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はてなキーワード: 僧侶とは

2017-09-05

anond:20170905174007

解脱ってのはひとつ心理学的に言うなら認知の歪みが取れたぐらいの認識でいいと思う。

白隠禅師という禅宗で有名な僧侶は生涯で確か25回悟ったとか。

2017-09-01

風越姓の由来

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14130772494

岐阜県不破郡垂井町平尾にある浄土真宗威徳寺の僧侶による

明治新姓」

というのが明確な回答

御在所の人って人気者だな

検索上位を独占してるw

2017-08-25

三十路クソビッチ感想

はじめに。

私は三十路のクソビッチだ。体験人数は多い方ではない。

20代前半で結婚するまでの経験人数は3人。

実に平均的な人数だと思う。

それがなぜか5人に増えた。

実に不思議現象だ。

数字で見ると+2。

と書いてみるが、単純に浮気不倫

気持ちはないので、私のケースでは不倫

夫に訴えられれば有責なのは100%私の方だ。

結婚した後に5年スパンで体の関係を持ったのは元カレだが、当時気持ちは冷え切っていた。

この数年間で、愛があるセックスも愛のない割り切ったセックス経験した。

世間芸能人浮気不倫ニュースが報じられるたび、どうして無関係一般人が騒ぎ立てるのか不思議でたまらない。

もちろん当事者同士、加えて配偶者子供にとってはたまったもんじゃないだろう。

だが、親族でもなんでもない。

一般人がなぜ騒ぎ立てるのか、興味本位かはたまた野次馬なのか。

とりあえず燃えそうなもんは燃やしとけの精神なのか。

なぜ日本は一夫一妻制なんだろう。

一夫多妻でもいいじゃない。一妻多夫でもいいじゃない。

性欲が満たされない人もいる。

本能だけで生きているのか!動物並みの知能だな!

そう罵られたって構わない。

人生パートナーを選んでも、100%何もかも一致して満足している家庭はどれくらいあるのだろう。

割り切った体だけの関係について否定肯定もしない。

未成年に手を出すのは論外だが、成人している男女であれば、自分自分の尻を拭けば良いだけの話。

ここまで書くと「お前毎日セックスやり放題か!」と思われるだろう。

我が家や夫とのセックスが月に1~2回。

セフレ1人とのセックスが月1回。

合計月3回となる。

この回数を多いと見るか、少ないと見るか。

童貞処女のまま30歳を迎えると、ネットでは魔法使いになれると例えられている。

40歳僧侶賢者だったかな。

じゃあ30歳になってもヤリチンビッチな面々は何になるのだろうか。

少なくとも童貞処女の方達よりも、確実に性病リスクを抱えている。

街中を歩いている真面目風爽やか系の男性と、清楚系と呼ばれる女性の組み合わせ。

現役三十路クソビッチとしては、この組み合わせは「実はセフレ」という傾向がとても高く感じている。

あくま個人的経験談

2017-08-02

昔の日本って

茶道とか華道みたいに作法マナーには厳しい割に

宗教的にはそんなに厳しいルールないのはなんでなんかな

貴族僧侶一般庶民の違いか

2017-07-31

男らしさを降りるということ

男らしさを解放しろというフェミニストを含む女性が結局男性騎士道精神を求めているだけになっていないか

男らしさを解放僧侶隠者になるようなことを称賛されるべきではないか

2017-07-21

https://anond.hatelabo.jp/20170719231510

BLゲーはそれこそ十年前くらいからたくさんあるし、アニメソフトリリースのやつがけっこうある。たくさん指摘されてるけどBLCDの方が優勢らしい。明らかに挿入してないだろそれ、どこいじってんだよ、とツッコミ入れたくなるようななんちゃってゲイビみたいなのも見たことある腐女子だとひと足飛び越えてゲイビ・洋モノゲイビに行く人も。

男優さんにイケメンを配したAVもなくはないけど、はてブかどこかで読んだ記憶があるが、知らない相手に犯される感じがあって抵抗があるのかもしれない。それだったら普通AV見る方が、という層はあるかも。まあ男性向けAVは女体固定!とか肉便器!とか痴漢!とかタイトル見るだけで暗い気持ちになるものが多いが。あと普通AVやたら男優がべろべろキスするの気持ち悪い。

レディコミやハーレクインなんかも長年あるはずだけど、レディコミはなんかドロドロ感が強いのでTL(ティーンズという表現に色々思うところはある)が増えたのはいい傾向だと思った。僧侶と~の18禁何話か見たけど男性向けエロアニメと変わらないようなエロシーンだった。五分で終わるから速攻でエンディングテーマが流れるのは笑った。

長々書いたけど、「お前の観測範囲が悪いだけだよ」の一言で終わる増田だった。

2017-07-20

https://anond.hatelabo.jp/20170720065122

1秒も見た事ないけど、「僧侶と…」がTLである事は知ってる。

BLと思ってるらしき人は元増田ブコメにもいるね。

元増田といい、女性向け=全部BLと思ってる人が多いんだろうか?

女性向けAVシルクラボ大分からはてなでも何度も話題になってるだろ

と思ったらBLAVの事かよ。

調べたら、DMM18禁に「ボーイズラブ」と言うカテゴリ普通にあるね。

http://www.dmm.co.jp/mono/anime/-/list/=/article=keyword/id=4072/

アニメはそこそこあるけど

http://www.dmm.co.jp/mono/dvd/-/list/=/article=keyword/id=4060/n1=DgRJTglEBQ4GwO2Zj5PCktvA35Pm/

実写はこれ1つだけか。

2017-07-18

マックうんこを漏らしそうになって人生が変わった

 それは昼下がりのマクドナルドでのことであった。

 わたしがいつものように夏の暑さとセミの音と夏休み乱交合宿の打ち合わせにはしゃいでいるヤリサ学生どもを呪いつつマンゴースムージーをすすりながら次の次の次くらいのどうでもいい会議書類に目を通していると、どこからか甘く懐かしいささやき声がひびいてきた。


「……すだちゃん。ますだちゃん。増田ちゃん? 聞こえる?」


 そ、その声ーーあなたうん子!


「よかった。おぼえていてくれたのね。忘れられちゃったかもと思ったけれど……」


 忘れるわけはない。

 わたしとうん子は小さいこから親友だった。

 うん子はうんこ精霊であるうんこに関するあらゆる事象を司り、時に歴史の流れを決定づけるほどの暗躍を果たしてきた。

 カエサルナポレオン徳川家康コロコロコミックドナルド・トランプ……偉人たちの便意と決断の裏には常に彼女の姿があったといっていい。

 わたし人生においても、常にうん子の助力があった。そう、幼稚園でのお遊戯時間うんこを盛大に漏らしてから、小二の給食、小五の運動会、中一の合唱会、高一の塾合宿ーーずっとわたしとうん子はいっしょだった。

 唯一の友達だったといってもいい。

 心無い同級生からうんこ」「うんこ漏らし」「下痢便カレー」「うんこに愛されし子」「ザ・うんこ」「進撃のうんこ」「逢うんこうんこ園(ジャンプ打ち切りマンガにちなんだあだ名は他にも30ほどあった))「うんこ界の稲尾和久(約三日に一度のペースで漏らしていたため)」などと残酷あだ名をつけられ、うんこにちなんだいじめを散々受けていたわたしに近づくものなどいなかった。

 だが、気にしなかった。彼女と一緒にいたころは、うんこを漏らすことがはずかしいことだなんて微塵も思っていなかった。

 パンツを茶一色に染めたことで母親からものすごく叱られて、ひとり部屋で泣きはらしていた夜にも彼女は現れ、

うんこを漏らすことをできるのは、選ばれた子どもだけなのよ」と、励ましてくれた。

 うん子さえいれば、わたしは他に誰もいらなかった。


 だが、いつのころからだろう。おとなになるにつれて、わたしには彼女の姿が見えなくなり、彼女の声が聞こえなくなった。

 大学生から社会人になる過程で段々と「ほんとうはうんこを人前で漏らすのははずかしいことなんだ」という意識が芽生えるようになり、今の職場面接を受けるさいの「うんこを漏らしたことはありますか?」というよくある質問にも平然と「ありません」と答えた。

 そして、毎月給料をもらい、ちゃんとトイレを便座に座ってやるようになると(ウォシュレット存在を知ったのもこのころだ)、うんこ精霊うん子の存在も忘れ去ったーー。


「落ち着いてよく聞いて。これから十数秒後にものすごい勢いで貴方うんこをもらす」

 再会の驚きをふっとばすうん子のことばにわたしはことばを失った。


 漏らす?

