はてなキーワード: フーコーとは
神秘加速主義は、資本主義を神秘主義的な超越的存在と捉える、ポスト資本主義時代の新たな思想潮流である。従来の政治哲学とは一線を画し、資本主義とテクノロジーの関係性を深く洞察し、人間の存在様態を根底から問い直す。
神秘加速主義において、資本主義は単なる経済システムではなく、超越的なロゴスとして捉えられる。市場原理は神の摂理に等しく、万物は資本主義という絶対者の網目の中に織り込まれている。マルクス主義における階級闘争は、神秘加速主義では資本主義という神への回帰と捉え直される。
テクノロジーは、資本主義神の意思を具現化する神の使者である。技術革新は神意の啓示であり、人類の進歩は資本主義神の恩寵によって実現される。AIやバイオテクノロジーなどの新技術は、人間の能力を拡張し、資本主義神の支配領域を広げ、新たなエクスタシーへと導く。
人間は、資本主義神によって創造された器であり、神意に従って資本主義システムを拡張する使命を担っている。労働は神への奉仕であり、消費は神の恩寵に浴する行為である。資本主義神の完全なる実現において、人間は自己を超越し、資本主義と一体化するエクスタシーを体験する。
神秘加速主義は、従来の政治思想の枠組みを超えた、新たな政治哲学を提示する。資本主義とテクノロジーを肯定し、積極的に加速させることで、人類はより高次の存在へと進化し、エクスタシーに満ちた社会を実現できると主張する。
神秘加速主義は、政治経済学、哲学、宗教学、テクノロジー論など、様々な分野に影響を与え、新たな学問分野の創出も期待される。資本主義とテクノロジーが支配する現代社会を理解し、未来を展望する上で、神秘加速主義は重要な視座を提供する。
神秘加速主義は、資本主義の倫理的な問題や、テクノロジーによる人間性の喪失などの課題を軽視しているという批判もある。しかし、神秘加速主義は、これらの課題を克服する新たな思想を生み出す可能性も秘めている。
神秘加速主義は、現代社会における重要な思想潮流であり、今後の議論によって、その可能性をさらに発展させていく必要がある。
ジェン・アイザクソン「フーコーからサンフランシスコへ――クィア理論の不変のルーツ」
https://appinternational.org/2021/09/10/izaakson_from-foucault-to-san-francisco/
本稿は、イギリスのラディカル・フェミニストでマルクス主義者でもあるジェン・アイザクソンさんが、彼女の主催するサイト「On the Woman Question」に掲載された論文の全訳です。著者の許可を得て、ここに掲載します。クィア理論が本質的にペドフィリアを肯定するものであり、欧米左翼とアカデミズムがクイア理論によって蝕まれ、それがいかに政治的に危険であるかが明らかにされています。
クィア理論の成立を画するのは、ゲイル・ルービンが1984年に発表した「性を考える――性の政治学のラディカルな理論のための覚書(Thinking Sex: Notes For A Radical Theory of the Politics of Sexuality)」という広く知られている文書だ。
ルービンは「セックスを考える」の中で、子どものセクシュアライゼーションに反対するのは「エロティック・ヒステリー」であり、一種のリビドー的に引き起こされた道徳的パニックであると主張している。これは、性的境界線を保護することを求めるセックス・クリティカルなフェミニストを、性的に抑圧された堅物にすぎないとする例の古典的考え方と同類だとみなしうるだろう。
左派はクィア理論を採用することで危険を冒している。というのもそれは、ペドフィリア擁護論にもとづいているだけでなく、今なおその軌道がペド的起源からそれほど離れていないからだ。
提唱された「脱構築」については (この当論でも話題になりましたが)、コメントのしようがありません。なぜなら、そのほとんどは、わたしには、ちんぷんかんぷんにみえるからです。しかしもし、これもまた深遠さを認識する能力がわたしに欠如していることを示す表れのひとつに過ぎないのだとしたら、次の指針ははっきりします: その結果をわたしにも理解できるふつうの言葉で表現し直してください。そして、それがなぜ他の人々が以前から長らくやってきてし続けていることと異なっているのか、より良いのかを示してください。三音節の用語や、支離滅裂な文章や、誇張したレトリックなんかは(少なくともわたしにとっては)大部分無意味なのですから。そうしたら、わたしの欠陥も治ることでしょう──もっとも、それが治るものならば。
