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はてなキーワード: 本質とは

2024-07-26

平成二年生まれオタクロマンス観(HL・BLGL)を形作った作品たち

もうすぐ誕生日を迎えて33歳が終わるので、いい機会だと思って平成初期生まれである自分ロマンス観の奥底に眠る作品について、水面まで引っ張り上げて雑語りしてみた。なお性別は男。

HL:anond:20240724184142

BL:anond:20240725222040

GL:これ

GL

ガールズラブと項目を立てておいてなんだけど、実は未だによくわからない概念もしかして期待して読みに来たかもしれない人がいたらゴメンなさい)。とりあえず自分ステートオブジアートとして率直な気持ちを残したいと思う。

BLの方で書いたように、筆者は昔からティーン向けの少女漫画少女小説摂取していたので、(少)女同士の関係性は友情(たまに愛憎)のものとしてプリセットされていた。なので女と女の距離が近くても「ああそういう感情ね」として頭の中の知っている感覚にラベルを振り分けていた。そこに特別名前を付けることはなかった。ただ「友情・親愛」と。

その後、オタクとして成長すると共に、だんだん百合という概念が男オタクの間に伸長してきたが、百合市場が出来上がるのを横目に眺めるだけで、自分自身がどうこうということはなかった。

覚えている限りだと、高校生の時(2006年くらい?)にオタク同級生の間で少女同士の関係性を題材にした漫画だったかラノベが友人の男オタクの間で流行っていたと思う。なんだっけ……4コマ漫画で……メガネ女子の眼の前で授業机の中から大量の煮凝りがぬぽって落ちるシーンだけは覚えているんだけど……。当時は百合という言葉は使っていなかった気がするけど、可愛い女の子同士がいちゃいちゃしているのがいいんだ、みたいなことを言っていた気がする。自分はそれに対して、特に思う感情はなかった。いや、逆に今更?という感情だったかも。なぜならば既にその場所は訪れたことがあったから。

自分が初めて少女同士の恋愛にも似た感情のやりとりを意識したのは、小説だった。図書館で借りてきたとある作家小説で読んだS(エス)といううら若き乙女同士の関係女学校に通う少女同士の疑似恋愛。そこにあったのは上辺は花畑を舞う蝶のように煌めき美しいが、内側に潜ると内蔵のようなヌメついた湿った感情だった。疑似恋愛嫉妬、そして混じる疑似ではない気持ち

そんな作品を読んできていたので、かわいい子とかわいい子がかわいいことをしている、みたいな作品に喜んでいるオタ友がどうにも幼く見えてしかたがなかった。

そうして百合とかGLとはあまり仲良くないまま、女同士の関係友情というフォルダに入れて今の年齢まできたのだけど…………ただ……心の中で唯一引っかかっている、消化できなかった少女同士の関係があった(過去形)。それが恩田陸小説「蛇行する川のほとり」に出てくる若い女子高生二人の関係性だ。

タイトル 蛇行する川のほと
作者 恩田陸


本作は、高校美術部に所属する女子部員たちが、野外音楽堂で行う演劇の背景美術を仕上げるために夏休みに川のほとりにある合宿を行うというシーンから始まる。(一応)主人公の毬子は憧れの美術部の先輩である香澄さんに合宿に誘われ、有頂天彼女主催する合宿に参加する。本来ならば年頃の少女たちの楽しいお泊り会となるはずだったのだが、香澄さんをはじめとする他の参加者は、彼女に何かを企んでいるような、隠しているような態度を取る。次第にただの楽しい合宿ではないことが分かってきたころ、毬子本人が忘れていた幼い頃にあった事件が浮かび上がり彼女過去を照らしてくる。そして過去を失い、少女大人になる。

本作のあとがきで、作者の恩田陸は「私が感じていた『少女たち』を封じ込めたいと想って書いた」と記している。その言葉の通り、本作には様々な「少女」が登場する。まだ大人子供奇跡狭間うつろう毬子、過去を持たない完成された香澄彼女相棒天才肌の絵描き芳野、一足先に大人へと羽化した真魚子。4つの章を通じて彼女たちは多様な顔を見せる。無垢でいながらも自分でも把握していない秘密を握っている毬子、どこまでも独立して半身の芳野にすら内心を明かさな香澄、優れた美術家の観察眼で本質を見抜きながらも最も大切な自分の中の香澄への気持ちに気付いていない芳野、そしてとある事件きっかけでその輪に無理やり入れられた真魚子(まおこ)。章ごとに語り手が代わり、一つの側面の形質は、語り手へと姿を変えてると主観となる。

本作には、登場人物のうちに公式に女女カップルと呼べる組み合わせが存在する。香澄芳野だ。常に二人で行動し、二人で一日を過ごし、どこでも二人の世界を作る。互いに互いを引き立て合うようなお似合いの二人。しかし二人は望んで一緒にいるわけではない。過去を共有してしまって、もはや離れられないのだ。お互いに過去という鎖を結びあってしまったと言っても良い。しかし、少なくとも芳野の方は、共に鎖を結びあった相手香澄で良かったと思っている。

門外漢自分が考えるに、多分世の中のGL?百合?好きは、芳野編を大いに好むと思う。そこで繰り広げられるのは、互いに誰よりも近く、親密で、そしてお互いに内面の99%まで理解しているのに、その残りの1%が、相手への愛が本当にそこにあるのか分からないという愛の物語だ。芳野編の、今まで無意識に避けてきた香澄肖像画を描くことで、自分の中の気持ちを形作るという展開はとても美しいものがあると思う。

