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はてなキーワード: 祖父母とは

2019-01-12

お前の家にある明治昭和時代の昔の祖父母や親の立派な姿をみろよ

 その頃は日本国民はみんな立派だったんだよ。それに引き換えて今のお前、もう存在価値ないゴミじゃん。

2019-01-09

従姉のAさん

私には2歳上のAさんという従姉がいる。私とAさんの血縁関係は少し特殊

Aさんの母親は私の父親の妹(=私の実の叔母)でAさんの父親は私の母親の兄(=私の実の叔父である

即ち、Aさんと私は母方と父方の祖父母が同一なのである

母が父と結婚後に叔母に叔父を紹介したらしい。(自分で書いててややこしいな・・・

母の実家と父の実家電車で40分程度で行き来できたので私の家族とAさんの家族正月帰省した時は

まず母の実家に泊まりに行きその後父の実家に泊まりに行くのが定番であった。

幼い頃は私にとってAさんは「仲のいい親戚のお姉ちゃん」であったが思春期になる頃には「一人の異性」として意識していた。

しかしながらAさんを異性として意識すると同時にある種の後ろめたさというか背徳感というか何とも言えないものを感じていたのも事実である

血縁の濃さを無意識のうちに考えてしまっていたからなのかもしれない。

あれは私が大学一年生の時の正月であった。例年通り母の実家に泊まった後父の実家に泊まったのだが

そこで麻雀に興じていた親戚達からコンビニに行って酒とつまみを買ってくるよう頼まれたのである

寒い夜に外に出たくない私が頼みを引き受けるのを渋っているとAさんが「増田君一人で行くのが嫌なら私も一緒に行くよ」と言い

二人でコンビニに行くことになったのであった。

道すがら私はAさんを意識していること悟られないよう注意しながら他愛ない話をしていたのだが

ふとAさんが冗談で「彼女いるの?いないなら私が立候補ちゃおっかな~」と言った。

私は内心ものすごく慌てながら「冗談はやめてよ~セクハラだよぅ」とわけのわからないことを言いながら自分の動揺がAさんにバレない様願っていた。

結局その後私とAさんは特に何も無く今に至るのだが、あの時もし「わたしは一向にかまわんッッ」と言っていたら(Aさんはバキシリーズが好き)

何かが変わって今頃「血の濃い従姉と一線越えかけた話」を増田投稿していたかもしれない。

そして「一線も何も従姉は結婚できるのだが」とブコメでツッコまれていたかもしれない。

anond:20190109130536

相手本音はわからないしね。

実際、祖父母がそうだったように。

家族とか夫婦は作り物だからね、あるいみ。

anond:20190109123705

すげーまじで尊敬する

私も夫好きだけどそこまで夫に人生丸々ささげようとは思わんもん

海外赴任はそら仕事だしついてくだろうけど(一応結婚式幸せな時も困難な時も~って誓ったしね)

老後海外住みたいとか言われたら一人でどうぞだよ

自分が逆の立場でも夫が可哀想からついてこなくていいって言うわ

子供が独り立ちしてその後も2人の時間十分過ごせたらあとはもう自分時間じゃない??

増田祖父母嫌いあってる感じするの??

じゃなかったら老後くらい好きにさせてくれーって奴じゃん

そこまで驚く事か???

anond:20190109122028

言えると思う だって私両親より断然夫と一緒にいたい人間から

だってたぶんたとえ夫が海外赴任になってもついて行くよ もともと転勤族だったし

友人は環境違っても新しくできるしそのバイタリティがなくなったらそれこそ老人ホームとか入った方が人との触れ合いはあるでしょう

あと何度も言うが祖父母が今いるところは住み慣れたところじゃないんだ

祖父母が若かったころ過ごした住み慣れた場所祖父が帰りたいって言っているのを祖母が嫌がっているんだ

から捨てるものはないっていうか 祖母の友人とかもそっちにいるんだ

新婚?とか言われるかもしれないけど結婚してからは片手以上

anond:20190109111109

うん?? 話がずれてない??

今は同居で故郷から離れてて

故郷老人ホームに入りたいって言ってるのを嫁が阻止してるって話なんだけど

私は祖父母仲良くホームに入ればいいのにって思ってるのよ?

anond:20190109102212

今は祖父母が両親と同居してて両親の仕事故郷を離れた

それが継続されることになった

祖父最近物忘れが激しくなってきて

慣れない土地認知症に進展しそうで恐ろしい

2019-01-07

モスキート音とかで若者撃退みたいな話あるけど

あれって乳幼児も聞こえてるの?

爆音モスキート音スピーカーから出してるとこに

赤ちゃん連れで来て赤ちゃん泣き出しても両親も祖父母も聞こえないから原因不明とかあったりしない?

つか音量次第では耳壊れたりしないの?音量設定する側が音を聞こえないんじゃ耳壊すほどの爆音が出てたりしない?

2019-01-06

anond:20190106125853

五体満足に産んでもらって有難いと思え。

お父さんの時代には参考書なんて(自分用に?)買ってもらえなかった!買ってやってるだろ!

