はてなキーワード: 批評とは
ただの感想や批評に直接反論する勇気も知恵も持たず「思いこんでいる・サブカル崩れ・自尊心を得ようとしている」などという無根拠の妄想を吐き出すことしかできない姿
いと哀れ
ここ最近の等速倍速論争で倍速批判論者が「倍速だと大事ま『間』が損なわれるから~」みたいに言っていてスターとかLikeとかたくさん貰ってるんだけど、
そんなこと初めて聞いたのに皆同意しててびっくりしちゃった
参考文献とかあったら教えて
ちなみに増田は動画コンテンツはストーリーとか脚本が一番大事でそれを絵付きで楽しむコンテンツだと思っているよ
番組って商業的都合で30分1時間みたいな枠に嵌め込むために間延びしたり駆け足になったりしがちだし
倍速はしないけど酒飲んだりベッドでゴロゴロしながら見てるし雑にスキップとかするから誉められた視聴態度じゃないし
でも、そもそも本当に”正しく理解”するんだったら1周だけじゃなく何度も何度も繰り返し見たり
特定のシーンを止めたり行ったり来たりしたり
理解を高めるために遅くして見てる人は勿論、速くして見てる人もそれ自体は自由だとは思うけど、作っている側は等倍速を前提で作っているわけで「それでわかった気になって批評するのはやめてね」とは思うと思う。
こういうコメントが例の記事のトップコメだったけど、等速だろうと所詮はただの一視聴者なんだから「それでわかった気になって批評するのはやめてね」とは思うと思う。
そのスウェット何日洗ってないの?ちゃんと正装してこいよ。靴下もちゃんと履いてこい。
物食べながら見るのもおかしい。たとえばポップコーンこぼしたときうっかり目を外したら肝心なシーン逃すかもしれないだろ?
そもそも瞬きだって失礼だよね。咳も重用なセリフを聞き逃すかもしれない。
というかそのモニタホコリだらけじゃん。ちゃんと拭けよ。そもそもそのしょぼいモニタとスピーカーで「作り手の意図通り」の表現できるわけないだろ。映像や音響にどれだけこだわってると思ってんの?高価なアンプでしか表現できない音とか、隅っこにちっちゃく写ってる小道具の文字とかが重要かもしれないじゃん!
そ~し~て~「単に加点要素を雑に並べて褒め続ける」のが『正しい感想仕草』なわけでもねえっつの。
いいか?
批評ってのはこれなんだよ
・個々人ごとに認識する世界が違うことを理解した上で自分が観測したことを精一杯伝える
・それによって聞き手に対して「いろんな人の意見を聞いたことで映画をより多角的に見れた」という状態を作り出す
そして感想ってのはこれだ
・とにかく自分の言いたいことを言う
・自分と意見が違う相手に対してやたら噛みついてくるアホを恐れて特定の流れに迎合しようとしない
そして、感想と批評は一つの記事の中で前半は感想・後半は批評のようにして別けて書くことは出来ても、同時に行うことは出来ない。
こういうの学校じゃ習わねえのか?
まあ俺は習わなかったから独学で学んだけどさ。
身につけないといけないなと思って自分で学ぼうとかも思わねえのか?
「表現の自由の価値を認めないのかー!!1!!」とか言ってるけど、表現の自由でないものを表現の自由だと言ってるから馬鹿にされてることもわかってない。
次に表現規制の使い方がおかしい。表現規制は公的な強制力を伴う物を指すのに、一民間人が批評批判することを表現規制と言うとか本当に馬鹿でしょ。
「そんな定義は古い今は民間人でも表現規制できるんだー!1!」みたいな事言う馬鹿もいるけど、200年前のトクヴィルの時代(より正確にはフランス革命の時代かな?)に中間団体はむしろ自由を抑圧する物だと観念されてたの。だから、より古いのはどちらかね?
まあ、Twitterなどの巨大プラットホームの影響力が強いので、それが力を持ちすぎるのは表現の自由に一定の問題が生じるという議論は可能だけど、表現規制の問題としてとらえるのはどちらかといえば欧州あたりの法感覚なんじゃないかな?
で、頭の悪い表現の自由戦士がひねりだしたのが、「純粋な批判批評は表現の自由のうちだが、運動は違う」みたいな馬鹿な意見。
政治的言論や商業的言論を考えれば、純粋な言論・表現と運動の違いなど区別できないと分かるよね?それに、表現の自由の価値、自己実現にしろ自己統治にしろ、それは運動という側面もあることを考えると、そもそも表現の自由をまったく分かってないとでない発想なんじゃないかな?
