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はてなキーワード: ヒルベルトとは

2019-01-06

anond:20190106121505

ヒルベルトゲーデルも準備不足だったね?

でも不完全性定理証明されてますよね?

宗教って体験が伴ってるでしょ?=論理経験が一致する地点がある。

そんなことは言及していない。

私は「有限的算術を含む無矛盾数学形式体系」が増田定義する「宗教」に含まれると言っている。

キミは論理を構築したり、観測する主体は何か?証明できるかな

「有限的算術を含む無矛盾数学形式体系」が増田定義する「宗教」に含まれるかどうかとこの議論無関係

キミが生きて経験していること自体が「証明」になっていることは理解できるかな

論理的。

それは数学ではない。

数学的な証明個人的経験ではなく形式体系で行われる必要がある。

2018-10-29

自然数と正の偶数は同じ数だけ存在する」←この話の正しい説明

この話に関する最も愚かで、最も多い人種説明は、全単射だのヒルベルトホテルだのを持ち出して的外れ解説をした挙げ句、「人間感覚裏切られる数の性質ひとつ」などとのたまうアレである本質をまるで理解せず、明らかな矛盾や自らの違和感を深く追求することもせず、権威を前に思考停止して、自分よりは深くものを考えている人たちが納得できずにいるのを見て優越感に浸る真性のゴミカスである

頭の働く人であれば、無限集合の「大きさ」の定義一般的定義とは違っており、表題のような混乱を招かないため新たに「濃度」という語が定義されている、ということを明言するだろう。この話ではそもそも言葉定義知識と違うのだから齟齬が生じるのは当然だ。この再定義を経ずに表題結論に至るとしたら、間違っているのはそちらの方だと言ってもいい。受験レベル数学的帰納法でも偶数自然数より少ないことは証明できるだろう。これが感覚であるなどと、よくもまあ言い張ったものである

参考までに、次のロジックなら誰もが納得できるだろう。『2つの無限集合において集合の全ての要素が1対1で対応するとき、「2つの集合は大きさ(濃度)が同じである」と言う。無限集合A={1,2,3,...,n,...}と無限集合B={2,4,6,...,2n,...}は各要素が1対1で対応するため大きさ(濃度)が同じである』。これは数学的にも直感的にも何ら欠陥の無いロジックだ。

さて、定義を改めればひとまず納得することはできる。だが逆に言えば、一般定義で見た場合に明らかな誤謬が生じているという事実は残っている。集合の要素が1対1で対応するのであれば同じ大きさである、というのは一般的にも間違いなさそうに見えるからだ。真理を冒している論理の誤りがどこにあるのかを明らかにしてこそ、この問題を十分に考え抜いて理解したのだと言えよう。

違和感がどこにあるかは、おそらく誰もが直感的に分かっている所だろう。すなわち、仮に集合Aを100までに限ると、集合Bは200までの偶数となる。一方では100を上限としながら、もう一方では102~200までを考慮してもいいのだろうか。普通自然数偶数と言われてこのような解釈をすることはまずありえない。この矛盾感が、無限集合という言葉を盾にされても看過しがたいものに思えているのではないだろうか。その直感は何も間違っていない。それこそが核心である。何故なら「正の偶数自然数に含まれなけれなければならない」からだ。要素を1対1で対応させようとすれば集合Bは必ず集合Aに無い要素を含む。そのため自然数に含まれるという本来定義を満たすことができない。集合A={1,2,3,...,n,...}を自然数、集合B={2,4,6,...,2n,...}を正の偶数の集合、とすることは各々では正しくとも、偶数定義自然数が関わる以上は両者の定義上の関係性を改めて保証する必要が生じていたのだ。かくして表題のような誤謬が生じたわけである

2016-10-26

0.999…=1は公理じゃねぇぇぇぇ

0.999…が1と等しい事がわからん中学生がいる、っていう増田エントリ[1]があって、

それに対してわっと氏が「等しいのは公理から」って返答[2]している。

[1] http://anond.hatelabo.jp/20161024040352

[2] http://watto.hatenablog.com/entry/2016/10/25/133000

いや、ちげーよ!!というのが本稿の趣旨である

ちなみに私は[1]の増田とは別人。

わっと氏の主張のどこが間違っているか述べる前に、

じゃぁ、0.999…=1となる本当の理由は何か、というのを先に書いておく。

そもそもなんとなくごまかして「0.999…」と書くことで9が無限に続いている事を表現しているが、

実際には人間の有限の寿命無限個の数字を書けるわけもない(ヒルベルトの「有限の立場」)。

なんで、実際には有限個数であるn個の9を書いて、そのnをどんどん大きくしているのである

で、nを大きくするたびに、0.999…が1に近づくというのが、「0.999…=1」の正しい数学意味である

高校数学をわかってる人向けに書くと、ようするにnを無限大飛ばしときの極限を考えているわけ。

で、わっと氏の何が間違っているのか。

おめー、0.999…=1が実数体公理だってんなら、有理数体や複素数体の上では「0.999…=1」は

成り立たないってのか!?