長男次男兄貴のおさがりが自分までで、四男からは新調されてた悔しい。

<御幼少期の恨みつらみタイム(なんで祖父母にいわなかったのかなー父よ?)>


延々と、勉強に関するグッズとか学校お金がいるとき話しただけでこんな感じでしたよ。

こんなの友達に話したら可哀想扱いだよね。平気な振りがどんどんうまくなる。

数年前に母が自殺したんだが

自殺理由不倫して離婚突きつけられ、家族に見離された完全なる自業自得

自業自得なんだが、一回自殺未遂で死なずに息をとりとめてはいたんだ。

母方の実家長男が「お前の家の嫁なのだからそっちで面倒を見ろ」と聞かず、死にかけの人間放り出すわけにも行かず、不倫されて顔も見たくないと思ってる父が我慢して母と同居しなきゃいけないという状態だった。

母方の家が引き取らなかった理由は、高齢になる祖父母カンカンに腹を立てており「勘当」を言い渡され、安定しないバイタルが乱れてぽっくり逝かれるのを恐れた長男が、関わるのを拒否したという流れ。たぶん、心臓かなんかに問題があるんだろう。心臓悪い人は、そういうのデリケートから

結局、立場のマズイ状態生活しながら母はなんとか身体回復したものの、就職先が決まった段階で腸閉塞で入院。たぶんそこで心が折れたのか、遺書も残さず自殺した。

それから随分経つが、母方の実家に俺は一切顔を出していない。特に気まずいということはないが、俺はそもそもそういうの興味ないんで、家の近い父方の祖父母にもほとんど会いに行ってない。

ただ、俺には姉がいて、姉はどっちの祖父母大事に思ってる。俺は姉のこともそんなに興味がなく、姉は、母方の祖父母に会いたがっているが、未だにそこの長男拒否られてると聞いて、モヤっとした。

まぁ、死亡リスクについてはわかる。俺だってそういう仕事をしてるので。

ただ、未だに1度も会わせねーのは酷いんじゃないかと。お前は長男かもしれんがこっちは孫だぞ、と。

面倒事に関わりたくない気持ちと、イラッとする気持ちで、今心が揺れ動いている。

anond:20190106022254

横だが、ワイのパパン60にして結構もうボロボロからなぁ。

かーちゃんがおらんかったら俺が介護してたかもしれんし、ケースとしてはあり得なくもないと思うやで。

あと、一家総出で祖父母介護して自由がねーと嘆いてたネット友達もおったやで。

2019-01-04

anond:20190104153813

母方の祖父母資産家で、遺産相続云々でドロドロみたいな噂は聞く。

俺は遺産とか興味ないんで、関わりもなく目の当たりにはしてない。

自分の周りの人間自分本質を現してると俺は思ってる。

俺は他人を出し抜いたり競争して利益を得るみたいなことに興味がないんで、そんな奴周りには集まってこない。

昨日も今日明日もブス

幼稚園ごっこ遊びはいつもお父さん役。"◯◯◯◯ちゃんお姉ちゃんダメ!"気づくと仲間はずれ。

小学校。初めての夏休み、開放プールで初対面の上級生たちから"目つきが怖い、こっち見るなブス!"、笑いながら水の中に頭を押し込まれる。ペアの6年生から一度も遊んでもらえず1年生を終えた。

中学校。"◯◯◯と友達やめてくれ、あのブス俺無理、お前があいつといるの恥ずかしい"と友人が彼氏から言われる。この頃は相手の年齢性別関係なくエグい言葉かけられたことが多すぎて逆に思い出せないことが多い。

高校。15年間の経験から学び、先に自虐することを心掛けてブスなピエロに徹したのであまり辛い思いをしていない。女じゃないので。

大学。ブスピエロ続行。同期や上級生、先生からの"女らしくしろ" "メイクしろ"の言葉ダイエットしてメイク必死練習する。ようやくギリヤレる枠に。

社会人現在進行形でブスピエロ。良く見られてギリヤレる枠同時進行中。

時期問わず見知らぬ人からブス!と笑われたこ複数回あり。場所は色々。電車デッキ高校総体の会場、車の運転中、隣車線の車の助手席&後部座席から etc...。友人に気を遣ってもらうことも多い(飲食店やデパコスカウンターでの接客簡単な街頭インタビューなど)。数年に一度の法事はいつも親戚たちからかわいいはとこ比較されていた。両親や祖父母申し訳なく思っていたことを覚えている。

久しぶりに水中に頭押し付けられる夢見たものしんどい。常に自分が醜いと言う意識は忘れずにいるんだけど、実体験を思い出すのはまた違ったきつさがあるね。3歳くらいからの自分写真、我ながらブスすぎて恥ずかしくてろくに見られない。てか情けなくて、お母さんお父さんごめんなさいと涙ぐんでしまったりする。こういう所がこれまたキモい特に幼い頃は、まだブスだという自覚がなかった頃はセーラームーンの真似とかして写真撮ってもらってて、頭掻きむしりたくなる。365日24時間常にブス。今年もブスとしての1年が始まったんだなと思うと悲しい。せっかく明日休みなのに。

年末に観たアイフィールプリティだって、とても素敵な映画だったのに自分は中身もブスだからやっぱ全然あかんなと自分のブスストーリーに乗っ取らせてしまった。

ブスと言われたり思い知らされたりするのは全く腹立たない。怒る資格なんてない。27年間変わらない事実なんだからそろそろ受け入れたいのに毎回悲しく思ってしまう。周りのみんな試行錯誤しながら人生進めていってる、こんな馬鹿みたいなことでくよくよ悩んでるの私だけ。

2019-01-03

京大までの受験の思い出(失敗編)

https://anond.hatelabo.jp/20190102063518

https://anond.hatelabo.jp/20190102174908

ダメだった身で恐縮だけど、見てたら俺も自分語りしたくなったので。

中学受験

小学校首都圏某県の公立に通っていた。長男にはありがちだと思うが、低学年のころより通信教材をさせられたり、あちこちの塾にお試しで通わされたりしていた。

中学受験も完全に親の意思によるものである勉強別に好きではなく、塾では机に落書きをしたりしてあまり授業を聞いてなかった。だから当然成績は振るわず、ある日テストで50点をとって(自分ではそれでも上出来と思っていたのだが)ブチ切れた母の命により、それ以来は学校が終わると直帰し祖母らの監視下で勉強強要させられる日々が続いた。志望校も全て親が決め、いざ受験期になっても明日どこの学校を受けに行くのかさえ把握していなかった。

