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はてなキーワード: 表現とは

2024-11-02

80年代以前(1989年まで)で最も重要コンピュータゲーム10

○選シリーズも下火になってきたところで投下するよ。


元ネタ1:

https://anond.hatelabo.jp/20241012181121

元ネタ2:

https://anond.hatelabo.jp/20241026213447


最初ファミコンだけで10選を作ろうとしたけど、方針を変えた。なぜならファミコンの初期にはアーケードから移植作が多く、それらはどちらかというとアーケード作品として評価すべきだからだ。

ついでに他のハードも含めて、同時代コンピュータゲームすべての中から選出することにした。なおシリーズ物は一作のみとする。ゲーム史のカンブリア紀におけるレジェンド級の作品を見て行こう。


ポン(1972年/アタリ/アーケード

アメリカアタリ社が開発し、世界で初めて商業的に大ヒットをしたゲームコンピュータゲームが一大産業として成立する道を開拓し、これをきっかけとしてアメリカアタリ時代が花開くことになる。

日本では翌年にタイトーセガがポンのコピー品を作り、これが日本初のゲームとなった。


ブレイクアウト1976年/アタリ/アーケード

アタリのヒット作第二弾。いわゆるブロック崩し。これのリメイク版にあたるのがアルカノイドで、現代に至るまで古典的ゲームの一つとして知られている。

日本ではタイトーナムコ正規ライセンスを持って生産していたが、それ以外にも日本の多数のメーカーがこれを模倣したようなゲームを作り、のちに日本ゲーム産業が花開くきっかけとなった。

いまでは有名なメーカーが、正規ライセンスもなしにコピー品を作っていたという、大らかな時代でもあった。後にタイトーが、これをもとにスペースインベーダーを作ることになる。


スペースインベーダー1978年/タイトー/アーケード

初の日本メーカーによるオリジナルの大ヒット作であり、日本で初めて社会現象を巻き起こしたゲーム。それまでゲームに縁のなかった日本お茶の間にまで、コンピュータゲームを知らしめた作品

日本アーケード史上最大のヒット作といわれ、喫茶店スナックテーブルがこのゲームテーブル型筐体に置き換えられるほどだったという。

数が減るごとに動きが速くなる敵、敵がこちらを攻撃してくる緊張感、たまに出現して撃ち落とすとボーナスの入るUFOなどアドレナリンの分泌を促す仕掛けが満載で、ゲーム面白さの本質が詰まっている。


ゲーム&ウオッチシリーズ1980年/任天堂/ゲーム&ウオッチ)

単独ゲームソフトではないが、シリーズまとめてランクインとする。

初の大ヒットした携帯ゲーム機で、特に低年齢層を中心に爆発的にヒットした。当時のゲームセンターは不良の溜まり場で子供には出入りしにくく、据え置きの家庭用ゲーム機もあったが値段が高く、

そんな中で比較的安く買えてどこでも手軽に遊べるゲーム&ウオッチは子供向けのゲーム機としてうってつけであった。

横井軍平代表作の一つであり、シャープ提携して電卓技術で作られた玩具。この横井軍平シャープのタッグは、のちにゲームボーイを生み出すことになる。


パックマン1980年/ナムコ/アーケード

ナムコの躍進のきっかけとなった作品にして、日本アーケードの大ヒット作第二弾。

敵の種類ごとに異なる思考アルゴリズム、敵との強弱関係を逆転させるパワーエサ、緊張を緩めるコーヒーブレイクなどゲームを飽きさせない工夫が随所に施され、その工夫の数々は多くのクリエイターに影響を与えた。

日本のみならずアメリカでも大ヒットを飛ばし日本ゲーム世界通用することを知らしめた。80年代ゲームの中心地がアメリカから日本に移っていく、その象徴となる作品


ウィザードリィ1981年/サーテック/Apple II

ウルティマとどっちを選ぼうか迷ったが、こちらを選択

ウルティマと共に、すべてのコンピュータRPGの始祖と言っていい作品。もともと机上で行われていたTRPGであるD&Dコンピュータ上に移植するというアプローチで生まれた、他のゲームとはだいぶ出自の異なる作品

ゲームシステムの多くはD&Dに由来しているが、移動画面と戦闘画面の切り替えによって進めるゲーム進行、コマンドを選ぶことで進める戦闘システムなどコンピュータRPG基本的システムが完成されており、

ウルティマと共に、後のドラクエFFに大きな影響を与えた。堀井雄二坂口博信もこのゲームをやり込んだという。


ゼビウス1983年/ナムコ/アーケード

スペースインベーダーギャラガと続くシューティングゲーム系譜を完成させた作品。初めて隠れキャラ採用した作品として知られ、ゲームにおける「隠し要素」の祖ともいえる。

グレーのグラデーションで描かれた光沢のある敵のデザイン航空写真のような森、海、道の風景は、真っ黒な背景に簡素グラフィックゲームが多かった時代に圧倒的なクオリティを誇っていた。

何度でも繰り返し遊びたくなる仕掛け、背景の物語神秘性と相まって、多くの人を熱狂させた。


スーパーマリオブラザーズ1985年/任天堂/ファミコン

説明不要宮本茂の生み出したゲーム黎明期最高傑作の一つである

その画期性はググればいくらでも出てくるのだが、改めて分析しても同時代の中で突出した存在である

どこまでも広がる世界解放感、至るところに隠されたアイテムボーナスステージ、操作に習熟するごとに感じられる上達の喜び、初心者が楽しみながら悔しがりながら上達できるレベルデザイン

どこを取ってもオーパーツのようなゲームであり、いまだにゲーム古典的教科書の一つである

アーケードから移植作が多かった時代に、この作品は「ファミコンしか遊べない大ヒット作」であり、これ以降ゲームの主戦場アーケードから家庭内に移ることになる。(ゲームセンターに風営法適用されたことも影響している。)


