はてなキーワード: おねショタとは
おねショタイズムの思想としての構成要素は、以下を主な柱としている。
(1)お姉さんは母性に溢れて優しく、かつエロティックでなければならないこと
(2)お姉さんはショタよりも精神的にも肉体的も優れていなければならないこと
(4)ショタは童貞であり、なおかつお姉さんに手玉に取られ翻弄される存在でなくてはならないこと
また、これらの柱から導き出される政治理論として、国家はお姉さん主導の政治形態によって運営されるべきであるという「お姉さん社会主義」が提唱された。
おねショタイズム、または、おねショタ主義(おねショタしゅぎ、英: oneshotaism)は、ユウクン・ショタスキーによって主張されたマルクス主義および共産主義革命理論である。
おねショタイズムでは、おねショタとは「年上のお姉さんにショタが性的にイタズラされる」シチュエーションのみを指すとされており、「お姉さんはショタに対して常に優位な立場にあり、お姉さんの側が一方的に主導権を握る関係であること」を前提とする。
おねショタイズムは、「ショタの逆転」や「ショタが仲間を呼ぶ展開」を資本主義経済による堕落が招いた結果であるとして批判する立場を取る。
おねショタイズムにおいては、資本主義社会における誤ったおねショタのイデオロギー的解釈を解明し、その誤謬から解放されることが目指されている。
レトロな感じのイラストや漫画を描く絵師がいる。当初は割とほのぼのとした感じだったが、いつからか路線変更して安直なエロ、おねショタ路線に走ってしまいがっがりしてしまった。
もっと日常的なイラストや漫画を描いて欲しいのにと思った瞬間、これは自分の身勝手な理想であり、それを絵師に押し付け勝手に裏切られたと感じているにすぎない。
この気持ちが極端になるとアンチやヤバいファンになるんだろうなと反省。
反省した後その人のイラストを見るとやっぱり好きだなと思うが、やはりどうしても安直なシチュエーション優先の漫画を上げ続けるよりもちゃんと漫画を描いた方が良いのでは?と思ってしまう。
しかし!これも一方的な考えで、自分の中で「単行本を出す」がゴールと思っている部分があり、今は出版社を通さなくても自分で電子書籍を販売したり、同人誌即売会で売ったり、ファンボックスでお金を集めたりと、
色々な形がある。
その絵師が好きなのであれば、絵師の全てを愛して応援するのがファン……なのかもしれない。
ただし、不動産投資の知識・コネ(建築デベロッパー勤め・不動産営業)がない限り、
750〜2000万程度の年収では投資価値のある物件を買うことは不可能なので、
資産価値が高い物件を親から引き継いだよとか、農家など一族経営の事業者でも無い限り、
基本的に持ち家はロマン(損得では無く満足感を追求)という位置付けです
ただ、自由が効く賃貸住まいであっても、言うまでもない単純な問題があって、
貯金が少なくなってきたら『それなりの物件』に住まなきゃいけません
『それなりの物件』は多くの場合、高齢者にとって現実的では無いです
加えて属性低めの人を受け入れる物件は隣人ガチャもヤバめになるし、寝タバコや壁ドン基地外に遭遇する確率も爆上がりします
国は老人向けに団地(RC造+風呂トイレ別+バリアフリー+エレベーター)頑張るべきでは?と思いつつ、
健康のために運動しようと何年も言いつつ、数年間ジムの幽霊会員で、ここ最近はウォーキングすら全くしていないワイですが
筋トレやストレッチや食(身体に悪いもの大好き+面倒で断食しがち)をがんばろうと思いました
たぶん、5年間で100回くらいは同じこと言ってます。カツマーではないですがトランポリンは好きです
あと、生涯INを得る方法についてもっと真面目に考えようと思いました
ついでにこういう漠然とした認識の仕方だと脳がネガティヴに捉えるらしいので
まぁ、3ー5行日記のアプリのダウンロードすら出来て無いんですけどね
とりあえず情報をいっさい収集せず、くぎゅがTS娘で出ているというだけで始めた、アソビモの N-INNOCENCE-(エヌ・イノセンス)はクソでした
アソビモはこういうソシャゲ作りたくないから苦しくてもMMO頑張って来たと違うんか?って思いました
純粋なMMOが予算的に厳しくても2022年に劣化版のFGO・チェンクロは無いと思うんだ
シナリオで魅せるとか広告打って効果があるのは、key とか TYPE-MOON とか、とにかく杵柄のある人たちだけです
ガチのSF作家の本でも賞を取ったり・映像化されない限り話題にもならない事からお察しいただければと思います
どうしても予算的に厳しいならもっとキャラ萌えゲーに全振りした方が良かったです
作中に登場するTS娘と男の娘と百合娘とおねショタはフツーに需要があるので、キャラゲーならそこそこ安定した気がします