とはいえ元来陰キャ友達も少ないことから自分だけ別の中学に行くことに未練はなく、また特段この学校を受けたかった!というのもなかったため親は恨んでいない。まあクラスメートからいいねと言われるのは気分が良かったし、(勉強は嫌だけど)親に怒られるのも嫌だからしょうがないか、ぐらいのもんだったと思う。むしろ中学受験は大なり小なり「させられるもの」だと長らく思っていたので、東大編の元増田や知り合いの子供が純粋自分意志中学受験をしたというのを聞いてびっくりしているくらいだ。結局(親の)第一志望の御三家は全く歯が立たず、第三志望?くらいの中堅校(中高一貫)に入学

中学高校時代

中学に入る前後から弟が病気で入退院を繰り返すようになり、親や祖父母はそれにかかりきりになった。お陰でこっちはこれまでと打って変わって完全放任。ゆるい文化部に入って暇を持て余した俺は、当時流行っていたMMORPGメイプルストーリーとかそういうやつ)にドはまりした。当然勉強は全くせず、テストは常に一夜漬け。成績は最下位スレスレ状態が高1の終わりまで続いた。相変わらずクラス友達はなく、図書室にこもっていたお陰か現代文だけは良かったが、文筆家になる気はなかったし歴史とかの暗記系が大嫌いだったので理系選択

高2になって、見かねた親が東大生の家庭教師をつける。俺が京大へ興味をもったのは、その先生の「京大単位が空から降ってくる(けど東大単位が逃げてゆく)」という言葉だった。折しも本屋大賞だかがきっかけで森見登美彦を読み始めた俺は、自由楽園としての京大への憧れを一気に膨らませた。当時の京大ホームページアクセスすると大学京都の町並みの影絵だけがボーンとあり、それを横にスクロールしていゆくと最後入口が出てくるといった具合で、他の「普通の」大学とは違うその作りに大いにワクワクした感覚を今でも覚えている(どこかに画像が残ってないだろうか)。

同時に両親とも激務で働く姿を見ていた俺は、会社員自由のない苦痛に満ちた職業というイメージ漠然と持ち始めた。そして自由自分のやりたいことのできる職業大学教授という安直な発想から研究者(当時は「研究」が何かも知らなかった)の道を志す。そのために必要要件も何人かの研究者の略歴を見て「早慶以上で博士課程まで行けばなんとかなる」という勝手イメージを抱き、結論として「京大に入る(滑り止め早慶)」ということだけを目標に高3に突入した。

大学受験(現役)】

再び受験生となった俺は、MMOを休止し何となく予備校に通い始める。当時クラスメートたちは進度の遅い高校カリキュラムを見限り、授業中も内職して予備校の教材をやっていた。だから自分もそんなもんかと思って高校課題は真面目にやってなかったのだが、5月定期試験で相変わらず下から一桁番目の成績だった俺は担任からこっぴどく叱られる。

「お前に学校予備校勉強を並行してやるのは無理だ。予備校を辞めるか、さもなくば学校を辞めて大検を取れ」

恐れおののいた俺はとりあえず担任の教科(数学)だけ予備校を外し、そこから漸く(自分なりに)真面目に勉強をするようになった。

学科は(高校の教科で言う)物理が好き&理屈ばっかりではつまらないという理由工学部物理工学科を選択首都圏学校だったので京大志望はクラス自分一人で、ちょっと一目置かれていた(単にハブられてただけかも)。しかし当然ながら、京大試験問題は難しい。特に積み重ねと言われる数学絶望的だった。でも当時はそこまで深刻には考えてなかったように思う。物理は高3になるまで運動方程式も知らなかったけど、一歩一歩ものにできている感覚があった。化学予備校の教材が奇跡的に分かりやすかった(何せ浪人時代予備校を変えたけど、化学はこっそり現役の時の教材で勉強していたくらいだ)。当時京大では理系でも国語二次試験があって、読書趣味から現文が感覚で解けてた俺には有利だった。元増田の通り、センター数学足切りしか使われないから出来なくてもノーダメージ。あとは英語センター地理を合わせて総合力で何とか、という作戦だった。

高校である教師が言っていた。

現役生はあらゆる点で浪人生より不利だが、唯一有利な点は『落ちたことがない』ということだ。

高3の俺は正にその状態だったと思う。模試でD判定をとっても、周囲が「E判定は良い判定」とか言い合ってるのを聞いて安心していた。試験前日も風邪リスクなど考えず、噂の折田先生像がいつすげ替わるのか番を張っていた(夜になって諦めたけど)。今から見れば完全にただの馬鹿だった。

そんな根拠のない自信は、試験帰りの新幹線慶応に落ちたことを知り、補欠だった早稲田にも繰り上がりはなく、そして3月10日を迎えて完全に打ち砕かれた。後日はがきで送られてきた俺の点数は、合格最低点に(全教科計1000点満点で)80点以上足りなかった。

