はてなキーワード: かにとは
いろんな映像作品を見てきたけど、あれと同種のかっこよさ、って体験したことがない。
あの特徴的な演出もそうなんだけど
登場人物のひとりひとりがすごく立っていてかっこいいでしょ。
洗練されている。
どういう流れをくんでいる映像作品なんだろう。
https://bunshun.jp/articles/-/65980
この記事読んで色々と疑問に思った。
出産したらしばらくは動けないんじゃないの?
前回の増田の補足。
頭が冷えたら投稿しようと下書きに沈めていて、そのままタイミングを見失っていた。
注意 性虐待に関連する記述があります。フラッシュバック等がある人は注意してください。
前回の下書きが完成して真っ先にしたことは、多数派に不快感を与えそうなワードを削ることだった。話の幅を狭めてでも、固有名詞と具体的な性被害、実際の事件を想起させる表現をなくした。
できるだけ多数派の繊細な部分を刺激しないよう気を遣った。思ったままに書けば、斜め読みで脊髄反射の罵詈雑言を浴びせられて終わる確信があったからだ。
拙い筆力をしぼって敵意を抱かれなさそうな表現を選んだ。
結果的に冗長な記事(この記事もきっとそうなる)になってしまったが、
・小児性犯罪者(チャイルドマレスター)への怒りを転嫁しないでほしい
この3点は伝わる形で表せたのではないかと思う。
が、問題はそこではなかった。読み手が文意を汲もうとしてくれるかは全く別の課題だった。
ただ意見を表明しただけで石を投げられる状況を被差別階級に準えている人がいて、それが実に言い得て妙で暗澹たる思いだった。
わりとムキになる性質の私は、追記でその全てにレスしそうになった。そういうことじゃないんです、と。
しかし、実行すれば被害者面をした異常者の逆ギレだと誹りを受けるのは想像に難くない。
治療しろ・嫌い・差別されても仕方ない・元ペドの知人は大人の女と結婚した・諦めろ・いつか飽きる・矯正できないのか・薬を飲め・首を吊れ・死ね・しね・しねよ……酷いもののうち、いくつかは削除されたようだ。
小児性愛者として名乗り出るのは内心の自由から外れている、だからお前は何も語るなという呆れた話も複数出ていた。
あげく「何が辛いのかわからない」
トラックバックとブックマークに並ぶ、理性を投げ捨てた暴言の数々、これが辛さだ。小児性愛者として生きるのは苦しいと吐露しただけで苛烈な攻撃を受ける。
「生まれてくるな」
小児性愛者も人間だ。好意、交わりたい欲求、実行してしまう衝動性はそれぞれ独立している。少なくとも私は自制できているし、実在児童を襲いたいとも思わない。
もちろん小児性愛者の一部に認知の歪んだ者がいることは否定しない。
では、児童への性加害者が多数属する異性愛者は、おしなべて反社会的なのだろうか。
繰り返すが、「無害な性的指向」の範囲を決定するのは多数派の胸三寸でしかない。多数派の暴力的感情論が少数派の階級を決定している。
ただ、すべての大人は、子を持つ人の警戒と不安を甘んじて受け入れる必要がある(いわれなき中傷は勘弁願いたいが)。
そして加害する大人は外面だけで選別するのが難しい。
セクシュアリティに関係なく下心を持って子供に接触する危険な輩はいるので、みだりに近付く人には注意するに越したことはない。
個人的体験談を語りたい。私に性加害したのは13歳年上の従兄弟だ。小学生の間はたびたび親戚の家に預けられていた。そこで何度も被害に遭った。加害者の従兄弟は現在成人の女性と子をもうけたのち離婚し、別の成人の女性と再婚しているらしい。アイツのせいで私はろくな性体験もないまま性器ヘルペスの保菌者となった。早く死ねばいいと思っている。
従兄弟のような少数の犯罪者が多数の被害者を生み、とばっちりのような形で属性ごと糾弾される苦悩は、小児性愛者でなくとも男性なら多少なりとも共感していただけるのではないか。
私は自分に性加害した人物と同じ括りで異常者扱いされるのは極めて不本意だ。
社会は小児性愛者を抑圧するより先に、チャイルドマレスターの概念の周知と対策について議論すべきではないか。
あなた方は先入観に基づく嫌悪にばかり注目して、問題の根を取り違えている。
気味悪がって疎外する前に、知ろうとしてほしい。
市民権を与えろと言うのではない。奪わないでほしい。
小児性愛者に限らず例え20代にせよある一定の年齢までしか愛せないというの、人間は絶対に歳をとるのに相手が老いたら性愛の対象じゃなくなるのが、自分の欲望ありきで相手を人間扱いしてないように思えてしまう。
「成長」を別の現象に置き換えれば理解してもらえるかもしれない。たとえば「5年付き合うと恋人の性別が変わる呪い」にかかったと想像してほしい。彼女が筋肉バキバキの髭達磨になる。彼氏が小柄で声の高い女性になる。それがきっかけで別れたとして、原因は果たして相手を人間扱いしていなかったからでしょうか、という話だ。
仮に心から好きになって成長したら(学年が変わったら?)好きじゃなくなるのってどういう感情なんだろうって。「◯年生? 無理」みたいなの。
小4以下と書いたのは二次性徴の兆候がある子が少ない時期だからであって、数字そのものにこだわりはない。見た目の問題なのだ。
俺はジブリでいうと宗介やマルクルのような子に特に魅力を感じるのだが、もし宗介が実年齢15歳だったとしても別に冷めはしない。ゲイが外見次第でトランス男性と付き合うようなものだ。
また、同じ当事者でも、好きになる「発育度合い」にはかなり個人差がある。思春期前期にこそ惹かれる人も少なくない印象だ。
性欲はあるが、並外れて強いわけではないと思う。私はあなた方と同様に自分を律せるので、実在児童を襲うことはない。
だけど性欲をゼロにもできない。だからせめて代替手段を奪わないでくれと繰り返しているのだ。なにも大手を振って通りを歩かせろというのではない。
自分でもわからない。根っからのペドが偶然被害に遭っただけかもしれないし。
純粋に、小児性愛であるという自覚をどう持ったかが知りたい。可愛いと感じる気持ちと性欲がどこでどう結びついたのか、そこにしか性欲が湧かないと自覚したのはいつなのかが気になる
本格的に目覚めた時期は中学生ぐらいだったが、それ以前から年下が好きなことには薄々気付いていた。
きっかけはネットで小さい子のスナップ写真やイラストを見てめちゃくちゃ可愛いくて興奮したことだと思う、たぶん。それからはネットで色々なものを漁った。
当時は規制が緩く、幼児も出演しているイメージビデオのシリーズ(※1)(※2)(※3)が普通に転がっていたりして、それを観る頃にはもうはっきりと「小さい子が好きだ」と自覚していた。
奇妙な話だが、私は児童そのものに惹かれると同時に、自分が児童になりたい気持ちが常にどこかにある。子供が可愛くて、もう自分がこれになってしまいたい。
小4ぐらいになって性的なことをしたいし、されたい。
なぜかこの願望は性虐待の記憶に干渉せず、虐待者への憎しみからは独立している。
※1 コンテンツが小児性愛を助長したという話ではない。遅かれ早かれ、どのみち私はこうなっていた。
※2 当記事は児童が出演する性的コンテンツを肯定するものではない。
※3 わかる人にはすぐわかるだろうがコメントに書かないように。
特に男性は肉欲と愛欲の距離が密接だから混同しがちだけど、誰かを愛してたり愛されたいんじゃなくて、一方的な欲望の捌け口にしているようにしているように見えるんだが…。異性愛でも同性愛でもそれはだめだよね?
