はてなキーワード: アプローチとは
○選シリーズも下火になってきたところで投下するよ。
元ネタ1:
https://anond.hatelabo.jp/20241012181121
元ネタ2:
https://anond.hatelabo.jp/20241026213447
最初はファミコンだけで10選を作ろうとしたけど、方針を変えた。なぜならファミコンの初期にはアーケードからの移植作が多く、それらはどちらかというとアーケード作品として評価すべきだからだ。
ついでに他のハードも含めて、同時代のコンピュータゲームすべての中から選出することにした。なおシリーズ物は一作のみとする。ゲーム史のカンブリア紀におけるレジェンド級の作品を見て行こう。
アメリカのアタリ社が開発し、世界で初めて商業的に大ヒットをしたゲーム。コンピュータゲームが一大産業として成立する道を開拓し、これをきっかけとしてアメリカでアタリの時代が花開くことになる。
日本では翌年にタイトーとセガがポンのコピー品を作り、これが日本初のゲームとなった。
アタリのヒット作第二弾。いわゆるブロック崩し。これのリメイク版にあたるのがアルカノイドで、現代に至るまで古典的なゲームの一つとして知られている。
日本ではタイトーとナムコが正規のライセンスを持って生産していたが、それ以外にも日本の多数のメーカーがこれを模倣したようなゲームを作り、のちに日本のゲーム産業が花開くきっかけとなった。
いまでは有名なメーカーが、正規のライセンスもなしにコピー品を作っていたという、大らかな時代でもあった。後にタイトーが、これをもとにスペースインベーダーを作ることになる。
初の日本のメーカーによるオリジナルの大ヒット作であり、日本で初めて社会現象を巻き起こしたゲーム。それまでゲームに縁のなかった日本のお茶の間にまで、コンピュータゲームを知らしめた作品。
日本のアーケード史上最大のヒット作といわれ、喫茶店やスナックのテーブルがこのゲームのテーブル型筐体に置き換えられるほどだったという。
数が減るごとに動きが速くなる敵、敵がこちらを攻撃してくる緊張感、たまに出現して撃ち落とすとボーナスの入るUFOなどアドレナリンの分泌を促す仕掛けが満載で、ゲームの面白さの本質が詰まっている。
単独のゲームソフトではないが、シリーズまとめてランクインとする。
初の大ヒットした携帯ゲーム機で、特に低年齢層を中心に爆発的にヒットした。当時のゲームセンターは不良の溜まり場で子供には出入りしにくく、据え置きの家庭用ゲーム機もあったが値段が高く、
そんな中で比較的安く買えてどこでも手軽に遊べるゲーム&ウオッチは子供向けのゲーム機としてうってつけであった。
横井軍平の代表作の一つであり、シャープと提携して電卓の技術で作られた玩具。この横井軍平とシャープのタッグは、のちにゲームボーイを生み出すことになる。
ナムコの躍進のきっかけとなった作品にして、日本のアーケードの大ヒット作第二弾。
敵の種類ごとに異なる思考アルゴリズム、敵との強弱関係を逆転させるパワーエサ、緊張を緩めるコーヒーブレイクなどゲームを飽きさせない工夫が随所に施され、その工夫の数々は多くのクリエイターに影響を与えた。
日本のみならずアメリカでも大ヒットを飛ばし、日本のゲームが世界で通用することを知らしめた。80年代のゲームの中心地がアメリカから日本に移っていく、その象徴となる作品。
ウルティマと共に、すべてのコンピュータRPGの始祖と言っていい作品。もともと机上で行われていたTRPGであるD&Dをコンピュータ上に移植するというアプローチで生まれた、他のゲームとはだいぶ出自の異なる作品。
ゲームシステムの多くはD&Dに由来しているが、移動画面と戦闘画面の切り替えによって進めるゲーム進行、コマンドを選ぶことで進める戦闘システムなどコンピュータRPGの基本的なシステムが完成されており、
ウルティマと共に、後のドラクエやFFに大きな影響を与えた。堀井雄二も坂口博信もこのゲームをやり込んだという。
スペースインベーダー、ギャラガと続くシューティングゲームの系譜を完成させた作品。初めて隠れキャラを採用した作品として知られ、ゲームにおける「隠し要素」の祖ともいえる。
グレーのグラデーションで描かれた光沢のある敵のデザイン、航空写真のような森、海、道の風景は、真っ黒な背景に簡素なグラフィックのゲームが多かった時代に圧倒的なクオリティを誇っていた。
何度でも繰り返し遊びたくなる仕掛け、背景の物語の神秘性と相まって、多くの人を熱狂させた。
説明不要、宮本茂の生み出したゲーム黎明期の最高傑作の一つである。
その画期性はググればいくらでも出てくるのだが、改めて分析しても同時代の中で突出した存在である。
どこまでも広がる世界の解放感、至るところに隠されたアイテムやボーナスステージ、操作に習熟するごとに感じられる上達の喜び、初心者が楽しみながら悔しがりながら上達できるレベルデザイン、
どこを取ってもオーパーツのようなゲームであり、いまだにゲームの古典的教科書の一つである。
アーケードからの移植作が多かった時代に、この作品は「ファミコンでしか遊べない大ヒット作」であり、これ以降ゲームの主戦場はアーケードから家庭内に移ることになる。(ゲームセンターに風営法が適用されたことも影響している。)
ウィザードリィやウルティマを元に、日本人にはとっつきにくかったRPGを日本人向けに大幅にアレンジして生まれた作品。
これ以前にも日本のメーカーからRPGはいくらか出されていたが、ドラクエの爆発的ヒットを元に、日本独自のRPG=JRPGの市場が開拓されることになる。
とっつきにくい要素を排除するために、元のTRPGにあったリアリティを大きく削ぎ落したりしているため、当時のTRPG界隈などからは批判も受けたようであるが、そうでもしなければこのゲームが国民的作品になることはなかっただろう。