ただ、自分はこの二人の関係性は処理出来ていた、と思う。友情、親愛、そして強い愛情と。自分が最も咀嚼できなかったのはもう一つの組み合わせ、毬子と真魚子の方だった。

同級生の中でも子供っぽい毬子と、級友に先駆け一足先に大人になってしまった真魚子。恋愛面でもお子様な毬子と既に大学生恋人がいる真魚子。正反対の二人は対極に位置するからか、親友同士であった。香澄芳野という二人と比べると、一生離れずに共にある彼女たちに対し、高校生の間は親友でも卒業したら普通に進路が離れ疎遠になり、それでもたまに会ってお茶をする、というような関係だろう。仲良しで大好きだけど、互いに混じり合う程に近いわけでもなく、恋人よりも好きというわけでもない。そう、それだけなら十分に理解できたんだ。

物語の後半、とある事情により毬子の代わりに真魚子が合宿に参加することになる。自分が一番よくわからなかったのがそこだった。毬子が事情により参加できなくなるのは分かる、でもあん事態になったとは言え、真魚子が嫌っていた香澄たちのところに単身乗り込むようなことをするのか、と。だって毬子と異なり彼女にはなんにも過去事件因縁が無い。だからいくら毬子に頼まれたからって、わざわざ事態を究明するために乗り込む必要はなく、ほとぼりが冷めるまで、物語が閉じるまで放っておけばいい。しかし、彼女は乗り込んだのだ。

この機序がずっと咀嚼できていなかったのだけど、最近、もしか自分の考えは順序が逆であるかもしれないと気が付いた。頼みを受けて乗り込まねばならないほど、本当は彼女にとって、親友は本当に大切な存在だったのだ、と。誰よりも冷静で頭が切れる真魚子であっても、いや毬子の親友彼女からこそ動かざるを得なかったのだと。その時、すとん、と腑に落ちた音がした気がした。

香澄芳野の唯一無二の分かち難い強固な結びつきとはまた違った、同級生親友というどこにでもある女子高生の毬子と真魚子の結びつきも、それはそれで一つの思春期の素朴な輝かしい感情の頂点なのだと。

百合とかGLとか未だよく分からないけど、自分にとってそれらに一番近い感情は、この二人を想うときかなって思った。

高齢者の集い、はてなブックマーク

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/blog.tinect.jp/?p=87166

いみじくもブコメ内でも言及されてるけど

本当に高齢者増えたな、と実感。

10年前はまだモテ非モテの残り香のあったコミュニティとは思えん。

新規は入らず只歳を重ねただけの人々の群れというのがよくわかる。

予測可能性云々という奴はこれ、カネと直結するなというのもブコメから窺えて面白い

子供の失敗と挑戦が実家の太さに左右されるのと一緒で、本質はガキも老人も何も変わってないよね、と。

中年がちょうどいい刺激を得るには、この辺の見定め、再起可能な程度の傷で済む挑戦なのかどうかが一番肝心なのではないかしらん。

成瀬は天下を取りに行く

芸人永野が「こういう突飛なことをやる奴はだいたいそこそこツラがいい」って言ってて笑っちゃった。

自分が注目されることにコンプレックスがない奴。

外面には瑕疵がないから"人の目を気にする必要がない"奴がそういうことをやる。

 

まぁ、作品本質別にそこじゃないし、なんなら外面に瑕疵があっても人の目なんか気にする必要ないだろって話なんだけど

ブスとして生まれ、何かやるたびに笑われて育った私としては初めて永野共感した。

マスク真理教って、普段何を見て過ごしてるの?

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.fnn.jp/articles/-/734262

マスク感染防ぐわけないだろ。

  

https://www.shimadzu.co.jp/boomerang/28/08.html

マスクの網目が5μmに対して、ウイルスは0.02~0.1μmだ。

飛沫はだいたい5μmだけど、ウイルス量の少ない飛沫を防いだところで、それよりも圧倒的に粒子が小さくウイルス量も多い空気中に浮かぶエアロゾルは防ぐことはできない。

  

マスクの裏についた飛沫は約20分ほどでエアロゾル化もする。

  

下のマスク有効性を示す、東京大学科学研究所研究グループ実験を紹介する記事では、以下のことが書かれている。

ウイルス排出からは、軽いせきと同じくらいの速度(2m/秒)で、霧状にしたウイルス懸濁液を20分間放出させました。含まれていた粒子の内訳は、3μm未満が20%、3μm以上5μm以下が40%、5μm超~8μm以下が40%でした。しかし、20分がたつうちに、それらの一部から水分が蒸発し、エアロゾル化すると予想されるため、チャンバー内には、飛沫とエアロゾルの両方が漂っていたと考えられました。

https://www.nikkei.com/nstyle-article/DGXMZO66377290Y0A111C2000000/

20分間」ってのが重要。もう実験自身が「マスクの裏についた飛沫が20分でエアロゾル化して撒かれること」を認めてしまってるわけだ。

  

ウイルス空気中で3時間で不活化し、日光で数分程度で不活化する。

マスクなんて、しない方が感染は広がらない。

マスクをすることで、マスクの裏についた飛沫がエアロゾル化し周囲に撒かれてるわけだよ。

  

