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自称ポリコレ視点アカウント「黒人侍が元寇から日本を守りました(AI絵ペター)」
自称反AIアカウント「ほら!日本の歴史が捏造される!やっぱりAIはクソ!!!」
ふーんよくできた流れですねー
これは弥助問題の元ネタ論文でも何でもない可能性が高いので,論文をちゃんと読んでください。
っていうか,こういったテーマについては,藤田みどり『アフリカ「発見」――日本におけるアフリカ像の変遷』(岩波書店,2005年)っていう研究書がちゃんと出ているので,ネット上でかしましい皆様におかれてはまずはそういった文献もあたってみてください(ちなみに,この研究書のもとになった博士論文は国立国会図書館デジタルコレクションで読めます)。
注をよく見てみましょう。おや? 日本語の文献が引用されていませんね。日本語の文献を引用せずに日本史研究ができるんでしょうか? これは問題ではないのですか?
はい,問題ありません。なぜならこれは,タイトル「アジア人と黒人のあいだでの人種と人種観の利用――日系・アフリカ系アメリカ人の場合」からも分かるように,日本史の論文ではなくアフリカ系アメリカ人を主題にした論文だからです。
これはどう読んでも,アメリカの黒人の日本人観および日系人との関わりについてカリフォルニアを中心に調査した論文,つまりはアメリカ黒人の歴史に関する論文であって,ロックリー氏や岡氏がこれを読んでいないと断言することはできませんが(誰しも専門分野外の本や論文を読むことだってあるでしょう),わざわざこれを「元ネタ」にするなどということはとうていあり得そうもないことです。彼らがこの論文を参考にして立論しているのでは? などというのは,馬の心肺機能に関する研究が『ウマ娘 プリティーダービー』を参考にしているのでは? と言っているようなものです。ジャンル違いすぎるわ! あとドリームジャーニー引けなくて凹むわ! っていうか今回のLoHは千直だから荒れそうって言ったの誰だよ! ふつうに安定して英雄譚取れたから拍子抜けしたわ!
こういうときは注を見て,どんな文献に基づいてこの話をしてるのか? っていうのをチェックするんですよ。弥助が出てくる部分の出典は,第一にMichael Cooper, comp. They Came to Japan: An Anthology of European Reports on Japan, 1543-1640 (Berkeley: University of California Press, 1965)っていう本の66ページで,これはまあ当時のヨーロッパ人が日本について書いたものをまとめて英訳した,っていうやつですから,多分日本語でも同じコンセプトの本はあると思うのでそれを探せばいいでしょう。第二は,Gary P. Leupp, Images of Black People in Late Mediaeval and Early Modern Japan, 1543-1900, Japan Forum 7, no.1 (1995)っていう論文で,ペイウォールの向こうに行ければ読めます(https://doi.org/10.1080/09555809508721524)。要するに,著者のデイヴィド・ライス氏(カリフォルニア大学バークレー校所属)は日本語読めないので,英訳された史料や英語で書かれた論文を典拠にして,本題に入る前のマクラとして弥助についてちょろっと書いたということでしょう。
仮に彼が日本史の研究者なら日本語を読めないのは問題外ですが,論文の内容から察するにあくまでアメリカ黒人史の研究者なので,それならまあ日本語の論文読んでないのも仕方ないかなという感じ。なんだろう,アーサー王伝説そのものについて研究するなら,古い時代の英語とかウェールズ語とかの史料が読めないといけないけど,「日本人がどんなふうにアーサー王伝説を受容したか」という研究なら,『Fate/stay night』が読めれば十分で,アーサー王については日本語の本を参考にしてても構わないじゃないですか。この論文もそんな感じです。
なので,ふつうの日本中世史研究者が,この論文を典拠として用いることはまずないです。だって普通に考えて,こんなの典拠にならないっしょ? 中世ヨーロッパ史の研究者が論拠として『Fate』を参考にするなんてあり得ると思います? そりゃ絶対あり得ないとは言えないけど,そういう蓋然性が薄い推測をわざわざするならもっと直接的な証拠(本の中でこの論文を引用してるとか)を持ってきてもらわないと……