反面、そのあまりにも日本向けに特化しすぎたアレンジが仇となり、海外展開にはあまり成功していない。
ドラクエが生み出した(時におかしな)JRPGの「定番」「お約束」は数知れない。その影響はゲームだけに留まらず、西洋ファンタジーを題材とした漫画やラノベ等にもおよび、今日に至るまでその影響を与え続けている。
宮本茂の最高傑作第二弾。スーパーマリオとはまた違った方向性で世界の広さを表現した、知恵と工夫と探索のゲーム。
このシリーズは極めて神がかったバランスの上に成り立っており、簡単に模倣できる作品ではないため、直接のフォロワーとなる作品はあまり現れてはいない。
しかしゼルダシリーズの魂とでも呼ぶべき、閃きと発見の楽しさは形を変えて多くのゲームに受け継がれている。それはダンジョンの中のちょっとしたパズルや謎解きだったり、アイテムの入手によって切り拓く道だったりするだろう。
近年のインディーズ市場において、ゼルダシリーズから影響を受けたようなゲームが多数見られることからもその影響力の大きさが伺える。
◆◆◆
以降は選外となった作品。
世界初のコンピュータゲームと呼ばれるものの一つ。オシロスコープとアナログ機器で作られたゲームであり、正確にはコンピュータゲームと言えるのかも分からない。
研究所の見学者に大評判だったが、その後忘れ去られ、後のゲームには影響を与えていないという。時代を先取りしすぎた作品。
学生サークルが開発し、商業的に成功した作品。いわば同人ゲームの草分けのようなものである点に着目したい。アマチュアが作ったゲームで初めてヒットした作品といっていいのではないか。
ローグライクと呼ばれるジャンルの始祖となった作品。D&Dから影響を受けて作られた探索ゲームであり、実はウィザードリィ、ウルティマよりも古く、最古のコンピュータRPGの一つに数えてもいいかもしれない。
コンピュータRPGの始祖の一つで、ウィザードリィと共に後のドラクエやFFに大きな影響を与えた。2D見下ろし型のフィールドマップは、このゲームが元祖である。
正直10選に入れたかったが、宮本茂多すぎやろと思って外すことにした。
宮本茂の初のヒット作にして、後に世界的大スターとなるマリオのデビュー作。コンパクトな画面に詰め込まれたジャンプアクションで、後のスーパーマリオにつながるようなアイディアが、すでに多数詰め込まれている。
テキストアドベンチャーの傑作で、堀井雄二の原点。原作はPC版だが、どちらかというとファミコン版の方に着目したい。
コマンドを選んで進めるというファミコン版のスタイルはドラクエの原点ともいえ、このゲームの開発で得た知見はドラクエの開発に大いに影響したことだろう。
最も知られているのはゲームボーイ版だが、最初に作ったのは旧ソ連の科学者である。
ゲームボーイ版の方は「ゲームボーイ史上、もっとも重要なゲーム10選」に選出されているのでこちらはあえて原作をチョイス。純粋なパズルでこれだけ人を没頭させるものは他にないだろう。
光栄の歴史シミュレーションゲーム。この2年前に「信長の野望」が発売されており、歴史シミュレーションゲームとして最初にヒットしたのはそちらであるが、俺は三國志の方を評価したい。
これは歴史のifを楽しむゲームであり、人材登用のシステムによって史実では敵だった人物を部下にするなどして、夢のドリームチームを組むという楽しみ方ができる。
歴史を題材としたゲームでありながら歴史を大胆に改変してもいいという発想が大きな魅力につながり、こうした発想は現在の歴史物のゲームにも影響を与えている。
世界初の体感型ゲームにして、セガの体感ゲームシリーズ第一弾。バイク型の筐体にまたがり、身体を傾けて操作するバイクレースゲーム。
ゲームの主戦場がアーケードからファミコンに移る中で、そのアーケードでしか実現不可能な臨場感が注目された。こうした大規模なギミックは、後にアーケードが復権する鍵の一つとなる。
ドラクエ以前の日本のRPGで大きくヒットした作品。日本のPCゲームで最も売れた作品とされ、ファミコンともアーケードとも異なるPCゲーム市場を先導した。
コナミを代表するシリーズの一つとなった作品。任天堂のメトロイドと合わせ、メトロイドヴァニアと呼ばれるジャンルを形成しフォロワーが多数現れている影響力を評価したい。
セガの体感ゲームシリーズの一つで、リアル系ドライブゲームの元祖。車を運転すること自体の楽しさに焦点を当てたゲームで、ドライブの楽しさが存分に盛り込まれている。
スクウェアの本領が発揮されるのは90年代だと思うのでここに入れるかも迷ったが、初代が売れなければスクウェアが潰れていた、という点で重要な作品。
己がロリ、いやぺドと言っても過言ではなかった頃から約15年。性的対象が12~15歳の男児で固定されている化け物になってしまった。今や立派なショタコン、性犯罪者予備軍である。
二次元のショタには飽き足らず、道行く中学生に胸が踊る。流石に3次元の児童ポルノに手を出したことはないが、AI絵と実写の間にどれほどの違いがあるのだろうか。
薄氷のように脆い倫理観だけが、辛うじて私を健常者たらしめている。むしろ絶世の美女でもない成人女性の自分が健全な少年の性癖を曲げたいだなんて烏滸がましいことを考えてはいけないという自意識の方がいくばくか貢献している節さえある。
そんなどうしようもないショタコンの私だが、一般的な成人女性として成さねばならぬことがある。男女交際だ。成人女性たるもの、誤差3~5歳程度の、かつ高校卒業以上の男性との交際経験の1つや2つなくてはならない。
選り好みは特にしなかったが、他人に言っても恥ずかしくない、高身長で学歴も同程度、就職先もまずまずのところに内定を貰っている彼氏をこさえた。安臭い虚栄心を満たすために承諾した身なので多少の罪悪感はあるが、今のところそれなりに彼女としての義務を果たしているはずだ。
しかし交際を重ねるにつれて、問題が表出し始める。ウェットな空気に耐え難い拒絶反応があるのだ。
