はてなキーワード: 表現とは
○選シリーズも下火になってきたところで投下するよ。
元ネタ1:
https://anond.hatelabo.jp/20241012181121
元ネタ2:
https://anond.hatelabo.jp/20241026213447
最初はファミコンだけで10選を作ろうとしたけど、方針を変えた。なぜならファミコンの初期にはアーケードからの移植作が多く、それらはどちらかというとアーケード作品として評価すべきだからだ。
ついでに他のハードも含めて、同時代のコンピュータゲームすべての中から選出することにした。なおシリーズ物は一作のみとする。ゲーム史のカンブリア紀におけるレジェンド級の作品を見て行こう。
アメリカのアタリ社が開発し、世界で初めて商業的に大ヒットをしたゲーム。コンピュータゲームが一大産業として成立する道を開拓し、これをきっかけとしてアメリカでアタリの時代が花開くことになる。
日本では翌年にタイトーとセガがポンのコピー品を作り、これが日本初のゲームとなった。
アタリのヒット作第二弾。いわゆるブロック崩し。これのリメイク版にあたるのがアルカノイドで、現代に至るまで古典的なゲームの一つとして知られている。
日本ではタイトーとナムコが正規のライセンスを持って生産していたが、それ以外にも日本の多数のメーカーがこれを模倣したようなゲームを作り、のちに日本のゲーム産業が花開くきっかけとなった。
いまでは有名なメーカーが、正規のライセンスもなしにコピー品を作っていたという、大らかな時代でもあった。後にタイトーが、これをもとにスペースインベーダーを作ることになる。
初の日本のメーカーによるオリジナルの大ヒット作であり、日本で初めて社会現象を巻き起こしたゲーム。それまでゲームに縁のなかった日本のお茶の間にまで、コンピュータゲームを知らしめた作品。
日本のアーケード史上最大のヒット作といわれ、喫茶店やスナックのテーブルがこのゲームのテーブル型筐体に置き換えられるほどだったという。
数が減るごとに動きが速くなる敵、敵がこちらを攻撃してくる緊張感、たまに出現して撃ち落とすとボーナスの入るUFOなどアドレナリンの分泌を促す仕掛けが満載で、ゲームの面白さの本質が詰まっている。
単独のゲームソフトではないが、シリーズまとめてランクインとする。
初の大ヒットした携帯ゲーム機で、特に低年齢層を中心に爆発的にヒットした。当時のゲームセンターは不良の溜まり場で子供には出入りしにくく、据え置きの家庭用ゲーム機もあったが値段が高く、
そんな中で比較的安く買えてどこでも手軽に遊べるゲーム&ウオッチは子供向けのゲーム機としてうってつけであった。
横井軍平の代表作の一つであり、シャープと提携して電卓の技術で作られた玩具。この横井軍平とシャープのタッグは、のちにゲームボーイを生み出すことになる。
ナムコの躍進のきっかけとなった作品にして、日本のアーケードの大ヒット作第二弾。
敵の種類ごとに異なる思考アルゴリズム、敵との強弱関係を逆転させるパワーエサ、緊張を緩めるコーヒーブレイクなどゲームを飽きさせない工夫が随所に施され、その工夫の数々は多くのクリエイターに影響を与えた。
日本のみならずアメリカでも大ヒットを飛ばし、日本のゲームが世界で通用することを知らしめた。80年代のゲームの中心地がアメリカから日本に移っていく、その象徴となる作品。
ウルティマと共に、すべてのコンピュータRPGの始祖と言っていい作品。もともと机上で行われていたTRPGであるD&Dをコンピュータ上に移植するというアプローチで生まれた、他のゲームとはだいぶ出自の異なる作品。
ゲームシステムの多くはD&Dに由来しているが、移動画面と戦闘画面の切り替えによって進めるゲーム進行、コマンドを選ぶことで進める戦闘システムなどコンピュータRPGの基本的なシステムが完成されており、
ウルティマと共に、後のドラクエやFFに大きな影響を与えた。堀井雄二も坂口博信もこのゲームをやり込んだという。
スペースインベーダー、ギャラガと続くシューティングゲームの系譜を完成させた作品。初めて隠れキャラを採用した作品として知られ、ゲームにおける「隠し要素」の祖ともいえる。
グレーのグラデーションで描かれた光沢のある敵のデザイン、航空写真のような森、海、道の風景は、真っ黒な背景に簡素なグラフィックのゲームが多かった時代に圧倒的なクオリティを誇っていた。
何度でも繰り返し遊びたくなる仕掛け、背景の物語の神秘性と相まって、多くの人を熱狂させた。
説明不要、宮本茂の生み出したゲーム黎明期の最高傑作の一つである。
その画期性はググればいくらでも出てくるのだが、改めて分析しても同時代の中で突出した存在である。
どこまでも広がる世界の解放感、至るところに隠されたアイテムやボーナスステージ、操作に習熟するごとに感じられる上達の喜び、初心者が楽しみながら悔しがりながら上達できるレベルデザイン、
どこを取ってもオーパーツのようなゲームであり、いまだにゲームの古典的教科書の一つである。