ドラゴンクエスト1986年/エニックス/ファミコン

ウィザードリィウルティマを元に、日本人にはとっつきにくかったRPG日本人向けに大幅にアレンジして生まれ作品

これ以前にも日本メーカーからRPGはいくらか出されていたが、ドラクエの爆発的ヒットを元に、日本独自RPG=JRPG市場開拓されることになる。

とっつきにくい要素を排除するために、元のTRPGにあったリアリティを大きく削ぎ落したりしているため、当時のTRPG界隈などから批判も受けたようであるが、そうでもしなければこのゲーム国民作品になることはなかっただろう。

反面、そのあまりにも日本向けに特化しすぎたアレンジが仇となり、海外展開にはあまり成功していない。

ドラクエが生み出した(時におかしな)JRPGの「定番」「お約束」は数知れない。その影響はゲームだけに留まらず、西洋ファンタジーを題材とした漫画ラノベ等にもおよび、今日に至るまでその影響を与え続けている。


ゼルダの伝説1986年/任天堂/ディスクシステム

宮本茂最高傑作第二弾。スーパーマリオとはまた違った方向性世界の広さを表現した、知恵と工夫と探索のゲーム

このシリーズは極めて神がかったバランスの上に成り立っており、簡単模倣できる作品ではないため、直接のフォロワーとなる作品はあまり現れてはいない。

しかゼルダシリーズの魂とでも呼ぶべき、閃きと発見の楽しさは形を変えて多くのゲームに受け継がれている。それはダンジョンの中のちょっとしたパズルや謎解きだったり、アイテムの入手によって切り拓く道だったりするだろう。

近年のインディーズ市場において、ゼルダシリーズから影響を受けたようなゲームが多数見られることからもその影響力の大きさが伺える。



◆◆◆


以降は選外となった作品


Tennis for Two1958年/ブルックヘブン国立研究所/非売品)

世界初のコンピュータゲームと呼ばれるものの一つ。オシロスコープアナログ機器で作られたゲームであり、正確にはコンピュータゲームと言えるのかも分からない。

研究所見学者に大評判だったが、その後忘れ去られ、後のゲームには影響を与えていないという。時代を先取りしすぎた作品


平安京エイリアン1979年/東京大学理論科学グループ/アーケード

学生サークルが開発し、商業的に成功した作品。いわば同人ゲーム草分けのようなものである点に着目したい。アマチュアが作ったゲームで初めてヒットした作品といっていいのではないか


ローグ(1980年/マイケル・トイ, グレン・ウィックマン/Unix

ローグライクと呼ばれるジャンルの始祖となった作品D&Dから影響を受けて作られた探索ゲームであり、実はウィザードリィウルティマよりも古く、最古のコンピュータRPGの一つに数えてもいいかもしれない。


ウルティマ1981年/リチャード・ギャリオット/Apple II 他)

コンピュータRPGの始祖の一つで、ウィザードリィと共に後のドラクエFFに大きな影響を与えた。2D見下ろし型のフィールドマップは、このゲーム元祖である


ドンキーコング1981年/任天堂/アーケード

正直10選に入れたかったが、宮本茂多すぎやろと思って外すことにした。

宮本茂の初のヒット作にして、後に世界的大スターとなるマリオデビュー作。コンパクトな画面に詰め込まれジャンプアクションで、後のスーパーマリオにつながるようなアイディアが、すでに多数詰め込まれている。


ポートピア連続殺人事件1983年/エニックス/PC-6001/mkII)

テキストアドベンチャーの傑作で、堀井雄二の原点。原作PC版だが、どちらかというとファミコン版の方に着目したい。

コマンドを選んで進めるというファミコン版のスタイルドラクエの原点ともいえ、このゲームの開発で得た知見はドラクエの開発に大いに影響したことだろう。


テトリス1984年/アレクセイ・パジトノフ/Electronika 60)

最も知られているのはゲームボーイ版だが、最初に作ったのは旧ソ連科学である

ゲームボーイ版の方は「ゲームボーイ史上、もっと重要ゲーム10選」に選出されているのでこちらはあえて原作をチョイス。純粋パズルでこれだけ人を没頭させるものは他にないだろう。


三國志1985年/光栄/PC-88他)

光栄歴史シミュレーションゲーム。この2年前に「信長の野望」が発売されており、歴史シミュレーションゲームとして最初にヒットしたのはそちらであるが、俺は三國志の方を評価したい。

これは歴史のifを楽しむゲームであり、人材登用のシステムによって史実では敵だった人物を部下にするなどして、夢のドリームチームを組むという楽しみ方ができる。

歴史を題材としたゲームでありながら歴史を大胆に改変してもいいという発想が大きな魅力につながり、こうした発想は現在歴史物のゲームにも影響を与えている。


ハングオン1985年/セガ/アーケード

世界初の体感ゲームにして、セガ体感ゲームシリーズ第一弾。バイク型の筐体にまたがり、身体を傾けて操作するバイクレースゲーム

ゲームの主戦場アーケードからファミコンに移る中で、そのアーケードしか実現不可能臨場感が注目された。こうした大規模なギミックは、後にアーケード復権する鍵の一つとなる。


ザナドゥ1985年/日本ファルコム/PC-88他)

