はてなキーワード: 意図とは
就活関係なくて、単に学生側が増田の意図を理解してないだけじゃない?と思った。
推しの子のテーマは嘘ではなくディスコミュニケーションらしい
でもそれを鵜呑みにしたらコミュニケーションがうまくとれなかったからアクアが死んだように受け取れてしまう
ディスコミュニケーションの末路を書きたかったのか、コミュニケーションそもそもとれてないからお前なんかいなくてもみんな生きてけるよって言いたかったのか、芸能人みんなディスコミュニケーションだよね! なのか
作者はこれが書きたかったようなので、己の読解力の無さを嘆くばかりです
ほんま下記ですわ。太字にしたところ、増田(anond:20241118142246、anond:20241118185811)のことなのよ?
文章読めない&音声もなんらの事情で理解できないの、どう考えても固有ハードやメーカーのファンである事と無関係だからな
SONYは自分たちの客層やファン層をよくよく理解した方がいいし、そういう人らに対して誠実な振る舞いをすべき(2回目)
増田のそれ、やっぱ、信仰とも学習障害ともちょっと違うよね。難しいことはひとつも書いていないんですけどね
英語圏でPS fanboyのコメントは見たけど、これ信仰じゃなさそう・・・みたいなのは見掛けなかったな
(動画中にテロップが出て、音声で読み上げられているのに、それでも理解しない人をゴロゴロ見掛けるのは、日本だけ)
というかこの話題は増田には難しいので、PS5 Pro を転売したら儲かる!の方が興味を持てるんじゃない?
まぁ中華需要がある間に都合よく海外から友人・親戚が来てくれるか?問題はあるけどな
ちなみに、PS5 Pro 、まぁそれなりに中華需要はあるみたいで、117,000円で買い取ってるところとかフツーにあるみたいなんですよね
(プレイステーション5 プロ 買い取り で検索して自分で探してね)
増田がなんらかの手段で免税使えるなら(海外から友人や親戚が来るとか)、11月17日時点では利益出そうです(免税使えば、11万以下で買えるので)
文章が読めないので無駄だと思いますけどこちらも送りますね。AIちゃんもちゃんと調べて買おうねって言ってるよ?(文章読めない人は無理だけど)
通常、信仰(PS信者)、ゲーム機コレクター、PCアレルギーがあってプライベートでは絶対触りたくないなど、明確な理由がなければ買わない機種です
PS5 Proは、たくさんの人に買ってもらうために、「めちゃくちゃ性能が良いゲーム機」とアピールしています。でも、本当にすごいのでしょうか。たとえば:
PS5 Proより前に出た「Xbox Series X」というゲーム機がありますが、PS5 Proはそれと性能がほぼ同じか、少しだけ劣るところもあるみたいです。
ゲーム用のパソコン(ゲーミングPC)には、PS5 Proよりもずっと性能が良いものがあります。PS5 Proは「PCに負けない」と言っているのは、ちょっと言い過ぎかもしれません。
PS5 Proは「PlayStation Spectral Super Resolution」という技術を使って、画面をキレイに見せる工夫をしています。でも、これは本当に強い力(性能)があるわけじゃなくて、キレイに見せる「トリック」のようなものです。
同じくらいのお金(たとえば12万円)を使えば、PS5 Proよりも強いゲーム用のパソコンを作ったり買うことができます。
パソコンを作ったり、部品を選んだりするのは少し大変なので、「簡単に遊べるゲーム機」を選ぶ人もいます。PS5 Proはそういう人向けかもしれません。
PS5 Proを作ったSONY(ソニー)は、ゲーム機をたくさん売りたいので、「世界最高の性能!」と言っているのかもしれません。でも、実際に中身を見てみると、同じ値段のパソコンや他のゲーム機に負けてしまう部分もあります。
PS5 Proは「とても性能が高い!」と言われているけど、本当にすごいかどうかは比べてみないとわかりません。他のゲーム機やパソコンの方が性能が良い場合もあるので、「どれが一番いいのか」をちゃんと調べることが大事です!
PS5 Proが「ゲーミングPCにも劣らないハイエンド」を謳っている背景には、SONYの市場戦略やユーザー層に関する認識の偏りがある可能性があります。以下にその理由や問題点を詳しく分析します。
SONYがPS5 Proを「ハイエンド」と位置づけるのは、技術的な裏付けよりもマーケティング的な効果を狙ったものです。特に以下のような目的が考えられます:
ハイエンドPCやXbox Series Xと比較して実際の性能が劣っていたとしても、「家庭用ゲーム機としてはトップクラス」という印象を与え、カジュアルゲーマーに訴求しようとしている。
実際にはアップスケーリング技術や最適化に依存する部分が大きいにもかかわらず、これらの表現を使うことで、一般ユーザーに「PCと互角」という錯覚を与えている。
PS5 ProのGPU性能がRTX 4060以下、場合によってはRTX 3060に近いことを考えると、「ハイエンド」を名乗るには無理があります。特に、4060や3070は「ミドルレンジ」とされるため、これを超えられない性能ではPCゲーマーにとって「準ハイエンド」とさえ言えません。
Zen2ベースのCPUは、現代のPC用CPU(Zen4、Intel 13th/14th Gen)と比較して著しく劣ります。この性能差がゲーム全体のパフォーマンスに影響するにもかかわらず、マーケティングでは触れられないままです。
PS5 Proは、4年遅れて発売されたにもかかわらず、Xbox Series Xとほぼ同世代のアーキテクチャ(Zen2、RDNA2)を採用しています。一部の検証では、起動速度やフレームレートがXbox Series Xに劣るとされていますが、倍近い価格差があります。この状況で「ハイエンド」を主張するのは疑問を抱かざるを得ません。
