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はてなキーワード: フーコーとは

2020-05-01

anond:20200501171548

面白いと思った。

個人的なことは政治的なこと(The personal is political)っていうスローガン60年代の初期フェミニズム文脈において、個人的なことが政治的にあつかわれて"なかった"時に有効だった。

社会科学(とそれと相互依拠しているリベラル思想)は、そういう情勢に反発して、それまでパーソナルだと思われてきた事実がどれほどポリティカルかを語り、論証してきた。あたりまえだけど、社会っていうのはパーソナルな人たちによって構成されているので、パーソナルな事実ポリティカル構造関係していると示すのは、難しくなかったはず。今では古典の一部になった社会科学理論によって、パーソナルなことはまさにポリティカルであることが今では自明とされている。

 

いや、そこで、お前の疑問というか、痛みね。

個人的なことが政治的なことになったら、個人はそりゃ幸福から遠ざかるわな。

そういう視点は、確かにリベラル思想には欠けていると思う。今でもそうだ。

 

リベラリズムは、個人幸せを得ようとしていたのに、かえってフーコーの言うところの生権力による支配を、むしろ強力に推し進めてきたのだと言える。

そういう状態に対するバックラッシュっていうのは、これまで無かった訳じゃあないけれども(携帯をわざと持たないことが一部でもてはやされるなど)、今後もっと広く強力になっていくのかもしれないな。だって辛さのほうが強力になっているもの増田ですら、頻繁に、リベラリズムがむしろ人の自由を縛ってくる、それがうざい、ということが言われている。世界全体で見たときにも、リベラリズムの今の衰退についても、原因の一端ぐらいにはなっているのかも。

anond:20200501093219

いや、社会統計をもとにした女性関係ちゃんとした研究成果はたいてい認められてるだろ。

女性管理職が変に少ないっていう報告とか、否定されることない。

 

フェミニズム(の本)こそが、他の学問研究成果を認めてないことが多いんだぞ。

例えば、『ジェンダートラブル』の生物学描写のどこが間違っているかを正確に言えるフェミニズム専門家ってのはすげー少ないと思う。それどころか古典としてありがたられてるせいで、間違った知識仕入れる生徒がどんどん増えるありさま。進化生物学を元に書かれた『人はなぜレイプするのか』が名著だったんだけど、あれが叩かれてたのも全く不満だった。

あるいは歴史研究の詳細解釈をすることなく、未だに家父長制がどうとかいう話を自明視してたり。フーコー以降の権力理論を導入したら、男女の「平等」とは何だかわかんなくなるから、未だに素朴すぎる差別被差別構造で考えてる人がほとんどだし。

俺は女性学のそういうところがすごく不満だよ。社会活動としての意義を優先するから、都合の悪い研究マジで取り入れないよやつらは。上野千鶴子だかが、何かでそれをしていますって自分で言ってたろ。自覚もあるんだ。

2020-04-27

anond:20200427172141

実際のところフェミニズム、ひいてはフェミニズムが下敷きにしている20世紀中期~後期の社会科学人権論は、多かれ少なかれマルクス主義マルクス主義への応答を基本としているので、この増田の指摘は増田自身が思っているよりもずっと正鵠を突いている。

 

ルーマン偶有性とかフーコーの生権力とか取り入れだすと、フェミニズム自体がうまく成りたたないんだよな。

女性搾取されることによって男性支配してきたのだ~」とかいうことになっちゃうので。

しかもこのほうが話としては面白い

2019-11-29

フーコーの生権力バイオパワーみたいなことでしょ。

民事判例が積み重なって、もう古いよね

2019-09-16

故郷を思い出したので自分語りしてみる。

ふと生まれ育った町の情景を夢で見て、多少思うところがあったので気持ちを書き留めようと思う。

静かな入り江からさな漁船が海の彼方へ消えゆくような、そんな夢だった。

最近よく見かける「田舎で非知識階層に囲まれて育ったけど、地元に馴染めずなんだかんだで都会に出てきて過去ホームタウンを思い返すたびに多少絶望する」という散文的な自分語りであることを先に断っておく。