デカい男の性衝動に対してシンプルに恐怖しか感じない。私は格闘技のプロでも何でもないのだから、向こうがその気になれば抵抗して無事ではいられないだろう。
加えて、私はどちらかと言うと甘えさせてあげたいタイプなのだが、自分より一回りも二回りも大きいTHE成人男性に甘えられると怖気が走る。可愛い子猫ちゃんを抱きたいのであって、ライオンに甘噛みされたい訳ではない。というか力関係として不自然すぎる構図でオキシトシンも何もあったものではない。
もう一つの問題として、シンプルにショタコンを拗らせすぎていて高身長の男の筋張った大きな身体に興奮できない。というかここが一番問題である。不細工でなくて爆乳のお姉さんならある程度無理矢理犯されてもそんなに苦痛ではない、と言い換えれば共感していただけるのではなかろうか。性的対象として見ることが出来れば一応の問題はなくなるはずなのだ。
ショタとポルノの結び付きが私の中で強固になりすぎた結果、自分より目線の低い男性の8割くらいにヲホ~と鼻の下を伸ばすようになってしまっている。パブロフの犬、いや低身長の雌だ。私は低身長ではないが。
流石にオッサンとか不潔な感じのとかは除くが、一般男性における巨乳と同じ感じで低身長が性的なものとして意味付けされている。
もちろんショタと低身長は似て非なるものだ。だがロリものと謳った大人顔の貧乳成人女性のポルノを我々は喜んで見る。犯罪に手を染めないために代替物に手を出すのは別に悪いことではないと思う。
何が言いたいのかというと、低身長の男に乗り換えれば問題は解決すると考えられる。巨乳じゃないと勃たないから乗り換えると言っているのと同じくらい最低なのだが、勃たないものは仕方ない。私の場合幸いにも世間の需要と逆行する形になるので、巨乳探しのような熾烈な競争に打ち勝つ必要はなさそうだ。
そう思いながら男探しを始めると、男性の高身長信奉は女サイドから見たそれより熱烈であることに気付いた。マッチングアプリなんかでは大抵の男性は身長をいくらか盛っているし、低身長の男は長年のコンプレックスのせいか自己肯定感が低い傾向にある。(女の巨乳と違って、スポーツなんかでもデメリットになるからコンプレックスが強固になるのも頷ける)ついでに高身長の男はチー牛でも謎に上から目線な奴の割合が高い。骨が長いだけで偉そうに、お前の努力じゃないだろ。まあお前の巨乳もお前の努力じゃないだろと言われてしまえばそこまでなのだが。
話が逸れたが、自己肯定感があまり高くないせいか、低身長男は恋愛市場にそもそもあまり出回っていない。出会ったとしても、私のような受け身の女に博打でアプローチするような人は低身長でない人に比べて少ない。
低身長好きアピールでもすればいいのだろうか。俺は貧乳の方が好きだよとかわざわざ言っている男くらい気持ち悪いと思うので言わない方がいいと思うのだが。
今は縁があるのを仄かに期待して、身長にコンプレックスがあった場合にそれを刺激せず、むしろ包む方向で行きつつ低身長を味わうための方策を考えて、もとい妄想している。
己がロリ、いやぺドと言っても過言ではなかった頃から約15年。性的対象が12~15歳の男児で固定されている化け物になってしまった。今や立派なショタコン、性犯罪者予備軍である。
二次元のショタには飽き足らず、道行く中学生に胸が踊る。流石に3次元の児童ポルノに手を出したことはないが、AI絵と実写の間にどれほどの違いがあるのだろうか。
薄氷のように脆い倫理観だけが、辛うじて私を健常者たらしめている。むしろ絶世の美女でもない成人女性の自分が健全な少年の性癖を曲げたいだなんて烏滸がましいことを考えてはいけないという自意識の方がいくばくか貢献している節さえある。
そんなどうしようもないショタコンの私だが、一般的な成人女性として成さねばならぬことがある。男女交際だ。成人女性たるもの、誤差3~5歳程度の、かつ高校卒業以上の男性との交際経験の1つや2つなくてはならない。
選り好みは特にしなかったが、他人に言っても恥ずかしくない、高身長で学歴も同程度、就職先もまずまずのところに内定を貰っている彼氏をこさえた。安臭い虚栄心を満たすために承諾した身なので多少の罪悪感はあるが、今のところそれなりに彼女としての義務を果たしているはずだ。
しかし交際を重ねるにつれて、問題が表出し始める。ウェットな空気に耐え難い拒絶反応があるのだ。
デカい男の性衝動に対してシンプルに恐怖しか感じない。私は格闘技のプロでも何でもないのだから、向こうがその気になれば抵抗して無事ではいられないだろう。
加えて、私はどちらかと言うと甘えさせてあげたいタイプなのだが、自分より一回りも二回りも大きいTHE成人男性に甘えられると怖気が走る。可愛い子猫ちゃんを抱きたいのであって、ライオンに甘噛みされたい訳ではない。というか力関係として不自然すぎる構図でオキシトシンも何もあったものではない。
もう一つの問題として、シンプルにショタコンを拗らせすぎていて高身長の男の筋張った大きな身体に興奮できない。というかここが一番問題である。不細工でなくて爆乳のお姉さんならある程度無理矢理犯されてもそんなに苦痛ではない、と言い換えれば共感していただけるのではなかろうか。性的対象として見ることが出来れば一応の問題はなくなるはずなのだ。
ショタとポルノの結び付きが私の中で強固になりすぎた結果、自分より目線の低い男性の8割くらいにヲホ~と鼻の下を伸ばすようになってしまっている。パブロフの犬、いや低身長の雌だ。私は低身長ではないが。
流石にオッサンとか不潔な感じのとかは除くが、一般男性における巨乳と同じ感じで低身長が性的なものとして意味付けされている。
もちろんショタと低身長は似て非なるものだ。だがロリものと謳った大人顔の貧乳成人女性のポルノを我々は喜んで見る。犯罪に手を染めないために代替物に手を出すのは別に悪いことではないと思う。