アーケードからの移植作が多かった時代に、この作品は「ファミコンでしか遊べない大ヒット作」であり、これ以降ゲームの主戦場はアーケードから家庭内に移ることになる。(ゲームセンターに風営法が適用されたことも影響している。)
ウィザードリィやウルティマを元に、日本人にはとっつきにくかったRPGを日本人向けに大幅にアレンジして生まれた作品。
これ以前にも日本のメーカーからRPGはいくらか出されていたが、ドラクエの爆発的ヒットを元に、日本独自のRPG=JRPGの市場が開拓されることになる。
とっつきにくい要素を排除するために、元のTRPGにあったリアリティを大きく削ぎ落したりしているため、当時のTRPG界隈などからは批判も受けたようであるが、そうでもしなければこのゲームが国民的作品になることはなかっただろう。
反面、そのあまりにも日本向けに特化しすぎたアレンジが仇となり、海外展開にはあまり成功していない。
ドラクエが生み出した(時におかしな)JRPGの「定番」「お約束」は数知れない。その影響はゲームだけに留まらず、西洋ファンタジーを題材とした漫画やラノベ等にもおよび、今日に至るまでその影響を与え続けている。
宮本茂の最高傑作第二弾。スーパーマリオとはまた違った方向性で世界の広さを表現した、知恵と工夫と探索のゲーム。
このシリーズは極めて神がかったバランスの上に成り立っており、簡単に模倣できる作品ではないため、直接のフォロワーとなる作品はあまり現れてはいない。
しかしゼルダシリーズの魂とでも呼ぶべき、閃きと発見の楽しさは形を変えて多くのゲームに受け継がれている。それはダンジョンの中のちょっとしたパズルや謎解きだったり、アイテムの入手によって切り拓く道だったりするだろう。
近年のインディーズ市場において、ゼルダシリーズから影響を受けたようなゲームが多数見られることからもその影響力の大きさが伺える。
◆◆◆
以降は選外となった作品。
世界初のコンピュータゲームと呼ばれるものの一つ。オシロスコープとアナログ機器で作られたゲームであり、正確にはコンピュータゲームと言えるのかも分からない。
研究所の見学者に大評判だったが、その後忘れ去られ、後のゲームには影響を与えていないという。時代を先取りしすぎた作品。
学生サークルが開発し、商業的に成功した作品。いわば同人ゲームの草分けのようなものである点に着目したい。アマチュアが作ったゲームで初めてヒットした作品といっていいのではないか。
ローグライクと呼ばれるジャンルの始祖となった作品。D&Dから影響を受けて作られた探索ゲームであり、実はウィザードリィ、ウルティマよりも古く、最古のコンピュータRPGの一つに数えてもいいかもしれない。
コンピュータRPGの始祖の一つで、ウィザードリィと共に後のドラクエやFFに大きな影響を与えた。2D見下ろし型のフィールドマップは、このゲームが元祖である。
正直10選に入れたかったが、宮本茂多すぎやろと思って外すことにした。
宮本茂の初のヒット作にして、後に世界的大スターとなるマリオのデビュー作。コンパクトな画面に詰め込まれたジャンプアクションで、後のスーパーマリオにつながるようなアイディアが、すでに多数詰め込まれている。
テキストアドベンチャーの傑作で、堀井雄二の原点。原作はPC版だが、どちらかというとファミコン版の方に着目したい。
コマンドを選んで進めるというファミコン版のスタイルはドラクエの原点ともいえ、このゲームの開発で得た知見はドラクエの開発に大いに影響したことだろう。
最も知られているのはゲームボーイ版だが、最初に作ったのは旧ソ連の科学者である。
ゲームボーイ版の方は「ゲームボーイ史上、もっとも重要なゲーム10選」に選出されているのでこちらはあえて原作をチョイス。純粋なパズルでこれだけ人を没頭させるものは他にないだろう。
光栄の歴史シミュレーションゲーム。この2年前に「信長の野望」が発売されており、歴史シミュレーションゲームとして最初にヒットしたのはそちらであるが、俺は三國志の方を評価したい。
これは歴史のifを楽しむゲームであり、人材登用のシステムによって史実では敵だった人物を部下にするなどして、夢のドリームチームを組むという楽しみ方ができる。
歴史を題材としたゲームでありながら歴史を大胆に改変してもいいという発想が大きな魅力につながり、こうした発想は現在の歴史物のゲームにも影響を与えている。
世界初の体感型ゲームにして、セガの体感ゲームシリーズ第一弾。バイク型の筐体にまたがり、身体を傾けて操作するバイクレースゲーム。
ゲームの主戦場がアーケードからファミコンに移る中で、そのアーケードでしか実現不可能な臨場感が注目された。こうした大規模なギミックは、後にアーケードが復権する鍵の一つとなる。
ドラクエ以前の日本のRPGで大きくヒットした作品。日本のPCゲームで最も売れた作品とされ、ファミコンともアーケードとも異なるPCゲーム市場を先導した。
コナミを代表するシリーズの一つとなった作品。任天堂のメトロイドと合わせ、メトロイドヴァニアと呼ばれるジャンルを形成しフォロワーが多数現れている影響力を評価したい。