ただの個人経験であり、エスノグラフィのようなものだと思って読んでもらえれば嬉しい。

この日記結論はこうだ。

かに東京人間想像することも出来ないような社会」が日本のどこかには必ずあって、学ばないことが規範と化して社会再生産されているということ。

自分東海地方の海沿いの寂れた漁師町に生まれた。

名古屋まで電車で1時間半以上、文化的施設といえば聞いたことのない演歌歌手がたまに来る小さな市民ホールと、小さな本屋が2軒あった。

2軒の本屋万引き被害額が大きすぎて自分が町を出た後に潰れた(跡地はセレモニーホールという名の葬式場になった)。

1時間に一本しか電車のこない駅から伸びるメーンストリートで今でも開いている店は、年金暮らし年寄り趣味でやっている畳屋と宝くじしか無かった。

街中でスーツ姿の人は見たことがほとんどなかったし、そもそも人が出歩いている記憶すらない。

家族母親と母方の祖母のみ。

高卒で一度も町からたことのない母親は、漁師相手にする場末スナックで働いて自分を育てた。

同じ町で漁師をしていた父親フィリピンパブ出会ったフィリピーナに入れ込んで、小学2年生くらいの頃に母親離婚した。

それより前には「キミの父親不倫をしているんだ」と小学校の同級生母親から聞かされた。

相手は近所に住んでいた太ったおばさんだったので、あんデブとなぜだろうとその時は疑問に思ったけどすぐに忘れた。

最後父親と会ったのは、父親が家を出て半年後くらいに小遣いをやるからと呼び出された紫煙で視界の悪い雀荘だったと記憶している。

その後は行方不明で、風の噂では今はマニラに住んでいるらしい。

こんな家庭環境は、東京自分が属するコミュニティでは聞かない。

なぜそんなことにわざわざ触れたかというと、自分の家庭は何も特別ではなく、周囲を見渡せば程度の差はあれどどこもそんなものだったから。

親が大卒同級生なんてクラスに1割も居たかという感じだったし、自分が通った地元中学校には200人くらい同級生が居たがそのうち大学に進んだのは20人くらい。

自分博士まで進んだが、マスターレベルですら聞いたことがない。

あとで詳しく触れるが、そもそも勉強をするとか考えること自体忌避するという一貫したスタイルがあらゆる局面通底していた。

さて、シングルマザーの家庭はクラスに3割は居たし、両親が揃っていても母親父親違いの兄弟姉妹が居るなんて話も珍しくない。

世代職業漁業水産加工町工場自動車修理で、小中学校教諭公務員の子息は格の違いを醸し出すスーパーエリートの家庭扱いだったし、家も小綺麗だった。

スーパーエリート以外は、トタンの壁が海風茶色く錆びて、汲み取り式のトイレから伸びる煙突の先がクルクル風で回っている文化住宅か、古民家カフェを思いきりボロボロにしたような都内なら廃屋だと思われるような家に住んでいた。

町工場に勤めている人たちで指が無くなったなんて話もよく聞いたし、どこそこの家が生活保護受給とかという話もよく聞いた。

クラスメートが学校を翌日休む理由が、その前に起こした暴力事件家裁に呼び出されているからとかもよくある話だった。

そんな彼らが余暇にすることといえば、スナックフィリピンパブギャンブルセックスくらいしか聞いた限り思いつかない。

かに、成人した兄がいる同級生の家に遊びに行った時には、真昼間から居間同級生の兄と派手な格好をした若い女性がセックスをしていたし、パチンコ屋には毎朝人が並んでいた。

ギャンブルパチンコ電話投票する競馬が主流だったが、甲子園の季節になると地元暴力団が元締めをする高校野球賭博流行っていた。

暴力団偽ブランド品も売りさばいていて、軽自動車スウェット姿だけど鞄は高級ブランド(偽物)という出で立ちの女性をよく見かけたものである

まぁこんな感じでつらつらと思いつくまま挙げてみたが、自分身の回りで溢れていたのは、キーワードでいえば貧困、性、暴力ギャンブルだった。

そもそも大人たちがそんなスタイルだったので、子供達も似たような社会フラクタル図形のように構成していた。

小学校の頃には駄菓子屋コンビニでの万引きが横行していて、後に刑務所に入るような子供たちはその時代からすでに盗んだタバコを吸って、やっぱり盗んだバイクに乗っていた。

暴走族(ゾク)に入って大人たちを殴ったり大怪我するほどのゾク同士の喧嘩をする中学生たちが小学生のヒーローで、ゲリ便が出る時のような音を撒き散らすバイクに皆憧れていた。

