はてなキーワード: 中学校とは
・A君 26歳
パパの病院を継ぐ予定。合コンが大好きでパパが節税用に買ったマンションをやり部屋にしている。スピリタス入りカプセルを常に懐に忍ばせる。
・B君 26歳
貧しい家庭から猛勉強して官僚になった。減点主義の警察組織で長官となるため、部下が不祥事を起こさないかビクビクしている。
中肉中背、普通顔
・C君 26歳
旧華族出身。「スケジュール」と言うと「シェジュール」、「エレベーター」と言うと「リフト」、「このビルの3階だよね?」と言うと「2階ね」と訂正してくる。
・D君 26歳
腕っ節が強い。船の上では頼もしいが陸に上がると何もしない。漁港の女性たちが営む定食屋かお婆ちゃんの営むスナックで漁師仲間たちと過ごす。
今日ニュースで、中学校の先生が作った現代版の仏像ってのをやってた
記事では石原さとみに似てるって言われてたけど、私の印象ではめっちゃ壇蜜に似てて笑ってしまった。
どんな顔にありがたみを感じるかはたぶん人それぞれなので、壇蜜顔の仏像があってもいいと思うけど、もし私が仏師なら浅田真央か、愛子さまをイメージしながら彫るかなぁ。
切れ長のしょうゆ顔が相応しいと思いきや、インド人は目鼻立ちがクッキリしてるわけで、どんな顔が仏像顔とは一言では言えない。顔というより柔和な表情かな?神秘的というか、私生活が謎のヴェールに包まれている感というか…。あ、これがアルカイックスマイルってやつか!!
女性ばかり挙げてしまったが、男性だとどうだろう。中性的な神木隆之介、サッカーの内田篤人なんかはいい線いけそうな気がする。先程のインド人の例でいえば、インドの俳優は仏像にするとゴージャスで映えそうではある。バーフバリの人とか(バーフバリの人しか知らんけど…)でも仏像っていうより仁王像か?
とにかく左右対称で整った顔立ちであることは間違いない。かといってキムタクはちょっと違う気もする。ちょっと野生味が強すぎる。シワがないことは重要なファクターのひとつだろう。…あ、香取慎吾!!香取慎吾はめっちゃ仏像っぽい!!奈良の!あまり骨ばってない、ふっくらとした顔が望ましいのかもしれない。
何気なく動画サイトで動画漁ってたら、昔の箱根駅伝のテレビ中継がそのまんまあったんで、見てみたら中学の同級生が出てた。
俺は箱根駅伝に時々出るような大学の出身だけど、正直なところ、テレビで同じ大学の選手が走ってても今までずっと何とも思わなかった。
どれぐらい心動かされたかと言うと、フリーザ様やリラックマが出てきた時以上に画面に釘付けになった。
大していい思い出なんかないクソ田舎の中学校で大したことない中学校生活だったし、どっちかといえばクソみたいな思い出のほうが多かったくらいだし、その同級生とは3年生の時に同じクラスだっただけで特に仲がよかったわけでもない。
だけど、その同級生が走ってる姿には、そんなクソみたいな中学校の、まるでみんなの夢を一身に背負っているかのような神々しさを錯覚してしまったし、過去の動画なので既に結果はわかってるはずなのに、彼に勝ってほしいと願わずにはいられなかった。
同級生は2区を走って10位ぐらいで3区にたすきを渡していた。地味に何人かに抜かれていたし、中継でも時々ちょっとだけ出てくる程度だったので、おそらく日テレ的には、中継番組的要素としては、ぱっとしなかったということになるのだろう。
だけど23キロを1時間ちょいで走るなんて一般人には無理だしやっぱりすごいし、25年越しで同級生の晴れ舞台を見ることができたので俺は嬉しかった。
僕と少年ジャンプの話をします。僕は小学四年生の頃から現在社会人3年目の今まで週刊少年ジャンプをほぼ読み続けていました。
当時小中学校の時はToLOVEるなど女子と性的なコミュニケーションを取る漫画をハラハラドキドキしながら読んでいました。しかし大学生も後半の頃に当時ToLOVEるを読んでいなかったという友人(男)に出会いました。その時僕は理解ができなくてしどろもどろ興奮しながら「男なのに!?意味がわからない」と発狂しました。しかし今は「性暴力」と「女性も同じ人間」だという事を知っているので、彼がなぜToLOVEるなど性的な作品を読まなかったのか理解できます。「相手の同意を取らずに性的な行為をするのは性暴力で、相手の心を傷つけること」「女性の体を見境なく性的に見ることは当然のことではないこと」ということを当時の僕が知っていれば僕も彼と同様ToLOVEるなど性暴力を扱う作品を楽しく読むことはなかったでしょう。「性暴力含むエロを豪胆に愛して憚らないのが男らしさ」という少年誌のメッセージを内面化してしまい、性暴力を含む作品を声高に称賛して、男らしくなれてると錯覚してた自分は本当に恥ずかしいし迷惑なことをしていたなと思います。
小学校高学年の頃、東京に住んでいた僕は秋葉原もそこそこ近く、「非実在青少年」の話を皮切りにした漫画の規制の話をよく耳にしてました。少年ジャンプの作者たちも「読者は現実とファンタジーの区別ができる」と言った論調で規制を反対していました。ぼくも「その通りだなー」と思っていました。しかし今思い返してみると当時の僕は区別なんかできていないことに気づきました。今でもすごく心残りの事件があるのですが、僕が小学生の頃公園で遊んでいると同級生の男子が女子に棒アイスを差し入れました。僕は少年漫画でアイスやチョコバナナを男性器に見立てて、それらを普通に食べている女子をエロい目で見るというセクハラの存在を知っていました。しかし女子たちはそれを知らずに暑い夏だったので棒アイスを感謝しながら食べてました、男子たちは僕の予想通りいやらしい笑みを浮かべて彼女たちを見ていました。その時は嫌な奴らだな、でも「男子はそういうものだからな」ということが当たり前だと思い込んでいたので、問題な行動だとして注意をするという発想がありませんでした。男子たちも仲間内で露悪的だけど楽しいことをしているといった雰囲気でした。その男子集団のリーダーだった男子は高校生の時に風呂覗きをして学校を退学になっていました、風呂で盗撮した写メを男子のグループに共有したらしいです。多分いいことをしていると信じての行為だと思います。僕も彼も「男子はそういうものが好き」という少年ジャンプが発信する嘘の常識を信じ込んでしまっていた点は同だと思います。そのために、セクハラをされたらその人の心は傷つくという当たり前のことに気づけなかったのです。