当然そんなわけない。

まり実数体公理の中でもっと重要公理であるデデキントの切断公理が満たされないケース(有理数体)や

順序の公理が満たされないケース(複素数体)でも「0.999…=1」は成り立っているわけで、

「0.999…=1は実数体公理」という主張はおかしい(注)。

じゃぁ何が重要なのか。

答えは実数体の「距離構造である(更に弱く「位相構造」でも良い)。

先に極限の話をしたとき、0.999…の桁数nを大きくすると、1に「近づく」って述べた。

「近づく」ってのは「距離が小さくなる」ってことなんで、距離関係しているわけだ。

わっと氏が触れているε-N0式の極限の定義でも、

二点間の距離を使って極限を定義してますしね。

実際、実数体距離として通常の距離とは別のものをいれると、

0.999…は1に近づくとは限らない。

単純な例としては実数xとyの距離d(x,y)を

d(x,y) = 0 if x=y

d(x,y) = 1 if x≠y

定義する(離散距離)と0.999…(n桁)と1との距離

nがいくつであっても常に1なので、nを無限大飛ばしても

0.999…は1に収束しない。

(注)もちろん、実数に関する性質を導くには必ず実数公理を使うわけだから

そういう意味では「0.999…=1」の証明実数公理を使うことにはなるんだけど、

そんなこと言い出したら「πは超越数」とか「5次方程式は解の公式を持たない」とか

実数に関する全ての定理実数公理を使っていることになるでしょ。

★追記

わっと氏の新しい記事を見て、わっと氏が何を勘違いしているのかわかった。

勘違いしているのは、デデキント切断公理の意義である

切断公理の意義は何らかの実数存在性を示せる事だ。

例えば

0.123456789101112131415....

という小数を考えたとき、この小数の桁数を無限飛ばした極限の

実数チャンパーノウン定数)が存在する事を示すには切断公理必要となる。

しかし0.999...の場合収束先の実数である1が存在することは

(体の公理より)自明なので、切断公理必要ないのである

記事の「これはデデキントを遠目で見てます」という記述を見る限り、

わっと氏は無限絡みで実数直線を2つにぶった切るときは常に切断公理

必要になると思っているようだが、これは正しくない。

上述したようにこのケースはデデキント切断公理必要ではないので。

デデキント切断公理は「実数直線を2つにぶった切るとどちらかに必ず端点が

存在する」という趣旨公理であり、この最後の「存在する」が必要になる場合に使われる

公理なのである

2013-12-23

http://anond.hatelabo.jp/20131223203400

じゃあ数式使っていいかフーリエ変換をきちんと説明してみせてくれよwww

ウェーブレットやヒルベルト空間論、関数空間からめたやつww

分かってないから話をずらそうとしてるのがバレバレ

2013-09-18

http://anond.hatelabo.jp/20130918042535

普通に大学院の在学中の人だけで集まっても、そこで「二階微分」どうこうの例え出したらひきますがな。。。

それはさすがにレベル低過ぎじゃね???

俺が学生の頃は「あの子内積とりたい」とか(ディラックブラケットを思い浮かべること)、数少ない女の子に群がる男を見て「ボーズアインシュタイン凝縮してる」とか、そういうのが普通に日常会話だったが。

今は社会に出てるので線形代数あたりのネタが多いな。内積も当然線形空間ネタなんだが、なんというか、ディラック記法を踏まえた文脈かどうかの違いが本質的物理系のヒルベルト空間必然的にその上に作用する作用素とセットだから