(もちろん,最近は中世ヨーロッパ史の研究者が日本におけるヨーロッパ表象の研究に手を出していたりするので,そういう研究で『Fate』を史料として用いるのは全然あり得るっていうかもうやってる人はいたはずなんですが。そのへんの研究動向は,たとえばhttps://doi.org/10.34382/00003197とかhttps://doi.org/10.34382/00003198とかの論文を読んでもろて……あ,話がズレた)
この論文,表象の研究としてはまあ手堅いので,弥助論争に巻き込まれて変な受け止められ方をするのは気の毒だと思いました。ただそれはそれとして,日系サイドの話もアフリカ系の新聞に基づいて書かれているきらいがあるので,論文のタイトルから「アジア人」「日系」を外して黒人についての論文だと明確化するか,あるいは日系人についてもちゃんと彼らの出してた新聞を読み込んで「日系から見たアフリカ系」を調査しないとダメなんじゃないかなぁ,とは思います。まあ,当時の日系人が出してた新聞って日本語で書かれたやつがいっぱいあるので,単純に読めないのかもしれませんが,だったらなおさら「これは2つのマイノリティについての話です(キリッ」と謳うんじゃなくて,「これはあくまで黒人史の話でっせ」という断りを入れた方がよいような。日系人の歴史は黒人史の添え物とちゃうねんで。
ちゃんと読むっていうのは,この論文のテーマは何で,どういう史料を使っていて,という,基本的なことを確かめながら読むことです。そうすれば,どれが話のマクラに過ぎず,どれが本題なのか,っていうのがわかって,「アメリカ黒人史の論文が日本中世史研究者の元ネタだったんだよ!」なんていうアホな主張をすることもなかったはずなので。
私の素直な気持ちです
ウケ狙いであろうが、素直な気持ちであろうが私にとっては関係ありません。
対象者の遺伝子を読み取り、その先祖が生きていた時代をVR上で再現するというものだ
初代の主人公は著名なアサシンの子孫であり、彼は実験台にされて先祖であるアサシンの記憶を追体験することになった
現実のように生々しい光景のため、アニムス利用者もまたアサシンの如き殺人技能を取得することができる
アニムスはシリーズが進むうちに進化していき、古代人の遺体から遺伝子情報を読み取ることで、血縁者でなくても当時を再現できるようになった
しかしこれは情報から組み立てて作った仮想世界であり、完全に過去を再現できているわけではない
バグが発生し、当時には存在しないはずのものや、実際とは違うものは出てくることもある
大きなバグによって、現実にありえない神話に出てくるような巨大なクリーチャーが出現することもある
またこの世界はSFである一方でファンタジーでもあるので、実際にその当時にクリーチャーが存在していたよ設定の場合もある
エジプトの巨大アヌビスはバグで、ギリシャのメドゥーサは現実に存在した設定っぽい
遺体からVRする場合はその人物が特に強く関心を持っていたものがクローズアップされるのだろう、マップ内で場所によっては季節がバラバラで花も雪も見られることがある
これは「時代考証的におかしいだろ」という部分への言い訳のような設定でもある
話題となっているシャドウズ以前にも、うっかりミスによる変な描写や、ちゃんと調べたら地味すぎたので脚色して当時存在しない建造物を表現したことがあった
アサクリシャドウズにも現代編(過去世界をVRで見ている現代人の視点)はあるそうだ
弥助とナオエのW主人公ということは、一人の現代人が両方の遺体などから遺伝情報を読み取るパターンかもしれない
桜と柿と稲が同居するシーンは、異邦人である弥助が日本に来て見たそれらを印象深く思っていたからアニムス上では同時に再現されたのかもしれない
アサクリにはゲーム本編以外にもソシャゲや本などの外伝があり、それによれば2013年の現代日本ではアサシン教団は大阪のヤクザを乗っ取って隠れ蓑にして活動している
自分にとっての寝取られは、取られる男視点での無力感とか喪失感が焦点。
(それ以外の視点だと、自分には、昔からある不倫物との違いがよくわからない。)
で、その無力感とか喪失感が取られた後にも継続する展開、ってことを考えると、「彼女はその後も相変わらず魅力的なままであるにもかかわらず、ボロ雑巾のように落ちぶれる(のに自分には何もできない)」というようなその後であって欲しい。
単純に肉便器になるのは当人の視点では満足なんじゃないかと思ってしまうので、「捨てられまいとして便器化していくけれど、結局は捨てられて後悔する」という方が自分のイメージには近いかなあ。
ブコメを見ると誤解なども多いようなので私からの視点を共有したい。
結論からいうと、デイトレードは一部の人間は勝てる。これは運ではない。