大学受験浪人)】

私大早慶以外にも何校か受けており、そのうち1校には辛うじて受かっていた。浪人生活はとにかく苦しいと聞く。しかし極限まで肥大化した京大-自由楽園-への憧れと、早慶未満→研究は無理→会社員自由のない人生というイメージから俺は進路に迷った。結局家族で唯一理系だった祖父の「受かった大学師事したい先生がいるならよいが、そうでないならもう一年頑張ってみては」という言葉におされ、俺は浪人生となった。

もう現役のころのような希望はなかった。予備校京大クラスはそこにしかないため、満員電車を乗り継ぎ片道1時間半かけて都心の校舎に通った。中学受験ときは決まった休憩時間には遊べたが、浪人の間はあらゆる時間勉強に費やさなければならないのが本当に辛かった。趣味読書も一切禁じた。もし落ちたら奴隷のような一生しか歩めず、それだったらもう死ぬしかない。そう思いつめているせいか夜はなかなか寝付けず、自習時間や週末に眠り込んでしまうことも度々あった。クラスメートと一切話さず(結局誰一人名前も知らなかった)、昼休みは机に突っ伏していた俺は相当浮いていたと思う。

それでも振り返れば、この一年で俺の馬鹿は(お勉強の面では)だいぶ治ったと思う。物理は難度の高い問題をこなし、得点源といえる域になってきた。化学は詳しい理論(π電子とか)は理解できず丸暗記だが、現役時代と合わせて知識量はそこそこあるはず。国語感覚を廃した分析的な読みを一から勉強し、地理と合わせてセンターで大幅な特典増が見込めた。数学はやはりしんどいが、どうにか100/250点とれれば総合合格点に届く計算だった。

試験前日、俺はやっぱり眠れなかった。ホテルの有線音楽で聞いた『一年生になったら』がずっと頭の中を流れていた。興奮は当日になっても続き、寝不足による不調は感じなかったが、2日目の最後理科試験問題を開いて絶望した。物理が例年よりも簡単すぎる!差別化を図れる唯一の手段を封じられ、動揺した俺は同時に出された化学で手こずりまくった。絶望感とともに帰宅した俺は、迎えてくれた家族の態度から早慶に落ちたことを察し、今度こそ人生が終わったと泣いた。そこから3月10日までは後期(京大にはないので他所)の勉強をする気力も起きず、抜け殻同然の日々を過ごした。

ここでいつか使おうと思って、結局使えなかった話のネタを供養したい。俺は出願期間が始まって速攻で願書を出したから、京大受験番号は(学科を表す千の位+)8番だった。たしかその年の工学部の倍率は2.5倍くらいだった気がする。迎えた3月10日ホームページで見た合格者の番号は

1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 9, 11, ...

あの時同じ部屋にいたはずの10番は、今何をしているだろうか?

【その後】

結局俺は最低点には17点届いていなかった。そして死ぬだけの覚悟があるはずもなく、併願した某私大に進学した。この大学に現役で進学し、新歓の時期ばったり会った高校クラスメートの「一浪して○○大!?」という言葉が今も胸に突き刺さっている。

……とまあ、受験生を奮い立たせる目的ならこういう風にBad endで終わった方が良いのかも知れないが、どっこいこれもN年後の今では良い思い出である。あれから俺は京大とは別の国立大の院に進学し、今は民間企業への就職を控えつつ博士課程を終えようとしている。結局私大生活も十分すぎるほど自由だったし、現状研究者も中々自由が効かなそうだし、企業でも上手くマッチングすればかなりやりたいことが出来そうだった。後に残った傷といえば、森見登美彦が読めなくなったことぐらいである。

もちろんこんなのは結果論しかいから、これを読んでる受験生は悔いのないよう今の信念を貫いてほしい。しかしもし将来(受験に限らず)苦い思いをすることがあったら、それがどのようにして「良い思い出」に変わり得るかのヒントとして次の言葉を思い出してほしい。

人生には割と結果オーライな所があって、今の状態が悪いと過去の一つひとつがその原因のように思えてくるが、逆に今が良ければそれらにも意味があったんだと思えるようになるもんです。

これは今の大学である先生が仰っていた言葉だ。過去未来を決めるのでなく、未来過去意味づけるというとまるで(京大編の元増田の)「汗をかけ」へのアンチテーゼみたいだが、そうではない。大事なのはもし受験不本意な結果に終わっても、その後人生で「成功」するチャンスはまだまだ残されているよということだ。私大の院で着実に研究者への道を歩んでいる同期がいる。生涯の伴侶を見つけた後輩がいる。サークル趣味が高じてプロになった先輩がいる。俺だって京大に落ちなければ、今の研究(超絶面白い)には出会えなかっただろう。どんな道でもとにかく今が楽しいという状態にさえ持っていければ、きっと明日だって「落ちたことにも意味があった」と僻みなく言えるようになれるだろう。

全ての受験生と、かつて受験生だった皆が、新時代を迎えるこの年に「成功」出来ることを祈っている。

anond:20190101143211

似たような感じだなぁ

祖父母の家は家系を何代もたどれるような地方のそれなりに大きな家で、正月には何人も挨拶に来ていたけれど、祖父母が亡くなった折りに自分受験だったこともあってそこでの正月を迎えなくて、そのまま正月田舎に集まる習慣は廃れたな。

自分の周りで大きな一族を今でも維持している家がある一方で、廃れる家もある理由を考えてみたら、一族伝統に則ったルールで後を継ぎが続いているかと、簡単に集まれるかどうかなんだろうね。

一族伝統に則ったルールで跡継ぎが選ばれていると、親族内でもめることも無く財産総取りの跡継ぎを作れるし、その人たちが一族をまとめるという認識もできる。それが無いと、まずもめて、もめたら人は集まらなくなるよね。