 このわたしが?

 立派な社会人であるこのわたしが?

 この増田??????


 わたし恐慌に陥った。

 今ここで漏らしたらどうなる?

 隣の席で互いに性的視線を送りっているヤリサーのブスどもは持ち前の野生の勘で間違いなくうんこのにおいを嗅ぎつけるだろう。そして瞬時にそのにおいの発生源を特定するだろう。

 彼らはわたしをゆびさして嘲笑し、周囲の客たちもわたし汚物を見るような視線を投げるだろう。

 そうだ、わたし汚物になるのだ。

 うんこ漏らした汚物ニュースはたちまちその日のトップニュースとしてローカル局報道され、会社にも伝わり、わたし面接ときについたウソをとがめられ(「おとなになってうんこを漏らすような人間が、以前にもうんこを漏らした経験がないはずがないよな?」)、おりもののついたナプキンがごとき扱いで会社から、そして地域社会から追放される。借りているマンションも追い出されるだろう。実家からも縁は切られる。

 それからは宿無し生活だ。行く先々でこどもたちから「いたぞ! うんこだ! マックうんこをもらした早打ちマックとはあいつのこと!」とはやしたられ、石を投げられる。

 額に投石を受けて、地に倒れ込んでも、わたしは「しょうがないんだ」と自分に言い聞かせなければならない。それだけの罪を犯したのだから……と。


「あきらめないで増田ちゃん!」

 うん子の声がクソみたいに悲惨未来予想から現実を取り戻す。

わたしがーーこのうん子がどうにかするわ。あなたうんこなんて漏らさせない。絶対あなたを助けてみせる」

 ほんとうに? と絶望するわたし疑念を口にしかけるが、できる、ほんとうに彼女なら可能なのだとおもいなおす。 


 なにせ彼女うんこ妖精。便意など思いのままだ。


 だがーー。


 あなたはそれでいいの、とわたしは言う。

 うん子にはうんこを漏らしたときしか会えない。

 今は声しか聞こえない彼女だけれど、わたしが「実」をこの場で出せば、その姿を現前させられる。


 あの愛らしい、あの懐かしい、

 わたしのたったひとりの友だち。


 会いたい。

 眼から涙が溢れ出していた。

 会いたい。会いたい。会いたい。

 うん子にもう一度会いたい。

 この十年間、十五年だっけ?

 ほんとうにいろいろあったんだよ。

 あなたに話したいこといっぱいあるんだよ。

 あなたから聞きたいこと、いっぱいあるんだよ。

 話したい、お話したい、

 三ヶ月溜めた便秘を吐き出すように私の話を聞かせたい。

 三時間つづく下痢便のようにあなたの話を聞いていたい。


わたしあなたに会いたい」

 とうん子は言う。

 だったら、漏らしたってわたしはーー

「でも、ダメあなたはおとなになったのよ、増田うんこを漏らすことをできるのは子どもあいだだけ。おとなはうんこをもらしちゃだめなの。わたしと会っちゃ、ダメなの」

 わたしマックの硬いソファの上で恥も外聞もなく駄々をこねた。いやだいやだいやだ私はうんこを漏らすんだ。

 だってそうすれば、あなたにまだ言ってないこともーー。


 うん子の「ふふっ」という笑い声が虚空のかなたか漏れた。戸惑うような、愛情の篭った吐息だった。

「ごめんね。ありがとうさようなら増田



 ブリブリブリブリブリイジギュルリルリイリブリッブッブッブッブーブリリリリィ!!!



 盛大に漏れる音がした。

 尻に湿ったものほとばしった。

 この感触

 十年間ずっと忘れていたこのなまあたたかさ。


 終わった、と思った。


 だが、不思議とヤリサーたちが異臭に気づいたようすはない。わたしにもにおいはわからない。自分の便だからだろうか?

 うん子の気配もどこかへ失せていた。

 わたしは平静を装って席を立ち、トイレへと向かった。

 便座に座って下を脱ぎ、解脱した僧侶のような心持ちパンツを見つめる。買ったときには真っ白だった、清純と純潔の象徴のようなパンツ……。


 白いままだった。

 夏空に浮かぶ背の高い雲、この前観た『メアリと魔女の花』に描かれていた積乱雲のように晴れやかな白だった。

 茶色い粘った汚れなど、かけらもついていない。


 わたしは漏らしていなかったのだ。

 だとしたら、あの確実に三リットルはぶちまけたような大きな排便音はいったいーー?


 トイレから出て、席に戻ろうして、店内がやたら騒がしいことに気づいた。

 ヤリサーどものあたりである。彼らの阿鼻叫喚が聞こえてくる。

「テメーおまえウンコなんか漏らしやがって」「マジふざけんな」「これからおまえの名前はウンコノミクスだ」

 わたしはそのまま席に戻らず、店外へと出た。

 雲ひとつない、パンツはいていないお尻のように清潔な空に、純白の肛門にも似た太陽が燦々と輝き、けがれのない世界をつつんでいた。

2017-07-16

https://anond.hatelabo.jp/20170716062006

前にも書いたんだけど、

精神疾患になる人は優しいとか優しくないとかもあるかもしれないけど、

自分の考える理想自分現実ギャップが大きすぎて受け入れられない人だと思う。

理想(野心)っていうのは人間関係とか自己実現とか。自己実現の中に人間関係も含まれる。

から失恋するとみんなうつ病だし、人間関係における理想ポジション他人かぶると色々人間関係ドロドロするか病む。

なので小さい頃から色んなポジションカースト)で色んな人間関係の振る舞い方を経験した方がいい気がするのだよね。

最悪家の中小中学高校大学であるひとつポジションだけで生きていく人、あるひとつポジション目標にしてる人いるけど(アスリートとか頭いい天下りする人とか)、

大人になってから環境立場)の変化色々対応でき無さそうな人もいるよなと。

病んでいる人の中には、夢が叶わなかったことより、それに付随して得られるはずだった人間関係立場を受け入れられなくて病む人がいて、

わりとそちらは難しい。自己実現自己愛社会的地位パートナーとの関係とかカーストの中の自分)にからむ。

諦めるのは大変ですよ。




追記。

ポジションが安定してないと病むっていうのもある。

子どもとして安定するぐらいに、奥さん旦那さんとして安定する程度には。

自分が望む安定さを欲して、所属する社会組織不安定にしてしまう人がいる。

危害メンヘラもだし休職メンヘラもだし(最悪両方辞めさせられるでしょ)









あと東芝とかも。






また追記。

20代まではわりと夢が職業的自己実現であることが多く、

30代に近づくと夢が人間関係的な自己実現シフトしてくる。

上で書いたように、職業自己実現人間関係自己実現は関わっている。




またまた追記。

お金はそれらを色々解決することもある。






またまたまた追記。

理想自分理想ポジションを追い求めることはある程度必要

そういう人が社会を伸ばすこともある。

しかしながら、ストレスたまるし時には排除も起こるしぶつかり合いにも限度があるので、

よく話し合うこと大事。でも価値観の相違は埋まらないものもある。

諦めと妥協はどこかで必要

お金時間がある限り必要じゃない分野もある。アート界隈研究者界隈な。

でもそれ普通会社員も同じかな。

お金時間裁量少ないけど。

村上春樹ぐらいしか完全なる自由人いないイメージ

でもエッセイ読むと自己管理出来てて僧侶みたいだよな。井上雄彦も見た目はそんなん。





またまたまたまた追記。

精神疾患者に必要なのは自分の今に納得すること。

まり悩みについての思考の停止。悩みを終わらせる諦めること。

そして次の夢。趣味とか。

思考停止強制的にしたい人は環境を変える。

その環境選択肢の中に無意識的に死が存在するから微妙なことになってるよジャポン





さらにまた追記。

ポジションが人を育てることもある。

2017-06-18

オラ、美しい日本の歴史にワクワクすっぞ!