何が言いたいのかというと、低身長の男に乗り換えれば問題は解決すると考えられる。巨乳じゃないと勃たないから乗り換えると言っているのと同じくらい最低なのだが、勃たないものは仕方ない。私の場合幸いにも世間の需要と逆行する形になるので、巨乳探しのような熾烈な競争に打ち勝つ必要はなさそうだ。
そう思いながら男探しを始めると、男性の高身長信奉は女サイドから見たそれより熱烈であることに気付いた。マッチングアプリなんかでは大抵の男性は身長をいくらか盛っているし、低身長の男は長年のコンプレックスのせいか自己肯定感が低い傾向にある。(女の巨乳と違って、スポーツなんかでもデメリットになるからコンプレックスが強固になるのも頷ける)ついでに高身長の男はチー牛でも謎に上から目線な奴の割合が高い。骨が長いだけで偉そうに、お前の努力じゃないだろ。
話が逸れたが、自己肯定感があまり高くないせいか、低身長男は恋愛市場にそもそもあまり出回っていない。出会ったとしても、私のような受け身の女に博打でアプローチするような人は低身長でない人に比べて少ない。
低身長好きアピールでもすればいいのだろうか。俺は貧乳の方が好きだよとかわざわざ言っている男くらい気持ち悪いと思うので言わない方がいいと思うのだが。
今は縁があるのを仄かに期待して、身長にコンプレックスがあった場合にそれを刺激せず、むしろ包む方向で行きつつ低身長を味わうための方策を考えて、もとい妄想している。
アイドル界の混沌も描いた『推しの子』が、本来対象じゃない低い年齢層の子供にも受容されてて関係者が焦るみたいなニュースがだいぶ前にあったけど、
自分の子供時代も含めてだが、この約四十年以上も、『推しの子』どころではない、本来子供に見せるべきではないコンテンツを子供向けと強弁して売り付けるような商売が横行し続けているとしか思えない。
親の本棚からとか、河川敷に落ちてるエロ本から見ちゃったとかそういう次元ではなく、最初から子供向けとして、人間性の健全な発達や安心を拒むコンテンツが溢れている。
単なる暴力やセックスの話では収まらなくなってきている。最近の少女漫画ではメンタルヘルスが病んでいる状態をむしろ美化しているのが常態化している。学歴差別や格差をギャグのように描く作品もあり、それを小学生女児がこれから自分が過ごす社会の有様として受け止めながら読む、そんな光景すらある。
自分の話をすると、小さい頃から色々な漫画に触れられる環境にいた。親はむしろ漫画を気にせずどんどん読ませてくれる側だった。
だが、何というか、しっくりくるコンテンツが無かった。平成中〜後期の現行コンテンツより、帰省先の母の実家に捨てられずに残っていた昔の漫画の方が、地に足についている気がしていた。
大学で「こども文化論」みたいな科目を取った時、子供向けコンテンツの変遷を調べる機会があった。月並みな結論からいうと、70年代を境目に、子供へのアプローチが大きく変わっている。子供は育てるべきものではなく、子供もそこで消費者にすり替えられていた。そしてそれは子供自身が望んだことではなく、明らかに大人の商売のために作られたものだ。
もちろん昔から赤本漫画など色々な問題があったが、それはしっかりと不健全なものと理解されていた背景があり、それに対して「健全」さがしっかりと対抗できていた。今は、少年漫画も少女漫画も、その槍玉に挙げられていた赤本(技巧やページ数の限界で抑えられていた)より数十倍も酷い内容を、美麗な外見でやっている。
ここで、『まんが道』(とその続編)に出てくる、テラさん(実在した漫画家・寺田ヒロオ)の話を思い出す。彼が何をしたかは、検索すればサジェスト経由ですぐわかるだろう。「闇」扱いされてるが。
自分の連載と同じ漫画雑誌で連載されていた他作者の漫画「恐怖魔人ゾンビラス」(漫画内の仮称で、実際は楳図かずおか永井豪の漫画か?)に対して、編集長に「子供に悪い影響を与える、連載をやめろ」と異議を直談判し、それが受け容れられないと自らの連載を切ったエピソードなどだ。
漫画的脚色はあるが、テラさんの行動は様々な方面から史実と言える。子供のための「健全な漫画コンテンツ」を求めたテラさんの行動は、漫画内の描写はもとより、ネット上でも「時代変化を理解しなかった頑固な人間」「遺物」みたいな扱いを受けている。
しかし私は、テラさんの立場の方がずっと正しく、明らかに子供に対して誠実だったと、60年も後から思わされている。
ただ付け加えると、テラさんは、大人向けとはっきりわかる形で描いたアダルトな作風の漫画までは否定していない。テラさんが心を割って話せる存在が任侠・アダルト漫画家の棚下照生だったように。
子供に、身の回りの有様を伝えるときに、まともな人間なら、「人間関係は全て打算で、あらゆるものが欲望で出来ており、全てが醜い」と伝える人はいないだろう。社会にそう言う側面があっても、そこだけを切り取って子供に植え付けるのはまともな行いではない。
テラさん当時の、技巧的に発展途上の漫画・劇画ですら、子供たちの世界を暗く後ろめたいものにしていたが、当時はまだ最低限の良心かタイトルで煽る形で分かりやすくしていたのかもしれない。だが現代ではそれは一見分からない形で(ギャグやロマンスなどの体裁を取り)提供されるようにすらなっている。
はっきり書けば、思春期より前の子供には、ごく単純な、心理描写が少ない、身近な人間関係を描いた作品以外、適していないと思われる。
近所で野球をするだけ。親の手伝いをするだけ。学校で仲間と学び合うだけ。動物と戯れるだけ。「それだけ」の漫画で充分だった。
それをしなくなったのは、そして子供向けではないコンテンツが子供に蔓延したのは、子供の事情や「時代の要請」「技術の発展」なんてものではない(子供が「ハレンチ学園」や「トイレット博士」を望んだのではない)。大人の商売の都合なのだ。
何回読んでも意味わかんなくて混乱するんだけど
向こうから告白してきたら誠実だという判定をしている?のが意味わからないというか
それ何も「見抜」いてなくない?
