はてなキーワード: 批評とは
https://anond.hatelabo.jp/20230529143342
マーベル作品もそうだけど、そもそもディズニーってアメリカ国内だけの興行だけでは回収しきれない規模の映画作ってんすわ。
実写版『リトル・マーメイド』のバジェットは2億5000万ドルで、ワールドワイドの損益分岐目安はざっくり3倍計算で7億5000万ドル。
初週時点で勢いを越えたとされる実写版『アラジン』の最終的な米国内興収が3億5000万ドル(予算1億8000万ドル)だから、仮にアラジンと同程度の額を叩き出すとするなら、残りの4億ドルを他の国で調達しないといけない。
実は中国は実写版ディズニー作品に関しては、そこまで興行収入を期待できる国ではない。『アラジン』は5000万ドル止まりだったし(それでも『リトル・マーメイド』よりは上等だが)、8000万ドル行った実写版『美女と野獣』でもその年の中国の興収ランクでは200位程度にすぎない。
で、そこにきて、『アラジン』と『美女と野獣』の両実写版興収が1億ドルの大台を越えた国がある。
日本だ。
ディズニーのエグゼクティブや営業がどう考えているかは知らんが、個人的には日本ではコケると思う。
『美女と野獣』がヒットしたのは、エマ・ワトソンを起用して日本人好みの昔ながらの「プリンセス・ストーリー」を少なくとも絵面の上ではきちんとやった(実はモロに人種やセクシャリティの多様性を前面に出しているにもかかわらず)ところが大きい。まあそもそもベルって王女さまでもなんでもない陰キャのガリ勉女なんだけど、そのへんはね。
ポリコレがどうこういう前に、エマ・ワトソンがすげーきれいなドレスをきて、みんな大好きな『美女と野獣』やってるじゃん、でみんな来るわけ。
ハリウッドスターの力が失われたと叫ばされて久しい日本の映画市場だけど、それはまあ新規IPをスター主演で送り出す場合の話で、すくなくともすでに固まったIPの場合はスターのほうがみんな「安心」して観られるという点でまだ強い。
そういう点でもそうだけどさ、新しい解釈とか新しいストーリーとか、少なくとも日本の観客は求めてなかったの。
個人的には野獣が野獣のまま生きていくエンドとか観たかったけどね。
そこに来て実写版『リトル・マーメイド』は日本人に訴える要素が少ない。
主演のアリエル役はド新人。肌の色も黒いしドレッドヘアだしで”みんな大好き”だった原作と文字通りイメージが違う。
まあ差別意識といえば差別意識なのかもしれないが、市場のことだけを考えるならばこれは日本の市場への訴求しない。
日本ディズニーの宣伝がなんとなくやる気ないように見えるのも、現場の人たちにはそれがうすうすわかっているからなんだろう。
特にポスターのビジュアルイメージが「原作通り」じゃないのは致命的だろう。映画ってだいたい内容わかっていない状態、なんなら大半の観客は予告編すら見ない状態で観に行くもんだから、ポスターは大事だ。
そこで「これじゃないな」となったら、もうおしまい。
『アラジン』と違って脇に強烈なスターを配置できる作品でもないしなあ。
これらの悪条件を跳ね返して100億円稼いだら、日本の観客を見る目が少し変わるかもしんない。
映画の内容では批評的に評価されているものでもないんで、映画自体への評価は観てから決めますが。
韓国の公開初週の上映館は2館だけ。先行上映的なやつかん?
中国版独自ポスターは青で統一された色調のものが採用されているんだけれど、アリエルの肌まで青々しくしちゃったもんだから、「差別ではないか」ってふきあがっている人がいるわけ。
ちなみにアメリカとかでは「青」は「白」に近い色だからホワイトウォッシュ的な文脈が流れ的にはある。
ネタなのか本気なのか、「中国人は差別的だから青版ポスターしか国内では貼れないんだ!」と叫んでいる人もいるんだけど、中国国内の宣伝ではふつうにアメリカや日本でも使われているポスターがでかでかと使われてたりする。
そんなこんな、いつもの元気なついったらランドって感じなので、アメリカとかのTwitterやメディアだけ眺めて判断するのは危険です。
まず私のプロフィールを明かしておく。
大学院生。社会学と文学のあいの子みたいな分野で、とくにジェンダーとかセクシュアリティとかそういう事を学んでいる。
映画は学部時代に少しかじった程度で、評価はB+だった。だから的外れなことも言うかもしれない。すみません。
匿名なのでもっと書くと、同性愛者で、SMの実践者で、フィクトセクシュアルに片足つっこんでいるので、わりとどの界隈でも少しなじめない気持ちになりがち。
「映画としてはちょっと……」というような意見が主にアカデミックや評論の場で散見される。
これは分からないでもない。ちなみにここでは個人攻撃みたいにするつもりはないので、引用は特に必要でない限りはしない。
「すげえ! マリオってこういう解釈ができるんだ!」みたいな「新しいもの」はなかった。しかし、「マリオの映画といえばこういうのが見たいよね」という「見たいもの」が詰め込まれており、「新しいもの」を入れる余地は90分にはないように思われる。
メディアミックス映画としては一つの模範解答であり、文句なしの一級品といってもいいかもしれない。面白い映画といい映画は別だが、以下では「いい映画」(いい映画って何すか?)としての切り口を見てみたい。
ゲームをアニメとしたら、キャラクターの解像度や物語の運び方だけでなく、どのようにゲームの快感が写し取られているかが重要ポイントに思う。
マリオのゲーム体験を思い返すと、快感は大きく二つに分けられる。
「スーパーマリオブラザーズ」ならステージクリアのタスク消化に似た快感。
「スーパーマリオ64」に連なる「箱庭マリオ」なら新しいマップを開いていく探索の快感。
マリオシリーズだけでなくゲームの快感はむしろこの二者に共通する「試行する」快楽が大きいのではないか。
私はといえば、ゲームが苦手だった。
クリボーに激突する。穴に落ちる。ドッスンに潰される。空から落ちる。燃やされる。溺れる。
我ながらヘタクソなプレイである。しかし、プレイを重ねると、一つ一つそれらを回避なり消化できる。そこにゲーム的快感がある。
翻って「映画マリオ」に戻る。キノコ王国に迷い込んだマリオは、ピーチ姫の旅についていくためにゲームばりのアスレチックに挑むわけだが、このプレイングも経験者ならば笑ってしまうほど失敗に満ちている。そしてその分だけマリオは「試行」を試すことになる。
アスレチックだけでなく、ドンキーコング戦、クッパ戦と繰り返し作中で強調される「諦めの悪さ」が導くゲーム的快楽とはこのような「試行」の快楽が適切だろう。
文学研究者の藤田直哉は上記のようなことも含めて、「物足りなさ」を指摘している。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/1655397557198278662
ここは鑑賞者のバックボーンも関わってくるのかもしれない。
周回前提のゲーム「ドキドキ文芸部」「UnderTale」「シュタインズ・ゲート」の記憶が私にはすごく強くあるし、マリオシリーズから距離を取っていたので(ここまで多くの作品に触れたわけでもない)、試行錯誤性は面白く観た。
また、勉強不足と笑われそうだが、3Dの映像で2Dのフィールドを表現する映像も、私としては十分に真新しいものだった。
「反ポリコレ」とか、「ジェンダーから距離を取っている」いう話も聞く。
しかし私はそうは思わない。LGBTと「マリオ」作品群の関わりは以下のコラムに詳しいため、これ以上は言及しないが、さらに男性性との関わりについて分析する。
https://cinemandrake.com/pokemon-musashi-kojiro-lgbtq
こちらも藤田直哉の評を引用する。私のマリオ映画への評価は彼とは異なるが、この評と私の見解は一致している。
https://twitter.com/naoya_fujita/status/1656110486713434113
クッパは名誉と所有、暴力を原理においたキャラクターであり、婚姻と幸せを直結させる家父長制を背負った男である。
ピーチ姫に対し無茶な論理で婚姻を迫ったり、彼女の知人も含めた囚人を婚姻の犠牲として殺そうとしたり、人の論理の届かない人外らしさが映画における彼の輝かしい魅力でもあることは間違いないが、それは悪しき男性性の発露でもある。
この「有害な男性性」を退けることを軸にマリオ映画を見てみると、マリオは退けた先に何を得たのか。
