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はてなキーワード: 批評とは

2019-04-22

パイレーツオブカリビアンシリーズって最後までドル箱だったのになんで5作目でやめたんだろうな

2作目以降から批評サイトスコアボロボロだったといえども

2019-04-17

anond:20190413114026

統計とかクリティカルシンキングを覚えたてで、使ってみました的な幼稚な文章

タイトルに騙された。まじで読んで損した。批評文でもなんでもない。こういう文章をなんと言うのだろうか。

ファクトチェックとかかな? いや、それにも及ばない。

批評批判をしたいのであれば、一行一行引用して統計的・論理的欠陥を示すのではなく、自分言葉だけで論を構築してみろよ。

あなたが言いたいことは、統計論理の指摘だけだから、恐らく何も思い浮かんでこないだろう。

ちょっと砕けた文章なら論理的な欠陥を抱えた文章なんていくらでも見つかるし、東京大学出版会もいっぱい世に放ってると思うけど。

この人、毎日学業どうやって進めているのか心配になる。

2019-04-15

エロゲが衰退したのはラノベのせい、、、ではない

http://kazenotori.hatenablog.com/entry/2019/04/14/113600

 

00年前後青春ど真ん中だったエロゲヲタのひとりとして衰退理由一言でまとめると、、、

オタクサブカル最前線という地位を失ったから」

だと思う。

あの当時の作品若いオタク熱狂させる力があった。

Leafでいえば『雫』『痕』『To Heart』。Tactics/keyでいえば『MOON.』『ONE』『Kanon』『AIR』『CLANNAD』。TYPE-MOONは『月姫』『Fate/stay night』。エロゲではないけど同人の流れをくんだ『ひぐらしのなく頃に』。

この辺のソフトプレイヤーを熱くさせ、語りたい欲を大いに刺激し(葉鍵板なんてのもあった)、「これエロゲーじゃないか泣きゲーから」などという妄言を口走りながら周囲にプレイを勧めさせるだけの力があった(売上だけなら『鬼作』とか『大悪司』も当時強かったけど語るもんでも勧めるもんでもないから伝播力に欠けた)。

これらはざっくり「伝奇/サスペンス」「泣き」に分けることができてそれぞれブームを作ったけど、かなしいかなそれに続くブームはつくれなかったし、フォロワー作品は年を追うごとに小粒化して(初期は『sense off』とか『みずいろ』とか『秋桜の空に』とか『それ散る』とか良質なフォロワー作品がいっぱいあった)エロゲ全体のブームを急速に沈下させた。エロゲ時代は突然やってきてあっというまに終わった。

自滅、というのは言い過ぎかもしれないが、文化として根付かせることができなかった、ぐらいは言ってもいいだろう。

粒が小さくなって新しい体験提供できなくなったエロゲ世代交代(『恋姫シリーズ世代はいると思ってる)に失敗したし、熱狂してた連中はエロゲといっしょにオタク卒業するか新たな最前線へと旅立っていった。

それは『ラグナロクオンライン』/『東方』(RO2002年開始だけどコミケ流行葉鍵/型月→RO東方と変わっていった(型月はしぶとく東方共存してたような記憶)のは大きなトピック)だったり、ラノベ西尾維新/『ハルヒ』/『とある』/『ゼロ魔』)だったり、ニコ動ボカロアイマス文化だったりした。

ブームが完全に去った現代ソシャゲ(『艦これ』/『デレマス』/『グラブル』/『FGO』)でゲーム体験を満たしつつエロはその同人摂取する時代から本格的にエロゲの出番はないだろう。ニッチ需要同人エロゲが担っているから尚更だ(『奴隷との生活』はヒットしたなあ)。

 

最初URLをはったブログではエロゲの衰退理由として

1. ラノベ深夜アニメソシャゲ(あるいはスマホゲー)など他のメディアに客を奪われた。

2. ファイル共有ソフトなどにより海賊版蔓延して購入者が減った。

3. CDからDVDへの移行、スマホの普及、光学ドライブのつかないノートパソコンの普及など、周辺環境の変化によりプレイヤーが減った。

4. エロゲ大長編化による制作コストプレイコストの上昇。

の4つがかかげられていたけど、

1. はラノベ以外時代がズレてる

2. は共有ソフト以前にコピー問題があったので要因とまではいえない

3. はスマホの普及以外論外(エロゲをやるためにパソコンを買う・組む連中は多数いた。DVDへの移行なんて屁でもないし、光学ドライブがつかない云々はDL販売とかUSBドライブ存在無視してる)

4. は正しい。制作コストの増加とプレイコストの上昇は別問題なので切り分ける必要はあるが、これらの問題は大きかった

という所感。

 

上記以外の理由としてはこのエントリの主張であるオタクサブカル最前線という地位を失ったから」と、もうひとつあるとすればスマホの登場による可処分時間の細切れ化。エロゲをやるようなオタクはもともとインターネットとの親和性が高かったわけで、スマホの登場でネット常時接続する消費スタイルへ移行すると、パソコンに向かってじっくりエロゲプレイするなんてことが難しくなった面はあると思う(ここに物語長大化によってプレイコストが上昇した問題からんでくる)。

 

まあ同人エロゲエロゲといえばエロゲだし、DMM GAMESのエロゲも形をかえたエロゲと言えるだろうし(大本オモコロ記事はまさにその宣伝だ)、FGOエロゲに含めれば(含めるな)過去最大のエロゲ市場爆誕してると言えるのかもしれないが。

 

追記

Q. 「オタクサブカル最前線という地位を失ったから」ってそれトートロジーじゃないの?

A. そう見えるかもしらんけど、オタク熱狂させる弾がなくなったから、という話をしてるつもり。

逆になんで00年前後にそういう作品雨後の筍のごとくでてきたかというとまあ割と謎なんだけどひとつ言えるとしたら若いクリエイター申し訳程度のエロさえつけてれば自分のやりたいことをやれる場所だって認知されたことがデカいんじゃないかなーって(日活ロマンポルノみたいなやつって言えば伝わるのかね)。

Phantom -PHANTOM OF INFERNO-』ってエロゲがある。ニトロプラス(今はたぶん刀剣乱舞で有名)の処女作シナリオぶっさん虚淵玄。今だと『まどマギ』で有名……ってそれももう古いか)。

アメリカ旅行した青年が殺しの現場を見たせいでマフィア拉致られ暗殺者をやらされるって話なんだけど、ハードボイルド小説映画かってあらすじでもうエロゲじゃないよね。で、なんとこのゲーム暗殺に使う銃を選べて、なおかつその銃がポリゴン表現されてた上に、どの銃を選んでもシナリオには一ミリも影響がない、というのが爆笑ポイントで単に作り手がそういうの好きなだけっていう。当時すでにIllusionとかがポリゴンエロゲを世に送り出してたとはいえ銃だけポリゴン表現にしたエロゲって『Phantom』が最初最後じゃねーかな(ゲームめっちゃ面白かったよ念の為)。

『雫』だって新興宗教オモイデ教』のフォロワーだし、菌糸類が菊地秀行とかの影響モロに受けてるの見ても、外の文化エロをつけてエロゲ流通に乗せる、は所謂たまによくあるってやつだった(そういうのの元祖はたぶん蛭田昌人と剣乃ひろゆき)。

まあ結局売り手も買い手もスケベ心があったんだよな。当時はエロさえ入れてれば一定の購買が見込める市場で、市場が未熟な分、制作コストが安くすんだ。買う方としてもエロがあるだけでオトクな感じがしたし地雷でも許せた(Tony絵に騙されて買った『Partner』ですら俺は許したよ)。上で挙げた諸作が仮に非エロだったらここまで売れてなかったと思うね(『CLANNAD』とか『ひぐらし』は地盤を築いた後だったからヒットした説)。

 

さら追記

エロゲ商業パッケージ)の売上は2015年に底を打っててV字回復しているとか,10年代でも名作はあるとか,本当に崩壊したのはエロゲ批評コミュニティだとかいう話をすればいいんです? / “エロゲが衰退したのはラノベのせい、、、ではない”

https://twitter.com/nix_in_desertis/status/1117750519840198656

なんだろな,一連の流れを読んでいて思うのは,『千桃』とか『サクラノ詩』とか『金色ラブリッチェ』とは言わんにせよ,『ホワルバ2』とか『はるくる』とか『つり乙』あたりをスルーされると,お前エロゲ追わなくなって10年近くないか感強くて,一気にもにょるんだよな。

https://twitter.com/nix_in_desertis/status/1117753560047898624

こういう論旨を理解せずに訳知り顔するやつが一番むかつくんだよね。

とりあえずエロゲ市場規模は02年の段階で560億(財界さっぽろ)、15年の実績値で150億(矢野総研)。V字回復というからには18年実績値で300億ぐらいに戻してるんだろうな?

そして本稿は00年台前半にエロゲ市場が盛り上がったあと衰退した理由をその当時オタクシーンの最前線をはれる弾がありその後そういうのがなくなったから、に求めてるのであって、それ以降にエロゲとして名作と呼ばれる作品があったかなかったかなんて話は一切していない。

俺が最後にやったエロゲは『もっと!孕ませ!炎のおっぱい異世界エロ魔法学園』(2018年4月27日発売)だ。ゲスパーすんなヴォケ。

 

またムカつくコメントがついたら全力で殴りに行く。

2019-04-14

2019年アニメ1話感想

前期の感想はこっち

https://anond.hatelabo.jp/20190414134246

 

ひとりぼっちの◯◯生活

★★★

三ツ星カラーズの作者カツヲ原作の、三ツ星カラーズの前に描いた漫画

1話それほど好評じゃないっぽいが(卑屈キャラは大体似た反応)、たぶんクラスメイトがいっぱい出てきてからが本番じゃないか

三ツ星カラーズとみゃー姉が好きな俺はもちろん良かった

声の演技いいね、誰か知らんけど

小首を傾げるところがやばい

「か!?」の顔が完全にさっちゃん

ちなみにハッシュタグは#ぼっち生活。◯◯がハッシュ化できないため

 

超可動ガール1/6

ダークホース

なんか設定が面白かった

これ設定は額面通り受け取って良いのか?まだ裏がある可能性も

モーションにこだわりを感じる

 

世話焼きキツネの仙狐さん

ダイレクトに癒そうとしてくる系、実は苦手なんだけど

「こういうのが良いんだろ?」みたいな

でも可愛いから見る

動画工房信じろ

しっぽ作画がすごかった

 

YU-NO

★★

「そのうちゲームプレイしよう」と思って15年経った作品

あ〜原作先にやりたかったな〜と思いながら見てる

普通におもしろそうだし、だいぶ端折ってるらしいけどコンパクトにまとめてると思う

この時代エロゲ主人公は良いね(だがアニメにすると扱いが難しそう。文字媒体だと通る行動とか、画にするとキツイとあるよな)

千代丸は関わってるの?