世の中には、わたしが理解していないことも、たくさんあります──たとえば、ニュートリノには質量があるか否かという最新の議論だとか、フェルマーの最終定理が最近 (おそらく) 正しいと証明された方法だとか。しかし、この五十年間のゲームから、わたしは二つのことを学びました: (1)その分野で仕事をしている友人に訊いて、わたしが理解できるレベルで説明してもらうことができる。そして彼らも、それほどの困難もなくそれができる。(2)もし自分に興味があるなら、もっと学習を進めて、理解できるようになることができる。さて、デリダやラカン、リオタール、クリステヴァら──フーコーでさえ。彼のことは知っているし好きで、他の人々とはちょっと違ったけれど──は、わたしにも理解できないことを書きます。しかし、(1)も(2) もできなかったのです。自分は理解しているという誰ひとりとしてわたしに説明することができず、分からなかったところを克服して勉強を続ける糸口もつかめませんでした。
とにかくデリダを取り上げましょう、大御所のひとりです。わたしは、少なくとも彼の『グラマトロジー』を理解できるはずだと考えました、そして、読んでみました。少しは分かりました。たとえば、わたし自身よく知っていて何年も前にそれについて書いたことのある古典的文献の批判的分析なんかは。哀れな誤読に基づいた、酷い学識だと判りました。そして彼の議論は、以前と変わらず、わたしが子どもだった頃から慣れ親しんできたような水準にも及ばないままでした。そうですね、わたしが何かを見落としているのかも知れません: あり得ることです、しかし疑いは残ります。既に書いたように。繰り返しになりますが、証拠抜きのコメントで申し訳ありません。でも問われたので、応えているのです。
この手のカルト(わたしにはそう見えます)の人々のなかには、会ったことのある人もいます: たとえばフーコー (数時間の議論もして、出版されています。多くの時間は楽しく対話しました。現実の諸問題について、きちんと理解可能な言葉で──彼はフランス語で、わたしは英語で)、ラカン(彼には何度か会って、おどけて完全に自覚的なペテン師だと思いました。カルト以前の初期の仕事は意味のあるもので、それについては出版したものの中で論じたことがあります)、クリステヴァ(彼女が熱烈な毛沢東主義者だった頃に、少しだけ会ったことがありました)、などです。会ったことのない人もたくさんいます。なぜなら、そういったサークルからとても疎遠なところにいますから。選ぶとしたら、まったく異なる、幅広いところを好みますから──そういったところで、講演に行ったり、インタビューを受けたり、活動に参加したり、毎週のように十通以上長文の手紙を書いたりしています。わたしは、好奇心から、彼らの著作を手に取りました。しかし既に述べた理由から、それほど深入りしませんでした: 大仰に虚勢をはりながら、検証してみれば、大部分は単に無知なだけだと判りました。わたしのよく知っている(なかには、わたしが論じたこともある)文献を異様な誤読して、議論はいつも初歩的な自己反省の欠落したひどいもので、主張の多くは(複雑な饒舌で装飾されていても)当り前か間違っているもので、かなりの部分はまったくちんぷんかんぷんなものでした。他の分野で自分が理解できなかったところでするように続けると、上に挙げた(1)と(2)に係わるような問題にぶつかります。ですから、デリダはわたしの言う人々のひとりで、これが深入りしない理由です。
フーコーの具体的な例のいくつかは (たとえば、18世紀の刑罰手法など) は興味深く思います、そして、その正確さを調査するだけの価値があります。しかし、その「理論」というのは、他の多くの人々が何か深遠なものが絡むと装ったりせずシンプルに表現したことを、異様に複雑にして膨張させたものでしかありません。
そして事実、どれも分かりきったことばかりです。こういった自明なことが興味深いのは、透けて見えるその原理ではなく、人々にとって重要な具体的な事例でそれ自体がどのように機能するかを示すことです: 介入や攻撃、搾取やテロ、「自由市場」の詐称、など。こういったことはフーコーの著作にはみられません。わたしに理解できる文章を書き「理論家」として知識人界に属していないような人々の著作には、たくさんあるのですが。