富永恭次陸軍中将

フィリピン陸軍航空特攻を指揮。マッカーサー軍が迫ってくると、司令部許可なしに側近と芸者ウィスキー瓶のみを載せて台湾に逃亡。天寿を全うする。

菅原大陸軍中将

陸軍特攻の中心だった第六航空軍司令官10代の少年特攻隊を次々を送り出し、エンジン不調などで戻ってくると「卑怯者!俺も後で行く!」と殴り倒した。

敗戦で部下が自決をすすめたが「死ぬのだけが責任を取る事ではない」と逃げ回り、96歳で天寿を全うした。

倉澤清忠陸軍少佐

菅原道大の部下で第六航空軍参謀特攻隊を次々と送り出し、機体不良で戻ってきた搭乗員監禁して毎日毎日

死ねないようないくじなしは特攻隊の面汚しだ。国賊だ!」と罵り殴りまくった。悔しさのあまり自殺したものもいる。

戦後は元特攻隊員の復讐を恐れてピストルを持ち歩き、寝る時は枕元に日本刀を置いて寝た。天寿を全うする。

玉井浅一海軍大佐

フィリピン特攻隊員を次々と送り出す。

機体不良で戻ってきた特攻隊員たちが本土へ戻る事になると

「待て!お前は特攻隊で死んでもらう事になっている」と輸送機から引きずりおろし自分が乗り込んで本土へ帰っていった。

戦後僧侶になり、天寿を全うした。

黒島亀人海軍大佐

残酷人間魚雷回天」を立案。「必ず脱出装置を付けます」と嘘をついて認可を得た。

戦後会社社長として何不自由ない暮らしを送る。宇垣纒の戦争体験手記を遺族から借り出し、自身に都合の悪い部分を破棄した。天寿を全うする。

太田正一海軍大尉

米軍コードネーム"BAKA"こと人間爆弾桜花」の発案者。

自分が乗るから開発させてくれ」と上層部懇願して開発させたが、自身は「適性なし」として搭乗しなかった。

敗戦直後に逃亡し、名前戸籍を変えて暮らす。天寿を全うした。

2017-06-11

続・白紙に戻せぬ遣唐使教科書の読み比べ)

http://anond.hatelabo.jp/20170611183038

これのつづき。今回も文字数制限にひっかかったので、分割します。

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

一方、インドの僧菩提、林邑(ベトナム中部)の仏哲、唐僧鑑真らの外国人も、遣唐使船に便乗して来朝し、インド西域東南アジア文化を伝えた。

遣唐使船は日本人が唐へ往来するためだけではなく、外国人日本に招くためにも使われていたのです。「遣唐使」「鑑真」というのは中学生レベル用語です。しかし、この2つを結びつけて説明できる人は案外少ないんじゃないでしょうか?

ちなみに、山川の『日本史B用語集』によると、菩提僊那、仏哲という用語を載せている教科書は、唯一これだけみたいです。しか桐原書店は彼らの業績を説明するための註を設けている徹底ぶりです。入試問題になったら難問だと思いますが、大切なのはこういう人名を丸暗記することじゃなくて、東大寺大仏開眼供養会はインドベトナム出身僧侶たちも参加していた国際色のあるイベントだった、それは遣唐使船がもたらしてくれたものだということでしょう。

  

日本がしばしば新羅従属国として扱おうとしたため、両国関係はしばしば緊張した。しかし、日本遣唐使が唐において新羅人に助けられることもあった。」

これもこの教科書に独特の記述です。遣唐使新羅人に助けられたというのは、円仁著作『入唐求法巡礼行記』のことを念頭に置いているんでしょうか?

また、上掲の講談社日本の歴史シリーズから引用すると、次のような話もあります

遣唐使派遣が間遠になり、日本の船が唐まで行かないなか、それでも求法の念止みがたいとなれば、来航する新羅船を利用するしかない。そしてまた新羅商人たちは、概して好意的に彼らを助けたのであった(坂上早魚『九世紀の日唐交通新羅人』)。こうして入唐と研鑽を果たした天台真言の平安仏教旗手たちが、仏教の使命は鎮護国家にあるとする考えに則り、護国の修法による新羅調伏を担うことになったのは、実に皮肉なことであった。

  

坂上康俊『日本の歴史05巻 律令国家の転換と「日本」』

  

  

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

このころ唐では、みずから世界の中心とみなす中華思想が強まり、周辺の国々を夷狄として見下す考えが生まれていた。この考え方は日本にも影響をあたえ、朝廷新羅や、朝廷に服属しない東北九州南部の人びとを蝦夷隼人とよんで夷狄として蔑視しはじめた。

朝廷東北地方九州南部進出した経緯を説明する際、そこには中華思想の影響があったことを説明しています。それに絡めて新羅との関係にもちょこっと触れているので、先にとりあげた東大入試問題を解くときのヒントになるでしょう。

もっとも、この点はやはり、山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)の方が優れています。私が先に引用した箇所のすぐうしろ([後略]とした部分)では、朝廷が「東北地方蝦夷九州南部隼人異民族夷狄)として服従させ」たことを説明し、「律令国家が蛮夷を服属させる帝国であることを内外に示した」と結んでいるのです。

それに比べると、三省堂教科書は、遣唐使中華思想という2つのものを関連付けて理解することが不可能です。

  

  

  

東京書籍日本史B』(日B 004)

遣唐使8世紀には6回、9世紀には2回派遣され

実教出版にも「奈良時代遣唐使は6度派遣され」たとありますが、東京出版9世紀のことも記述していてグッド。

遣唐使は894年、菅原道真の建議で廃止されました。ですから9世紀末まで遣唐使派遣する制度は残っていたはずなんですが、8世紀と比べるとその回数がめちゃくちゃ減っていることが分かるでしょう。

理由は、日本がもはや唐から学ぶべき必要・意欲がなくなってきたこと、唐が政治的混乱に陥って衰退したことによる国威の低下、商船の往来が活発になったことで日本が唐に朝貢をしなくても舶来品を入手できるようになったこと、などです。

これがさっき桐原書店のところで述べた話にもつながっています時代が9世紀(すでに平安時代)になっても、仏教では唐に確固たる先進性がありました。だから日本僧侶たちは唐に留学することを熱望したのです。しか朝廷遣唐使派遣積極的ではなく、彼らは新羅商人の助力を得なければ、渡航が困難という状況だったのです。

  