親族同士で定期的に集まらないと親族同士の親睦を深められないけれど物理的に遠いと集まるというのもなかなか難しいよね。車で30分くらいで行けるのと、新幹線飛行機で3時間はやはり全然違うと思う。

受験失敗の思い出

https://anond.hatelabo.jp/20190102063518

https://anond.hatelabo.jp/20190102203653

彼らとは全く違う、良い思い出なんか一切ない失敗談。

時代ごとに語る事なんて全然いね。進学系の中学高校に入ってたが、順位は下から10番目とかそんなもの。ハッキリ言って頭が悪かった。

数学だけ異常にできなかった。難し過ぎて定期テストの平均点が50点を割るタイプ学校ではあったが、ベクトルの時なんて100点中4点。

この頭の悪さのせいで、中学の時から通う近所の個人塾では酷い目に合った。高3にもなると、塾でも過去問を解きつつわからない時だけ先生を呼んで個人的に解説してもらうだけになっていたんだが、問題ごとに先生解説してもらう私と、一回の授業で一度呼ぶか呼ばないか程度のみんなで露骨に別れた。

成績良い奴からの「こいつ頭悪いな」って視線は、気遣って隠そうとしてもすぐわかるんだよ。

ただでさえ数学ヤバい自覚があるのに、仲の良い友達中学の時からずっと気になってる人も同じ空間で静かに勉強してるのに、問題に詰まる度にその静寂を破り、みんなの前で「私は何度解説されてもわからないバカです」と表明しながら先生を呼ばなきゃならないのは本当にキツかった。緊張と混乱で塾ではろくに集中できなくなり、3年の夏前に個人塾をやめた。塾のメンバーとはすぐ疎遠になった。別に珍しい話でもなく、受験が近づくにつれ成績に差がある者同士では日常生活でも距離ができるものだった。

予備校サテライン校でやっと自分レベルにあった数学の授業を受け始めたが、当然ながら遅かった。センター模試ではギリギリまとも認定される8割の成績を取れるようになったが、数学だけは最後まで改善せず、本番のセンター試験でさえ80点くらいだった。80点と言っても1A・2Bの合計で80点だから、ヤバさがお察し頂けるだろう。

結局、みんなが受ける滑り止め、志望校に落ちたなと哀れまれ関関同立のうちのひとつに進学した。

塾のレベルが合ってなかったのも大きいんだが、ちょっとした病気にかかり症状も結構出ていたのに、受験の緊張で痛みにも身体の異常にも一切気づかなかった事や(病気大学進学後即深刻化し、大変だった)、志望校が「東京近辺の大学」という曖昧ものだった事も良くなかった。家族との関係が悪かった為、とにかく実家から遠くて卒業後も帰らない言い訳が立ちやす東京に行きたくて、首都圏大学ばかり受けていた。親は上京に反対していたが、親が書類を書いてくれなくてもお金を出してくれなくても、祖父母を言い包めて何とかしていた。ホテル新幹線も何もかも全て自分で手配し、早稲田慶応など成績的に受かるわけもない大学を受けまくった。

明確な目標設定やスケジュール設計ができなかった私は、成績以前に根本的にバカだった。良い思い出なんてひとつもない受験だった。

しかし、「どう頑張っても及ばない」「自分は選ばれた人間ではない」と痛感する経験はなかなかないなと、呑気にも当時から思っていた。それに、進学後のレジバイト四則演算暗算が高速・正確化し、塾講バイトをした時には1Aまでとはいえ数学を教える立場になれたり、元々頭が悪いからこそ勉強が出来ない子の気持ち脳内想像できた為になかなか良い仕事ができたりと、だめな経験ではなかったとは思う。

     

と、少し良い話風にしてみたが、今のところ結果としては最悪だ。

病気の深刻化が影響してろくに勉強も出来ないまま逃げる様に大学中退家族とも縁を切った30過ぎ職歴無しの無職が現状。

受験の失敗が今の状況の原因ではない。大学中退無職も、ほとんど自分怠惰努力不足のせいなのだが、失敗し更に底辺に落ちた敗者の話が聞きたい人もいるだろうと書いてみた。今思えば、失敗しようが成績悪かろうが、ひとつの明確な基準の中でただ頑張っていれば良しとされ、その上努力が結果に結びつきやす環境幸せだったと思う。何だかんだで守られた環境にいる間に、もう少し将来の道筋を具体的に建てられていれば良かったのかもしれない。

もう試験直前の受験生が読んでも、あんまり為にならないかもね。

姉と一線越えかけた話

 元日、姉と会った。

 姉といっても、実際にはいとこだ。彼女は僕の5つ上で25歳。

 姉との関係が変わり始めたのは3年前。あの時も元日で、親戚一同が祖父母の家に会していた。

 その会で姉は結婚を発表した。それに便乗し母が僕に彼女ができたことを発表した。

 面倒だから彼女ができたことは伏せておきたかったのだが、おかげで姉と恋愛の話をすることができた。他の親戚が帰り、祖父母が眠った後も、こたつで温まりながら二人きりで一晩中話をした。こんなお店がデート向きだとか、こんなデートプラン楽しいよとか、二人とも実家なんだからセックスするときラブホテルを使えとか、池袋鶯谷にはラブホテルがたくさんあるとか、これから彼女とするであろう色々な事について、たくさん教えてもらった。

 それ以来、ことあるごとに姉とどこかに出かけたりメッセージを交わすようになった。

 僕が大学生になってからはその頻度がさらに上がって、毎月会うようになっていた。話題はいつも、僕の彼女の話と、姉の旦那さんについてだった。あとは社会についての難しい話とか、大学の話とか。何も気にせず話したいことを話した。姉が旦那浮気をされたときの話とか、最近彼女とした充実したセックスの話とか、本当に何でも話した。