セガの体感ゲームシリーズの一つで、リアル系ドライブゲームの元祖。車を運転すること自体の楽しさに焦点を当てたゲームで、ドライブの楽しさが存分に盛り込まれている。
スクウェアの本領が発揮されるのは90年代だと思うのでここに入れるかも迷ったが、初代が売れなければスクウェアが潰れていた、という点で重要な作品。
与党を批判する野党や、あるいは自らに対する批判者に対しての批判は全く躊躇することがなく
そのダブスタの様な在り方に疑問を抱く者も多かった様に思うし、私もその1人だ
政治で批判が行われるのは至極当然の事なのだが、自分や自分が優遇する者に対して批判意見が出てくると彼らは
「これは敵対勢力からの工作である」「こうした者は愚かな存在である」
という反応しているのを良く見る
これは今世界中で問題となっているポピュリズム政党やその支持者である陰謀論を唱えるアノン達のそれに近く
そうした勢力が引き起こしてきた数々の問題を思えば、彼らは今非常に危うい道を歩んでいる様に感じる
国民民主党はキャスティングボートを握った、という表現がメディアでよく用いられる為に
国民民主党やその支持者も「自分たちこそが最も正しい」という勘違いをしているのかもしれないが
今回の選挙の結果として得られた国民民主党の議席は、決して日本全体から支持を得た事や、その考えが正しい事を示すものではない
だがそうした日本社会全体の中では極少数と言っても良い彼らが、まるで大多数の信任を得たかのように振る舞い、過敏な選民思想的な反応を示す姿には
国民民主党とその支持者は身内の中だけで肯定しあい徐々に考えが先鋭化、過激化していくという所謂エコーチェンバー現象に陥っていると思わざるを得ない
子供が熱を出して早退したりする時に、「仕事の代わりはいくらでもいるけど、親の代わりはいないんだから」って言われるとモヤモヤする。
大前提として、この言葉は育児しながら仕事してる人間に対して最大限の配慮を伴ったものであり、感謝してるし、言った本人にとやかく言う気は全くない。
でも、モヤモヤする。それって「私はあなたの子供の『親の代わり』はしませんよ」という表明じゃないか。
なんとなく、私はうす〜〜〜〜く広く、全ての人の親でありたい、という気持ちがあるんだと思う。
この気持ちは、めちゃくちゃな家庭環境で育ったことが起因していると思う。
いろんな人が、薄く広く「親の代わり」をしてくれた。
小学生の頃、私の家の状況を心配して優しく見守ってくれていた友達のお母さん。
高校の頃、保健室に入り浸っていた私の話を聞いてくれた保健の先生。
新卒の頃、どうしようもない新人だった私を育ててくれた周りの人たち。
親が教えてくれなかったこと、教えられなかったことをいろんな人から学んだ。
それでなんとか今、こうして社会的な生活を送ることができている。そういう気持ちがある。
だから「親の代わりはいない」という表現に納得ができないし、逆に「仕事の代わりはいくらでもいる」というのも、しっくりこない。たぶん仕事で関わる人に対しても「薄く広く親」の意識なんだろう。今この人のプラスになるために何ができるか、考えて仕事しているから、「代わりがいる」と言われると残念なのだ。
炎上の件。
[B! 炎上] フジテレビ 新人の上垣アナを巡る動画の炎上を受け声明「ご指摘を真摯に受け止め」 容姿イジりが物議 - ライブドアニュース
本人が嫌がってないイジリ。
いじめに当たるんだろうか。
いじめは辛い。
痛いほど気持ちはわかる。
イジられてる立場になったら、辛くても、表情だけが自動的に、場の空気を読んだ反応をする。
たとえ心は乾いていても。
本心とズレた上辺のリアクションが、イジリの同意と捉えられてしまう。
だけど、本人が嫌がってない イジリ を不当な いじめ に含めてしまうと、私が過去にされたこと & してきたことも、ほとんどが、いじめ と言い表わされてしまいそうで。
カタコトで外国人を表現した政治家が炎上した件もそうだけど、他人を笑うって極論全部蔑視。
ある程度寛容にならないと、窮屈。
でも本当は許してもらいたいだけなのかもしれない、とも思う。自分に甘いだけなのかも。
低きに流れる。
11月になった。イベと月次/ver限の進捗
原神 | ☑螺旋 ☑シアター ☑花神誕祭テーマイベ ☑戦闘イベ[ongoing] ☑魔神任務 ☑熱闘モード ☐鋳境の研鑽 ☑お試し ☑月次チケダスト交換 ☑5.1追加アチーブ ☑5.1追加レシピ |
スタレ | ☑末日 ☑裏庭 ☑叙事 ☑立本サンポイベ[ongoing] ☑音ゲーテーマイベ ☐不可知域(進捗:凡人集2/6,シミュレーション記録84%) ☑お試し ☑月次チケエンバー交換 ☑2.6追加アチーブ(宇宙以外) |
ゼンゼロ | ☑立本ショウルイベ[@1] ☑チートピアテーマイベ ☑激変ノード ☑お試し ☑月次チケ残響交換 ☐1.2追加アチーブ(@ポンペイ転倒とギアコイン3万) |
3rd | ☑花火Webイベ ☑年次回顧Webイベ ☑メイン探索[エリア開放待] ☑牧場テーマイベ[ongoing/Lv7] ☑お試し ☑月次基地チケ交換 |
柳のPV、フェチ要素や蒼角の可愛さに気を取られそうになるけど普通に映像表現すごすぎないか?