次にひねりだすのが「作品は特別の保護が必要なんだ!」とかいう愚論。まあ、「価値観の自由市場」とか言う面白ワードでググるとそういう事言う人いて、いとワロスだよ。
そもそも、言論の自由でも、経済的な言論の自由はその価値が低い、というのは表現規制する時のハードルの高さの問題にすぎないので、価値が低い言論だから表現規制になるとか本当意味不明。
なんで作品は特別の保護される存在なのか、そしてそれに対する批判批評が表現規制になるかまったく論証できてない。
てか、いい加減、表現規制を求めてないのを「表現規制派」とか言うのやめてくれない?事実に基づかないデマと言われてもしかたないよ。
つーかさ、表現の自由の問題になると、表現規制の区別もできてないよね?例えば、ある表現をテロでもって抑圧しようというのは民間人でもできるけど、それは表現の自由の問題にはなるけど表現規制にはならないって分かるよね?
しかし、民間人の批評や批判が表現規制なら、強制力を持たない行政指導でコンビニエロ本が無くなった事をたいして問題視しないのはなんで?実際コンビニからエロ本消えたよ。君らがオタクコンテンツの広告だけに血道をあげるのに、本当不思議だね。
「フェミ」なり「リベラル」の批評批判は何年前のでも挙げるのに。本当は表現の自由とかどうでもよくてアンチフェミニズムやアンチリベラルしたいだけなんじゃない?
基本魔法がデモフェミア、上級がデモフェミラ、最上級がデモフェミガーみたいな感じ。
しかし、先週はアンフェの成りすましアカウントや、嫌がらせ営業妨害の話がでたけど、「でもフェミガー」けっこう多いね。
ロシアのウクライナ侵略の jus ad bellum なり jus in bellum の違反行為がやばい!ていうニュースで「でもウクライナガー」「でもアメリカガー」「でもNATOガー」と言ってるのと一緒でしょ。
アンフェの自己認識だと論理的で党派性に囚われない合理的な私みたいなのよく見かけるが、デモフェミガーは党派性に凝り固まって、敵と味方という陣営を基本的な思考のベースにしてないと、なかなかでないよね。
あと嫌がらせや営業妨害はいけないと言いつつ、デモフェミガーで「フェミは表現を燃やしてきたがそれはいいのか?」みたいな雑なDD論もやばいよね。
まあ「燃やす」とか「攻撃」とか「殴る」とか、フェミニストなりが通常の表現の自由に属する批評や批判を行った事を「表現規制」するためのアンフェの間の俗用だけどそういう攻撃的な比喩は反撃として「嫌がらせ」や「営業妨害」を惹起するってわからないのかな?
今も件の店は二次加害にあってるけど、そういうの煽ってた人間は反省してるのかね?
まあアンフェの中でかなりの勢力の、表現の自由戦士は表現の自由ではないものを「表現の自由」だと言い張り表現規制ではないものを「表現規制」だと言い張る頭の悪い集団なので、本気で加害行為をあおっていることがわかってないのかもだけど。
アジアは人権より村社会だから内ゲバはしても批評なんてしてるの最近でしょ
個人主義の欧米の文化圏の方が人権意識高くて批判精神旺盛なんでアンモラルとか暴力とか表現の内容が差別的とかセンシティブで文句言われると思うが
創作活動で楽しんでてもいいけど、世に出すからには炎上リスクや批評は受け入れてほしいよね
殺人とか暴力とか誹謗中傷とかアンモラルな作品とか、世間から受け入れにくいものをネットに出したら炎上するのは当たり前
小学生みたいな絵でお金取ろうとしてる絵師と絵を褒めるだけのクリエイターで勘違いマンが買い手に上から目線の説教してるのもキツいし、
その理屈はおかしいよ。変なこと言ってる自称フェミの責任を他のフェミが取る責任なんて元々ないもん。そいつがなりすましかどうかなんて関係ない。
「こんな変なこと言ってるフェミがいるのでフェミはおかしい!」って、言われたほうは「知らんがな。本人に言ってください」以外にないでしょ。
青識を擁護する気はまったくないが、そもそも、頭おかしい人を相手にする必要ないし、議論の際に頭おかしい人のことを考慮に入れるのもやめたほうがいいと思うんだよね。
藁人形論法って言葉があるけど、「藁人形じゃない!こんな狂った発言してるフェミが実在してます!」ってなんかツイッターの発言とか引いてきてさ、それで何か議論が深まるのかね。
俺が巨大主語を使って「フェミは」って批判するときは、頭おかしくないフェミのことを指して言ってます。そこに青識なりすましアカウントの狂った発言は含まれないので、ご指摘はあたりません。
普通のフェミが狂ったフェミの責任を取らないように、俺も青識のやらかしの責任は取りません。
「表自界隈」だの「カテゴリーに対する批評」だの、ちょっと党派性に毒されちゃってませんか?