数学科人間なら二階微分なんて雑魚い例えしないし、

2階微分は2階微分であって、雑魚もなにもないでしょ。

そもそも例えじゃなくて文化資本格差時間関数と見たときの厳密な表現だぞ。

他の科ならわざわざ数学に例えるなんてひくわぁ

文系ならそうだろうけど、理系でそれ言うと自分馬鹿さ加減を宣伝してることになるぞ。

まともな理系の知識持ってる人間だったら「2階微分」で意味不明と思うなんて有り得ないよ。

うちの会社とか、どう逆立ちしても入社すらできないだろうなあ。

しかしこういう「勉強ダセェw」みたいな子、10年ぶりくらいに見たな…。なんか懐かしい感じ。どういうバックグラウンドの子なんだろう。

2013-08-25

http://anond.hatelabo.jp/20130825003049

量子力学学ぶ前にヒルベルト空間勉強しだすやつ

素粒子論やるまえに代数論を勉強するやつ

ちなみに最後が一番建設的だとおもう

2013-08-09

http://anond.hatelabo.jp/20130809024711

俺の高校時代物理の教師はまだマシだったかな。それでも今にして思えば分かってねーなというところはあるが。

数学教師の方が数が圧倒的に多いから、変なのに当たる確率も高かったのかもしれない。

それにしても計量線形空間やらヒルベルト空間なんて、数学科なら線形代数関数解析最初の1コマ目でやるレベルだろうに。

どんな落ちこぼれだろうとそのくらいは理解しろマジでって思う。

http://anond.hatelabo.jp/20130809020458

それを説明するのにどれだけの前提が必要になるか、

あんたがもしほんとに計量線形空間ヒルベルト空間概念を理解してるなら分かるだろう?

まあ、きっちり説明出来ない先生が大多数なのは事実だけど、

それらを本気で教えようと思ったら、

授業の話しどころではなく、個人的に何日にもかけて教える必要がある。

それくらい分かるだろう?

それとも貴方は1時間程度で高校生ベクトル内積存在意義を教えられます

簡単で良いので書いてもらいたい。

http://anond.hatelabo.jp/20130809020458

なんで高校で出てくる有限次元空間ヒルベルト空間を理解しとけとなるのかわからない。

自分が説明できないことを他人に求めては行けませんよ。

も う 大 人 な ん だ か ら !

http://anond.hatelabo.jp/20130809005103

高校の時、ベクトル内積存在意義がわからなくて何度も先生を問い詰めたが「道具だからそういうもんだと思え」しか言わなかったのを思い出す。

あいうのは最悪だね。高校数学教えるくらいなら、計量線形空間ヒルベルト空間概念くらい理解して高校生にも教えられるようにしとけと言いたい。今なら。

往々にして教師もレベルが低すぎるんだよ。

2012-12-14

悪賢い人間学問軽蔑し単純な人は賞賛し賢い人はそれを利用する

悪賢い人間学問軽蔑し、

単純な人はそれを賞賛し、

ただ賢い人はそれを利用する。

まり学問のものは、自らの利用法を教えはしない。

フランシス・ベーコン

私は知識に何ものかを付け加え、また他の人々がより多くのものを付け加える手助けをしたい。

G.H.ハーディ

自分は25点、リトルウッドは30点、ヒルベルトは80点、ラマヌジャンは100点」

ゴッドフレイハロルドハーディ

2009-10-05

[][]ブラウワーは正しかった・・・か

ブラウワーである[要検証]。彼は、数学概念とは数学者精神の産物であり、その存在はその構成によって示されるべきだという立場から、無限集合において、背理法によって、非存在の矛盾から存在を示す証明を認めなかった[要出典]。それ故、無限集合において「排中律」、すなわち、ある命題は真であるか偽であるかのどちらかであるという推論法則を捨てるべきだと主張し、ヒルベルトとの間に有名な論争を引き起こした。[要出典] ヒルベルトの形式主義は、直接的にはブラウアの主張から排中律を守り、数学の無矛盾性を示すためのものと考えることができる[要検証]。

ブラウワーは「AであるかAでないかが分からない場合もある」を説明する例として、「円周率無限小数の中に0が100個続く部分があるかどうか分からない」というものをあげていた。

あるとき、ブラウワーがこの話をしたとき、「しかし神なら100個続く部分があるかどうか分かるのでは?」という質問を受けたが、 ブラウワーはそれに対し「残念ながら我々は神と交信する方法を知りません」と答えた。

しれっと言う

憎いねぇ

2009-05-15

http://anond.hatelabo.jp/20090515125958

であっても引用文の電磁気学量子力学に変えればそのまま通る話でしょう。論旨に影響しない。正直いって,あなたが何を言いたいのかわからない。数学は常に現実世界と対応する,数学世界の射影であると主張したいの? ならヒルベルトから勉強しろと返せば済むんだが。

2008-07-26

数学オタが非数学オタの彼女数学世界を軽く紹介するための10題

cf.) http://anond.hatelabo.jp/20080721222220

まあ、どのくらいの数の数学オタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、その上で全く知らない数学世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、数学のことを紹介するために覚えるべき10の事柄を選んでみたいのだけれど。(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女数学布教するのではなく相互のコミュニケーションの入口として)

あくまで「入口」なので、思考的に過大な負担を伴う21世紀数学七大難問は避けたい。できれば学部レベル、難しくてもマスターレベルにとどめたい。あと、いくら数学的に基礎といっても義務教育を感じすぎるものは避けたい。数学好きが『三平方の定理』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。そういう感じ。