そんな時に暴力的な彼らは、異質な存在排除することが大好きで、異質とみなされた同級生は徹底的に排除された。

小学6年生のとき教室に入ったらメガネをかけている子が素っ裸で椅子に縛り付けられて頭にバケツを被らされていた。

メガネは弱いもの象徴で、勉強議論をするような人間排除対象だった。

文革かって感じ。

反対に、野球が上手いか、足が早いかケンカが強ければヒエラルキーの上部に君臨できる。

動物的に強弱を判別できることがそのままヒエラルキーの源となっていたし、意思合意感情とその時の雰囲気で決まっていた。

そして中学生になると、今度は成績が良い人が排除対象となる。

真夏に水を飲まずに走りこんで泣きながら試合に負ける部活に打ち込むことがすべてに勝り、もしくは非行に走ることがある種の中学生らしさであるというコンセンサスを伴って正当化されていた。

授業中には廊下自転車が走り、思い出した頃に校庭に暴走族野良犬があらわれる。

トイレにはタバコの吸い殻が落ちているし、たまに窓ガラスは割られていた。

教師はたまに殴られたり、殴り返したり、車を壊されたりしていた。

一方で登校している生徒にとっては、校則フーコーパノプティコンも真っ青な規律自動化させるもので、髪型男子坊主女子は肩まで。

他にも細かい校則がたくさんあって、破れば容赦無く教員から殴られる世界だったし、皆が一緒であることを望んでいたので、逸脱すれば容赦無く告げ口されていた。

校則を破らなくても、目立てば排除対象になりうるので、いつしか自分も誰かが見張っていると意識して、いかに溶け込むかを重視するようになっていた。

そして積極的に学んだり考えることが嘲笑対象であったので、そこでもやはりセックスしたことがあるかとか、バイク知識があるかとか、そういう分かりやす尺度ヒエラルキー構成されていた。