ライティングやボケやアニメ的メガネ表現や小物の揺れとかどんだけ凝れば気が済むのか
写真部はちょいちょい笑いの神が降りてくるな
これで安彦氏は失敗してアニメから撤退しちゃうらしいんだけど、作画はいいし、なんだろう…
リアルな戦闘車両とか登場する割に、物語がどこか幼い子供向けというか、絵とかキャラとか設定に対して対象年齢が低すぎるというか、
たしか、安彦氏が児童書に描いたのが元になったような話を聞いた気もするし、
あと、ゴーグだけじゃなくて、他の作品も、特に近年のククルスドアンもそうだけど、正直言ってなんかどっか面白くない、つまらない
理由として何と表現していいのか分からないけど、意外と理詰めで作ってない?という気がする
なんかビビッと来ることは誰にでもあるんだけど、その直感に盲目的に狂信的に従って行動するのって難しいわけだよ
例えば、宗教家というか、例えが悪いけどイエスだってそうかもしれないわけだよ
ジャンヌダルクだって病気だったからかもしれないけど、てんかんとはいえ、見た幻覚を信じ切って行動するって難しいと思うんだよね
妄信的、狂信的、どこか狂ってないといけない
でも、安彦氏は良くも悪くも真人間なんだよな、ヤマトの西崎なんて基地外レベルなわけだけど、あれぐらい狂ってたから一度はヤマトを成功させた、二度はなかったわけだけど…
そう考えると、安彦氏に足りないもの、クリエイターに必要なものは一種の狂気なんだろうけど、
そういうのは狂人のふりしてたら狂人になれる、なんてことは実際はそうはなくて、本物の狂人には敵わないと思うんだよね
巨神ゴーグ、すごくいいんだけどね
ボックスが出るたびに、買おうかどうか迷って、でも自分ももう歳だし、金もないし、ボックス買って繰り返し見るかというと疑問だし、
パッと部屋の中を見渡してみても、イクサー1とかゼオライマーのDVDがあったり、ガイナックスの帰りマンとかヤマタノオロチとかあるけど、まあ観ないよね
エヴァの限定ボックスもあるな、でも、あんまり観ないんだよな、寧ろ、ひとり上映会やって断捨離しないとなぁ…😟
話がズレたけど、ほんとゴーグおしいよなぁ
子供の頃、ボンボンとか読んでて、マノンさんのゴーグとか、いかにも悪役というか、サイコガンダムっぽくて、たしかキャノン付いてて、好きだったんだけど、
安彦さんの絵は大好きなんだけどね、なんで物語になると微妙になっちゃうんだろうね
まあ、浦沢直樹もそうなんだけどね
何ヶ月もまえから決まっていた予定で、グッズ代に交通費お金も沢山かけた。
明後日にも同じ現場に行く、全通というものではないが違う日付を取れたから行くのだ。一緒に来た友人とは明後日もよろしくね、楽しみだね、と言って別れた。
楽しかった、夢のようだった。この瞬間のために働くしそのためにはなんだってしたいと思った。また行きたい、この趣味を絶対にやめたくないと思った 。
だがしかし明日は姉の結婚の結納があるため、早くかえって眠り準備をしなければならず現実に引き戻されていという状況だ。
基本的に楽しい時間を過ごしたあと、次の日は仕事や普段の日常に戻るものだから、みんな同じような気持ちを抱えるだろう。
私は今後、この趣味を続けていけるのか、そもそもそも分不相応な趣味ではないのか、この場所には二度と行かない方が良いのではないかと思っているのだ。
私は現在25歳で実家暮らしだ。家に5万家賃として払っているが、家事の多くを母に任せているし貯金もほぼない、むしろ自転車操業だ。自立とは程遠い甘ったれである。
5歳上の姉は結婚をして家庭を持つのだ。友人の殆どが彼氏持ち。今日一緒に現場に行った友人もそうだ。
そう、私だけが彼氏もおらず、実家暮らしで将来の展望も何も無いまま、余裕もないのにお金をかけて、何も生み出せないまま生きているということに気がついてしまったのだ。
明後日同じ現場に行くし、12月には別の公演のチケットもとってある。お金は支払い済だ。
こんな夢から冷めてしまった状態で、私は一体どんな気持ちで現場に行けばいいんだろうか。
今後のことを真剣に考えれば観劇やライブに行く趣味をやめて、他のことに費やした方がよっぽど有意義だ。