彼女の設定は

数学知識はいわゆる「高校数学」的なものを除けば、テイラー展開程度は使える

理系度も低いが、頭はけっこう良い

という条件で。

まずは俺的に。出した順番は実質的には意味がない。

ブルバキ数学原論ニコラ・ブルバキ

まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「ブルバキ以前」を濃縮しきっていて、「ブルバキ以後」を決定づけたという点では外せないんだよなあ。ページも7000以上だし。

ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。

この情報過多な原論について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報彼女に伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」試験としてはいいタスクだろうと思う。

四色定理(ケネス・アッペル、ウォルフガング・ハーケン)、ケプラー予想(ヨハネス・ケプラー、トマス・ヘールズ)

アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうな証明(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの

という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには一番よさそうな素材なんじゃないのかな。

数学オタとしてはこの二つは“検証”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。

ヒルベルト23の問題(ダフィットヒルベルト

ある種の難問数学オタが持ってる公理への憧憬と、ヒルベルト教授数学オタ的な考証へのこだわりを彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにもヒルベルト的な

「証明できないことを証明するカッコよさ」を体現する連続体仮説

公理主義好みジョーク」を体現する物理学公理

の二つをはじめとして、数学オタ好きのする問題をちりばめているのが、紹介してみたい理由。

位相幾何学トポロジー](レオンハルトオイラーカールフリードリヒガウス他)

たぶんこれを見た彼女は「ドーナツだよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。

この系譜の学問がその後生み出されていないこと、これが近代では大人気になったこと、欧州なら定理ラッシュになって、それが日本で花開いてもおかしくはなさそうなのに、日本国内でこういうのが生み出されないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。

ナッシュ均衡(ジョン・フォーブスナッシュ

「やっぱりゲーム理論は役に立つものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「囚人のジレンマ」でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この概念にかけるナッシュの思いが好きだから。

断腸の思いで選びに選んでそれでもパレート効率的ではない、っていうあたりが、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、その「部分最適戦略」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。

ナッシュ均衡による戦略を俺自身はダメとは思わないし、もう選択しようがないだろうとは思うけれど、一方でこれがアメリカ旧ソ連だったらきっちり冷戦にしてしまうだろうとも思う。

なのに、各所に頭下げて迷惑かけて部分最適戦略を選んでしまう、というあたり、どうしても「自分の利得を最大化してきたものが捨てられないオタク」としては、たとえナッシュ均衡がそういう概念でなかったとしても、親近感を禁じ得ない。概念自体の一般性と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。

ユークリッド原論(エウクレイデス)

今の若年層でエウクレイデス(ユークリッド)見たことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。

キリスト生誕よりも前の段階で、数論とか初等幾何とかはこの原論で頂点に達していたとも言えて、こういうクオリティ数学書がエジプト紀元前に書かれていたんだよ、というのは、別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなく数学好きとしては不思議に誇らしいし、いわゆるマス北野数学者と思ってる彼女には見せてあげたいなと思う。

フェルマーの最終定理ピエール・ド・フェルマーアンドリュー・ワイルズ

フェルマーの最終定理の「設問の単純さ」あるいは「投げっぱなし感」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。

「この余白はそれを書くには狭すぎる」的な感覚数学オタには共通してあるのかなということを感じていて、だからこそアンドリュー・ワイルズの行き着く先はフェルマーの最終定理以外ではあり得なかったとも思う。

「一般化された予想問題を解く」という数学オタの感覚今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」の源はフェルマーの最終定理にあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。

ギリシアの三大作図問題(ギリシア時代の数学者たち:詳細不明)

これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。

ういういかにも簡単に解けそうな作図をこういうかたちで問題にして、その証明が非オタに受け入れられるか気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。

数学ガール(結城浩

9個まではあっさり決まったんだけど10個目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的に数学ガールを選んだ。

ブルバキから始まって結城浩で終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、ネット時代以降の数学萌えの先駆けとなった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。

というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10個目はこんなのどうよ、というのがあったら教えてください。