そのあとから浮気したり結婚してから浮気したりする可能性を全然排除できてない気がするんだけどそれはいいんだろうか
自分からアプローチすればもっと満足度の高い物件と成約してたんじゃない?とか
要するに文量のわりに論理的な行動指針が全くないので
なんでこんな風に行動してるのかわからないし
なんでこの行動を開示したいのかもわからない
うーん
この意見はポピュリズムへの理解が一面に偏っている可能性があります。ポピュリズムは、「エリート」に対して「大衆」の利益を優先する政治スタイルで、大衆の意向に強く応える姿勢を特徴としますが、その定義は単純に「大衆に迎合する」ことを意味するものではありません。ポピュリズムは、社会に分断を生み出したり、短期的な利益を優先しすぎたりする場合もあり、そうした点で成功と失敗の両方の例が存在します。
ポピュリズムは、エリートを批判し、一般大衆の利益や声を優先する政治スタンスやリーダーシップの形態を指します。定義としては、大衆の感情や不満に訴えることで人気を得ようとする傾向が強いです 。こうしたアプローチは、「国民の声に耳を傾ける」とされる反面、現実的な政策判断を犠牲にするリスクもあります 。
成功例と失敗例
ポピュリズムの成功例としては、アメリカの「ニューディール政策」を行ったフランクリン・ルーズベルトが挙げられます。大恐慌時に大衆の支持を得つつ、経済復興と雇用創出のための大規模な政策を実行しました 。大衆に訴える手法を取りつつも、長期的な経済政策が功を奏し、結果的にアメリカの経済基盤を再構築することができました。
一方、失敗例としては、ベネズエラのウゴ・チャベス政権があります。チャベスは国民の生活改善を掲げ、石油収入を背景に社会福祉政策を拡充しましたが、経済基盤を無視したため、石油価格の下落によって経済危機に陥り、国民生活が悪化しました 。このように、大衆の利益を短期的に優先した結果、長期的には国家や国民生活に深刻な影響を及ぼしました。
意見の中で「大衆に迎合する政治なら大衆にはメリットしかない」という主張がありますが、実際にはポピュリズムが必ずしも「大衆にとってメリットしかない」とは限りません。例えば、短期的な利益を優先するポピュリズム政策が行われると、結果として財政悪化やインフラの老朽化といった長期的な問題が後回しにされることがあります。また、ポピュリズムはしばしば敵対的な二項対立(「エリート対大衆」)を煽るため、社会の分断を引き起こしやすく、これが社会の安定を損なう要因にもなります 。
まとめ
この意見に見られる「大衆にメリットしかない」「民主主義に適している」という視点は、ポピュリズムの理想的な側面を過大評価している可能性があります。ポピュリズムには大衆の声を代弁する力がありますが、それを実行する際の長期的な視野や社会全体の安定を考慮しない場合、深刻な問題や分断が発生することが多々あります。
https://anond.hatelabo.jp/20241027171256
好きな相手と付き合って最終的にセックスしたいのであれば、どこかで性的なアプローチが必要になるが、そこには嫌われるリスクが有る
・性欲を出したら嫌われるかもしれないから避けたい
というパラドックスね
特に大人しい人畜無害タイプの男性が仲良くなってから性欲を出すことをぬいペニと呼ばれている
で、大体の解決策というか、軸としてあるのが「いつペニスを出すか」「早めに出そう」なんだけど
で答えの一つが「限界まで出さない」か「適度に出しつつ複数人にアプローチする」のどっちかなんだけど
前者はどちみち破綻するリスクあるからね、結局残るのは後者なのよ
俺の一番の長所は運の良さで、幼少期から35歳の今までずっとツイてきた。
なぜだか分からないが、本当にずーっと人生に追い風が吹いており、思い返すと不思議なほどにツイている。
俺ほどに強運が継続している人間は日本にほとんどいないと思うし、運の良さで生きてこれたので自慢したい。
長い文章だが、とにかくずーっとツイているので長くなるのは仕方がない。
夏目漱石の「坑夫」という小説に、主人公たちの腹が減ったらたまたま近くに飲食店があり「大袈裟に云えば天佑である」とコミカルに述べた部分があって妙に印象に残っているのだが、俺の人生はまさに天佑の連続なのだ。
この意見にはいくつかの問題点と矛盾が含まれています。また、いじめを正当化するのは、職場の健全な環境づくりや倫理的責任の観点からも大きな問題です。
いじめを「庶民の武器」と称し、特定の人を排除する手段として認めることは、職場の安全と平等を損ないます。これは法的なリスクを高め、組織の評判や雇用者としての義務にも悪影響を及ぼします。厚生労働省のガイドラインに基づくと、職場のいじめ・ハラスメントは法的に禁止されており、組織にはこれを防止する責任があります 。
いじめと追い出し部屋の使用は、組織としての対応を誤る要因となります。追い出し部屋は非効率的で、人材の適切な管理とは言えません。代わりに、職場の問題がある従業員に対しては明確な評価基準に基づき、必要に応じたサポートを提供するなど、建設的な対応が求められます。
3. 「ハッタショ」への偏見
発達障害を抱える人を「ハッタショ」と表現し、いじめの対象にすることは偏見に基づいた不適切な対応です。現代の職場では、個々の違いを理解し、多様なニーズに対応するインクルーシブなアプローチが求められます。障害者に対する差別や偏見を助長する行動は、職場の倫理基準や法的要件に反するものです 。
「庶民の武器」としてのいじめは暴力行為の代替としていますが、これは建設的な解決策ではありません。対話や適切なフィードバックの提供が可能であり、いじめという手段を正当化することは論理的に矛盾しています。職場のトラブルは、正当なフィードバックを通じて解決することが求められます。