愛し愛される関係には憧れる。しかしどうアプローチしたって、パワーバランスが極端に偏っている限り健全な関係は築けないし、相手の将来を思うと可哀想だ。だから何も望むべきではないと考えている。
口約束のみの交際なら、成長を待つまでもなく子供の気が変わって終わるだろう(※4)。
「シコるオカズが入手できない」ことを「生きるのが辛い」とまで言うのが理解できない。少なくとも、「パートナーとの関係を社会的に認めてもらえない」というLBGTの人の苦しみと同列に語れるものではないと思う。
「パートナーとの関係を社会的に認めてもらえないどころか、パートナーを作ることすら不可能でシコるオカズまでボコられる」という悩みはLGBTとは同列に語れないよな、確かに。
ゲイかつペドフィルかつ小児性被害経験者の俺としては、「ゲイはいいけどペドはダメ」という言説のあまりの多さに、己が分裂していくような思いがしますね。あーはいはい死ねばいいんでしょ、ぐらいの自棄さえ。
共感する。このコメントを読めただけで前回の増田を書いてよかったと思えた。
欧米なら2次表現も単純所持で刑事罰だったような?そういう意味では日本は大分恵まれてる?と思うが、何が生きるのは辛いんだろうか?
“欧米なら2次表現も単純所持で刑事罰だったような?”これが怖い。いつか欧米に右倣えで日本がそうなるかもしれないという不安が拭えない。
十五夜の月は厚い雲に隠されていた。彼女が慣れようとしていたものは社会で、もちろん俺はその彼女視点の「社会」の一部であり、最もイージーなファーストステージであると自認して、その「一番」という響きに勝手に酔ったりしていたものの、俺は彼女の中で「社会」の枠からはみ出ることはなかった。つまり厳密には個人的な交流などというものはなく、言ってしまえば彼女が社交辞令の技術を回復していく過程に付き合わせてもらっただけだった。と、いうことを今更認識して慄然としたりしている俺は哀れなほどの愚かさで、無理くり救いを探すとすれば、俺が交信と考えていてその実虚空に放っていただけの言葉が、俺という人間の輪郭を描き出すために役立った(?)ことくらいだ。ファーストステージでのチュートリアルプレーを何度も行いたいゲーマーはいない。俺の不必要さはこうして更に明らかになったわけだが、「やんぬる哉」などと口にしてみるだけで、まるでピリオドを打つ気がない自分がいる
ん?誤解していないか? 僕はジャニー喜多川の所業を徹底否定する。四半世紀前の文春報道にも拘わらず不問に付してきたメディアもだ。
ただ、昨日の午後からだらだら宮台氏の文章なり言動なりネットで眺めてて思ったのは、
上記の発言とは裏腹に、どう考えても過去の発言からして、宮台氏はジャニーズ側である、そこはほぼ一貫している。
山本直樹との対談なり、別の場所でも度々「武勇伝」のように語っているが、
電車の中で男性の痴漢にあったとか、それで勃起したとか、射精したとか、
寧ろそれがあったからこそ、18歳だったかで風俗に行ったとか、女性との性交に向かう励みに結果的になったみたいに繰り返し語っているわけで、
宮台氏は被害感情みたいなものを拗らせることはなかったように思われるし、
それから、これも山本氏との対談の中だと思ったが、ホモソーシャルというか体育会系というかで、
いわゆる「俺のソーセージを喰え」みたいな文化を全面的に肯定し、
そういったものを否定するようになっていく現状を嘆いていたはずである。
酒の席で先輩上司が部下の頭の上にチンコをのせて、チョンマゲみたいにやる文化を全面的に肯定している宮台氏が、
ジャニーズの件になると、いや、俺は否定するよ、というのは、まったく一貫性がない。
結局、自分の「武勇伝」を語るためのポーズや補強でしかなかったのである。
ほんと、飲みの席で自慢を始めると止まらないイヤなオッサンでしかない。
やたらにマスゴミとか言いたがる輩と根は同じである。やだやだ。
なんかやたらに宮台氏を持ち上げる人を見るに辟易してしまったし、
宮台氏本人も、自覚があるんだか知らんが、やたらと権力に弱いというか、
結局は右翼とか左翼とかがマイナーというか、権力側じゃないんだよね。
権力ってのは右とか左とかじゃなくて、政党としてメジャーかとか、
なんだかんだ権力に媚びてたり、そりゃ、あんな就活論書くわな、と納得がいく。
いや、否定したところでなにもはじまらない、現実を見ろ、は分かるよ。
でも、そんなことはバカでも分かってることであって、だったら長々と議論するのは無駄だよね。
現実を見ろ、
乳の大きいいい女とイチャイチャして、宇部興産へ新卒の面接に行け、
んなこたー分かってるんじゃー!