 姉は僕が大人になっていくのをいつも喜んでくれた。好きな女の子がいることや、その子デートしたこと、付きあうことになったこと、始めて手を繋いだこと、キスしたことセックスしたことケンカしたこと、仲直りしたこと。一つ一つの経験を通して成長していく僕を、姉は好きだと言ってくれた。

 僕は幼い頃、姉の事が好きだった。異性としてではなかったと信じたいが、その愛の質は今でもわからない。とにかく、好きだった。

 だから彼女彼氏の話を楽しそうにするのを聞いているのは、特に僕がまだ小さかった頃はあまり面白くなかった。

 けれど僕にも彼女ができて、通りいっぺんの男女がすることを経験してから嫉妬も覚えなくなった。多分、僕が大人になったからだろう。

 転機は秋。「親戚じゃなかったら付き合いたかった」と言われて、僕の彼女への愛は少し色を変えた。親戚であることを喜び、呪った。親戚じゃなければ、きっと僕は姉のような魅力的な人間とここまで親密な仲になることはできなかった。けれど、親戚だからこそ彼女は僕の物にならない。

 姉とのセックス想像してしまった。あの艶めいた唇にキスをして、細くて美しい体に触れることが出来たらどんなに幸せだろう、と、最悪な欲望を抱いてしまった。

 その後しばらく忙しくて、僕は彼女に抱いた劣情のことも忘れていた。

 けれど元日、姉と会って、3年ぶりに夜を徹して会話をして、僕はあのどうしようもない自身の獣性を思い出してしまった。

 空が白んできた頃、客用の布団がないから、と1枚しかない布団に僕たちは当たり前のように同衾した。

 親戚だから。親戚だから僕は姉を異性としては見ないし、過ちは犯さない。そう、僕たちは本気で思っていた。

 実際、過ちはなかった。僕たちの一夜はプラトニックだった。手を握って、くすぐりあって、頭を撫で、抱きしめあっただけなのだから

 けれど、その触れあいはこれ以上ないくら背徳的だった。

 キスダメだよ。と姉は言った。

 大丈夫だよ。と僕は言った。

 お互いちゃんと解っていた。一線を越えてはいけない。

 けれど、お互い思っていた。自分パートナーがいなくて、目の前のこの子が親戚じゃなければよかったのに、と。

 お酒を飲んでいたから。眠かったから。寒かったから。いくつも言い訳を用意した。

 僕たちの間には何もなかった。僕らは何度もそう確認しあった。何もなかったのだから後ろめたい気持ちを抱く必要はない。人に話すこともない。僕たちは3年前のように、久しぶりに会ったいとこ同士、仲睦まじくお喋りをしていただけだ。

 夜が明け、また遊ぼうね、誘ってねと、何事もなかったような顔で彼女旦那さんが待つ家へ帰っていった。またね、と僕もいつもの笑顔彼女を見送った。

 何もなかったのに、彼女香りが、柔らかい肢体と硬い結婚指輪の感触が、上気した頬の色が、あぁやっちゃったなぁ、という呟きが、今でも記憶にこびりついて離れない。

2019-01-02

東大受験の思い出(文系おっさん篇)

https://anond.hatelabo.jp/20190102063518

触発されるところがありました。増田にも、コメントにも。

家庭環境など

百姓家の倅です。3人兄弟長男比較的小さいころから「下がつかえているかあなたオール公立で。それだけの頭はあげたでしょう」と母親からいわれて育ちました。母方の母方は庄屋(糀屋)、母方の父方は漢学者家系です。父方はよく知りません。父親東京教育大の出、全共闘火炎瓶を作って安田講堂に攻め入ったことを生涯の語り種にしていました。いまはアルツハイマーで息子たちの見分けがつきません。発話も失われて久しい。

その倅たる僕はプロテスタント幼稚園に騙されて入り、地方二期校の教育学部の附属小学校に騙されて入り、そのまま持ち上がって附属中学校へ、高校東大合格者を年に15人から20人くらい出すいわゆる県立トップ校です。中学校男子90人のうち35番くらいまでにいればトップ校に入れた。塾には行かせてもらえなかった。習字水泳英会話歯医者、これはよく通わせてもらいました。中学は共学でウェイウェイしていました。藤井郁弥の影響でテクノカットに前髪が顎下までありました。高校男子校です。圧倒的な絶望です。キルケゴールに耽溺しました。

どこで勉強をしたか(中学まで)

田舎から街中まで通うのにバスで片道45分かかります。退屈なので寝るか教科書を聞くか路線図や料金表を覚えるか(後に)音楽を聞くしかありません。小1から、時折(4割程度)の自転車通学を挟んで、半分以上はバス通学です。小6までは学期の始まり教科書を配られると最初の1週間で読んで覚えてしまます

教科書本体よりも便覧や資料集が好きでした。面白かった。地図帳も、資料集も、地勢統計も。中学に入っても英会話は通わされていたので楽ちんです。中間/期末/学力試験の前1週間くらいにざっと教科書見直して500点満点で425点。リスニングは、携帯プレイヤーはなかったので、ウォークマン英会話学校の教材やNHK英会話を入れて、まあ適当に。中3で県のスピーチ大会に出させられ(て、落ち)る、そんな感じです。

部活はやりませんでした。お金時間もないし、水泳通ってたし、弟のバスケットと体操に両親は夢中になっていました。素行不良のため内申点が足りなくて合唱団に入れられました。