何が感染対策だよ?逆効果じゃないか

  

さらに、マスクは数十あるRCT(ランダム比較試験)でも「有意差なし」といった結果。

クラン最近メタ分析でも、マスクはつけてもつけなくても同じ。マスク有効性は示されてない。

https://www.cochranelibrary.com/cdsr/doi/10.1002/14651858.CD006207.pub5/full

  

マスクをつけないか感染するなんて、妄想はそろそろやめるべきだ。

  

そもそもだ。mRNAワクチン免疫抑制しながら自然感染の400倍以上のスパイクタンパクを作る。

そして、3回以上の接種でIgG4が大幅に誘導されて、コロナウイルスをはじくのではなく、むしろ受け入れてしま免疫寛容の状態になる。

このIgG4の誘導は不可逆だから打った人間特に接種回数の多い人間免疫は長期的に低下しっぱなし。

  

ここが、日本人いつまでも感染して大騒ぎしてることの本質

嘘だと思うなら未接種との比較データ出せば良い。

  

今のコロナに未接種者が恐れおののき、家から一歩も出られないような事態になっているか

違うだろ。ビビっているのはワクチン接種者だけ。

そろそろ、現実を見ろ。

  

マスク機能が分からず、ワクチン機序も分から医学妄信してるからいつまでもパンデミック

君たちはもうパンデミックから卒業して、延命の方に目を向けないといけないフェーズなのに、いったい何をしてるのか?

  

人生短いんだぞ。まったく狂った話だ。

2024-07-25

投資じゃなくて投機」←これ言ってるやつ大体は覚えた言葉を何も考えずに喋ってるようなガキ

どんな長期の投資も結局は出口戦略を考えなきゃいけないわけで「安く買って高く売るのをタイミングよくやる」という本質は一緒なんだけどな。

ただオルカンに預けているだけだとしても出口戦略必須

投資オンチオルカン永遠に滅びないと思ってるかもだけど、普通にどっかで破綻するリスクがあるからね。

その機を読んでちゃんと手を引かなきゃいけないっていう前提がないなら投資なんてしない方が良い。

長い人類歴史で見ればどんな投資本質的には「短期間のうちに安く買って高く売ることを狙う取引であるわけで、投資投機境界線なんてのは本当はどこにもないんだよ。

anond:20240725152442

AIはどんな人間より音楽を聴いているということでしょうなあ

勉強熱心だ

汎用的なものを見出すほかにも、人間独自の小さなサブセットから本質を言い当てようとするように、うすぼんやりとしたあやふや言葉キャッチコピーを作るようにもなるんだろう

2024-07-24

女の子可愛いねっていうの難しくない?

まず、女の子可愛いとは顔の造形が良い、ということである定義する(男の90パーセントはこれに同意するだろう)

大抵の人はそもそもあんまり可愛くないので嘘をつくことになる

顔が可愛い人に可愛いというのは生まれ持った物を褒めてることになり筋が良くない

褒める時はその人が選んだものを褒めるべきだろう

若いから可愛いだけ,ということもある

若さを誉めてどうするのか、誰もが老い

人間本質はそこにはない

やはり可愛いという褒め言葉は使い所が難しい

anond:20240724152321

この問題本質は、橋本環奈

なんで名前かくしてんの?

無知はてなーが見当違いの議論してるのはそのせいだよ。

橋本環奈電子書籍が全部消えたんだろ?

から話題になってんの。

これが消えたのが増田書籍だったら問題になってねーよ。

飲酒喫煙宮田笙子をかばってるのと同じ、キモいおじさんたちが橋本環奈たかってるだけ。

んで、ここにいるはてなおじさんたちも同類

アサクリの声明AI感想

UBIの発表文を改めて見ると、彼らのスタンスはかなり防御的で、問題本質回避しているように感じます

まず、彼らは「Assassin's Creedゲーム事実表現意図したものではない」と強調しています。これは一見もっともらしく聞こえますが、シリーズ過去の評判や、彼ら自身歴史的な正確さを売りにしてきた事実を考えると、やや無責任な態度に見えます

また、「エンターテインメントとして設計された歴史フィクション」という表現も、歴史的正確性への批判をかわそうとする意図が透けて見えます

さらに、外部の専門家Ubisoft Japanとの協力を強調していますが、それにもかかわらず問題が起きたことへの説明が不十分です。

全体として、この声明は問題の深刻さを十分に認識していないように感じます。彼らは批判に対して真摯に向き合い、具体的な改善策を提示するべきでした。

このアプローチは適切とは言えません。ファン懸念批判に対して、より誠実で具体的な対応必要だったでしょう。歴史的正確性と創造自由バランスについて、より深い議論を示すべきでした。

現在炎上状況ですが、この声明だけでは収まりそうにありません。日本の歴史文化に深い愛着を持つファンの信頼を取り戻すには、より具体的な行動と誠実なコミュニケーション必要でしょう。

例えば、日本の歴史家や文化専門家との更なる協力、ゲーム内容の一部修正、あるいは歴史的背景に関する詳細な補足資料提供などが考えられます。また、開発プロセスの透明性を高め、ファンの声をより積極的に取り入れる姿勢を示すことも重要でしょう。