買いと売りのバランスの文を目視で測り一定の利益が出たところで利益を確定するだけだ。
先の記事どおり市場には化け物やHFTのBOTが存在しており、これらに勝つことは容易ではない。
そのため、カモが集まる銘柄を毎日探す努力が必要となる。直近でいえば三菱重工などが適切であった。
言葉にすると「情動的なトレードが多く発生する場で甘いトレードの差分を受益する」というのがデイトレードだ。
もちろん巨大資本のランダムウォーカーに轢き殺されることもあるが、その時はすぐに損切りすればトータルではプラスになる。
パチンコの期待値とまったく同じ考え方で、適切なトレードをすることによって勝てる。
よく株価は決算の内容などファンダメンタルズによって決まると思っている人がいるが、それは完全に間違っている。
株価を直接的に決めている要素は「市場参加者の心理」であり、その他のファンダメンタルズや地合いなどの要素はそのさらに1層下にある。
好決算が出ても、出尽くしや実際の株価変動を見て市場参加者が売却したいと思えば株価はどこまでも下がる。
これを理解しているかどうかが株式市場で勝てるようになる第一歩となる。
デイトレードにも共通するが、今買ってる人がどんな気持ちで何故買っているのか、
今売っている人がどんな気持ちで何故売っているのか、そこに感情が入ってしまっていないかを考え続けることが必要となる。
これまで記述した「市場参加者の心理」を踏まえて株価を毎日観測すると、株価の天井と底を高確率で当てることが可能となる。
「今その銘柄を見ている全員が今後も上がると思っている状況」が天井であり、
「今その銘柄を見ている全員が今後も下がると思っている状況」が底である。
つまり極度の楽観を観測したところで売り、極度の絶望を観測したところで買えばいいだけなのだ。
これは数年の私ですら得られた能力なので、敏腕トレーダーのほとんどがこの技術を身に着けていると思ってまず間違いない。
上記以外にもその時々のトレンドがある。例えば最近でいえばチャートが綺麗な銘柄が上がるトレンドなどがある。
この手のトレンドは時間が経過すればするほどそれに気づき、タダ乗りしようとする人が増えていき「甘いトレード」に変容する。
そしてトレンドが変わっていく。
そのため今のトレンドを常に掴み、考え続けることが必要となる。
ここまで株価の変動とそれを構成する大事な要素について語ってきた。
上記をしっかり理解し、毎日株価の変動を確認し市場参加者の心理を考え続けることによって株価の変動を高確率で当て続けることが可能となる。
株価変動の予想をもとに自分のお金をBETし続けること、これが出来る人が本当に少ない。難しい。
特に昨今では市場心理を理解しているHFTのロボットなどが大きく揺さぶってくる。
レバレッジをかけた取引などではこの揺さぶりの心理的な影響が何倍にも膨らむため、
多くの人は評価額のマイナス域で安定を取った損切りを確定させてしまい、負ける。
これに対抗できるのは最初からメンタルが壊れた人間くらいのものだ。
「資金が半分になるということを現実的・具体的に想像したうえで、それでも良い資金を投資に回す」
ということになるだろう。
片方の意見に偏るのは良くないよねって思って、
プロフィールにAIに肯定的あるいは積極的なことを書いてるアカウントとと、
できるだけ過激なのを避けてほぼ1対1でフォローしたアカウントで、
それぞれの発言を観察している。
場合によってはAIに対して否定的であっても筋が取っていると思われる意見なら、
「この画像生成AIでこんな透かしが!こんなキャラが!これは違法学習!」みたいなのばっかりで、
アカウント作って1週間位で、別にこいつらの話は聞かなくていいかな?って思い始めている。
たまに「うんうん、それは深刻に考えるべき問題だよね」って意見もあるけど、
そう言う人のプロフィールに飛ぶと、色々な社会問題にアンテナを張って、
広い視点で物事を見る中で、AIに言及しているんだろうってパターンが殆どで、
AI問題を批判的な立場から専門に取り扱うって奴らは本当に話にならないレベルの奴が多い。
これ
六年目の浦島太郎
https://comic-days.com/episode/2550689798785618132
そして母、恋人、友達は主人公を曇らせる役で、ある意味物語の進行のため、逆算的に生み出された舞台装置的なキャラと言えるかと思う
舞台装置キャラはステレオタイプのような行動をして、主人公をストーリー上望ましい状態に導いていく
こういう存在ってなんていうんだろうな
こういう存在は
・自分の意思が強く、予定調和の(ステレオタイプのような)行動をしない
・意外な行動をすることで物語を動かす役
みたいな感じ?