TVのエヴァを見たあと、エヴァなんてアニメごときに説教されんでも、みんなそうなって社会に出て行ったんじゃー!
今更シンとか決着がとか言われても、何十年も前に提出し忘れた夏休みの宿題今出すの、庵野くん?
まあ、俺は結果的に今はもう社会から脱落してしまったわけだけどさ…
しかし、宮台氏の不思議というか狂ってるところは、弱者というかマイナーには絶対的に厳しいんだよな。
弱者ってマイナー、少数派には含まれるけど、少数派=弱者ではない。
なんとなく、宮台氏はそういった少数派、マイナーにも厳しい感じがある。
自分だったら、俺はチキンだって自覚があるから、少数派にも恨まれたくないんだよね。
だって、自分が弱者だってのもあるけど、その少数派に含まれる反社会的な人たちとか、
窮鼠猫を噛むの弱者に刺されたりしたらイヤじゃん、そういう感覚が宮台氏にはないように思えたし、見事に刺されたんだね。
俺はそのとき病床だったんで、まったく事件も知らなかったんだけど。
山本氏との対談も宮台氏が一人で勝手にとくとくと語っている面積が大きすぎて、
「俺のソーセージを喰え」的な文化に日本人が否定的になってきていることにいつも嘆いているし、
他の文章も同じ文章でさえ一貫性がなかったり、整合性がなかったり、ふらふらしてる感さえあるので、
上記のツイートだけで、ジャニー喜多川に否定してるとか言われても困惑するだけというか、
暴力には屈しないけど権力には媚びる、少数派は叩くというのが宮台氏なのかなという気がしてならない。
ついでに言うと、やっぱりシン・エヴァンゲリオンは自分には不愉快だったよなぁ。
繰り返しになるけど、何十年も前の出し忘れた夏休みの宿題を今提出しますって生徒が来たら、先生は困惑するだけだと思うよ、
もう、そんな何十年も前のことなんて、みんな忘れて社会人生活送ってるわけだし、
何を今更律儀にそんなことやってるの?みたいに思ってしまうというか、
社会に出てストラグルするしかなかった側として不愉快でしかないよ。
新卒の頃は自分だってまだ輝いてたと思うんだよ、良かったねシンジくん(呆れ顔で)でしかない。
やっぱり主人公がイケメンでエリートで無双だったり、それでハーレムだったり、そりゃそうだろというか、
無職転生とか物語としてよくできているし、正直、面白いと思う反面、
自分みたいに人生うまく行かなかった側からすると、不愉快ではあるよなぁ、と。
自分は転生する前側だからな、そして異世界転生なんて都合のいいことは現実にはないわけで、
惰性も含めて視聴して入るけど、繰り返し見ようという気にはならない。
単純にチートするのではなく、努力とか試練とか適度にあるから、面白くは感じられるんだけどね、無職転生は。
あと、最近の傾向として、社会を斜め上に皮肉ったりするのは寧ろ寒い、というのがある気がする。
そうなると、直球で社会を否定するか、肯定するか、みたいな表現になるんだけど、
直球の否定というのは、脳味噌お花畑の夢見る左翼活動家みたいで物語として弱くって、
そうなると、直球で社会を肯定する、つまり保守的?というか、体制側で物語を描く、それも直球で、
そんな自分からすると捻りがまったくないような作品が意外と売れる、ウケる。
つまり、ラノベの世界でさえ、陰キャとか少数派に向けたものではなく、
多数派とか、コミュ強とか、リア充とか、イケメンとか、そういった人種が消費するのがメインになってきている。
昔は宮崎勤事件も手伝って、そういった多数派リア充の人種はアニメや漫画自体を叩いて悦に浸ってたわけだけど、
エヴァとか辺りで風向きがちょっと変わってきて、今は大人がアニメ観てても恥ずかしくないぐらいの空気が醸造されつつある。
でも、宮崎富野庵野が言うように、俺も大人がアニメを観るのは恥ずかしい行為だと今でも思ってるし、
山本直樹氏が表現規制反対派にも冷淡なように、いわゆる萌え絵をラッピングバスに貼ったりとか、
巨乳のポスターで献血とか、俺もみっともないと思ってるんだよな、
山本氏が言うように、そういうのは家でこそこそやってればいい話なわけであって、
宮台氏の就活論を読んでも体制派というか権力に媚びてるようにしか思えないし、
シン・エヴァで庵野も結局はそうなったというか、丸くなったよね、と思って、
まあ、仕方がないという気持ちが一番大きいというか、ちょっとがっかりしたんだよね。
結局はエヴァにわざと開けた穴を今度は自分で埋めようとしているわけで、
今更?終わった話だよね?みっともなくない?とさえ思っちゃうんだよなぁ。
結局、歳を重ねるごとに人間は段々保守的になっていくのではないだろうか。
だって、結婚して、家族ができて、それを維持していかなければならないわけで、
でも、自分はそういう普通の人生を送れなかったから、まだ改革側に立ってしまってるんだろう、
社会を皮肉とかニヒルな笑いとかの描写でないとしっくりこないのだろう、
本当は自分はただ置いてきぼりにされただけなのにね。
あと、漫画で公安を描いたものとして、士郎正宗作品やパトレイバーを思い浮かべるんだけど、
士郎正宗作品は圧倒的に体制寄り、右寄り、当たり前だけど公安寄りだよね。
でも、自分が嫌いな攻殻のアニメとかはともかく、原作は皮肉に溢れてる気がするし、
頭ごなしに体制、右、公安を手放しで肯定してるわけでもないように思ってる。
というかデュナンとブリアレオスの二人でどう生きていくか、どう行動するか、という話だし、
そこはサラリーマンというか組織人が物語の中で暴走していったりするのが楽しいわけで、
仮に職務に忠実な警察官をただただ描いてもつまんないと思うんだよね。
だけど、近年の売れる傾向としては、社会を皮肉るのもオッサン臭くて寒い、みたいな感じなので、
あ、なんでシン・エヴァが不愉快なのか、的確な表現がやっと思いついた気がする。
自分はいわゆる学校という狭い世界にいい思い出がまったくないので、同窓会なんて出ないんだけど、
世代的にはまだ校内暴力とか竹刀持った体育教師とか、そういう時代だったんだけど、ど田舎だったし、
窓ガラス割ったり、学校の中バイクで走ったりしたヤンキーとかの方が、同窓会に喜んで出席するよな、マイルドヤンキーになって。
小林よしのりも書いてたけど、教師もなんだかんだ、ヤンキー側なんだよな。
殴られたり蹴られたりした覚えがある自分としてはたまったもんじゃないんだけどさ…。
劇画オバQの正ちゃんみたいにみんななっていく、それが現実なんだけど、