ドラクエ以前の日本RPGで大きくヒットした作品日本PCゲームで最も売れた作品とされ、ファミコンともアーケードとも異なるPCゲーム市場を先導した。


悪魔城ドラキュラ1986年/コナミ/ディスクシステム

コナミ代表するシリーズの一つとなった作品任天堂メトロイドと合わせ、メトロイドヴァニアと呼ばれるジャンル形成フォロワーが多数現れている影響力を評価したい。


アウトラン1986年/セガ/アーケード

セガ体感ゲームシリーズの一つで、リアル系ドライブゲーム元祖。車を運転すること自体の楽しさに焦点を当てたゲームで、ドライブの楽しさが存分に盛り込まれている。


ファイナルファンタジー1987年/スクウェア/ファミコン

スクウェア本領が発揮されるのは90年代だと思うのでここに入れるかも迷ったが、初代が売れなければスクウェアが潰れていた、という点で重要作品



80年代末期は、シリーズ物の二作目、三作目がヒットの中心であるため、ここまでとする。

PCエンジンやメガドライブからも選出したかったが、ここに挙げたものに並べる作品がなかった。

国民民主党界隈はエコチェンで先鋭化、過激化している様に思える

私が思うに国民民主党の最大の欠点批判を極端に嫌うという事

以前から「対決より解決」を党是とする国民民主党だが

与党批判する野党や、あるいは自らに対する批判者に対しての批判は全く躊躇することがなく

そのダブスタの様な在り方に疑問を抱く者も多かった様に思うし、私もその1人だ

政治批判が行われるのは至極当然の事なのだが、自分自分優遇する者に対して批判意見が出てくると彼らは

「これは敵対勢力から工作である」「こうした者は愚かな存在である

という反応しているのを良く見る

これは今世界中問題となっているポピュリズム政党やその支持者である陰謀論を唱えるアノン達のそれに近く

そうした勢力引き起こしてきた数々の問題を思えば、彼らは今非常に危うい道を歩んでいる様に感じる

国民民主党キャスティングボートを握った、という表現メディアでよく用いられる為に

国民民主党やその支持者も「自分たちこそが最も正しい」という勘違いをしているのかもしれないが

今回の選挙の結果として得られた国民民主党議席は、決して日本全体から支持を得た事や、その考えが正しい事を示すものではない

自民党と立憲の議席数と比べると、その差は歴然といっても良い

だがそうした日本社会全体の中では極少数と言っても良い彼らが、まるで大多数の信任を得たかのように振る舞い、過敏な選民思想的な反応を示す姿には

国民民主党とその支持者は身内の中だけで肯定あい徐々に考えが先鋭化、過激化していくという所謂エコーチェンバー現象に陥っていると思わざるを得ない

「親の代わりはいないんだから」にモヤモヤする

子供が熱を出して早退したりする時に、「仕事の代わりはいくらでもいるけど、親の代わりはいないんだから」って言われるとモヤモヤする。

大前提として、この言葉育児しながら仕事してる人間に対して最大限の配慮を伴ったものであり、感謝してるし、言った本人にとやかく言う気は全くない。

でも、モヤモヤする。それって「私はあなたの子供の『親の代わり』はしませんよ」という表明じゃないか

なんとなく、私はうす〜〜〜〜く広く、全ての人の親でありたい、という気持ちがあるんだと思う。

この気持ちは、めちゃくちゃな家庭環境で育ったことが起因していると思う。

いろんな人が、薄く広く「親の代わり」をしてくれた。

小学生の頃、私の家の状況を心配して優しく見守ってくれていた友達のお母さん。

高校の頃、保健室に入り浸っていた私の話を聞いてくれた保健の先生

新卒の頃、どうしようもない新人だった私を育ててくれた周りの人たち。

親が教えてくれなかったこと、教えられなかったことをいろんな人から学んだ。

それでなんとか今、こうして社会的生活を送ることができている。そういう気持ちがある。

から「親の代わりはいない」という表現に納得ができないし、逆に「仕事の代わりはいくらでもいる」というのも、しっくりこない。たぶん仕事で関わる人に対しても「薄く広く親」の意識なんだろう。今この人のプラスになるために何ができるか、考えて仕事しているから、「代わりがいる」と言われると残念なのだ

なんだか矛盾してきた。とにかく、「代わりがいる職場人間関係」「代わりがいない親子関係」で単純に二分化したくない。

本人が嫌がってないイジリ

炎上の件。

[B! 炎上] フジテレビ 新人の上垣アナを巡る動画の炎上を受け声明「ご指摘を真摯に受け止め」 容姿イジりが物議 - ライブドアニュース

コメントを読んでからモヤモヤと思い悩んでる。

本人が嫌がってないイジリ。

いじめに当たるんだろうか。

かに、嫌なことを嫌だと言えない圧力があるから

いじめは辛い。

痛いほど気持ちはわかる。

イジられてる立場になったら、辛くても、表情だけが自動的に、場の空気を読んだ反応をする。

たとえ心は乾いていても。

本心とズレた上辺のリアクションが、イジリの同意と捉えられてしまう。

だけど、本人が嫌がってない イジリ を不当な いじめ に含めてしまうと、私が過去にされたこと & してきたことも、ほとんどが、いじめ と言い表わされてしまいそうで。

タコトで外国人表現した政治家炎上した件もそうだけど、他人を笑うって極論全部蔑視

ある程度寛容にならないと、窮屈。

笑いのない社会なっちゃう。

でも本当は許してもらいたいだけなのかもしれない、とも思う。自分に甘いだけなのかも。

低きに流れる

デリカシーを気負わず、気楽に、心から笑いたい。

傷つくとか傷つけるとかと距離を置いて、仲間たちと一緒に心から笑いたい。

プロレスから、を言い訳にして。

anond:20241101201554

もっと短くしていとこ婚みたいな表現もなかったっけ?