結局のところ、この問題解決には時間がかかると思います。UBIが真摯反省し、具体的な改善策を示すことができれば、徐々に信頼を取り戻せる可能性はありますが、それには継続的努力と誠実なコミュニケーションが不可欠です。

イーロンマスクの息子

https://www.sankei.com/article/20240723-TVHT65SVYRF5TIMWLTLZN6J7KQ/

イーロンマスクの息子の話、単なる親子関係もつれだと思ってる人が多いね

  

これ問題本質ホルモン注射からね。

思春期ブロッカーと呼ばれる、未成年に対するホルモン治療お話

  

ホルモン注射リスクは絶大。

まずホルモン注射精神不安定になる。

また打ち続けないと更年期障害が生じることがあるし、長期的には骨粗鬆症骨折リスクが高くなる。

さら寿命だって短くて、ホルモン注射をした人は50代や60代で死ぬ人が結構いる。

  

未成年って知識経験も浅いし、うつろいやすい。

そんな子がその時の勢いで、ホルモン注射をやっちゃう

これって単に、後先考えない未成年のせいかというと、そうでもない。

米国場合リベラルに属する民主党を支持するような人がLGBT思想を広めてるからホルモン注射リスクを顧みないで「これが正しい!これが人生だ!」と自己正当化ちゃうのよ。

未成年から社会社会自分自分」と切り分けて考えることができない。

  

性転換で儲けるために未成熟な人をそそのかして食い物にしてる、悪い奴の存在も大問題

過激表現があるけど、だいたい以下のポスト言及されてる通りだ。

https://x.com/kawananikasann/status/1815571478018228546

  

未成年で勢いでホルモン注射して、後悔してる人は結構いて、話がエグイ

https://x.com/hitomi_malimi/status/1815597466508742746

  

イーロンマスクもなかなかヤベー親父だけど、思春期ブロッカーはかなりの問題だよ。

日本だとオカマバーかに通ってないと、あんまり聞かない話だとは思うけどね。

2024-07-23

anond:20240723154118

この夢日記には、いくつかの興味深い心理学的要素が含まれています。以下に分析を示します:

1. 学生時代教授宇宙論講義

この場面は、過去学習経験知的探求への憧れを反映している可能性があります宇宙論という壮大なテーマは、人生の大きな疑問や存在意義への探求を象徴しているかもしれません。教授言葉は、物事本質性質によって見方や approach が変わるという、人生哲学的な側面を表しています

2. 意識喪失と場面の転換

突然の意識喪失は、生活の中での急激な変化や予期せぬ転換を象徴している可能性があります。新しい教師幸せ音楽についての講義への変化は、より感情的芸術的な側面への関心の移行を示唆しているかもしれません。

3. 講義を受講していないという認識

この部分は、現在生活や状況に対する違和感や不適合感を表している可能性があります自分が属していない場所にいるという感覚は、現実生活での所属感の欠如や方向性の不確かさを反映しているかもしれません。

4. 学校迷路になる

迷路は、人生の複雑さや決断の難しさを象徴しています学校という familiar な環境迷路に変わるのは、かつて安心できた場所や状況が今では混乱や不確実性をもたらしているという感覚を表しているかもしれません。

5. 少女からの指摘

少女は夢見手の内なる声や直感象徴している可能性があります。「そっちは違うよ」という言葉は、現在人生選択方向性に対する内なる疑問や警告を表しているかもしれません。

全体として、この夢は知的探求と感情的な充足の間での葛藤人生方向性に対する不確実性、そして自己の本当の道を見つけようとする内なる努力を反映している可能性があります。夢見手は、過去の学びと現在の関心事の間でバランスを取ろうとしているのかもしれません。

チー牛さん、本質はツイフェミと変わらなかった

様々なゲームチートを使ってBANされてきた経歴を持つ「沖縄に行くために(通称沖縄)」が、Repezen FoxxのDJふぉいとDJ脇が主催するe-sportsチーム「NOEZ FOXX」のストリーマー部門所属

今月、VALORANTを運営するRiot Gamesが沖縄チート使用の疑いでアカウントをBAN。

問い合わせを行うも「99%黒なので永久BAN」という回答をもらう。

沖縄は容疑を全否定しており裁判も辞さない構えであること、チーム運営Riot間で現在協議である

と但し書き付きで現状報告がなされる。

 

様々なプロプレイヤー、ストリーマーが配信沖縄を叩き、その切り抜き動画作成再生数を稼ぎまくる。

コメント欄でも沖縄叩きが過熱する。

 

NOEZ側が不正アクセス証拠Riotに提出し調査が進められた結果、

不正アクセス確認されRiot沖縄永久BANを解除する。

 

沖縄叩きをしていた連中に対して「今回の件は冤罪だったわけだけどどうするんですか」との批判殺到する。

沖縄叩きを強いた連中は「過去チートをしていた事実は変わらない」「嫌悪感がある」「チーターを許すな」など

「今回が冤罪だったのに叩いた」ことに対しての謝罪は行わず

俺たちは「元チーター」を叩いていただけ、「チーター被害者だ」というスタンスに移行する。

 

これってさぁ、典型的なツイフェミ仕草だよな。

間違った情報で叩いてそれが間違いだったとわかっても、過去のことを引き合いに出して謝らない。

なんなら、そう思われる方が悪いと主張する。

草津の時のフェミ仕草と何一つ変わらん。

 