その中で例えるなら、俺はQちゃんというより、ハカセの立ち位置なんじゃないだろうか。
劇画オバQのハカセは正ちゃんに独立を促すけど、多分その後ハカセは人生転落すると思うんだよね。
だからといって、Qちゃんほどお人好しでもない、子供や学生のときのままではない、
しかし、Qちゃんが感じる郷愁というか哀愁というか、それはそれでよくわかるんだよね。
一方で、正ちゃんは結婚してるし、子供もできて尚更に、もう非常なぐらい家庭を維持するために身を粉にして現状維持だと思う。
自分は劇画オバQの正ちゃんみたいになりたかったけど、なれなかったし、
なんだかんだ、そこまで大人にもなりきれなくて、ハカセみたいに夢見たときもあったけど失敗に終わったし、
自分がシン・エヴァに感じた不快感は、人生の負け組として同窓会とか親戚の集まりに参加させられたような居心地の悪さなんだろう。
ひとりだけ結婚もしてない、子供もいない、未だに安定しない収入どころか、事故って重症、その後大病が重なって、
負け惜しみにしろ残っていた僅かながらの希望というか、社会復帰しないとなぁという欲求さえ折れてしまった。
でも、自分みたいにならなかった人、それもどちらかというとヤンキー層でもない、
普通に大卒で、普通に新卒で、普通に家庭を築いて、劇画オバQの正ちゃんみたいになれた人、生きてきた人、
そんなマスに向けたのがシン・エヴァンゲリオンなんだろう、
この増田にASDだけが発達障害だと思うなよ的トラバがちょいちょいあるのに具体例が上がってないからでしゃばってADHD(注意欠陥優勢)語りするね。
まず最大の違いとして、ADHDの発達障害当事者は黙示のルールをだいたいは察知できる。ADHDはとにかく情報が大好きで情報でパズルすることがもっと大好きなので、”明示のルールの上では違反だけど、情報を繋ぎ合わせて考えると違反してもしょうがないところがある“黙示ならいくらでも飲む。パチンコがどうして三店方式を採用してるのか分かるし、学校にスマホを持ってきている友達を見ても「お母さんが車で送り迎えしてるから」みたいな事情を把握できれば放っておく。そもそも不良だったとしても怒りを抱けないので放っておく。これはASDとの大きな違い。
ADHDは相手の感情をなんとなく察知したり、頭が良いほうなら定型発達みたいに話すこともできる。そのうえで他人との接触をどうでもいいと思っている関係上ほとんど反発しないので、感情面においては、いわゆる発達障害特有の焦燥は生じにくい。ここでは話が逸れるので扱わないが、基本的にADHDの”つらさ“は身体面に集中している。
ADHDは自分の意志や感情を抱くことがなにより苦手なので、それを逆手にとって穏やかに振る舞うことができる。ADHDは喋るのもとろいのであんまりとげとげしいことは言わない。ADHDはぼんやり生きているので発言はいつも的を外しているし、言いたいことの7割くらいはそれを口に出す前に他のことに興味が移動するから、”“言いにくいことをついスパッと言ってしまって気まずい空気になる”“みたいなイベントはADHDにはめったに起こらない。
とにかくADHDが最も苦手としているのは、周囲に馴染むことではなく、情報に付随する情動やライブ感みたいなものを持続させること。ADHDはマホちゃんのスカートを見て「似合ってない」「ダサい」みたいなことを思えない。ああ、知らない形のスカートだ。初めて見たな。それだけ。
定型発達やほかの発達傾向のみんなが生のまま摂取できる情報を、ADHDはそのまま手に入れることができない。ADHDが知覚したものはすべて脳みそを通って漂白され、俯瞰的な情報としてだけ記憶に残る。なのでADHDは自我が希薄で、強い感情を抱くのがあんまり得意ではなく、いつもヘラヘラして見える。
ゆえに”黙示のルールの察知“こそできるものの、ASD増田と同じように「浮いた見た目の奴は笑いものにして馬鹿にしていい」ルールには従えない。ADHDには人を嘲る方法が分からないし、それを娯楽とできないので従うメリットがない。なのでこの辺は表面上同じ感じになる。
これによって軋轢が生じにくいのは、ADHDがあまりにもぼんやりしているせいで、こういうときに意固地になるような真面目ちゃんではなく、打っても響かないうすのろとして認識されるからである。
大元の増田の一番の違和感はここだった。とげとげして気が使えなくて思ったことをズバズバ言っちゃうのは”発達“の悪癖ではなく、とげとげして気が使えなくて思ったことをズバズバ言っちゃう定型発達の未熟さである。ADHDは他者に干渉しないので、萎びた観葉植物くらいどうでもいい穏やかでのっそり動く謎の生き物でしかない。
まともな人生を送りたい場合は障壁になることもあるが、素の性格に関わらず偏屈者ではなくまぬけとして認識されやすいのはADHDの大きな強みでもあるので、とにかくここが気になった。
ADHDはマホちゃんにあのスカートが似合わないことにも、周りのみんなが「いっしょになって嗤え」と要請していることにも気づかないが、情報の追加には敏感なので他の子がまずしないような服装であることには気づく。
ADHDは頭の中でとりとめもない情報同士を接続させることに人生のほとんどを費やしているので、”誰も履いていないようなフリフリのスカート“はファッションアイテムではなく”はじめて見る物体“であり、他の情報と接続されるのを待っている新しい情報である。すてきな新しい情報。マホちゃんに似合うかどうかは分からないしどうでもいい。そんなことより既知の情報とスカートを繋げるべく「プリキュアがあんなスカートを履いていたな」とか「ああいう鳥がいた気がするな。なんて鳥だったかな?図書室で図鑑が見たいな」みたいなことを考えはじめ、ADHDの知覚範囲からマホちゃんはいなくなる。
なのでマホちゃんに声もかけないし、マホちゃんがお友達にべったりな性質の子でない限り、高校生になる頃にはマホちゃんとは疎遠になる。
ADHDは来るもの拒まず去るもの追わずなので環境によっては知り合いを多く得られるが、人間関係を維持できないので竹馬の友はいない。
ADHDは人の話を最後までうんうんと聞き、口答えせず、ゆっくりと動き、いつもぼんやりしているので、中高年や高齢者の相手をするのが得意である。なのでパートのおばさんから無視されることはあんまりない。
ただ、ADHDの動作は何もかもがとろくさく、仕事中にどうでもいい物事に気を取られるので怒られることは多いかもしれない。