授業中に教師から指名されて小難しい答えを言ったり、発音記号通りに英単語発音しようものなら3日は真似をされてイジられるのは御多分に洩れず自分地元も同じだった。

テスト期間は早く帰れるので皆喜んで下校後に遊ぶレベル勉強に対する姿勢で、将来は男子工業高校女子商業高校に通ってそのあとのことは何も考えないのが一般的だった。

ここまでは自分ライブで触れた15歳くらいまでの環境の話で、せいぜい15年くらい前の話だ。

はっきり言えば、そのような環境はまっぴら御免だし、そんなところで自分の子供を育てたくはない。

ただ、地元の話は中々難しい問題はらんでいる。

ここからは冒頭に述べた「社会再生産」について触れたい。

さて、経緯は知らないが、自分幼稚園の頃にIQテストを受けた。

そのあとに、あなたの息子は知能指数が高いから相応の教育を受けさせてあげてくださいと園長先生から母親コメントをもらったらしい。

大学のことすらよく知らない専門学校卒の母親だったが、自分都内海外の全寮制の学校小学生のうちから預けようとした。

だが、当時の自分はこともあろうに泣き叫んで拒み、結局は地元に残ることを選んだ。

当時のことはよく覚えていて、理由友達と離れたくなかったから。

その時に知りうる限りの世界を取り上げられることに対する極端な不安が何よりも勝っていて、母親は息子の気持ちを優しくも汲み取って折れた。

ただ、結論からいえば、自分結果的に完全に故郷を捨てた。

小学校に上がった時、小1か小2くらいの頃から、本を読み始めた。その頃に三島由紀夫島崎藤村やら、古い作品から新しい作品まで縦横無尽に慣れ親しんだ。

早朝に登校して空いた時間や、ジャンケンで負けて押し付けられた図書委員時間図書室でひたすら本を読んだ。

そのうちに、自分生活する社会根本的に異なる社会、つまり学び、考えることが重要であるという社会存在することを知った。

哲学思想系の本はもちろんのこと、西洋美術画集建築写真集に心を揺さぶられたし、マーラーCDを初めて聞いた時の感動は死ぬまで忘れないと思う。

めちゃイケを好むふりをして、自分加藤周一の羊の歌に感銘を受けて、とりあえず東大に行こうと中学の頃には考えていた。

そして周囲に迎合しつつも高校に進んだ。いわゆる地方公立トップ校だった。

他にも理由はあったと思うが、中3の時には成績が良いという理由ものを隠されたり上履きにガムが入っていたこともあった。

通っていた高校地元から電車を乗り継いで1時間は掛かる。

入学から1ヶ月もしないうちに、明らかに新たな社会社会階層自分は組み込まれたと自覚した。

同級生の親の職業は、医者弁護士会計士大企業社員ばかりだった。

誕生日には名古屋デパートの上層階のレストランだったり、どこぞで伊勢海老を食べるだのとそんな話もたまに聞いた(成金的な家はあまり無かったけど)。

彼らの親は旧帝国大学出身はざらにいたし、兄が東大、今はオックスフォード留学中とかそんな話も当たり前にあった。

幼い頃からピアノバイオリン書道バレエスイミングなんかをやっているのがマジョリティだったし、週末に美術館やコンサートホールに足を運んだという話も決してレアな話ではなかった。

彼らと出会ってとかく感動したのは、好きだった本や芸術の話を初めてリアル人間とできたことだった。

そして何より彼らは、自身解釈や、見解を示してくれたし、自分のくだらない議論にも向き合ってくれた。

もちろん性やギャンブル暴力ワンピースの話もたまにはあったが、それ自体享受するだけでなく、思考対象としても話題を取り上げることががあった。

高校以来、自分は学び、思考する人しか存在しないかのように振る舞う社会に身を置き続けている。

今にして思えば、もっと早く外の世界に出た方が良かったのではと素直に思う。

ただ、当時の自分には、その選択肢はなかった。

なぜなら、受動的に与えられたその社会自分のすべてだったから。

母親母親であるように、生まれ育った社会は生まれ育った社会であって、代替がきかない。

自分たまたま自分が立っていた社会と違う社会を知りうるきっかけを子供の頃に得たから今があるのであって、その機を逃せば一生地元に居ただろう。

なぜなら、考えることや知ることを拒むことが規範となる社会では、外の世界があるということ自体を知りようがないのだから

自分は考えることも、こうして頭の整理をすることも好きだ。

パチンコ新台や、友達奥さん不倫をして旦那相手と殴り合いの喧嘩をしたとか、そういう動物的な話題を「それ自体」をただ消費する社会に少なくとも自分は興味がない。

もちろん、そういった社会自分経験したような)を否定する理由はどこにもない。

ただ、自分故郷を捨てたように、その社会に残るのは、その社会適応しきった人々である

有り体にいえば、将来の選択肢存在すら意識できないのが自分体験した社会であり、どのような選択肢があるのか獲得しようする営みそのもの封建的否定される強い構造を伴っている。

からこそ、自分田舎はいつまでも同じ姿を留めることに成功しているのだと思う。

もちろん、その社会自体が恐ろしいぬるま湯であり、外には異なる社会存在することを予期している人も稀にはいることだろう。

幼い息子を外の世界に出そうと考えた母がそうだったように、おそらくそれに気付いた時に自身好転させるにはあまりにも遅い場合が大半である自分は思う。

そして、自分は今更何があったとしても、地元の彼らと交流することはできないし、するつもりは一切ない。

それくらいに共通言語がもはや異なっている。

母はもう二度と戻ってくるな、お前の居場所はもうここにはないと電話口でことあるごとに言う。

一方で、開成筑駒から東大に進んだ都内組は何も捨てることなく、安定的自分が望んだ社会享受してその上に今も生活を営んでいる。

それは誰でもそうであるように、最後最後に拠り所となり得る自らの地域的なアイデンティティをきちんと持っているということである

自分依拠すべき地域地元)を自己実現と引き換えに失ったのであって、願わくば我が子には地元を与えるか、もしくは地元がなかったとしてもサバルタンとなり得ない思想的な土台を築いて欲しいものである

そして同時に、自らの強みは故郷がない事であり、海外に出ることも辺境の地に赴くことも、自分さえ許せば可能となり得る。

今朝の夢に現れた、小さな漁船はきっと自分自身だったのであろう。

2019-08-12

フーコー言葉と物」二の五「言語(ランガージュ)の存在(エートル)」を読んだ。

シーニュの配置がシニフィアンシニフィエだけになった近代以降は、ランガージュが物質的な実在とは限らなくなったこともあって“第一義的なテクスト”への接続が断たれている。文学はそのランガージュの生のままのエートルに遡ろうと頑張るけど、もはや第一義的パロールが失われてるから昔のように上手くはいかないようだ。(末法思想みたいだな。)

