いな
こういうのはリアルタイムでやってるかどうかで感動を肉付けしてくれるサブコンテンツ郡との連結度が段違いなので
一気に通しでやって評価できるかっていうと、はっきり言って高評価してる人たちの受け取った感動の5割も伝わってないと思う
初期から追ってない運営型ゲームに骨太のシナリオ体験を求めることがまず間違ってるので
まだ遊ぶ気力があるなら昨日はじまったばかりのゼンレスゾーンゼロを強くおすすめするぞ
こっちはコメディ色が強くわかりやすいシナリオが添えられててメインディッシュはコンシューマを超えるクオリティのアクションなんで
Twitterをダラダラ眺めてたら、有名なデザイン賞を獲った自慢をしてるポストが流れてきた。
なんか見覚えがある名前だったんだけど、思い出したぞ。
高校の時に同級生だった男で、当時美術部で結構イケイケだった俺をライバル視してたやつだ。
キョロ充を絵に描いたようなやつで、あちこちに顔出しては誰も聞かない自分語りをするやつだった。
卒業が迫ってきて、自分は芸術系の大学に進むことになって、そいつはどっかの大学が決まって「俺も運がよければ同じ大学行ったのに」とか言ってきた。
卒業文集のレイアウトとか表紙を先生からお願いされてて準備してたんだけど、そいつが「俺にやらせてくれ」って勝手に先生に直談判して、先生も俺がOK出したものと勘違いしてそいつが全部担当することになった。
結果、まぁそれは酷いもので、なんでこんなものを作ったんだレベルだった。
挙げ句の果てにクラスのページではそいつが写ってる写真ばかり載っていて、俺の写真は一枚もなかった。
まさかTwitterでたまたま見ることになるとは思わなかった。
過去のポストを見ても、謙虚そうに見えてめちゃくちゃ自慢してる感じは当時から全く変わっていない。
その仕事の成果はお前だけやった成果じゃないだろう、って突っ込みたくなる。
でも作品を見ると、悔しいことに結構いい、というかめちゃくちゃいい。
マジで悔しい。
やっぱり、人の仕事とかあんまり他人がどう思うかは関係なく自慢した方が、次に繋がる世界なんだろうか。
俺も今同じような仕事をしているけど、明らかにそいつの方が上を行ってるのは間違いない。
ああ悔しい。
ブコメのカップラーメンの喩え本当に頭悪くて、元増田の美術品の話は「専門家にしか分からないのが最高の美術と評価されてるのはおかしくないか?」って話なのに、カップラーメンの喩えは売れてる数の話でしょ。目茶苦茶高いフランス料理のフルコースはただ提供の機会が少ないだけで売れてないわけじゃない。素人が食ったってちゃんとカップラーメンより美味い。無理に食べ物に喩えるならキャビアやフォアグラだろうけど、これはちゃんと“珍味”と評価されてる。(世界一珍しいから世界一美味いなんて誰も言ってない。)
いろんな美術の楽しみ方があっていい
自分で楽しむためならば
美術館デートで彼女にええかっこしたいとか、ギャラリーのレセプションで起業家仲間にマウントとりたいとか、そういう煩悩がはいってくるとそうはいかなくなる
美術品の良さって言われると国語の授業の作者の気持ちの答えを思い浮かべてしまう
作品を見て私はここに興味惹かれましたとかこういうところが好きですでいいと思うけど
教科書的解答じゃないとニワカ扱いされるし素人扱いだし見る目、センスがないと言われる
作品の良さを評価するのに作られた経緯とか込められた文化を知らないと理解できないものもあるだろうけど
そういうの知らなくてもここが良かっただけでもいいと思う
美術品でもその辺のオモチャでも、「一見して十分に価値が分かる物」は実は少ない
たとえば、手作業を効率化する革新的な調理用具があったとして、普段から料理をしていないとその価値が分からない
たとえば、ポケモンのレアで価値が高いカードが目の前にあったとして、まず「価値がある」ことを知っていないとそれは分からないし、そもそもゲームやアニメでポケモンを知っていなければ、欲しいとも思わない
美術品もそれと同じというだけ
美術の歴史と物語と取引の実績があり、その積み重ねを理解して紐解かないと価値を理解できない
では、なぜ美術品に関してだけは、それが「一見して分かる」と勘違いしてしまうのか
この余白はそれを書くには狭すぎる
「広く大衆がわりと感動する」を目指す人もいれば、「一部の人にめちゃめちゃ刺さる」がいいと思う人もいる。
人それぞれで、どっちの方が本当の芸術だという話ではない。
美術では後者が流行ってるけど、映画は前者寄りで、音楽はどっちも結構認められてる感じかな。
美術の場合、前者路線の鉄板は本物そっくりに描くことだったけど、
写真が発明されて以来「本物そっくり」が別にすごいことじゃなくなっちゃったので、
「誰が見ても素晴らしいと思えるもの」かー。そんなのあったら見てみたいよな。
自然の絶景は感動するけど、それを完璧にキャンバスに写し取っても「ふーん、で?」って感じになるよな。
いわゆる現代アートってもんがどうしようもない袋小路に入り込んで何が美なんだかようわからんみたいになってるって意味なら同意
美術品じゃなくてよくね?