小学生の頃、僕は少年ジャンプを作っている人たちに「子供は現実とファンタジーの区別ができる、倫理観や道徳観を持っている、判断がつく」というような期待をされました、そして今の僕がそれに答えるとしたら「性的な表現に関しては、十分な性教育を受けていなかったので正しい判断はできてなかった」と答えますし、現実とファンタジーという区切りではなく、「社会的責任がついて回る空間と、そうでない空間」での影響を論じるべき内容だと思います。
僕は面白い漫画を読むためにジャンプを買ってきたつもりです。大学の頃に出会った彼もそうだと思います。極論、ジャンプにエロ表現がなくても僕たちは大学生までジャンプを購読し続けてただろうと思います。
ジャンプ作品の性暴力表現は誰のために描かれているのか、僕は今、甚だ疑問です。
個人的に、女体を切り売りして、それを喜ぶ層に商売をする今のジャンプは見ててつらいものがあります。女女でやれば批判されないと思っているのか、この頃女から女にセクハラするという作品が増えています。今一度、同意のない性的な行為は相手が誰であろうと性暴力であり相手は傷つく、という認識をジャンプ編集部は持ってください。
漫画を使って教育しろと言う気はないですが、今のジャンプの作品内での女子の扱い方は、パブロフの犬のように、読者に「女体=エロ」と脊髄反射でつなげてしまう、そういう訓練になってしまうという一面があると思います。
「男は、女性の性的な部分を力づくやラッキーで見たいと思ってる」というような「男=狼」観を決めつけで小さい子供たちに信じ込ませるようなメディアを作るのは大人としてやめて欲しいです。
そもそも作品でよく描かれている高校生以下の女子は、大人が守るべき児童の枠の中にいます。倫理的にそういう枠の子をエロく描くのはいけないのではと思います。
詳しくはこの動画を見て欲しい。
[登場人物]
・主の娘: 中2。発達障害者(自閉症スペクトラム)。小学校と中学校が併設された学校の特別支援学級に通っている。兄弟に対する他害あり。パニックになると他人にも他害することもある。
[動画内の他害の経緯]
・小学部と中学部合同で体幹トレーニングをするイベントがあった。
・娘はイベントに参加したくなかったが、無理に参加させられ、始めは我慢していたが、イライラから来る感覚過敏に大音量のBGMと小学生の騒ぐ声が重なり、担任に他害をし始めた。
・担任がそれを無視したため、イライラが頂点に達し、そのイベントを企画した教員に他害し怪我を負わせた。
[投稿主の主張]
・しかし怪我を負わせるまでに、食い止められるポイントがあった(イベントに参加したがらなかった時と、担任に他害し始めた時)。また娘の特性を理解していれば防げたかもしれない。
・そもそも支援学級の教員達の知識が無さすぎる。日本の教育制度全体に問題があるとはいえ、支援学級を担当するなら支援の知識をつけるべき。
・中1の時は授業にきちんと参加出来ていたのに、中2になって授業を受けないことが増えたため、担任に問題があるのではないか。
以上が概要だ。
娘に落ち度はない。したくて他害している訳では無いし、抑えようとしても出来ないのが発達障害なのだから。
しかし昨今、いじめ等の学校の閉鎖的な姿勢に批判が集まる中で、生徒からの教員に対する暴行はどこまで学校内で処理すべきなのか。
教員に支援の基礎的な知識がないのは事実だろうが、そもそも教員は支援の専門家ではない(特別支援学校教諭免許状を持つのが好ましいとはいえ必須ではない)。
教員不足の現状で支援の免許を持たない教員が担任になることもあるだろう。支援の専門家でない人にきちんと支援しろというのは、他害傾向のある発達障害者に他害するなと言うのと同じではないのか。
そもそも学校教育というのは、画一的な国民を作るシステムだ。「個々人の特性を理解し、良いところを伸ばす」という思想とは相性が悪すぎるし、その余力は現場にはないだろう。
現在26歳。今年27歳になる女だ
フォークダンスで手を繋いでくれなかった大半の男子の中で「オエーーwww」と吐く真似をした同級生に娘が産まれた
地元の友人と他愛のない話をしていた時、その話を聞いた瞬間この記憶が蘇ったものの誰にも言えないからここに残しておく
うちの中学校は中学3年生になると体育祭は全員参加科目でフォークダンスに参加しなければいけなかった
当時私は女友達には恵まれたものの、見事なデブス(160cm/70kg)でオタクだったので男子からは見事に嫌われておりフォークダンスの事を考えるととにかく憂鬱だった
他の生徒も皆思春期からか「ダンスカバーにしよう」「恥ずかしい」といった声も少なくはなかったが先生が「小学生じゃないんだし、案外毎年皆普通に手を繋いで踊って楽しんでるよ」と言って続行となった
私はその先生の発言を聞いた時、めちゃくちゃ安心した…が、いざ練習をした時ほぼ全員の男子が私と手を繋ぐ事を拒否した
30人前後×4クラス120人、そして男女比が半々だったので男子数は約60名。その中で6人の男子以外は私と手を繋ぐ事を拒否し、繋ぐフリで空中でそれっぽく踊っていった
たまに手が触れると舌打ちをされたり露骨に睨まれたりして、多少の人数の拒否は覚悟をしていたけど流石にここまで大多数にしっかり拒否されるとショックで少し傷ついた
逆に手を繋いでくれた子は名前は忘れちゃったけど、今でもぼんやり覚えている
クラス委員2人、医者を目指していた賢い人、PSPとかAKBの話をたまにしていた人、誰にでも優しいニコニコした人、後ヤンキーでたまに学校をさぼっていた人
この6人は当時デブでブスな私とちゃんと踊ってくれてありがとう。今も元気に暮らしているといいな
話が逸れてきたのでここで一旦話を戻す
ある日フォークダンスの練習で先生に私とある男子が手を繋いでいない事がバレてしまい、きちんと手を繋いでるか監視が強化されてしまった
私は数回の練習と度重なる拒否で「お互いの為だし、もう無理に手を繋がず適当に踊って過ごしたい…」と思っていたが、大人(教師)が怖いのでその日は指導が入った途中から全員を手を繋いで踊った
授業終了後、ヤンキー気味のやんちゃな子が「オエーーーwww増田の手握ったんやけどwww」って吐く真似をやった
仲間の子も「増田菌で手が腐り落ちそうwww」「握った手でオ〇ニーしたりしてwww」と仲間も便乗して男子は大爆笑
私は気づいていないふりをして友達と制服に着替える為校舎に戻ったが、流石にトラウマになりしばらく夜泣いて過ごした