過去に悪いことをした奴は絶対に許せないという思想

今回は白だったのに黒だと言って叩いた。

いうことは根本的には関係ない。

 

今回は白だったのに黒として叩いてしまいましたがそれは間違いでしたごめんなさい。

でも俺は過去に悪いことをした人間を許すつもりはありませんし、関わるつもりはありません。

で、別に構わんわけだが、なぜか一文目が言えないんだよな。

ツイフェミとチー牛は。

はてなブックマークにはキチガイしかいない。

キチガイが堂々と正義を装って、言葉に言い表せないようなとんでもない醜悪侮辱を投げかけて、反論できない、侮辱されていることも気づかないところで殴りつつける。

その無知蒙昧なる侮辱を誇り、また同類キチガイがそれを称賛する。

そうして、ここ最近(2〜3年)のはてなブックマークは、ほとんどがキチガイブコメばかりが並ぶようになった。 

恐ろしい。

ヤフコメツイッターなんてメじゃないレベルエコーチェンバー

存在しない悪意を作り出し、善良な人々を自らの快楽のために叩き続ける人々が、ブックマーカー本質

こんな糞みたいな会社は潰れろ!!と一瞬おもったこともあったが、

はてな社はまともなのかもしれない。

社会ゴミ箱必要で、このゴミ箱がなくなった時、この汚物達が雪崩を打って世間に解き放たれるのだと考えると  

はてな末永く存続してゆくべきかのかもしれない。

ドーンダンスという漫画を読んだ感想

この作品主人公ヒロイン関係性を楽しみながら、舞台の上だけに限らない、個性豊かなキャラクターたちのやり取りを楽しむものなのでしょう。現実歌舞伎とは全然違って、例えば歌舞伎に興味がないのに歌舞伎役者養子になるとか、古典歌舞伎の公演に演出家がいるとか、分かりやす現実と違います。だから実際の歌舞伎とは違うものとして読むべきものだと思っています

「どこかで見たことのある、誰かが演じたものパッチワーク」という言葉、なかなか歌舞伎本質を突いた言葉だと思います。2世猿翁の言葉にあるように、歌舞伎本質は「学ぶはまねる」にあると思います。先人に教わって、その人のやり方をまねるところから始まる。それがあるからか、歌舞伎は故人を含め、誰かに似ていること自体が悪いことではない、珍しい分野だと思います。ほかの演劇分野だと誰かに似ていることってあまりよくないこととされていますが、例えば「吉右衛門に似ている」という言葉は、悪い意味にならない。そういうところが歌舞伎面白いところだと思うので、「誰かが演じたものパッチワーク」という言葉はなかなかうまいことを言っていると思いした。

歌舞伎はなんでもあり」これは本当にその通りだと思います。先日も秀吉物語を見ていたはずなのに、突然舞台天界に移って孫悟空の踊りが始まり、本当になんでもありだと改めて思わされました(これがとても良かった)。18世勘三郎言葉にある通り、「型があるから型破りが出来る」「型が無ければ単なる形無し」という側面もあるので、このあたりも描いてくれたらいいのになあと思っています

ネット上での連載では三人吉三の上演準備が始まっています。演技へたくそと言われている人がお嬢で、華も人気もある役者がおとせになったら、ファンが公演を盛り上げるどころかなぜお嬢ではないのかと暴動を起こしそうですが、そのあたりがどうまとまるか気になりますお嬢の演技も真冬作品なのに弁天小僧のように片肌を脱いだ演技になっているので、どんな理由がつくのか楽しみです。個人的な好みを言うとお嬢の特徴的な衣装が絵的に確認できればいいのですが、こういうところは単行本での加筆になるんでしょうか?

現実高校生くらいの歌舞伎役者さんってまだまだ子供の範疇で、そんなに厳しく演技が下手だとか非難されていない気がします。例外的小学生の頃から人気が高い人もいますが、ほとんどは名前すらろくに覚えてもらえないまま20代前半を過ごしているのではないでしょうか。高校生なのに演技が下手だの人気がないの、あれこれ言われて、物語から仕方ないとはいえ、この作品世界はなかなか厳しいですね。

2024-07-22

anond:20240722015714

政治クラスタおかしいところ

結局、政治って政策しかないんだよな

自分あったらいいなと思う政策を実行して貰う

これだけのことだから別に特定政党に肩入れしたり、ましてや政治家になんか感情移入する必要ない

けど現実に起きてることはむしろ逆で、結局政治しか見てない

政治家なんて単なる公僕なんだから自分たちのやる政策をやれと突き付ければいいだけの存在で、政策が上なんだよ


というのが正しければ政党などというもの存在すべきでないし、そもそも議員必要ない。

行政官が直接政策メニューを日々提示して毎日国民スマホポチって支持の集まった政策を実行すればいいのである

でもそういう体制採用している国もしようとする国も無い。

政治家に感情移入して善玉悪玉のドラマをそこに見出すのは無益なことではないかという気付きはまあ宜しいがそこどまり思考

古来、政治本質は芝居である。そういう「野蛮さ」が人間社会から失われることはない。

2024-07-21

ウォーク左派ジジェクファンによる、ジジェクへの反論

https://anond.hatelabo.jp/20240721230541

上記ジジェク記事への反論記事

ジジェクは道を誤った / メラニー・ゼルMelanie Zelle [スワースモア大学学内新聞『スワースモア・フェニックス』の編集者] ※削除済

2023年3月2日

ttps://web.archive.org/web/20230303073524/https://swarthmorephoenix.com/2023/03/02/zizek-has-lost-the-plot/