ADHDは美術部には入ると思う。ADHDは自分以外の人間たちもみな、たくさんの情報を頭に流し込まれると幸せになると思い込んでいるので、自分の頭の中に入っている情報をいろんな形で出力して見せびらかすのが大好きである。というかそれ以外にまともなコミニュケーションが取れないので、ADHDにとっては、文章をしたためたり絵を描いたりすることは定型発達における世間話や歓談に相当する。
ADHDは先生のことを好きにならない。ADHDにとって全ての人間は情報の塊であり、有用な情報がたくさん詰まっている先生のことは心から慕うだろうが、それは人間への好意ではなく、使いやすい辞書とか見やすいwikiとかに対する信頼と同じ感情である。ADHDは強い感情を安定させることが苦手なので、恋愛感情が発生するまでテンションを上げ続けることができない。
ADHDは具体的でないアポを全て忘れるので、社交辞令で飲み会に誘われたことをそもそも覚えていない。ADHDは人間とのコミュニケーションを情報として知覚できないので、具体的なアポであってもたまに忘れる。
ADHDは交友関係を維持する努力ができないので、大人になったADHDのスマホにマホちゃんの連絡先が入っている可能性は限りなく低い。ADHDにとって他者との繋がりは最も価値の低い情報なので、スマホを新調するさい電話帳の引き継ぎを忘れるかめんどくさくて移さないに決まっている。もし奇跡的に連絡先が入っていても連絡する理由が分からないので、マホちゃんに電話する代わりにTwitterで久しぶりにたずねた地元のラーメン屋にかんするツイートをする。
ADHDに友達はいない。好きな人もいない。ADHDは悲しくない。ADHDの感情はいつでも「眠い」一択である。いろんな情報が絶えず頭に流れ込んでさえいれば幸せなので、ADHDは人間を欲しがらない。
まぁでもADHDはADHDなので職場で気にかけてくれるパートのおばちゃんは存在しているはずである。同世代の知人はいない。
ADHDはADHDの特性それ自体も情報だと思っているので、いろいろ調べたりする。そうしてこういう場をめざとく発見してはADHDの情報を見せびらかす。
たぶん多動が強い人はまたちょっと違うんだろうな。
おわり
先日はてブで見た「インターネットが変わった」といった内容の記事と同じようなことを感じて14年間使ったアカウントを3ヶ月前に削除した。
この3ヶ月間を振り返って感じたことを書いてみる
・Xを見なくてもなんの問題もないしむしろ個人的には見ない方がいいとさえ思った
もちろん楽しくて楽しくて仕方ない人は辞める必要は一切ないと思う。
ただ、今のインターネットというかSNSを見てるとしんどい、でも辞めるのが不安という人の参考になると嬉しい。
ここに投稿するのは初めてなので何かおかしいところがあったら申し訳ない。
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Xを辞めるにあたって自分が一番心配していたのは「娯楽の情報やライフハックを知ることができなかったり素敵な人や大切な情報を見逃してしまい生活の幅が狭くなったらどうしよう」ということだった。しかし、全然問題なかった。
様々な情報を浴びせられ流されていただけだと気付いた。
「よさそうに見えるもの」を良いと思わされ、誰かに意図的に怒らされたり素敵だと思わされたりしていただけなのかもしれない。
今は自分が本当に求めているもの、自分が本当に思っていることが分かりやすいため快適になった。そして情報を得たい時は行ったことのない場所に行ったり話したことのない人と話したり新しいチャレンジをしてみたり…むしろ人生の幅は広がった。
自分の「いいね」や「悪いね」をいいね数やリツイート数に影響されることがない。
【(一部の)ネットに毒されていたのが治った】
もちろんネットの全てがそうではないが、カジュアルに人の人格や行動や人生を批判したりバカにしたりする風潮、自分と違う意見は叩く風潮ができてしまっている。それは異常なのだと改めて気づくことができた。
「それをリアルで言ったらどう思われる?」というような発言をネットで見たりしていると毒されてしまう。
体が食べたものでできているように、心も見たり聞いたりした言葉でできていることを忘れてはいけないと改めて思えた。
【結局自分の世界は自分の周りだけなのだと気付き、自分や周りの人を大切にできるようになった】
Xに入り浸っていたころはとにかく色んな国、日本の色んな地域、色んな人の良い話悪い話が入ってくる。
もちろん日本や世界で今起こっていることを知るのは大事だが、まずは自分のことに目を向けなければならない。
隣の芝生は青いという言葉があるが、Xを見すぎると隣の庭が異常なほど青く見えたり枯れて見えたり隣の芝生の事情を知りすぎたり隣どころか遠く離れた家の芝生の問題を気にしすぎることになる。しかしそれは自分の仕事ではない。しかもそれらが真実とは限らずむしろデマやプロパガンダも多い。
他人の庭に深入りせず、自分の庭をひたすら手入れすることが自分や自分の周りの人の幸福、ひいては社会の幸福につながるのではないかと思う。大袈裟かもしれないが。
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文章が下手なので伝わらないかもしれないが、とにかく自分はXを辞めてよかった。Xで知り合った友達とはLINEやブログで繋がれているし。
最近のSNSにうんざりしている人はとりあえず削除までしなくとも数日ログアウトしてみたらどうかと思う。意外に大丈夫かもしれない。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3228e6da68753ae236af11de6cccb39d7c04676c
飲酒運転→中3をひく→飲酒を隠すため近くのコンビニで口臭抑制剤購入(約1分)→戻って救護活動
殺人ではあるけど、争点が「ひき逃げ」であるなら、確かにひき逃げではないわな。逃げるためにコンビニに寄ったのではないからね。もちろん、人命よりも自分の保身に走ったことは非難されるべきだと思うが…
仮に、ヤニカス(ほぼニコチン中毒者)の運転する車が人をひいてしまったとして、とんでもなく焦ってしまったとする。身の回りにはタバコがなく、近くのコンビニまで走って行ってタバコを買って一服し、気を落ち着かせたとしてもセーフなんだろうか?