でもまた現場に行ってしまえば、グッズもかってしまい、続編の公演のチケットも買ってしまうのだ。
オタク特有の誇張表現ではなく、本当に麻薬のように辞められない趣味なのだ。
この先私は一体どうすれば良いのだろう、先のことなど全く考えずに楽しさだけ享受すればいいのだろうか。
それか仕事を頑張って給料をあげて観劇やライブに行くような趣味が見合うような人間になるしかない。
他のオタクたち我にかえってしまった時、どのような思いで次の現場にいくのか、果たしてすっぱり趣味を諦めるのか、問いたい。
とにかくこの気持ちを切り替えられるような答えを誰か教えてくれないだろうか。
「虹の橋を渡った」という表現は、特にペットが亡くなった際によく使われる言葉で、愛された存在が安らかな場所へ旅立ったという意味が込められています。しかし、近しい関係にあった人の訃報について使う場合、やや違和感が生じることもあります。日本語の表現としては、厳粛さや尊重を重んじるものが多いため、相手の家族やファンに配慮する意味で、もっと一般的な表現(「ご冥福をお祈りします」「天国へ旅立たれました」など)の方がより適切と感じる人もいるでしょう。
ただし、故人と親しい間柄だった場合、その人なりの表現で伝えたい思いを言葉にしたいという気持ちも理解できます。
「虹の橋を渡った」という表現は、主にペットが亡くなった際に使われることが多いですが、人間に対しても使われることがあります。哀悼の意を伝えるための表現としては、一部の人々には優しさや慰めの意図が伝わるかもしれませんが、他の人々には違和感を感じる可能性もあります。
こうした表現の適切性は、文化や個人の感覚に左右されるものです。そのため、どのような表現が最も適しているかを考える際には、故人やその家族の感情、そしてコミュニティの文化的背景を考慮することが重要です。
芸能人の訃報に対して親交のあるタレントが「彼は虹の橋を渡った」と表現した件ですね。この表現の適切性について、様々な側面から考えてみましょう。
由来: この表現は、ペットの死を悼む際に使われることが多いものです。虹の橋は、天国へ続く架け橋という象徴的な意味を持ち、亡くなったペットが虹の橋を渡って天国へ行ったという温かいイメージを与えます。
広がり: 近年では、ペットだけでなく、人間にもこの表現が使われることが増えてきました。特に、家族や親しい間柄の人を亡くした際に、その人の冥福を祈り、安らかな旅立ちを願う気持ちを表す言葉として定着しつつあります。
故人の霊魂が安らかに天国へ行ったことを連想させ、温かい気持ちになれる。
親しい間柄だからこそ、故人を想う気持ちがストレートに伝わる。
一般的な「ご冥福をお祈りします」という表現よりも、個性的で印象に残る。
芸能人という公の立場の人物であるため、よりフォーマルな表現が求められる場合もある。
故人との関係性: 親しい間柄であれば、個人的な感情を込めて表現しても良いでしょう。
故人の宗教観や家族の意向: 故人や家族が宗教を深く信仰している場合などは、その宗教観に配慮した表現を選ぶべきです。
発信する場の雰囲気: プライベートな場で親しい人に伝える場合と、公の場で多くの人に伝える場合とでは、適切な表現が異なります。
周囲の反応: 自分の言葉が周囲の人にどう受け止められるかを考えて、表現を選ぶことが大切です。
まとめ
「彼は虹の橋を渡った」という表現は、決して間違いではありませんが、状況や相手によって適切な表現は異なります。故人への敬意を払い、周囲への配慮を忘れずに、言葉を選ぶことが大切です。
もし、より適切な表現を探したい場合は、以下のような表現も検討できます。
安らかに眠ってください。
「虹の橋を渡った」という表現は、決して悪い表現ではありませんが、状況に応じて適切な表現を選ぶことが大切です。故人への思いやりを込めて、温かい言葉で故人を偲ぶことが、最も大切なことと言えるでしょう。
補足
フェミを倒すんだろ!
表現の自由を守るんだろ!
表現の自由戦士長であり、オタク界のオピニオンリーダーであり、オタク代表選手の暇空さんへのお布施を絶やすな!!
夫婦別姓になるぞ!同性婚が通るぞ!AVが減るぞ!立ちんぼが減るぞ!
いいのかよ!!!!