どこで勉強たか(高校)

うちの高校合格すると「入学式までの30日間の重要性」とかいって英数国の宿題が課されます。それと直近の大学受験結果を分析した資料ざっと見て、学年360人、2年次から文系150人理系210人の、まあ自分文系だろうから文系30番くらいにいれば、努力で入れるといわれていた東北大、東京外大に入れるかなという目算がつきました。東北大はかっこいいし、外大女性比率が高い(放っておいてもモテそう)。まあでも、適当です。それで入学式直後のテストで、学年で50番くらいに入った(いちおう、ビビって用意はしていました)。

でも生活の基本パターンは大きくは変わりません。教科書は行き帰りのバスでだいたい読んで、物理科学不要なので捨てる。家に帰ったら数学問題演習(4STEP)、英語古文単語を。同じころ僕を溺愛してくれた婆さんが脳梗塞から前後不覚に陥り、街中の病院に入ることになった。学校帰りに爺さんと待ち合わせをして立ち寄る。病院は暇ですからお茶を入れて飲んで、英単語を覚えるくらいしかやることがない。たまにノートを開いて、数学は先取り。ざっと、次の単元に目を通して(授業中に指されるのが不安から…)。そうそう、効果のあった教材は「パターン演習」でした。今はもうないのかな。「現代文 例の方法」もよかった。古文は聖文社の薄い本意識の高い友だちから、いろんな情報が入るようになってくる。それを病院に立ち寄る前に市内の書店でチェックして、合いそうなものを買います

大学受験意識する

東大意識したのは高校2年の11月です。恩師(英語先生)に、冗談で「おれ東大無理ですよね。ははは」みたいに話したら「お、ようやくやる気になったか」なんてその気にさせられて。帰りに本屋ペンギンか何かの洋書を買って、1日2ページ、英文解釈和訳です。朝持っていくと、帰りまでに真っ赤に添削してくれる。古文や、数学先生も噂を聞いて「おお、あのあいつが」みたいに様子を覗き込んでくる。ひとり、ふたりノートを見てくれる先生が増えました。でも、だれも僕がまさか東大に入るとは級友たちは思っていなかったと思います

受験戦略

受験戦略は至ってシンプルです。後期には絶対の自信がありました。読書感想文論文も出せば県予選までには行った。英語も出来ました。社会世界史日本史現代社会、どれでも満点近くとれました。参考書は「世界史Q&A」「日本史Q&A」です。資料集を見てビジュアルで頭を刺激して(例、ザビエル。毛の話ではない)大掴みし、後はひたすら反復練習です。高3初夏の時点の大手模試で文3後期はB+くらいの判定でした。前期はさすがに無理です。

ただ、「やるだけやった」ことは自分言い訳を残したくなかった。病院で婆さんが「うちの孫はいい子で」「末は大臣から」って、看護婦さんや主治医に言いふらしたらしい(後に爺さんの仕業だと判明するのですが)。それで先生方が「東大を受けるって聞きました」「がんばってね」って声をかけて下さいます。病状のことも聞きました。当たり前ですが、下り坂です。いっときは、医学部を目指そうかとも思った。でも入って出て研修医になるまで7(6+1)年です。婆さん、間に合いそうになかった。爺さんも肝硬変になって、爺さんに「どこがいい?」って聞いたら「そりゃ天下の一高がいいさ」というから「わかった」と返事をしました。

再び受験戦略の話

本戦略は4つです。

1. センターは満点をとる。二次は天下の俊英が集まってくる。勝てるわけがない。センターなら勝てる。1:4(800→110):440の圧縮傾斜とはいえ、110点とって無駄にはならない。田舎凡才がまず考えるべきは足切り回避です。足切り回避したら「二次で逆転」なんて赤本成功譚を鵜呑みにせず、センターで1点でも多くの上乗せをと考えました。

2. 後期は受かろう。英国世界史満点を目指す。論文素面でいけるはずだ。

3. もし現役で東大がだめだったら地方公立医学部に切り替えよう。そのために、生物をメインで、化学も少しはやっておこう。

4. 問題は、前期で東大を受けるか、A日程で外大を受けるかでした。こう考えました。A日程で外大に受かる(東大後期の足切りにあわなければ後は外大用の英語対策です。外大二次英語東大二次よりもやや歯ごたえがあって格好の対策になります)、そして後期で東大文3に受かる。これがベストシナリオだ。そのとき東大に行くだろう。だとしたら、A日程は無駄ではないか?

教科別の話
現代文

岩波講談社現代新書、などを、手当たり次第に読んで咀嚼しました。また、Z会添削(これだけは母親に頼んだ)を受け、「模範解答をできるだけ歯切れのいい単位自分言葉に分解して、とことん納得するまで書き換える」を行いました。添削はあまりしませんでした。毎月送られてくる薄い模範解答の本がありがたかった。小説は、ごめんなさい、蓄積があったので(うちは1950年代60年代70年代文庫季刊誌文学全集が堆くあるような家でした。数少ない父親の正の遺産です。片っ端から読んでいました)、あとは「例の方法」で、受験とはこういうものかと調整する程度。

古文

品詞分解と2,000語レベル単語暗唱です。高2の11月からセンターまで400日。1日50語。予習(N-1日)、当日(N日)、復習(N+1日)のサイクルで、ということは150語/日ペースで頭を通す計算になります。「あさきゆめみし」を読みました。明治書院(?)の作品解説集をバスの行き帰りに読みました。

漢文

ごめんなさい! 爺さん漢学者の家柄なもの(笑)。「蒙求」「戦国策」とか。「戦国策」はよかった。いまでも、なるなら刺客です。司馬遷ありがとう!