「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。

こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。

2008-04-23

http://anond.hatelabo.jp/20080423003651

自然科学系か…。一応ビジネスマン向けっていう指定があったから避けたんだけども…。


ボロが出まくってるんでもうやめますすみませんでした。

2008-03-20

生物学的に、ではなく人間的に生産的になるたったひとつの方法

それは、オナニー楽しみのための性行為を断ってしまう、それだけである。

僕は、随分昔から同性愛者にあこがれをもっていた。

彼らは異様に生産的である。母集合の少なさに反して、仕事や、芸術という分野にとてつもないアウトプットを残す。

ミシェル・フーコーなんかもそうだし、ケインズなんかもそうだ。

音楽芸術の面だとさらに多岐に渡る。最近じゃRufus Wainwrightなんか凄まじい迫力のある曲を残している。

いつだって僕はそれを疑問に思ってきたし、自分もそうありたいと思いながらわずかながらの人生を生きてきた。

しかし、同時に、それは単純な憧憬、もしくは彼らの仕事に対する尊敬であって、決して自分は同性愛に傾くことはないこともわかっていた。

僕はやっぱり同性のハダカを見ても性的に興奮することはできないし、それよりも女性の裸体を愛撫しているほうがよく反応する。

ある意味幸福でもあったろう、と思えるが、それは同時に喪失でもあった。

自分の才能のなさ、を呪うこととはすこし質の違った喪失感である。(※自分に才能があるとは到底思えないが、それとは違う)

それはたぶん、アメリカ白人黒人の文化・芸術に抱く憧憬と喪失感によく似たものである。

エミネムバーバーショップトロイ・ギャリティのように、同質化することを望むけれど、自分自身を完璧に同質化させることはできない。

また、詳解はしないけども、今のコンシューマゲームに関る人々が、昔のコンソールのゲームをこよなく愛する感情によく似ていると思う。

そうして、ここまで考えたときに、ふと気づくことがあった。

数ヶ月前のことだ。

人間は、どんな状況においても、「子孫を残す」ことを求める傾向があると思う。たぶん、それは生物だからだろう。

人間歴史上絶えて久しかったことなんてなかったわけだし、広島長崎にだって木が生えて人も生殖したのだ。文化すらも残ってくれた。

生物だからこそ、危機に陥ったときは性交における子宮定着率が高まるのだろうし、スライムモルドだって特異な形態をとってのりきろうとするわけだ。

そして、同性愛者は生物学的には常に危機に瀕している。あたりまえだが。

だからこそ、彼らは自分の遺伝子生物学的とは違うベクトルで残してゆく方法を無意識的に模索しているのではないか。

それこそ、ロレンスがいった

ぼくはどうして偉大な人物とされるほとんどすべての人々が、それを認めているか否かに関わらず、同性愛に向かう傾向にあるのか、そしてその結果女性身体よりも男性身体をいっそう愛するようになるのか---確かギリシア人がそうだったと思うのですが---、その理由を知りたいのです

(1913年の書簡。http://d.hatena.ne.jp/kingfish/20060412から引用)