まあ、糸こんにゃくみたいで口語としては今一つだけど。

〇と〇がいとこ婚したらしい...みたいなのは表現としては認識できると思うけど。

[]

11月になった。イベと月次/ver限の進捗

原神螺旋
☑シアター
花神誕祭テーマイベ
戦闘イベ[ongoing]
魔神任務
☑熱闘モード
☐鋳境の研鑽
☑お試し
☑月次チケダスト交換
☑5.1追加アチーブ
☑5.1追加レシピ
スタレ☑末日
☑裏庭
☑叙事
☑立本サンポイベ[ongoing]
音ゲーテーマイベ
不可知域(進捗:凡人集2/6,シミュレーション記録84%)
☑お試し
☑月次チケエンバー交換
☑2.6追加アチーブ(宇宙以外)
ゼンゼロ☑立本ショウルイベ[@1]
チートピアテーマイベ
☑激変ノード
☑お試し
☑月次チケ残響交換
☐1.2追加アチーブ(@ポンペイ転倒とギアコイン3万)
3rd花火Webイベ
☑年次回顧Webイベ
☑メイン探索[エリア開放待]
牧場テーマイベ[ongoing/Lv7]
☑お試し
☑月次基地チケ交換

柳のPVフェチ要素や蒼角の可愛さに気を取られそうになるけど普通に映像表現すごすぎないか

ライティングボケアニメメガネ表現や小物の揺れとかどんだけ凝れば気が済むのか

原神ラジオシカコ回おもろかったな

写真部はちょいちょい笑いの神が降りてくるな

魔神任務がかつてないほど重かったのも衝撃だけどそれに早速ガッツリネタバレトークで触れてくれたの珍しい

10年前から久保さん推しってお便りの人絶対ラブライバーでしょわかりみしかない

クリスマスが今年もやってくる

10月31日が終わると自分ネタにして全力でクリスマスの到来をつげるマライア・キャリーに比べて竹内まりやはやる気がなさすぎる

山下達郎ギターを全部クリスマスツリーにしたり、山下達郎帽子ケンタッキーを詰め込んだりしてもっとクリスマス表現しないと、到底追いつかない

2024-11-01

巨神ゴーグOPED観ながら思ったんだけどさ、

これで安彦氏は失敗してアニメから撤退ちゃうらしいんだけど、作画はいいし、なんだろう…

リアル戦闘車両とか登場する割に、物語がどこか幼い子供向けというか、絵とかキャラとか設定に対して対象年齢が低すぎるというか、

しか、安彦氏が児童書に描いたのが元になったような話を聞いた気もするし、

その児童書は俺も持ってて読んだ記憶があるんだけど、

あと、ゴーグだけじゃなくて、他の作品も、特に近年のククルスドアンもそうだけど、正直言ってなんかどっか面白くない、つまらない

理由として何と表現していいのか分からないけど、意外と理詰めで作ってない?という気がする

その点、富野氏は直感みたいな方向性を信じてる感がある

なんかビビッと来ることは誰にでもあるんだけど、その直感盲目的に狂信的に従って行動するのって難しいわけだよ

例えば、宗教家というか、例えが悪いけどイエスだってそうかもしれないわけだよ

ジャンヌダルクだって病気だったからかもしれないけど、てんかんとはいえ、見た幻覚を信じ切って行動するって難しいと思うんだよね

妄信的、狂信的、どこか狂ってないといけない

でも、安彦氏は良くも悪くも真人間なんだよな、ヤマトの西崎なんて基地外レベルなわけだけど、あれぐらい狂ってたから一度はヤマト成功させた、二度はなかったわけだけど…

そう考えると、安彦氏に足りないものクリエイター必要もの一種狂気なんだろうけど、

そういうのは狂人のふりしてたら狂人になれる、なんてことは実際はそうはなくて、本物の狂人には敵わないと思うんだよね

自分もそういうところ凡人だから、なんか分かる気がする

巨神ゴーグ、すごくいいんだけどね

ボックスが出るたびに、買おうかどうか迷って、でも自分ももう歳だし、金もないし、ボックス買って繰り返し見るかというと疑問だし、

パッと部屋の中を見渡してみても、イクサー1とかゼオライマーDVDがあったり、ガイナックス帰りマンとかヤマタノオロチとかあるけど、まあ観ないよね

エヴァ限定ボックスもあるな、でも、あんまり観ないんだよな、寧ろ、ひとり上映会やって断捨離しないとなぁ…😟

話がズレたけど、ほんとゴーグおしいよなぁ

子供の頃、ボンボンとか読んでて、マノンさんのゴーグとか、いかにも悪役というか、サイコガンダムっぽくて、たしかキャノン付いてて、好きだったんだけど、

安彦さんの絵は大好きなんだけどね、なんで物語になると微妙なっちゃうんだろうね

まあ、浦沢直樹もそうなんだけどね

ふたりとも絵は天才なんだけど、物語になると急に微妙になるんだよね…😟

現場からの帰り道、我に返り今後を考える

ライブ会場からの帰りの電車でこの記事を書いている。

何ヶ月もまえから決まっていた予定で、グッズ代に交通費お金も沢山かけた。

明後日にも同じ現場に行く、全通というものではないが違う日付を取れたから行くのだ。一緒に来た友人とは明後日よろしくね、楽しみだね、と言って別れた。

しかった、夢のようだった。この瞬間のために働くしそのためにはなんだってしたいと思った。また行きたい、この趣味絶対にやめたくないと思った 。

だがしかし明日姉の結婚結納があるため、早くかえって眠り準備をしなければならず現実に引き戻されていという状況だ。

基本的楽しい時間を過ごしたあと、次の日は仕事普段日常に戻るものから、みんな同じような気持ちを抱えるだろう。

私は今後、この趣味を続けていけるのか、そもそもそも分不相応趣味ではないのか、この場所には二度と行かない方が良いのではないかと思っているのだ。

私は現在25歳で実家暮らしだ。家に5万家賃として払っているが、家事の多くを母に任せているし貯金もほぼない、むしろ自転車操業だ。自立とは程遠い甘ったれである

明日仕事ではなく姉の結納儀式の日。

5歳上の姉は結婚をして家庭を持つのだ。友人の殆ど彼氏持ち。今日一緒に現場に行った友人もそうだ。