 

賢者の孫

きれいな太郎

ジジババがかわいかった

斉木楠雄思い出すわ

ギャグらしいのでコメントありで見る

化けることに期待

 

鬼滅の刃

今の所まぁまぁ

主人公が冷静すぎる

ちょっとテンプレすぎる感があるが、コメントによると本番はもう少し先らしいので待つ

妹は可愛い、襲われたい

 

ぼくたちは勉強ができない

初手から五等分やかぐや様と比較されてて草

設定としては確かに今まで無かったかもなぁ

コメントによると先生が人気らしい

 

ワンパンマン2期

★★

うひょおおおおおおおおおおおおおお

原作更新してるうううううううううう

あ、アニメ作画安定してそうで一安心、一期ほどは期待していないが

さいたまちょっといね

 

異世界かるてっと

なんだこれは

脚本次第かな?

これ1話見た後で、思い切って幼女戦記ちゃん見直したらとても面白かった

一気に見てしまって終わったら朝6時・・・

 

なんでここに先生!?

★★

地上波エロアニメ

ラッキースケベアニメだけど、何か随分クオリティ高いな

キャラデザがかわいい、完全にエロ漫画のそれ

でもこれ原作6巻まで出てるらしいよ

 

盾の勇者の成り上がり

★★★

継続

背景ちゃんと描かれていて良いね

ちょっと馬鹿勇者第一王女マンネリ気味だけど

 

まだ見てない、確認してない↓ あとで追記

 

・八十亀ちゃんかんさつにっき

・淫らな青ちゃん勉強ができない (勉強できない枠2つめwww)

ノブナガ先生の幼な妻

消滅都市

・マグメル

・すとぱん(え、すとぱん?!)

・われしょ

 

今の所ニコ動とdアニメニコニコ支部しか見てないな

上記のはそれで漏れてる奴らかな、アマプラ行くか

 

高速で見た、落選・保留↓

川柳少女  悪くないんだけど見るモチベが低い。部長面白いらしいので4話くらい溜まったらまた少しみる

さらざんまい  んにゃぴ・・・保留、4話まで評判待ち

キャロル&チューズデイ  キャラデザが「お前向けではない」とアピールしている、4話まで評判待ち。SFっぽいふんいきはすき

 

進撃の巨人はどうしようね、終わってからでも良いか

あれ、ひょっとしてアニメ原作同時エンドだったりする?

 

-----

追記

八月のシンデレラナイン人気なの?か

見てみるか

 

※★は期待度、最高5

アニメ1話全作レビュー増田ではありません、私はもっと斜に構えてる俗物です。でも褒める時は絶賛する

※雑感想と言ってるだろう?ガチ感想の時は個別に書く方針 ほぼメモ

批評のために見る時間なんて存在しない、それよりなら癒し系アニメループする

フルーツバスケットについて、名作に対して申し訳ないが旧作の時点で自分向けではなかった

 ペース配分が怖いと言う噂もあり考慮対象外なんだけど(2324話? 封神演義よりきつい)、一応試聴しようかな、少し迷う

 

積み残しタスク

どろろ見る(4話~)

・五等分の原作読む

・わたてんの原作読む

幼女戦記劇場版見る(リアルタイムで見なかったことを後悔)

2019-04-11

いや、消してないが?

https://anond.hatelabo.jp/20190410180012

勝手に逃げたのオタクヘイターが許せない会の会員さんだろ

 

あと、ごめんね。結果的増田荒らしを生み出したみたいで。

けもフレ2について批評を書いたら(批判じゃないぞ。良い点、悪い点両方書いて最終結論は「1期の思い出を崩しすぎた」)

Twitterで「嫌なら見なけりゃいいのにね」って言われたので「どうせ見ずに書いたら見なけりゃ書くなって言われるな」って思って書いた。

あと、終始「批判するな」っていってるけど、俺は批評してるの。自分が思った感想書いただけで。

受け取り方次第っていわれたら、もうわけわかんね。オタクなんだから好きに感想いわせろや。肯定しか認めないってこえーわ。

 

追記

黙ってほしいのでスルーでお願いします。

2019-04-10

何かを否定したいときはその何かについて知るべき

と、いうごく単純な理屈がどういうわけか人類には理解できない。

ということをよく考える。

 

痴漢男精神性をケチョンケチョンに貶したい。

であれば、貴方はまず、痴漢してた人に関するルポ証言を知るべきである個人精神にとどまらず、痴漢をするような精神を広める社会自体否定したいならば、貴方痴漢ものAVやゲームの内容や売れ行きを知らねばならない。

注意しなければならないのは、痴漢否定するフェミニスト言葉や、痴漢逮捕にかかる統計や、痴漢被害者凄惨な悲しみを知っただけでは、上記の条件は満たされないということだ。否定したいのは「痴漢男精神性」だからだ。夏目漱石批評がしたいと思っているのに、芥川龍之介全集を読んでどうする? 無関係ではないかもしれないが、明らかに知識方向音痴だ。

 

 

いや、判っているとも。

どういうわけか、などと書いたのはレトリックだ。

知りたくないよな。痴漢男精神の内容や、痴漢ものAVの内容がどういう風だとよく売れるか、なんて真実は。さらっと流しただけとか、伝聞情報とか、想像だけで済ませたいよな。そりゃあそうだよ。

  

から普通人間には、実は「嫌いなもの否定する」ことは出来ないのだ。

安倍晋三を嫌いな人は、安倍晋三の全発言や全行動を追っかけられないので、彼を本当の意味否定することはできないのだ。

アニメゲームが嫌いな人は、アニメゲーム流行を追う事なんでてきないので、アニメゲームの本当の悪いところを見つけることできないのだ。

韓国が嫌いな人は、韓国にわざわざ行って韓国人と話すことなどないし、現実韓国人の本当に悪いところを知ることなどないのだ。

戦争を無くしたいと思っている人間は、たいてい人一倍戦争に疎いし、そこらへんのネトウヨに鼻で笑われるようなことしか言えないのだ。

もしも嫌いなものについて本当に勉強し出来る人間がいるとすれば、そいつは9割がた頭がおかしくなっている。

まともな議論など知識の有無とは関係なくできない。

 

 

論理と理性を極めた残り1割の人間は、感情を完全に抑圧したうえで本当に嫌いなものについて研究することが、あるいは出来るかもしれない。

しかし、そこまで詳しく「嫌いなもの」についての真実を知ったとき嫌悪はもはや保たれないであろう。

韓国の酸いも甘いも噛分けるほど韓国に詳しくなったうえで、韓国を嫌いなままでいれるはずがない。

明確な嫌悪ではなく、良いところと悪いところを順に挙げることだけが、唯一できることになる。

 

 

なので嫌悪を全面に何かを批判しているやつは、対象が何かとは無関係に、もれなく何も知らないアホなんだね。

発言するときは気を付けた方がいい……というのは無駄だよな。アホなんだから

発言を読むときに、留意しておくべきことなんだろうな。

めぐりあい宇宙隊長ザク事件



結局演出家と作画演出オタクの敗北でしょ

演出家の意図とそれを理解できるオタク雑魚オタクの間の能力乖離が凄まじいんだよ

映像演出のまっとうな解釈とかじゃなくて、エヴァみたいな作品で行われている気持ち悪い考察みたいなのがオタクの間に蔓延って、ツイッター個人のご感想表明が容易になってきたからそれの真似事をしたがってトンチンカンなことを言い出すオタク可視化されてる

オタク馬鹿消費者のまま放置しておいた業界自己責任ですよ、今後こういうことは一生繰り返されるし、ツイッターでバズってしまったら馬鹿雑魚のご意見感想鵜呑みにしてそれが世間に定着していくでしょうね

2019-04-09

ドラゴンが火を吐きはじめたのっていつごろなの?

ギリシャ神話のテューポー

今日ギリシア神話として知られる神々と英雄たちの物語の始まりは、およそ紀元前15世紀頃に遡ると考えられている。物語は、その草創期においては、口承形式でうたわれ伝えられてきた。紀元前9世紀または8世紀頃に属すると考えられるホメーロスの二大叙事詩イーリアス』と『オデュッセイア』は、この口承形式神話の頂点に位置する傑作とされる。

巨体は星々と頭が摩するほどで、その腕は伸ばせば世界東西の涯にも達した。腿から上は人間と同じだが、腿から下は巨大な毒蛇がとぐろを巻いた形をしているという。底知れぬ力を持ち、その脚は決して疲れることがない。肩からは百の蛇の頭が生え、火のように輝く目を持ち、炎を吐いた。

半人半蛇だけど「炎を吐く邪悪な蛇」のイメージにはなっているかも。

ギリシャ神話怪物はだいたいテューポーの子孫だし。

ギリシャ神話ラードーン

ラードーン(古希: Λάδων, Lādōn)は、ギリシア神話に登場する、林檎園の黄金林檎を守っていた、100の頭を持つ茶色ドラゴン

(中略)

から炎を吐き、一説では顎の関節が尾にある為、体全体が口のようになっており、百の首を持つといわれている。

と、Wikipediaには書かれているが、ラードーンが火を吐くかどうかは定かでない。

何が出典なんだろ?