それは物語のラストが示すように、ピーチ姫ではない(ピーチ姫とマリオとの恋愛の成就がほのめかされてはいる。しかし、ほのめかされていることと明らかであることは違う)。
マリオはゲームにおいてプレイヤーの分身であり、あまり感情を発露しない。
葛藤もあまり読み取れず、さらわれたピーチ姫を取り返すため、躊躇いなく絵画に入ったり火山に行ったり宇宙に行ったりしているように見える。
しかしマリオ映画においては、夢を追う自信のなさげな男として描かれる。
イタリア系アメリカ人の家庭で育ち、家族仲はおそらく悪くないが、「父親に認められたことがない」ということが恐らく影を落としていて、自分のやりたいことと、父親に認められたいという二つの想いが両立できていない。
そしてマリオは映画の終わりに藤田のいうところの「有害な男性性」の発露であるクッパを倒し、父親からの承認を得ることとなる。
婚姻に大きな意味をおく家父長制の権化を倒した先に、父という家父長に認められるというメビウスの輪的な権力のねじれについて、私はまだうまく説明ができない。こういう嫌な書き方をすることで、妙な引っ掛かりを表明するしかできない。
その是非について何か言いたいわけではない。
現実では家父長制や異性愛規範や同性愛差別やトランス差別や人種差別が吹き荒れている。そのような不均衡な権力は改められるべきだし、悪しき男性性とは決別すべきである。
その是非についても何か言いたいわけではない。
ここまでが建前。
「家父長制の権化」と表現したけれど、理屈の通じない愛情を持て余す魔王クッパが大好きだ。
本気で惹かれると言っていい。
そして彼は多くの部下に愛されながらも、彼の愛はどこにもたどり着かない。
槇原敬之の「軒下のモンスター」から「いっそ妖怪にでもなって 君を軒下からただ見ていたい」を引いてもいい。
三島由紀夫の「仮面の告白」から「お前は人間ではないのだ。お前は人交わりのならない身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生き物だ」を引いてもいい。
ピアノを弾きながら「ピーチピーチピチピチピーチ」とか歌ってる彼のカットでは劇場で笑い声が起きた。
「悪しき男性性」の回路ではもう誰かと心を交わしあうことはない。ピーチが振り向くことはない。彼の歌うラブソングは哀愁に満ちて、あるいは滑稽かもしれない。
私も笑った。でもぶっちゃけ泣きそうにもなった。
今ギリギリこの男を笑って愛でながら見られるくらいには私もマジョリティにいられてるんだろうけど、こういうジェンダーやクィアの批評は規範を可視化させ内破する営みであって、次に生み出される新しい規範にいられなくなったら、次は私が笑われる番なのだ。
本当は、弱者はクッパの方なのかもしれない。でも私は彼にあまりに感情移入しているから歪んだ読みをしているのだろう。
お前の横暴さも、報われなさも、情けなさも、関われなさも好きだぜ。ほんとに。
今のところ自分は産まなくても十分幸せだっただろうなーと思う。
子供はすくすく育ち、5歳になった。
共働きで、メインの稼ぎ手は私であり、夫とは仕事家事育児のすべてを分担している。
それでもとにかく、いくら分担したところで、母親業ってやつに心が馴染まない。
「面倒くさ〜」「疲れるな〜」とか、そういう感情が先立つ。親であるデメリットを毎日感じる。とくに自分が体調不良の時は本当に勘弁してくれと思う。
自分のリソースをここまで削られることに対して、育児って狂ってんなーとしみじみ思う。
常に睡眠不足だし、外に出りゃ私たちがちゃんとした親かどうかを逐一社会がチェックしてくるし、保育園から持って帰ってきた体調不良は家全体に蔓延するし、お金はバカほどかかるし、家の中は汚されるし散らかるし、ずっと騒々しいし、何かやろうと思えば体感20秒ごとにストップが入る。自分のことをする時間は本当にゼロになる。育児の裏でなにかに集中できることなんてひとつもない。デメリットを挙げだしたらキリがない。
ときどき夫が子供を連れ出してくれる時だけ、久しぶりの趣味の感覚を取り戻そうとしてみたり、家をいつもよりきれいにしたり、読書したり、仕事に関する勉強をしたり、お菓子を焼いたり、お風呂にゆっくり入ったり、はたまた好きに出かけたりできる。
この時間が永遠に続けばいいのになぁ、子供がいない人は休みごとにこんな風に動けるのか、羨ましいなぁ…と思う。実際自分は独身・子なし夫婦時代を楽しく過ごした。
自由な日の終わりに子供が帰ってくると、あーあ…と思う。次は一体いつ自由な身になれるんだろうなと凹む。
仕事終わりに保育園に向かう時も、自転車を漕ぎながら「これからまた明日の始業までしんどいな…」と毎日思う。仕事の方が自分の計画で動けるのでストレスを感じずに済む。
ゆえに金曜日は気分が沈む。
「ああやってしまった、産むんじゃなかった。」という感覚がずっとある。もう産む前には戻れないことに対しても、最初の数年は発狂しそうだったけど、ある程度心の中で折り合いはついたと思うのに。
もう巻き戻せないんだからちゃんとやらねばと思って、できる限り子供に関わって、仕事も主体的にこなすことを心掛けながら、気を遣ってくれている夫と子供が理由で関係が悪くならないように努力しつつ、自分の体調も崩さないように気を付けて来たけど、もう本当にマジで疲れたな。
楽になりたい。
子供を持つことの良いところってなんだろう。
子供がかわいらしいこと、その子供に好かれていて駆け寄ってくること、パートナーは子供がいて幸せだと思っているらしいこと、社会的に子供がいるというステータスが「まとも」と見られる時もあること、子持ちにしか縁のない場所に堂々と出入り出来ること、「子供を産めば良かった」という後悔をすることはなくなったこと、このぐらいか。
(ここに「自分が完全になった気になれた」「かけがえのない存在がいる」とかを一緒に挙げる人もいそうだが、それに関しては私は夫と結婚することですでに感じられていたので除外した。
同じように「子を産む」ことに付随する神秘めいた説明のつかない部分を体験できることに関しては、私がそれについて懐疑的なので除外した)
いや、これだけで頑張るには毎日キツすぎる。
それでもやりたいと思うならぜひやってみたらいいとおもうけど、全く他人にはお勧めできない。
特に、リミットを感じて周りにも子を産めと圧をかけられ迷いが生じている人には本当にお勧めできない。産んだら元には戻れない。
子供はいいよ、産みなよ、とか簡単に言う奴は、自分の苦しみを他人にも感じさせて分かち合える人間の母数を増やしたいのかな?とすら思う。
現状を知った上で産むかどうか選べるなら産まない。誰もこんなことしない方がいいとすら思う。
本当に何も知らなさすぎた。バカだったな。
「こうなる」ことをもし全部知った状態で産む前に戻れるなら、子供が欲しいという夫を説得して、共働き子なしで一生余裕ある暮らししようって言ったと思う。それでも子どもが欲しいなら別れよう!と言ったと思う。別れたいわけではないけど、子供が欲しい夫に後悔が残るのはかわいそうだから。
不可逆な選択を間違えたので、もう粛々とやっていくしかないと思って、時間とお金を湯水のように消費して毎日育児している。
自分の時間が吸われ続けて、やりたかったことは出来ず、このまま老いていくんだなあ。
あ〜、人生もっと楽しみたかった。これが正解なんだとしたら狂ってる。
若く楽しい時間を犠牲にして、一つの命を「人間にする」行為をしている。楽しめる人もいると思うけど、私はそうではなかった。
もちろん2人目は産まない。
子供を産んだ自分が詳細に想像がつかないまま子供を持ったのは本当にバカだったなぁと思う。
「こんなことを言う母親で子供がかわいそう」と言われる声が自分の中から聞こえてくる。
いくら子供に関わって心を砕いて、自分の持てるリソースを殆ど全て明け渡しても、母親の内心がこんなふうなら「子供がかわいそうと言われてしまいそうだ」と考えてしまうぐらい、育児の現場には内心どう思うかすら自由がない。
後悔してますと大っぴらに言うことは出来ない。子供を傷付けたいわけでもないので、胸にしまっている。これからも現実ではそうし続けると思う。
若い子は半数以上が子供を持ちたくないらしい。賢い!そうした方がいい!と思う。
産む前には絶対戻れない。私は知らなかったから子供を持ったけど。
もう一度言いたい、産む前には絶対戻れないって。何もかも元に戻らない。
[ 追記1:養子はどう?というコメントに対するレス以外、増田はコメント返信していません ]
[ 追記2:
疲れ果ててろくに推敲もせず書いたものが人に読まれていろいろコメントまでついていて驚いた。
「子供の目に入ったらどうする」「子供がかわいくないのか」「こんなものを人の目の触れる場所に書くな」というコメントが散見されたけど、「日々なんとかやっていて、子供とちゃんと関わっている」と想像がつくであろう情報を添えてもこんな意見が返ってくることこそ、子を持ったからにはこうあるべきという強い思想があることを浮き彫りにしていると思う。
(おすすめしている人もいたけど『母親になって後悔してる』はすでに読んでいるので、ブックマークが伸び始めた時点で私のことを人非人扱いするだろう意見が出てくることは想像がついた。むしろ思ったより共感が多いなと思ったほど。)
そして「子供を持つことで、人生の選択ミスをしたと思っている」という意見が見えてきづらい理由もなんとなく分かった。
こんなことを書く人間はすでに心が疲れているので、余計なことを言って他人から責められるなら辛くても大丈夫なふりをしてやり過ごす方がまだマシだし、こうやって文章にすることで子供に対する罪悪感から自責の念を強めてしまって投稿しづらいんだろうな。
匿名のエントリでさえこんな反応が返ってくるなら、そりゃ誰も言わないし、書いて残したりしないだろう。
とはいえ、これは私の心にとっての事実であり、しかも上記の理由から「表明する人が少なく、アクセスしづらい情報となっている」と思われるので、とりあえず消さずに置いておくことにした。
大した文章でもなんでもないんだけど、私は産む前に知ることが出来なかったことだし。
「自分の子供だけはやっぱり違う」とか、「人類がみんなやってきたことなんだから、あなたにも出来ないわけがない」とかだいたいそんなことを言われたので。
あまりにも不可逆な選択で間違えてしまったと思っている、でももう戻ることは絶対に出来ないので、毎日やり過ごしている。後悔している。疲れた。この投稿にそれ以上の意味はない。 ]
[ 追記3:
Twitterでいろいろとシェアされていることにたまたま気づいた。
こういう文章が引用した人間の持つ思想のお気持ち棒として振るわれるのは仕方ないことだが、引用した人の主張のバイアスがかかった状態で読まれて内容を勘違いされるのも本意ではないので、仕方なく補足として追記する。
あと、そもそもここまで読まれると想定して書いた文章ではないので、「自分の排泄物がやたらと批評されている」みたいな違和感があることも書いておく。
上記の文章は私にとっての事実であり、ただただ嘘のない気持ちを列挙したらこうなった。
とはいえ、いつまでも現状に文句たらたらでふてくされたまま人生を無為に過ごすつもりは全くない。
「母親になって後悔してる」と結びつけてシェアされたのが大きく伸びたせいか分からないが、私が今後一生ずっと子を持ったことを後悔し続け、後ろ向きに暮らす惨めで不幸な女だと決めつけてかかる人がいるが、それは違う。
(そもそも、同書に出てくる母親たちもそんな人ばかりではない。戻れるなら産まないというだけで、その人を幸福になれない人間と決めつけるのは早計だと思う。「母親になって後悔してる」の本の事例だと考えてシェアした人もそんなつもりは無いと思う。)
こんな生活になると想像しきれず、人生はめちゃくちゃになってしまった。戻れるなら私は産まない。今現在、後悔している。それは本当にそう。でも不幸とイコールでは無い。
私の子供はすでにそこに存在していて、それならば子供自身が思う自分の人生を送れるようにできる限り手助けしたいと思っている。
今現在、自分がこんな心境であるにしても、自分含め家族全員が幸せな人生を送れたら良いと思っている。
「誰もこんなしんどいことしない方がいい」とついつい思ってしまうとはいえ、私は反出生主義者ではない。どんな派閥も肯定する気はない。
他人にまったくおすすめできない行為ではあるし、後悔しているのも事実であるため、どうやら読む人によっては「この状態を不幸としない」ことに矛盾を感じるのかもしれない。
(※0か1かでしか考えられない人もいると思うので一応書いておくが、これは「だから子供を産んで後悔はしてるけど、やっぱり私は幸福です」と言っているわけでない。)
こんな人間はどうせ産まずともグダグダ言っているだろうという意見もまあ確かにそうだな、と思った。というか、それの何が悪いのか全く分からない。
子供を産まなかった別世界線の私が後悔したとして、子供を産めば良かったと後悔している、と表明することの何が悪いのか?
その時その時のその人にとっての真実を書いて、ネットの海に放流することはなんの罪もない。
いろんな人が好き勝手書いて、それをいろんな人が参照して、取捨選択に使えばいいと思う。
(人の言葉尻を捕えて揶揄することで主張をする人たちも、私からすればイラッとするが好きにするといいと思う。匿名ツールなんてそうやって使われるものだと思うし)
もはや自分で読むのも面倒臭いほど長文になってしまった。これ以上追記はしないので、あとは自由に解釈してもらえたらと思う。 ]
藤島泰輔なんて作家の名前、知ってるのはかなりのジジイ・ババアだろうなあ。
今のジャニーズ事務所の社長はシャニー喜多川こと喜多川擴の姪である藤島ジュリー景子(日本人なのになんでミドルネームあるんだろ?アメリカうまれだから?戸籍上はどうなってるんだろ?)という女性だが、この人の父親である。
詳細はwikipediaを見ればわかるが、1933年うまれで小学校から大学まで学習院出身。現上皇のいわゆる御学友の一人。新聞記者時代に当時の御学友たちをモデルにした小説『孤獨の人』がベストセラーになり、その後、作家として独立。世の中まだまだ“進歩的文化人”が幅を利かせてきた時代に“保守派の文化人”として活躍した人である。
かつて、韓国の朴正煕独裁政権下で反体制作家として活躍し死刑判決を受けた金芝河という韓国人詩人がいたのだが、日本ペンクラブの要職にあった藤島泰輔は韓国政府を擁護する立場の発言を繰り返し、日本ペンクラブが紛糾、ペンクラブから有吉佐和子・司馬遼太郎らが脱会するという騒動も起きている。
当時、“進歩的ジャーナリスト”として大人気だった本田勝一からは“御学友であるということだけで地位を確立した三流作家”などと言われていた。
なお、藤島泰輔の名前は記憶になくても、『不思議の国ニッポン』の著者ポール・ボネといえば覚えている人もいるかもしれない。1970年代から80年代にかけて“日本に在住するフランス人ビジネスマン”という触れ込みで、歯に衣着せぬ率直な文章と透徹した思考、練達の日本語で日本社会の批評を書連ねてきた…という触れ込みの人である。
今では考えられないが、昭和の日本では言論出版の世界でこういう詐術がまかり通っていたのである。
いちばん有名なのは、神戸在住のユダヤ人“イザヤ・ベンダサン”こと山本七平だろうか?
この二人に共通してるのは、なぜか最終的には日本の保守を称揚し、当時の左派や進歩的知識人を嫌うところ。“そんなのは海外から見れば非常識、絵空事”とやるわけである。
今も昔も日本人は、“海外から日本はどう見られているか”ということを知りたがり、日本人から言われると反発することでも外国人に言われると素直に聞いたりするので、こういう出版興業が成り立ったのであろう。
さすがに今の世の中では、ここまでの嘘はバレるので、“国際機関で活躍”だの“海外の大学で評価されてる”とか言う日本人を逆輸入してくる例が多いわけだが。
で、藤島泰輔とジャニーズ事務所とのかかわりだが、もともと歌人高浜虚子の孫娘と結婚していたものが、当時、バーを経営していた喜多川擴の姉(通称メリー喜多川。SMAPを解散に追い込んだ人)と知り合って内縁関係となったらしい。
一説によれば、創設当時のまだカネもなければ力もないジャニーズ事務所をなにかと援助してきたのは藤島泰輔とその人脈であったとも聞く。
その援助とはいかほどのもので、どのくらいの効果があったのだろう?
昭和の時代、“御学友”といえば今以上の権威があったような気もするが。
一部で噂されている“有力政治家にジャニーズ事務所の少年がお稚児さんのごとくに提供されていたらしい”という真偽不明な話も、おそらくこのあたりに端を発するのだろうが。
昨今、ジャニーズ事務所に関していろいろ報道されているけれども、このあたりまで掘り下げているのはみた記憶がない。
統一教会を語るには岸信介と文鮮明の関わりにまで遡らなければならないがごとく、本当はこのへんまで深掘りしないと“なんであんなジャニーズには力があるのか”は分からないかも知れない。
誰かやってくれないかな?