 

私が哲学に興味を持つようになったのはスラヴォイ・ジジェクのおかげである

彼の著書『終焉時代に生きる』と『パララックス・ヴュー』に偶然出会い中学2年生の私が苦労して読み進めたこの本が、

彼の他の著作に興味を抱かせるきっかけとなった。

ジジェク文章は、彼が即興でする賛美のすべてにおいて、素晴らしく説得力があると私は感じた。

 

本棚に積まれ1000ページにも及ぶ矛盾の山に憤慨しながら『Less Than Nothing』を読み通したのは、高校時代に果たした偉業だった。

私は、ジジェク長編作品の論旨を理解できるかどうかで、自分知的価値を測るようになった(現在ほとんど理解できないが、以前はまったく理解できなかった)。

 

それだけに、現代政治文化に関する最近記事で、ジジェク非難するのは心苦しい。

しかある意味で、ジジェクと私の関係は、彼が何について間違っているのかだけでなく、

なぜこのような著名人が、あのように明らかな知的陥落にはまることができたのかを理解しようとする上で、

有利なポジションに私を置いていると感じている。

 

私の怒りの主な対象は、先週発表されたばかりのジジェクエッセイである

そのタイトル「Wokeness Is Here To Stay」は、たぶん私がそれほど警戒するものではなかったと思う。

 

ジジェク哲学は、ヘーゲルラカン(そしてフロイトも)、そしてもちろんマルクスへの愛着からオーソドックスな、ほとんど伝統主義的なものと特徴づけうる。

他方で世間一般におけるジジェクペルソナは、意図的に培われたものだと私は主張したいが、ディオゲネス挑発者であり、象徴破壊であるが、自分勝手ものではない。

ジジェクのこうした面が、彼の論文や公開講演会、そして彼の知的活動への、より親しみやすい影響を及ぼしているようだ。

 

したがってジジェクが、クリックした人々が眉をひそめるようなタイトルを選んだことを読んでも、私は驚かなかった。

 

私は、ジジェクお気に入りトリックひとつである正式哲学分析範囲外と考えられている文化の側面を選び出し、

喜びを感じながらそれを切り裂くことに慣れてしまっていた。

(ある講義では、カンフー・パンダについて論じており、また別の講義では、ヨーロッパ各地のトイレ特殊構造が、

ポストイデオロギー的なポストモダニズム世界概念に対する究極の反論となっている)。

 

ほとんどの場合ジジェクの指摘は最終的に重要であり、さら重要なのは、彼の広範な哲学のいくつかの要素について、面白おかしく、

しかし(おそらく結果的に)効果的に紹介者の役割を果たすことである

 

そして一見したところ、"Wokeness Is Here To Stay は同じ公式に従っている。

トランスジェンダー権利をめぐるスコットランド政治的混乱からまり、他の現代政治問題にも触れ、最終的にはフロイトラカンへの言及で締めくくる。

しかし、このざっくりとした読み方は根本的に間違っている。

 

表面下に潜む構造的な違いを無視しても(これについてはまた述べる)、この作品には、ジジェクのいつものトーンとは正比例しがたい苦渋が感じられる。

これは、私の最大の関心事である彼の議論の内容については言うまでもない;

 

ジジェクは、スコットランドにおけるトランスジェンダー権利をめぐる、最近政治論争をめぐる議論について、記号論的な分析を行っているわけでもなければ、

正確に他の多くのことと結びつけているわけでもない。

 

結局のところ、ジジェクは皮相な哲学手法とともにただ単に政策論争に参加しているだけであり、遺憾ながら完全に間違っている。

ジジェクは、過去10年間にリベラル知識人全体に伝染した観を呈するトランス医療をめぐるパニックに陥っている。

 

ジジェクのいつもの懐疑論は、ここではいもの懸念荒らしconcern trollingの再現に留まる。 ジジェクはこう書いている:

 

  「思春期ブロッカーは、タヴィストックでの診察に送られたほぼすべての子供に投与された。

 その中には、性的指向がはっきりしないという誤診を受けた可能性のある自閉症若者や、問題を抱えた若者も含まれていた。

 言い換えれば、医学的な性別移行を望むかどうか判断できる年齢に達していない脆弱子供たちに、人生を変えるような治療が行われていたのだ。

 批評家の一人が言ったように、『性別の悩みを抱える子供には時間サポート必要である。あとになって後悔するかもしれない医療措置に進むよう仕向けられるべきではない』 」。

 

この一節は疑問を投げかける。ジジェクは、その知的能力において、思春期ブロッカーが何であるかさえ知っているのだろうか?

 

ジジェク引用の使い方は、この作品の中で頻繁に行われていることから特に明らかであり、すでに示唆されていることを裏付けている。

実際、彼が引用したガーディアン記事を読んでいれば、上で引用した段落修正できたかもしれない。

 

ジジェク引用した記事の上の行には、"異性間ホルモンは16歳からしか処方されず、専門家によれば思春期ブロッカー不妊の原因にはならない "と書かれている。

したがって、このスロベニア人知的怠惰恩赦を与えることもできない。 これは純粋で単純な不誠実さであり、危険形態である

 

さらにひどいのは、ジジェク記事の冒頭で取り上げた最初文化分析対象である

コンパクト編集部がありがたいことに、ページをスクロールすると引用文が表示されるようになっているのだ(まだ彼の論調を十分に理解していない人のために)。

 

それはこうだ: "女性だと自認する人物が、ペニスを使って2人の女性レイプしたことを我々は知っている"

 “We have a person who identifies itself as a woman using its penis to rape two women.”