旧約聖書レヴィアタン

ヨブ記』(ヨブき、ヘブライ語:סֵפֶר אִיּוֹב)は、『旧約聖書』に収められている書物で、ユダヤ教では「諸書」の範疇の三番目に数えられている。ユダヤ教伝統では同書を執筆したのはモーセであったとされているが、実際の作者は不詳。高等批評に立つ者は、紀元前5世紀から紀元前3世紀ごろにパレスチナで成立した文献と見る。

ヨブ記』によれば、レヴィアタンはその巨大さゆえ海を泳ぐときには波が逆巻くほどで、口から炎を、鼻から煙を吹く。

(中略)

その姿は、伝統的には巨大な魚やクジラやワニなどの水陸両生の爬虫類で描かれるが、後世には海蛇や(それに近い形での)竜などといった形でも描かれている。

サラマンダー

プリニウス著作で唯一現存しているのが、自然芸術についての百科全書的な37巻の大著博物誌である自然界の歴史網羅する史上初の刊行物であった。

(中略)

最初10巻は77年に発表され、残りは彼の死後おそらく小プリニウスによって公刊された。

プリニウスの『博物誌10巻には、サラマンドラは斑点を持つ小さなトカゲで、雨が降ると現れるが晴れると姿を消し、体が冷たく火に遭うと溶けると記録されているが、これはサンショウウオに関する記述と考えられている。

また、『博物誌11巻にはピュラリスというキプロスの炉の炎の中でしか生きられない動物が登場しており、精霊サラマンダーこちらに近い。上記の通り、炎を操る特徴からファイアードレイクと同一視され、ドラゴンとして扱われることもある。

「ベーオウルフ」のドラゴン

『ベーオウルフ』が成立した時期は、作品内部にも外部の言及としても成立の時期を特定する記述存在しないため、必ずしも明らかではないが、8世紀から9世紀にかけての間に成ったと考えられている[3]。

第一部でベーオウルフは巨人ドラゴンとも言われている)グレンデルとその母親と戦い、第二部では炎を吐く竜と死闘をかわす。 なお、インパクトが強くかつ謎の多いグレンデルとその親に関しては言及されることが多いが、炎を吐く竜に関してのものは少ない傾向にある。だが、同時にいわゆる「ドラゴン約束事」(財宝を蓄え守っている、翼を持って空を飛ぶ、火を吐くなど)をほぼそろえている珍しいドラゴンでもある。

スラヴ神話のズメイ

スラヴ民族文字を持たなかったため、伝えられた神話民族独自に記録した資料存在しない。スラヴ神話存在した事を記す資料として、9世紀から12世紀の間に行われたキリスト教改宗弾圧の際の「キリスト教」の立場から記された断片的な異教信仰を示す内容の記述が残るのみであるスラヴ神話地方により様々なバリエーションがあったことが近年の研究により明らかになっている。

ズメイ・ゴルイニチ(「山の息子の竜」の意)の場合、3つ首以上、多ければ12体幹を持つと表現され、火や毒を噴くなど、歴然とした一般の「竜」のイメージで描かれる。

アングロサクソン年代記ファイアードレイク

アングロサクソン年代記』はアングロサクソン史を古英語で綴った年代記集大成である編纂9世紀後半のアルフレッド大王の治世に、恐らくはウェセックスにおいて行われた。

火の竜」を意味する名前の通り、炎をまとい、口からも炎を吐く。空を飛び、それが現れる時は辺り一面、昼のように照らされる。曇天の空に不思議な光が走る時はファイアードレイクが飛んでいるのだとされた。

隕石という説があるらしい。

獅子騎士イヴァン」のドラゴン

イヴァンまたは獅子騎士』(イヴァンまたはししのきし、Yvain, le Chevalier au Lion)は、1170年から1181年頃にかけてクレティアン・ド・トロワにより著作された散文騎士物語であり、アーサー王伝説主題にした5作品ひとつである

イヴァンは旅の途中で火を吐く大蛇獅子が戦っているところに出くわす。イヴァンは問答のすえ獅子に加勢し、大蛇を倒した。これに恩義を感じた獅子は、イヴァンと行動を共にするようになり、イヴァン獅子を連れた騎士とだけしか名乗らなくなる。

黄金伝説」のドラゴン

黄金伝説』(おうごんでんせつ、羅: Legenda aurea または Legenda sanctorum、レゲンダ・アウレア)は、ヤコブス・デ・ウォラギネ1230頃 – 98)によるキリスト教聖人伝集。1267年頃に完成した。

その時代エチオピアの町では一人の魔術師権力を持っていた。彼は常に恐ろしい二匹のドラゴンを連れていて、自分にはむかう者にけしかけていた。あまり大きなドラゴンではなかったが、口や鼻から火や燃える硫黄を噴出し、人や家を焼きつくしたので誰も魔術師に反抗できなかった。その噂を聞いたマタイ魔術師の元を訪れた。魔術師マタイドラゴンをけしかけたが、マタイが十字を切るとドラゴンは地面に倒れて眠り込んでしまう。

同じく「黄金伝説」に書かれている、有名な聖ゲオルギウスが退治したドラゴンは、毒を吐くが火は吐かない。

マルタが退治したタラスクは、「燃える糞を撒き散らす」と言われているけど、これ英語版では確認できなくない?

タラスクは、レヴィアタンボナコンの子なのだが、ボナコンの特徴である燃える糞」が、日本語訳されるとき混同されたのでは。

といったところから考えると、5世紀くらいまでは「火を吐くドラゴン概念は薄かったが、

8〜9世紀から伝承として語られはじめて、1012世紀頃にはすっかり定着していたという感じだろうか。

なぜ火を吐くようになったのか?

候補1:サラマンダーとの混同

サラマンダーは、火をより大きく燃え上がらせる能力があり、火山溶岩の中に住んでいるという伝承もある。

ズメイや、ヤコブドラゴンは、吐く息から硫黄臭いがするといい、火山連想させる。

候補2:雷や隕石などの自然現象に由来

ドラゴンには「地を這うドラゴン」と「空を飛ぶドラゴン」の二種類のイメージがあるが、

蛇や蜥蜴からは空を飛ぶイメージしづらいことを考えると、隕石から連想には説得力がある。

候補3:「身体が灼けるような猛毒から「火」に転じた

古典的ドラゴンはやはり「蛇」「毒」のイメージであり、

そこから火を吐くように変わっていったことを考えると、これも自然解釈に思われる。

うーん、わかんね。

anond:20190408143752

追記

というか最初、つまりギルガメシュ叙事詩(フンババ)の時点で『その口は火で、その息は死』と形容されてる。強力な怪物が火や死を吐くのは有史以前からの常識で、「最初から吐いてたが記録に残ってなかっただけ」では - cider_kondoのコメント / はてなブックマーク

フンババの咆哮は洪水であり、彼の口は火を意味し、吐息はまさに死である」というのは単なる比喩なのでは。

まあ比喩として記述されたものが、後に「そのもの」として受け取られるのは、この手の伝説ではよくあることだけれども。

仮にフンババが火を吐くとしてもそれだけで「もともと怪物は火を吐くのが常識」というのは飛躍ではないかと思う。

anond:20190409045845

人間動物迷惑をかける点ですが、フウチョウたちが「確かにヒトのおかげで助かったケモノもいるが、ヒトが不用意に近づいたばかりに、迷惑するケモノもいたかもしれんぞ」と明確に問いかけてるんですよね。これに対するアンサーは必要であり「テーマとして昇華していない程度の示唆」で終わらせるのは無理があります

しかに。フレンズの選定や居心地の悪さ、フウチョウの問いかけも含めると、制作意図があったのは反論しようがないです。ならば、それをテーマに絡めることを諦めたというのはどうでしょう。ここ最近の界隈の雰囲気を見ると、けもフレ1でさえ信者とまで言われるほどの熱心なファンに「へーきへーきフレンズで得意なこと違うから」「のけものはいない」のような世界観を教える事はできなかったわけじゃないですか。結果論ですが、船長ワカバが休んでれば赤い木の騒動なんて起こらなかったのに、それを作ってるたつき監督自身が過労気味なわけじゃないですか。物語を使って視聴者特定の行動を促すというのは実は無理なのではないでしょうか。おっしゃったアイデアにあったようにキュルルちゃん人類の罪を贖罪してしまえば、見ている方はスッキリした気分になってしまって何か教訓を得ることはないということです。制作サイドに人間が歪めた動物について考えてほしいという善意があって、それをエンタメ物語に乗せて実現させるための方法として、示唆で止めておく手段を選んだ。いかがでしょう。

俺は、ビーストは死んでないと思います。そこにけもフレ2の作劇の方針がみてとれる気がするのです。個人的にはビースト周りのドラマはなかなかに心揺すられました。パークの重鎮のかばんさんさえ”アイツ”よわばりする厄介者イエイヌを追い詰めサーバル撃退されたけど、スケッチブックの集合絵に入れてあげた。「解りあえなかったとしても、解ろうとするのは別にいいじゃん」、ボートに現れたビーストから逃げることを促されてもこのまま行くと言い切る。キュルルちゃんの思いが言葉だけじゃなく行動になるまでに固まる。それでビーストが大暴れするので気持ちいいわけです。このドラマ普通に決着させようとすると、うーんたとえば、瓦礫の中にビーストを探したが見つからず、足跡がパークに続いてくのを見て「いつかまた会おう」とひとりごちる、とかになるでしょうか。でもそうせずに瓦礫に埋もれて消える描写にした。ホテルメンバーの救済のために尺が足らなかったのかもしれませんが、俺は刮目してみていたので気づいていました。ホテル屋上のあの位置は頭上に障害物はなく、瓦礫に埋もれたのはカメラのほうだと。つまり誤解させる演出になっているわけです。多くの視聴者初見で、ああビースト死んだのか可愛そうやな、とおもってSNS悲鳴を流します。それで解析班が動いて「ビースト死んでなかった!」という記事ホットになる。木村監督は交代時に、けもフレ1の魅力は散りばめられた伏線、のようなことをおっしゃってたと思いますネット考察版が動くことを期待して放映後に爆発する仕掛けを組んだというわけです。エンタメ作劇的には王道ではないでしょうが、このような狙いがあったのでは。

俺はけもフレ1・2・ケムリクサすべてで、伏線や回収、世界観の開示などを目を皿のようにしてさがし、それに理屈をつけるような見方をしています。それで楽しめていますけもフレ2では話の途中に掛け合い漫才みたいなのが頻繁に入ってくるので、その部分もニコニコながら見ていました。確かにドラマとして登場人物紆余曲折が一つのテーマ収束していく様はあまりけもフレ2にはないですが、その部分に多くを期待しない鑑賞スタイルには合っているような気がします。