2019-08-10

フーコー言葉と物、二の三「世界限界」を読んだ。

アナロジー実在するものと結びつき、別の相似が支えてそれを支えるのは別の相似、、というので、世界の別のものと結びつけるほかないという意味で別のところに究極の答えがあるわけではないという意味限界がある。多分

合理性近代人が自己特性として至上のものと考えてるけど、占卜も博識も同じ解釈学だった。シーニュと相似者があるだけ。シーニュソーニャは似てるけど関係ない。勉強哲学はやはり分かりやすくて良い本だったんだな。

昨日に引き続きフーコー言葉と物、二「世界という散文」の一「四種の相似」を読んだ。

具体例が“天空の星辰”と“地上の星たる植物”とかいちいち中二病らしくて……格好良いかも?と思い始めてきた。中世人達は色々分かってないだけにロマンチック

相似するもの自体の変化を伴う4つ目の相似“共感”と、それと対になる反感と、この一対の力が世界距離感を支えているーーその感じはよくわかる。

2019-08-09

フーコー言葉と物」序を読んだ。気持ちを込めて意味を考えながら音読した。感動した。期待が止まらない。

さあ、わが大地よ、不安に震えて待っているがよい。。。

己の脆さを暴露され、分裂を余儀なくされるその時をぉ!!!

自分哲学必要になっている。多分

今日からフーコーの「言葉と物ー人文科学考古学ー」を読む

本の理由は憧れる人の曲にディスクールが出てくることと“言葉にならない”ことがどういうことなのか知りたいか

よろしく

2019-01-25

anond:20190125191800

おっしゃる点についてはフーコーの『狂気歴史』がとても参考になると思います

2018-12-04

anond:20181204202747

フーコーが違ったというのは意外。

監査されてるってことは大して関係なかったということか。

anond:20180812195341

追記です。

9月チャットレディをやめました。

チャットレディでは、同時に何人から見られているのかはその場で表示されますが、累計何人から見られたかはわかりません。

チャットレディをはじめて何ヶ月か経ったあと、それが見られる場所を見つけました。30分間で凡そ100人に見られていたそうです。不特定多数に見られていることに恐怖を感じやめました。

今はセクキャバ を始めましたが、あのとき感じていたモヤモヤは今は消えました。

正直、チャットレディは搔き消したい記憶です。(顔出しはしてないものの)ネット上で裸を見せていたことはなんて馬鹿だったんだろうと思います

たった数百円で自分の裸が消費されていたこと、わたしがそれを選んだことに虚無を感じます

フーコー入門書を読みましたが、この文脈には使えないなという感じでした。

2018-10-24

anond:20181024002724

フーコーが「狂人」と「常人」について書いていた気がする。

狂人」を決定することで、「常人」が「狂人以外」として決定される、と。

 

大事件」と「日常」に置き換えても同じだと思われるん。

2018-10-20

反自由主義フェミは女の自由も抑圧したがっているのですから、彼ら彼女らは同時に女性嫌悪者でもあるのだと考えるのが自然

フーコー派は「私たち社会的権力欲望させられているのだ」という主張を好みますが、これは反自由主義フェミニズムと非常に親和性が高い立場です。なぜならこの理屈を使えば、自由意志の下で性を楽しんでいる女に対して「あなたはそのように欲望させられているだけの奴隷だ」と言えるからです。

いわゆるフーコー哲学は「我々は社会的権力欲望させられている」という主張を好みますが、ドゥルーズ哲学は「その社会的権力とやらを生み出しているのは、結局のところ私たち欲望なのだ」という立場を選んでいますよね。これはフーコー批判としては最も辛辣ものであるように思います

ミシェル・フーコー社会哲学は何でもかんでも権力権力アンド権力と言い募る戯言を通じて結局のところなにをやらかししまっているのか。むろん個々人の自由意志を抑圧することに貢献しているのです。少なくとも人間自由抑制したがる人々に最適な武器を与えていると言えるでしょうね。