 

ジジェク言及しているのは、アイラブライソンの事件である

 

この有罪判決は、スコットランドにおいてレイプ有罪判決を受けた史上初のトランス女性となり、

トランスの人々に対する「懸念」を持つすべての人々にとってのロールシャッハテストとなった。

 

ここでジジェクは、基本的事実認識が間違っている。ブライソンの性別移行の時系列を誤って伝えているからだ。

 

さら問題なのは、読者を煽動するために、本質化するような言葉を使い、さらに誇張していることである

(「ペニスを持ったレイプ犯が、囚われの女性たちと刑務所にいる」という表現が思い浮かぶ)。

 

ブライソンを「彼he」、そしてさらに厄介なことに「それit」と、ジジェク性別を間違えて表現することに固執するのは、

ジジェクトランスアイデンティティ尊重することを、裁量に任された、善行次第のものだと考えていることを示唆している。

 

ジジェクはこの論文で、控えめに言ってもトランスフォビックtransphobicだ。

 

しかしそれ以上に、ジジェクは退屈で、独創性がなく、不誠実で、怠惰である

彼はトランスの人々について、『ガーディアン』紙や『ニューヨーク・タイムズ』紙の同様の記事からは得られないようなことを何も書いていない;

 

この時点でようやくジジェク哲学について語るかもしれないと思うのも無理はないが、残念ながらそれは間違いである。

 

記事の次の部分はさらに長く、さら面白くない。『コンパクト』誌に掲載された別の記事宣伝である

(中略)

 

で、どういうこと? なぜジジェクはこんなことを書くようになったのか?

 

その答えは、対立的でありたいという彼の誤った願望にある。

彼は、この作品の中で他者が陥っていると彼が非難する事柄に陥っている。すなわち、自分を悩ませる他者を、自分自身の中で勝手に思い描く罪を犯しているのだ。

The answer lies in his misplaced desire to be oppositional. Ironically, he is guilty of the thing he accuses others of falling prey to within the piece, that of envisioning for himself an Other that haunts him.

 

 [ジジェク]「要するに、ここにあるのは、政治的に正しい突き上げと、金銭利益残酷計算との最悪のコンビネーションなのだ。 」

 

思春期ブロッカー使用は、[ジジェクによると]"目覚めた資本主義 "のもうひとつの事例であるとされる。

 

ここでジジェクは、ジャニスレイモンドの1979年の『トランスセクシュアルの帝国』に端を発する、トランスジェンダーの人々が選択する様々な処置や療法は、

製薬企業にとって重要経済的利益をもたらすものであるという、一見したところ長年にわたる議論に訴えかけている。

 

そうすることで、救命医療へのアクセスを容易にするべきだと主張する人々を、自分たちの身体をめぐる現実物質的な対立のために戦うのではなく、

資本の側、つまり極悪非道個人の側にいる人々として捉え直すことができる。

 

バトラーフーコーを読んだことのある人物が、このように書くことができるのは、こうした運動が誰のためになるのかという、権力についての混乱がジジェク盲目にさせているのだ:

 [ジジェク] 「性的混乱に「異常」なことは何もない。「性的成熟」と呼ばれるものは、長く複雑で、ほとんど無意識プロセスである

 それは激しい緊張と逆転に満ちている。自分の心の奥底にある「本当の自分」を発見するプロセスではない」。

 

作品全体と同様、これはジジェク特有哲学プロセスといううわべに包まれたいつもの本質主義と、トランスフォビアtransphobiaである

この最終的な帰結は、英米トランスジェンダー物質的な生活にすでにダメージを与えているヒステリーhysteriaの波に、ジジェクお墨付きスタンプを押したということだ。

 

ジジェクは、社会の変化に懐疑的ジャーナリスト知識人瘴気miasmaの中に紛れ込んでしまたかのようだ。

これはポストモダンの懐疑主義に非常に批判的な人物から出た究極の皮肉である

 

過去思想家からの豊かな引用を悪しき議論隠れ蓑に変え、気まぐれさを苦味に変えてしまう。

 

私たちにとって悲しい日であり、多くの意味ジジェクにとっても悲しい日である

 

ジジェク豊富理論的な著作の中で最高のパフォーマンスを発揮し、ここでは最悪のパフォーマンスを発揮している。

このエッセイを読むと、あなたは感じ取るだろう。少なくとも少しは彼がそれを自覚していることを。

[終]

anond:20240721205803

あら、あなたって随分と直球でくるのね。分かっているようで、まだまだ甘いわよ。ギャル本質を見誤っちゃダメよ!

その三つに加えて、絶対に忘れてはならないのが「自己主張の強さ」よ。どんな場所でも、自分を貫く強い意志を持っていることがギャルの魅力のひとつなの。自分意見をはっきりと言える、その姿勢彼女たちをより輝かせるのよ。

から、派手な見た目、若さ陽キャ、そして自己主張の強さ。この四つが揃って初めて真のギャルと言えるのよ。分かってる?