何話か見返したのですが「キュルルの手がかりの絵が尽きた」ことが描かれたシーン

一話の最後スケッチブックをめくり千切られたページを目にするシーンがあります。状況的にあそこでは手がかりを見つけるために捲っていたのであのページが最後になることはキュルルちゃんは判っていたと思いますホテルでリョコウバトに集合絵を渡すときに、観覧車の次のページに集合絵を描いていて、その次が白紙であることが一瞬見えます

キュルル自体の魅力が損なわれ、作品自体への評価が下がります

キュルルちゃん立場から見て、イエイヌ価値観尊重してああ言ってあげる、というのは悲劇トリガーには観念的にはなっていますが、無責任・悪意のある行動には思えないです。カラカルが介抱していて危機的状況から開放されて安心しているという状況です。みため年齢的に見ても致し方ないかと。キュルルちゃんは魅力的なキャラクターとして描かれていてそれは成功していると思っています。この扱いで好感度が下がる合理的理由はないでしょう。

強敵との戦いをどう盛り上げるか、逆転を、どう印象づけるかの工夫がありますフレンズセルリアンとの戦いは、あまりそうした工夫がなく、盛り上がらなかったです。それなら誰かが「野生解放!」と叫んだほうがわかりやすいでしょう。

けもフレ1では仲間に呼びかけるために、野生解放宣言していますけもフレ2の該当の戦闘ではそのタイミングで一対一だったので言う必要がなかったのもあると思います。突然漫画演出になるのはリアリティが下がって興ざめするので、盛り上がるためだけに叫ぶのは良い方針ではないと存じますしかし確かにセルリアンとの戦闘けもフレ2全体で退屈な仕上がりになっている印象は否めないです。制作なりに「優しい世界」を目指した結果ではと考えています戦闘けもフレ1に比してもピンチ感は少なくなりました。見返したときに緊張感が高くならないようにあえて戦闘テンションを抑えたということです。最終戦での野生解放が叫ばれなかったのを考えていたんですが、する必要がなかったというのが答えだと思いますホテルメンバーが囲まれたのがおそらく最大の危機的状況ですが、そのときにおいてもホテルに現れるペパプを妄想していました。いよいよとなれば解放する気だったのでしょうが、ペパプ本物が登場して救われる流れになります

最終話評価は、それまでの1~11話の評価と切り離せないものですので。視聴者に信用されるために、制作者側は信用を積み重ねる必要がありますが、そこがうまくいってないわけです。

セルリアン集合シーンはけもフレ1の名シーンほどの決めカットではないです。先に申し上げたとおり、あの状況ではああいう絵にしざるを得ない、共通性を見出すのは無理矢理のこじつけですよ。信用がないと言うより、悪意があると信用されていた、というほうが実態に近いと思います監督交代騒動のツケを支払わせるために問題表現を探したというこです。たしか結果的には新体制が信頼を積み上げることに失敗した、というのは同意します。しかしその責任制作側にあったとまでは言い切れないです。ところで、けもフレ1でたつき監督が序盤で信頼を積み上げるような何かをしていたか、というのはずっと考えていました。一話で退屈と断じて切り捨てたという視聴者はよくいるし、伏線-回収のループを重ねていけば意味のあるシーンを作れる作家だとわからせることができるけど、そういうのってしてましたっけ?

キュルルのおうちが、見付からなかったことに、消化不良があります。次に、キュルルが「おうち」を諦めるに至る過程曖昧なので、ドラマが盛り上がりません。

けもフレ2では現実的な厳しさを書いたのではないでしょうか。けもフレ1へのアンチテーゼというか、ご都合主義的ではない、よりリアル世界観フレンズ同士の親切心を浮き立たせたかった。一話を見てパーク内にキュルルちゃんのおうちがあるような気はしないわけです。家族の元に帰ってENDは想定しにくい。案の定見つからない。イエイヌは救われない。ビーストはどうしようもない。でもそれぞれに現実的な進展が与えられるわけです。エンタメ文法でみるとドラマとしては盛り上がりに欠けるでしょうがスッキリとしない視聴感がビターな感じはあると思いますケムリクサでの最終話EDの、りりが救われた風の描写は俺に、感動したけどこれ結局お話に過ぎなかったんだな、という思いを与え、肩透かしでした。

ところで、けもフレ1のテーマは何だったのでしょう。かばちゃん成長物語と捉えると、1話では彼女は頼りないですが、11・12話で存在感を見せつけたという感じであまり変化がない。ミライさんのフレンズ生存理由になったり細かい伏線の繋がりは合ったのはわかります。それぞれの話でドラマが見事だったのも異論ないです。でも全体としてのドラマどうでしょうケムリクサは逆に全体としての物語性が強いです。けもフレ2は両方のフレーバーを持っている。その話での起承転結と「おうちテーマ」のための全体の流れが合わせて練られている。イエイヌが”おうちにお帰り”といって拒絶されるのは全体のために必要だけど、イエイヌ回単体ではキュルルちゃんサーバルカラカルの在り方を見せられて自分との違いを見て挫折して去る、くらいでよいわけです。ただ各話においてフワッと見ているだけではドラマとして盛り上がりに欠ける、というのは改善余地は合ったかもしれませんね。

批評として使うなら、定義必要になるでしょう。

いえ、今はまだ固まっていない段階です。その正体をつかめない段階で用語意味を固定してしまうと先へ進むことができなくなるでしょう。必要ときにその都度「この作品のこの部分は優しい世界か?」「優しい世界とはなんだ?」を繰り返して意味を掘り進めていくべきです。

スギスを狙ったのなら、作品の出来とは別にマーケティングミスです。そういうのは事前に告知して心の準備をさせるのが良いかと。

絵柄が大きく変わっていることは初見でわかりますSNSで憤慨しているファン監督交代騒動は耳にしていたはずです。ファン必要以上にセンシティブになり、前と寸分違わず同じもの要求した、そのように見ていますけもフレ2も最初からスギスしていたわけでなく、センちゃんアルマーさんの実態ジャングルメンバーなど、段階を追っての開示になっているとは思います(話がずれるかもしれませんが、「危険きわまりない溝ができています!」は、好き嫌い分かれるネタを初っ端から突っ込んできたな、と思いました)。

付録

スギスした作品はギスギスした作品で楽しめる人も、癒やし系作品の続編として出されると「思ったのと違う」ってなりますよね。ラーメン屋いったらサンドイッチが出てきたみたいなもんで。

面白いので http://blog.livedoor.jp/fukukan2009/archives/52307013.html 及びその次の記事より引用します。

別の場所コメントでは「カレーを頼んだのにXXXが出てきた」といっている人もいました。俺は「カレーハヤシライスビーフシチュー」くらいの印象です。

anond:20190408230305

人が動物の上に立つモチーフイルカアシカイエイヌが、けもフレ1以後の「人間がいなくなってる世界」でそれを強調されることが視聴者にとって不快で、それを書くなら悲劇性や罪悪感も書くべきだ、との主張でしたね。誤解していました。失礼しました。そうするとリョコウバトは構わないのでは。けもフレ1でもトキ絶滅していますが、人が上に立っているわけではないので問題ない。リョコウバトも同じ扱いでいいのではと思います

けもフレ2における、人間動物迷惑をかける点ですが、フウチョウたちが「確かにヒトのおかげで助かったケモノもいるが、ヒトが不用意に近づいたばかりに、迷惑するケモノもいたかもしれんぞ」と明確に問いかけてるんですよね。これに対するアンサーは必要であり「テーマとして昇華していない程度の示唆」で終わらせるのは無理があります

リョコウバトとトキ比較ですが、けもフレ1のトキ場合絶滅危惧動物であること、人間によって傷つけられたことに関する言及はないわけです。一方、リョコウバトの場合絶滅を暗示する演出がいくつもあり、先のフウチョウの問いかけもあったわけです。

イルカアシカについてですが、ネットを眺めた体感では、そこまで気にされてないように思うので、これが気になるのは俺自身問題であって、そこまで気にしなくても良いかもしれません。

ただし、フウチョウの問いかけにある通り、全体的に人間動物関係性の負の面に掘り下げるならば、イルカアシカも一緒に掘り下げたほうが脚本の完成度が上がるでしょう。

イエイヌについては、あれは監督交代のいざこざ抜きでも、居心地悪いかと。

詳しくないのですがハリウッドヒーロー物では技名宣言は少ないのではないでしょうか。国内で閉じるローカルルールに縛られずによりリアル表現模索したのでしょう。

マーベルやDC映画場合叫び声でパワーアップはしないわけですが、強敵との戦いをどう盛り上げるか、逆転を、どう印象づけるかの工夫がありますフレンズセルリアンとの戦いは、あまりそうした工夫がなく、盛り上がらなかったです。それなら誰かが「野生解放!」と叫んだほうがわかりやすいでしょう。

まあファンタジー蔑称ということもないのでしょうが、多くをノリで処理すべき寓話世界観というほどには、けもフレ2は堕していないと思います

まず私の立場は「多分、脚本の穴だろうが、寓話世界観と取れないこともない」というものです。ラストバトル前の葛藤(フウチョウ)と、ラストバトル勝利ギミックビースト)という重要な部分の両方が、ファンタジーな流れで解決されるので、その印象が非常に強いんですよ。

しかし、たつき監督けもフレ2をやっていたらそのカット問題にならないわけでしょう。監督が代わるごとに構図被りに難癖つけられるなら、正解は作らない一択ですよ。俺は野生解放こそ失念していましたが、かの名シーンの存在は覚えていて、でもその被りには気づきませんでした。観客が悪意を持ってアラ捜ししていることまで計算に入れて作っていかなきゃならないなら、アニメ制作者が家に帰らない期間は年単位で増えていくでしょう。観ると決めたら、ある程度製作者を信用することは視聴者側の責任だと考えています

点が三つあると人の顔に見える、と言う話がありますが、人間は、基本的意味のないところにも意味を捜す生き物です。現実には意味のないことは幾らでもあるのですが、作劇でそういう部分を作ると、視聴者は無理矢理意味を見いだそうとし、結果、制作者にとって不本意な受け取り方をされることがある。それを避けるためには、意味・印象が散漫なシーンを作らないことです。