の回答なのではないか。

「人は子孫を残す。生物学的にしろ、生物学的でないにしろ。」

実際そう考えてみると、合点のいくことは結構多い。

偉人ばっかだして恐縮なのだが、宗教的であれ、個人的にであれ、性活動を制限していた偉人というのは多いのである。

カントだって童貞だし、ゲーデルヒルベルトだってそっちの執着はあまりなかったらしい。

そういえば分裂感違い君もそんなかんじのエントリ書いてた記憶がある。オナニーやめたとかなんか。※切込隊長もそうだったね

また、生物学的な生殖行為への渇望といったものから得られる感情もよく似ているといえば、性行為に貪欲すぎた人とかも挙げればキリがないほどにいる。

ここらへんだったら、専門外だけど歴史上の日本人にもとてもとてもいそうだ。※たぶん宗教的なもんが薄いから制限してた人が少ないんだろう

現代という時代は、恐ろしい時代である。

それほど才能のない僕らが、才能あるマッチョたちと対等に闘って生きていかなければならない。

そうでなければ、グローバリゼーションの中の雁行型経済発展に従って、

インドや第三国の才能ある外国人労働者におまんまを持っていかれてホームレスになってしまいかねない世界である。

僕は、この時代だからこそ、提言したいと思う。

我々は、生まれつきの才能がない僕らは、持てる思考回路をせめて有意義なものに使わねばならぬのでないか。

それを、オナニーや、楽しみのためのセックスや、男女関係の機微に帰着させるのはあまりにも軽率ではないか。

そこに脳がハマりこんでしまえば、たぶんその生殖行為こそが生物的にはあるべき姿だから、思考はそこから抜け出られない。

悪いわけではないんだろうけど、才能がない僕のような人間には、すこし損ではないか。マッチョになってからでもセックスはできる。

僕の提言はこうである。

「おまいら、オナニー楽しみのためのセックスをやめてみろ」

「そして頭のキャパシティから性行為と男女関係を抜け」

たぶん、これだけで、脳は今与えられている生殖本能に危機があり、と感じるはずである。

そして、脳はそのとき脳内にある違う意味での生殖や、生殖本能につながる能力を伸ばそうとするのではないだろうか。

生まれついての同性愛者ほどの生産性は得られないかもしれないが、少なくとも、脳を使う仕事に従事している人には、少なくとも効果はあるのではないだろうか。

これは余談だが、肉体を酷使する競技に従事している人は、性行為は試合前日には絶対にしないらしい。

友人に才能ある競輪選手がいるのだが、彼は「試合前にヤったらぜったいあかん。負ける」と言っていた。

試合前にヤったらどうなったか?そのとき、あまりの興奮に生でやったらしく、そのときの一回で子供が授かったのである。

たぶん、これも、ケースひとつだけど、人間の活動は生殖と深く関っている証明になるのではないだろうか。

まるで、イアン・マッケイみたいなハードコア意見なっちまった

でも、彼らだって、ありえないくらいプロダクティブだよね。

2007-10-09

http://anond.hatelabo.jp/20071009001647

私が元増田だ。君が噛み付いた記事は私のではない。

しかし、

それとも、数学無意味学問であることを私に説いてほしかったのか?

http://anond.hatelabo.jp/20071009001647

とか、

数学サイドの私としては、数学が「人間の思考の一部を記述する言語」などという寝言は寝てから言ってもらいたい

http://anond.hatelabo.jp/20071008235053

だの、

数学が「人間の思考の一部を記述する言語」と考える君は、哲学世界に足を踏み入れたと言えるだろう。

http://anond.hatelabo.jp/20071008235053

だのと、ずいぶんと喧嘩を売ってくれるじゃないかと思うのだが。

以下は蛇足。「頭のいい人は」云々の議論とは絡めないでいただきたい。

そもそも、数学が「人間の思考の一部を記述する言語」というのは自明な話である。そして、それは哲学屋から偉そうに言われる話ではない。たとえば、ラッセルとかヴィトゲンシュタインというのは、元々ヒルベルトという数学者研究を受け継いだ数学屋なのだよ。彼らの哲学は、数学の一分野でもある、あるいは数学から派生したものなのだ。哲学数学の基盤に常にあるなどと思わないでいただきたい。逆もあるのだ。

それからもう一つ。これも蛇足。

ところで数学科の人々の間では、柄谷行人って無名なの?

http://anond.hatelabo.jp/20071009000754

これかね?柄谷なんて門外漢に指摘されて始めて気付くような話でもあるまい。ちなみに、柄谷は無名ってこともないだろうが、どっちかといえば敵視されるんじゃないのかな。事情は「ソーカル事件」でぐぐればよい。

追記

トラバが変なところについてしまったが、http://anond.hatelabo.jp/20071009000754の人は気にしないで頂きたい。トラバ誤爆である。

2007-10-08

とある元エセ数学屋のぶつくさ

「頭のいい人は説明もうまい」問題で、一番肩身が狭いのが数学屋と哲学屋。哲学屋さんの弁解は哲学屋さんに任せるとして、エセ数学屋の立場からその弁解を書かせて欲しい(哲学屋さんも事情は似たようなものだと思うけれど)。

まず、世間では誤解されてると思うのだが、数学というのは理系の他分野(物理学とか、生物学とか)とは少し性格が違う。数学は、具体的な対象を想定しない。むしろ、具体的な対象と遊離したところを記述するための「言葉」を作る学問なのだ。

よく言われることだが、新たな数学理論発見とは、わかりやすい概念や記号法を発明することといっても過言ではない。一番わかりやすいのが「未知数をxなど文字で置き換える」というものだろう。これによって、古代エジプト古代ギリシャ賢者大勢を悩ませた問題も、中学生の練習問題に早変わりする。しかし一方で、多くの賢人を悩ませた問題を少数の記号やキーワードに集約するのだから、そもそもそんなものを簡単に説明できる方がおかしい。中学校あたりから数学が途端に難しくなるのはこのためだ。

抽象概念を説明することの難しさは、プログラミング世界とも共通している点があるだろう。たとえば、「多態性 (polymorphism)」という言葉機械音痴の人に説明できるだろうか、考えてみてほしい(このたとえのわからない人は、次の段落まで読み飛ばしてほしい)。もちろん、例えば「同じ『鳴く』という動作でも、犬は『ワン』で、猫は『ニャー』だ」などと、わかった気にさせるようなたとえ話でごまかすことはできるだろう。だが、そんな「説明」が役に立たないことは明らかだ。「そんなことの何がすごいのか、ポリバレントだかなんだか知らないがそんな偉そうな名前をつけるほどのことか」とかいわれて終わりである。現実に「説明」を求められる場合とは、「誰かに金を出させるために説得しなければいけない場合」なのである。ユーザ企業に「オブジェクト指向による開発」の必要性を説得するとき、そのような子供だましでは金を出してもらえないことは明らかだろう。