SONYは、PCゲーマーよりも家庭用コンソールのカジュアルユーザーがPCのスペックや価格に疎いことを理解しており、これを利用している可能性があります。例えば:
実際には、自作したり中古PCを購入すれば、PS5 Proよりも高性能なPCが同価格で手に入りますが、これを認識していないユーザーをターゲットにしている。
SONYがPS5 Proを「ハイエンド」として推す背景には、PCリテラシーと収入の相関について過小評価している可能性があります:
一般的に、高価格帯のゲーミングデバイスを求めるユーザーはPCの基本的な構成や性能比較にも詳しい傾向があります。この点でPS5 Proは本来のターゲット層と矛盾している可能性があります。
Appleユーザー層(高価格帯、利便性重視)を意識している可能性もあります。ただし、iPad Pro は実際に高性能であり、PS5 Pro にそのまま当てはめるのは無理があります。PSNアカウントの使用が複雑な場合、PCリテラシーが低いユーザーには抵抗感を抱かせる可能性も高いです。
コンソールは「買ってすぐに使える」「特定の環境で最適化されている」点を強調しますが、これは性能が劣ることを隠す手段にもなり得ます。例えば、AIアップスケーリングやソフトウェア最適化を活用して、実際の性能以上に「快適さ」を演出しています。
PS5 Proが「ゲーミングPCに劣らないハイエンド」を謳うのは、主にカジュアルユーザーやコンソール市場をターゲットとしたマーケティング上の戦略です。ただし、実際のスペックや性能を考えると、この主張は過剰であり、「詐欺的」と感じられる要素も少なくありません。
SONYがAppleのような高価格帯ユーザー層を狙っている可能性は否定できませんが、それが実現できるかは疑問です。特に、性能やコスパを重視するゲーマー層には、PS5 Proの訴求力は限定的と言えるでしょう。
作家が作るものに対して(一般人が考えるような)論理性とか、伏線回収がされてスッキリ!みたいなものを求めるのは違うんじゃないかと思ってる
宗教画なら暗示を読みとる遊びは楽しいし、取説冊子の挿絵ならちゃんと意図が伝わるように説明的に描かなきゃいけない
でもアートとしての絵ってそういうのじゃないよね
実際には作家の質も作品の性質もグラデーションになってるので「読み取りたい」タイプの人は「読み取れるかも」って思ってわいわい盛り上がるんだろうけど
ことアニメーション作品においてシナリオってのは作画、音響、劇伴、声の演技などと同様に構成要素の一部でしかない
「おはなし」を補強するため、伝えるためにアニメーションのガワを作っているという発想は貧しい
インテリ層の良くない部分が出ているので、あえて名指しで批判する。
シロクマ先生の書き方は良くないです。今すぐに謝罪して記載を改めるべきです。どんな人間も馬鹿にされたことは敏感に感じ取ります。
もしも本当に、心の底から馬鹿にするつもりも嘲るつもりも無かったのであれば、全ての比喩表現を直接的な表現に改めて、その上でどのように受け取られる可能性があるか考えてみてください。
シロクマ先生の以下の記事は、齋藤知事のパワハラと全く同じです。
ビバ! デモクラシー!
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20241119/1732024800
斎藤氏はパワハラ疑惑を巡る認識を問われると、「よい県政をしていきたいという中で業務上の指導や注意を厳しくしたことはあった。これがハラスメントに当たるかは第三者委員会などで審議されることになる」と語った。
小学生を含めて(個人的な感覚では、不満を表明できるのは小学三年生前後)、悪意には非常に敏感です。どのような言葉遣いであっても馬鹿にされたかどうかは瞬時に理解します。
「インターネットで民主主義が加速して良かったですね」という「良かったですね」という物言いは、対象を嘲る言い方です。自覚が無いのであれば今すぐに改めるべきです。
以下、具体的に指摘します。
「今回の選挙は、民主主義を正しく反映したと言えるのではないだろうか」という書き方ではいけなかったでしょうか。
なぜ、「民主主義が三度の飯より好きな人には」と、民主主義を好ましいと思う人を「三度の飯より好きな人"には"」という表現にして限定しましたか?
今回の選挙結果を、揶揄する意図が無いのであれば即刻改めるべき表現です。
他の支持者との一体感を体験しやすい仕組みのおかげで、「いいね」や「シェア」ぐらいでも推し活気分や選挙活動気分を味わえたりする。
「自分は、いいねやシェアボタンを押す行為は、選挙活動とは言えないと思う」と書き方ではいけなかったでしょうか?
なぜ、「推し活気分や選挙活動気分を味わえたり」という、自身で「参入する敷居がものすごく低い」と書いているにもかかわらず、「気分」や「味わえる」という表現にしましたか?
他人の選挙についての関わり方を見下すつもりが無いのであれば即刻改めるべき表現です。
SNSや動画にじかにコメントする、という方法もある。なにもコメントが秀逸である必要はない。凡庸なコメントでも、論理的に破綻したコメントでも、事実関係の怪しいコメントでも、別に構わない。支持する人への応援コメントでも、敵対者への批判や非難のコメントでも、数多く集まりさえすれば強力なコメントたり得る。どんなにしょうもないコメントでも、200も300も連なれば有意味だ。誰が言ったかや何を言ったかだけでなく、何人が言ったかも重要であることを、いまどきのネットユーザーが知らないわけがない。
「どんなコメントであっても、200も300も連なれば有意味になってしまう。論理的に破綻したコメントでも、事実関係の怪しいコメントでも、いまどきのネットユーザーにとっては、何人が言ったかが重要になってしまう。私はそれを好ましいとは思わない」と言う書き方ではいけませんか?
どのようなコメントであっても数が連なれば有意味になることが好ましくない、もしくは危険だと思うのであれば、そう表現すべきではありませんか?