[引用者注:702年の遣唐使派遣の再開について] その目的なかには、「日本」という国号を認めさせることも含まれていたと考えられる。

東京書籍教科書にだけある、この一文。「日本」がはじめて国際社会に登場したのがこの時点だったと言っているんです。

これ、すごいことを言っていますよ? 「日本」が太古の昔から存在したという皇国史観に対する強烈な一撃です。

ちなみに、このとき天皇」は国際デビューしていません。倭国はなんとかして「日本」への国号変更を唐に認めさせることはできても、皇帝にあたる「天皇」という称号を用いて唐と対等外交をする力がなかったのです。唐では天皇のことを「日本国王主明楽美御徳」(日本国王メラミコト)と呼んでいたようです。もしかしたら当時の日本朝廷内では、「スメラミコトは唐の皇帝に臣従したが、天皇は臣従していないか日本国王ではなく、したがって日本は唐の朝貢国ではない」という回りくどい官僚的答弁があったかもしれませんが、その点は不明です。このような高度に政治的問題は、国史編纂ときに巧妙な隠蔽がおこなわれるからです。(上掲の講談社日本の歴史シリーズ青木和夫著の中央公論社日本の歴史3巻 奈良の都』を参照せよ)

  

さて、これは東京書籍にかぎらず、多くの教科書でそうなのですが、古代史において「天皇」「日本」という表記を用いるときには慎重になっている様子がうかがえます。例えば白村江の戦いでは、唐・新羅と戦った国が「日本」ではなく、「倭」倭国」「朝廷」等の表記になっています

なぜ教科書がこんな表記になっているかというと、「天皇」「日本」という称号国号は、ある時期の特定政治状況のもと、人為的に作られたものからです。具体的には天武朝(673年~686年)のころ、大王とその国を神格化する目的で、初めてこれらの称号国号使用が開始されました。ですから、もし神と同一であるところのその「天皇」、その神のおさめる国である日本」が、天武朝より遥か昔から存在していたかのように記述するならば、それは皇国史観に他なりません。

無論、教科書では便宜的に仁徳天皇推古天皇というような表記が使われていますけど、古代史における「天皇」「日本」という表記の取り扱いについては一応注記が設けられていたりします。例えば『詳説日本史』は壬申の乱ののち、天武天皇が「強力な権力を手にし」て、「中央集権国家体制形成を進」めていく過程で、そのころに「大王にかわって「天皇」という称号が用いられる」ようになったと書いています。同社の参考書『詳説日本史研究』はそこがもっとクリティカルです。「大王から天皇へ」というコラムで、「天皇」という称号が天武朝に始まることの歴史学的な検証を載せ、唐の皇帝が一時「天皇」と称していたのを知った日本側が模倣したという説を紹介しています

こういう細かな表記へのこだわりからも、各社の教科書がどんな史観に基づいているかを見ることができるはずです。

2017-05-26

ドラゴンクエストライバルズ上位デッキ予想

ハゲコン(チャモロコントロール

断末魔ゲントの杖を生み出すチャモロ蘇生カード及び除去カードをガン積みし残りは強力な断末魔を持った高ランクカードで固めたデッキ。終盤までもつれ込まれるとほぼ対処手段がなくなる。ハゲコンと呼ばれるのはチャモロ僧侶から

マドハンドワンキル

マドハンドの増殖効果ループさせて大量に並べてから全体バフして一気に顔を殴るデッキ。ワンキルといいつつ実際は序盤からひたすらチマチマと顔を削ってくる。第二弾で全体除去の性能が高くなると途端に完全に姿を消すことになる。

スライム

スライムモンスターとそれを強化するカードで組まれたアグロスライムカードで固めて前のめりに組んだだけなのにやたらと勝率が高かったのだがベータテストの段階でカードが何枚も修正されてスライム関連のカードは軒並み腐ることになる。ライバル運営はさんすうが苦手という噂が囁かれる原因となる。

はかぶさ

デッキから備品ランダムサーチするトルネコ効果で手札にはやぶさの剣やもろはのつるぎといった強力な装備品を加えそれを次々に適当ミニオンに装備させるデッキ。強力なパパスの剣を死亡時に残すパパスキーパーツとなっている。盤面によっては武器を2つ装備したミニオンが凄いダメージを叩き出すためこの名前で呼ばれるがコストがやたら高い破壊の鉄球を使われることはほぼない。重要パーツであるパパストルネコをフルで積み込む派と腐るから少し減らす派の対立で定期的にスレが荒れる。

ニートグロ遊び人グロ

攻撃対象ランダム遊び人ギガンテスでひたすら殴るだけのデッキ。小型のミニオンを並べられたらまわしげりやベギラマで減らせばよく、中型・大型同士の戦いならコスト比に優れている遊び人等が有利なのでどんな相手にも対応できる。運ゲーしか言えない決着の付き方の多さや戦い方の単純明快からパワー系池沼という蔑称もある。ニートと呼ばれるのは盤面を取りたい状況でも顔を殴る遊び人最初のうちニート扱いされていたから。

マダンテ

カードアドバンテージの高いカードで盤面を除去しつつ手札を魔法カードで埋めてから手札の魔法カードを全て捨てその枚数だけ威力の上がるマダンテを顔に叩き込むデッキコントロール色が強く防ぎようのない部分があるため嫌われている。

はぐれメガンテ

カード効果を受けないはぐれメタルメタルキングメガンテを使うと自分は無傷なのに盤面にだけダメージを与えられる現象を利用したデッキ。どとうのひつじパルプンテといった自爆的な全体除去を大量に加えて何度も盤面をリセットしてくるため萎えるので嫌われている。

引換券

断末魔雄叫びミニオンを呼んでくれるミニオンとほんの少しの除去カードで作られたアグロデッキ。いわゆるZoo。主に使われるのはライアン・5主人公カンダタ等であり名前の由来となったテリーは使われていない。単純明快デッキながら勝率非情に高くグッドスタッフ的な側面も強いことからデッキに入っているカードほとんどがナーフを望まれている。

ぼうけんのしょ

試合中にタイミングよく回線を切ることで試合無効にする戦術。それまでの苦労が水の泡になることからこう呼ばれる。強いデッキ教えろという質問に対して環境最強勝率100%のデッキとして紹介されることが多い。

2017-05-19

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。

目次 [非表示]

1 概要

2 平安初期の仏教

2.1 法相宗と徳一

2.2 天台宗最澄

3 論争の経緯

3.1 論争の発端について

3.2 著作応酬

4 最澄激昂の理由

4.1 最澄孤立

4.2 南都教団への対抗

4.3 中傷者徳一に対する怒り

4.4 蝦夷征討との関係

5 その後

6 注・出典

7 関連項目

8 参考文献

概要[ソース編集]

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便真実理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗根本経典である法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗声聞乗・縁覚乗)・大乗菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこ真実であると主張した。このように三乗一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

ただし、徳一と最澄の論争は三乗一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作執筆しており、これは徳一から批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗空海774年 - 835年)への論難である真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である

いずれにしろ論争は著作応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。

平安初期の仏教界[ソース編集]

奈良時代興隆したのは、法相宗華厳宗律宗などの南都六宗である本来南都六宗教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである

この時代日本における仏教は中国と同様、鎮護国家思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇737年 - 806年)が平城京から長岡京平安京遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家宗教として最澄天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教牽制する意図もあった。

法相宗と徳一[ソース編集]

日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国飛鳥法興寺でこれを広めた。

徳一は一説には藤原仲麻呂恵美押勝とも。706年 - 764年の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。

前述のごとく、徳一の著作ほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。

天台宗最澄[ソース編集]

天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。

最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇天台宗学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年帰国した。

帰国後、最澄桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである最澄さらに同じく入唐した空海師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教既得権益との対立を深めていた。

論争の経緯[ソース編集]

論争の発端について[ソース編集]

論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。

ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身鑑真弟子で、律宗僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要役割果たしていた存在であった[6]。

筑波山を開山し、会津拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。

著作応酬[ソース編集]

三一権実諍論に関する著作としては、

≪徳一側著作

『法華肝心』2巻

『法華権文』1巻

『中辺義鏡』20巻

『慧日羽足』3巻

『遮異見章』3巻

『義鏡要略』7巻?