監視の目が光っていたのはその日だけで、その後の練習や本番はまたほとんどの人と手を繋がずなんとか乗り切った
それから高校生、成人と成長するにつれダイエットやメイクを覚えたり、歯列矯正やほくろ除去、二重整形等自分の給料で美容整形施術を行ったことで昔よりはマシな見た目になった
地元を出て働き、縁もあり人(整形カミングアウト済)と半同棲をして自由に暮らして個人的には大満足、むしろもったいない暮らしをしているがやはりこの出来事はたまにに思い出す(10年以上たってさすがに頻度は減ってきたが)
年末年始地元に戻った際、その吐く真似をした男子が子供が産まれたと友達に教えてもらった
SNSを見せてもらったが会社(板金屋)を立ち上げ、去年秋娘が産まれたと人生が順風満帆そうだった
本人や友人の写真、車の写真しか載せていなかったけど、恐らくかわいいギャルの子を嫁にしているので子供の顔もかわいらしいだろう
ふと「もし娘がもう少し成長して私に似た不細工な子供だったら手を繋ぐのだろうか」と悪い事を思ってしまった
私は幼少期も顔が不細工だったので父親から「お前は顔がなぁ」「金使いたいとは思えない顔なんだよ」としょっちゅう言われたり、理不尽に怒鳴られる等いい記憶がほぼない。父親そっくりの顔なのに。
(母親や両祖父母にはきちんと愛情を注いでもらったからなんとか成人し、今もこうやって生きてます)
ラジオを聴いていたら、終わらないコロナ禍と物価高で、医療に助成金、低所得世帯や売上の減少している中小企業への支援金、小中学校の給食費の一時無料化、農家への燃料費・肥料費の助成金、などなど、幅広く税金が投入されており、税収が過去最高なのに何でこの国は金がないのか? っていう疑問の答えは、シンプルに支出すべき所がここ数年とても多いという事もおそらく一因なのだと思った。
コロナ禍と円安が起こる前だって、毎年国内のどこかしらで災害が起こり、現地の経済活動は滞り、大きな損失が出て、それに対する義援金などを支出していたのだし、そもそも東日本大震災の復旧だってまだ完了していない。
沢山沢山、金がかかる。一つの災害が起これば、安く見積もっても損失の二倍お金がかかる訳だ。
災害大国である以上、この国はとても金がかかるという事。単に生きていくというだけの事に、金がかかる国なのだと言ってもいいかもしれん。
(という状況の中で、どさくさ紛れに美味い汁吸ってやろうとか、やめて欲しいもんだな)
あなたが中学生の時、ともすれば高校生の時、こんな話を1度くらいは聞いたことがあるだろう。
「自分は教科書を10周くらいしないと覚えられないけど、学年トップの人は教科書1周しただけで全部覚えるらしいよ」
他にも、こんなことを語ってる人を見たことはないだろうか。
「普段勉強全くしてないけど、テスト前に教科書チラ見したら満点とれた」
凡人の自分たちは、一度くらいはそんなことを聞いたり見たりして憧れたのではないだろうか?
しかし社会人になると、そういう人間は全く見かけなくなるのである。
「Pythonの教科書1発見たらすらすらコード書けるようになった」
確かに、契約書を一発で覚えるとか、レジュメを全部頭に入れられるとか、
プログラミングもある程度習熟した人であれば、類似の言語であればすぐに書けるようになる。
しかし自分が少年時代に見たような「天才児」は消えてしまうのである。
結局彼ら「天才児」はどこにいったのか?と言えば、まぁそれなりにいい企業に入って居たり、勉強についていけず落ちこぼれたりしているのである。
何故かと言えば、「天才児」が教科書1周で頭に入ったり、一夜漬けでテストでいい点を取れたのは
「塾」に行っていたからだ。「中学校受験」をして、既に学んだ内容でできることだったからだ。
新しい事、新しい知識、新しい型になると、途端に彼ら・彼女らは覚えられなくなる。身に着けられなくなる。
20代を過ぎ、脳みそが成熟したぐらいになると脳の早熟も意味を失う。
もしこれを見ている子供がいたら、周りの天才児を見てもどうか気を落とさないで欲しい。
大学や企業に入れば、どえらい発明や発見をした「天才」と呼ばれる人たちは
学生時代は勉強が苦手だったり、案外記憶力が悪かったり、その分野以外はポンコツだったりする。
これお前かあ
この変電所変でんしょ?というダジャレを小学校の廊下に貼ってあった電気関連の啓発ポスター(の変電所のところ)を見て思いついて以降、いつか使ってみたいと40年近く待っているのだが変電所がなかなか話題に出ない
このままだと中学校の社会科のタイガ森林の説明で先生が「タイガは鬱蒼とした森になっており…」と言った瞬間に「ウッソー!」と大声で叫んでクラスが凍ったあの頃と同じように
加藤恵子は平成8年~10年の間に社会科教諭をしていたことが認められるが、平成8年当時の校長の下で第1学年を担当したことが入学式の写真から認められ
外貌は肥満体、当時の教員の間では、昭和時代に別の中学校で不良をやっつけて有名だったというだけでそれ以外の記録はない。第3学年を担当したときの口癖は、
社会科のプリントを配布し、どんどんやる、抜け駆けをするな、フンヌーといった文言。公立中学校社会科教諭は基本的に昭和53年頃に完成した文科省学習指導要領
の社会科の内容を生徒に対して学習させなければならないが、加藤の授業については記憶している者がほとんどおらず確かめようがない。これについては更たる探求を要するところである。
独仏は参考にならなかったので英国や米国の学校内運動部方式を参考にした。
あくまで仕組みを参考にしただけで、英国のエリート養成学校のいわゆる嗜みとしてのスポーツという精神や、米国のスポーツ参加の平等性や公正性は無視された。
戦後の高度成長時期からは、学校の運動部活動は、一部私学のマーケティングとして利用され、公立学校では非行防止の一環と位置付けられた。
しかしそういった真の目的はウラの話としてささやかれるだけだったため、合理的で科学的なスポーツ環境は育つことはなかった。
十年以上前から、国民のスポーツする権利を保障するため、地域スポーツの強化が国の計画で打ち出され、ヨーロッパ型の地域総合型スポーツクラブを推進されてきたがうまくいかなかった。
そこに教員の労働時間短縮をカネをかけずにやり過ごしたい国が、教員の代わりに地域に押し付けようとという発想で生まれたのが、今回の運動部の地域移行である。