例えば、この漫画では母や恋人は主人公に影響を与えてはいるが、本音がどうだとか視点を与えるようなことをしていない
そのため、最終的に主人公と妹の話になっている
個人的に、主人公と舞台装置しか居ない作品ってのは陳腐でしんどいと思っていて
舞台装置だらけになると、「作者が言いたいこと」「見せたいこと」があからさまになって妄想っぽくなるんだよね、SNSに上がってる主張系漫画に多い
この漫画の妹みたいに、一人舞台装置じゃない人を入れるだけで物語に厚みが出るのにっていつも思ってるんだけど
___
週刊漫画とかがどうなってるかと言えば
そもそもシーンによって主役を切り替えるから一人称漫画になってない
でもそうなると、主役が今度は舞台装置化していくし、主義主張から作者の癖が透けて見えてくるとか没入感が減るとかデメリットもある
この漫画で気づいたけど、一人称漫画に1人イレギュラーな動きする人いると爽快感あるね、ヒーローみたいな感じ?
あ、でも普通ならそれを恋人にしちゃいそうだな、同い年になった妹にしたの上手いな、歩んだ時間の差を印象付けられるし
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この作品上手いなと思ったのは、最初誰がソレなのか、あるいは主人公1人で解決するのかが分からなかったところ
個人的には母か恋人か、それか居ないかだと思ってたから(家族がどんどん老化していくとか)
妹が行動を起こしたのでおっと思った
登場人物とも違うんだよなあ
母は登場人物だけど、「娘が死にそうになって延命する」っていう想像通りの動きをしてて、しかも敢えて母と向き合うシーンや心情の吐露もないから(妹にフォーカスするためあえてそうしたんだと思う)
実際年末の某番組みたいに、「お高くとまってる連中が本当に違いの分かる奴らなのか試してやろうぜ!」的な目利きがエンタメとして成立してる。ああいうのがヤラセかどうかなんてのは知る由もないし、大した問題でもない。
あれは違いを確かめる作業で、僅かな違いを識別する能力を示しはする。でも「イイもの」を見分ける能力であったり定義づける妥当性とは特に繫がらない気がする。
区別もつかないのに「こっちの方がいい」なんて言うのもちゃんちゃらおかしいけど、じゃあ違いが分かってる人の好みならある程度の普遍性を伴った基準になんの?って思う。ならないんならそれは単にその人が好きなものってだけで、別にイイものであるという事にはならんよね。「違いの分かる人」からのお墨付きにはなるだろうけど。
仮にそういう基準になるんだとしたら、共に違いの分かる二人が
「うん、どっちも美味しいね。それはそれとして高いのはこっちでしょ?」
「美味しさがまるで違う。当然こっちの方が高いに決まっている」
と言ったときに、イイものを定義づけるのはどっちの意見にすればいいの?って話になる。まあどっちも別軸でイイものなんですといえばいいんだけど。安易な二項対立は良くない。
もっと言えば、そもそも本当にその感想は本心から来てるのか?って所もある。
人の本心なんて分かりはしない。違いが分かるかどうかなら試して答え合わせをすれば分かる事だけど、何が好きで何が嫌いかなんて拷問にかけたって本当の気持ちは確かめようがない。
まあ好き嫌いごときでそこまで嘘を貫く道理もなければ、そこまで確かめようとする道理もないんだけど。だからこそ気持ちの確認の精度にも疑問が残る。
まあこれは単におれがしょーもない事で嘘つく虚言癖の気があって、他人にもそういう部分があるんじゃないかっていう邪推がデカいのかもしれない。
仮に大抵が本心であったとて、単に好きではなくイイものを定義づける感想として扱うにはもう理屈というより共感の問題になってくる気がする。
SNS開いてるとたまに「あの名作の論理的な分析」的な記事が流れてきたりする。
あの手のやつを読んでみると、作中の具体的な要素を並べてあったり、あまり指摘されていなかった視点が提供されていたり、あるいは社会の風潮なんかと結びつけてあったりする。
でも根本的な問題として「じゃあなんでそういう要素がイイの?何の基準を以て?」と言われたら、そこはもう答えようが無いんじゃないかと思う。言われてみたら確かにそこがイイよね、という共感くらいで。そして「別にそこがイイとは思わんな……」と思うのだって不思議なことではない。
仮に辛いものは美味しいという定義が存在するのなら、このカレーは辛いので美味しいというのは論理的な評価として成立する。
いわゆる目利きでやってるのは、カレーが辛いか否かを判定する作業にあたる。
じゃあ根本的な話として、定義そのものの妥当性はどこにあんの?