そう、私だけが彼氏もおらず、実家暮らしで将来の展望も何も無いまま、余裕もないのにお金をかけて、何も生み出せないまま生きているということに気がついてしまったのだ。

明後日同じ現場に行くし、12月には別の公演のチケットもとってある。お金は支払い済だ。

こんな夢から冷めてしまった状態で、私は一体どんな気持ち現場に行けばいいんだろうか。

今後のことを真剣に考えれば観劇ライブに行く趣味をやめて、他のことに費やした方がよっぽど有意義だ。

でもまた現場に行ってしまえば、グッズもかってしまい、続編の公演のチケットも買ってしまうのだ。

オタク特有の誇張表現ではなく、本当に麻薬のように辞められない趣味なのだ

この先私は一体どうすれば良いのだろう、先のことなど全く考えずに楽しさだけ享受すればいいのだろうか。

それか仕事を頑張って給料をあげて観劇ライブに行くような趣味が見合うような人間になるしかない。

他のオタクたち我にかえってしまった時、どのような思いで次の現場にいくのか、果たしてすっぱり趣味を諦めるのか、問いたい。

とにかくこの気持ちを切り替えられるような答えを誰か教えてくれないだろうか。

虹の橋

芸能人訃報に対して親交のあるタレントコメントを出した。

その内容は「彼は虹の橋を渡った」と哀悼表現したのだが、この表現は適切だろうか?

ChatGPT

虹の橋を渡った」という表現は、特にペットが亡くなった際によく使われる言葉で、愛された存在が安らかな場所へ旅立ったという意味が込められていますしかし、近しい関係にあった人の訃報について使う場合、やや違和感が生じることもあります日本語表現としては、厳粛さや尊重を重んじるものが多いため、相手家族ファン配慮する意味で、もっと一般的表現(「ご冥福をお祈りします」「天国へ旅立たれました」など)の方がより適切と感じる人もいるでしょう。

ただし、故人と親しい間柄だった場合、その人なりの表現で伝えたい思いを言葉にしたいという気持ち理解できます

Copilot

虹の橋を渡った」という表現は、主にペットが亡くなった際に使われることが多いですが、人間に対しても使われることがあります哀悼の意を伝えるための表現としては、一部の人々には優しさや慰めの意図が伝わるかもしれませんが、他の人々には違和感を感じる可能性もあります

こうした表現の適切性は、文化個人感覚に左右されるものです。そのため、どのような表現が最も適しているかを考える際には、故人やその家族感情、そしてコミュニティ文化的背景を考慮することが重要です。

Gemini

芸能人訃報に対して親交のあるタレントが「彼は虹の橋を渡った」と表現した件ですね。この表現の適切性について、様々な側面から考えてみましょう。

虹の橋を渡った」という表現の背景

由来: この表現は、ペットの死を悼む際に使われることが多いものです。虹の橋は、天国へ続く架け橋という象徴的な意味を持ち、亡くなったペット虹の橋を渡って天国へ行ったという温かいイメージを与えます

広がり: 近年では、ペットだけでなく、人間にもこの表現が使われることが増えてきました。特に家族や親しい間柄の人を亡くした際に、その人の冥福祈り、安らかな旅立ちを願う気持ちを表す言葉として定着しつつあります

芸能人訃報に対してこの表現を使うことの是非

肯定的意見:

故人の霊魂が安らかに天国へ行ったことを連想させ、温かい気持ちになれる。

親しい間柄だからこそ、故人を想う気持ちストレートに伝わる。

一般的な「ご冥福をお祈りします」という表現よりも、個性的で印象に残る。

否定的意見:

ペットに使う表現人間に使うことに抵抗を感じる人もいる。

宗教観死生観の違いから、不快に感じる人もいる。

芸能人という公の立場人物であるため、よりフォーマル表現が求められる場合もある。

適切かどうかを判断する際のポイント

故人との関係性: 親しい間柄であれば、個人的な感情を込めて表現しても良いでしょう。

故人の宗教観家族意向: 故人や家族宗教を深く信仰している場合などは、その宗教観配慮した表現を選ぶべきです。

発信する場の雰囲気: プライベートな場で親しい人に伝える場合と、公の場で多くの人に伝える場合とでは、適切な表現が異なります

周囲の反応: 自分言葉が周囲の人にどう受け止められるかを考えて、表現を選ぶことが大切です。

まとめ

「彼は虹の橋を渡った」という表現は、決して間違いではありませんが、状況や相手によって適切な表現は異なります。故人への敬意を払い、周囲への配慮を忘れずに、言葉を選ぶことが大切です。

より適切な表現を探したい場合

もし、より適切な表現を探したい場合は、以下のような表現検討できます

冥福をお祈りいたします。

安らかに眠ってください。

彼の温かい笑顔を忘れません。

彼の才能に感謝します。

結論

虹の橋を渡った」という表現は、決して悪い表現ではありませんが、状況に応じて適切な表現を選ぶことが大切です。故人への思いやりを込めて、温かい言葉で故人を偲ぶことが、最も大切なことと言えるでしょう。

補足

この件に関して、より深く議論したい場合は、以下の点について考えてみると良いでしょう。

虹の橋」という言葉意味や由来

異なる文化における死生観

言葉の持つ力と責任

芸能人社会的責任

これらの点について、様々な視点から意見交換をすることで、より深い理解を得ることができるでしょう。

暇空茜、10月カンパは170万円しかまら

お前らもっとカンパしろよ!

フェミを倒すんだろ!

表現の自由を守るんだろ!

表現の自由戦士長であり、オタク界のオピニオンリーダーであり、オタク代表選手の暇空さんへのお布施を絶やすな!!

金出さないと全ての表現が焼かれるぞ!

夫婦別姓になるぞ!同性婚が通るぞ!AVが減るぞ!立ちんぼが減るぞ!