結局、セルリアン型フレンズにあまり意味がなく、戦闘も盛り上がっていないのが、あら探しされやすい大きな原因だと思いますフレンズ型になった意味もさほどなく、あまり怖い印象もなく、なんとなく倒されていくという(このへんは脚本だけでなくアクションシーンの問題でもあります)。

けもフレ1の集合シーンは、ここからフレンズが、それぞれの個性を生かした連係攻撃を開始するわけです。例えば、それを踏まえて、セルリアンが巧みな連携を仕掛けてきて、「これまでのセルリアンと違う! なんて強いんだ!」とすれば、そこには一つ意味が生まれます

そういった点をクリアしても、ケチつけられる可能性は否定しません。結局、最終話評価は、それまでの1~11話の評価と切り離せないものですので。視聴者に信用されるために、制作者側は信用を積み重ねる必要がありますが、そこがうまくいってないわけです。

この先奇跡的にけもフレ2の人気が反転して評価が逆転したら繰り上がって「優しい世界」になるのでしょうか。だとすると「優しい世界」は「感じが良くて人気だった」くらいの概念になってしまうでしょう。

「優しい世界」に込める意味は、人それぞれで、深く考えてない人も多いでしょう。なので、最大公約数を取れば、まさしく「感じが良くて人気だった」くらいの意味になると思います批評として使うなら、定義必要になるでしょう。

私自身が「優しい世界」という言葉を使ったのは、「素直なキャラ面白いドラマを作ること」くらいの意味です。

けもフレ2でギスギスが解禁されたことで、G・ロードランナーやフウチョウ、イエイヌなど、けもフレ1に収まりきらなかっただろうフレンズへの間口が開かれました。

スギスした作品はギスギスした作品で楽しめる人も、癒やし系作品の続編として出されると「思ったのと違う」ってなりますよね。ラーメン屋いったらサンドイッチが出てきたみたいなもんで。ギスギスを狙ったのなら、作品の出来とは別にマーケティングミスです。そういうのは事前に告知して心の準備をさせるのが良いかと。

逆に言うと、ここまでギスギスな作品だと受け取られる、とは制作側は思ってなかったんでしょうね。

論理同意できません。自由意思はどちらの選択をとっても自由ときにのみ現れるものです。

そこはおっしゃるとおりですね。書いたことに矛盾があったので書き直します。

まず、1話からのヒキである、キュルルのおうちが、見付からなかったことに、消化不良があります。次に、キュルルが「おうち」を諦めるに至る過程曖昧なので、ドラマが盛り上がりません。

キュルルが「おうち」を捜す動機として、フウチョウに対して、「そこには、僕にとって大事な、なんかすごく大切なものがあった……気がする……」と言ってるんですよね。この「大事な大切なもの」が不明なまま、おうちより仲間と言われても、とってつけた感が出ます

それがパークのどこにもなく手がかりの絵も尽きて絶望したことが示されているので

何話か見返したのですが「キュルルの手がかりの絵が尽きた」ことが描かれたシーンが見当たりませんでした。教えていただけると幸いです。

でもそうするとセンちゃんアルマーさんを入れる尺がなくなりませんか。誤解させるための設定も用意しなくちゃならない。というかイエイヌちゃん完全に救われちゃってますよね。

思いつきプロットですので、詳細まで詰めてないのはご容赦ください。作劇において、尺やバランス問題は常につきまとうので、やりたいことの優先順位を決めて整理すれば良いかと。

優先すべきものイエイヌとキュルルの関係なら、他のキャラの出番を減らして調整しますよね。逆にカラカルとキュルルが仲直りして関係性を深めるほうがメインなら、プロットが重くなりやすイエイヌでなくて、別の困ったフレンズにしたほうが、すっきりするかもしれません。

キュルルちゃんホテルで海に落下させるためにイエイヌ回で下げたのではないでしょうか。落ちたときニコニコ動画では「ざまああwwww」が連発されましたが、あれは制作の狙いだったと考えています。そして必然的落下からのフウチョウ説教・海底火山紹介に自然につながります

通常、主人公とは「こいつがどうなるか見届けたい」と視聴者に思わせて、物語ドライブする存在です。そのためには視聴者を引きつける魅力が必要になります。魅力がないと、作品を見続けるモチベーションが湧かない=つまらないとなるわけです。魅力としては「いいやつ」から「かっこいい悪」「人間欠点があるが、どこか憎めないボンクラ」まで様々です。

さてキュルルは、別に「かっこいい悪」や「憎めないボンクラキャラではなく、概ね、フレンズを助ける心優しいキャラとして描かれてたわけで、それをこういう下げ方したら、キュルル自体の魅力が損なわれ、作品自体への評価が下がります。さすがに制作者が意図してそういう風には描かないと思います

キュルルが落っこちた回でニコ動アンケートちょっと上がったのは知ってますが、主人公がそこまで嫌われてる時点で、作品としては末期症状でしょう。

しろ話の流れのメインだったのは”スケッチブック最後のページの行方”だったと思います。すべてのドラマスケッチブックに沿って展開され、最後の絵は破られていたことは最初の話で既に明らかにされていて、ホテル海上で悩むキュルルちゃんは千切られたページの跡を見つめていました。

長い時を生きてミライさん時代からパークを見守ってきたイエイヌに対してキュルルちゃんが「おうちにお帰り」を言い、逆にイエイヌ彼女から送られた絵をみて(観念的に)おかえりを言うわけです(実際に口にはしてないけど、まあ立場的に)。キュルルちゃんはそのシーンを持って本当におうちに帰った、受け入れられた。それを最後のワンカットで示すのが強い、と思うのですがいかがでしょう。

この解釈は私が気づかなかったもので、なるほど、と、思いました。

ただ、「スケッチブック最後のページの行方」がメインだったとすると、エピローグ的な部分で登場しても、もうその時点では、セルリアンは倒され、キュルルのおうち探しも終わっており、ドラマとして盛り上がらないかと。

イエイヌの「おうちへおかえり」と、キュルルの「おかえり」を重ねて、メインテーマに結末をつけたいのであれば、もうちょっとそこに重点を置いた作劇にしないと視聴者に伝わらないと思います

一般的エンタメの作劇上のセオリー評価できないというのはわかりましたが、しかしそのセオリーに従わなければいけない強い理由があるのですか。

作品の出来、不出来は、究極的には個人の好みになります。その上で、「多くの人が好む/嫌う最大公約数」というものもあります。それをまとめたのが、エンタメセオリーと呼ばれるものです。

けもフレ2の一般的評価が低い論拠として、そうしたセオリーを守れてないから、という点を指摘しているわけです。

もちろん、セオリーをぶっちぎって、面白い作品はあります。私から見る範囲で、けもフレ2に、セオリー無視したが故に面白くなってる点は見当たりませんでした。ただこれは私の意見なので、「そうではない。ここが面白い」という意見は拝聴します。

2019-04-08

anond:20190408180028

人が動物の上に立つモチーフイルカアシカイエイヌが、けもフレ1以後の「人間がいなくなってる世界」でそれを強調されることが視聴者にとって不快で、それを書くなら悲劇性や罪悪感も書くべきだ、との主張でしたね。誤解していました。失礼しました。そうするとリョコウバトは構わないのでは。けもフレ1でもトキ絶滅していますが、人が上に立っているわけではないので問題ない。リョコウバトも同じ扱いでいいのではと思いますしかけもフレ1でカフェを訪れるフレンズは別の鳥でも良かったわけで、トキ選択されたのは何らかの意図があるでしょう。以前に書いたような「テーマとして昇華していない程度の示唆」でとどめても善いのではと思います不快になるまで強調されるならドラマに絡めて決着を付けるべきだということですね。ならばイルカアシカイエイヌでそこまで不快になるということ自体製作者の想定外なのではないでしょうか。俺もグロテスクさは感じましたが話が入ってこないほどは気にならなかったです。「そこに居心地の悪さを感じるのは当たり前」とおっしゃいましたが、監督交代のいざこざ抜きでもそう言えると断言できますか。

ヒーローがなんか技名叫んでパワーアップ」は、戦隊ものでもプリキュアでもアンパンマンでもあるので、そうそう引っかからない

これまでそういう表現が主流だったというだけです。戦闘ときに技名を叫ぶのはフィクション的です。攻撃タイミングがバレてしまうし、叫びに使うエネルギーを拳の乗せろよ、です。詳しくないのですがハリウッドヒーロー物では技名宣言は少ないのではないでしょうか。国内で閉じるローカルルールに縛られずによりリアル表現模索したのでしょう。「サーバルの目が光ると、ビーストも同じように目が光るカットがあるので、『同じ系統のパワー』に見えるんですよね。」とのことですが、同じ系統でよいと思います。常時強制的に野生部分が開放されているのがビーストだと俺は捉えてます

私の意見は「内面世界の外への進出自体は、多くの作品共通する、いわゆる「盛り上がる」部分です。ただ、その進出の仕方に、世界現実の仕組みに矛盾しない理屈がある場合と、理屈なしでイメージが直結する場合がある。ケムリクサは前者で、けもフレ2は、後者のように見えるという話です。

俺はケムリクサの最終話での細かいつじつま合わせに納得していません。「盛り上がり」とはリンが赤い木に対峙するシーンからですよね。ケムリクサでは草周りが特に緻密に組んであるので引っかかっているのかもしれませんが、矛盾していてノリで処理するの範疇に入っていますけもフレ2でのキュルルちゃん葛藤は「盛り上がる」部分ということでいいですね。とすると問題はフウチョウよりむしろ吹っ切れた後にタイミングよく飛んでくるビーストのような気がしますが… ただそこに至るまでに作品評価は決してしまっていたし、葛藤をフウチョウという便利な舞台装置で処理したところで全体がファンタジーということにはならないのでは。むしろケムリクサは柔軟性のあるギミックやしがらみのないプレーン舞台を用意していることで矛盾をでなくしているように思います。まあファンタジー蔑称ということもないのでしょうが、多くをノリで処理すべき寓話世界観というほどには、けもフレ2は堕していないと思います