でもそれは「濡れる」のがエロいと感じるのであって
尿みたいにジョロローって出たらなんか汚らしく感じるし
鯨みたいにブッシャアァァァって噴いたらギャグになっちゃうわけ
わかってもらえるかなこの気持ち
1. **「姓」と「氏」と「名字」の違いについて**
確かに「姓」(かばね)、「氏」(うじ)、そして「名字」(苗字)は異なるものですが、その関係性や成り立ちは複雑で、簡単に整理できるものではありません。姓は古代の天皇家や貴族における血統や地位を示すために与えられ、氏も同様に氏族を示す役割がありましたが、時代を経る中で意味合いや使われ方が変わっていきました。名字や苗字は武士階級を中心に広まったもので、農民が持っていなかったわけではありません。
2. **農民が持っていなかったのは「姓」という主張**
この点も間違いです。農民が「姓」だけを持っていなかったという単純な説明では歴史の複雑さを捉えられません。農民や庶民がどのように名前を名乗り、どのような役割を果たしていたかは時代や地域によって異なり、一概に「姓」だけを持っていなかったという説明は不正確です。
「明治政府は農民に苗字をつけた」というのは一般的に正しい理解です。明治時代以前には農民が苗字を持っていなかった場合も多く、名乗ることが禁止されていたケースもありました。明治政府は国民に統一的な制度として苗字を与える政策を進めました。よって、「明治政府が農民に苗字を与えた」という認識は基本的には正しく、この投稿は誤解を招く表現となっています。
4. **「姓尸不称令」について**
「姓尸不称令」は「公用文書に姓を用いない」という布告であり、これは「姓」の廃止を意味するものではありません。また、当時の日本社会における氏名制度の変遷は多岐にわたるものであり、単純に「廃止した」と表現するのは誤解を招くものです。
リアルの話し合いならこれからも付き合っていく相手とすり合わせて妥協点を探らざるを得ないけど
ネットの向こうにいる匿名もしくはハンドルネームしか知らない奴なんて病もうが死のうが関係ないもんな
昔表現の不自由展について中村佑介と後藤正文とで見解の相違があったときに
別姓に拘らない(同姓にも拘らない)人がほとんどで
そういうの人らは現状の制度通りで構わないし制度変わるならそれでもいいんじゃない?くらいのもん
コンバーターとコーンバター。この二つの言葉は、一見すると無関係な対象を指しているように思われる。しかし、その響きには微妙な共通点があり、現代人に与える感覚的な違いは、文化や歴史の流れを通じて形成されてきた感性の奥底に根ざしていると言える。人間の歴史の中で、技術や食文化の進化と、それらが生み出す美的な感動は切り離せない関係にあり、ここに「コンバーター」と「コーンバター」を媒介とした考察を試みることで、その深奥を垣間見ることができるのではないだろうか。
まず、「コンバーター」とは、一般的には何らかの機能や属性を変換する装置や技術を指す言葉である。電圧を変換する電源コンバーターや、信号を変換するデジタル・アナログコンバーターなど、その用途は多岐にわたり、現代社会を支える根幹を成す技術のひとつとなっている。これに対して「コーンバター」とは、穀物であるトウモロコシ(コーン)から作られるバター、あるいはそれに類する加工品のことを指す。日本においてはそれほど一般的ではないが、北米や南米など、トウモロコシを主食の一部として重要視する文化圏では、伝統的な食材の一つとして親しまれている。
一見、全く異なる二つの概念であるコンバーターとコーンバター。しかし、その歴史的背景に目を向けてみると、人間の知恵と工夫、さらにそこから生まれる美的な感性が反映されていることに気づかされる。コンバーターの登場は、工業化と技術革新によってもたらされた、変換や変容の技術に関する人間の知識の結晶である。これに対し、コーンバターは農業の発展や食文化の進化に密接に結びついている。技術の変換と食材の変換、いずれも人間が生活を豊かにするために築いてきた歴史の一側面であり、そこには特有の美的価値が含まれている。
人間は、常に物質やエネルギー、さらに情報の変換を行うことで、生活の利便性を高めてきた。コンバーターはその象徴的な存在である。例えば、電圧を変換するコンバーターがなければ、さまざまな電化製品を自由に使用することはできない。デジタル信号をアナログに変換することで、音楽や映像をスムーズに楽しむことが可能になる。これらの技術は、もともと無機的で冷たい印象を与えるものであるが、実際にはその内部に「変換」というダイナミックなプロセスを含んでいる点に美しさが宿る。変換の過程は、単なる物理的な操作にとどまらず、情報やエネルギーが形を変えて新たな価値を生む瞬間である。この「変換の美学」は、人間の手によって機械的な装置やデバイスに具現化され、現代社会の中で目に見えない存在感を発している。
一方で、コーンバターには全く異なる美的価値が内包されている。コーンバターは、トウモロコシという自然から得られる素材を加工することで生み出される、食品としての変換の結果である。トウモロコシは、古代アメリカ大陸の文明において神聖視された作物であり、その栽培と加工は生活の基盤を形成してきた。コーンバターもその伝統の一部であり、味や風味の中に先人たちの知恵が凝縮されている。食品としての変換過程は、技術的な効率を追求する工業的な変換とは異なり、味わいや栄養価を最大限に引き出すための工夫が重視される。ここに、人間が生きるために必要とする基本的な欲求と、それを超えて美味しさや楽しさを追求する美的感覚が交差する点が見出される。