地域移行にあたっては、国民の健康や文化的な生活向上にスポーツを活かすという本当も目的がお題目として掲げられる。だが、真の目的が不純だからだ。
本当に地域移行しようとするなら、
本気でスポーツを国民に根付かせ健康や文化的な生活向上につなげたいなら、
まずは大学や実業団の運動部を廃止することから始めないといけない。
大学や大企業では、もっぱら一部の者だけが利用するために、体育施設や運動場が整備されている。
それらは、新法をつくり、無償で地方自治体に贈与させたらいい。
大学の運動部も結成自体は結社の自由があるから設立や活動自体は自由であるが、彼らのために特別な優遇措置を図る必要はない。いわゆる文化系サークルと同様の扱いをしておけばよいだろう。
私学にも国の助成金で運営されているのだから、運動部活動優遇措置を継続させたい私学には、助成金ゼロにしたうえで、固定資産税はじめ高額の税を課せばよい。
大学一般教養の体育の授業で利用するためだけなら体育施設の整備は認められようが、せいぜい大学共同利用施設として整備されれば十分だろう。
もっとも一般教養で実技としての体育の授業をすること自体に大いに疑義がある。なぜなら同年代の大学進学をしていない者は、年に24コマの体育をする権利が保障されておらず、大学生と職業人との間でスポーツ権に差が生じるからである。
大学で実技体育を必修科目とするなら、労働関係法を改正して雇用者に対して従業員のスポーツする時間を有給保障させる義務を負わせるべきであろう。
中学校の運動部活動は、中学校が義務教育機関であるため、大学や高校とは異なる視点が必要だろう。
12~15歳の者にとって、推奨されるべき運動量が、授業の体育だけで十分なのかは科学的に検証すべきであって、授業時間だけで不足するなら、それはやはり学校教育の場で対応するのがよいだろう。それも、運動部活動の形態を取るべきではないのは言うまでもない。
そして、推奨運動時間を超える部分は、学校が行うべきではなく、他の行政機関が社会体育として実施するべきものであろう。
高校や中学の運動部は無料で利用できたが、地域移行により保護者負担が増加することや、地域移行の受け皿に企業が進出することを懸念する声もある。
しかし、学習塾や進学塾にはカネを出すが、必要以上のスポーツ活動にカネを出さないのは理屈が通らないので、そういう声は無視すればよい。
企業進出については現状やむを得ないだろうが、企業と利用者(生徒・学生の保護者)が直接契約するのでなく、あくまで自治体の教育委員会社会教育部門が業務内容を決定し、それを企業に委託し、利用者は教育委員会に申込む、というスキームにすべきだろう。
そして、十年以上かけて、徐々に地域スポーツ指導員を育成し、市の正職員として雇用するなり、自治体出資のスポーツ振興事業団職員として採用するなりしていけばよい。
まあ、いままで無償で教員に押し付けていたものを、他のスキームでやるのだから膨大なカネがかかる。
そこはビッグデータやAIを活用して、国民の健康力がアップして医療費総額が何兆円減りますと計算させればよいし、米軍思いやり予算をゼロにして軍事費をGDP1%程度のままにしておけば何とか財源は確保できるだろう。
東京都で子供一人につき月5000円を配るとか、高校無償化とかいろいろやってるみたいだけど、実際のところそんなんじゃ子ども増えないよね。
生ぬるい対策じゃこの問題解決できないと思ってるからいくつか対策考えてみた。
・ 全寮制の施設中学校卒業まで(基本はみんな入寮、土日親と会える)
先進国だとこのくらいしないと増えない気がする。
まず平成6年当時の5年竹組にはそれこそ種種雑多な児童がいたので一概に言えない。平成7年度においては井植嘉彦体育教諭が、どうしてもこれだけは完成させなければ
いけないということで、回転倒立、跳び箱などはかなりの児童に確実にやらせていたが全部の児童がいたかというと証拠がない。川崎浩二は小学校で図工と算数を担当していたが、
算数の担当は他にも服教諭の押方彰一で現在、岩戸中学校校長をしていた者がいたが、黒板に、GCDとLCMのことを書いて、君たちは大事なことを習ったのだ、といった
だけでそれを聞いていた児童がどれだけいたのか分からない。5年生段階における算数の指導としては無内容極まりないものだった。また、理科の教員に前田篤志という者がいたが
児童の甲斐沙織等の仲間は多色ペンでノートを取るだけ、その内容を理解していたかどうかは不明である。音楽の指導は、理科室よりも更に遠い、うじのわいた公衆便所の隣にある
汚い教室で実施され、自分で息を吹き込んで鳴らす奴をやるだけといった状況。当時はこのように小学校の指導内容が無内容極まりないものばかりだった半面で、高千穂町における地域
のスーパーなどは勢いよく繁栄しており、児童などにも激臭で魅力的なもの、ないし、病的に病んだ者など種種雑多な者がおり、学校教育が杜撰だった反面で、高千穂の実態社会上は
豊かで内容にあふれていた。
部活動は、中学校学習指導要領において「教育課程外の学校教育活動」と定められる。だが、校長から「お願い」されて、ほとんどの先生が何らかの部活動の顧問をしているのが現状である。シングルマザーで、頼る人も周囲いないのに、運動部の顧問になった人を知っている。
僕の感覚だと、部活動の顧問をやりたくない人は相当の数いるのではないかと思っている。
それなら「お願い」なのだから「拒否」すればいいという人がいるだろう。
インターネット上では、部活動顧問を拒否する方法が散見されるが、実際に拒否するのは、相当に肝が据わっている人だろう。
それは、みんなやっている顧問を拒否したら、いわゆる「村八分」にされるかもしれないと思っているからだ。
教員集団は良くも悪くもチームで働く。村八分になってしまうと、様々な業務に支障をきたしてしまうことは想像に難くない。
ただ、顧問を拒否したところで、本当に村八分にされるかは、わからない。「みんな自分と同じように我慢している」というのが前提となり、ノプティコンのごとく、「あいつは、みんな我慢しているのに拒否した」と思われることを恐れている。
また、先生たちの部活動に対しての温度差も大きい。部活動に意義を見出し、生きがいにしている先生も一定数いる。とにかく何でもいいから認められたいという理由で、モチベーションが高い先生もいる。こういった先生を前に、「部活やりたくない。意味ない」なんて言ったら大変なことになる。だから、賢い先生は部活動が好きなふりをしている。