さすがに難しいか。
なお藤島泰輔の小説『孤獨の人』は、一時期は岩波現代文庫にも入っていたようだが、現在は絶版。電子版はないようだが、古書ならamazonでも手に入る。岩波現代文庫だと、岩波文庫程ではないだろうが、揃えている図書館もそこそこあろう。
そして、この作品なんと映画化もされている。検索してみたらなんと現在Amazonプライムで配信されており、プライム会員なら追加料金ナシ!いい世の中だ。
後で見てみることにする。
あいつらは、俺ら絵師(俺みたいな弱小絵師は含まれないかもしれんが)の作品を無断で学習したAIを使って、一本も線を引かずに「俺らAI絵師っす!まだペン持ってるんすかwww教師データごちっすwwwwww」みたいに煽ってきてな?すげえわかる。弱小絵師の俺なんかでよければ200%その憎しみに寄り添ってやれるよ。憎いよなあいつら。
でもさ、頼むからAI絵師(笑)を叩くのを即刻やめてくれ。お願いだから。少なくともオープンな場で叩くのをやめてくれ。
みんながAI絵師(笑)叩きに励めば励むほど、俺らの置かれている状況はどんどん不味くなっていく。俺はそのことを知って欲しくて今回これを書いている。
(AI絵師を叩くなという文章を書く以上、これ以降はAI絵師のあとに(笑)をつけません)
『失敗の本質』という本がある。
旧日本軍の失敗を分析した本なんだけど、まあ内容は長くて難しいので各々気が向いたら読んでもらうとして、その本の中にみんなに知ってほしいことが書いてある。それは「戦略とは目標達成につながる勝利を選ぶこと」ってことだ。目標達成のために何に勝利するべきなのかを考え、勝利するべき戦場を決める。これが戦略。選んだ戦場でどうやって勝つべきかを考えるのが戦術。だから間違った戦場を選んだ時点で戦い方を工夫しても意味がない。間違った戦場でいくら勝利しても目標達成につながらないから。戦略レベルのミスは戦術レベルでは取り戻すことができない。確かこんな内容だった気がする(本の内容うろ覚えだから間違ってても許してね)。
じゃあ、俺らの達成するべき目標ってなによ?
生成AIをこの世から駆逐すること?それはさすがに無理だ。もう認める。
悪質なAI絵師をやっつけること?どうやって?一人ひとり大勢で叩きまくってアカウント削除に追い込むつもり?やつらが反省するわけないぜ?
何が言いたいかというと、我々絵師は達成するべき現実的な目標をちゃんと共有するべきだってことを言いたい。AI絵師叩きという戦場で奮闘する前にね。
そして、我々が達成するべき現実的な目標というのは、上記のa)〜c)の環境が実現できるようなルールを社会的合意のもとに策定することだと思う。
「不本意な形で」というのが重要。とはいえ、我々は自分が描いた絵に無限の権利を持っているわけではない(残念だけど)。研究のための教師データ利用などを規制するのはかなり難しい。自分たちにとって何が「不本意な形」なのか話し合ってコンセンサスを得ようぜ
※ 「b) 非AI絵とAI絵が適切な形で区別されている」について
これは技術的に可能かどうかという問題が含まれる。個人的にはc)さえ達成されていればb)については譲歩してもいいと思う
※ 「c) 非AI絵を描くアーティストが適切に尊敬されている」について
俺はね、なにも「俺は絵師様だぞひれ伏せ!」なんて言ってるわけじゃないのよ。一般的に、絵に限らず、優れた仕事や技や経験に対しては、相応の態度を向けられるべきだと言いたいんだよ。工芸でも料理でも音楽でもなんでもいい。そこに磨かれた技や豊かな創造性があると認識していながら、技術的代替手段によって市場価値が下がったことを理由に、相手を侮ったりましてや煽ったりするべきじゃない。それは貧しい考え方だよ
先回りしてあなたに伝えすると、俺はこのあと「社会的合意のもとにルールを作ろう」という話をする。法律を含む様々な社会的ルールがなぜあると思う?極論を言うなら、我々人間にはお気持ちがあるからだ。物を盗まれるのは嫌だ。殴られるのは嫌だ。もっと人間らしく労働したい。そういうお気持ちがひとつひとつのルールを作っているんだ。そして今回の件で俺たち絵師は自分のお気持ちにちゃんと向き合い、絵師界隈としてのコンセンサスを固め、社会に向き合っていく必要がある。「お気持ち」なんて言葉で論破してる気になるなよ
※ 正直、非AI絵というレトロニムすら書いてて辛い(お気持ち表明)
さっき俺は「社会的合意の元にルールを作る」ことが俺たち絵師の目標だと言った。勘違いしないでほしいんだけど、ここでいう「ルール」とは絵師界隈のルールとか、pixivなどのいちサービスの規約とかの話ではない。法律や判例など社会的な拘束力があるルールのことだ。これはすごく難しい。どれくらい難しいのかの想像すら難しい。でも目標達成条件だけははっきりしている。「社会的合意を得ること」だ。まず俺たち絵師としてのステートメントをまとめ、多くの人の賛同を得て、対立する勢力との泥臭い政治的なすり合わせを行い、そうやってようやくルールは作られる。
「対立する勢力との泥臭い政治的なすり合わせ」だって!?そんなの絵師にできるわけないじゃないか!!!
うん、俺もそう思う。だからそういうのは専門家に任せよう。赤松先生でもいいし、それが嫌なら別の人を送り込んでもいい。まあ簡単な話ではないけれど。
正直ほとんどの絵師にとって政治なんて遠い世界の話でピンとこないと思う。俺もきてない。だからひとまず俺たち絵師は、「社会的合意の元にルールを作る」という目標達成のために次の2つに注力した方がいいと思う
・多くの賛同者を得る
そして、長くなっちゃったけど、今回俺がみんなにAI絵師叩きをやめるように頼む最大の理由はここにある。ひとつひとつ説明したい。
ほんとさあ。名指しはしないんだけど、AI絵師叩きから勢い余って「絵は他の創作より上等だ」みたいなこと言ってるやつがちらほらいるだろ。「確かに私は翻訳AIを利用してますが、その教師データである翻訳テキストなんて、絵に比べたら創造性のかけらもない二流品だ」みたいなこと言ってるやつら。あるいは鑑賞や批評の創造性について一切思い至ることなく「無産オタク」とか言ってるやつら。
ま〜〜〜〜〜〜じで勘弁してくれ。お前らまじで働き者の無能でしかないからな。まじでさあ……ほんとさあ……ああ……書きながら腹立ってきた。
あのな?AIから創作物や創作者を守るルール制定を目指す上で、他ジャンルの創作者様こそが最初に引き込むべき最大の味方なのよ。彼らは同じ創作者として俺ら絵師の苦しみに最も共感しやすいはずだし、もしかしたらそれぞれの表現方法で俺らの主張を社会に広めてくれるかもしれない。それが他ジャンルの創作者様なのよ。なんなら俺は、社会的合意によって策定するべきルールは、絵に限らず広く「創作物」を対象とするのがベストだとすら思ってる。絵師界隈だけだと小さな勢力だけど、創作界隈として大連合を組んで一緒に社会に創作の価値を広く訴えていこうぜ!!ってするべきタイミングでこの野郎ぉぉぉぉおおおおおおお!!!!!なぁぁぁああああああに他ジャンルの創作者様をdisっとんじゃぼけぇぇええええええええ!!!!!!
言っとくけどな?絵以外の"優れた仕事や技や経験"に敬意を払えてない時点で、俺に言わせりゃお前らと悪質AI絵師は同レベルのクズだからな?
(あ、いけねえAI絵師を叩くなと言ったのにクズ呼ばわりしちゃった。ごめんね)
そして鑑賞者や批評者を馬鹿にしすぎ。文化のレベルが高いってのは、鑑賞と批評のレベルが高いこととセットなんだよ。そしてそれは驚くほど想像的な営みなんだ。オタクってのはそういうことだろうがよ。
もちろん俺も批評家を気取ったクソリプにイラッとくることはあるよ?それでも俺は、絵師というオタク界隈の端くれとして、彼らを馬鹿にしたらあかんと思う。絵を見てくれる人すら仲間にできず社会を動かしてルール作りなんかできるわけわけねえべ。
SNSで何かを必死に叩いている集団ってどう思う?AIの話だけじゃなくて、政治でも歴史でも属性でも陰謀についてでもなんでもいいんだけど。
口汚い言葉を使って、たった一人に大勢でリプライ飛ばして、よくわからないアナロジーやら揶揄イラストを多用して、身内で賞賛RTしまくって。
実際のところ、そういう集団ってどう思う?そういう集団にドン引きしたことない人間なんてSNSにおる?ノンポリやら中道やらを自認してる人ほど「ああなったらおしまいだな」と思ってたんじゃありません?
身近な例で恐縮なんだけど、こないだ非絵師の友達数人と久しぶりに酒を飲んだときに言われたもん。「最近絵師界隈が怖すぎ」って。AI叩きがうるさすぎてミュートした絵師の話を聞かされながら飲んだ酒、全然美味しくなかったよ。コロナで3年間我慢してようやく飲み交わした酒が美味しくないってなんだよ。まあ飲酒習慣がなくなって酒の匂い自体が苦手になったのもあるけど。いや、酒の話はどうでもいいんだよ。
つまり、一般人はAI叩きにドン引きしてる。そしてAI絵に関するトピックが「絵師 vs AI絵師」みたいな構図で理解されてしまっている。違うじゃん?「創作者の権利 vs AIがもたらす恩恵」の話じゃん?