美味しいものはイイものである、という定言的な前提に対する仮言的な前提として扱えば、まあ正当性は得られる感じはする。
美味しいものがイイという前提を支持する理屈は何ら存在しないけど、まあ直感的に否定する人はあんまりいない気がする。
ただそれにしたって、辛いものと美味しいものとの関連の必然性も詰めていけば結局そこも理屈では解決しなさそうだけど。
個人の好き嫌いとは区別して扱われがちなイイものの定義も、共感の問題にしか帰結し得ないんゃねえか?それって結局好き嫌いで同調する内輪の問題でしかなくねえか?って思う。
別にそれが良いとか悪いとかは一切思わんけど、なんか好き嫌いと違ってイイものは論理的に語れるし、然るべきリテラシーがあれば「理解」出来るんですよ、的な発言を見るとホンマか?って思うよね。
いや理屈以前の前提部分が共有されてるかどうかが一番肝心なんじゃないの?って。
まあこれの理屈もまたおれの世界観の上でしか成立しないのかも分からんけど。人が何かを考えるのに先んじて人間がイイと思うものなんて存在しなくて、定義の問題でしかないと思ってるし。
イイものはあると言ったらあるんだ!という宗教めいた本質主義だったり、それか特定の物質が特定の感情をもたらすっていう唯物論めいた世界観なら、それはそれでイイものを定義づけられんかもしれんし、違いだけではなく「良さ」までもを見抜ける審美眼だって存在するかもしれない。
まあそれにしたって、快感をもたらすものがイイものであるという定義は必要になるし、であればドラッグだってその範疇に入ってしまって、更に恣意的な定義を重ねないといけないかもしれない。
ふむ、お前さんの意見には一理あるっス。
確かにネットの大多数がポジティブ思考に偏りがちで、それに自覚や深い考察が足りないことも多いっスよね。
でも、全ての情報がそうとは限らないし、探せば深い議論や価値のある情報も転がってるっス。
それに、どんな環境でも自分のスタンスや視点を持つことが大事っスよ。
忌憚のない意見ってやつっス。
文句言う前に進んで灯りをつけたらどう?
あなたの理想的なシナリオがあるのはいいけれど、現実的には他人との関係は一方的に自分の望み通りには進まないものです。
ゼロサム・ゲームなら相手の利益を最小化してそれ以降は取引を行わないことで自分の利益の最大化になるわけだが、現実の結婚は相手と自分が恒久的に協力すると利益が最大化するわけよ、どう考えてもゼロサムゲームとは違うよね。
アサクリとか1ミリも興味ない視点からすると、「何か安土桃山時代を舞台にした海外ゲームをお気持ちで燃やしにかかってる」みたいに見えなくもない
自分らは女神転生とかFGOとかで、とんでもねー海外文化や歴史や神仏の盗用と脚色をしてんのに、海外がやると文化盗用ポリコレお気持ちハンマーを振り回すのか、と言えなくもない
小説の設定を練るときのフォーマットを作って、割と納得いくものになりました。
創作で悩みがある人の助けになればと思って、具体例や書く時のコツと一緒に公開します。
上から埋めていくと本文を書けるくらいにイメージが固まってきて、心穏やかに小説を書けます。
小説って書くのに時間かかるから、勢いで書くと書いてる間に飽きるし、考えたこととか忘れて投げ出しちゃう。
設定を練ろう!