また、部活動では、どんな先生でもモチベーションが高かろうが低かろうが、生徒や保護者から様々な注文や批判に晒される。同僚や管理職も味方のようでいて、保護者と同じように「クレームを入れられる先生が悪い」なんて言ったりする。
部活動顧問は、一種のガチャである。異動のタイミングで引くことが多い。というか、内部の人間は、うまく調整して逃げられるのだ。
僕も着任早々、なかなか前評判の悪い部活動の顧問を打診された。というか決まっていた。
異動した先の部活動の前任者は、土日両方の朝から晩までやっていたらしい。しかし、実情は先生は職員室にいるだけ、参加率も低く、適当な練習に飽きた生徒は、時間つぶしに鬼ごっこをしているということだった。そこで、文部科学省の部活動のガイドラインを根拠に「練習は土日のどちらかを休みにする」「活動は3時間程度」にしようとした。
生徒たちは、その提案を好意的に受け入れてくれたようだった。しかし、保護者からは、かなりの文句を言われることになった。「前は教務主任の先生だった。力のない一般の先生で残念」「先生はやりたくないんですよね」「素人でやる気のない先生に教えられて子どもたちがかわいそう」「教育者としての自覚がない」などと言われた。
おまけに、保護者が、僕が競技経験がないことを理由に、外部コーチの候補を半ば強引に連れてきた。そのコーチは、来て早々に「何、この意味のわからない練習」と保護者にこっそり言っていた。生徒の責任にするつもりはないが、当時の3年生の生徒と一緒に考えたメニューだった。
そのコーチは、競技界隈では有名な人らしいが、お断りすることにした。保護者はグチグチ言っていたが、とても一緒にはできなかった。
このような経験をした先生はかなりの数いるだろう。自分に置き換えてみてほしい。僕は、部活動で雇われているわけではないのだ。そのコーチに再び会うことがあったらこう言ってみたい。
「あなたは生業としてコーチをしていますね。では、あなたがお休みのときに、5時間、みっちりと楽しく授業してください。5時間頑張ったら3500円支給します。ただ、あなたの休みのときは、すべてお願いします。あなたの都合で休むことは許されません」
如何に異常かがわかる。
結局、僕の異動1年目は、保護者や管理職の声に押される形で、土日に練習を行うことになった。大会などで三か月休みがなかったこともあった。
そのことを、あるとき校長に話したところ「みんな通ってきた道」と言われた。学校管理職は、管理というものをはき違えているようだ。
こんな風に部活動顧問が嫌な人は、周囲をみんな敵と思い込み、孤立を深めていく。保護者もダメ、同僚もダメ、管理職もダメ、部活に関わる外部の人もダメ。
人生で一番の親友が結婚式を挙げたので、彼女との話をさせてほしい。
(結婚式当日から書き始め、書き上げるまでに数日かかっているため今日が結婚式ではない)
私は口に出して「私たち親友」と宣言する人たちが心の底から嫌いなので、彼女に直接「親友」と口に出したことはないが、私は相手のことを間違いなく親友だと思っているし、私の驕りでなければ相手もきっとそう思ってくれているはずだ、というくらいの関係性の友人がいる。
私は、都会からの転入生としてAがいる小学校に、最後の1年間だけ加わった。
当時の私は、親の仕事の都合で二回目の転校で、他の児童は知るよしもないのに「またかよ」と思っており、率直に言うと、かなり冷めていた。
(少し弁明をさせてもらうと、小学校五、六年生の女子と言うのは、おそらく男性で言うと中学二年生前後にあたり、人間的にも関係性的にも非常にめんどくさい時期で、その時期に転校をする、かつ、すでに五年分も醸成された関係性の中に入り込んでいかなければならない、という二点が私を非常に憂鬱にさせた。)
女性陣であれば恐らく共感してくれるのではないかと思うが、小学校高学年の女子は、「グループ」というものを形成する。いわゆる「一軍女子」などの、「各児童の性質ごとに集まった集団」だと思ってもらえれば差し支えない。クラス内の自分が所属している「グループ」がいかに大きいか、もしくは、いかに注目を集めているか。一部の女子にとってはこれは死活問題なのである。
そんな中、ある程度の社交性を持った女子の転入生が来た、となると、注目度などが欲しい、より拡大したいニーズがあるグループは、その転入生を自分たちのグループで確保しようと躍起になる。
男性はあまりピンと来ないかもしれないが、女性陣は恐らく自らの過去を思い出して「わかる」と頷いてくれるシチュエーションではないだろうか。
当然ながら、私もこの、言わば「グループ闘争」に巻き込まれた。
私が転入したクラスは、大きく分けると3つのグループに割れていた。転入早々、各グループの恐らく一番パワーを持っているであろう女子がそれぞれ接近してきて、他のグループの悪口を、かわるがわる私に吹き込んでいった。
前提の通り、私は転校二回目である。かつ、転校前の学校はやや大人びていたようで、この「グループ闘争」は小五のうちに完全解決を迎えており、私の中では「グループ闘争」は終わったものだった。
しかし、私は再度この渦中にぶち込まれることになり、心の底から鬱陶しかった。本当に鬱陶しかった。
でも見るからに「鬱陶しいです」という態度を示すには小学校はあまりに閉鎖的な空間で、私はくだらない三国志を前に、小学校六年生ながら「最適解」は何なのか、非常に頭を悩ませた。
では、Aは三国志のどこにいたのか。
Aは、どこにも属していなかった。
第四グループ、というわけでもなく、どこでもない。孤立しているわけでもなかったように見えたので、必要にかられればどこかに属していたのだろう。どこでもあって、どこでもなかったのだと思う。
もう一人同じ状況の女の子(仮にMちゃんとする)がいて、AとMちゃんは、私の目には非常に賢く見えた。「これが最適解じゃん」と思ったのである。
ここで「なんとなく」なのは、私たちが親密になってしまうとただの第四勢力になってしまうので、私たちは「なんとなく」グループを作ることをしなかった。
ここまで考えるようになったのは後から思い返せばの話なので、当時から「第四勢力にならないために〜」などとごちゃごちゃ考えてはいなかったとは思う。
だが確実に、三人が互いに「仲はいいが一番仲が良いわけではない」という距離感だったことは覚えている(実際に班を組んだりするときは、それぞれ別の子と一緒にいた記憶がある)。