もちろん世界には口汚く叩くことが必要な戦いってのはあるよ。Tone Policingしたいわけじゃない。とはいえAI絵師叩きはやっぱり違うじゃん。だってそもそもそこは「戦うべき戦場」ではないんだから。仮にAI絵師叩きに成功して、そのAI絵師が謝罪&アカウント削除をしたとして、それを見た一般人がドン引きしてたら「社会的合意の元にルールを作る」という目標からは遠ざかってるのよ。そんなしょぼい戦場で口汚く戦ってどうすんのよ。
一度「絵師ってヤバい奴らだな近寄らんとこ」って思われたら、その枷を外すのは非常に難しい。疑うなら自分がSNSでドン引きした集団を後から見直した経験がどれほどあるか考えてみてほしい。ましてやその集団が作るルールのために協力しようなんて思うかい?少なくとも俺は無理。SNSで厄介判定をした集団に近寄らないってのは現代人の本能みたいなものだ。
しつこい繰り返しになるけど、俺たち絵師は「社会的合意の元にルールを作る」という目標に向けて、特に「多くの賛同者を得る」という戦場で勝利する必要がある。これが俺の主張。
その勝利のために使うべき貴重な時間と情熱を、AI絵師叩きに使うのはなんとも勿体無い。絵師の端くれとして、絵を描くという行為の神聖さを信じてるからこそ、絵師のAI叩きは歯痒く思ってしまう。
もしもあなたがAI絵師を叩くことで多くのファボとRTを稼ごうとしているなら、どうか思い直してほしい。その行為は一般人をドン引きすることで目標を遠ざけているし、仮に一般人がAI絵師叩きにドン引きしていなかったとしても、そんなつまらないことにあなたの時間と情熱を費やさないでほしい。そんなファボRTで快感を得て満足しないでほしい。頼む。俺たち絵師が社会から尊敬され、大勢の支持のもと安心して絵を描けるルールを獲得できるとするなら、それは俺たち絵師が絵を描くという行為を通じて社会に幸福を与えているからだ。そんなのは綺麗事ではあるんだけど、あらためてその視点に立ち返り、あなたの限られた時間と情熱をもっと有意義なことに使ってほしい。
人は長期間にわたり何かを憎しみ続けると正気ではなくなる。どれだけその憎しみが正当であったとしても、正気は保ち続けることはできない。まず認知が歪み、次に性格が歪み、やがて歪んだ人間関係だけが残る。
SNSを長くやっていると、そうやって壊れていく人々をたくさん目撃することができる。彼らは今日もSNSで憎しみをぶちまけ続けている。別に彼らの主張が間違っているとは言わない。ただ、繰り返すが、人は長期間の憎しみに耐えられるようには設計されていないのだ。
AI絵の問題がこれだけ議論されるようになって半年以上が経つ。アンテナを張ってた人なら1年以上かな?その間ずっとAI絵を憎み、SNSで煽り煽られ、ありとあらゆる表現でAIを叩き続けてきた人たちがいる。
その中には、非常に悲しく残念なことに、少し壊れ始めている人がいるように思う。かつて聡明で穏やかだった人が、明らかに狂ったアナロジーをRTするほど認知が歪み、かつては絶対に使わなかったヘイト文法を多用し、「少し落ち着きなよ」という周囲の声に耳を貸すこともなくエコーチェンバーの深みに沈んでいく。それをみていることしかできない無念さたるや。それが悔しい。どうしようもなく悔しい。なあ、AI絵師なんてどうでもいいじゃないか。俺はお前のフェチズム迸る愉快な絵を見たいんだよ。お前の絵には何百万枚の生成絵よりずっと価値があるんだよそれに気付いてくれまたあの漫画のカプ絵を描いてくれ秒でRTするからさあ。
繰り返し強調するけど、別にAI絵叩きをしている人の主張が間違っているとは思っていない。ただ、あなたの正気が有限であることを意識してほしいのだ。そして、どうかお願いだから、AI絵師叩きから距離をとって休んでほしい。
AI絵師叩きをやめてほしい理由は大体書けたと思う。俺たちは「社会的合意の元にルールを作る」という目標を達成するために、「多くの賛同者を得る」という戦いに注力するべきで、そのためには目標から遠ざかるAI絵師叩きなんぞに有限な時間と情熱と正気を費やすべきではない。そんなことを書いた気がする。勢いで書いてるから抜け漏れやら矛盾やらがあるかもだけどそこはゼルダを我慢して書いてるので許して。
でも実は、ひとつだけわざと誤魔化してる部分があって、それが「絵師としてのステートメントをまとめる」ってところ。
みんな「クリエイターとAIの未来を考える会」の提言とかちゃんと読んだ?海外の法規制の議論とかは?どう思った?理解できた?俺?俺は全然。難しいよね。法律と技術の知識が必須だしさ。
しかもさあ。規制の話ってぶっちゃけ楽しくないのよ。それがAI絵であったとしても、表現を規制しましょうという話を心から楽しめるわけがない。ウチらっていつもそういう感じじゃん?マジアチいから。
でさ。俺らってAIの問題性について色々と指摘してきたし、なかには「クリエイターとAIの未来を考える会」のように具体的な規制案を出した人もいるけど、もっと根本的に「絵師は生成AI社会でどのようにありたいのか?」ってスタンスについて建設的に話し合えてなくね?
例えば上の方で書いたa)〜c)に含まれる「不本意」「適切」が示すラインって人によって全然違うと思うんだよね。そこのラインが揃ってないと、言い換えるなら生成AI社会における目指すべきビジョンが共有できていないと、俺たちはかなり無力だ。絵師全体がどうありたいのかすら不明瞭なまま、多大な恩恵をもたらすAIをとにかく規制しましょうってのは支持を得にくい。日本のAIに前のめりな感じをみると可能性は低いように思う。
AIの利便性は認めた上で、創作者としてどうしても許せない部分はなにか、それはどうしてなのかをちゃんと話そうよ。AI絵師叩きの狂気から冷静になってからだけどね。
お気持ちを揃えて、その上でステートメンを作ろうぜ。一般人からも「たしかにAIは便利だけど、創作者の○○な権利は守らなきゃいけないよね」って思ってもらえるようなものをさ。
OK、言いたいことはわかるぜ。絵師ってのはかなり厄介な部類のクリーチャーだ。しょっちゅう炎上してるし、悪口ばっか聞くし。そんな界隈が綺麗事だけで足並みを揃えられるわけがないって、言ってる俺自身そう思ってる。
ってことなわけじゃん?それを僕たち絵師だからできませんってのはナシでしょ。表現者なら逃げちゃダメだでしょ。古い?
というわけで、最後の方はちょっと取り止めのない文章になっちゃったぜ。
ねぇ~
Oh,ブクマしてくださ~い
ねぇ、ブクマしてくださいよ~
ねぇ~、もう…Oh,ねぇ~ いいじゃないの~
減るもんじゃなし~
増田、とても悲しい~ 悲しいデス。
ねぇ~ ブクマしてくださいよ~
もぅ~ 誠意見せてくださいよ~
ねぇ~ も、もぅ…
な、ねぇ、もぅ、な、なに?
もぅ…こ、こ…の…手斧!!
アナタがた。
怒り?
悲しみ?
喜び?
Oh,なしのつぶてデスか~?
ねぇ…しゃ、喋ってよ…ねぇ~
もぅ…さっきから黙ってもぅ~ 喋ってよぉ~。
じゃぁ…ワタシはアナタがたがそうやって
ワタシを非表示にする様を…
批評するコトにしマス
あ、あ、あっ、でも…そんなに黄色くない…のね、
はてなスターって。
黄色じゃない…のね。うん…
もぅ、な、なんやねん!な、もぅ、
はてな匿名ダイアリー行ったら、「はてなブログ行け!」
何それ!?
ねぇ、ブクマしてくださいよ〜
Oh,ダカラ…ね?いい?だから…今こそ!