穏当な対応策
問題のある被雇用者と面談を通じ、問題の原因や改善の可能性について話し合うことは効果的です。問題を特定し、改善目標を設定して、明確な指導を行うことで相互理解が深まります。
繊細でコミュニケーションに課題がある被雇用者には、メンターやコーチのサポートを提供することも有益です。業務上の悩みやスキル向上のための支援を行い、安心して成長できる環境を提供することが、職場全体の向上につながります。
適正に基づく配置転換や、個人に合った役割を明確にすることで、負担や不満を軽減できます。人事部門や管理職が適切な支援を提供することで、従業員の強みを生かし、職場の調和を維持することができます 。
職場では、お互いの個性を尊重し、建設的なコミュニケーションを図ることが不可欠です。いじめは長期的に見ても悪影響を及ぼし、代替手段としては不適切です。
少子化対策が「理想主義的」か「現実主義的」かは、政策のアプローチや目標設定によって異なるため、一概には決められません。ただし、多くの国の少子化対策は、理想主義的なビジョンと現実主義的な方法論の両方を織り交ぜています。
理想主義的な側面
少子化対策は、未来の人口構成の安定、社会の持続的発展、子育て環境の充実といった高い理想を掲げることが多いです。たとえば、日本やフランスのように、子育て支援や家族政策を通じて出生率の回復を目指す国々では、社会全体で育児負担を軽減し、子どもを産みやすい環境を整えようという理想が根底にあります。こうした理想的な目標は、持続可能な未来を描くうえで重要な価値観を提供し、政策を支える理念として機能しています。
現実主義的な側面
一方、少子化問題は構造的な問題であり、短期間で劇的に改善するのは難しいとされます。こうした状況では、財政的な制約や労働力確保のために、出生率回復以外の現実的対策も重視されがちです。例えば、移民政策を通じた人口増加策や高齢者の社会参加、さらには定年延長などが現実的な施策として組み込まれることがあります。また、財政負担の増加が懸念される場合、対策にかける予算を抑える選択がされることもあり、これは現実主義的な対応といえます。
少子化対策には、理想主義的な目標設定と現実的な手法の両面が含まれます。たとえば、出生率向上という理想を掲げつつ、実際には経済的支援策や労働環境の改善など現実的な課題に対処する形で、少子化対策を多面的に進める傾向が見られます。そのため、少子化対策は必ずしも「理想主義」か「現実主義」に完全に偏るものではなく、両者を織り交ぜた政策と考えることが妥当でしょう。
この日記のタイトルは、少し前にTwitterで話題になった「はてな匿名ダイアリー」から頂いたものである。
https://anond.hatelabo.jp/20241021131553
なぜこの日記が話題になったかというと、内容が「嘘くさい」、「弱者男性を装った女が書いたに違いない」と多くの人が感じたからで、いわゆる炎上に近い形でTwitter上で議論が白熱した。
私も当該日記をよく読んでみたのだが、確かに「女性が書いた」ということもさもありなんといった印象だった。というのも、自分自身も過去は「弱者男性」であったが、色々と経験を積み、今は結婚もできているというステータスで、まさにタイトルの当事者であったからだ。
そこで、(元の日記の真偽はさておき)タイトルの当事者を自覚している筆者が、「弱者男性としての恋愛観」を綴ってみるとどんな感じの文章になるのかやってみた、というのがこの日記の目的である。この日記をたまたま見つけてくださった皆さんも、ちょっとした実験に付き合うつもりで読んでいただけると幸いである。
そもそも「弱者男性」は最近出てきたネットスラングで、色々と定義があるだろうが、ここではめんどくさい話に踏み込まず、弱者男性を単純に「モテない男性」、いわゆる「恋愛市場における弱者」と定義することとする。
自分はその意味で、過去はバリバリの弱者男性であり、ともかくモテなかった。詳しいことは後述するのだが、高校卒業まで女子と話したことはほとんどなく、当然彼女が出来たり、バレンタインチョコをもらったりなんてことは経験したことがなかった。
自分なりにモテなかった理由を分析してみると、至極単純な2つのことに集約される。
①顔が悪い
①に関して、やはり顔が悪いのは大きかったと思う。恋愛において「顔」の良し悪しは世間で言われているよりもずっとずっと重要な要因だと感じる。イケメンに生まれていたら、恋愛における立ち回りも大きく違っていただろう。ただ、このことをうだうだ言っても仕方がないので、次に行くとしよう。
②に関しては自分の家庭内環境が大きかったと思う。自分の家族構成は、父母、自分と弟の4人家族で、家庭内に母親を除くと男しかいない。なので、昔は女子が普段どんなことを考えて生活しているか、どんなことが好きなのか、全くわからなかった(実は今でもよくわかっていない)。これは女子と恋愛していくうえで、大きなハンデだったと感じる。
前述のように、男兄弟で育ち女子が何を考えているか全く分からない自分は、モテるモテない以前に「女友達」というものすら全く作れずに育った。
小学生の頃に自分が好きだったものと言えば、ドラクエ、ガンプラ、カードゲームなどであり(あまり特定すると年がバレそう)、友達になるきっかけとして、「あのゲーム好き?」「君もガンダム好きなの?」みたいなアプローチ法は知っていたが、逆に言うとそれ以外の術を全く知らなかった。よって、必然的に女子とどんな話をすればいいか分からず、全く女子と話さない学校生活をつづけた。