1と2の共通するクライマックス部分で、似た構図の印象的なカットを出して、共通性を感じないわけがないです。そこは制作者は気づくべきです。

しかし、たつき監督けもフレ2をやっていたらそのカット問題にならないわけでしょう。監督が代わるごとに構図被りに難癖つけられるなら、正解は作らない一択ですよ。俺は野生解放こそ失念していましたが、かの名シーンの存在は覚えていて、でもその被りには気づきませんでした。観客が悪意を持ってアラ捜ししていることまで計算に入れて作っていかなきゃならないなら、アニメ制作者が家に帰らない期間は年単位で増えていくでしょう。観ると決めたら、ある程度製作者を信用することは視聴者側の責任だと考えています

視聴者視点では行動が横暴に見える」のであれば、それは「優しい世界」「癒やしとしての芸術表現」として失敗してるのではないかと思います。...(中略)...「優しい世界」というのは、面白かった作品への誉め言葉として使われているように思えます

この先奇跡的にけもフレ2の人気が反転して評価が逆転したら繰り上がって「優しい世界」になるのでしょうか。だとすると「優しい世界」は「感じが良くて人気だった」くらいの概念になってしまうでしょう。批評文脈でそのようなものを論じるのは意味がないのでは。作品制作において(俺は関係ないですが)、優しい世界を目指すというのは単に売れるよう頑張る以上のものであって、今のところは曖昧ですが、これから更に研究していく必要があるほど奥の深い領域だと考えていますけもフレ2でギスギスが解禁されたことで、G・ロードランナーやフウチョウ、イエイヌなど、けもフレ1に収まりきらなかっただろうフレンズへの間口が開かれました。そこはメリットだったのですが他方優しい世界性は減じてしまったということです。スピリットは二作品継承されましたが、休日リピートして癒やされるのはやっぱり一期ですよね。

話が前後して申し訳ないのですが、作劇論について…

ドラマとして盛り上がる重要ポイントで誤解を与えてはいけない

なるほどこれまで俺は不備を、設定の矛盾のようなものに絞っていましたが、重く捉えてらっしゃるのはプロット上の未消化や演出上の目論見の失敗、などですね。この方面は完全に素人なのですが、胸をお借りするつもりで議論に足を踏み込ませていただきます

「おうち探し」がテーマで、「仲間と一緒のここがおうちだった」に落とすためには、通常、「おうちは見つかったが、その上で、仲間と一緒にいることを選ぶ」というプロットします。そうしたほうが「自分意志で選んだ」感が出るからです。「おうち」が見付かったけど、廃墟だったとか、「おうち」側から同胞と認められなかったとかでショックを受けて、その後、決心するとかが基本パターンですね。そこが全くないので響かないんですよね。

論理同意できません。自由意思はどちらの選択をとっても自由ときにのみ現れるものです。事実上その選択しかないのにそれを選ぶのを決心するのは意思ではなくて屈服ですよ。敗北したのではなく自分で選んだと言い聞かせるために自分発破をかけているわけでしょう。けもフレ2のキュルルちゃんは諦める必要がないときに諦めの決断をしているので、そこに確かに彼女自由意志があると判るはずです。響くか響かないかは決意の重さを事前に示しているかでしょう。リリの「会えないのはもっと嫌だ!」は赤い木を生み出した(観念的な)責任彼女にあるし、あそこで「好きに生きて」などいわれて逃されて、わかりました楽しく生きますは納得感が全く無いので、戦線復帰が可能だとわかった時点で行動は一択なわけです。でもワカバとの日々でお化けになることを怖がったり、ワカバが倒れるのを心配したりしていたので、彼女自身が消えることの怖ろしさは十分に示されてる。それでも積極的に行くところに決意の強さが見て取れるわけですよね。キュルルちゃんはそれまで三人でおうちを探して旅をしてきて最後に、それがパークのどこにもなく手がかりの絵も尽きて絶望したことが示されているので、諦めるということがそれなりに重い決定であることは判っているわけです。それで充分だとは思いますが、まあ死ぬほどの重みではない。先々週にリリの決断をみているのでそこからすると見劣るのは否定できないです。

増田さんのプロット案は面白いですね… そっちのバリエーションも観たかたかも(実はプロの人なの?)。

最初イエイヌが、キュルルを、去って行った飼い主と完全に誤解している。キュルルや他のフレンズの助けで、イエイヌが元の飼い主のことをきちんと思い出す。その時、元の飼い主がイエイヌと別れた時に、安易に捨てたわけではなかったことがわかる。キュルルはイエイヌの寂しさを受け止めつつも、今の自分に出来ることはないので、別れる。一人のイエイヌの家に、他のフレンズが遊びに来る、などとします。

でもそうするとセンちゃんアルマーさんを入れる尺がなくなりませんか。誤解させるための設定も用意しなくちゃならない。というかイエイヌちゃん完全に救われちゃってますよね。このときのキュルルちゃんが横暴に見える、とまでは俺は思っていませんが、視聴者の多くはそう捉えたようです。おかしいと思わない人はサイコパスとまで言われていました。素人考えなんですけど、あそこでキュルルちゃんが(観点的な)非道を働いてしまうことには狙いがあったのではと思いますお話の上でキャラクターが何らかのミス悪事を働いて被害を作ってしまった場合、それに悪意がなくても、天災的な事故観念的な罰を受ける。視聴者の溜飲を下ろすためなのか、そういう処遇はよくあると思います。でないと消えざるを得なかったリリ・ワカバがただひたすら不遇ということになってしまう。キュルルちゃんホテルで海に落下させるためにイエイヌ回で下げたのではないでしょうか。落ちたときニコニコ動画では「ざまああwwww」が連発されましたが、あれは制作の狙いだったと考えています。そして必然的落下からのフウチョウ説教・海底火山紹介に自然につながります

肩すかしなのは、キュルルちゃん出自と、最終話に至るドラマキャラ動機等が、特に関連しなかったからです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズで、疑似不老不死だったことを眼目とするなら、それが何かと絡む必要があります

キュルルちゃん疑似不老不死説は俺の自説で、そこまでの確証はないことは一応留意してください。むしろ話の流れのメインだったのは”スケッチブック最後のページの行方”だったと思います。すべてのドラマスケッチブックに沿って展開され、最後の絵は破られていたことは最初の話で既に明らかにされていて、ホテル海上で悩むキュルルちゃんは千切られたページの跡を見つめていました。長い時を生きてミライさん時代からパークを見守ってきたイエイヌに対してキュルルちゃんが「おうちにお帰り」を言い、逆にイエイヌ彼女から送られた絵をみて(観念的に)おかえりを言うわけです(実際に口にはしてないけど、まあ立場的に)。キュルルちゃんはそのシーンを持って本当におうちに帰った、受け入れられた。それを最後のワンカットで示すのが強い、と思うのですがいかがでしょう。

通常、作品における伏線・回収は、プロット重要なメインの部分についてやるものだと思います

一般的エンタメの作劇上のセオリー評価できないというのはわかりましたが、しかしそのセオリーに従わなければいけない強い理由があるのですか。不勉強ながら俺はそれを知らなかったし、多くのファンも同じではないでしょうか。視聴者には考察班的に楽しむ人もいるし、癒やし目的カジュアルに流し見る人もいるでしょう。教科書的な表現から逸脱することで芸術進歩してきたのではないですか。

2019-04-07

anond:20190407054347

当初イエイヌはヒトであれば誰でも良いということを言っていました。結果的には「別れた大切な人を待ち続ける」ことになるのですが、ヒトであればよいと思っているという設定は、不憫さを誘うためものだった思いますイルカアシカについても芸の報酬をねだるのは(三人も引いていたし)どこかグロテスクさを感じました。ホテルぬいぐるみが売り切れる描写は、リョコウバトが孤独になっていくさまを強調したものでしょう。確かにドラマとして悲劇・罪悪感が押し出されているわけではないですが、全編に渡ってそういう表現がある点で、そこには何らかの狙いがあるように感じます。深く考えていないということはないと思います

リアリティラインが低い

これは誤読していました。単にご都合主義的ということではなく、内面世界の反映を問題としているのですね。しかサーバルカラカルが急にパワーアップしたように見えるシーンは、最終回での戦闘だけだと思いますカラカルが「本気だすわよ」といってサーバルが”野生解放”をする。”野生解放”はけもフレ1でセルリアンハンターらが行っていますが、「最初から野生解放で行くぞ」の言い方から察するに、疲れる・コントロールできないなど常時その状態はいられない事情があると考えられます戦闘も終盤で2対2になったので解放したというのは筋の通る展開ではないでしょうか。他方、フウチョウについてはおっしゃるとおりで、異論はありません。加えて最後でのかばちゃん告白も、いままでサーバルとの関係が積み重なっているようには見えないので、強い思いが伝わりあの反応を引き出した、という見方をするしかなく、貴方の論に叶うものでしょう。しかしそうすると、けもフレ2は全体としてはリアリティラインは低くはなかった、ということになりませんか。けもフレ1の紙飛行機石橋の下に落としたりは納得感が高かったのはわかりますが、けもフレ2での内面世界の漏出は最終盤で起こったということでしょう。ところで、ケムリクサにおいてもリアリティラインは低くなっていったと考えていますケムリクサは”優しい世界”でもないです。視聴者は同監督ということで同様のものを期待したはずですが、ギャップが大きく評価を下げたという感じはありません。もちろん悪意を見出している人もいません。

思うんですけど、そもそも「悪意をもって作られた創作」というもの過去あったのでしょうか。いえ差別的ヘイト創作はもちろんありますが、それは攻撃するターゲットが他にいるケースであって、今回は視聴者キャラクター攻撃する意図を疑われているわけでしょう。商業メリット以前に、悪意を想定する時点でもう、どこか常軌を逸しているように思えます。俺は実は監督交代の顛末に明るくなくてツイッターのTLにもその関連は流れてこないのですが、一連の感想ブログなどを追っていくなかで、俺にはなにか見えていないエネルギーがあるのではと思うようになりました。一般視聴者の間で凄まじい義憤が渦巻いていて、極めて高い同調圧力が生み出されていて、それが感想批評論理さえ捻じ曲げている。ナイーブな仮説ですが、そんな疑念を持っています