ポストモダニスト代表であるフーコードゥルーズデリダのうち、実は最も「悪用されやすい」という意味で悪質なのはフーコーです。

反自由主義フェミに対し、彼ら彼女らは実は単なる男性嫌悪者に過ぎないと主張する人々がいるけれど、それは真実の半分しか言い当てていないと私は思います反自由主義フェミは女の自由も抑圧したがっているのですから、彼ら彼女らは同時に女性嫌悪者でもあるのだと考えるのが自然だと思います

エマワトソン論争は「男も男性から降りたほうが幸福だ」VS「男は男性から降りたほうが不幸だ」みたいな対立でしたが、そもそも男が男性から降りたり女が女性から降りたりするのは基本無理なので全く意味のない議論だと思いました。ありもしない仮定の下で議論するのは時間無駄

当時の私はエマワトソン論争を眺めて「ジェンダーがそんなに簡単フリーになるわけないだろ。なめとんのか貴様」的なことを考えたり考えなかったり、そんな風な感情を抱きながら両陣営を眺めていましたね。そもそも論者自身男性性も女性性も捨てていないのにムシのいい話だなと思いました。

さらジュディス・バトラージェンダートラブル』を再読しましたが、いくらなんでも生物学的な性差を軽視しすぎていると思いました。これは単なる観念論ではないのか。じっさい、最終章バトラー称揚してみせるのは毒にも薬にもならない「パフォーマティブな攪乱」でしかないというわけです。

2018-10-09

https://togetter.com/li/1274544

自分メモ社会学では査読付き論文がなぜ重要視されないのか

人文学社会科学の国際化について」(独立行政法人日本学術振興会人文・社会科学の国際化に関する研究会 p.73-75)

https://www.jsps.go.jp/j-kenkyukai/data/02houkokusho/houkokusho.pdf

阪大を去るにあたって: 社会学危機希望

http://sociology.jugem.jp/?eid=277

Laudanの研究伝統論による社会学理論発展法の考察 - J-Stage

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/57/1/57_1_41/_pdf/-char/ja

太郎丸博氏の論↑の極私的まとめ)

日本社会学には「学説研究」と「理論形成(構築、発展含む)」の2つがある。

学説研究」とは優れた理論を適切に読み、解釈することである

社会学」を欧米から輸入した日本では、この「学説研究」が(すくなくとも2000年代まで)社会学の中心となってきた。

一方、「理論形成」は社会の諸問題経験問題)を「以前より効率よく解決する」ためのものである

創造的で想像力必要仕事であり、歴史的にはフーコーハーバーマスのような一部の天才的な英雄によってなされてきた(英雄史観)。

例えば、新しい人間観や社会観の創造採用、適切な概念を作り出すことがこれに当たる。

日本でも「学説研究から理論形成」へと移行すべき時期なのだが、「どうすれば理論形成できるようになるのか」というハウツー世界中のどこにも未だ存在しない。

1970年代アメリカでは理論構築のためのテキストが数冊出版されており、

1.学説専門家ではなく,統計数理モデルに詳しい研究者によって書かれており,

2.具体的な現象説明するための理論=モデルをどう作るかを学生向けにひもといたものであり,

3.しばしば数式で理論のコアは表現され,

4.思想哲学的問題最初に登場するだけで,その後はほとんど登場しない

といったものであった。

データ収集分析重要であるという考えは社会学の「統計学化」として社会学から懸念されていた。

これは理論形成データから帰納命題から演繹によってのみなされるわけではないかである

(「社会学理論役割」を考える際、統計学化された社会学では認識論存在論、人間観や社会観などの哲学的問題が脇に追いやられてしまう)

また、理論を発展させるためには「解くべき問題発見(未解決問題発見)」が必要である

「なにが未解決であるか」「すでに言及している・使える学説はないのか」を知るためには、今までの学説研究研究伝統基本的な文献)が結局のとこと必要となる。

まとめると、社会の諸問題経験問題)を解くにはデータ収集分析重要であるが、手法問題概念問題)の解決への手掛かりは学説研究の中にある。

凡人であればあるほど、二兎を追うべきなのである

(まとめここまで)



北条かやインターネット死ぬということ』

https://twitter.com/kaya_hojo/status/1049257254552125440

私は研究者というよりコラムニストになりたかったんだな。もともと東浩紀上野千鶴子大塚英志宮台真司に憧れて社会学を志したのだから研究者というよりは表現者への憧憬が強かったんだろうな。でも社会学を学んだ6年間はすごくキラキラしていて充実していたよ。合掌。