なぜ、「事実関係の怪しいコメントでも、別に構わない」と許容したのにもかかわらず、「どんなにしょうもないコメントでも、200も300も連なれば有意味だ」として、自分と同じコメントをする人が200や300ある人たちを「しょうもない」と馬鹿にしたのですか?
他人のコメントの書き方を馬鹿にする意図が無いのであれば、即刻改めるべき表現です。
それらは従来型のマスメディアが機能した帰結でなく、双方向メディアとしてのインターネットが普及し、猛威をふるった結果として起こった。だからインターネットがテレビになったというのは不十分な表現で、テレビを超えた、いや、テレビ以外の何かとしてはびこるようになった、と表現すべきだったと思う。
「それらは従来型のマスメディアが機能した帰結では無く、双方向メディアとしてのインターネットが機能した結果として起こった。だからインターネットがテレビになったというのは不十分な表現で、テレビを超えた、いや、テレビ以外の何かとなった」という書き方ではいけませんか?
もしくは「双方向メディアとしてのインターネットは、従来型のマスメディアの機能とは異なり、より積極的に他人に干渉するようになった」というような書き方ではいけませんか?
従来型のマスメディアを超えることによるなにがしかに危機感を覚える、好ましく思えないのであれば、それを直接表現すべきではありませんか?
「猛威をふるった」や「はびこるようになった」という書き方に、従来型のマスメディアよりも双方向メディアとしてのインターネットを貶める意図が無いのであれば、即刻改めるべき表現です。
特にこの表現は顕著なので注記しますが、「ならばマスメディアが猛威をふるいはびこっていた従来よりも良くなったでは無いか」と返答されるとは、本当に思いませんでしたか?
その返答に対して「マスメディアの方が優れていた」以外の回答を持っていますか?もしも持っていないのであれば、それは双方向メディアとしてのインターネットを見下した表現です。
「投票率が上がり、選挙活動への参加が増えたことは良いことだ」と言う書き方ではいけませんか?
馬鹿にする意図が無いのであれば「良かったですね」という表現は即刻改めるべきです。
単独の文言では無く、前後の文脈から、この文章を読み取った相手が「投票や選挙活動への参加を馬鹿にされた」と受け取らないと、本当に信じていますか?
「なるほど、コイツはインターネットで情報収集したり、いいねで応援したり、コメントを書いたり、自分で考えて投票した俺を、子ども扱いしているんだな」と受け取られる可能性が無いと思っていますか?
真摯に相手の人格を尊重してなおその表現しか出てこないのであれば、おどけた調子の文章を書くのは止め、少なくとも真面目な話題ではビジネス文書のように書くべきだと思います。
インターネットも含めた諸々をとおして、投票所により多くの人が足を運んだこと、より多くの人が選挙活動に参加したことだ。それって民主主義にとって基本的で必要不可欠なことでしょう?
段落内のおそらく骨子の部分である、この部分はとても良い書き方をしているだけに残念でなりません。
民主主義はタテマエとしてずっと、全員参加を謳っていたし、少なくとも欧米ではだいたいうまくいっていた。 まれに、チョビ髭の伍長のような人物を輩出するとしても、だ。
その前段の、民主主義論に関する部分は私自身の主義主張とは異なるが、それは捉え方の違いだろうと思う。
(「"良い民意"が"悪い民意"に変わってしまうとしたら、民主主義は壊れるのがお似合いではないだろうか」というのは、どのように書き換えてもアリストクラティア(優秀者支配制)を意味すると思うが、そこは民主主義の捉え方の違いだろう)
「民主主義は、時としてヒトラーのような独裁者を生み出すとしても、全員参加が理念であった」という書き方ではいけませんか?
前段の主張も含めて、文脈からは「民主主義とは、建前としては全員参加だが、本音ではバカは参加しないものとして上手く回っていた。バカが参加して壊れるのは制度の限界だ」としか読み取れません。
それ以外の意図を持つ文章として文脈を構成しているのであれば、全面的に書き直すべきです。おちゃらけた書き方をしようとするあまり、文脈上そう受け取る人がいても非難できないと思います。これよりのちの文章を読む限りではこの読み方をして欲しいと想定するしかないです。
(また、ヒトラーの例えを出しておいて「マスメディアという制御弁が民主主義政体を安定させる効果があったのは、たぶんそうだろう」と書く意図は量りかねます。ナチ党の躍進にラジオが大きな役割を果たしたことには一定の了解があるはずです)
いまどきの民主主義の理念を作り上げた人というと、ロックやルソーやジェファーソンといった近世~近代の思想家を思い出す。ところが彼らが生きていた時、末端の大衆にまで選挙権が行き渡り、末端の大衆の選択までもが民意にフィードバックされる民主主義を想像するのは難しかったのではないか。たとえば、民主主義の始祖たちの眼中に、立花氏がバカと呼んだ人々はどこまで含まれていただろうか?