ブクマすればいい…いいのよ。
増田ナメると後がコワいよ~。
ねぇ、どうコワいかは詳しく言わないけれどもね。うん…
ゴロー当人はアイのファンであることを隠しているから、元増田は神の視点で批評している。ただ、実際ファンであるかどうかに関わらず、何もかも流出すると考えて常に仮面を被って振る舞うのが一流だよな。そして、結果的に流出しなくても、その評価になる。
アイが神格化されているのは、まさしくこの結果的に流出していないという一点に尽きるんじゃないのか。神の視点から見れば、不徹底で一流とは言い難いのは当然だろ。最終的に洩れてなければ世間的には一流と言って差し支えないと思うぞ
視聴中断勢なので推しの子という作品そのものへの批評とは異なる。
星野アイが一流のアイドルとして描かれることへの疑問を呈する投稿である。
「嘘はとびっきりの愛」というのは別にそりゃそうだと現役ドルオタ目線でも思うのだが、それを語る相手は雨宮吾郎、ファンの一人である。
つまるところ、このムーブは「うっかりしてお前にだけは愛を注げなかったわ☆彡」というクソみたいな言い訳でしかない。
いくら雨宮吾郎が地方在宅ファンとかいうクソほどの貢献度でしかない細客であっても、彼自身には何の非も無いにも関わらず何故か偶然、アイドルからの寵愛をただ一人干されたファンになってしまったのだ。
原因は「田舎ならば自分を知る人もいないだろう」という星野のクソほど甘い見通し。
干されたファン自身に非があるならともかく、アイドル自身の舐めた態度によって偶然にも寵愛を奪われているファンがいるのだ。ファン自身に非が無いのに干されオタクを作り出している。この時点で三流だ。
そもそも、雨宮吾郎が善良な人物だったから良かったものの、シャニムニ=パレードやドラマチックレコードのメンバーの不祥事を拡散するようなどこぞの曝露垢みたいな人格の医者だった場合、諸々も早く広くに露呈していただろうし
なんなら星野の人生終了はもっと早くなっていただろう。見通しが甘過ぎる。三流未満だ。
tiktokを開けば毎日のようにアイドルやサインはBが流れてくる。さすがにそろそろ嫌気がさしてくる。
渋谷を歩けば星野アイがでかでかと書かれた広告が数回目に入る。
一日も早くこのムーブメントが終わって欲しい。
増田で笑えれば
最高に笑えれば
情けない帰り道
はてなで笑えれば
同じトピばかりを見て
だけど今になって
大人になって
飽きちまったりして
すべてがネタになるはず
そう信じているのに
なぜかバズって
スターついて
ジタバタするけど
増田で笑えれば
燃えても笑えれば
今日一日の終わりに
はてなで笑えれば
増田で笑えれば
最高に笑えれば
情けない帰り道
はてなで笑えれば
おまえも月日経って
何もかもが変わったよ
オレの見る気失せる
悲しけりゃ
書かなきゃいい
また笑えるように
あきらめない
逃げたくない
自分を身売りしたくない
嘘を書き
恥を書き
叩かれ続ける
無理しても
無茶しても
書ききれない思いがある
見守ってくれるかい?
誰もがみないつも
満たされない思いを
胸の奥に抱いたまま
ロムり続けてゆく
増田で笑えれば
最高に笑えれば
情けない帰り道
はてなで笑えれば
増田で笑えれば
増田で笑えれば
増田で笑えれば
増田で笑えれば
はてなで笑えれば
増田笑えれば…
※これに触発されてやっぱはてなってこういうのが良かったんだよなって思いを込めて書きました。深夜の勢いです。ご許しください。https://anond.hatelabo.jp/20230509155902
多分皆見に行ってるし、ツイッターやらnoteやらに山のように批評が上がっているから書く必要は正直無いんだが、この感動を残しておきたくて書いておく。
私はマリオは兄がやっているのを横で見ているだけだったのだが、それでも胸が熱くなり、色々な思い出が蘇り、そして帰宅後マリオのソフトを買った。3D。そしたらいきなり映画に出てきた透明の土管が出てきて、とても嬉しかった。
正直ストーリーは陳腐だし、新規ストーリーとかオリジナルキャラクターとか出てこない。新規性ゼロ。全部知ってるし、展開も分かる。でも、それがいい。某実写化のように、変に監督のメッセージ性が入っていたり、夢主みたいな主人公がマリオの世界に迷い込んで?!みたいにならなくて良かった。マリオという皆が遊び、共に育ってきた旧友を、監督やらプロデューサーのくっだんない実験場やら最強の主人公発表会やらにされなくて、本当に、本当に良かった。
同時に、そうなってしまった映画化作品を思い出してげんなりする。マリオが成功したから、今後は原作へのリスペクトと忠実さを体現した作品が増えるのかな。増えてくれるといいな。
GWでなんとなくアニメ見始めたけど、絵柄が少し古いなと思った以外は丁寧でいい感じだと思った。
いい点は、イングリッシュガーデン的な庭や風景、壁紙、インテリアのデザインが丁寧なので
ターシャチューダーのコーギー絵本とかウィリアムモリス壁紙好きな俺は楽しめた。
アマプラ批評で辛い点つけてる批評は、結局「オッサンが未成年女子を飼育するみたいな話じゃねえか気に入らん」と
言っているみたいだった。マイフェアレディと同じで、キモオタのヒギンズ教授がイライザを型に嵌めてチョコレートで依存させるような
話じゃないか、みたいな批判と同様のこと言われるのはわからなくもない。
でもお金の力で暮らしと精神を安定させた上で文化力と自我が成長していくのはそんなに悪いことではないと思える。
言われるほど嫌悪感はない。
システムを「フュージョンカード」として多数の歴代のウルトラマンの力を生かすアイテムを作り出したのがオーブ。
その後のウルトラマンも様々なウルトラマンの力を宿したクリスタル、キーホルダー型のアクセサリー、メダルなど沢山のグッズが出ています。
つまり、ゼロを先頭としたニュージェネレーションのウルトラマン達がとにかく様々なグッズを展開し、我々を飽きさせないアイテムを開発し続け、苦境から何とか走り続けて来たことで今の圧倒的な人気を盛り返し、各地でライブイベントなども行われるようなコンテンツへと引き上げてくれたと言っても過言ではありません。
もちろんニュージェネレーション達の土台には昭和、平成から活躍してきたウルトラマン達の地盤にあった人気があったというのも忘れてはいけないことでしょう。
ここで考えて欲しいのです。
サブスクリプションサービスも公開され、ライブイベントや様々なグッズ展開。
そして新しいウルトラマンのテレビシリーズの他に展開される様々な動画作品やボイスドラマなどのコンテンツ。
その中でも、確かにギャラファイは今までウルトラマンがテーマとしてきたものや、長所としてきたものをかなり削ぎ落としているかもしれません。
平成三部作と呼ばれるティガ、ダイナ、ガイアアグルなどがまだ登場していないのも不満かもしれません。
しかし、考えて欲しいのです。
ウルトラマンシリーズのなかでも、他作品、映画に客演の回数が多いのは「光の国」に所属するウルトラマン達。
ウルトラ兄弟と呼ばれる存在や、ウルトラマンマックスからメビウスなど。
ティガ、ダイナ、コスモスなどは比較的客演の数が多いですが、常に彼らが自由に光の国の世界へ来れる描写を描かれたことはありません。
さらに、海外で活躍していたウルトラマンや、ミニアニメ、OVAなどで活躍していたウルトラマン達は映画以外ではほぼ客演の機会がありませんでした。
それがニュージェネレーションで盛り返した人気と共にリリースされた作品で、再び活躍することが出来ているのです。
グッズの種類は少なくなり、サイズは小さくなり、一時期はウルトラマンというコンテンツそのものが終わってしまうのではないか、とまで考えたことがある身として、だから考えを改めてくれとは言いません。
ギャラファイがないと再び活躍することや、その後を知ることが出来なかったウルトラマンもいるという事です。
CGの多用や壊れるものがほとんど無い場面を手抜きだと評価する人もいます。
しかしギャラファイはゼット、トリガー、デッカーと重なる時期に放送、制作されているのです。
当時放送している新シリーズのクオリティを維持しながら歴代ウルトラマンが登場する作品を作っているという事実を考えた時、妥当な舞台設定であると言えるのではないでしょうか?
もし本当にあなた達が沢山セットを壊す戦闘をして欲しい、新しい怪獣を作って欲しい、そう思うならば。
公式が出すアイテムや作品をきちんと応援するべきではないでしょうか?