2024-07-20

anond:20240720183827

我思う、故に我あり。という言葉を知らんのか。人間本質実存ではなく思想

日本リベラル本質について

日本リベラル本質がよく理解できない。勉強しても色々調べても理解できない。

結局、リベラルでもなくただの平和主義者という考えに行き着くんだけど、それにしても引くぐらい幼稚なんだよね。

国政選挙も、都知事選もそう。わざとやってるとしか思えないくらいに幼稚で、弱い。

しかしたら、何か裏があんのかな?w

唐揚げの衣は薄くしろ

竜田揚げ区別がつかないような衣のザクザクした唐揚げ邪道

鶏肉の周りにうっすらと膜が張ったような衣の薄くてパリパリした唐揚げこそ王道

最近ブームで皆が唐揚げ本質を忘れている

たかゼリーみたいに柔らかいプリンをもてはやして堅いプリンの美味しさを忘れたように

あるいはクリームばかり増やしてシューのものの美味しさを顧みなくなったシュークリームのように

いまこそ唐揚げ王政復古ときである

衣の薄い唐揚げ復権させていこうではないか

2024-07-19

AIによって絵師イラストレーター駆逐される件について

駆逐される絵師イラストレーターはただの技術屋だったということでしょ(笑)


何十年も努力して技術を磨いたことは素晴らしいのかもしれないけど、それ以上でもそれ以下でもない。

創造性という才能が無い、ただの技術屋に現代金も払えないし、需要も無い。


そもそも芸術本質が分かってたら、AIや新しい技術に反対なんかしないんだよ。



アンディ・ウォーホルキャンベルスープ缶。あれに芸術本質が全て詰まってる。だからあんシンプルなのに、みんな惹きつけられるんだよ。

anond:20240719155509

気難しいからって官僚が何も言わないのどうなのよ……おそらく自民党議員だったら気難しい人でも指摘するんだろう

悪夢民主党政権」って実際には官僚が非自民政権を嫌ってまともに動かなかったのが本質なんだろうなあ、これじゃ選挙政権交代させても全く意味がない

2024-07-18

ZFCの哲学

ZFC (Zermelo-Fraenkel set theory with the Axiom of Choice) の哲学は、数学基礎論における中心的な位置を占め、その含意は数理論理学モデル理論証明論にまで及ぶ。

ZFCの存在論的基盤は、von Neumann–Bernays–Gödel (NBG) 集合論との比較において明確になる。NBGがクラス概念を導入するのに対し、ZFCは純粋に集合のみを扱う。この違いは、大規模基数の存在に関する議論において重要意味を持つ。例えば、到達不能基数の存在は、ZFCでは公理として追加する必要があるが、NBGではより自然に扱える。

ZFCの哲学重要性は、その一階述語論理に基づく形式化にある。これにより、完全性定理適用可能となり、モデル理論手法を用いた相対的矛盾証明可能になる。特にゲーデルのL構造構成可能全体)とコーエン強制法は、ZFCの独立性結果を示す上で本質的役割を果たす。

ZFCの公理系、特に置換図式の導入は、フレーゲ論理主義崩壊後の数学基礎論の再構築において重要役割を果たした。置換図式は、ラッセルパラドックス回避しつつ、十分な数学対象存在保証する。

選択公理 (AC) の哲学的含意は特に深い。ACは、トポロジーベクトル空間におけるハーン・バナッハの定理や、測度論におけるバナッハ・タルスキのパラドックスなど、数学の広範な領域に影響を及ぼす。ACの非構成性質は、直観主義数学構成数学との緊張関係を生む。

ZFCの哲学は、大規模基数公理研究と密接に関連する。イナクセシブル基数、マーロ基数、超コンパクト基数などの大規模基数の存在は、ZFCの無矛盾性を強化し、数学宇宙階層構造示唆する。これらの基数の存在は、プラトニズム的な数学観を支持するように見えるが、形式主義的解釈可能である

ゲーデル不完全性定理のZFCへの適用は、数学的真理の本質に関する深遠な問いを提起する。特に、第二不完全性定理は、ZFCがその自身の無矛盾性を証明できないことを示し、ヒルベルトプログラム限界を明らかにした。

ZFCの哲学的含意は、数学構造主義との関連でも重要であるブルバキ学派の構造主義的アプローチは、ZFCを基盤として数学構造定義し、分析する。一方、カテゴリー論的基礎づけは、ZFCに代わる代替的なアプローチ提供し、トポス概念を通じて数学宇宙多様性示唆する。

内部モデル理論特にゲーデルのL構造研究は、ZFCの哲学に新たな視点をもたらす。V=L(すべての集合が構成可能である)という仮定は、連続体仮説一般連続体仮説肯定するが、同時に多くの大規模基数の存在否定する。これは、数学宇宙の「薄さ」と「厚さ」の間の哲学的緊張を生む。

結論として、ZFCの哲学は、数学存在論認識論真理論交差点位置し、現代数学の基礎に関する最も深遠な問題を提起する。その影響は、数学哲学にとどまらず、論理学計算理論量子力学の基礎にまで及ぶ。ZFCの哲学探究は、数学知識本質限界に関する我々の理解を深化させ、数学哲学境界を絶えず再定義しているのである

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