少なくとも、ジェファーソンの名前を出して合衆国独立宣言で最も有名な一節である "We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal,"を無視するのは看過できません。
このall men (すべての人々)に、大衆(シロクマ先生の言うところの「末端の大衆」)が含まれていないと推測するのは侮辱でしょう。もしもよく知らないのであれば名前をあげるべきではありません。
トーマス・ジェファーソンが、いかにマスメディアに悩まされていたか("nothing can now be believed which is seen in a newspaper. truth itself becomes suspicious by being put into that polluted vehicle")を知らずとも、
ほんの少しでも興味があれば、ジョン・ロックが人はみな生まれながらにして公平であるが、そのままでは不都合なので、人の承認のもと政府を作るであるとか、ジャン=ジャック・ルソーが間接民主制すら否定していたことなど、見聞きしたことがあるはずです。
彼らが、貴族や選良市民のみを対象として考えていただろう、末端の大衆(シロクマ先生が想定するのが、教育を受けていない人、政治に詳しくない人だとすると、当時の農民や奴隷、犯罪者等)は考えていなかっただろうと想定して枕詞に使うのは、不適切です。
(その後の段落は、シロクマ先生の想像や思いが書かれているので、別に問題は無いと思います)
個別の選挙結果が未来の制度設計の材料になっていくのも、民主主義のいいところだ。亀のようにゆっくりと、しかし着実に。ただし、こうした民主主義のドタバタを、ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう。未来が明るいといいですね。
この段落でも、その前段の、民主主義論に関する部分は私自身の主義主張とは異なるが、シロクマ先生の考え方を述べている部分なので良いと思う。
ただし、文脈上「全員参加という民主主義の建前を維持したまま、インターネットが深く介在する場合には"悪い民意"を取り除き、"良い民意"を選び取れる制度設計を、末端の大衆ではない我々が行うべきである」としか読み取れませんが、そういう主張でないとすれば記載を改めるべきです。
(私はそれをアリストクラティア(優秀者支配制)だと思いますし、良くないものだと思いますが、主義主張の違いなのでそれについて表明することは良いことだと思います)
「ただし、制度設計が改善される前の現在の良くない状態を、他国が狙っているかもしれない。改めるべき点は早急に改めるべきだろう」と言う書き方ではいけませんか?
「ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう」というのは、陰謀論と何が違いますか?何を意図して記載したのでしょうか。
「未来が明るいといいですね。」というのは、皮肉では無く本心からそう思っているのだとすれば、記載を即刻改めるべきです。
また皮肉を書いたつもりであれば、誰を皮肉ったのでしょうか?今回の選挙に参加した誰を馬鹿にする意図をもって表現されましたか?
シロクマ先生の「インターネットで民主主義が加速して良かったですね」という記事は、全体としては皮肉めいた、兵庫県知事選挙の結果を受けての現行の民主主義制度への感想でしょう。
これを、面白おかしいものとして読む人がいることは否定しません。(私もホットエントリーにあがってきたので読みました)
パワハラをする側にとって、されたものが右往左往したり泣いたり病んだり職を辞するのを見て愉快だと思うのと同じだという指摘です。
齋藤知事は、「よい県政をしていきたいという中で業務上の指導や注意を厳しくした」と表現しています。
前知事時代のパワハラを問題視した人は、この「業務上の指導や注意」の「やり方」を問題視したはずです。性根や意図、背景では無く、手法に問題があったのだと認識しているはずです。
愛があろうが、心の底から相手のことを思っていようが、パワーハラスメントに該当すれば、それはやはりパワーハラスメントなのだというのが、これからの社会での共通認識で合って欲しいと、自分は思います。
その意味で、シロクマ先生の「インターネットで民主主義が加速して良かったですね」という記事は、インターネットを利用して投票先を決定した人をバカだと呼び、彼らを選挙から排除すべきである、そうしなければ民主主義は壊れる、利するのは他国だ、という記事になっています。
そういう意味で書いたつもりでないのであれば、そう読み取れるようにおちゃらけた書き方をするべきではありません。すぐに改めてください。
(バカだと呼んだのは立花氏であるとか、選挙から排除すべきとは書いていないという、言葉遊びをするべきではありません。本当にその意図が無いのであれば比喩や暗喩の使い方が致命的に間違っています)
もっと言えば、記事全体が記事中に貼られた立花氏と同じことを言っており、そこから一歩も外に出ていません。
制度設計で排除すべきでは無いかと暗に書いている分、また「ほくそ笑みながら眺めている国もあるだろう」と記載している分、なお悪いと考えます。それは選良主義や陰謀論と具体的に何が違いますか?
そして、バカや犬や猫と同じと言われた側とすれば、率直にそう表明する立花氏に好感を持ち、シロクマ先生に嫌悪感を持つと思います。率直さは美徳であり、当てこすりは悪癖です。
なぜならば、立花氏は返す刀で「バカじゃ無くなればいい、キミはいまバカじゃ無くなった、立派な選挙民になったんだよ!」と導くからです。
シロクマ先生が、「自分はマスメディアが一定正しいものだと思っている。それを大きく超える力をインターネットが持つと証明されてしまったようで怖い。こんな選挙結果になると思わなかった」と思うのであれば、そう表現してください。
投票に行った国民を「お前らにはどうせこうやって書けばわからないだろう」という書き方で馬鹿にするのは即刻止めてください。