自分と同い年の元ジャニーズ事務所所属の男性が故・喜多川擴からの性加害について告白しているのをさっきニュースで見て、ジャニーズ事務所に入った同級生がいたことを思い出した。
小中学生のころ何度か同じクラスになったことのある彼がジャニーズ事務所に入ったという話はすぐ近所じゅうに広まり、自分の耳にも入ってきた。しかもいきなりドラマ出演も決まったという。
当時はまだ喜多川擴の性加害の話は知らなかったし(北公次「光GENJIへ」は少し前に刊行済)、さほど仲がよかったわけでもないので、確かに背も高くてカッコいいしなぁと思ったくらいで、特に気にもとめなかった。
その後、ラジオ「サイキック青年団」で喜多川の性的嗜好について知った時には、同級生の彼のことはすっかり忘れていた。
数年前にふと思い出して、彼の名前で検索してみた。ヒットしたのは、彼がメインキャラクターのひとりとして出演した映画(ドラマじゃなかった)一本に関する情報と、ショップ店員として顔出ししている今の彼の姿。「芸能界では鳴かず飛ばずだったのかな、でも元気そうだな」と思っただけで、その時は喜多川の性的嗜好については考えが至らなかった。
ジャニーズ事務所に入っていきなり大きな仕事が決まり、その後、おそらくすぐに退所した彼。芸能界が肌に合わなかっただけかもしれないし、単に戦力外通告を受けただけかもしれない。でも、もしかして彼も……。今日見たニュースがきっかけで、一連の性加害告発が急に身近に、立体的に感じられてきたのであった。
久しぶりに彼の名前で検索してみたら、顔出ししてたショップのサイトはヒットしなくなっていた。今も元気に暮らしているのかな。
セフレの事、一時期ちゃんと彼女になって欲しいぐらい好きだったけど弁当作ってもらった時に
「忙しくてこれしかできなかった」
って確かに質素だけどめちゃくちゃ美味くて普通にちゃんとした弁当渡されて
「ああーこの子は手抜きしちゃったのレベルでこんな飯を作れるぐらいちゃんとした飯が出る家庭で育てられたんだなあ」
と思ったらなんか憎たらしくなって
単に俺が親の手料理よりコンビニおにぎりやカップ麺やお菓子食った頻度の方が多いぐらい基本放置されて育ったから多分嫉妬だとは思うけど
とにかく何か普段可愛いと思ってた態度とかも人を易々と信用できて危機感を持たずにこれるぐらい恵まれて生きてきたんだなあって憎くなって
文句言わずに健気に股開いてくれてるのは彼女になれたと思ってるのかな〜俺が可愛いとか好きって言ったの素直に本気にしてるのかな〜コイツ馬鹿だな〜って思いながらやるセックス無茶苦茶気持ちいい
ググっても宮台氏のTwitterが数件ヒットするだけなんだが、
というか、聖書の解説は誰もが知っているようなことでも補足をいちいち入れるのに、
ちょっと流石に、ふざけんなよ、というか、他人に理解されることを放棄してるとしか思えないんだが。
「表現」と「表出」は意味が違うとか、その意味はとかオレオレ定義を書いているが、
これこそ「表現の失敗」ではないのか?
そもそも、山本直樹氏ではないが、アーティスト表現者の表現ってのは、宮台氏が定義するような、
「他人を意図的に操作するのが表現としての成功」なんてことよりも、
宮台氏が定義する「表出」の「表現してスッキリする」というのが根幹にあると思うんだが。
要は、俺はこういうポルノが描きたい、だって俺はそれが一番楽しいんだもん、
という気持ちが表現者にあって、それがベースとなって漫画や小説を描ける、書けるのであって、
そこで表現者の意図通りに、物語を読んで憤慨したり泣いたりすれば、表現者の勝ちというのは認める。
ただ、表現者の根底にあるのは、宮台氏が嫌う宮台氏のオレオレ定義の「表出」である。
読者に共感されるかどうかで食っていけるかが決まるだけの話である。
だから、アウトサイダー・アートではないが、同人誌というか、
儲からなくても宮台氏の言う「表出」だけのために「表現」を続けている人たちがいるわけで、
その根幹は、意外というなかれ、ネットで暴れている人たちと根っこは同じなのである。
じゃあ、なんでネットで暴言を吐けばスッキリすることを、わざわざ文や絵で表現する人がいるのかというと、
もちろん、その方が自分の意見が有利に運ぶ、宮台氏の言う「他人を自分の意図通りに操作する」というのもあるが、
自分も落書き程度の絵を、最近はそれさえも描けてないが、なんとなく時間つぶしに落書きを描いてしまうのは、
それが楽しいからであって、他人を操作しようとかそんなつもりは毛頭ない。
だから、漫画家がTwitterでやたらに愚痴を吐いたり、ネット界隈の話題に乗ってきたりするのは注意である。
なぜならば、本来は漫画家はそのフラストレーションをTwitterでなく漫画に向けるべきなのである。
漫画に向ければ、そのフラストレーションでページが埋まり、金になり、うまくいけば読者に承認される。
しかし、短絡的な承認欲求を満たしたかったりして、そのフラストレーションをTwitterとかネットに向けてしまうと、
そこでフラストレーションは発散されてしまい、それは作品の糧とならなくなってしまう。
結果、社会への不満等を原稿ではなく、Twitterとか社会活動に向けて発散し出した漫画家の作品はつまらなくなる。
それだけのことである。
何を小難しく長々と書いてるんだろう、この人は…
ああ、表現者とオナニーの話なら「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」の黒猫が語ってるのが一番正解だわ。
宮台氏の文章よりラノベの方がまともなこと言ってる時点で終わってないか?