そして数学は、プログラミング言語よりもっと包括的に「人間の思考の一部を記述する言語」なのである(正確には、コンピュータサイエンス数学の一分野である)。そして、プログラミング言語などという概念たかだかこの数十年のものにすぎないが、近代数学は数百年の積み重ねがあるのである。素人専門家の乖離にもそれだけの差があると思ってもらって構わない。説明が絶望的に困難なことは明らかだ。その困難さは、たとえば英語を知らない子供に「関係代名詞」を説明するのと同じぐらい難しい。いや、数学は「頭の中の普段使っていない部分」を使う言語だから、英語などよりもっと難しいと言っていいかもしれない。英語日本語の間では直訳はできないことはないが、数学語やプログラミング言語日本語の直訳は不可能だからだ(できるのならば、プログラマは全員失業である)。

しかし、こうした事情を多くの人はわかってくれない。そこで、「数学屋(と哲学屋)は物事をわざわざ小難しく説明する権威主義者だ」だの「他の分野の専門家に比べて説明能力に欠けている」だのと非難を浴びるのである。こういうハンディを背負っていることがなかなかわかってもらえないのである。

追記

多態性のあたりはあまりいい例ではなかったかもしれない。犬はワンで猫はニャーというのは、多態性という概念の発想を適切にとらえたたとえ話ではあるからだ。純粋数学の場合は、こういうわかりやすい例が見あたらないものも多いのである(たとえば「解析関数」を「複素数」や「微分」を知らない人に説明するとなるともうお手上げだ)。無論、こういうたとえ話が、多態性概念プログラミング世界でいかに有用であるかを説明することにほとんど貢献していないのは明らかだけれども。プログラミング経験がない人には、それだけのことがいかに役に立つのかなど到底実感ではわかってもらえないだろう。

蛇足

なお、こんな記事が話題になっているが、この程度の説明ならまともな数学屋なら誰でもできるので念のため。このスレッドの住人はsinとかcosのような高校数学概念も怪しかったわけだが、そんな人を相手に文中に出てきた「バナッハ空間」だの「ヒルベルト空間」だのの説明をさせられたらとても困っていたはずである。正直、これらの概念専門家には「イロハのイ」レベルのことに過ぎないが、ピアノで「猫踏んじゃった」しか弾けない人に「エリーゼのために」を教え込むのと同じぐらいは難しいだろうと思う。それぐらいのレベルの差がある。

蛇足の蛇足

ついでに、上のスレッドで挙がっている「日本語論理的でない」とか「英語フランス語数学に向いている」というのはウソと言える。言語能力は、相互に翻訳ができれば等価であるといってよいからだ。実際問題としては、論理的で厳密な文章ほど、直訳は簡単である。つまり、言語による論理能力の差というものは存在しないといってよいのだ。言語によって一番表現力の差が生じるのは、むしろ「前衛詩」のような、一番「論理的でない」部分である。

2007-09-10

彼女にふられた話

先日、彼女にふられた。

ぼくの短い人生の中で、ものすごく愛した彼女だった。

高校を出てからそういう話がとんとなかったなか、ようやくできた彼女で、

そういった思い入れもあったんだと思うけど。

向こうも、昔にあったさまざまな出来事のせいで男性不信なとこがあって、

ぼくの恋愛面での無知さが純粋に思えたのだろうか、何故かお互いに好きになった。

なんで付き合うことになったかはいまでもよくわからない。

とりあえず気づいたころには、関係が始まっていた。

はじめは何で会ったんだろう。

ぼくがやってたライブ彼女が来たのがはじまりか。

ぼくは正直演奏するのはうまくないし、キレも悪いけど、必死さがなんかむこうの心んなかに残ったみたいで、

二週間ぐらい断続的にぼくが夢にでてきたらしく、mixiで連絡をくれるようになった。

とてもとても頻繁なメールの後、馬鹿みたいに電話をして、急激に会いたくなって、

会いたい!とか言ってほぼ車を運転したことのないぼくがレンタカー借りて40kmぐらい離れた彼女地元まで行って飲んで次の日まで一緒にいたりとか

向こうが地理的に全然はなれたところに用事でいってるのに「会いたくなった」とか言って会いにきたりとか、

わけのわからないぐらいガソリン情熱を消費した。

そこから、付き合いだすのまでは早かった。

一年半ぐらい、そういう時期が続いた。

とりあえず地理的な隔絶をものともせず、会いまくって話をしまくって愛し合いまくった。

いま考えれば、ぼくと彼女は一体なにを話していたのだろうと思う。

ぼくらふたりは、バックグラウンドや、趣味も、全然違っていた;