いいのかよ!!!

anond:20241101155450

かに俺はエロ漫画の誇張されたびしょびしょ表現好きだけど

でもそれは「濡れる」のがエロいと感じるのであって

尿みたいにジョロローって出たらなんか汚らしく感じるし

鯨みたいにブッシャアァァァって噴いたらギャグなっちゃうわけ

わかってもらえるかなこの気持ち

anond:20241101145655

この投稿はいくつもの誤解と歴史的な誤りが含まれています

1. **「姓」と「氏」と「名字」の違いについて**

 確かに「姓」(かばね)、「氏」(うじ)、そして「名字」(苗字)は異なるものですが、その関係性や成り立ちは複雑で、簡単に整理できるものではありません。姓は古代天皇家貴族における血統地位を示すために与えられ、氏も同様に氏族を示す役割がありましたが、時代を経る中で意味合いや使われ方が変わっていきました。名字苗字武士階級を中心に広まったもので、農民が持っていなかったわけではありません。

2. **農民が持っていなかったのは「姓」という主張**

 この点も間違いです。農民が「姓」だけを持っていなかったという単純な説明では歴史の複雑さを捉えられません。農民庶民がどのように名前を名乗り、どのような役割果たしてたか時代地域によって異なり、一概に「姓」だけを持っていなかったという説明不正確です。

3. **「明治政府農民苗字をつけた」という点**

 「明治政府農民苗字をつけた」というのは一般的に正しい理解です。明治時代以前には農民苗字を持っていなかった場合も多く、名乗ることが禁止されていたケースもありました。明治政府国民統一的な制度として苗字を与える政策を進めました。よって、「明治政府農民苗字を与えた」という認識基本的には正しく、この投稿は誤解を招く表現となっています

4. **「姓尸不称令」について**

 「姓尸不称令」は「公用文書に姓を用いない」という布告であり、これは「姓」の廃止意味するものではありません。また、当時の日本社会における氏名制度の変遷は多岐にわたるものであり、単純に「廃止した」と表現するのは誤解を招くものです。


このように、この投稿には歴史的背景や制度の複雑さを無視した、誤解を招きやす説明が多く含まれています

anond:20241101133209

リアルの話し合いならこれからも付き合っていく相手とすり合わせて妥協点を探らざるを得ないけど

ネットの向こうにいる匿名もしくはハンドルネームしか知らない奴なんて病もうが死のうが関係ないもんな

表現不自由展について中村佑介後藤正文とで見解の相違があったとき

荒れがちな話題の中でお互いが敬意を持ったうえで意見を言い合ってて内容は覚えてないけどなんか涙出たわ

2人はビジネスパートナーなんだから当たり前なんだけどその当たり前が存在してないのがネット上の議論モドキ

ダウト。って何?

ガチマジではてなしかたことない表現なんだけど。

由来とかあんの?

anond:20241101095241

それは被害者ぶる表現なだけだな

同じ姓(家)になるために結婚するという制度

同じ姓になるのはいわば報酬

これが時代遅れで古いとか言う議論はあるけど

結婚自体任意行為なんだから強制とか言うのは嘘

anond:20241101094827

それも前の指摘と同じで

なぜ入れ換えた表現が正しいのかになんも理屈なくて言い張ってるだけ。

語気強くして相手が諦めるまで粘る構えなだけ。

anond:20241101092532

こういうのマジでレトリックしかないのよな

別姓に拘らない(同姓にも拘らない)人がほとんどで

そういうの人らは現状の制度通りで構わないし制度変わるならそれでもいいんじゃない?くらいのもん

別姓に拘る少数のために制度改正するか検討しようっていう状態なのに

表現の誤魔化しでさもマジョリティみたいな振る舞いして嘘つくから延々敵作ってる

ゲームの話なんだけど

フィールドが斜めならキャラも斜めから見た前面背面で表現してほしい

それが難しいなら普通にフィールドもよくある正面からにしてほしかった

どうしてもわからないこと

ふたなり」にはいから金玉が標準でつくようになったのか

昔はクリトリス肥大化したみたいな表現だったのに

最近ふたなり」と言ってるのにヴァギナの方の描写はないただの棒玉を出してくるやつが多すぎるんだけど

なんかホモに乗っ取られてない?

まさかオタク、「ふた」の意味がわからなくなるほど低知能化してるってこと???

コンバーターコーンバター技術食文化に宿る人間創造

コンバーターコーンバター。この二つの言葉は、一見すると無関係対象を指しているように思われる。しかし、その響きには微妙共通点があり、現代人に与える感覚的な違いは、文化歴史の流れを通じて形成されてきた感性の奥底に根ざしていると言える。人間歴史の中で、技術食文化進化と、それらが生み出す美的な感動は切り離せない関係にあり、ここに「コンバーター」と「コーンバター」を媒介とした考察を試みることで、その深奥を垣間見ることができるのではないだろうか。

まず、「コンバーター」とは、一般的には何らかの機能属性を変換する装置技術を指す言葉である電圧を変換する電源コンバーターや、信号を変換するデジタルアナログコンバーターなど、その用途は多岐にわたり現代社会を支える根幹を成す技術ひとつとなっている。これに対して「コーンバター」とは、穀物であるトウモロコシコーンから作られるバター、あるいはそれに類する加工品のことを指す。日本においてはそれほど一般的ではないが、北米南米など、トウモロコシ主食の一部として重要視する文化圏では、伝統的な食材の一つとして親しまれている。

一見、全く異なる二つの概念であるコンバーターコーンバターしかし、その歴史的背景に目を向けてみると、人間の知恵と工夫、さらにそこからまれ美的感性が反映されていることに気づかされる。コンバーターの登場は、工業化技術革新によってもたらされた、変換や変容の技術に関する人間知識結晶である。これに対し、コーンバター農業の発展や食文化進化に密接に結びついている。技術の変換と食材の変換、いずれも人間生活を豊かにするために築いてきた歴史の一側面であり、そこには特有美的価値が含まれている。