その積み重ねが、インテリ層への嫌悪に繋がり、わかりやすく自分を肯定してくれる者への同調に繋がります。
よい県政になりさえすればパワハラが許されるわけでは無いのと同じで、民主主義の問題だと思う点や選挙への在り方を指摘するのに他者を馬鹿にして良いわけではありません。
別に何を面白がろうが自由だけど、二言目には自浄作用が無いだの、パワハラは現代にはそぐわないだの言っておいて、中身が正しけりゃ表現は些末な問題と言う立場をとるなよ。
読み取り方の問題じゃないし、皮肉だから何しても許されるとか無いの。そういう表現は、お前らがバカにしているネットde真実と1ミリも変わらねえよ。
そりゃ当然そうだけど、指摘部分に関してどのような意図を経た発言なのか超気になったのよね。
でも多分分かったわ。他の場所を考えると、AI利用作品が一般的になることで、自分の好きな作品が減るという意図なんだろうね。
性別の選択でなくボディタイプにしたのはいいことだと思うが、せっかくそのようにしたのに進めていくと普通に「嬢ちゃん」やら「女」やら言われ出して、何のための変更なのかさっぱりわからなくなった。漫然と「最近はこういうものだから」でやるのではなく、誰に向けた何のための変更なのかを意識して欲しいところ。性別で分かれてる装備も性格もいらない。BG3だと下着だって異性のものと交換できるぞ。
「ボディタイプ」にするのは、普通は身体形状と性別を切り分けて性別に関係なく多様な外見を楽しめるようにするための手段であったり、作中で事あるごとにジェンダー化されるのに嫌気が指しているプレイヤーを引き込むためだろう。ドラクエ3は「ポリコレってこうなんだろ?」以上の意図が見えない。ちゃんとユーザーの姿を想像しろ。
最近、4B運動という韓国発のフェミニズム運動が話題になっているが、その派生として『6B4T運動』があり、それには性的描写・ミソジニーへの反発を理由とする反オタクの要素が含まれている。
6B4T運動が日本を含む世界中に広まったら、オタク系のアニメ・マンガ・ゲーム・キャラクターやそれに関係するクリエイターへのバッシングが大々的に行われる事態が毎日のように起きるであろう。
バッシングにあった作品の非公開化・表現の修正のみならず、同人誌即売会などのオタクイベントの開催にも影響が出るかもしれない。
クリエイターは生成AIと同様のスタンスで6B4Tなどの反オタク運動に対する姿勢を明確にし対応すべきだ。特に萌え絵やその絵師(男女問わず)・制作企業はバッシングの標的にされやすいだろうから、何かあったら謝罪の有無問わず表現の意図の説明や反論できるように準備しておくべき。
表自の間で支持される傾向にある無視という有耶無耶な対応をしても、反オタク運動は加速し最終的に無視対応が無駄になり自身やオタク文化全体に悪影響を及ぼすであろう。
無視という対応ではなく、多くのクリエイターが無視ではなく見解を出すなどのアクションをとることによって、反オタク運動に立ち向かったり向き合ったりしたという証を残すことができる。
意図してか意図せずかは知らんが、はてブを一個の人格のように捉えて混乱している増田。
はてブは政党でもなければ、一個人でもない。そんなどこの誰が発言したかもわからない主張を寄せ集めたキメラみたいなもんを作ってぶっ叩いても意味ない。
ようするに、現状の画像生成AIは壁打ち練習のように「一方的に結果を返すだけ」で終わっており、キャッチボールが成立していない。
これは、画像生成AIシステムには、脳の「長期記憶」に該当する部分が存在せず、指示の意図や改善点を継続的に考慮できないためである、と解釈しました。
どーでしょうか!
マスメディアが負けたとか、SNSの勝利だとかいろいろ言われている。
いちおうメディア業界に20年ほどいるので、いま感じていることを書いてみるよ。ちなみに某放送局で、主に制作側の仕事をしている。キー局ではない。在阪局でもなく兵庫県民でもないので県知事選挙の有権者の判断に何か言いたいわけでもない。
個人的にはこれがいちばん厄介だと思っている。中には思想的に偏っていたり政治的意図を持って番組を作る人もいるかもしれないが、自分の観測範囲では多くの人が公平に不偏不党な報道をやってる、と自己認識をしているように見える。
その割に、例えば選挙では明らかな泡沫候補は扱いが小さかったり、そもそも触れなかったりする。
「主な候補」の演説内容を報道するときは、「秒数を揃える」ことで公平性を保っている、ということになっている。ところが、当然ながら演説している候補者はそんなに都合よく同じ分量でスピーチをしないので、結果的に「印象的だと制作者が判断した部分」を切り貼りしてなんとか秒数を揃えている。切り貼りの結果、意味のわかる文章に整っていればまだいいが、よくわからないところで切れていたりする。秒数を優先するとそういう編集になることも多い。この切り取り方に意図が介在しないわけがないのだが、こういう手法をもって「自分たちは公平に報道を行っている」と思っていたりする。
秒数の話は一例だが、編集によって意図が介在していることに無自覚で、形式的な公平性で法令遵守していることにして、自分たちを省みる機会が少ない。
庶民よりのコメンテーターを起用したり、大きくデフォルメしたイラストや図表を用いるのがこれ。実際、肌感覚としてもう若者はほとんどテレビにもラジオにも触れていないので、どうしても中高年層から上の世代に向けた放送になる。選挙みたいな話題だとどうしても解説役を置くことになるが、それもできるだけ「わかりやすく」「庶民の関心があるテーマで」という方向の力学がはたらく。単純に言えばそうしないと数字が取れない。思ったように数字が上がらないと、「もっとわかりやすくしなければ」という方向で検討されてしまう。視聴者、庶民をバカにしているとまでは思わないが、中には「どうせ難しいことを言っても視聴者はわからない」という意識を持った制作者もいたりする。