まぁ文句を言いつつも、東方の二次創作でよくあった輝夜みたいなキャラ(cv:悠木碧)が引けるまでは続けるし、
最近はNTR界隈も一時期のピークを乗り越えて、さらなる円熟味を増している。
王道と呼ばれる流れを汲むものから一発ネタに走ったものまで幅のある様々な作品が日々生まれる中、改めてNTRについて考えてみたい。
しかし、NTRという単語はかなり広い範囲の意味合いを含む言葉となってしまったため(NTRとさえ付いていれば何でも好きだという好事家は少ないのではないか)、今回は個人的にその肝だと感じる部分を、登場人物の性質という視点から考えてみる。
広く浅くインターネットを眺めていると、NTRというジャンルへの罵倒を見かける機会は割と多いように思う。
「NTR好きは頭がどうかしている」だとか、「ただただ不快」、「経験の少ない童貞向け」、「他ジャンルから流入があっただけ」などなど、これらの指摘が本当に的を射ているのかはともかく、各所のランキングで人気人気と持ち上げられる割に、NTRはかなり好き嫌いの分かれるジャンルだ。
なんなら、毛嫌いしている人の方が多い気もする。往々にして、毒づく発言に反論する人は少ない。「素質あるよ」だけでは、いかんせん受け身にすぎるきらいがある。
無論、俺苦手だわという人の意見には頷ける部分も多々あったりするのだが、個人的にはこのNTRというジャンルがとても好みに合っているのだ。
妙に捗ること以外にも人気となるだけの良さがあると思っているので、あまりにひどい言われようを目にするとそれなりに悲しくなる。
なので、このジャンルの良さがどの部分にあるのか、少しでも説明できればと思ってつらつらと文章を書いてみることにした。
また当然のことながらこの良さとは、一切現実とは関係のない、妄想の詰まった袋の内をたゆたう上での良さである。
まず結論から書けば、個人的に感じるNTRの良さとは、登場人物の心理描写の中に存在する。
より正確には、物語の進行に応じて生じる彼氏彼女の負の感情、その濃淡によって否応なく生まれるすれ違い、それらに強く打ちひしがれながらもぎりぎり薄氷を踏み割らないで関係を維持し続けようとする、登場人物の心境そのものの強度に依る部分が大きいと思う。
つまり、NTRの勘所というものは、寝取られたその結果にあるのではなく、寝取られるさなかのその過程の内にあるのだと。
これは例えば、床に落としたガラスが割れる瞬間を想像した上で、その数フレーム前からぎりぎりまでスローモーションカメラでじっと眺め続けていたいという願望に近いところがあるかもしれない。
言うならば自分は、ガラスの割れる瞬間を見たいわけではないのだ。いや最終的には見たいのだが、その決定的な瞬間に至ってしまえば、あとはガラスの破片が飛び散るだけにすぎなくなる。
もちろんその光景は派手だし、うるさい音もなるし、人目を引きつける力は言うまでもなく強い。このガラスの割れる瞬間こそが、NTRにおいては俗に言う堕ちた瞬間であり、そうした場面の押し出しの強さがこのジャンルの人気の一因とされることに異論はない。
ただその一方で、「おしとやかな彼女があんなにあられもない表情を」という描写の裏側にあるもの、その下支えとして連綿と存在する物語の持続性を無視することはできないように感じている。
いやむしろここで言う数フレームの連続性のさなか、張り詰めた緊張感がかろうじてほどけないまま維持される状態こそが、実はどんなNTRにも通じる本質なのではないか。
言い換えれば、わざと直ちに解決させないこの煮えきらなさを楽しめるかどうかがNTRというジャンル全体を楽しめるかどうかにつながる、というのが今回自分の伝えたいことである。
果たして、あらゆるNTRの設定はこの独特な緊張感を演出しつつ、できるだけ長く持続させるためだけに存在すると言ってもよいかもしれない(これは言いすぎかもしれない)。
ときにNTRの基本的な登場人物を考えると、その多くは男二女一の組み合わせであり、一組の男女に対して間男が登場するという設定が王道だと思う。
そして自分が目にする限り、男二人に関して言えば、あからさまなほどこの両者は対比的な描写が目立つようだ。
性的な部分ではもちろんのこと、例えば彼氏役の男が年若く、彼女に対して奥手であり、女性の扱いに慣れていないような描写をされるのならば、間男側は女性に対して積極的、またはその扱いに手慣れているいわゆるチャラ男系であったり、社会的地位があるようなやたらと人生経験を積んだ人物像が設定される(たまにNTR好きのチャラ男信仰はなんなんだという発言を見ることがあるが、たぶんその理由はここにある)。
逆に間男が汚っさんと呼ばれるようなマイナス寄りの描写をされるのであれば、彼氏側はそれなりにまともな人格、女性と関係を維持できるだけの人柄を持つ人物描写になる。