あー、でもはすみなんとかとか、明らかに「他人を意図通りに操作する」ことを優先して表現する人はたしかにいるね。
宮台氏としては、それこそが「表現」と言いたいんだろうけど、
はすみとしこの漫画というか、しょぼい四コマに毛が生えた程度の絵と、
だって、宮台氏の言う「表現とは他人を操作するためにやるもの」という意図が見え見えすぎるプロパガンダ臭が、
「そんな絵で抜けるか!」って思っちゃうわけだよ、俺は。
頭脳明晰な美男美女が自由恋愛によって結婚し子供を産む事によって今の高学歴男女は全てを兼ね備えた美男美女ばかりになり
そうでない下層階級との間に遺伝子格差が生じるという現象、まあ確かにそうなのかなーとは思うけど
ただ、遺伝子「格差」と言えるのって、今のうちだけじゃない?とも思う
だって就職氷河期以降は、そもそも勝ち組しか結婚できず、負け組は子孫を残せない世の中になってきているし
今の三十代以下にはパワーカップルは存在してもウィークカップルは存在しないから
個人的には今の二十代はまだかろうじて負け組両親から生まれた不細工な若者も存在するけれど
十代やそれ未満になると町を歩いていてももはや可愛い子しかいないように見える
https://twitter.com/nobutaro_mane/status/1707020158383071341
ヘタな上にたまにしか自炊しないからよくわかんないんだけど、うまい焦げとまずい焦げってないですか。
焼肉屋の焦げは、真っ黒とかにならない限り、肉も野菜もまずうまい。自炊でも、肉とか玉ねぎとか、まずはじっくり触らずに焦げ目を付けて焼きましょう、メイラード反応です!みたいなの。焦げ過ぎっぽく見えても、水やら酒やら入れて溶かした水分が茶色っぽくなっても、むしろうまくなる。こういうのはいい。
一方でダメなやつ。これまであったのは、ポトフのキャベツとか、水炊きの白菜とか。あと外食でも一回ファストフードの親子丼で食らったな。これはもう蓋を開けた時点で「あっこれだめだ」となる。食欲を根こそぎ奪う臭いの茶色い液体がすべてを汚染してる感じ。ないですか?
こうなったらもう泣く泣く処分するしかない。でもそんなに焦げ焦げってわけでもないんだ。鍋の底の方でちょっと焦げ付いてる具材がちらほらあるくらいで、うまい焦げと比べて真っ黒ってほどでもない。鍋も普通に洗ったらきれいになるレベルだ。
食材の違いなのか?葉物や卵が焦げるとだめってこと?それとも焼いたときの焦げと煮たときの焦げの違い?油の有無や加熱温度か?あるいはフッ素加工は高温で剥がれると聞くが、それがこんな臭いになるのか?
今日久々にやってしまって凹んでる。もう二度とこの臭いに出くわしたくないんだが、うまい焦げとの発生条件の違いがよくわからん。。。
今どきの大学は厳しいので、単位落としても泣き落としも効かないし、
→その通り。そもそも多くの大学では不合格だった教員に直接問い合わせることそのものが禁止されているほか、出席認定などに関しては事務所が扱っており、泣きつかれた教員が事後にどうにかすることもできない。
10年前でもそもそも真面目に通って授業受けて学費のためにバイトもしてるような学生ばかりだったよ
→10年前であれば既に多くの大学で改革が行われたあと。ただ、現在でも学部によっては文科省の単位認定や出席認定に関する通達を守っていないところは多い。肌感でいえば「看板学部」と言われているところに一発逆転組が多く、出席に関しても甘い印象がある(繰り返すけどこれは完全に個人的な印象)。
私の在学していた大学は少人数制教育に力を入れているため出席せずに学外活動ばかりして卒業は不可能だった。
→大正初期まで大学ではなく高等商業学校であったため、確かに大学と看做さない人間もいる。
大学とは名ばかりの就活予備校化してる底辺私立の廃止には賛成するけど
→むしろ「就活予備校」としての側面を前面に押し出したグランゼコールをモデルとしたような学校を設立することが有意義かと思っている。
正直に言えば、どこか残念でありほっとしている。
※
対馬市長は先日、最終処分場への文献調査候補地として、応募しない旨の宣言をした。
もともと、核廃棄物の処分場はもう十五年くらい前から誘致をしてはどうかという動きがあったのだ。当時は調査を受け入れるだけで10億円が支払われると言われていた。
しかし、前市長はこれをバッサリと切り捨てた。このときは市民運動というほどでもない、変わり者が少数でわめいていただけだったので、それですっかり火は消えてしまった。その後、前市長の後継を取った現市長が就任。
二期目の市長選では対抗馬として核廃棄物処分場の誘致を謳う候補が立候補したものの大差で現市長が当選したのである。
ただし、この時の対立候補は対馬となんの関係もない大阪の右翼活動家で刑務所服役復帰戦のような様相があり、本気で当選する気はなかったと思われる。
いずれにせよ、現市長は『最終処分場誘致派を下しての当選』という事実を得てしまった。実際は堅実な市政への評価と、なにものともしれない右翼活動家への嫌悪もだいぶんあったのだけど。
※
しかし、原子力に関するどこかの組織に旅費を全部出して貰って、どこかを視察してきたらしい。
日本に最終処分場などないのに、何を見てきたものか。酒宴などの歓待を受けたのか否か。日当や土産代などの現金を受け取ったのか。
それもしらない。
もしかしたら、貧しい旅行で勉強だけして帰ってきた可能性もある。
それでも旅費を利益関係者に出させたというのはいかにもまずかったのではなかろうか。議会でも反対派議員から突っ込まれていたし、それはそれとして今後揉めるかもしれない。
とにもかくにも、議会で正式な議題として『処分場の誘致』が上がってしまったのは事実である。もちろん、誰だって別に核廃棄物や処分場が欲しい訳ではない。それに伴ってついてくる金が欲しいのだ。