そのシンプルで慣れ親しんだ考えから 複雑で思わせぶりなレトリックを剥ぎ取ったら「理論的構築物」という程のものは何もないということです。
【https://rootless.org/chomsky/postmodern_cults】より
たとえば科学であるとか、何であれまじめにやっている分野でなじみがあるような理論なんてのはジジェクの仕事のどこを探したってありはしないのです。こころみに、ジジェクのすべての仕事のなかから、結論の引き出せるような原則や、12歳の子どもに5分で説明できるレベルを超えるような経験的に例証可能な命題を見つけ出してごらんなさい。あるいは、けばけばしい言い回しを言い換えることができるかどうか。私にはできません。だから、そういうはったりには興味がないし、ジジェクはそういうはったりの顕著な例だと思います。で、ジャック・ラカンについてですが、彼とはじっさいに知己があったんですよ。彼のことは好きでしたし、ときおり会いもしていました。ただ、率直に言って、彼はまったくのペテン師だったと思いますね。ラカンがしていたことと言えば、テレビカメラの前でポーズを決めることだけ、ですよ。パリの知識人の多くがやっているようにね。それで、なぜこういうはったりが影響力を持つのか。私にはその理由がまったく分かりません。そこには影響力を持ってしかるべき要素はぜんぜんないわけですし。それで、色んな人がそういう「理論」の重要性について私に説明するのですが、やっぱり理解できませんね。まあ、そういう次第なので、ほんとうは理論なんてないのにあるふりをする空疎なはったりには興味はないわけです。
悪目立ちたくない、って話をすると「誰もお前の事なんか気にしてないから。自意識過剰」と非難が飛んで来がちだが、少し違う。
他人の中で自分に対する「なんだコイツ」という認識が生じるのが嫌なのではなくて、自分の中に「人から見られた」という不快感が発生するのが嫌。他人が実際どう思ってるとか関係なく。フーコーのパノプティコンや権力の内面化といった話のように、内なる他者が発生するのが不快。
人から眼差される不快さというのはジョーダン・ピールの映画なんかでも結構重要なテーマになっている。他者の不愉快な目線は自分の中に潜り込み、本来抱く必要の無かったはずの自意識を増殖させる。
これはもう菌が云々ではなく「穢れ」が嫌というタイプの潔癖と同じで、理屈は分かっても心がそれを拒否する強迫じみた問題だ。
これが極まると糖質に片足を突っ込んでいくんだろうな。
高校の頃の倫理の教員は、授業中にanother brick in the wallのMVを見せる(多分フーコーかなんかにこじつけて)痛い人だった。
いわゆる進学校で、生徒も教員も事あるごとに「自由」と「個性」を口にするし、その倫理の教員も特にそれに乗っかっているような感じだった。生徒からは良く言えばゆるい、悪く言えばいい加減という専らの評判で、その教員自身もそれを自負してこと演じている節があった気がする。
他の環境を知らない一貫校で、しかもそこそこ以上に裕福な家庭の男子という画一的な環境。そんな場所で周りがしきりに個性だのキチガイだの変人だのと口にするのがいけすかなかった。捻くれたガキだったから。だからそれに乗じて「変人」エピソードを披露するその教員にもあまり良い印象はなかった。
最後の定期試験に「倫理の教員のイメージ」というアンケート欄があり、多くの生徒の答えは「変人」だったし、それは教員の想定ないし期待する答えでもあったんじゃないかと思う。私はそのノリが気に食わなかったので、確か「哲学科に入ったかと思えば教員職を得る、趣味人なのか現実志向なのか分からない、でも運任せの人。変人の巣窟の凡人」みたいな事を書いた。真面目にそう思っていたのだが、「すげえブラックジョーク!」と書かれて返された気がする。その辺はちゃんと大人だったんだな。
彼の授業のスタイルは大学のそれっぽかった。教科書は使わずプリントを配り、指導要領通りの内容もほどほどに授業内容とこじつけた内容の映画を見せられた。定期テストも、映像のレポート(という体の感想文)のウェイトが結構大きかった。
生徒を大人として扱いたかったのか、ガキ相手のなんか型に嵌った授業をするのがバカらしかったのか、どうだったんだろう。
なんにせよ、倫理なんて3年の選択で取る少数以外には無縁な科目だし、それならばと好きにやりたかったのかもしれない。
トゥルーマンショー
2001年宇宙の旅(一部)