取りも直さず、一つの作品の中で彼氏と間男は相反する、対立する要素を持つ間柄として広く理解されているところがある。つまり両者の引きつった関係はNTRをNTRらしくする要素と見なせそうである。
思えば、この両者が作品内で直接ぶつかり合うことは少ない。極論、顔を合わせる機会すらないこともあるが、そうであるからこそ、二人の対立的な関係性は最初から最後までほとんど変わらずに維持され続け、効力を持ち続ける。
あるいは彼女役の女性に関して言えば、多くの場合、規範的な性質を持たされることになるだろう。よほどのことがない限り、性に奔放な性格付けはなされない。
その性質上、彼女は彼氏への秘密を極限まで隠し通そうと行動することになるし、間男はそうした女性の動きに応じて、薄皮をはぐようにその秘密を明らかにしたがる。間男は常に女性の意識の逆側を突く。
この両者の行動方針には、やはり対立的な要素が見て取れる。男二人の関係性と同じく、この対立には緊張感を生み出してNTRをNTRらしくする効果がある。
一方でこの関係には相互の駆け引きが避けられない以上、必ず終わりが見え隠れするという点で、先の例と異なることには注意が必要だ。
物語は畢竟、いつしか終わるものであるが、NTRの終わりは基本的に誰かの性質が変化すること、もしくはそのきっかけが見えたところで幕が引かれる。
幕を引く役割を担うのは主に女性である場合が多いが、その理由はここの違いにあると思われる。
…本来ならここでもっと多様な例を挙げて自分の意見を補強する材料とするべきだろうが、自分の力ではこれ以上書いても枝葉末節としかならない気もする。
NTRについて肯定的に受け止める感想をあまり見たことがなかったのでなんとかここまで書いてみたが、同じ好事家がいればまた異なる視点があるはずなのでぜひ誰か書いてくれたら幸いだ。
ちなみに、もともと自分はおねショタ好きだったが、あまりに一方的な献身が続く関係性にいつしか疑問を持つようになり、その答えとしてNTRを見出したいわば闇落ち勢である。
まさか自分がこうした好みを持つようになるとは夢にも思わなかったが、NTRの沼は思いもよらぬところで口を開けて待っているものだ。
おねショタの主導権はおねえさんにあるべき
男性向けエロ同人の多様性っておねショタとかロリババアとか触手とかNTRとか
腹ボテとか催眠とかスカトロとかのシチュエーションとゲームかセリフ付きCGか音声作品か薄い本かの媒体の組み合わせがメインで
「やたら対オタク装備キメキメできれいにしながらサイゼリヤで喜んでくれる女」みたいなの個人的には面白くない。
「戦いとは不都合なもの」「戦いとは思い通りにはならないもの」って俺の中の独歩が囁きかけてくるし
(嫌な要素を盛りまくれって意味ではないけど。)
それと関連して、男向けラブコメみたいなのでも男がすげーショボい奴みたいなの嫌。
「なんでこんな奴を取り合ってるの?」ってなっちゃって楽しめなくなるから。
あとこんな男に夢中になってるヒロイン可哀想じゃんてなるから。
学園1のモテ男でみんなのアイドル!みたいな男にしたら少女漫画になっちゃうから違うのはわかるんだけど
「よく見たらすごい掘り出し物」みたいなそういう男であってほしい。
だから今やってるコスプレギャルのアニメとかもそうなってるよね。
五条君は非社交的で埋もれてたけど背も高いし見た目も悪くないしすごい特技を持ってる。そうそうこういうのでいいんだよ。
サイゼデートもの見てると絵を貫通して描いてる奴や見てる奴にムカついてくる感情も正直ある。
「こんなの楽しんでるからお前はダメなんだよオラァ!」みたいな暴言の気持ちが湧いてくる。
「おねショタっていいながらショタに逆転させんな殺すぞ!」っていう議論と同じ。
「おめーのこのイラストからお前のつまんない趣味が伝わってくるんだよ!」っていう怒り。
サイゼリヤデートもの見て現実と混同したり「女はこうあれ!」とか言い出すやつがいたらそれはガチでやばいと思う。
けどそうでない限りは俺のdisりはあくまでオタク同士の趣味の争いとしての「ッダァオ!?」っていうやつだから。
サイゼリヤデート漫画やイラストに殺到する女からのdisりもそういうレベルでならOKだと個人的には思う。
あくまでフィクションと理解した上でその趣向にキモいんだよみたいなのならね。
だから俺達の敵はフィクションと現実を混同する奴だけなんだよ。
サイゼリヤ女をリアルにいると思ったり(そりゃ確率的にどっかにはいるが)希求したりする奴は敵だ!
ポリコレアフロくんを現代の若い男性のリアルだとか寝言こく奴は敵だ!
俺達の本当の敵って フィクションと現実を混同する奴 だけだぜ。
そしてこれは男にも女にもオタクにもフェミにもどこにでも湧くから。