その額たるや、文献調査を受け入れるだけで20億円。
ざっと検索したところ、対馬市の年度支出額はおよそ250億円程度であることがわかる。
すでに文献調査受け入れを表明している北海道の寿都町の年間予算規模が60億円ちょい、神恵内村に至っては20億以下だ。
これが500億円とかなら、もっとグッと賛成に傾いたかもしれないが、提示額がいかにもしょっぱすぎる。
中には「文献調査だけやって20億を貰い、本格的な設置は断ればいい」と堂々と言うものもいたが、それで国から怒られるくらいなら最初から応募しない方が市長としても、市役所としてもいいだろう。
なんせ、国境離島として国から沢山の税金を貰ってどうにか回しているのだ。国の機嫌というのは、往々にして自治体を殺すことがある。
つまり、20億円があまり見合っていない気がする問題があるのだ。
だから推進派がいくら勢いを出しても、反対派を黙らせることはできない。
なんせしょっぱいのだ。
20億あればあれもこれも、とはならない。少なくとも市民に実感のある使い方は全くできないで消える金額でしかないのだ。
さらに、対馬は住民の半分くらいが水産か観光で飯を食っている島だ。
この人たちの家業にはマイナス補正がついて回る。なんせ、処分場や核廃棄物と記念写真をとりたい。推したい、みたいな変わり者はとても少なそうだ。最大限、好意的にみて「気にしない」。最悪「対馬産の物は徹底的に避ける」人が出てくる。実際はその間のグラデーションのどこかに皆が分布される。
逆に、仕事の恩恵を受けそうな土木業者も兄弟なり親戚、友人などの近しい者がかならずそういった職に就いている。
だから、みんな微妙なのである。推進派議員はあまり勢いが出せない。
対して、反対派議員は誰はばかることなく大声で反対運動を展開する。
それに伴って、推進派議員が「心ない言葉を投げかけられたので、市民を訴える」だのワケのわからない展開に発展したのだが、それは横枝だ。
対馬という島は歴史的に、ずっと国家中央の差し出す意向を飲んだり誤魔化したりして過ごしてきたのだ。騙したことは沢山あるが、面と向かって国家に反逆したことはないし、大きい島には必ずついて回る独立運動も皆無である。
推進派議員も熱心に燃えさかり続ける老婆などがいたが、全体的にはトーンダウンしていき、最終的な採決では賛成10、反対8で決定した。
※
『核廃棄物の最終処分場として、文献調査の受け入れを進める』のが議会の結論となった。
『意見書提出権にもとづいた市長への、議会としての意見の提出』であったわけだ。
実のところ、市議会でどう決定しようとそれは、『市議会としてはこう思っていますよ』という枠をはみ出ないのだ。
もちろん、市政というものは市民の為に行われるものであり、市民を代表する市議会の意見というのはかなり重要な物だし、常に尊重されている。たいていの場合においてはそのまま通る。
それでも対馬市長はこれを突っぱねた。
理由として、風評被害がすでに起きかけていること。市役所に様々なところから苦情の連絡があっているらしい。
そして、観光や水産業が年に200億円近い経済規模を持っている点。風評被害で一割売り上げが減れば、それで20億の交付金は吹き飛んでしまう計算になることを上げ、最後に住民の合意形成がなされていないと告げた。
確かに現状で推進派と反対派が分かれているのなら、当然まずは見送ってみるというのは一般的な判断だろう。
もっとワンサイドに推進へ傾けばともかく、議会でさえ半分に近い票が反対だったのだ。仮に市民の半数が内心的反対者なら、市長の経緯と立場から現状維持が当然だと思う。
利益を得る者は一部で、大勢が不利益を被る危険があるのだから。
これは、まあ逆に言えば市民がもっとずっと大勢賛成して誰も反対など言えないほどの金額が約束されるのなら受け入れに傾いていた可能性は高かろう。
対馬といえば小さな離島と思われがちだが、長崎県の面積の2割以上は対馬が占める。案外にデカいのだ。経済規模もそれなりにデカいし、特産品もある。マグロやアナゴは景気も良い。
分散した20億円の余波など個人にはいくらも入らない。今時は田舎の集会所を建て替えるのにも一億円がかかる時代だ。
もっと、もっと巨大な、皆が涎をたらして狂う対価が必要だったのだ。
そうして、それが提示されない以上、対馬市には縁がなかった。保守的な田舎の住民が変化を突きつけられて、ストレスに耐えられなかったというのもある。
個人的には、誘致が決まればいち早くニューモに手紙を送るなどして、自分の山を買わないかアピールするつもりだったが、土地成金の夢はあっという間に醒めてしまった。
ASMRが好きだ。
とはいえイヤホンをしたまま寝るのは耳が痛くなるし、蒸れて悪そうだし、
というわけで古くなった耳掛けイヤホン MDR-Q68LW を好きに動かして固定できるステレオスピーカー代わりに使って聞いていて、
耳元だと当たって痛いし、枕の外だとそれだけ距離が遠い声になるし、上手いこといかないけど仕方ないかなと思っていた。
それとは関係なく、今まで低反発の枕を今まで使っていたけれど蒸れて暑いのでなにかいい枕はないか探していて、
一回高い枕を買ってみよう、でこの枕を買った
https://item.rakuten.co.jp/brainsleep/bsprwcv/?s-id=ph_pc_itemname
確かに楽になったし蒸れないな、と思った後、これ枕の下にスピーカー入れたら丁度よく聞こえるのでは、と試したところ上手くいった。
さすがに囁かれる感覚、吐息感はイヤホンほど近くはないけれど、自然に近くからの声に聞こえて、ズレることも当たって痛いこともなく、寝落ちするのに丁度いい。
多分ここまで高い枕でなくても 洗えて通気性の良い枕=音を通す と思われるので同じ趣味でイヤホンが苦手な方は試してみてほしい。