ここに挙がっている名前がすべてで、学者じゃなくて文壇の延長線上にいるコラムニストだよなという感じ。

権威付けで学者を名乗っているだけで、天才にあこがれて社会の諸問題を論じているだけの人々という印象。

2018-10-07

anond:20181007085106

そもそも一般市民フーコーがどうのシステム論がどうのみたいな話必要としてないでしょ、だから俗流のものばかりもてはやされる

心理学なんかと一緒

2018-09-04

anond:20180812195341

どーだろな。

その虚無感は、もうちょっと即物的というか、生物学感情に根差してる気がするけどな。そういうときは、フーコーとか、もしかしたらハーバーマスとか、そういう思想に頼っても救いはないんじゃないか

まだアドラーとか読んだ方が良くない?

なぜか流行たから、軽薄に感じるかもしれないが。

2018-08-12

ネット上で性を売ること。

産業には水(水商売)と風(風俗)があると言われているが、それに当てはまらないものもある。わたしのしている、チャットレディ もその1つだ。

チャットレディ は、ネット上で性を売る。お客様お話ししながら、服を脱ぎ、自慰行為を見せていく。男の人はネット上の女の子の待機映像から好きな女の子を選び、その子を「買っていく」。いわば、2.5次元AVというかバーチャル風俗というか。

チャットレディ では、ネットという物理的な壁があるため、男性に触られることもないし、病気心配もないし、密室ウッカリ危険なことになる、ということもない。だから彼氏以外の男性と、満員電車の中でスネ毛が当たっただけで不快感に襲われるわたしでも、できるバイトである通勤。顔出しなしでもOK、昼働ける。他の風俗に比べれば、あまり稼げるものではないが、それでもこんなに条件の良いバイトはないと、わたしは思う。

もちろんチャットレディにはリスクも大きい。一番は身バレだろう。わたしは顔出ししていないが、顔認証があるようなこの時代に、技術的には身元を判明することは可能なんだろうなと思いながらやっている。

本当に怖い。

だが、身バレ不安を抜きにしても、

このバイトで失ったものは大きい気がする。なんだろう、この虚無感。

かに触られてるわけではないのに。

わたしはいくつかのチャットサイト登録しているが、多くのサイトでは不特定多数男性から見られる存在であることを気づかせないような仕掛けがたくさんされてある。

たとえば。

普通の「パーティーチャット」だったら、男性文字でのチャットしか参加できないとか。(2ショットという、男性と2人だけで行うチャットでは映像や音声も可能。)そこでチャットしてる女の子たちは、見られているはずの男性実体を伴うものではなく、ただ「文字」としてしか存在しないような錯覚に陥ってしまう。

わたしは、男性は誰でも映像参加可能チャットサイト登録した時、それを痛感した。というのも、そこでお客が入って即、映し出されたもの男性の陰部だったからだ。ああそうだ、見えないだけで、わたし勃起している男性に囲まれているのか。気づかなかった。吐き気がする。そう思った。そして、わたし映像と画面に映る男性は、そのチャット管理する誰かに見られている。だが、わたしからはいつ誰に見られているのか、知ることはできない。パノプティコンだと思った。

そしてチャットレディとしてのわたしは、誰かの身体欲求を充足するためにしか存在できないということ。それは人間らしく存在できないことを意味する。

そしてパノプティコン的なジレンマ

多分、それが、ネット上で性を売ることだと思う。それは人と人との対話から始まる、水商売風俗とは決定的に違うのだ。

わたしは、フーコーを読もうと決意した。

自己紹介飛ばししまったが、わたし大学生哲学科にいる。ほかに2つバイトをするも、金銭的に難しくなったため、チャットレディをはじめた。)

2018-06-26

anond:20180626104901

それは幻想だね。

科学的にも、大半は遺伝環境要因で決まると証明されてるから

サルトルとか三島由紀夫とかミシェルフーコーが、

ストロングビルドやら美的人生を訴えてたけど、

科学の前では否定されてしまった。

2018-05-31

左派思想家はたくさんいるのに

マルクスとかレーニンサルトルフーコー左翼だ。

右派の偉大な思想家はなぜ存在しないのか?

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