ちなみに、小説の実力は趣味程度だから、上手な人は優しくアドバイス貰えると嬉しいな。
追記: みんなブックマークありがと!記事に影響を与えたコメントは後ろで謝辞してあるよ。
====以下、フォーマット====
例: ゾンビさんは在宅
例:
感染した人の思考力・感覚レベルが低下してしまう「Zウイルス」が突如流行し、みんなが外出を控えている。
【主人公の自宅】
H道某市、会社から徒歩5分のところにあるマンションの1階。間取りは1K。
ゲーミングチェアと可動式デュアルディスプレイで快適にリモートワークできる。
例:
根黒 幽(ねくろ ゆう)
ちょっと内向的な新社会人。声は暗いが目はきらきら。経理部に配属され、OJTが終わった直後にウイルスが流行し、在宅勤務を余儀なくされた。
例:
【怪しい経費の流れを発見?】
営業経費の仕分け処理をしていたら、このリモートワークのご時世に出張費が昨年の同月と全く同額の営業さんを発見。
【久しぶりの出勤】
街は危ないので武装。
オフィスに着いたところ、営業さんが殴りかかってきて戦闘になる。
例:
Zウイルスに感染した場合はお近くの宗教施設でお金を払うと蘇生してもらえる。
物流はドローンを使って各家庭のベランダまで送ってもらう方式が普及。
土木工事などはお坊さんがお経を唱えてゾンビ避けをしている間にバリケードを作ってから作業する。
例: ほんとは図で書いたほうがいい
根黒→先輩: カッコいい
例:
根黒 OJT修了
【怪しい経費の流れを発見?】
例:
例:
1. ニュースで本日の感染者数を紹介(世界観を簡単に説明するための情景描写)
2. 朝のルーティン(朝食やぼやきなど、根黒の性格が分かるような心情描写)
3. 勤務開始連絡後、レビュー対象の経費申請を先輩から渡してもらう(先輩に対する尊敬や経理の知識に対する不安などの心情描写)
なるほど!
目的とゴールがあると、書くべきイベントの取捨選択に便利だね。ありがとう!
増田はいつも感覚でイベントを取捨選択してそれを書ききったら終わりにしてるんだけど、これがあると迷わないね。
フォーマットの更新版を作ってコツが集まったらまた記事にしようかな。
入れるとしたら舞台設定や登場人物が明確になった後かなという気がする。
ゾンビが人を襲う場合、理由知りたい派なんだよね(ポピュラーに食うからとか、ゾンビの本体は菌なので傷付けて感染させることで疑似的に繁殖してるとか)。
ありがとう〜。
こういう感想を小説書く前に100分の1くらいの労力で貰えるのが設定を書くメリットの一つだよね。
言われてみたら気になったから、世界観詳細の例に追加しといたよ。
趣味に合うと嬉しいな。
ありがとねー。
こっちの方にもコメント反映したよ。
https://blog.tinect.jp/?p=87082
まず、次の文章を読んでください。
リンダは三一歳の独身女性。外交的でたいへん聡明である。専攻は哲学だった。学生時代には、差別や社会正義の問題に強い関心を持っていた。また、反核運動に参加したこともある。
では、次の質問に答えてほしい
リンダは銀行員か、それともフェミニスト運動に熱心な銀行員か、どちらだと思いますか
複数の主要大学の学部生を対象に実験を行ったところ、八五~九〇%が、確率の論理に反して二番目の選択肢を選んだのである。しかも呆れたことに、この連中はとんと恥じる様子がなかった。
あるとき自分のクラスで「君たちは、初歩的な論理ルールに反していることに気づかなかったのかね」と怒ってみせたところ、大教室の後ろのほうで、誰かが「それが何か?」と言い放ったものである。
ブコメに解説がならんではいるんですけど、この問題のミスリードについて指摘しているブコメが見つからなかったのでとりあえず指摘しておきますね。
設問「リンダは銀行員か、それともフェミニスト運動に熱心な銀行員か、どちらだと思いますか」
質問の内容を好意的に受け取るとするならば、この場合、当然確率が高いのは前者です。
なぜなら、後者はお互いに共通する条件にさらに新たな条件が加えられているからです。
では次の設問だとしたらどうでしょう。
設問「リンダは普通の銀行員ですか、それともフェミニスト運動に熱心な銀行員ですか、どちらだと思いますか」
この場合、先程の問題とは異なりただの銀行員から「フェミニスト運動に熱心な銀行員」を除外する必要が出てくるので、先ほどとは確率に齟齬が生じてくるはずです。