小学校を卒業して、Mちゃんは私立中学へ進学をし、Aと私は地元の公立中学へと進学をした。Aと私は、部活は同じものを選んでいたが、クラスは離れ、かつて三国志だった小学校のクラスメイトももちろんバラバラになっていき、あれはなんだったんだと思えるくらい、新たな人間関係が築かれていった。
切れてもおかしくなかった関係は、またしても「なんとなく」、切れることなく続いた。
当時の私は、学校の規則が嫌いで、何故か全ての上から来るものにイライラしているけど、そのぶつけ先がわからない、といった、尾崎豊の歌詞のような中学生だった。
要領がよかったせいで、提出物を全く出さないくせにテストの成績がいい、といった、先生からすると非常に厄介な生徒だったのではないかと思う。いわゆる「問題児」というレッテルを貼られても文句は言えないような奴だった。というか、私は元から問題児と言われる気質を持っていて、小学生のときは転校直後で隠していただけで、元来は何にでも牙を向くような性質だった。
中学一年生の私は、不要なものを学校に持ってくるわ、先生の言うことは聞かないわ、合わない子をシカトして「いじめ」と言われたら逆ギレするなど、まぁやりたい放題だった。いじめ云々の件に関しては弁明する余地しかない話なのだが今回の話では完全に蛇足なので割愛をするとして、それにしても、やりたい放題だった。
タイムマシンが使えるなら、そんなくだらないことに労力を使うなと迷わずビンタするだろう。(幸い私は救いようのないバカではなかったようで、一年生の間にこれらの行動が全て無意味であることを学んだ)
一方Aは、お父さんが高校の教員なこともあり、「真面目なメガネの図書委員」と聞いてステレオタイプの女子生徒をイメージしてもらえれば、あまり相違がないような生徒だった。
はたから見ると正反対なAと私の「なんとなく」仲がいい距離感は、なぜかずっと続いていた。
Aと私は、再度同じクラスになった。
正直細かい経緯は覚えていないが、ジワジワとそうなったのか、きっかけがあったのか、Aが私以外の友達との交流をあまりしないようになり、それを私にも強いるようになっていった。
例えば、私が他の子と話していても、間に割り込んで他の子が見えていないかのように話をし出す、などの行為をするようになっていった。
(この部分だけ書くとAが悪く見えてしまうが、本当に経緯をあまり覚えていないので、そうさせる原因を私が作った可能性は十分ある)
私たちは元々「なんとなく」仲が良く、互いが一番ではなかったので、私にも普通に友達がいたため非常に困った。当時何にでも噛み付く性質だった私が、Aの行動をしばらく我慢したあたり、私は元々結構Aのことを大切に思っていたのだと思う。
(それに、当時の私には一抹の優越感も間違いなくあった。「Aにとって、自分は特別な存在である」ということに関する、子どもじみた優越感である。)
だが、困るのを通り越して怒ってしまった私は、しばらくAと距離を置いた。喧嘩と言うより、一方的な断絶だった。
その後、一度良心の呵責に耐えかねてAと和解をしたが、やはり過去の行動が許せなくなった私が再度Aに無視するような嫌な態度を取ってAが怒る、という「そりゃそうなるだろ」的なイベントも起こったが、私たちは、結局完全に和解した。
やっぱり私は、Aのことがとてもとても大切だったのだ。どうしても彼女のことは切れなくて、大切で、代え難い存在になっていた。
中学三年生も同じクラスになり、そのときはもう、私たちは「なんとなく」仲がいいの域をとっくに越えていた。
恐らく同じクラスのメンバーは、私たちをセットで捉えていただろう。
私は、喧嘩のようなものを挟んだけど縁が切れることはなかったAとの関係性に、大きな安心感を覚えるようになった。
それによって私は、精神の安定性を高めていき、笑ってしまうくらい優等生になっていった。
今思えば荒れに荒れていた中学一年生のとき、私は心から信頼できる友人はおらず、不安だった。
これは完全に予測だが、Aが私以外との交流をあまりしていなかった時期も、私から何かしらの安心感を得たかったのかもしれない。
やや余談だが、私たちふたりは、共に父への確固たる尊敬を持っているところが似ていた。根本的な部分が似たもの同士なのかもしれない。多感な中学生のときでも、互いの父の悪い話を口にしたことは一度もない。
私の進学先が自分の父の母校と同じだと教えてくれたAは、なんだか嬉しそうに見えた。
高校進学後も私たちはやっぱり一度も縁が切れることはなく、とはいえべったりと仲がいいわけでもなく、一年に一回は必ず顔を合わせるような関係だった。
だが、ひとたび会えば昨日も一緒にいたように話し始められるAとの関係性が、私は今までもこれからもずっと好きだ。
ここで一つ、小噺程度のエピソードを披露するが、Aと共通の知り合いである男と、私が交際をしていたことがある。
転校先の小学校で同じクラスで、中学校も同じところに通っていた男だ。Aも、Aのことも、もちろんよく知っている。
一度、Aとその男とあと数人で飲んだことがあるが、私がはじめにその男に不信感を抱き始めたのはそこからだった。
Aは先述の通り、「真面目な図書委員」のようなビジュアルを想像していただければあまり相違なく、とてもではないが下ネタを話すようなタイプではないし、私も彼女に対しては品のない下ネタは一切話さなかった。
(というか相手によって話す内容を変えるのは人として当たり前の行動だと思っている)
それなのに、その男は容赦なく男友達にするような下ネタを話し始め、A以上に私のことをドン引きさせた。
そして、交際中のいつだかの冬に、中学の同窓会を企画することになった。
中学時代の、Aではない別の友人に「幹事やってよ」と言われて企画した。
生徒会長ではなかったが、クラス委員などをしてきた義務感から企画し、人を集めていったが、企画段階からやや辟易し始めているような、そんな同窓会だった。
私は人を集める段階でもちろんAにも声をかけ、Aは参加を承諾してくれた。
Aは特に、参加承諾以外は何も言わなかった。
だが当日、一番私の隣にいて、どんどん気分を害する私の顔色を見て、私のサポートに徹してくれたのはAだった。
交際していた男は自分の友人と合わせて参加するため、一時間半遅刻してやって来た。法が許せばその場で何かを刺していたかもしれない。
それだけではない。