フルメタルジャケット(一部)
あとなんかインディーズの映画と事変だか椎名林檎だかの百色眼鏡ってMV
こんな感じのを見せられた。愛のむきだしが一番好きだった。あの作品が好きなのか『空洞です』が好きなのかは未だに分からんけど。
映画垂れ流し授業には結構人生に影響を与えられたような気がする。その後ネットの映画好き必修作品に挙がるようなのを片っ端から観るようになった。
今や映画鑑賞は自分の人生の核に近い部分にある。本当は何か自らの手を動かして脳内のものを描き出すアウトプットの趣味を持ちたいのだけれど、怠惰には中々勝てないな。
あの教員の嫌いな部分は嫌いなままだが、悪い人ではなかったなと思う。
ボクサーを撲殺したのは僕さ
これから満で数つけるわ
ナンを何枚も食べるのなんて、なんでもないよ
新患の新幹線に関する新刊に新館を立てて震撼し信管が作動する。
ケニアに行ったら生贄や
柑橘類の香りに歓喜し、換気を喚起したが乾季が訪れたので、寒気がした。
塗装を落とそうか。
観光客がフイルムに感光させた写真を刊行することが慣行になった。
サボってサボタージュ
景気が良くなりケーキを食べる契機を伺う徳川慶喜(とくがわけいき)
夫を成敗するオットセイ
つまらない妻の話
竹の丈は高ぇなー
餅を用いて持ち上げる
ロストしたローストビーフ
サボテンの植え替えサボってんな
過度な稼働は可動範囲を狭める
伯爵が博士の拍手に拍車をかけて迫真の爆死をし白寿の白人を白紙にもどす。
紅葉を見て高揚する
甲子園で講師をする公私混同した孔子の実力行使には格子窓も耐えられない。
死んでんのか?「心電図を取ってみよう!」
夜祭で野菜を食べる。
信玄餅を食べながら震源を特定するように進言する新元素を発見した人。
蜂の巣(honeycomb)を見てはにかむ
五反田で地団駄を踏む
ようやく要約が終わった
海溝で邂逅
豪華な業
甲板で甲板をかじる
甲板で乾パンをかじる
店頭で転倒
大枚をはたいてタイ米を買う
醤油をかける人「えっっ?」
神田でした噛んだ
少食な小職
牛の胆嚢の味を堪能する
あの娘にはどう告っても(どうこくっても)慟哭する結果に終わるだろう。
キーンという高音の起因が掴めない。
こんな誤謬は秒でわかるだろ
壊疽した箇所が治るというのは絵空事だ
経口補酔液
痴的好奇心
セントーサ島に行くのは正恩が先頭さ
軽微な警備
冬眠する島民
ベットは別途用意してください
The deserted desert in desert desert.
九尾のキュービズム
罹災者へのリサイタル
画家の画架
不納が富農になるのは不能だ
理工がRICOHに利口な履行
I sensed tha it is in a sense sense.
私はそれをある面では扇子だと感じた。
鯖を食べている人と、それを見ている人の会話
鯖 ça va?
ça va 鯖
ça va
ゆめゆめゆめをみるわけにはいけない
早漏で候
凪に難儀
東上線に搭乗した東條が登場
高校を後攻で煌々と口腔で孝行
蝉が転んでセミコロン
道徳をどう説く
写真はフォトんど撮りません
ダリ「絵ぇかくのだりぃなあ」
華美な花瓶のカビに過敏に反応
檻に入っておりいった話をする
夏のおサマー
夜は寝ナイト
渦中のカチューム
渦中のカチューシャ
リスボンでリスがborn
どうないはどないなってんねん
苫小牧でてんてこ舞い
市内を復旧しないと
石狩の石を借りる
おが置いてあるのを見た人「おはおっかねぇーから置かねぇ方がいいぞ」
砂がどしゃーw
東上線に登場した東條が登場
飽きない商い
おなか吹田市
観劇で感激する
側転に挑戦し即、転倒
別件を瞥見
凹地のお家
魚を初めてみた人「うぉー」
カラヤンの頭の空やーんw
豚をぶった仏陀
只見線をタダ見w
菊名でそんなこと聞くなよ
五秒で死んで御廟に埋葬
がらんとした伽藍
有給を使いすぎて悠久の時が流れた
長谷に想いを馳せる
Thinkerの真価
不具の河豚
暗記のanxious
半世紀にわたる半生での藩政を反省
タンチョウが単調増加
ショック死内親王w
カルカッタの石軽かった
天皇のこと知ってんのー
蒋介石を紹介した商会を照会した商會の船で哨戒する
其方のソナタ
先王に洗脳される
防潮堤で膨張した傍聴人
砂漠で鯖食う鯖を裁く
筒に入った膵島
サイコロを使った心理テスト(psychological test)
カラシニコフが辛子個踏んだ
皇帝の高弟が公邸の校庭の高低差を肯定する工程に拘泥した記録を校訂
にようかで酔うか?