英語

単語は5,000語レベル単語集を1冊日割りで。効果的だったのは、ある単語を覚えた/引いたとき辞書の同じ見開きページに載っている重要単語はぜんぶその機に覚えてしまうやり方です。

文法桐原発音アクセント英会話教室からもらった対策本。英字新聞は読みませんでした。代わりに、前にも記した高校先生から受ける日々の添削

日本史世界史

「Q&A」です。「一問一答」ではなくQ&A。

数学

苦手にしていました。系(?)の拡張、みたいな感覚になかなか付いていけなかった。虚数単位とかです。仕方ない、というので「4STEP」を繰り返し、センター200点満点を180点とることに集中。二次は、大問4のうち、かき集めて1つ、配点で80点中15点とれれば合格には御の字。15点ならセンターの延長でとれます文系微積が苦ではなかったのが本番でも生きました。

理科生物

高校の授業です。これだけは、参考書の目利きが自分にない。熱心な先生でしたので、出されたご飯は残さず食べるの精神です。

受験結果
センター試験

国語:190点

英語:192

世界史:98点

数学:180点

生物:92

合計:752点

(あれ? 756点だった気が。)足切り回避です。よかったですね。

二次試験の結果

国88/120

英104/120

世界史40/60

日本史35/60

数学25/80

292/440点

自己採点です)250点あれば十分、220点でも年によっては受かるといわれていました。勝因は英語です。よかったですね。

合格発表の日

これでも、自分には無理という思い込みがありますから赤門をくぐってまず後期合格者の掲示板のほうを見にいきました。前期は絶対に無理、でも、後期の足切りには確実に通っている。「国語古文漢文選択肢に引っかかったのが痛かったなあ。あれがなければ前期だって」と頭を抱えていました。

そんなことを思いながら後期(追記:足切りクリア)の掲示板の前まで来ると、自分の番号がない!

「さすが東大は違う。おれはもうだめだ」と、代ゼミに向かい踵を返そうとしたとき、同行していた父母が「せっかくだから前期のほうも見てみよう。どんな人が受かるのか顔を見てみたいじゃない」「予備校それからでいい」というわけです。

ありました

ありました。

公衆電話実家にかけると、すでに電報が届いていて、いまかいまかと祖父母電話を待ち構えていました。祖母許可を得て病院から戻ってきていました。もう、東大に受かることの社会的な意味合いは、わからなかったろうと思います。でも、みんなが喜んでいるからといって、赤飯を炊く準備に、これから近くで豆を買ってくると電話口でいうわけです。「そんなのはいから」「とにかくそのまま家でお日さまに当たっていて」と僕がいうと「ご親切さま。うちのは、ほんとにいい孫でね」と僕にいう。僕は思わず「おばあちゃん、よかったね」って。

結びに代えて
英語だけは

言い古されたことですが、東大学歴というのは、かなり費用対効果のいいLadder of Success(成功の階梯)です。その中でも、ひとつたつを添えて、本記事を締めたいと思います

それは、文法的な意味での英語力の最初ピークは、大学受験直後ということです。その勢いを駆って、TOEICなり、英検なり、お受けになれば、さしたる苦もなくCertificateを取れるのではということ。僕自身大学年の初夏(だったか)に準1級、以来、TOEICが(維持のための努力だけで)だいたい945点くらいをかれこれ25年、続けています

1年くらいは

間もなくセンター試験です。もし、2019年のセンター二次に間に合わなくてもと思う現役生がいたら、1年くらい、大きな気持ちで構えていいのではないでしょうか。長い人生、1年くらい、駒場の3年目や、離婚や、放浪放蕩や、悪所通いでたちどころにトントンになってしまます

受験生のみなさんのご武運を、ねこちゃんたちと共に心よりお祈りします。長文、失礼いたしました。

2019-01-01

いつまでも賑やかな正月が続くものだと思っていた

正月には、祖父母の家に一族が50人ぐらい集まってとても賑やかだった

さな頃は、正月しか会わない人が大好きな祖父母の家にたくさんいて怖かったりもしたけれど

歳をとる度に怖さはなくなり賑やかな正月が楽しみになっていった

ところが祖父がなくなり訪れる人が2/3ぐらいに減った、高齢になり長距離の移動が負担になったというのもあるだろう

そして、数年前に祖母が亡くなり、正月に顔を見せに来てくれるはいなくなった

ぼく自身帰省しないことが多くなった

今は6畳間で1人、はてなを見てる

2018-12-31

年末年始の過ごし方

まれてこのかた年末には実家に帰って大掃除してお節作って紅白見て

年が開けたらお節食べて親戚まわりみたいな年末年始ばっかり

別に嫌ではないけど、友達が何かのカウントダウンライブ行ったとか友達同士集まって呑んでたとか海外行ってたとか聞くと羨ましい

今日もこれから祖父母紅白

2018-12-30

帰省したら母親無所属新人になっていた

久しぶりに帰省したら母親来年統一地方選立候補を表明していたので、海外に住んでいるという私の立場を使えばどこまで公職選挙法をハックできるか試してみたい。

私の母親祖父母会社を引き継いだ中小企業社長だが、政治への関心は昔から高かった

私:海外在住の日本人

私の配偶者:私と一緒に暮らす外国人メール電話だったらネイティブスピーカーか分からないレベル日本語は使える。

例えば、何かしらの宣伝物も私の配偶者勝手海外から発信した、という程にすれば、公職選挙法の縛りは受けるのだろうか。

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