小学校のころまではそれでも特にストレスを感じずに来られていたが、中学に上がるとそうもいかなかった。自分も思春期真っ只中になって女子への関心と性欲が出てきたし、何よりもクラスの中の会話がほぼ恋バナになり、「誰と誰がやった/やらない」という噂が飛び交うようになっていた。
そんな中で自分は相変わらず女子と話す方法が分からずにいたので、どんどん自信がなくなり卑屈になっていった。そのオドオドした態度が女子にも伝わっていたのか、徐々に女子から嫌われているのを感じるようになり、覚えているのは、罰ゲームで女子が「自分と握手する」というのをやっていたことだ(まあこれくらいは弱者男性あるあるだよね)。
さらに、この頃から女子に対するヘイトも強まっていった。上記のようなひどい扱いをされたこともあるのだが、それ以上に、自分が行っていた中学はいわゆる「スクールカースト」が強くあり、「ヤンキーしか女子と話せない空気感」が強くあった。このころ女子と話したことがないので噂の情報しかないのだが、どうやら「クラスの可愛い子がヤンキーと付き合ってひどい目にあったらしい」みたいな情報だけはたくさん入ってきた。そのことから、「女子はヤンキーしか好きにならない」=「女子はバカだ」という考えが自分の中で熟成されていった。
しかし、なんせ思春期真っ只中なので(というか男の生理として)、女子にはめちゃくちゃ関心があったし、性欲も人一倍強かった。よって、「女子は嫌いだけど、女体には(死ぬほど)触れたい」という思春期のベタな感情を抱いて悶々とした日々を送っていた。
そんなこんなで中学生活を過ごしていたが、高校進学のタイミングで希望の共学の高校に落ちて、不本意ながら男子校に通うことになった。
高校では当然学校内に男子しかいないので、中学時代のような自己矛盾からくるストレスは減っていったが、女子と話す経験、恋愛する経験は一向に積まれないまま、18歳を迎えた。
高校生活は特に楽しいこともつらいこともなく、学校に行って帰るだけの生活で、よく言えば非常に穏やかな日々だった。ただ、3年次の受験勉強だけはそこそこ頑張って、何とか第一志望群の大学に合格できた。
自分が行っていた大学はいわゆる私立文系のマンモス大学で、当然可愛い女子もたくさんいた。中学時代の女子ヘイトを経て、高校三年間男子校という監獄に閉じ込められた自分には刺激が強すぎる環境だった。しかし女子と話す経験値が致命的に足りていないので、入学後の3か月くらいは、昔と同じで女子を遠ざけるような生活を送っていた。
転機となったのは、英語のクラスで好きな人ができたことである(思えば初恋だったかもしれない)。その時、男友達はそこそこ出来ていたので、親切にも色んな人が恋愛テクを教えてくれた。どうやらメール(その時にLINEはなかった、また年がバレそう)をこまめにやって、頃合いを見て二人でご飯に誘うのがいい、という今考えれば当たり前の恋愛プロセスもその時はじめて知った。
またその友達が他の女子と自分を繋いでくれて、恋愛相談をするという形で、女友達を何人か作ることができた。この頃には、「女子とどんな話をすればいいか」がなんとなくわかるようになっていた。
ただ、肝心な好きになった子とは全くうまくいかず、それもそのはずで、その子には既に彼氏がいて分かれる気配もなかった。しかし恋愛というものを全く分かっていなかった自分は「彼氏がいても好きなら諦めないのが純愛だろ!」などと痛いことを考えていて、ちょこちょことアプローチを続けていた。
(AKBの歌詞みたいだね。好きって気持ちが大事なんだーって。さすが秋元康は童貞の気持ちをよくわかっている)
ただまあ当然うまくいくわけもなく、早まって告白をし、あえなく振られた。そんな感じで傷心状態が1~2か月続いたが、そのタイミングで同じサークルのある女の子と仲良くなった。
その子は正直言ってあまりタイプではなかったが、傷心を癒してくれたし、何よりなんだか付き合えそうな雰囲気があった。そこでやりたい気持ち半分、癒してほしい気持ち半分でなし崩し的に告白をして付き合うことになった。
後から振り返って思うのは、やはりn=1でも女子と付き合ったことがあるかないかはとても重要で、一人の女性からでもその生態を深く知ることができた。
そこからの話はあまり面白くないので詳細は省くが、人並みに大学生らしい恋愛をした後、別れたりくっついたりして、やがてそれも終わり、その後新しい彼女が出来たりして…といった感じで、徐々に「弱者男性」だった自分は薄まっていった。
ここで、弱者男性だった頃の、下手で、精神的に未熟で、痛くて、という恋愛観を経て、今思うことを綴ってみる。
まず、弱者男性になるきっかけは、ほとんどの場合、先天的なものと家庭環境だとおもう。冒頭にも述べたが、イケメンに生まれて弱者男性になる人は少ないだろう。あとこれも経験則でしかないが、家庭内に女兄弟がいたら弱者男性になる確率はぐっと低くなるだろう。
次に、弱者男性から抜け出す方法は、月並みだが女子と接する「経験」をともかくつむしかない。なので、今自分が弱者男性であると自覚していて、かつそこから抜け出したいと思っている人は、勇気をもって踏み出してみるしかない。当然傷つくことも多いし、自信を無くすかもしれないが、多くの男性がそれを乗り越えて幸せをつかんでいるのだ。こんなことを書くと精神論になって胡散臭いセミナーみたいなので、最後に具体的な方法を2つ示して、弱者男性から抜け出せる確率を少しでも上げられるように考えてみる。だれが読んでいるか分からないが、少しでも参考になれば幸いである。