法相了義灯』11巻

『通破四教章』1巻

最澄著作

『照権実鏡』1巻

『依憑天台集』1巻

守護国界章』9巻

『決権実論』1巻

『通六九証破比量文』1巻

『法華秀句』5巻

などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、

徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論

徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論

最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。

となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。

一連の論争の内容は難解で、一乗三乗の権実のみならず、教判論における法華経天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論のものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。

天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。

最澄激昂の理由[ソース編集]

下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。

最澄孤立[ソース編集]

最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海師事することになる。

最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年806年)に帰国していた。最澄空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海高雄山寺において灌頂を受け、正式空海弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。

しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さら最愛弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。

天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。

南都教団への対抗[ソース編集]

最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇設立など、天台宗確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗理論である徳一を説き伏せることは、天台宗南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。

中傷者徳一に対する怒り[ソース編集]

徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義のものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。

蝦夷征討との関係[ソース編集]

宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。

最澄東国に下った際に活動拠点としていたのは亡き道忠が活動拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野上野両国から陸奥出羽両国に対しては国司から課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗東国鹿島神宮香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗公認を得たばかりの最澄東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄東国行きに随行した弟子円仁下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。

これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[1]。天台教学中国に発祥し、入唐した最澄伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられた。

目次 [非表示]

1 日本天台宗

1.1 天台密教台密

1.2 四宗兼学

1.3 止観行

1.4 所依

1.5 主要寺院寺格

1.5.1 天台宗山門派

1.5.1.1 総本山

1.5.1.2 門跡寺院

1.5.1.3 大本山

1.5.1.4 別格本山

1.5.1.5 その他の寺院

1.5.2 天台寺門宗

1.5.3 天台真盛宗

1.6 その他天台系宗派

1.6.1 天台宗新宗教

1.7 教育機関

1.7.1 大学

1.7.2 天台宗中学校高等学校

1.7.3 養成機関

2 中国天台宗

3 韓国天台宗

4 社会運動

5 脚注・出典

6 関連項目

7 外部リンク

日本天台宗[編集]

正式名称天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後呼び名日蓮教学法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。

初め、律宗天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍日本に入った。次いで、伝教大師最澄767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである最澄特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。

この時代、すでに日本には法相宗華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄日本帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問修行を修めるという革新的最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇勅許下り名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。

天台密教台密)[編集]

真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。

当初、中国天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。

しか日本天台宗宗祖最澄伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しか最澄帰国して一年後に空海弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。

はいえ、最澄自身法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教系譜は、円仁円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。

なお真言密教東密)と天台密教台密)の違いは、東密大日如来本尊とする教義を展開しているのに対し、台密あくまで法華一乗の立場を取り、法華経本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである

四宗兼学[編集]

また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国天台宗とは違い、最澄が開いた日本天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。

止観行[編集]

天台宗修行法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在日本天台宗修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在仏性が宿るという天台本覚思想確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗浄土宗浄土真宗臨済宗曹洞宗日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。

所依[編集]

法華経

涅槃経

大品経

大智度論

主要寺院寺格)[編集]

天台宗山門派)[編集]

総本山[編集]

比叡山延暦寺滋賀県大津市

門跡寺院[編集]

滋賀院(大津市

妙法院京都市東山区

魚山三千院京都市左京区

青蓮院京都市東山区

曼殊院京都市左京区

毘沙門堂京都市山科区

大本山[編集]

関山中尊寺岩手県西磐井郡平泉町

日光山輪王寺栃木県日光市

東叡山寛永寺東京都台東区

定額山善光寺大勧進長野県長野市

別格本山[編集]

毛越寺岩手県西磐井郡平泉町

瑞国海岸観音寺宮城県気仙沼市

正覚山蓮前院安楽寺茨城県常総市

星野山中院(埼玉県川越市

狭山山不動寺(埼玉県所沢市

大鱗山雲洞院天龍寺埼玉県飯能市

浮岳山昌楽院深大寺東京都調布市

向山常楽寺長野県上田市

宝積山光前寺(長野県駒ヶ根市

龍谷山水間寺大阪府貝塚市

書写山圓教寺兵庫県姫路市

大山寺鳥取県大山町

山大興善寺(佐賀県基山町

六郷満山両子寺(大分県国東市

その他の寺院[編集]

谷汲観音寺北海道河東郡音更町

青柳山談義堂院龍蔵寺(群馬県前橋市

星野山喜多院(埼玉県川越市

谷汲華厳寺岐阜県揖斐郡揖斐川町

清香寂光院京都市左京区

根本山神峯山寺(大阪府高槻市

三身山太山寺兵庫県神戸市

補陀落山長尾寺香川県さぬき市

清水観世音寺福岡県太宰府市

海山大恩教寺釈迦院(熊本県八代市

阿蘇山西巌殿寺(熊本県阿蘇市) 

王寺熊本県山都町宮司豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である) 

天台寺門宗[編集]

総本山 長等山園城寺三井寺)(滋賀県大津市

天台真盛宗[編集]

総本山 戒光山西教寺(滋賀県大津市

その他天台系宗派[編集]

聖観音宗 

浅草寺東京都台東区

和宗

四天王寺

本山修験宗寺門派系)

聖護院京都市左京区

金峯山修験本宗

金峯山寺奈良県吉野郡吉野町

浄土真宗遣迎院派

遣迎院京都市北区

妙見宗

本瀧寺大阪府豊能郡能勢町

粉河観音宗

粉河寺(和歌山県紀の川市粉河

善峰観音宗

善峰寺京都府京都市西京区

天台宗新宗教[編集]

念法眞教

孝道教団

鞍馬弘教

教育機関[編集]

大学[編集]

大正大学

天台宗中学校高等学校[編集]

比叡山中学校・高等学校

駒込中学校・高等学校

養成機関[編集]

叡山学院

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。

開基(創立者)は大友与多王、本尊弥勒菩薩である日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである三井の晩鐘」でも知られる。

なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。

目次 [非表示]

1 歴史

2 伽藍

3 黄不動

4 文化財

4.1 三井寺秘仏

4.2 国宝

4.3 重要文化財

4.4 その他

5 御詠歌

6 前後札所

7 交通

8 周辺

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク

歴史[編集]

三井寺7世紀大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学円珍天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺平安時代以降、皇室貴族武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。

三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」(重文

三井寺起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子大友皇子弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱大友皇子敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在三井寺には創建時に遡る遺物ほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。

三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認正規の僧となり、円珍改名した。その後、比叡山規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教密教に加えて修験道を兼学する円珍伝法は、これによって政府公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍天台宗最高の地位である天台座主就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。

円珍の没後、比叡山円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀まりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

三井寺は、平安時代には朝廷貴族尊崇を集め、中でも藤原道長白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力から寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家信仰も集めた。源氏は、源頼義三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代尊崇が篤く、源頼政平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝意思を継いだ北条政子もこの方針継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺僧侶として育てられていた源頼家の子公暁叔父である源実朝暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当就任すると再興され、続く南北朝内乱でも北朝足利氏を支持したことから室町幕府保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺勢力牽制するために園城寺に対して一定支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。

文禄4年(1595年)、三井寺豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領没収事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである

明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。

円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれ出自壬生氏。

目次 [非表示]

1 円仁人物

2 遣唐使の渡海の困難

3 天台山を目指すが…

4 在唐新羅社会の助け

5 五台山巡礼

6 長安への求法

7 帰国の旅の苦難

8 関連文献

9 脚注

10 関連項目

11 外部リンク

円仁人物像[編集]

794年延暦13年)下野国都賀壬生町現在壬生寺)に豪族壬生氏(壬生君:毛野氏一族)の壬生首麻呂の子として生まれる。兄の秋主から儒学を勧められるが早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄理解者であって、多くの弟子最澄師事させている。

※生誕地については

美加保ノ関(藤岡町三鴨の都賀字館)