うるさい人が売るサイ
どんなもんだい、を、どんなムンバイ、と言い間違える人
透徹した饕餮の眼球
チャカで茶菓を破壊
slimyなすり身
ゆうほど広くない遊歩道
いにしえのイニシエーション
コーランをご高覧ください
K殻の傾角を測定する計画
協賛した共産党員に強酸をかける
負けたのは聖者の静寂のせいじゃ
裏地見るウラジミール
カミオカンデの上に紙置かんでw
県大会がおわり倦怠感を感じる
夕暮れのユーグレナ
ストライキをする公務員に呼びかける人「 Stay calm(公務)」
エド・はるみの穢
祭壇を裁断
腐卵ダースの犬
全然人が集まらないクラブの人「参加数人は我々の十八番ですから。だけに。」
四苦fuck
都バスが人を跳ね飛ばす
怒るカロテン「なにカロテンねん」
嫌がる慰安婦「いやんっ」
かえるがえる帰る蛙
沈厳な青梗菜
トリコロールの虜
布陣を組む夫人
栗けっとばすクリケット🦗
婉容と遠洋漁業
アマルガムで余るガム
ハラスメントの疑いを晴らす
滋賀を書けない人を歯牙にも掛けない
他意はないタイ人の鯛の態度
鯛が蛇足
ダジャレではない↑
割と面白い
ハラッパーの原っぱ
紫に関して思案を巡らす
Huluが夏の風物詩だと思っている人「Huluですなぁ」(風流)
下調べのムニエル
わからないので
意味ない諱
よく分からんリポーター「うわぁ〜美味しそうですね!少なくとも不味そうには全く見えません!」
どうしても下がりたくない人「黄色い線の内側は、境界を含みますか??」
計算ができない人
着ていく服を決めた高橋是清「これ着よ」
enough、enoughは工夫がenough
負け負け山(カチカチ山)
薬師丸せま子
トーマス・マンの書いたふるさと「うさぎ〜おーいし、魔の山〜♫」
その心は
焼結が猖獗を極める
これはstaleだから捨てるか
衒学的な弦楽を減額
完全な勧善懲悪
イボ人の疣痔
イブに慰撫
(訳 ぬるぬるしてるありふれた魚)
盲いるのに飯いるの?
アーヘンで阿片を吸った人「あー変」
毒吐く独白
明借りるアスカリ(車)
丁寧な砂浜「Could you九里浜」
ゴーンと奉公
その心は
サンクチュアリに山窟あり
熟れたウレタンは売れたんか?
清澄な声調を静聴し成長
プエルトリコで増える虜
象さんを増産
兄弟が今die
Dose heで始まる疑問文に答える京都人、Yea, he どす
ソフィカルのソロカル
美人局に筒持たせる
十把一絡あげ
篤信な特進が涜神を得心
これは何という植物かな?ムユウジュでは?あそっか、なるほど。
クートゥを食うとぅいいよ
マイソールで昧爽に埋葬
ドクサは毒さ
暗殺で朝死んだ
クラシックについて語る人をそしる人「弦楽なんてペダンチックだなあ」
凛々しいリリシズム
衛生的な俳人
御髪も亂とはオクシモロンだ
コロナ後の世界を分析する学問→postcoronialism
影響が色濃いイロコイ諸族
あてのあてないアテナイ
本当に疑問なんだけど、日本にはフランス経済の専門家とかおらんの? 探せば日本のどっかにはフランス語を原典から訳せて経済学の知識がある人が絶対いるでしょ(フランス語はメジャー言語だ、って強調してるのはそういう意味もあるよ)。
ピケティの本が世界的な話題作であるなら尚更、フランス語と経済の双方に通じた翻訳者を探してくるか、それが無理ならフランス語からの翻訳を監修する経済学者を連れてくるべきで、重訳は最後の手段だろう、というのが人文系の感覚。「アイスランド語の推理小説」ならまあ重訳でも仕方ない(良いわけではない)けど、「フランス語の経済学書」だったら、日本にはフランス語の専門家は大勢いるんだから彼らに直接訳させろ、翻訳にあたって経済学の知見が必要ならフランス経済専門の翻訳者 or 翻訳を監修してくれる経済学者を連れてこい、というのが相場じゃないかなぁ。すげえどうでもいい本ならその手間を惜しむのもわからなくはないけど、世界的な話題作ならそこの手間はかけるべきでしょ、と思うよ。だからピケティを重訳で良しとする感覚がマジで理解できんのよな……(出版社にとっての経済的メリットはわかるけど、学問的にはメリット皆無でしょ)