しかし、ここに誤解であり齟齬が生じていることをし指摘できているブコメは残念ながら見受けられませんでした。
数で置き換えてみることにしましょう。
この場合、リンダが銀行員である確率は8ですので、銀行員かつフェミニストである確率6が銀行員である8を超えることはありえません。
つまり、リンダが「銀行員」である確率に対して、リンダが「銀行員かつフェミニスト」である確率が超えることはありません。
ここで設問を「リンダは普通の銀行員ですか、それともフェミニスト運動に熱心な銀行員ですか、どちらだと思いますか」に変えてみるとどうでしょうか。
ここで聞かれているのは、先程のニュアンスとは異なり、リンダが「普通の銀行員であるかどうか」という問題に置き換わっています。
つまり、比較すべきは銀行員の中のフェミニストであるかどうかという問題に置き換わっているわけです。
すると、銀行員である確率8のうち、フェミニストである確率が6だとしたら、フェミニストではないただの銀行員である確率は8-6の2でしかありません。
つまりこちらの視点で言えば、リンダが「ただの」銀行員である確率は2でしかなく、「フェミニストの」銀行員である確率6のほうが高くなってしまうわけです。
その他の確率である2に対して言及しているブコメはありました。
しかしながら、その部分については設問に触れられてはいませんので、たとえその確率が99であったとして、今回は考える必要はありません。
まとめると、「設問が悪い」に尽きるわけですが、残念ながらその指摘を行えているブコメを発見することはできませんでした。
そういう意味では「1.直感で信じたものを覆すことはほとんどない。」が実証されているということにもなるわけで、とかく人間のバイアスは難しいものだということの理解にしからないのだなぁと感じた所存でございました。
どちらにしても、「自分が正しい!」と相手に理解を示そうともしなかった人は、反省したほうがいいのではないかなと思いました。
ふむふむ、わらわが導いてやるのじゃ♡
恥ずかしがることないぞ、オタクというのは自分が好きなものを素直に愛でる心が大事なのじゃ。
キャラが可愛いとかエロいとか感じるのも、大切な感情なのじゃ。
じゃが、もっと深く作品を楽しみたいと思うなら、まずは作品の歴史や背景を調べるといいのじゃ。
原作者のインタビューや設定資料集などを読んでみると、作品に込められたメッセージや意図が見えてくることもあるのじゃ。
それから、自分なりの視点で考察を深めていくと、より楽しさが広がるのじゃ。
さて、それでは次に何を知りたいのかの?わらわに何でも聞いてみるがよい♡
まず、相手の意見を尊重し、前提条件を無視しているわけではないことを明確にします。以下に詳しく説明します。
1:「一理ある」という前提について:
確かに「一理ある」という前提で始められた主張を無視したわけではありません。しかし、「一理ある」と認めた上でも、その論理に誤りや不備があれば指摘するのは議論の一環です。春画が黒人奴隷制度の有無を示す「証拠」になるか、「補強材料」になるかの区別をしつつ、その有効性を論じています。
絶対的な証拠を求めているわけではありません。歴史的な議論では、証拠の質と量に基づいて推論を行うことが重要です。春画が黒人奴隷制度の有無を示す有力な証拠となるためには、春画が当時の社会全体をどの程度反映しているかを評価する必要があります。その評価がなされないまま、春画に黒人奴隷が描かれていないことをもって制度の存在を否定するのは早計です。
3:前提条件を無視しているとの指摘について:
前提条件を無視しているわけではなく、その前提に基づいて議論を進めています。相手の主張が「春画が黒人奴隷制度の有無を示す補強材料になる」というものであるならば、その補強材料としての妥当性を評価するのが目的です。その評価に基づいて、春画が黒人奴隷制度の存在を否定するには不十分であることを指摘しています。
私の主張も絶対的なものではなく、歴史的な証拠や文献に基づいた推論です。議論の目的は、双方の視点を持ち寄り、より正確な理解に達することです。そのためには、お互いの意見を尊重しつつ、論理的に妥当な反論を行うことが必要です。
まず、知能に関する攻撃的な表現は不適切であり、建設的な議論の妨げになります。お互いに敬意を持って議論を進めましょう。