途中遅れて来た奴が幹事である私に全く声をかけずに席についていたり、その場で別の奴に電話をして「○○来るって」と言ってくる奴がいたり、それはもう、言葉を選ばずに言うと、非常に、非常に知性の低い同窓会だった。
二次会まで足を運んだが、品の無さに耐えきれず、Aと二人で、二次会の会場を後にした。
人生において何度も思ったことがあったが、この日ほど、何があってもAのことだけは必ず大切にしようと思った日はない。
全ての女子に声を大にして言いたいが、最も信用できるものは、彼氏ではなく、友人なのである。
(当時の彼氏はその後しばらくして、もちろん別れた。別れた報告をAにしたとき、それはそうだが、全てわかっていたような優しい微笑みを浮かべられた。)
ちなみに私は、当時の彼以外の話もAに明け透けに話している。
Aは私が傷ついているときも、吹っ切れたときも、逆に恋愛に浮かされているときも、変わらないテンションでいつも静かに話を聞いてくれていて、いつでも一番気が楽になる対応をしてくれた。
いつか自分の将来を約束できるような人にAを紹介したいと思っているが、生憎まだ予定はない。
でもたとえどんな男と将来を約束しようとも、私はAのことは大切にし続けると決めている。
私は社会人になってから、かつて転校前に長く住んでいた大阪に戻っており、Aのために地元への飛行機に乗ったところで、この文章を書き始めている。
もちろん結婚までの経緯は知っていて、結婚式よりも前に、Aが紹介してくれたのでお相手とも面識を持つことができた。
Aから「お付き合いしている人がいる」と聞いたとき、私が最初に感じた感情は間違いなく『寂しさ』であった。自分も交際経験がある上、Aに散々話してきたくせによく言うが、間違いなく私は寂しかった。盗られたという感覚はなかったが、「私以外の人が、彼女の一番になったんだ」と思った。なんてガキなのだろうか。そう思った私のことを心底嫌いだと思った。
また、付き合った直後に教えてくれなかったことも、私は少し寂しく思った。とはいえただ私が特性として仲が良い子には明け透けなタイプなだけで、Aは元々そうではない。隠しているつもりも彼女にはなかっただろうし、私のただのわがままなのだが、「なんで教えてくれなかったの」という感情があったことは否めない。
幸いお相手の方は非常にいい方で、私の前で互いに話すAとAの彼氏(当時)を見て、長年Aを知っている私が、彼女との親密度を感じ取れないはずがない。
私が心配をする隙など何もないくらい素敵なふたりだったのだが、私は一抹の寂しさを抱えたまま、結婚式当日を迎えた。
挙式の際、私はご両親が座るために開けられた最前列席の真後ろという、下手したら親族に間違われそうな位置にいた。
図々しいだろうか、とヒヤヒヤしていたら、緊張した面持ちの新郎が入場して、
私はその時点でもう目が涙でいっぱいだった。あんなに綺麗なAは見たことがなかった。
早い、とツッコまれるかもしれないが、本当にその時点で感動してしまって、ずっと鼻をすすっていた。
(のちほど披露宴でAのご両親に挨拶にいき、お話ししたのだが、真後ろだったせいで挙式ですでに泣いていたことがバレていた。恥ずかしかった。)
披露宴中、お色直しのために新郎新婦が中座し、まもなく再度現れる、というときに、二人のプロフィールムービーが流れた。
恐らく結婚披露宴ではあるあるの演出だと思うが、二人の成長過程がスクリーンに映し出される。
Aのプロフィールが流れていき、当日呼ばれている友人たちの写真が映るたびに、それぞれのテーブルがリアクションをしていく。
Aと小学校・中学校からの友人として参列しているのは、私だけだった。
(私が中学の同窓会で幻滅したように、Aも他の友人には幻滅したのだろうか。そのあたりはおめでたい席でとても聞くものではなかったので、特に細かいことは聞いていない。
Aのご両親と面識があるし、別のコミュニティにAの影響で一緒に参加していたため、お知り合いの方も多く参列しており、会場でぼっちだったわけではないのでご安心いただきたい)
私ひとりに宛てられた、メッセージまで添えられていた。
他の友人たちとは一線を画す扱いへの衝撃が強すぎて、細かい文言は覚えていない。
涙が止まらなくなって、以降の内容も覚えていない。なんてダメな参列者だろうか。
彼女にとっての私は確かに唯一無二である、と、私だけでなく相手も思っている、ということを、はっきりと確認できたことで、私の感情は余すことなく全て「祝福」の方へ向かった。
そしてAから両親への手紙の中で、同棲をするまでお父さんにお相手の彼の存在を話していなかったことを聞いた。
なんだ、私だけじゃなくて、お父さんにも言ってなかったのか。
私はその、Aらしい部分に微笑んでしまった。彼女は私に隠していたわけではなく、Aがそういう性格なのだ、ということを改めて感じることができた。
少しでも寂しいとか、なんでとか思って、ごめんね。
だけど、一番はいくつあってもいいのだと、彼女の結婚式に参列して思う。
両親への手紙も愛に溢れていて、彼女にとってご家族もかけがえのない存在なんだと思ったし、他のご友人たちもみな、Aのことを微笑ましく見守っていた。
これからもきっと、ふたりは幸せに時を重ねていくのだろうと思った。
私は誇らしくなった。
自分もそんなAの唯一無二の存在のひとりであることが、とても、とても誇らしくなった。
夫婦とは、愛を誓ったとはいえ別の人間が生活を共にする。喧嘩することや意見が対立することもあるだろう。私はそのとき、何があってもひとまずAの味方となる存在でありたい。
お相手の方が正しいということもあると思うが、味方のあるなしで人の心の余裕は大きく変わる。
それを教えてくれたAに対して、私も同じ態度でありたい。
それに、残念ながらまだ予定はないが、私が逆の立場になったときも、彼女がそうであってほしいと思う。
結婚、おめでとう。
そして、私の唯一無二でいてください。
昭和60年11月21日に生まれたがゆりかご保育所には言ったりいかなかったりし、平成4年頃に南方小学校進学も、勉強も体育も嫌がり、家庭でもよく分からない。
ジュースばかり飲もうとするので祖母が不健康だと言ってそれを全部こぼし代わりに麦茶を入れようとすると、祖母に対して、余計なことをするな知らないババアなどと悪態をつく。
平成6年に高千穂小に転向したがクラスから人気があったというだけで学業活動等は不明。平成8年に南方小学校に戻ってくるが何をしていたかは不明。普通に肥満体であり