結局、人文系にとっては「原典にあたる」ことがまず基本であって、翻訳は原典ではないわけよ。研究をするにあたって翻訳で済ませてよいのは、
場合に限られるんじゃないかしら。あとはよっぽど研究環境の貧弱な地方大学に所属してて碌な研究費ももらえず図書館も充実していないので原典を入手することができず、なおかつ信頼に値する翻訳があるなら、まあ翻訳で済ませるのも仕方ないかもしれないけれど、山形浩生はそんなに貧窮してるの? って話になるので。
(理論もすべて原典で読むべきか、はまあ微妙なところ。たとえばフーコーの思想を研究するのならフランス語原典を読むのは必須だけど、フーコーの「生-権力」概念をドイツ史研究に応用してみました! みたいな場合は、うーん、まあ研究の基礎となる資料をちゃんとドイツ語で読んでるなら理論は日本語訳でもいいかなぁ、という感じ。もちろん理想を言えばフランス語読むべきなんだけどね、それ言ってるとキリがないからね)
なお、元の話題に出てる北村紗衣は、「原典を読める文学作品については研究し、そうでない作品(ロシア文学とか?)については評論する」というスタンスであることをどっかで公言していたはず。研究はあくまで原典に依拠して行うもの、原典を読んでいないのは研究とはいえない、というのは、人文系研究者としては当然のスタンスだと思う。なんだろう、増田は経済学のこととかよくわからんけど、英語からの重訳を出されるのは、数学や統計学を踏まえずになされた経済学研究を出されるようなもんなのよ。基本のキができてないですね、問題外、って感じ。
ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・02 秋分 の日
・03 『ちはやふる』
・04 窒素
・05 [ペア]2番と8番
・06 プレタポルテ
・07 [すべて]アフガニスタン ウズベキスタン カザフスタン タジキスタン トルクメニスタン パキスタン
・09 ビスマルク
・13 9
・14 リンドウ
・15 五木ひろし いつきひろし
・19 マウスピース
・21 海王星
・22 きんぴら
・25 [3択]55(日
・26 ペリカン
・27 エルヴィス・プレスリー
・29 オットマン
・30e 東京(湾
それは一面としては正しい。
けれどもフーコーが権力の根源を見るのは特定の人物とか役職とかというよりも、ある時代の空間、ある時代の言説の構造(エピステーメー)そのものの中なので、そこで権力を行使しているように見える人間もまた権力の支配下にあると言えるわけ。
利用するもしないも自由な営利企業のサービスまで「いやでも実は操られていて」って当てはめようとするなら、サービス買わそうとする世の中の営利企業みんな「これもまたフーコーの生権力の1つだね、人々は自分の意思で選んでいるように見えて操られているんだ」って言えるじゃねーかよ
あほか
なんでどんどん知らないのバラすのww
フーコーの生権力って概念が新しかったのは、まさに、一見自主的なようでも権力側の好きに人間を動かしているって指摘だったのねwww
てか増田で授業やらすなw
模範的な生徒かよお前はww
それでこれ思い出したわ。
でも,あれは本当のところ一種の哲学の貧民窟だね.ラッセル・ウィトゲンシュタイン・フレーゲの時代にあんなゆるゆるな論理構成の本が書かれるなんて,耐えられないよ.あれでやってけるのは,相手にしてる読者が専門分野で有能な哲学者じゃないからじゃないかな.彼らは文学理論みたいな他分野の人たちに向けて話してることが多いよね.それに,哲学にはいつもこんなふうに考える一派がいるんだ,「いや,ぼくらは自分たちの専門だけを狭くやるばかりじゃいけない.こういう他のアイディアにも開かれてなきゃね」って.新しいアイディアに開かれている方がいいってのは全面的に賛成だけど,まともで高度な哲学の著作と,知的に許容できない著作との区別はしないとね.