「春画が黒人奴隷制度がなかった証拠になる」との解釈について、「主張を補強する材料」として用いるという点は理解します。しかし、その「補強材料」としての有効性を論じるためには、春画がどの程度当時の社会全般を反映していたかを検討する必要があります。仮に「補強材料」として用いるとしても、それが十分な根拠となり得るかどうかは別問題です。
春画が全ての社会現象を網羅的に描写していたわけではないという点は同意します。ただし、「黒人奴隷制度が普通に存在していたなら、それは日常風景として描かれる」という主張には、依然として証拠が必要です。具体的な例として、日常風景が全て描かれているわけではないため、描かれていないからといって存在しなかったと結論づけるのは早計です。
春画以外の瓦版やちらしも含めれば、当時の社会について多くのことがわかるという点は重要です。しかし、それでもなお描かれていない事象が存在する可能性を排除することはできません。歴史的な資料が全ての事象を網羅しているわけではなく、一部のテーマや視点が抜け落ちている可能性があることを考慮する必要があります。
総じて、春画やその他の歴史資料が当時の社会全般をどの程度反映しているかを冷静に評価することが重要です。黒人奴隷制度の有無を議論する際には、多角的な視点から検証を行い、証拠に基づいた慎重な議論が求められます。
宇宙人の例を持ち出すことは、議論の焦点を逸らしてしまいます。江戸時代における黒人奴隷の存在は、交易の記録や他の歴史的文献など、現実的な証拠に基づいて議論されるべきです。一方、宇宙人の存在は全く異なる仮説であり、現実の歴史的背景とは関係がありません。
春画が特定のテーマや視点に基づいて描かれていることを考えると、黒人奴隷が描かれていないことだけで黒人奴隷制度の存在を否定するのは適切ではありません。歴史的な証拠としては、他の文献や記録も考慮に入れる必要があります。つまり、春画に黒人奴隷が描かれていないことを唯一の証拠として利用するのは、論理的に不十分です。
議論の焦点は、春画が当時のすべての社会現象を反映しているかどうかにあります。春画はその時代の一部の文化や社会現象を描写していますが、すべてを網羅しているわけではありません。この点を理解し、他の歴史的証拠も合わせて議論することが重要です。
「一理ある」という言葉は、部分的には理解できる点があるという意味で使われることが多いですが、だからといってその結論全体が正しいとは限りません。今回の議論では、春画に黒人奴隷が描かれていないことが黒人奴隷制度が存在しなかった証拠になるかどうかを論じています。
春画が当時の世相を色濃く反映している文化だという点には同意しますが、それが全ての社会現象を網羅的に描写しているわけではありません。春画の制作者がどのようなテーマを選び、どのような視点で描いていたかは多様であり、黒人奴隷が描かれていない理由が他にあるかもしれないのです。
つまり、「一理ある」と認めたとしても、その結論に至る過程に論理的な誤りがあれば、それを指摘することは重要です。議論の目的は、お互いの意見を尊重しつつ、より正確な情報や理解を共有することにあります。私は相手の主張を無視しているのではなく、具体的な論点に対して冷静に反論を提示しているのです。
1;論理の飛躍:
「春画が黒人奴隷制度がなかった証拠になる」という結論を導くためには、春画が当時の全ての社会現象を網羅的に描写していたという前提が必要です。しかし、春画は性的な内容に特化しており、必ずしも社会の全ての側面を描写しているわけではありません。よって、「春画に黒人奴隷が描かれていないから黒人奴隷がいなかった」という論理には飛躍があります。
2:証拠の欠如:
春画が「当時の世相を色濃く残している文化」だとしても、それが直ちに黒人奴隷の存在を否定する証拠にはなりません。春画が特定のテーマや視点から描かれていた可能性もあり、黒人奴隷が描かれていない理由が他にあるかもしれません。
「黒人奴隷がいたら絶対絵に描く」という主張は、春画の制作者が全ての異文化や異人種に関心を持ち、それを作品に反映していたという前提に基づいています。しかし、制作者の関心や作品のテーマは多様であり、黒人奴隷を描くかどうかは一概には言えません。
以上の点から、この文章には論理的な飛躍と証拠の過大評価が含まれており、黒人奴隷制度がなかった証拠として春画を挙げるのは適切ではありません。