人間は、常に物質エネルギーさら情報の変換を行うことで、生活利便性を高めてきた。コンバーターはその象徴的な存在である。例えば、電圧を変換するコンバーターがなければ、さまざまな電化製品自由使用することはできない。デジタル信号アナログに変換することで、音楽映像スムーズに楽しむことが可能になる。これらの技術は、もともと無機的で冷たい印象を与えるものであるが、実際にはその内部に「変換」というダイナミックなプロセスを含んでいる点に美しさが宿る。変換の過程は、単なる物理的な操作にとどまらず、情報エネルギーが形を変えて新たな価値を生む瞬間である。この「変換の美学」は、人間の手によって機械的装置デバイスに具現化され、現代社会の中で目に見えない存在感を発している。

一方で、コーンバターには全く異なる美的価値内包されている。コーンバターは、トウモロコシという自然から得られる素材を加工することで生み出される、食品としての変換の結果であるトウモロコシは、古代アメリカ大陸文明において神聖視された作物であり、その栽培と加工は生活の基盤を形成してきた。コーンバターもその伝統の一部であり、味や風味の中に先人たちの知恵が凝縮されている。食品としての変換過程は、技術的な効率を追求する工業的な変換とは異なり、味わいや栄養価を最大限に引き出すための工夫が重視される。ここに、人間が生きるために必要とする基本的欲求と、それを超えて美味しさや楽しさを追求する美的感覚が交差する点が見出される。

また、コンバーターコーンバターは、それぞれ人間内面的な感覚にも影響を与えている。コンバーターがもたらす利便性は、私たち生活を快適にし、さらには新たな表現可能性を広げている。情報自由に変換し、自在操作できるという感覚は、無限創造力を解き放つものであり、それ自体一種の「技術の美」であると言える。一方、コーンバターがもたらす味覚の体験は、単なる食欲の充足を超えて、郷愁安心感さらには家族共同体との結びつきといった、人間らしい感情喚起するものである。口に含むたびに、自然の恵みを感じ、その過程に込められた労働愛情を味わうことができる。このように、コーンバター食文化の一端としての「食の美」を表している。

さらに深く考察を進めると、コンバーターコーンバターの間には、「変換」という共通テーマがあることに気づく。コンバーター無機物エネルギーを変換し、コーンバターは生の素材を加工することで新たな形に変える。この変換のプロセスには、人間自然物質に働きかけ、何かを新しい価値へと変える行為が見受けられる。この行為自体に、人間が美を見出してきたのではないだろうか。機械的な変換は冷徹である一方、そこには洗練された精密さや無駄のない機能美がある。これに対して、食品の変換には、温もりや手作り感といった情緒的な美がある。いずれも異なる美意識でありながら、共に人間の手によって完成される過程である

現代テクノロジー社会において、コンバーターほとんどの人々にとって日常の一部であり、存在意識することなく利用されている。しかし、それが果たしている役割は極めて重要であり、その背後にある技術的な進化は、実に人間の叡智の賜物である。一方で、コーンバターのような伝統的な食品には、技術的な進歩とは異なる価値観が込められている。ここには「不変の美」という要素が存在し、テクノロジー進化とは対照的な、永遠に続く食文化の美が感じられる。コーンバターを口にするたびに、人々は祖先が歩んだ道を辿り、自然との共生を改めて感じることができる。

このように、コンバーターコーンバターは、それぞれ異なる形で人間生活を豊かにし、感性を刺激する存在である。どちらも変換という行為を通じて人間生活寄与し、美的価値提供している。そして、技術進化伝統継承という二つの相反する要素が、私たち感覚と美意識に新たな価値観をもたらしている。この二つの対象比較することで見えてくるのは、人間が創り出す「美」の多様性と、その根底にある普遍的な美意識である

2024-10-31

anond:20241031222436

お前が見たのが誰の話かはわからんが、俺も表現創作自由であれと思っている

同時に公の場や子供の目に入る場所になればなるほど制限が生じるのも当然だと思っている

フェミちゃん隔離された場所までやってきてけしからん!とか言うし

オタクオタクで衆人環境の往来でエロ意識した絵を表現自由〜!って言って出してる

10年くらい前までは狂人みたいなフェミの方が目についたけど

今は常識も何もないルサンチマンの塊みたいなオタクの方が目について正直恥ずかしい

論争について

https://note.com/p_and_w_books/n/neee921ea91a9

https://note.com/p_and_w_books/n/nf373db52eab9

作品のもの感想

・そうですか、といったところ。


■鯨井氏のジャッジ

 ・まえがきでは個人的狂気重要視するというようなことを言っている。要するに、ユニークでぶっ飛んだものを読みたいということ。そういう欲求をカッコつきとはいえ狂気」という言葉に託したのはよくなかったとおもう。「おまえら創作者はみんな創作情熱を燃やしてそれに狂ってるはずだろ!なあ!」というのはいかにも一昔前のフィクションに出てくる「天才」像で、古臭くて偏狭ではないか

 ・それでいて、最後他者への回路としての「コミュニケーション希求力」を評価基準に置くのがよくわからない。いや、わかりはする。閉じているように見えつつもその暗闇のなかで他者を求めもがくのが人間普遍的なあり方であり、そうした情熱を持っているように見える作品に惹かれてしまう。その気持ちはわかるが、この文章内にかぎればあんまり文脈的につながってないのでは、と感じる。

  ・「コミュニケーション」を謳うのなら作者の側から歩み寄りばかりでなく、評者からの歩み寄りもすべきだった。というか、それが評論行為であるように思う。最終的に「これは自分感情です」というような文言で閉じたのはよくなかったというか、開かれた場のコンテストでは落とされてもしょうがない。

 ・固有名詞問題固有名詞の持つ読者との「共犯性」を指摘し、作品内で用いられている下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」といったワードの「共犯性」が東京中心主義につながっているのではないか、といったようなことを言っている。