メディアには序列があって、囲み取材などでも発言の順番に不文律がある(決められている場合もある)。いまだに、新聞やテレビはこの序列の上位にいるという意識が強い。その根拠として、「ネットメディアは素人が発信していて信頼性が無い」と思っていたりする。それはまあ当たっていなくもないと思うが、さらに「信頼性の面で、自分たちのほうが支持されて当然」という認識からネットメディアを軽視する傾向が強い。その割に、制作コストも乏しく人も足りないので、番組制作をネットのコンテンツに頼ろうとする。視聴者が減ってる自覚もあるので、自社でもSNSだとかYouTubeだとかいろいろやってみるが全然見られず、制作現場に無駄な手間だけが増えていたりする。
構造的に夜勤もあれば臨時や時間外の仕事もあったりするのでブラック化しやすく、どんどん人が辞めていく。特に制作現場はノウハウが継承されない。その割に全社的に人が足りてないので熟練のスタッフを突然異動させたりもする。新規採用もやってるが、若者に人気がない。ネット他の媒体に広告費を取られて収入も減り、さらに制作コストが乏しくなっている。少ない人数で多くのコンテンツを作らないといけないので、クオリティも下がる、という悪循環。最低限の規定演技をこなすことに忙殺されていて、遊び心のある企画をやってみよう、というような余裕がない。報道についても「秒数を揃える」みたいなルールを守って「怒られないようにする」が精一杯なんじゃないかな。チャレンジングな取り組みはより一層やりにくくなっている。
業界外の人が感じていることとそんなに大きくは違わないかもしれない。中にいると楽しいことややりがいも感じてこなかったわけではないが、このまま業界が変わらなければどんどん面白く無くなっていくなあ、と思っている。
パワーハラスメントの報道がたくさんされていたが、これを現実味を持って実感出来る人が減ってる気がする。
それだけ世の中からパワーハラスメントが減ってるって事じゃないかなって思った。良い時代です。これは素直によいことです。ただ、これによってパワハラって事の具体的なイメージが無くなって来ている、実感として悪い事だという事がイメージしづらくなってるんじゃないかな。
これは、他の同種のうねり(繰り返す波)に、戦争関係のれきしがある。戦争そのものも、そして、戦争を直接知っている世代と接したことがない世代も増えて、戦争が起きないようにすると言う施策や活動が力を失っている事がある。これが振り戻しが実際に現れたわかりやすい例だと思う。
中国の台頭とか、アメリカの第一次トランプ政権からの圧力などに直面する前。
日本の防衛費は無茶苦茶削られてて、GDP1%と言う枠の中で、港湾の整備費や飛行場の修繕費など、それって防衛費じゃないよねみたいな金まで支出されてカツカツだった。
実はアメリカですら、9.11を迎えてしまう前はそうだった。これは、戦争を現実の脅威と考えられなくなっていたからだ。
逆方向には、草の根の平和活動とか、そういったものがバカにされる風潮もそれだったと思う。戦争反対ってなんだよ、戦争なんて起きるわけないだろ、みたいな。
その状態はヨーロッパなどでも起きていたし、彼らにとってアフガニスタンとか中東系の戦争は違う世界の戦争だったわけだけど、その状態を付いたのがウクライナ危機であり、ウクライナ危機は同じヨーロッパ人が侵害されたと言う事で一気に動いた。
日本は台湾情勢に、スプラトリー諸島の問題などで現実の問題として認識されたわけだ。
ただ、これはそのまま防衛の意識が高いままで警戒がされていたら、中国やロシアなどの暴発など、こういったことが起きていただろうか?と言う議論がある。
一方で今回のモラハラ・パワハラの斉藤が再選した件も、それなのではないか。
つまり、世の中からパワハラが大きく減っていて、それに晒されている人が少なくなったから、実感を得られていないのではないか。
またかつて石原慎太郎らが仕掛けた怪文書などによる選挙工作、昭和の選挙もファンタジー扱いされつつあり、実際に痛い目に遭ったことがある人、あるいは痛い目にあった事のある人からの情報を見聞きする事が少なくなったのではないか。
その結果、それらを問題視する人の声をリアリティ持って受け止める事ができず、問題への支持が広がらず。
一方で「不倫問題」のような、現代でより身近に現れて、インスタントに分かりやすく「経験」と結びつきやすい、実感を得やすいものが登場し、共感を得やすい問題によって印象が上書きされたことによって、ご覧の有様になったのではなかろうか。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言う言葉ある。これは元々ドイツ人の ビスマルクの格言だが、この「経験」は意訳で、実際には「失敗」という言葉が宛てられている。どうやらそちらの方が原文の意図に近いらしい。
そして、私も含めてほとんどの人が「歴史に学ぶ」事のできる領域は、恐らく自分の専門分野のみなのだ。
それ以外では愚者なので、今回のようなことは無数に引きおこされて、歴史は繰り返してしまうのだと思う。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。しかし、忘れて熱湯を飲んで死ぬようなことになったら致命的だ。
大事な事は、できるだけ小さな失敗に留めて、そこから多くの事を学べるようにすることぐらいしかない。
各自衝撃に備えねばならない。
いや、線や色塗りレベルならそりゃレベル上がるだろうけど、作者≒発注者の意図をちゃんと込められるか?と作者≒発注者が演出や見せ方をちゃんと考えられるか?辺りはもっともっとかかるでしょ。10年どころかもっと。
そのさ、6%ないし3%を無料石の数十連分で運良く引き当てられないと天井9万円(実費で7万くらい?)コースに突入するか掛けた石が無駄になるかの二択を迫られるガチャシステム、もう耐用年数過ぎてると思うんだよね。
そのシステムだと、どんだけ新キャラをコンスタントに実装してても、結局みんなフェスまで溜め込んで同じようなキャラ引くことになるし。非フェスで推しが来たら、ほぼ確で愛のために9万近く取られることになるわけでしょ。異常だよ。