また、コンバーターとコーンバターは、それぞれ人間の内面的な感覚にも影響を与えている。コンバーターがもたらす利便性は、私たちの生活を快適にし、さらには新たな表現の可能性を広げている。情報を自由に変換し、自在に操作できるという感覚は、無限の創造力を解き放つものであり、それ自体が一種の「技術の美」であると言える。一方、コーンバターがもたらす味覚の体験は、単なる食欲の充足を超えて、郷愁や安心感、さらには家族や共同体との結びつきといった、人間らしい感情を喚起するものである。口に含むたびに、自然の恵みを感じ、その過程に込められた労働と愛情を味わうことができる。このように、コーンバターは食文化の一端としての「食の美」を表している。
さらに深く考察を進めると、コンバーターとコーンバターの間には、「変換」という共通のテーマがあることに気づく。コンバーターは無機物やエネルギーを変換し、コーンバターは生の素材を加工することで新たな形に変える。この変換のプロセスには、人間が自然や物質に働きかけ、何かを新しい価値へと変える行為が見受けられる。この行為自体に、人間が美を見出してきたのではないだろうか。機械的な変換は冷徹である一方、そこには洗練された精密さや無駄のない機能美がある。これに対して、食品の変換には、温もりや手作り感といった情緒的な美がある。いずれも異なる美意識でありながら、共に人間の手によって完成される過程である。
現代のテクノロジー社会において、コンバーターはほとんどの人々にとって日常の一部であり、存在を意識することなく利用されている。しかし、それが果たしている役割は極めて重要であり、その背後にある技術的な進化は、実に人間の叡智の賜物である。一方で、コーンバターのような伝統的な食品には、技術的な進歩とは異なる価値観が込められている。ここには「不変の美」という要素が存在し、テクノロジーの進化とは対照的な、永遠に続く食文化の美が感じられる。コーンバターを口にするたびに、人々は祖先が歩んだ道を辿り、自然との共生を改めて感じることができる。
このように、コンバーターとコーンバターは、それぞれ異なる形で人間の生活を豊かにし、感性を刺激する存在である。どちらも変換という行為を通じて人間の生活に寄与し、美的な価値を提供している。そして、技術の進化と伝統の継承という二つの相反する要素が、私たちの感覚と美意識に新たな価値観をもたらしている。この二つの対象を比較することで見えてくるのは、人間が創り出す「美」の多様性と、その根底にある普遍的な美意識である。
お前が見たのが誰の話かはわからんが、俺も表現や創作は自由であれと思っている
同時に公の場や子供の目に入る場所になればなるほど制限が生じるのも当然だと思っている
フェミはちゃんと隔離された場所までやってきてけしからん!とか言うし
https://note.com/p_and_w_books/n/neee921ea91a9
https://note.com/p_and_w_books/n/nf373db52eab9
・そうですか、といったところ。
■鯨井氏のジャッジ
・まえがきでは個人的な狂気を重要視するというようなことを言っている。要するに、ユニークでぶっ飛んだものを読みたいということ。そういう欲求をカッコつきとはいえ「狂気」という言葉に託したのはよくなかったとおもう。「おまえら創作者はみんな創作に情熱を燃やしてそれに狂ってるはずだろ!なあ!」というのはいかにも一昔前のフィクションに出てくる「天才」像で、古臭くて偏狭ではないか。
・それでいて、最後に他者への回路としての「コミュニケーション希求力」を評価基準に置くのがよくわからない。いや、わかりはする。閉じているように見えつつもその暗闇のなかで他者を求めもがくのが人間の普遍的なあり方であり、そうした情熱を持っているように見える作品に惹かれてしまう。その気持ちはわかるが、この文章内にかぎればあんまり文脈的につながってないのでは、と感じる。
・「コミュニケーション」を謳うのなら作者の側から歩み寄りばかりでなく、評者からの歩み寄りもすべきだった。というか、それが評論行為であるように思う。最終的に「これは自分の感情です」というような文言で閉じたのはよくなかったというか、開かれた場のコンテストでは落とされてもしょうがない。
・固有名詞問題。固有名詞の持つ読者との「共犯性」を指摘し、作品内で用いられている下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」といったワードの「共犯性」が東京中心主義につながっているのではないか、といったようなことを言っている。
・固有名詞の「共犯性」についてはそのとおりだが、基本的にはその固有名詞を使うことでどういった層と共犯関係になれるかという戦略の問題でしかないとおもう。それが気に食わなさにつながるんならそうですね、あなたは不快なんですね、としか言いようがない。