ぼくが中学高校のころに、プリンストム・ウェイツを聞きながら数学ばっか勉強してるころに、

彼女タバコをふかしながらケラケラ笑って昭和歌謡クラブ系の音を聞きながら「ポリをまいたり」したりしてた。

ぼくの憧れだったのはヒルベルトで、彼女の憧れだったのは岡田准一と荒くれNIGHTだった。

正直、いまでもよくわからないけど、なぜか共感しあうことが出来た。

彼女の親にも紹介され、こっちの親はちょっとヤンキーっぽいから、と毛嫌いしつつみとめていき、

なんかよくわからんぐらいうまいことすすんだような気がする。

大学卒業して関西の院にいくことになっても遠いけど一緒に行くよって言ってくれた。

ぼくは、そのことばがとてもうれしくて、ながいこと続けていたバンドをやめて、将来のことをしんけんに考えようと思った。

ちょうどそれぐらいからだったような気がする。

彼女の様子がすこしづつ変になった。

毎日50つうちかくきてたメールが、ぱたりとこなくなった。

仕事にいくまえと、帰ってきたあとだけとかになった。

別に浮気しているわけでもないようだし、ぼくが嫌いになったわけでもないようだった。

ただ、自分の部屋から出たくない、とか言って、部屋でとじこもってることが多くなった。

どこにいっても、どこで見ても、仕事場に用事でいったとき偶然すれ違って顔を見たときも、同じ顔をしていて、

とてもとても苦しそうな顔をしていた。

見てるのさえつらかった。

会える日は、当然のように減っていき、連絡もとりにくくなった。

バンドを最終的には喧嘩別れ、みたいな形でやめたのもこのころで、

友人の多くを切ったことになったその夜のことも、彼女に結局その話をすることもなかった。

彼女は付き合いで連日のように深夜まで飲んで帰ってきては、部屋で死んでいる。

もう、よくわからなくなった。

会えなくなって、三ヶ月ぐらいたったあと、ぼくが詰問したのが切欠だった。

 会えないのは、しんどいならそれでしょうがない。

 けど、どうして付き合いでは飲みに行くのに、俺とは会えないのか。別れたくてそんなことしてるのか。

メール送って、二日ぐらい待ったあと、「なぁ、友達にもどろうぜ。オレ、正直しんどいんだ。」彼女はそういって電話をかけてきた。

浮気してるわけでもないし、別れたくてそんなことをしたわけでもない。ただ、しんどかったんだ。」

オマエといっしょにいると、彼女といっしょにいるみたいだ。オレがわからないのなら、それでいい。ひとりにしてくれ

会いに行こうと言い出したが、それもしんどいんだ、ってことで拒絶された。

「どうでもいいひとじゃないから、友達って形ででも一緒にいてほしいんだ」

二日ぐらい悩んで、結局彼女希望を受け入れることにした。

彼女を苦しめたのは或る意味ぼくのかけた重圧だったんじゃないか、とか思った。

真剣に考えることは或る意味で重圧にもなるし、彼女の両親もおいらをすごく認めてくれていたのも彼女の重圧になったんじゃないか、と思った。

俺はなにもできなかったし、間違っていたんだと気づいた。

それから一ヶ月ぐらい、普通の友達っぽいメールをした。

そのあと、ぼくの誕生日がきて、彼女はいまでは遠くなった地元から、二日休みをとってきてくれた。

まだしんどそうな顔をしてたけど、普通に飲んで、あそんで、しゃべって。

でもすごく切なくて、ぼくは結局最後に、もう一度、やりなおさないか、ってことを言った。

無理だよ、って言われた。そのあと、メールがぱたりとこなくなった。

そんな顛末。

或る意味でぼくはとてもとても自分勝手だったってことだろうと思う。

相手のことを考えたような行動ってことが、相手に対して負担なときもあるんだって言い方で表現できるだろうか。

それでもぼくは彼女のしんどさを理解することができなくて、爆発してしまって、ふられた。

ぼくは、とても好きな人のことを、しんどくさせたことを、そのきっかけを今ようやく理解して、このエントリを書いている。

もし、もし、だし、たぶんこんなことはないと思うけど、もう一度やりなおせたら、彼女のことをもっと考えられるようになろうと思う。

でもそんときには彼女のそばにおるのはぼくじゃないのかもしれんし、俺のそばにおるのもあいつじゃないのかもしれん。

それもいいんだろう切ねぇけどちくしょうとか思うことにした。

 
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