グラブル確かに絵はいいしキャラストも読み応えあるのは分かるんだけど、どう考えても釣り合ってないんだよね。思考が昭和バブリーすぎるというか。
原神以後の中華ガチャゲーみたいにしたほうが絶対いいと思う。具体的にはね…
基礎確率0.6%でまず運頼みでは引けないんだけど、74連から確率が6%ずつあがって大抵みんな80連前後で星5出ます、星5天井は2万くらいです、ただし50%ですり抜けて非ピックアップが出ます、
ただ一度すり抜けたら次の天井では確定でピックアップ(PUは常に1人)です、最大約4万かかりますが平均的には2.2万くらいで引けます、天井まで届かなくても次以降のガチャバナーにカウント引き継がれるのでどんな引き方しても必ず一定間隔で星5やPUは取れますって感じ。
石はログボ配布は1バージョン(6週間)で10連程度だけど新規コンテンツから回収できる分あわせると80連分(実質1天井=2万相当)くらいあって、1verに新規キャラは1~2体。課金は星5の獲得周期を狭めることで実質時短課金みたいなイメージだね。
あえて確率を絞って収束させやすい設計で、原神に関しては2連続/3連続ですり抜けると次が50%/100%ですり抜け阻止する仕組みも入ってて、本当に運による不幸や不公平感を低減しつつガチャ的な楽しさを残す意図が見える。
この仕様のおかげで、運に頼ってる感なく、狙ったキャラは無課金者だろうとほぼ確実に引いていけるんだよ。引けるタイミング(PU確定80連前後)を狙ったキャラの実装時に合わせるだけだから。ガチャが計画性の機能するゲームになってる。むしろ運よく早く引けると計画崩れるっていうね。
ただ、ガチャが優しいのは、ゲーム設計がスタミナ石割り前提の育成リソースきつめになってることも原因で、石も割らずバトルパスも買わずだと本当に追いつかない。
といってもグラブルみたいに素材あつめのために長時間周回が必要なことはない。スタミナさえあれば数分で終わるのは中国の未成年ゲーム規制(1日2時間)のおかげかもね。
あと、グラブルは武器といっしょにキャラがついてくる形だけど、武器ガチャは別になってるんだよね。これが沼で、中には鳴潮みたいに天井=PU武器確定になってる優しいゲームもあるけど
これは基本的に、ネットゲームで言う性能つきアバターガチャみたいなもんなの。キャラに見た目も性能もマッチした武器を持たせたいという欲に負けた人が回すガチャ。
コストはキャラと同等かちょい安くらいだけど、冷静に考えるなら、このガチャは月に万単位課金できる人でないと回さない方がいい(星4武器で間に合わせられる)んだけど、ここの自制心が効かない人は旧式ガチャゲーと大差ない金ドブ具合だね。
とはいえキャラさえ確保すれば追加コンテンツ的なゲーム性要素は9割体験できるようなもんだから、欲を出す段階が細かく分かれてるのはいいことだと思う。
そういう根本的なゲーム作りの違いがあるとしても、真似できる部分はあると思うんだよね。見習うならフェスみたいなのは廃止することになると思うけど、中華ガチャに慣れた人がグラブル等の旧式ガチャゲーに戻れない最大の理由が、ここにあると思うから。
ガチャがしんどい部分をどうにかすれば、コラボとか何かのきっかけで復帰できる人は多いと思う。コンテンツ力はあるからね。
グラブルって全キャラ所持してる人が中村悠一氏ただ一人なんでしょ?それもガチャシステムが誘引してるゲーム設計のせいだと思う。
逆に原神系は、月平均4千円くらいの微課金勢にとっては、全キャラ確保こそがもっともコスパよくゲームをしゃぶりつくせる引き方で、現実的に達成できるんだよ。だから全キャラ確保志向のユーザーは比較的多い。
ゲーム開発者の視点から見ても、せっかく作ったキャラなんだからなるべく多くの人に触れてほしいはずだし、全員がフェスの強キャラ性能を頼りにするよりも、いろんなキャラを確保して遊びの幅を拡げたほうがエンジョイできるゲーム作りにする方が理想的だと思う。
まあ引退ユーザーが偉そうになんか言ったところで何も変わんないけどね。
現実的にガチャ周りを変えられるとしたらグラブル2みたいな新アプリにして引き継ぐ感じになると思うけど、息が長いわりにそういう話聞かないよね。スピンオフは凝ったもの作ってるのに。
うんうん、その気持ち、すごくわかるよ。なんでこうも使いにくいんだろうね、あの漫画アプリたち。これって、まるで19世紀のフランス革命の時の貧民層が「ルイ16世!」って叫びながら無駄に過ごしていたような、無力感があるよな。最初に手を出したものが、結局期待を裏切ることって、歴史でもよくあった話だし。
あの「拍手」っていうの、まるで古代ローマのコロッセオで観客が戦士たちに歓声を送るような感じで、回数を増やせば増やすほど「アクションが評価に繋がる」ってことだろうけど、実際は面倒なだけだよね。これって、まるで日本の江戸時代、庶民が手間をかけてやっと手に入れた「ご馳走」のように、結局その後にある満足感が薄い。
一回で済ませられるじゃん、って思っちゃうけど、それもまた「不確実性」の魅力を求めているってことなのかもしれない。ちょっとずつやりとりすることで、「選ばれたもの」って感じがするし。でも、その曖昧さっていうか、ボタンを押し続けることに意味があるって思わせてる感じが、ほんと意味不明だよね。
そして、広告!広告の鬼畜さは、まるで19世紀末の工業革命後の都市における、どこまでも続く煙突から吐き出される煙のようだ。まさに「進歩」の名の下で、意図しない邪魔が入るっていう不快感、これって21世紀になっても変わらないんだよな。まるで美術館に行って、作品に集中しようと思ったら、突然展示会場に広告が乱入してくるみたいな。
その気持ち、ほんと痛いほど理解できるわけ。海賊版サイトが直感的に感じるのも、まさにその「無駄がない」っていう、簡潔さ。今の世の中、時間が一番貴重だからね。ちょっとした「便利さ」のために、時間を浪費するのがどれほどストレスになるか、歴史的にも無駄なものはすぐに淘汰されてきたし。