沢山お金を使ってくださいということではありません。
公式から出される作品に文句を言うなということではありません。
ただ、あなたが今見て評価を言えるようなコンテンツが今作られているのは、この作品を作っている人々が本当に苦しい時代を乗り越えてようやくこんなに沢山の作品を一年に展開できるくらい盛り返してくれたからなのだ、と覚えていて欲しいのです。
本当に一時期は消えてしまうのではないか、二度と新しいウルトラマンは来ないのではないか、と思われていた時代を乗り越えて、スーツも新しくした沢山のウルトラマン達が活躍できるほど力を取り戻したのが今なのだと。
そう覚えていて欲しいのです。
批評できるほどのクオリティとコンテンツの豊富さをあなたたちに与えてくれているのは、その作品を作っている人達が、そしてそのコンテンツを購入するなどして支えた人達が苦境を共に乗り越えてくれたからなのだと。
ただ、覚えていて欲しいのです。
上記に長々と書いた文は、当時の記憶と漏れ聞いた情報を元に書き綴ったものなので誤りは沢山あると思いますが、私が言いたいのはこれだけです。
お目汚し失礼致しました。
本当はこういう文書くのどうかなあと思ったんですよね。
こんなこと書いて自称ジャンルの治安維持を名目にしたお気持ちヤクザみたいなファンって言われると困るなと思うけど、言われても仕方ないしなと思いましたし。
対象は子供向け作品ですし、実写作品で現在大人気のコンテンツですし。
でもちょっと昨今の意見の分かれ方を見まして、「考え方を変えろとは言わないけど頭の片隅には置いておいて欲しいな」と思ったので書かせて頂きました。
大人気の特撮シリーズでウルトラマンってシリーズありますよね。
去年大盛況でしたね、「シン・ウルトラマン」とか。
最近新しいウルトラマンと番組の放送時期の発表が来たり、今も新情報のカウントダウンが行われていますね。
その新情報を巡りまして、その中の一つの作品、「ウルトラギャラクシーファイト」という作品が今注目を集めています。
「ウルトラギャラクシーファイト」は今3シーズン?3作品?出ています。
最初のシーズンは今「ニュージェネレーション」というジャンルで分類される新しいウルトラマン達(キャラ名は沢山いるので割愛します)にスポットライトを当てた話でした。
その次のシーズン、「大いなる陰謀」、続く「運命の衝突」ではアブソリュートタルタロスという新しい敵、その仲間たちがやってきて、ウルトラマン達は新しい脅威に立ち向かわねばならない…という話でした。
「ウルトラギャラクシーファイト」というシリーズには実は基本ウルトラマン達しか出てきてません。
世間によく知られている、「人間とウルトラマンが何らかの要因で一体化し、その正体を隠し続けながら日夜地球に訪れる脅威と戦っているよ」という話では無いわけです。
まず「ウルトラマン」という作品は「円谷特撮ヒーローシリーズ」の一つです。
世間でよく知られているミニチュアのジオラマや、火薬による爆発、ウェットスーツや着ぐるみを着用したキャラクター達との戦闘を工夫を凝らして撮影したシリーズですね。
怪獣の口から出る光線で吹き飛ぶ街、逃げ惑う人々、ウルトラマンが怪獣に投げ飛ばされてその背中で押し潰される建物。
そしてウルトラマンと一体化することになった人間の苦悩、その秘密を隠し続けなくてはならないジレンマ、戦闘が続く中で人々を守るために常に選択と苦難に向き合わなくてはならない日々。
そして、人間とは全く違う存在、「ウルトラマン」達と種族を超え、文明を超え、理解し、絆を深め合うストーリー。
心が踊りますね。
長いので以降「ウルトラギャラクシーファイト」は「ギャラファイ」と略させて頂きますが、ギャラファイには実は人間、出てきません。名前を呼ばれたりはします。
ほぼウルトラマンと怪獣と星人と、「アブソリューティアン」と呼ばれる強大な敵の物語です。
「ウルトラマンとは人間との関わりを大事にした作品ではなかったのか」
「俺はウルトラマンが自分より脆くて弱く、利己的な存在である人間と接して影響を受けたり与えたりするのを見たいんだ」
という意見が出てきました。
「特撮らしく、人間にとっては巨大な建造物を軽々と超えてしまう身長を持つ怪獣とヒーローが戦い、街を破壊したり守ったりしながら戦うのが見たい」
「何かを守るために戦うのがウルトラマンではなかったのか。人間との関わりもなく大義名分もない戦いをされるのはウルトラマンではない」
という意見も見ました。
かなり前の作品なんですが「ミラーマン」という作品があります。
「ミラーマン」は大人も楽しめる特撮として作られた作品なので初期の方はかなり人間にスポットライトを当てた話があります。
自分の出自に苦しむ主人公や、生き別れになった親子、すれ違う恋人、心の寂しさを紛らわすために変な宗教にハマる人とかね。
でもその人間ドラマより、ミラーマンで人気だったポイントは「ヒーローが巨大化して巨大な怪獣と戦う」という所だったそうです。
これの裏付けになるかもしれない話がありまして、「ミラーマン」には裏番組として「シルバー仮面」という作品がありました。
ミラーマンが巨大化して怪獣と野山をころげ回って殴り合いをしている頃、シルバー仮面は商店街で敵を追いかけ回していました。
結果的に言いますとシルバー仮面もこれを受けてシリーズ中盤から巨大化能力を手に入れています。
つまり「巨大化したヒーローと怪獣の戦い」は視覚的なダイナミックさもさることながら、ただ大きくなったのではなく、戦う中でセットを派手に壊したり、爆発で吹き飛ばすあの迫力で人の心を引き付けるのだ、ということが証明されたわけですね。
それがギャラファイになりますと、まず舞台が宇宙の上にウルトラマン達の故郷、光の国とその周辺の惑星ですからまずみんなウルトラマンサイズで物が出てきます。
ウルトラマンが見上げるくらいの高いタワー、ウルトラマンと同じくらいかそれよりちょっと身長が高い敵。
その辺を壊してもあんまり心が痛まなさそうな岩だらけのなんにもない惑星。(焼き尽くすと心が痛みそうな緑に囲まれた星もありますよ)
これは確かに先程述べた特撮のいい所が全部取り去られたように感じますね。
その辺のゴツゴツした岩が光線で溶けたり切り落とされても、街中で戦闘している時、もしかしたら逃げ遅れた人がいるかもしれないビルが崩れて「ああっ大変!」という気持ちはちょっと湧かないかもしれませんね。
皆同じような身長の敵やウルトラマン達がボコスカ殴り合いをしてもその辺の人間の喧嘩にしか見えないかもしれませんね。派手な光線やアクション、音が付いていても。
なんでかと言うと「ウルトラマンに恨みを持つ連中」が大半だからです。
理由はまだはっきりと明かされていないのですが、ギャラファイ2、3でアブソリュートタルタロスは、自らもその一人である「アブソリューティアン」という種族の存亡のため、ウルトラマン達を排除したいと思っているのです。
なので歴代のウルトラマン達に倒されてきて、ウルトラマンに恨みを持っている強敵達を主に蘇生させて戦いに臨んでいるので割と地球は安全(多分)なんですよね。
となると「地球がピンチだから地球人の皆!力を貸して〜!」ともできませんね。
ウルトラマンシリーズのテーマの根幹である「ウルトラマンと人間の関わり」も描かれないわけです。
こうして描いてみると結構困りましたね、ウルトラマンシリーズの魅力の大半を削り落としているわけです。
でもギャラファイが全く魅力的では無いのか、と言うとそんなことはありません。
大きなポイントは三つ。
「ニュージェネレーション以前の歴代のウルトラマンをかなり網羅している」
「登場回数が少なかったウルトラマンのモードを細かく拾っている」
「各作品やメディアミックスにわたる小ネタを各所に織り込んでいる」
というのがポイントです。
みんなご存知ウルトラマン。
そのウルトラマンを最終話で迎えに来たゾフィーを初めとする「ウルトラ兄弟」と呼ばれる昭和から生み出されてきたウルトラマン達。
俗に「平成2期」と呼ばれるコスモスを始めとしたネオス、ネクサス、マックス、メビウスのシリーズに登場するウルトラマンたち。
そして、ウルトラマンUSAやパワード、グレート、リブットといった海外作品に登場したウルトラマン達。
ギャラファイ3にはミニアニメや劇場版作品だったナイス、ゼアス、ボーイなども参戦していますね。
これらを合わせると実に沢山の様々なウルトラマン達を登場させてくれたのがこのギャラファイシリーズです。
実はこの中には
「作品が発表されたものの、長らく客演もなく後日談でどこへ行ったのか、今何をしているのかも分からなかった」
「作品終了後、メインのウルトラマンしか客演がなく、サブのウルトラマンとどんな関係になっていたのか分からなかった」
「作品が終わったあとも、一緒に戦った仲間と協力して任務についている」
「とある惑星に留まり、誰かに力を与えたり、道を示す役割をしている」