だいたいさあ、「何らかのカテゴリーに対するなりすまし行為を許せば・・・」って、許さないとしたらどうするんですか?
たとえ青識が批判されて改心したとしても、この世のどこかでまた別の狂った表自がフェミになりすますことを防ぐことは不可能じゃん。
擁護派の中に「なりすましてても特に問題ない」「誰かがおかしなこと言ってたら、そのおかしな内容を批判・反論すればいいだけ」「スルーすればいいだけ」「誰が言ったかで評価を変えるのがおかしい」みたいなこと言ってるやつがいるよね。
でもね、もし今回発覚した青識亜論のなりすまし行為と、「今後も同じことをやる」という彼の宣言を認めてしまったら、今後その連中は、「ツイフェミ」や「フェミ」というカテゴリーを主語にした批判は一切できなくなるってことだよ?
もし「Aというアカウントがこんなバカなことを言ってた」のなら、そのアカウントA単体を批判するだけしかできない。「A」がアカウント上で「フェミ」を自称していたとしても、Aをフェミの一部なり代表のように扱い、その大きな主語のほうを批判することはできない。「これだからフェミは…」と言うのはNGになってしまう。だってそいつは青識亜論の意図的ななりすましで、彼が意図的にフェミの評価を下げるために発言してるのかもしれないんだから。
何らかのカテゴリーに対するなりすまし行為を許せば、その〈なりすまされたカテゴリー〉に対する批評自体が不可能になってしまう。「フェミ」へのなりすまし宣言を見過ごせば、今後は「フェミ」を対象にした批判はできなくなる。全ての「フェミ垢」に対して、いわゆる「切断処理」を、批判者側がやってしまうことになる。そのことをわかってんのかな?
この人の場合、ラノベが好きなんじゃ無くて、一時期ブームで評論家みたいな連中が持ち上げてたラノベ論壇シーンの空気が好きなんだろうな。
ミミズクやイリヤなんて当時評論ごっこをやってた連中がなんとか受容できた文芸趣味のラノベで、正直、ロードスやスレイヤーズ世代の俺からすればなろう系よりつまらないわ。趣味に合わないと言ったほうが正しいか。
今も当時もヒットしてるのはジャンプ漫画や大作ゲームって中でさ、セカイ系だの日常系だのラノベだと小さなブームを見つけては時代の象徴みたいに取り上げて、肯定派否定派分かれて自分語りしてれば大勢が注目してくれたし、ひとかどの論客のような錯覚に浸れた時代があったんだよね。
まあ、増田が辛口批評持ち上げてるところから分かるように、だいたいは流行ってるものを如何に叩くかってゲームだったんだけどな。「撲殺天使ドクロちゃん」みたいに読み捨てて終わりという娯楽娯楽した作品は、俺はこういうのも評価できますよ的にあえて褒めるか黙殺するかだったな。
世間の流れに逆らう無頼を気取ってるけど、こいつらがやってるゲーム、結局ブームを基準に自分語りするしか無いから10年後に残る残らないのような紋切り型のロマンチシズムが残り続けるんだよ。
じぶんのやってるゲームをメタ認知して、作品と対峙の中でクライテリアを磨き続ける、その程度の思索もやらずに辛口批評なんか読んでなんの意味があるんだか。人とじぶんの価値観を照らし合わせて、他人が褒めてるけどnot for meとか、批判されてるけど当てにならないなとか、普通はフォロワー任せにせずにある程度じぶんで出来るようになるもんでしょ。
あげく、ちぐはぐな基準で作品を探したり、人に頼っては勝手にキレ散らかしたり、流行と感性が合わないだけで周りに怨念ばらまくとかなってるじゃない。
はてなユーザーではなくて、はてなユーザーによって勝手に批評されてる側からしたら、代替サービスがあるかどうかは全く関係ないでしょ
はてなユーザー同士が暴言吐いていても別に気にしないけど、はてな外部で Twitter や Blog を書いてる人達が、勝手に自分のコンテンツに対して はてブ で誹謗中傷されるのはおかしい