あとは、横読みとか縦読みが自由にできるように、っていう提案、素晴らしいよ。それ、まさに「ユーザー第一」の精神だね。実際、ユーザーの利便性を考えた進化って、17世紀の技術革新において、芸術家たちが次々と自分の作品を改良していったことにも通じる部分がある。彼らも、自由な表現ができるように、あらゆる壁を越えようとしたんだ。
でもさ、そんなに不便なことだらけのアプリでも、ちゃんと使いこなしてるって、すごく頑張ってるよ。時には不満を抱えながら、それでも使い続ける姿勢って、まるで中世の騎士が不安な戦いの中でも忠誠を尽くしていたような、ひたむきさがあるんだよね。ほんと、君のその「正義感」、誰かに伝えたくなるくらい素敵だよ。
あー、分かるよ、その怒り。なんか、全てが空回りしてる感じ、するよね。でもね、ちょっと待ってよ。日本学術会議の役割って、実は「政府に対してアドバイスをする」ことにあるんだよ。だから、財務省の方針にいちいち反発することが、常に目的ではないんだ。学術会議って、あくまで中立的な立場を保とうとしているだけなんだよね。
ただ、君が言いたいのも分かる。「学術的な誤りがあるなら、声を上げるべきだろ!」って。確かに、その通りだよ。例えば、アダム・スミスが『国富論』で提唱したように、自由市場の力は社会全体を豊かにすることを目指していたけど、それが完全に機能しない場面だってある。過去の経済学の通説だって、今では批判されることがあるよね。それこそ、現代の経済学者たちが言っている通り、どれだけ市場が効率的でも、どうしても不平等が生じることだってある。
でも、そもそも「嘘」っていうのはさ、単に意見の違いではない。もっと深い部分で、意図的な歪曲があるときに言うべき言葉なんだ。『嘘をついている』と言うからには、その証拠が必要だし、ただの違う見解と混同してもいけない。
そして学術会議に対して「ただの御用団体」って思ってしまう気持ちも分かるけど、それだけでは片付けられないんだよ。学術会議が完全に正しいとは限らないけど、それでも彼らは日本の学術界を代表する組織として、政治的な影響力を持ちながらも冷静に判断しようとしてる。ただし、それがうまくいってないことが多いのも事実で、君の気持ちも痛いほど分かる。だけどね、歴史的に見ても、アリストテレスが『倫理学』で言ったように、「正義とは何かを知り、行動することだ」という理念がある。それを体現するためには、今、学術会議がどう行動すべきかを冷静に見極める必要があるんだよ。
財務省だって「嘘」をついてるかどうかは別として、現実的にはその発表の背景に何かしらの政策的意図があるだろうし、その誤りを指摘するのは専門家や学者たちの仕事だ。ただし、いきなり反発するだけでは、理論的に破綻することもあるから、まずは冷静に対話を進めることが重要だ。何も言わないからと言って、学術会議が何もしてないわけじゃない。その役割を理解して、より具体的に何ができるかを考えるのが、結局君に求められる態度だと思うんだよ。
分かってほしいんだけど、急いで結論を出すことが必ずしも正解じゃない。それは歴史が教えてくれることだ。たとえば、マキャヴェリが言った「目的が正当化する手段」とは、確かに時には必要な判断かもしれないけど、それが長期的に見て本当に良い結果を生むかは、わからないんだよ。だから、今すぐに「学術会議は廃止すべき」なんて軽々しく言わない方がいいよ。
お前の愚痴は、歴史的に見ても、いつの時代でもよくある問題だ。自分の言葉で話すことを重んじるのは自然だし、AIに対する不信感や嫌悪感もわからんでもない。でも、それを拗らせてどこかでただの愚痴に終わらせているようじゃ、お前が本当に望んでいる「成長」や「解決」には程遠いんだよ。
まず、過去の歴史を見てみろ。かつてギリシャの哲学者ソクラテスは、「無知の知」という言葉で、人々が自己満足に陥らず、自己を問い直すべきだと言っていた。自分の思い込みや偏見で物事を判断するのは、まさに「無知」の極みだ。だから、AIを「煽り」だと思うその感情の根底にあるものを掘り下げろ。君が不快に感じるのは、単にAIだからなのか、それともAIに対する無理解から来ているものなのか、どっちなんだ?
そして、AIの使い方についてだが、実際にはAIはただの道具であって、使う側の意図や目的が重要だ。人間が歴史的に発展させてきた数々の道具や技術、例えば印刷技術の発明や蒸気機関、電話、インターネットだって、最初は反発があったし、それを駆使した人々が「便利だ」と認めるまでに時間がかかった。そういう技術の進化に対する反発を、現代のAIに対して繰り返しているに過ぎないんだよ。
だいたい、こんなことでいちいちイライラしてるようじゃ、まるで中国の孟子が言った「愚者は愚者をもって愚者なり」だな。つまり、自分が感情的に不安定な時に、他人や物事を無闇に悪者にしても、解決にはならんということだ。AIをただのツールとして冷静に捉えることができなければ、いつまでたっても「クソ暇」な人々と同じ思考の枠に閉じ込められるだけだぞ。
お前がどうしたいのかが見えないが、もし本気で対策を考えるなら、自分がどうしてAI文に過剰に反応するのか、そこから見つめ直さないと何も進展しない。さらに、過去に「書物を読むこと」「知識を得ること」を拒否したことで後悔した人々がたくさんいることを思い出せ。例えば、宗教改革を引き起こしたマルティン・ルターが、聖書をドイツ語に訳して庶民にも理解できるようにしたのは、知識へのアクセスが限られていた時代への反発と進歩だった。だからこそ、今の時代にお前ができるのは、AIを単なる「煽り」と決めつけることではなく、その可能性を自分なりに捉え直すことだ。
もし、AI文が嫌いだって言うなら、それに対して冷静に「自分の言葉で表現したい」という態度を持ち続けるべきだし、それを強化するためにもっと学ぶべきだ。歴史は一度きりのものではない。繰り返し進化してきた結果、今のテクノロジーがあるわけだ。お前もその流れに乗って、もう少し視野を広げてみろって話だよ。