そして次のポイントですが、今まで登場回数などが少なかったウルトラマンのモードチェンジなどを生かしているのもギャラファイです。
ギャラファイ2の時大騒ぎでしたね。
ウルトラマン達の危機に、共に戦った仲間であるウルトラマンジャスティスとともに駆けつけたウルトラマンコスモスのスペースコロナモード。
ご時世がご時世でしたから名前的に出せないんじゃないかって言われていたのにまさかの登場です。
スペースコロナモードってウルトラマンコスモスの劇場版にしか出ていないんですよね。
しかも宇宙での活動に適したモードですので地球に来るとよく知られてる青いルナモードやエクリプスモードになっちゃう。
でもギャラファイは宇宙空間の話なので何とスペースコロナモードでの登場に違和感がなかったわけです。
そして極めつけはウルトラマンコスモス劇場版3作目に登場したコスモス個人としての究極形態、フューチャーモードに、同じくウルトラマンコスモス劇場版3作目に登場したウルトラマンジャスティス クラッシャーモード。
そして更に2人が合体したウルトラマン、ウルトラマンレジェンドまで。
同じシリーズのクロスオーバー作品で客演は何となく予想出来ても、ここまで丁寧な客演での活躍描写はなかなか他でも見られないはずです。
そしてもうひとつ、ギャラファイ3に登場したウルトラマンネクサス、ウルトラマンノア。
ウルトラマンネクサスは「ウルトラマンネクサス」個人として三つの形態を持ち、ギャラファイではその全ての形態を披露しました。
そして特筆すべきは、ウルトラマンネクサスが持つ固有の能力、別次元を展開し自分を含めた対象をその空間の中に取り込む「メタフィールド」の能力を作中で描写したことです。
ウルトラマンノアはウルトラマンネクサス最終話に登場したウルトラマンであり、その特殊性は、客演したウルトラマンゼロが活躍する「ベリアル銀河帝国」でも書かれています。
しかしそれ以降の登場が殆どなく、ギャラファイで登場した際は多くの人を驚かせました。
ギャラファイではジャスティスのスーツなどがそうなのですが、ショーイベント用のスーツを転用したりして使われています。
しかし長らく登場の無かったノアは綺麗に新しく作られて登場したわけです。
ギャラファイ2ではコスモス、ジャスティス、ネオス、セブン21、80が共闘する話があります。
平成2期組、一人は昭和と一見関連性が分からないように見えるこの組み合わせですが、実はコスモスとネオス、80は他作品や時事関係で繋がりがあります。
コスモスはテレビ放送当時、事情があって最終回手前でテレビ放送を続けられなくなってしまったことがあるのですが、その空いた枠を1クール作品を作り走りきることで繋いでくれたのが、元々イベント限定のウルトラマンだったネオス。
そして、80は漫画「ウルトラ超闘士激伝新章」にて自分の力を制御出来ず苦悩するコスモスを宥め諭したキャラとして書かれた繋がりがあります。
長くなるので他の小ネタは各自でお探し頂くことをお願いしますが、ざっとこれだけの魅力がギャラファイにはあるわけです。
しかしそれだけが、今回ギャラファイに起きている賛否両論について考えたことではありません。
私がこれからお話する、「これを聞いて考えを改めなくていい。でも頭の片隅に置いておいて欲しい」と思う話は、まずざっと10~15年前の話に遡ります。
前衛的なストーリーとテーマで視聴率にかなり波があったウルトラマンネクサスが放送された頃でしょうか。
当時の時点で円谷プロダクションはかなり危うい状態だったそうです。
ウルトラマンネクサスのメタフィールドなどにその一端が現れています。
背景は不思議な光の演出、地面はゴツゴツしたあまり壊れるものがない岩場という異次元。
壊すセットの削減です。
ウルトラマンネクサスがほぼ毎回メタフィールドや山の中で戦っているのはこういった事情が反映されています。
ネクサスの終了後、マックス、メビウスと作品は続いていきましたが、その後長らく新しいウルトラマンが現れないという時期が続きました。
新しいコンテンツとして生まれた大怪獣バトルには殆どウルトラマンが出ず、怪獣で戦うレイオニクスバトラーレイモン、そして今後大出世を遂げるゴモラ、ウルトラQにて活躍したリトラなどが活躍しました。
そしてその大怪獣バトルの劇場版でウルトラマンシリーズに変化が訪れます。
もう10年以上経つけどニュージェネレーションの戦闘を切って未だに全然に立ち続けてるウルトラマンがいますね。
彼です。
彼の登場でウルトラマンを好きだった人々は大いに沸き立ちました。
大怪獣バトルの辺りでかなり会社が苦境に陥っていることはよく知られていたので「もう新しいウルトラマンを作れないくらい疲弊しているのか」とまで言われていたコンテンツが見事に彼の力で持ち直しました。
その後ウルトラマンゼロは宿敵であるベリアルとの戦いを続け、過去作品からリブートされたミラーナイト、ジャンボット、ジャンナイン、グレンファイヤーなどの仲間と活躍し、それは後のニュージェネレーション達、ウルトラマンギンガやビクトリー、Xやオーブ、ジード、ルーブ、タイガ、ゼットと後続の作品を押し上げていくことになります。
もちろんゼロやウルティメイトフォースゼロと呼ばれるチームのキャラクター達だけの活躍ではありません。
昔から集めていた人々はご存知だと思いますが、昔のソフビは今より大きく、種類も豊富でした。
放送終了したウルトラマンのタイプが数年後も全部売り場にあったくらいです。
しかし、大怪獣バトル周辺から種類は少なくなり、サイズは小さくなり、塗装も前身のみになっていきました。
しかしそれに対して挑戦したのがギンガやX。
「スパークドールズ」という足にコードが書かれたシールがついた新しいソフビを開発することで、「ソフビと玩具を連携するグッズ」を作り出したのです。
「#最強の鬱マンガ」ランキングが凶悪な作品揃い…「ブラッドハーレーの馬車」「宝石の国」「おやすみプンプン」などこれはなかなかのもんだ
まあtwitterで募集してランキング~なんてしたらこんなもんだよな。
関わってる人間が全員無能なんだからそりゃこれぐらいつまんない出来にもなる。
俺達が読みたいのは
有象無象やブロガーからのゴミみてーな情報のキュレーションじゃねーんだってのが改めて分かった。
ほんのちょっとだけツッコむけど
鬱漫画とは言えない。
それすらわかんないような感性なら投票とか書評とかやらんでよろしい。
というか作者も「鬱漫画」なんてつもりで描いてないだろう。
突き詰めて考えてることがないのに迫力で押し通す、みたいな怠け癖が増した。
ていうか、お前ら本当にこの漫画で憂鬱な気持ちになったことあるの?
描けもしないキチガイを描こうとしてやっぱり描けないからアップ顔芸で誤魔化してる漫画、
以上の評価が出来ない。
ガールフレンドになりかけた子は可愛かったし
素直にエロあり青春漫画描くのがこの人の本道であり素直な欲望であるのは見え見え。
フェイクじゃん。
表現したいものが無いのに(無いので)キチガイのふりしてるだけの痛々しい漫画。
実感の籠ったものがほぼ絶無。
アビスの方は、
その気持ちのあたりは実感籠ってた。
あれはきっと作者の実体験だと思う。
でもその先の過剰な展開はもう作者の中になんにもないよね。
なんにもないから「異常な行動」とか見開きでブツブツ言ってるコマとか
そういう表層的なオドカシを多用するわけ。
お前ら本当にこんなもん読んで憂鬱になれるのか?なれるわけねーよ。
どんどん強い薬打つみたいにエクストリーム展開やってるだけの空回り漫画じゃねーか。
どっちの作者も才能はあったし当人の本道もあった。
なのにこういう横着なダークサイドに行ったのが運の尽きだ。
リアリティも実感もなんもないのは見過ごすとして
それしか売りが無いのにぶっ殺し方が面白くないのはいかんでしょ。
酷い漫画を描くと決めてこれっぽっちっていうのは単純に能力が足りない。
この作者はタコピーやアビスの作者と違って純粋に体力が少ないって感じ。
で、お前等ほんとにこんなクオリティの漫画で憂鬱になれたのか?
こういうものの見方をする人間がちゃんと漫画読んでちゃんと何か感じ取ってることなんてあるのかな。
ダーク池ちゃんみたいにカテゴリ付けして飛ばし飛ばしで読んで満足してる手合いと一緒じゃね?
ちゃんと時間かけて読んでるとしても、受け取ってるものが池ちゃんレベルなんじゃね?
そういうレベルの能力の人達がことさらに漫画を語る必要ってあるの?
https://pbs.twimg.com/media/FuJlC_KaQAAKMH9.jpg:medium
もう惹句のことごとくがキツいわ…。
こういうこというと「漫画読み様」とか言われるんだけどさ、
漫画読み様が過剰に高い水準にいるんじゃなくて
どう見ても漫画をまともに読めてないって連中がいるだけなんだよな。
俺、本当に「ああ!あああああああ!」ってなった漫画いくつかあるよ。