手洗窪(岩舟町下津原

壬生寺壬生町

などの説があり、順徳天皇撰による「八雲御抄」では、みかほの関、みかほノ山での誕生が記されている。

また、美加保乃関は万葉集歌人によって和歌も詠まれており

下つ毛野 みかもノ山の越奈良の須 目ぐはし頃は 多が家かもたむ

あずま路の 人に問はばや みかもなる 関にもかくや 花は匂うと

石ふまぬ 安蘇の川原に 行き暮れて みかほの関に 今日やとまら

下野や 安蘇の川原に 行きくれば みかもの崎に 宿をかりなん

この他、近くにある円仁ゆかりの安蘇の川原は、みかほの関を沼越しに眺める名所として多くの和歌が詠まれている。

安蘇山の麓に生まれたという説では、慈覚大師円仁の出生については「桓武天皇延暦13年、廣智菩薩大慈寺住職とき南方に紫雲がたなびき、尋ねていくと安蘇山麓現在の三毳山のふもと岩舟町下津原手洗窪)…下津原の手洗窪は「慈覚大師誕生の地」として栃木市史跡指定されている。

15歳のとき、唐より最澄帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい最澄師事する。奈良仏教の反撃と真言密教興隆という二重の障壁の中で天台宗確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。

814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。

性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。

遣唐使の渡海の困難[編集]

836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。志賀島から揚州東梁豊村まで8日間で無事渡海する(しかし「四つの船」のうち1艘は遭難している)。円仁の乗った船は助かったものの、船のコントロールが利かず渚に乗り上げてしまい、円仁はずぶ濡れ、船は全壊するという形での上陸だった(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

上陸である唐の開成4年7月2日日本の承和5年7月2日と日付が一致していた。唐と日本で同じ暦を使っているのだから当然ではあるが、異国でも日付が全く同じであることに改めて感動している(『行記』838年(開成4年)7月2日条)。

天台山を目指すが…[編集]

最後遣唐使として唐に留学するが、もともと請益僧(入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期のもの)であったため目指す天台山へは旅行許可下りず(短期の入唐僧のため日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。そこで円仁遣唐使一行と離れて危険を冒して不法在唐を決意する(外国人僧の滞在には唐皇帝勅許必要)。天台山にいた最澄の姿を童子(子供)の時に見ていたという若い天台僧敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになる。海州東海県で遣唐大使一行から離れ、一夜を過ごすも村人たちに不審な僧だと警戒され(中国語通じず、「自分新羅僧だ」と主張しているが新羅言葉でもないようだ、怪しい僧だ)、役所に突き出されてしまう。再び遣唐大使一行のところに連れ戻されてしまった(『行記』839年(開成4年)4月10日条)。

在唐新羅社会の助け[編集]

当時、中国山東半島沿岸一帯は張宝高をはじめとする多くの新羅人海商が活躍していたが、山東半島新羅人の港町・赤山浦の在唐新羅社会の助けを借りて唐残留成功不法在留者でありながら通行許可証を得る等)する。遣唐使一行から離れ、寄寓していた張宝設立の赤山法華院で聖林という新羅から天台山の代わりに五台山を紹介され、天台山はあきらめたが五台山という新たな目標を見出す。春を待って五台山までの約1270キロメートルを歩く(『行記』840年(開成5年)2月19日4月28日の58日間)。

五台山巡礼[編集]

840年、五台山巡礼する。標高3000mを超す最高峰の北台にも登山する(47歳)。五台山では、長老の志遠から「遠い国からよく来てくれた」と温かく迎えられる(『行記』840年(開成5年)4月28日条)。五台山を訪れた2人目の日本人だという(1人目は、最澄とともに入唐し、帰国せず五台山客死した霊仙三蔵)。法華経密教整合性に関する未解決問題など「未決三十条」の解答を得、日本にまだ伝来していなかった五台山所蔵の仏典37巻を書写する。また、南台の霧深い山中で「聖燈」(ブロッケン現象か。『行記』840年5月22日条、6月21日条、7月2日条)などの奇瑞を多数目撃し、文殊菩薩の示現に違いないと信仰を新たにする。

長安への求法[編集]

当時世界最大の都市にして最先端文化の発信地でもあった長安へ行くことを決意し、五台山から1100キロメートルを徒歩旅行する(53日間)。その際、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、金剛界大法を授き、青竜寺の義真からも灌頂を受け、胎蔵界・盧遮那経大法と蘇悉地大法を授く。また、金剛界曼荼羅長安絵師・王恵に代価6千文で描かせる。

台密にまだなかった念願の金剛界曼荼羅を得たこの晩、今は亡き最澄が夢に現れた。曼荼羅を手に取りながら涙ながらに大変喜んでくれた。円仁は師の最澄を拝しようとしたが、最澄はそれを制して逆に弟子円仁を深く拝したという(『行記』840年10月29日条)。描かせていた曼荼羅が完成する(『行記』840年(開成5年)12月22日条)。

しばらくして、唐朝帰国を百余度も願い出るが拒否される(会昌元年8月7日最初)が、その間入唐以来5年間余りを共に過して来た愛弟子・惟暁を失う(『行記』843年(会昌3年)7月25日条。享年32)。また、サンスクリット語を学び、仏典を多数書写した。長安を去る時には423部・合計559巻を持っていた(『入唐新求聖教目録』)。そして、842年(会昌2年)10月、会昌の廃仏に遭い、外国人僧の国外追放という予期せぬ形で、帰国が叶った(会昌5年2月)。

帰国の旅の苦難[編集]

当時の長安の情勢は、唐の衰退も相まって騒然としていた。治安悪化不審火も相次いでいた。その長安の街を夜半に発ったが(曼荼羅や膨大な経巻を無事に持ち帰るため)、夜にもかかわらず多くの長安住人の送別を受けた。送別人の多くは、唐高官の仏教徒李元佐のほか、僧侶及び円仁長安暮らしを支えた長安在留新羅人たちが主であった。餞けとして絹12丈(30m余)を贈ってくれた新羅人もいた(845年(会昌5年)5月15日)。歩くこと107日間、山東半島新羅人の町・赤山まで歩いて戻った[注 1]。

この際、新羅人の唐役人にして張宝高の部下の将・張詠が円仁のために唐政府の公金で帰国船を建造してくれたが、密告に遭い、この船では帰れなくなる。

円仁が無事生きている」という情報日本に伝わっていたらしく、比叡山から弟子の性海が円仁を迎えに唐にやってきて、師と再会を遂げる。楚州の新羅人約語(通訳のこと)劉慎言に帰国の便船探しを頼み(彼は新羅語・唐語・日本語を操れるトライリンガルであった)、彼の見つけた新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。円仁は劉慎言に沙金弐両と大坂腰帯を贈っている。朝鮮半島沿岸を進みながらの90日間の船旅であった。新羅船は小型だが高速で堅牢であることに驚いている。博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。

この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワー研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。

目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺松島瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草浅草寺もそのひとつ岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。

後に円仁派は山門派と称された。(円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。

鎌倉時代僧侶・一向俊聖(暦仁2年(1239年)? - 弘安10年(1287年)?、以下「一向」と表記)を祖とする宗派

一向は筑後国草野家の出身で、はじめは浄土宗鎮西派西山派という異説もある)の僧侶であった。後に各地を遊行回国し、踊り念仏天道念佛を修し、道場を設けた。近江国番場蓮華寺にて立ち往生して最期を迎えたという。

以後、同寺を本山として東北関東尾張近江に一向の法流と伝える寺院分布し、教団を形成するようになった。鎌倉時代末期に書かれた『野守鏡』にはこの教団を一向宗と呼んで、後世の浄土真宗とは全く無関係宗派として存在している事が記録されている。