 ・固有名詞の「共犯性」についてはそのとおりだが、基本的にはその固有名詞を使うことでどういった層と共犯関係になれるかという戦略問題しかないとおもう。それが気に食わなさにつながるんならそうですね、あなた不快なんですね、としか言いようがない。

 ・「「下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」を使って真にその意図が伝わるのは、それを知る都会の人びと、「カルチャー」の民のみである。」→これはそうは思わない。下北沢はぼざろなどを例に出すまでもなく東京以外のひとびとにもある一定イメージ形成しているし、フィッシュマンズクリムトに至っては別に東京固有でもなんでもない。

 たしかに並べられると東京中心的な貴族性⋯⋯というかヴィレヴァン的なサブカルクソ野郎っぽさが鼻につくところはある。

 しかし、それが「カルチャー」を愛する人びと特有の一段上から世を眺める視点優越性」に直結するかは微妙なところで、それこそ共犯者に選ばれなかった疎外感といえばそれまで。そして、そこから地方差別へとつなげるのはちょっと無理筋だと思う。

 ・関西弁を含めたトータルのパッケージ差別性を覚えたという感じだとおもう。作者の意図しないチャンネル固有名詞)でヘイトが溜まっていったところで関西弁の歌が出てきて「怒り」が爆発したというところか。

 

 ・全体的には論点の設定の仕方があまり開かれていない。差別性を感じるというのであればもう少し広くわかりすい議論を行うか、あるいは関西人であるという当事者性を突き詰めるべきだったと思う。現状の文章としては後者よりなのだが、あまりに「関西人である自分」が自明のものとして最初から展開されているので、読者には「で、関西人であるあなたがなぜそこまで怒ってるんですか?」がわかりにくい。

 ・いろんなところで中途半端な評だと思う。


ジャッジへの反論

ジャッジの二十倍意味不明かつ閉鎖的ですごい。

・「『見下し』ではなく関西弁の語りのある種の味わい(「特権性」という雑な表現をしてなぜか自分を「関西」に対して下位に置こうとしていたが)に対する憧憬なので『見下し』じゃないんだよ」という言い分はそうなのだろうが、それをただしくオリエンタリズムと呼ぶのだよな。

・中盤の「ここまで説明をしたうえで、「本気で思っていたらこんな書き方はできないだろう」と思われるでしょうか。」に至るまでの説得のロジックがよくわかんない。

冒頭で「なるべく感情的にならないように書く」と宣言しているのに「ここまで説明〜」までは、基本的に「自分はこうおもってこう書きました(あんたや読者の気持ちなど知らん)」と自分感情行為しか書いてない。

関西弁の語りの「特権性」に憧れた→まあわかる。

 本当は全部関西弁にしたかったけど、自分技術じゃ無理→すげえわかる。

 だから、一首だけ関西弁にしたお!→え???

(なんか「一首だけにしといてやった」が非関西人としての譲歩だった、とも読める。マジでこれは意味がわからない。) 

・「関西の人の反応を探るために歌会に出した」パート。実際に当事者から方言に関して否定的な反応が返ってきた、と自分で言ってる。

それを「連作という文脈で解消できるのではないか」と考えたらしい。なんで読者がああい作品連続性を確認しにくい場で連作であることを前提に読まなきゃいけないのか意味がわからない(鯨井さんはジャッジからそこらへんい対してはある程度の義務はあるとは思う)というのはまあ置いといこう。

で、「連作という文脈」がなんなのかというと、「作品主体視点人物)が東北人の上京者」であること。

ここらへんの説明がまじで意味わかんなくて、

主体東京出身人間ではないということを明示することで「標準語方言」の権力構造をとっぱらえないかと画策しました」

というのがほんとうにわからない。視点人物東北出身だと関西弁に対するオリエンタリズムが解消されるの? 標準語方言権力関係無効化されるの?? なんで???

しろ、この作品場合主体標準語権力性に乗っかって(実際、歌の大半が標準語で書かれている)、方言搾取してますって構造に見えませんか???

さら問題なのは「今回の文化盗用かどうか、わたしには判別できませんでした。」とか言っているところで、いやわかってないって自覚あるなら「連作で解消できてるとおもう!」とか言うなよ。

関西弁マイノリティといってしまっていいのか〜」のあたりはなにがいいたいのか不明瞭だけど、つまり東北弁は関西弁に比べてよりマイノリティ性が高いから、俺には関西弁をいじる権利がある」って言いたいの? なにそれ?

・そのあとの文章はぐだぐだしてるけれど要約すれば「憧れだから差別じゃないんです」というようなこと。サイードを読め。平凡社ライブラリにある。

・「下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」問題

 ・「そこに「無意識的な共犯性」「優越性」があると断罪できる根拠がどこにあるのかよくわからない」はクリティカル反駁だとおもう。そこらへんは前述のとおり。このへんの反論内容もいちいち書き出さないがリーズナブルだと思う。

 ・「最後感情に走られてしまった部分についてはどこか不信感があります」→作者でなくてもそうなりはする。

トランスジェンダリズムに対する強い疑念

https://x.com/oldwave/status/1851907856171508170

僕も原書房の「トランスジェンダー問題」を読みまして、トランスジェンダー側の主張を検討しました。

僕は、以下の問題があると感じています

1. 真正のトランンスジェンダーと、トランスジェンダー詐称しているだけのヘンタイ区別する方法がない。

2. トランスジェンダー性犯罪と隣接している者が多い。(これは前述書でも述べられているし、トランスジェンダー自身がみとめている。)

3. トランスジェンダリズムはラディカルに資本主義社会自由主義社会改革することを求めている。(漸進的に問題是正していく立場をとらない。)

4. トランスジェンダリズムは真の目的隠蔽し、自分たちの望み、自分たちの苦しみをストレート表現することを避けている。

僕は、反トランスジェンダー立場にはっきりと立つだけの確信がない。確信はないが、トランスジェンダリズムに対して強い疑念を抱いている。

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