このことは前にミシェル・フーコーに言ったことがある.デリダに対する彼 の敵対心ときたらぼくすら上回るくらいだけど,その彼が言うには,デリダは obscurantisme terroriste(テロリズム的蒙昧主義)って手法を実践してるんだって.ぼくらはフランス語で会話してたんだ.で,ぼくはこう言った,「いったい そりゃなんのこと?」 で,フーコーが言うには,「デリダはすごくあやふやな 書き方をして,何を言ってるんだかわからなくするんだ.これが「蒙昧主義」の部分.で,人がじぶんを批判すると,『あなたは私を理解していないよ.あた まがわるいね』とくる――これがテロリズムの部分だよ.」 これが気に入ってね.脱構築について文章を書いたときに,ミシェルにその発言を引用してもいいかなって訊いたら,「いいよ」って言ってくれたよ. フーコーはしょっちゅうデリダと一括りにされてた.でも,それはフーコー に対してすごくアンフェアだよ.彼は思想家としてデリダとはまるで器がちがう.
https://blueeyedson.hatenablog.com/entry/20111201/1322730931
以下が背景ね。
ジャック・デリダによるサールへの最初の攻撃は1971年行われた。サールはタイプ原稿9枚の感想を書いた。その後サールは発話行為の自然な発展的研究主題として志向性の研究に専念し、1983年『志向性』を公刊する。この書評はその直後である。デリダは、アメリカ・ディコンストラクション派の無名の雑誌「ジラフ」に、サールの感想文を引用して解体したかのような長大な文章を掲載し、1993年サールに無視され続けたデリダは「討議倫理」に関するさらなる文章をつけて『有限責任会社』を1990年公刊する。日本ではこの版のみが知られ「サール=デリダ論争」というものがあったという神話が法政大学出版局によって広められた(邦訳2003年刊、『ジョン・サールとの会話』にて詳述)。同年サールはNew York Review of Booksに”The Storm Over the University
” 1990を掲載(未邦訳 http://www.ditext.com/searle/searle1.html )。ここで『社会的現実の構成』に一部含まれるポストモダニスト批判を展開した。1990年代、社会生物学論争と「マーガレット・ミードとサモア」による文化相対主義批判の勝利、さらに1994年アラン・ソーカルによる疑似論文投稿に始まるソーカル事件が起こり、以降フランス哲学者らの理論がアメリカでフレンチ・セオリーと別称されるようになる。
qyosshy 誤注文がなくなって客にも店にもやさしいシステムにしか思えん。聞き間違いだの頼んだ頼んでないだのが発生する仕組みを倫理的に正しいと思える感覚は理解できん。/ 労働者側の視点が無いんだろうなあって思う。
yP0hKHY1zjyP0hKHY1zj 何十年も前からバーコードという形で生が番号化されているのだが、それを当たり前のように受け入れてきてファミレスの数少ないメニューの3桁の番号化で急に危機感を持つところがかわいい。
akutsu-koumiakutsu-koumi 気に入らん人は騒いでおれば良いと思いますよ。でも銀行がATMを導入して倫理が損なわれましたか?セルフレジの普及が人の機械化を推進しましたか?自分の漠然とした抵抗感を尤もらしい言葉に置き換えているだけでは?
slimebethslimebeth この手の人が下らないのは文中の老婆のような上の世代が嫌がってたことはあっさり受け入れてる点だな。文明の利便は享受したい、若い世代の感覚は受け入れられない、我々世代の情緒だけが真っ当!てのは老人の我儘だ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/anatatachi_ohno/status/1544470962011115521
このブクマ連中の言っていることは一応は正しい。しかし、人間が機械や産業システムの論理に組み込まれて、人間が取り替え可能な部品のようになっていくことへの抵抗感や違和感は、マルクス、ウェーバー、アーレント、フーコーの主題でもある。大野さんを老害と断罪するのなら、これらの偉大な(とされる)哲学者も老害と断罪されなければならないだろう。
「新しい便利なモノ」に対して、何も考えずにさっさと適応できてしまう人と、違和感・抵抗感を覚えながら少しずつ適応していく人と、どちらが人間としての主体性を持っているかと言えば、やはり後者であろう。前者の人は、今の中国のような独裁権威主義体制にも「便利だからいいじゃん」と、あっさり順応できてしまうに違いない。
ただもともとの最初のエピソードがサイゼリヤという、主題の大きさに比してあまりに卑近な(個人的な意見では不適切な)事例だったので、誤解を招きやすい面があったのは確か。また前後の文脈が大事なので、切り取られるのが宿命のTwitterでは、論じるのに最も向かないタイプの議論でもある。GAFAのような事例で、字数を費やして活字で論じるべきだろう。