一向と一遍智真は同時期の人物であり、ともに遊行や踊り念仏を行儀とする念仏勧進聖であることから、一向の「一向宗」は一遍の「時衆」と混同されるようになっていく。『天狗草子』に記された「一向宗」は、一遍の衆を指したものである(一向俊聖の項を参考)。たしかに一向も一遍と同様に浄土宗の影響を受けて自己教義確立させたものであるが、全く別箇に教団を開いたものである。また、一遍と違い一向の教えは踊り念仏を行うとはいえ、念仏のもの特別宗教的意義を見出す事は少なかったとされている。ところが時代が降るにつれ、一向の教えが同じ踊り念仏一遍の教えと混同され、更に親鸞の興した浄土真宗とも混ざり合うという現象が見られるようになる。特に一向の教義が早い段階で流入していた北陸地方ではその傾向が顕著であった。

浄土真宗本願寺八世の蓮如北陸地方活動の場を求めた時に、布教対象としたのはこうした一向や一遍の影響を受けて同じ浄土教の土壌を有した僧侶信者であり、蓮如はこれを「一向衆」(「一向宗」ではない)と呼んだ。蓮如布教時に、一向宗時宗支配層との結びつきを強め、民衆から離れ、一向宗民衆蓮如教団になびいた結果、一向宗と呼ばれるにふさわしかったともいわれる[1]。本願寺及び蓮如北陸における成功の背景にはこうした近似した宗教的価値観を持った「一向衆」の存在が大きいわけであるが、同時に蓮如はこれによって親鸞の教えが歪められてしまう事を恐れた。さらに別の事由から宗派より「一向宗」と呼称されていたこと(後述)も彼の憂慮を深めた。文明5年(1473年)に蓮如によって書かれた『帖外御文』において「夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是則一向宗なり」とし、一向宗が一向の教団でもあることを明記して本願寺門徒一向宗名前を使ったもの破門するとまで書かれているものの、ここでも一遍と一向の宗派混同されている。

江戸時代に入ると、江戸幕府は本末制度の徹底を図り、系譜を異にするさまざまな念仏勧進聖が、清浄光寺総本山とする単一宗派時宗」の管轄下に編成された。この際、一向の流派独立した宗派とは認められず、「一向宗」の呼称を用いる事も禁じられた。『時宗要略譜』によると、時宗十二派のうち、一向派と天童派が一向の法脈を受け継ぐものとされている。一向派(かつての一向の一向宗)は再三にわたり時宗から独立を求めたが実らなかった。

明治時代になって、中期に一向派から独立転宗を唱える者が出現し、一向派は浄土宗宗務院に「所轄帰入願」を、時宗教務院に「時宗一向派独立認可願」を提出した。しかし一向派の独立・転宗を認めてしまうと、明治以降衰退著しく、時宗寺院が少ない上に、さらに減少することになるので、時宗当局は、これを認めようとしなかった[2]

大半の寺院時宗を離れ、一向の母体であった浄土宗帰属するようになったのは、昭和時代に入った1943年の事であった。

ゆかり寺院[編集]

番場蓮華寺滋賀県米原市

佛向寺(山形県天童市):現在でも踊躍念仏を伝える。

浄土真宗の「一向宗」[編集]

浄土真宗、ことに本願寺教団を指す呼称。教団自身はこの名を自称しなかったので注意が必要である

「一向」とは「ひたすら」「一筋」という意味であり、「一つに専念すること」を意味している。『仏説無量寿経』に「一向専念無量寿仏」と記されていることから、とくに阿弥陀仏名号を称えることと解釈され、親鸞宗祖とする教団(本項では「真宗教団」とする)を他の宗派から指す呼称となった。とくに浄土宗は、親鸞の教団が「浄土真宗」と自称することを嫌い、「一向宗」の称を用いた。

したがって「一向宗」は真宗教団の門徒から見て正しい呼称ではなく、また一向俊聖の「一向宗」と混同される事から望ましい呼び方でもなかった。だが、中世において同じ念仏を唱える浄土教宗派であった両派が混同され、更に時衆などとも漠然と同一のものとして捉えられるようになっていった。蓮如は前述のように「他宗派の者が(勘違いして)一向宗と呼ぶのは仕方ないが、我々浄土真宗門徒一向宗自称してはいけない」という主旨の発言をして違反者破門するとまで述べているが、逆に言えばこれは、真宗教団の門徒ですら「一向宗」を自称する者がいた事を意味する。

こうした指導により教団内部では「一向宗」の語は正式に使われることはなくなり、「浄土真宗」または「真宗」と称するようになった。しかし、門徒たちを中心とする一揆が「一向一揆」と呼ばれるなど、真宗教団のことを教団外から一向宗」と呼ぶ風潮は収まる事はなかった。

江戸幕府は、真宗教団を指す名称として「一向宗」を公式に用い続けた。この経緯としては、徳川家康三河一向一揆により家中統制で苦しめられたこと、徳川将軍家が(真宗教団が「浄土真宗」を称することを望まない)浄土宗信仰していることが挙げられる。これに対して、真宗教団側は本願寺の分裂などの影響があり、長らく具体的な対応が取られることがなかった。

右筆(ゆうひつ)は、中世近世に置かれた武家秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。

目次 [非表示]

1 概説

2 鎌倉幕府室町幕府

3 織豊政権

4 江戸幕府

5 関連項目

6 関連作

概説[編集]

初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくは無かった。そこで武士の中には僧侶や家臣の中で、文字を知っている人間書状文書を代筆させることが行われた。やがて武士地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆誕生し、右筆文書作成執筆を行わせ、武家はそれに署名花押のみを行うのが一般的となった。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書一般的であった公家とは大きく違うところである武家が発給した文書場合文書作成のもの右筆によるものでも署名花押が発給者当人のものであれば、自筆文書と同じ法的効力を持った。これを右筆書(ゆうひつがき)と呼ぶ(もっとも、足利尊氏のように署名花押まで右筆に任せてしま特殊例外もあった)。

なお、事務煩雑化すると、右筆正式手続を経て決定された事項について自らの職権の一環として文書作成署名を行い、これに主君発給文書と同一の効力を持たせる例も登場する。こうした例は院宣綸旨などに早くから見られ、後に武家の奉書や御教書などにも採用された。

現在では天皇皇后文章の代筆をする宮内庁文書専門員(中島司有、佐伯司朗といった書家が務める)は「祐筆」と呼ばれることがある。

鎌倉幕府室町幕府[編集]

源頼朝鎌倉幕府の原点である鎌倉政権を打ち立てた時に、京都から下級官人が招かれて事務的業務を行ったが、初期において右筆を務めていたのが大江広元である。後に、広元が公文所政所において行政に専念するようになると、平盛時(政所家事)・藤原広綱・藤原邦通らが右筆を務めた。

その後、将軍執権のみならず、引付などの幕府の各機関にも右筆が置かれ、太田氏や三善氏などの官人末裔がその任に当たるようになった。基本的室町幕府もこの制度を引き継いだが、次第に右筆の中から奉行人に任じられて発言力を増大させて、右筆方(奉行衆)と呼ばれる集団構成するようになった。

なお、室町幕府では、行政実務を担当する計方右筆公文書作成担当する外右筆(とのゆうひつ)・作事造営を担当する作事右筆などと言った区別があった。

織豊政権[編集]

戦国時代に入ると、戦時必要文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定過程から関与する場合もあった。豊臣政権五奉行であった石田三成長束正家増田長盛は元々豊臣秀吉右筆出身であった。他に右筆衆として著名なもの織田政権の明院良政・武井夕庵・楠長諳・松井友閑・太田牛一、豊臣政権の和久宗是・山中長俊・木下吉隆・安威了佐などがいる。

なお、後述のように豊臣政権の没落後、右筆衆の中には徳川政権によって右筆に登用されたものもおり、右筆衆という言葉江戸幕府でも採用されている。

江戸幕府[編集]