・「「下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」を使って真にその意図が伝わるのは、それを知る都会の人びと、「カルチャー」の民のみである。」→これはそうは思わない。下北沢はぼざろなどを例に出すまでもなく東京以外のひとびとにもある一定のイメージを形成しているし、フィッシュマンズやクリムトに至っては別に東京固有でもなんでもない。
たしかに並べられると東京中心的な貴族性⋯⋯というかヴィレヴァン的なサブカルクソ野郎っぽさが鼻につくところはある。
しかし、それが「カルチャー」を愛する人びと特有の一段上から世を眺める視点、優越性」に直結するかは微妙なところで、それこそ共犯者に選ばれなかった疎外感といえばそれまで。そして、そこから地方差別へとつなげるのはちょっと無理筋だと思う。
・関西弁を含めたトータルのパッケージに差別性を覚えたという感じだとおもう。作者の意図しないチャンネル(固有名詞)でヘイトが溜まっていったところで関西弁の歌が出てきて「怒り」が爆発したというところか。
・全体的には論点の設定の仕方があまり開かれていない。差別性を感じるというのであればもう少し広くわかりすい議論を行うか、あるいは関西人であるという当事者性を突き詰めるべきだったと思う。現状の文章としては後者よりなのだが、あまりに「関西人である自分」が自明のものとして最初から展開されているので、読者には「で、関西人であるあなたがなぜそこまで怒ってるんですか?」がわかりにくい。
・いろんなところで中途半端な評だと思う。
・「『見下し』ではなく関西弁の語りのある種の味わい(「特権性」という雑な表現をしてなぜか自分を「関西」に対して下位に置こうとしていたが)に対する憧憬なので『見下し』じゃないんだよ」という言い分はそうなのだろうが、それをただしくオリエンタリズムと呼ぶのだよな。
・中盤の「ここまで説明をしたうえで、「本気で思っていたらこんな書き方はできないだろう」と思われるでしょうか。」に至るまでの説得のロジックがよくわかんない。
冒頭で「なるべく感情的にならないように書く」と宣言しているのに「ここまで説明〜」までは、基本的に「自分はこうおもってこう書きました(あんたや読者の気持ちなど知らん)」と自分の感情や行為しか書いてない。
本当は全部関西弁にしたかったけど、自分の技術じゃ無理→すげえわかる。
(なんか「一首だけにしといてやった」が非関西人としての譲歩だった、とも読める。マジでこれは意味がわからない。)
・「関西の人の反応を探るために歌会に出した」パート。実際に当事者から方言に関して否定的な反応が返ってきた、と自分で言ってる。
それを「連作という文脈で解消できるのではないか」と考えたらしい。なんで読者がああいう作品の連続性を確認しにくい場で連作であることを前提に読まなきゃいけないのか意味がわからない(鯨井さんはジャッジだからそこらへんい対してはある程度の義務はあるとは思う)というのはまあ置いといこう。
で、「連作という文脈」がなんなのかというと、「作品の主体(視点人物)が東北人の上京者」であること。
「主体も東京出身の人間ではないということを明示することで「標準語/方言」の権力構造をとっぱらえないかと画策しました」
というのがほんとうにわからない。視点人物が東北出身だと関西弁に対するオリエンタリズムが解消されるの? 標準語と方言の権力関係が無効化されるの?? なんで???
むしろ、この作品の場合は主体が標準語の権力性に乗っかって(実際、歌の大半が標準語で書かれている)、方言を搾取してますって構造に見えませんか???
さらに問題なのは「今回の文化盗用かどうか、わたしには判別できませんでした。」とか言っているところで、いやわかってないって自覚あるなら「連作で解消できてるとおもう!」とか言うなよ。
「関西弁をマイノリティといってしまっていいのか〜」のあたりはなにがいいたいのか不明瞭だけど、つまり「東北弁は関西弁に比べてよりマイノリティ性が高いから、俺には関西弁をいじる権利がある」って言いたいの? なにそれ?
・そのあとの文章はぐだぐだしてるけれど要約すれば「憧れだから差別じゃないんです」というようなこと。サイードを読め。平凡社ライブラリにある。
・「そこに「無意識的な共犯性」「優越性」があると断罪できる根拠がどこにあるのかよくわからない」はクリティカルな反駁だとおもう。そこらへんは前述のとおり。このへんの反論内容もいちいち書き出さないがリーズナブルだと思う。
https://x.com/oldwave/status/1851907856171508170
僕も原書房の「トランスジェンダー問題」を読みまして、トランスジェンダー側の主張を検討しました。
1. 真正のトランンスジェンダーと、トランスジェンダーを詐称しているだけのヘンタイを区別する方法がない。
2. トランスジェンダーは性犯罪と隣接している者が多い。(これは前述書でも述べられているし、トランスジェンダー自身がみとめている。)
3. トランスジェンダリズムはラディカルに資本主義社会・自由主義社会を改革することを求めている。(漸進的に問題を是正していく立場をとらない。)
4. トランスジェンダリズムは真の目的を隠蔽し、自分たちの望み、自分たちの苦しみをストレートに表現することを避けている。
僕は、反トランスジェンダーの立場にはっきりと立つだけの確信がない。確信はないが、トランスジェンダリズムに対して強い疑念を抱いている。