家庭ではマンガを読んでいた。平成10年頃に西階中学校に入るも学業体育も嫌がり、その後に延岡西高校に3か月程入っていたが高校が嫌だと言って退学、父親から宮崎市
や第二高校の通信制に通えと言われて通っていた。不良仲間とつるんで遊んでいた。平成15年に兄が東大に受かると嫉妬して勉強、平成18年に首都大学に合格するも
勉強はほとんどせず、ホストなどのバイトを転々、平成21年以降に卒業し延岡に帰り父親と同じ部屋で寝て暮らす生活。父親とは喧嘩するが別居はしない。兄が出所後に発狂するようになり
平成26年5月頃に母親を蹴って警察に呼ばれ次やったら問題になると警告を受けた。出所してきた兄から怒号され、実家に別居する。平成27年頃に父親も実家に帰ってきたが
働かないと言って父親から椅子を投げられ怪我をするが通報すると養ってもらえないためしなかった。こうした滅茶苦茶な人生がたたって禿げた。鏡を見て頭髪を気にする様子が見られる。
はてな匿名ダイアリーに限らず、インターネット上のブログ全般に対して初めてです。
タイトルのように某東京23区(どこかは秘密です)の成人式に行ってきました。比較的閑静な住宅街が広がる地域です。いろいろと感じたことがあったのでそれをこの場で書き残そうと思います。
まずは軽い自己紹介。
・高校は家から少し離れた高校で地元からの知り合いや友達はほぼ消滅。
・地元の友達は片手で数える程度だが存在していて、そのうちの一人は頻繁に会う。
元々、成人式には行くかどうか悩んでいました。というのも上記のように友人がそこまで多い方ではなかったので、わざわざ行って寂しい思いをしてもなあと考えていましたが、行かずに後悔するよりも、行って後悔する方がまだましかなと思い、行くことを決定。
当日は上記の頻繁に会う友人と一緒に会場へ向かう。
会場の最寄り駅まで向かう際の電車では男女問わず、一目で成人式に行くのがわかる格好で「今日は成人式があるんだ!」と予め感じる。
会場の最寄り駅に着くと、人が多すぎてビビる。
会場の敷地に入って、5~10分くらいで中学校の友人に再開。髪型が変わりつつも、当時の面影があり、すぐにわかる。めちゃくちゃ懐かしいし、会えてうれしい。この時点で成人式に来てよかったと感じる(単純)
その後、再開した友人と話しているとちらほらと同じ中学校の友人と再会。(小学校だけ一緒だった人はほとんど再開せず)
写真を撮る。
その後、式典の会場へと向かう。偉い人の話自体はほとんど誰も聞かず、私たち含めてみんな、お互いの近況やら思い出話やらを話していた。
私も3,4人で集まって話してた。
とはいえ、私は式典のライブ配信を別の教室で見るという形だったので、話せていたがホールで直接見ていた人はおしゃべりもできず、息苦しかったのかも。
式典が終わると、敷地内の屋外でみんな友人を探していた。私もここですぐ帰るのも折角来たし、あれかなと思い、当時の友人や知り合いを探した。
初めはあまり見つからなかったが、徐々に発見する。男女問わず一緒に写真を撮った。私が当時とあまり変わっていない(?)らしく、向こうからよく声をかけられた。
私はというと、男性も女性も「ごめん、誰だっけ?」状態で、マスクをとってもらったり、名乗ってもらったりして初めて気づくこともしばしば。それでもすぐにわかる人も多いから不思議なもの。
同窓会はどうやらあったらしいが、会いたい人とはしっかり連絡先を交換したのと、そもそも自己紹介で述べたとおり、仲の良い人も限られるので不参加。
以上、当日の流れでしたが、感想としては以下のとおり。
①やっぱり会えば当時のテンションで話し合える
久々に会ってどういうテンションになるのかは私自身、怖かったが意外と当時のテンションで話せた。
裏を返せば、その当時のスクールカーストが保持された状態とも言えるのかな。
②行けば意外と楽しい。
私自身がいじめられていたり、クラスで浮いていたりしたわけではないのでという譲歩付きですが、みんな久々の再開という事で好意的な態度。そもそもハレの日だから、怖い怖い雰囲気ではない。
「今何しているか?」ということはほとんど興味がない感じで、むしろ当時を懐かしむ雰囲気。
③来てない人も(当然)いる
あの子絶対来るだろうな、と思っていた人が来ていなかったらしい。まあ、大学や高校での集まりを優先する人もいるだろうし、これは当然かな。
最後に。
いろいろ書きましたが、地元の人とまとめて再会する機会は成人式と同窓会くらいしかないので、成人式は自治体が用意してくれて、みんな招待されるものこれくらいなので、行った方がいいと思いました!
平成8年に加藤周一はこれからの日本社会がどうなるかということをいったときに、そもそも消費社会しか成立していない、それ以外がカスであるといった。これからはどうなるかといった
ときに、一億一心金儲けで、表現の世界は、精神性がなく、デザインで成功すると断言した。それよりも何もよりも、金儲けすらなく、実際的な思想しか残らない、若者がどう考えるかである
と予想した。
しかし加藤の考えとは裏腹に平成の若者は金もあまり信用せず色んな楽しいことをしていた。金儲けとは消費社会につながり、消費社会に貢献する会社以外はカスであることを意味していた
結果として、平成18年以降に、今の消費社会が成功し、延岡には、消費社会の成果として、ヤマダ電機、マックスバリュー、イオン、ブックオフ、ドン・キホーテなどが出来た。
しかしこれらの店は概して平成23年までに出来たもので、その頃まではまだ金が全てだろうと言われていたが、平成26年からあろうことか、警察が主導する薬局などが繁栄
悪質すぎて誰も金を信用しなくなった。最後に加藤周一が残るであろうと予想した実際主義、つまり、生活しなければいけないのでその場その場でやることをやるしかないという思想も、
2ちゃんねるのなんでもありや、バクサイのせいで消えかかっている。
実際には、タテマエ社会で働いているかなりの者が、もはやその場その場でやるしかない、使えないものは捨てているといった感じだが、安倍晋三がやったことが悪質すぎて、半年前に射殺
また、小中学校などは、平成19年にインターネットで猛攻撃を受けて一度止めたが、平成26年から平然とした顔をして開始しており
やるしかないなどと言いながらも誰も信用していないことは明らか、 平成30年4月12日には19歳警察官が41歳警察官を射殺。