戦国大名としての徳川氏にも右筆存在したと考えられるが、徳川家康三河時代右筆家康勢力拡大と天下掌握の過程奉行代官などの行政職や譜代大名などに採用されたために、江戸幕府成立時に採用されていた右筆は多くは旧室町幕府奉行の子弟(曾我尚祐)や関ヶ原の戦い東軍を支持した豊臣政権右筆衆(大橋重保)、関東地方平定時に家康に仕えた旧後北条氏右筆久保正俊)などであったと考えられている。

徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩から将軍就任した徳川綱吉は、館林藩から自分右筆江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書作成管理を行う既存の表右筆将軍の側近として将軍文書作成管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆将軍以外の他者私的関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆承認を得ないと、文書老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中若年寄などから上げられた政策上の問題将軍の指示によって調査・報告を行った。このために、大藩の大名江戸城を陰で仕切る大奥の首脳でも奥右筆との対立を招くことは自己地位を危うくする危険性を孕んでいた。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆待遇奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物・朱印状などの一般行政文書作成や諸大名の分限帳や旗本御家人などの名簿を管理した。

2017-05-08

アイデンティティテーマアニメ多すぎでは?

だいたいどのアニメもどこかでアイデンティティを扱ってる気がする。

たとえば君らが大好きなエロマンガ先生なんてモロそうだよな。

自分自分でいられる唯一の場所と信じていた自分の部屋とネット世界に引きこもっていた妹が、外の世界でも自分自分でいられるような生きる目的を見つけて兄という依存相手から少しずつ卒業しようとする話、うんうんどう考えてもアイデンティティテーマだ。

これまた君らが好きそうなアリスと蔵六もそうだよな。

アリスの夢、組織の道具として人形のように生きていた女の子自我に目覚め、自分わがままによって世界侵食していく事を嗜められながら世界との付き合い方、道具としてではない1人の人間としての生き方を探していく話、うんうん完全にアイデンティティテーマ

もうね、マジね、アイデンティティテーマにしすぎだろアニメ業界

それどころか名前IDとか入ってる作品である始末だぜ。

どんだけアイデンティティの話したいんだよアニメ業界

それしかする話ないのかってレベル

つうかマジでアイデンティティ無関係アニメあんの今期?

考えても思いつかんし適当10名前言ってみるか。

ロクアカ はい駄目世界自分の在り方とか個性大事にとか完全にアイデンティティ

終末 兵器自分人間として扱い始める話とか完全にアイデンティティ

サクラクエスト 自分しか出来ないことなんてあるのかみたいな話しちゃって完全にアイデンティティ

マキャヴェリズム 型に嵌められた生き方を拒絶ってそれはもう完全にアイデンティティ

僧侶 僧侶という枠組みの外にあるものはやっぱり完全にアイデンティティ

サクラダ 能力者系ってアイデンティティ要素どうしても濃くなるよね

ヒロアカ みんな個性的アイデンティティ

カブキブ キャラ付けが余りにもアイデンティティだろむせる

アトム 自我テーマとかここまで完全にアイデンティティだと逆に個性出るレベル

プリパラ オシャレなあの子マネするより自分らしさアイデンティティ

うん、やっぱどれもアイデンティティテーマみたいだね。

アニメ業界は本当にいつまでアイデンティティの話をする気なんだろうか。

2017-04-26

寺の世襲という問題の難しさ

http://anond.hatelabo.jp/20170425210458

読んだです。私も現役の住職です。この手の話はよく聞きます

一番エグいと思ったのは、男子後継者がいないので養子をとって寺の娘と結婚させ、子供が生まれてしばらくしたら離婚して養子を追い出して、住職から孫に継がせるという話。

誰が聞いてもエグすぎると思うんだけど、こんなことは実際に横行しているし、寺だけでなく教団の要職なんかもデカい寺の世襲坊主で寡占している現状もある。

後継者がいない場合は親戚寺院の子弟とかで補充するのでそこらじゅう親戚だらけ。議会議員会派政策関係なく、親戚の多い人が当選する。

教団職員宗門大学ゼミ閥&世襲の寺の子弟で占められるので、息が詰まりそうなほど集団の同質性が強く、パワハラが横行。うつ病休職する人が後を絶たない。

この外から人を入れる努力を全くしないで、世襲血縁でギトギトに利権を分配している組織が、「差別をなくそう」とかキラキラした目をして社会運動しているわけです。笑っちゃいますよね。ワタクシには全く理解できません。なんだか頭がクラクラしますよ。

そういやこんなニュース話題になってますな。

http://www.sankei.com/west/news/170426/wst1704260015-n1.html

うちの宗派の話じゃないけど、まあどこも似たり寄ったりです。

で、じゃあ、世襲が全くダメなのかというと、そうとも言えないような現状もある。

お寺に入りたいみたいな人は確かにいます。でもね、そういう人って結構お寺を選ぶんですよ。田舎の食っていけないようなお寺に入る人なんてめったにいません。というか、紹介しても断られる。まあそりゃ、食べていけない職業に自らつく人なんていませんわな。

一方、世襲の人はお寺を選ぶなんて出来ない。貧乏寺だろうと田舎だろうとそこに生まれ自分運命を引き受けて、なんとか他に仕事を見つけて兼業で頑張ってる訳です。実際の所日本仏教ってそういう人たちが支えています月曜日から金曜日まで働いて、土日で法事をこなして、お寺の行事とき会社を休んで、会社員住職自分ボーナス退職金を寺の普請につぎ込んだりする。頭が下がります

確かに坊さんらしくはないかもしれないけど、人の中に入って人と同じように働いて教えを残している人たちで、そういう所に「寺生まれじゃないけど、お寺をやりたいんです」とキラキラした人が入ってくるかというと、なかなか入ってこない。

うちの寺もそうなんだけど、日本のお寺の大部分は「食べていけないお寺」なんですよ。そんなの世襲じゃなければ継ぐ人なんておらんよねとは、やっぱり思いますよ。

記事増田は、お寺を兼務している人が在家の人に譲らないと言って嘆いていたけど、実際はそうでもないですよ。現状を知ったら尻込みして来ないんですよ。

あ、ちなみに僕は在家出身、つまり寺生まれじゃない僧侶です。だからこの世襲ドロドロの寺社会で相当嫌な思いもしてきたし、今もしてる。まあでもね、経済的には全く得にならん、というか思いっき自分人生を縛ってる寺ってものを、それでも代々守ってきたお寺だから仏教は素晴らしいからって継いで残してきた人は尊敬していますよ。

世襲なんて大嫌いだけどさ、すこし世襲の肩も持ちたくなったので書いてみた。

http://anond.hatelabo.jp/20170425210458

日蓮正宗のワイ高みの見物。

檀家制度で骨抜きの葬式仏教は生臭いですね。

増田僧侶さんはそうした宗派価値を信じれるの?

http://anond.hatelabo.jp/20170425210458

世の中には離婚して再婚するハゲもいるし、二股をかけて「自分日本仏教を正したい」とか言ってる肩書だけの律僧もいる。

披露宴新郎袈裟を着けて登場、嫁さんは白無垢の角隠しを着けて現れた時は何の冗談かと思ったよ。

それはそれはアニメ映画世界の中に飛び込んだ気分だったぜ。

付き合いもあるから「おめでとう」と声をかけたけど複雑な気分だったな。

明らかに新郎は嫁側の金目当てだったし。

仕事の付き合いで行った別のハゲ披露宴は、グランヴィアホテルを使って引き出物カルティエとかね。

袈裟を着けて飲酒して、袈裟を着けて嫁を娶って僧侶なんだもんな。

俺も楽してレクサス乗りてーなー。

あーおめでたいね。

日本仏教は本当にダメだわ。

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