たつき監督の作劇は、たつき監督技術によって成り立ってるので、監督が抜けると再現が難しくなる、というのが考えられます

よく言われる、たつき監督の「優しい世界」ですが、これは脚本技術的に高度なものです。ドラマを作る時に、普通の作劇では対立構造や誤解などを利用します。逆に言うと、たつき的な、悪意がなく素直なキャラだけで、面白いドラマを作るのは、高い作劇技術必要になります

この論点は目ウロコでした。そういえばtogetterで吉崎さんの出したプロットからたつき監督が「トゲ」を抜いた、というエピソードが紹介されていました。俺は結果をみて、なるほど! と思ったのですが、ああいうことを狙ってやっていくのは唯の視聴者が思う以上に難しいのでしょう。けもフレ1ではサーバルかばちゃんの表情を覗き込むシーンが多かったように思いますけもフレ2になってキャラクターの造形は表情豊かになりましたが、キュルルちゃん探偵二人が誘拐した騒動で、キャラクターを体ごと大きく動くのが難しかったのでしょう、ギクシャクした感じが出てしまっていました。たつき監督しかできない演出は確かにあったと感じています。作劇においてもそれがあって、避けるために得意な方向性に変えた(結果、戻った)という説は納得できそうです。(追記たつき監督の「素直なキャラだけで面白いドラマ」を作る作劇技術、というトピックはとてもおもしろそうです。優しい世界説はメジャーですが、けもフレ1の作劇技術解説した記事は見たことがありません。いつか語ってくれないかな〜〜という図々しいオネダリ

2019-04-06

キャッチーメロディ」とか「中毒性の高い」とか

それで批評した気になってる評論家プロ意識のなさを恥じろよ

語彙力ないのかおのののか




増田プロ評論家じゃないからこれでいいよん😋

anond:20190405140803

anond:20190406131516


 

緊急寄稿

「令和」から浮かび上がる大伴旅人メッセージ

品田悦一

 

 新しい年号が「令和」と定まりました。典拠文脈を精読すると、〈権力者の横暴を許せないし、忘れることもできない〉という、おそらく政府関係者には思いも寄らなかったメッセージが読み解けてきます。この点について私見を述べたいと思います。なお、この文章は「朝日新聞」の「私の視点」欄に投稿したものですが、まだ採否が決定しない時点で本誌編集長国兼秀二氏にもお目にかけたところ、緊急掲載のご提案をいただいて寄稿するものです。

 

 「令和」の典拠として安倍総理が挙げていたのは、『万葉集』巻五「梅花歌三十二首」の序でありました。天平二年(七三〇)正月十三日、大宰府長官大宰帥)だった大伴旅人が大がかりな園遊会主催し、集まった役人たちがそのとき詠んだ短歌をまとめるとともに、漢文の序を付したのです。その序に「于時初春令月、気淑風和」の句が確かにあります。〈折しも正月の佳い月であり、気候も快く風は穏やかだ〉というのです。これはこれでよいのですが、およそテキストというものは、全体の理解と部分の理解とが相互依存し合う性質を持ちます一句だけ切り出してもまともな解釈はできないということです。この場合テキストは、最低限、序文の全体と上記三二首の短歌(八一五~八四六)を含むでしょう。八四六の直後には「員外思故郷歌両首」があり(八四七・八四八)、さらに「後追和梅花歌四首」も追加されていますから(八四九~八五二)、序と三八(三二+二+四)首の短歌の全体の理解が「于時初春令月、気淑風和」の理解相互に支え合わなくてはなりません。

 

 さらに、現代文芸批評でいう「間テキスト性 intertextuality」の問題がありますしかじかのテキストが他のテキスト相互に参照されて、奥行きのある意味を発生させる関係に注目する概念です。当該「梅花歌」序は種々の漢詩文を引き込んで成り立っていますが、もっと重要かつ明確な先行テキストとして王羲之の「蘭亭集序」の名が早くから挙がっていました。この作品書道の手本として有名ですが、文芸作品としてもたいそう味わい深いもので、「梅花歌」序を書いた旅人知悉していただけでなく、読者にも知られていることを期待したと考えられます。「梅花歌」序の内容は、字面表現された限りでは〈良い季節になったから親しい者どうし一献傾けながら愉快な時を過ごそうではないか。そしてその心境を歌に表現しよう。これこそ風流というものだ〉ということに尽きます。「蘭亭集序」の語句構成を借りてそう述べるのですが、この場合、単に個々の語句を借用したのではなく、原典文脈との相互参照が期待されている、というのが間テキスト性の考え方です。「蘭亭集序」は、前半には会稽郡山陰県なる蘭亭に賢者が集うて歓楽を尽くそうとするむねを述べており、ここまでは「梅花歌」序とよく似ていますが、後半には「梅花歌」序にない内容を述べます。人の感情は時とともに移ろい、歓楽はたちまち過去のものとなってしまう。だからこそ面白いともいえる。人は老いや死を避けがたく、だからこそその時々の感激は切なく、かついとおしい。昔の人が人生の折々の感動を綴った文章を読むと、彼らの思いがひしひしと伝わってくる。私が今書いているものも後世の人にそういう思いを起こさせるのではないか……。

 

 「梅花歌」序には、人生の奥深さへの感慨は述べられていません。続く三二首の短歌も、〈春が来たら毎年こんなふうに梅を愛でて歓を尽くしたいものだ〉(八一五)やら、梅の花は今が満開だ。気の合うものどうし髪に飾ろうではないか〉(八二〇)やらと、呑気な歌ばかりが並んでいるのですが、そしてそれは、旅人大宰府役人たちの教養の程度を考慮して、「蘭亭集序」を理解したうえで作歌することまでは要求しなかったからでしょうが旅人自身は「蘭亭集序」全体の文脈をふまえて歌群を取りまとめました。その証拠に、上記「員外思故郷歌」は

  わが盛りいたくくたちぬ雲に飛ぶ薬食むともまたをちめやも(八四七)

   ……わたしの身の盛りはとうに過ぎてしまった。空飛ぶ仙薬を服用しても若返ることなどありえない。

  雲に飛ぶ薬食むよは都見ば賤しきあが身またをちぬべし(八四八)

   ……空飛ぶ仙薬を服用するより、都を見ればまた若返るに違いない。

というのです。人は老いを避けがたいという内容を引き込んでみせている。

 しかも、ここには強烈なアイロニーが発せられてもいる。旅人にとって平城京はもう都でないのも同然で、「都見ば」という仮定自体が成り立たなかったからです。

 

 都はどうなっていたか皇親勢力の重鎮として旅人が深い信頼を寄せていた左大臣長屋王――平城京内の邸宅跡から大量の木簡発見されたことでも有名な人物――が、天平元年つまり梅花宴の前年に、藤原四子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の画策で濡れ衣を着せられ、聖武天皇皇太子呪い殺した廉で処刑されるという、いともショッキング事件が持ち上がったのでした。この事件は後に冤罪と判明するのですが、当時から陰謀が囁かれていたでしょう。旅人もそう強く疑ったに違いありませんが、遠い大宰府にあって切歯扼腕するよりほかなすすべがなかった。『万葉集』の巻五は作歌年月日順に歌が配列されているのですが、梅花歌群の少し前、天平元年のところには、旅人藤原房前に「梧桐日本琴」を贈ったときのやりとりが載っています事件は二月、贈答は十月から十一月ですから、明らかに事件を知ってから接触を図ったのです。〈君たちの仕業だろうと,察しはついているが、あえてその件には触れないよ〉〈黙っていてくれるつもりらしいね。贈り物。はありがたく頂戴しましょう〉と、きわどい腹の探り合いを試みている――あるいは、とても太刀打ちできないと見て膝を屈したとの見方もありえるかと思いますが、とにかく、巻五には長屋王事件痕跡が書き込まれている。

 

 巻五だけではありません。巻三所収の大宰少弐(次席次官小野老の作

  あをによし寧楽の都は咲く花のにほふが如く今盛りなり(三二八)

は、何かの用事でしばらく平城京滞在し、大宰府に帰還したときの歌でしょうが、『続日本紀』によれば老は天平元年三月、つまり長屋王事件の翌月に従五位上に昇叙されていますから、たぶんこのときは都にいて、聖武天皇から直接位を授かったのでしょう。すると、大宰府に帰った老は事件後の都の動向を旅人らに語ったと考えられる――そういうことが行間に読み取れるのです。また巻四には、長屋王の娘である賀茂女王大宰府官人だった大伴三依との交情が語られていて、三依は事件に憤慨しながら大宰府に向かったようです(五五六)。さらに巻六。歌を年月日順に配列する中で天平元年に空白を設け、直前に、長屋王嫡子事件ののさい自経した、膳王の作を配しています(九五四)。

 これらはみな、読者に長屋王事件喚起する仕掛けに相違ありません。偶然の符合にしては出来すぎている。

 

 「梅花歌」序とそれに続く一群の短歌に戻りましょう。「都見ば賤しきあが身またをちぬべし」のアイロニーは、長屋王事件を機に全権力を掌握した藤原四子に向けられていると見て間違いないでしょう。あいつらは都をさんざん蹂躙したあげく、帰りたくもない場所に変えてしまった。王羲之にとって私が後世の人であるように、今の私にとっても後世の人に当たる人々があるだろう。その人々に訴えたい。どうか私の無念をこの歌群の行間から読み取って欲しい。長屋王を亡き者にした彼らの所業が私にはどうしても許せない。権力を笠に着た者どものあの横暴は、許せないどころか、片時も忘れることができない。だが、もはやどうしようもない。私は年を取り過ぎてしまった……。

 

 これが、令和の代の人々に向けて発せられた大伴旅人メッセージなのです。テキスト全体の底に権力者への嫌悪と敵床心が潜められている。断わっておきますが、一部の字句を切り出しても全体がついて回ります。つまり「令和」の文字面は、テキスト全体を背負うことで安倍総理たちを痛烈に皮肉っている格好なのです。もう一つ断わっておきますが、「命名者にそんな意図はない」という言い分は通りません。テキストというものはその性質上、作成者意図しなかった情報を発生させることがままあるからです。

 安倍総理政府関係者は次の三点を認識すべきでしょう。一つは、新年号「令和」が〈権力者の横暴を許さないし、忘れない〉というメッセージ自分たちに突き付けてくること。二つめは、この運動は『万葉集』がこの世に存在する限り決して収まらないこと。もう一つは、よりによってこんなテキスト新年号の典拠に選んでしまった自分たちはいとも迂闊(うかつ)であって、人の上に立つ資格などないということです(「迂闊」が読めないと困るのでルビを振りました)。