恋愛において顔が重要なことは何度も述べたが、顔は整形でもしない限り変えることができない。しかし、髪型やファッションは変えることができる。今となっては、自分も他人の恋愛相談に乗ることも多いのだが、モテない人はだいたいダサい髪型とダサいファッションをしている。そういう人はたいてい我が強い。自分のこだわりが強すぎて世間の流行からかけ離れているか、もしくはすごくケチで美容院やファッションに金をかけたくないと思っている(趣味に金をかけすぎで、髪型やファッションに金を回したくない人も含む)。
そして、女子は男が思っているより何倍も外見で様々なことを判断する。男の何倍も髪型やファッションに関する関心が高く、自分が思っているよりかなり細かく髪型やファッションを見られていると思ったほうがいい。こんなことを書くと、「外見で判断する女は嫌だ」なんて反論が聞こえてきそうだが、そんなきれいごとを言ってもしょうがない。流行りの髪型やファッションを雑誌やSNSで学び、カネをかけるべきである。
自分はと言うと、なぜか中学くらいからファッションにだけは関心があり、ファッション誌を読み漁り、誰に見せるわけでもないのに(高校生にしては)そこそこ高い服を買っていた。それもあってか、大学入学後は髪型やファッションに関してダサいと言われることは無かった。このことは弱者男性を抜け出すための大きな要因だったと思う。
これは、弱者男性が恋愛をすると初めに陥りがちなパターンである。つまり、好きになった女子の要望をなんでもかなえてあげたいという思考だ。
「どこ行きたいの?」「何が食べたい?」「次どうする?」。こういったことを逐一聞いていると女子は貴方のことを優しいとは思わず、むしろ「頼りない」=「魅力を感じない」となってしまうらしい。(自分もこういうことを言っていたので気持ちは痛いほどわかる…)
対策としては、デートまでの日時とデートプランはこちらである程度固めて、リードしなければならない。いちいち女子の要望を聞いていてはいけない。迷ったら、お互いの休日を合わせて、映画に行ってちょっとおしゃれなお店(頑張って調べよう)で食事をする、とかで良いと思う。面白味は無いが、女子が貴方を査定するには必要十分なセッティングだ。
いかがだっただろうか?この日記は特に推敲もせずに思いつくままに書きなぐったので、読みにくい部分もあるかもしれない。
自分もまだやっていないのだが、自分の日記と元の日記(https://anond.hatelabo.jp/20241021131553)を読み比べてみて、どのような違いがあるのか考えてみよう。
もしこの辺境の地の日記をたまたま読んでくれた人は、元日記との違いやざっくばらんな感想を教えてもらえれば幸いである。
では。
この国を蝕んでいるのって、
現実はただの現実にすぎず、(変えるにしろ、現状維持にしろ)その現実に対して何らかのアプローチをするには理想が必要なのに。
現実主義の名の下に、理想を語り理想に向けて地道な努力を積み重ねる事を初っぱなから否定したがる。
まず「好意」を抱く下地を作れ。つまり好きになっても不思議じゃない出来事が共通認識できてないの。何で好かれてるのか分からないから性欲を向けられてるようにしか感じないの!恋人になる為のステップを踏め!
非モテ男性のアプローチの成功率ってまあだいたい0.1%くらいなんよね
千に一つの針の穴を通すために逐一ステップ()とやらを踏んでたらあっちゅうまに適齢期過ぎますわな
「たくさんの企業に履歴書を送るのは失礼なので一社ずつ真剣に就職活動をしましょう!」とか言ってんのと同じ
聞く価値なし
論外
若くて可愛い子からアプローチされたらやり方がキモかったり失礼だったり問題あったとしても、その子が若いし可愛いからまあいいかってなるだろ。
でも、「どうやってもキモくなる」って決めつけすぎかも
アプローチの仕方は人それぞれで、相手の受け取り方も色々だから、キモいと思われるかどうかはその瞬間の空気とか、相手との関係性とか、伝え方次第だと思うんだよね
たしかにリスクはあるけど、それって何も恋愛に限ったことじゃなくて、友達作りとか、仕事での提案だって同じじゃないかな
相手を気遣ったり、自分の気持ちを素直に伝えたりすれば、必ずしも「性欲」メッセージ一辺倒にはならないし、相手もキモいと感じにくいかもしれない
「現行の医療福祉制度を大きく変える(=老人を見捨てる)」という表現は、政策として非常に過激です。高齢者を支える制度の見直しが必要であることは議論されていますが、「見捨てる」というアプローチは現実的・倫理的に受け入れられにくく、憲法や人権の観点からも重大な問題があります。
少子化対策の成功例が少ないという指摘は一部で当てはまるものの、特定の国(たとえばフランスや北欧諸国)では出生率の回復に成功しているケースもあります。日本と異なる家族支援の制度や労働環境の整備により、出生率の上昇が実現された例もあるため、少子化対策を通じた効果的な社会保障の安定化は理論上可能です。
医療制度の見直しや改革は、少子高齢化に対応するために確かに議論されていますが、社会保障の財源不足を補うために高齢者を支援しない選択肢は倫理的にも政治的にもリスクが大きく、日本の社会構造を支える基本的な価値観に反する恐れがあります。例えば、高齢者向けの医療費負担を増やす、あるいはサービスを限定するなどの改革も現実的に考えられますが、バランスのとれた制度の再設計が必要です。
少子高齢化対策は一筋縄ではいかず、多面的なアプローチが求められます。少子化対策と高齢者福祉のバランスを取りつつ、効果的な社会保障制度を構築するための複合的な政策が重要です。「老人を見捨てる」ような過激な選択肢に頼らず、他国の成功例も参考にしながら現行制度の改善と少子化対策の両立を目指すことが、持続可能な社会構築には必要と言えます。