 

 もう一点、総理談話に、『万葉集』には「天皇皇族貴族だけでなく、防人農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌」が収められているとの一節がありました。この見方はなるほど三十年前までは日本社会の通念でしたが、今こんなことを本気で信じている人は、少なくとも専門家あいだには一人もおりません。高校国語教科書もこうした記述を避けている。かく言う私が二十年かかって批判してきたからです。安倍総理――むしろ側近の人々――は、『万葉集』を語るにはあまり不勉強だと思います。私の書いたものをすべて読めとは言いませんが、左記の文章はたった一二ページですから、ぜひお目通しいただきたいものです。東京大学教養学部主催の「高校生のための金曜特別講座」で語った内容ですから高校生なみの学力さえあればたぶん理解できるだろうと思います

 

【記】

品田悦一「万葉集はこれまでどう読まれてきたか、これからどう読まれていくだろうか。」(東京大学教養学部編『知のフィールドガイド分断された時代を生きる』二〇一七年八月、白水社

2019-04-05

けものフレンズ2批判に対する雑感

 けものフレンズ2への批判に対して少々思うところがあったのでちょっと書き連ねたい。

 筆者はこれのためにわざわざはてなID取得をしたユーザーでまた平時は長文を書くようなことはしないため読みづらい文章になると思う。またこれに限らず多量の予防線を張っているのでその点も踏まえて許容できるのであればお付き合いいただきたい。

 まず、筆者のスタンスけものフレンズ2放送前の思考等について記しておきたい。

 実はこんな長文を書いておいてなんなのだが私はけものフレンズ2は未見である(厳密には1話のみ視聴)。これは私がアニメを見る体力が落ちているためであり、正直見アニメの本数がかなり減ってきていてけものフレンズ2も1話の時点ではそれほど惹かれなかったというのが大きい。似たような理由で未視聴に終わっているアニメは他にもある(五等分の花嫁とか)。したがって見ていない理由として今巻き起こっている大批判攻勢とはほぼ関係がないことを留め置いて欲しい(ただ、もしけものフレンズ2の評判が良いというのが伝聞として伝わっていたなら見ていた可能性はある)。

 けものフレンズ1期については楽しく視聴させていただいた。自分としては大絶賛とまでは行かないが間違いなく良い作品だと思った。ただ、2期の制作が発表された時は正直あまりいい顔をしなかった。というのも私は「1期の内容が良かったからと言って安易に2期を求めるべきではない」という思想を持っており、特に物語がきれいに完結している場合はこのあとに何付け加えるんだ、蛇足になりはしないか?と思ってしまタイプである

 次いで、たつき監督が2期の監督でないことが発表された時、「これは2期で何をやるか本当にわからなくなったな」と思った。というのも元々けものフレンズ2が1期の継承をやるものだという風には絶対視していなかったし、仮に1期の内容を継承したとしても確実に面白くなるとも思っていなかったからで、たつき監督降板はこの考えに拍車をかけるものであったからだ。この時点での私は継承しろ変革にしろ面白作品ができることを純粋に祈っていた。

 ちなみに、よく聞く「他の人々がたつき監督の功績を奪って自分たちのものにした」という批判?に対しては、我々は当事者ではないし話し合いのテーブルにいたわけでもないので実際にどういう事情があったか推し量れない。従ってこれは仮にそういう可能性があるにしても邪推である基本的に信じるべきではないと考えている。同様に「たつき監督搾取されていた」という言説もたつき監督がどういう契約形態を取っていたのか不明であるという理由否定的である

 要するに何が言いたいかというと、けものフレンズ2を批判する人々と私とは思想的前提条件等に大きな隔たりがあると思う。仮に今からけものフレンズ2を見ても批判者の人々ほど不愉快な気分にはならないだろう。精々不可解な場面に首を傾げたりしかめっ面をする程度ではないかと推測している。

 さて、いよいよ放送が始まったわけだが1話のみを見た感想は「まだよくわからないな」だった。まあ当然だ。強いて言うならキュルルはかばちゃんよりも頼りなさそうだな、と思ったくらいである。それからしばらくは先に述べた理由けものフレンズ2の視聴はしていなかったのだが話数が進むにつれ否定的な言説もちょいちょい見かけてはいた。が、ツイッターで同時に考察をする人もRTによる又聞きではあるが見かけていた。

 やはり、一番大きなパンデミックが起きたのは9話であろう。爆発的に批判が増えた。私は暇つぶしテリトリーとしてソシャゲを別とするとツイッターニコニコ動画を主に利用しているのだが、特にニコニコ動画で見かけた作中のキャラあるいは製作者を吊し上げ、叩きのめさんとするタイトルサムネイル動画は大きなストレスを与えた。これらの動画を開くことはしなかったことは言うまでもない。しか無視しても目に入るというのはとても精神衛生に悪かった。ツイッターでも口汚く罵るツイートが目につくようになる。漏れてくる情報からキュルルが不可解で”不愉快”な行動を取ったことはわかったが、かと言ってこれらを許容できることはなかった。所謂盤外戦の話も流れてきたが私はひどく粘着されて否定的言葉を浴びせられ続けられたらそれは人間壊れるだろうな。と思った。作品の出来や公人であることを以て発言を許すべきでないという意見も見たが許されない部分はあるにせよ人間として不自然な反応ではないと思っている。自分が同じ立場なら酷く陰鬱な気分になることは相違ない。

 ニコニコにはオリジナルキャラを作った動画も出てきて人気を集めていたが、非常に嫌な気分になった。うまく説明できないが制作陣がどういう意図けもフレ2を作っているかからないにせよ、それを冒涜する行為だと感じた。アレは呪いだ。間違っても高潔ものなんかじゃない。少なくとも私にとっては。

 しばらくしてケムリグサ11話が放映されその出来に最終話が出る前に今すぐそれまでの話を見るべきだ、という趣旨ツイートが相当数流れてきたが(ケムリグサも未視聴だった)私は見る気になれなかった。そのツイートの中にはけもフレ2を散々にこき下ろした人間も混じっていたから。私はどの口でそんな事を言うのかと思った。感情に任せて作品を殴りつけるような行為をする人間が勧めるような作品を見たくなかった。ケムリグサが良い作品だとしてもそれを礼賛する人間の一部の行為によってケムリグサにも泥がかかったように見えた。

 そしてけものフレンズ2最終話が放映され、ニコニコ放送アンケートが酷い結果を叩き出し、また様々なレッテルを貼られた。曰く「榊遊矢に勝った」だの「けもフレ1を抹殺した」だの。見るに堪えなかった。物見遊山のつもりで批判ツイート連続してRTしたユーザーがいてフォローを外したりした。その一方でけもフレ2に対する別視点から批評も見た。タイムラインに流れてきたのを読んだだけなのでURLは覚えていはいないし、仮に貼って批評を書いた方に迷惑をかけてはいけないと思うので参照元差し控えるが、それによると「元々アプリからアニメ1期の時点で断絶は発生していた」という論評もあったし、「はじめからけもフレ2は1期を踏襲するつもりはなく、ヒトとケモノ関係について1期と明確に差別化し新たな形を提示しようという意図があった。うまくいっていないにせよ私はこのタイプ作品が好きなので評価したい」という批評もあった。あまりの叩かれ様に婉曲的に苦言を呈する人もいた。直接的に苦言を呈した人もいた。炎上した。炎上した人を見てどうして火の中に飛び込むような真似をするのかと言った人がいた。ねとらぼ記事中立的で良い記事だと思ったがそれにすら文句をつけている人がいて救えないと思った。

…もううんざりだ。私は一連の騒動辟易している。情報収集のためのツイッターストレスが流れてくる。暇つぶしのための動画サイト巡回に気を使う。私は嵐が過ぎるのをじっと待つより他ない。


ここまで言っても「制作陣を援護するような利敵記事だ。聞くに値しない」などと言われるであろうことが容易に想像できて嫌になる。

anond:20190405113948

内容について批評する気はないけど

あのイラストは本当に謎

2019-04-04

anond:20190404100235

増田が責めるべきは、いなごのようにやってきて叩きに参加する人たちだよな

正当に「この点は駄目だと思う」と批評している人たちまで一緒くたにした書き方はどうかと思うぞ

2019-04-03

けもフレニコニコ

ニコニコ動画けものフレンズ2についての感想やらなぜダメのかみたいな考察MAD批評するの流行ってるけど完全にここでいうアイドル増田と同じだな

オタクって人種プラスにもマイナスにも感情を昂らせるフリするけど特にそれが強いやつらがこぞって動画あげて「自分はこんなにけものフレンズを愛していて2がこんなものになって悲しい!自分はこんなに愛していているのに!(チラッチラッ)」っていう自慰行為しか見えないわ、大半の人間たつき降板って知った時から諦めてるのに

けものフレンズ

好きなラーメン屋からのれんわけした店とかに行って、だされたラーメン食ったら、どう食べても糞まずいし、あらゆるレビューサイト評価も悪い。

みたいな状況でどうするのが適切かという話で。


まあ個人的に怒るのはいいでしょう。問題ないはず。

じゃあ店主に文句を言うのはどうなのかっていうと、これは結構危ない。

調理ミスを疑う」とか、「店主の味蕾が腐ってないか心配する」とか、店主に話しかける必然性があるなら

指摘が何かしらの改善を生む可能性もあって、まあ、許されるだろう。

しかし、「このラーメンとてもあの店からのれんわけした味とは思えません」

ラーメン感想を本人に伝えるのは、必然性もなくおかしい。

たから見て「それはあなた感想でしょ」「じゃあ食べなきゃいいでしょ」となってしまう。

世の中にはちゃんラーメンを食べるなんてことするひと意外と少ないし、

なんなら、たかだかラーメンで怒るなんてと思っている人も多いだろう。というか、それが普通だ。

もっと言えば、批評する、理解する、という楽しみ方をする人間なんて、そんなにはいない。

塩と油の味がすれば、うまいと感じる人間が多いのだ。


から監督プロデューサーに、レビューを送り付けるのは何の意味もない。

あれだけ物語としての理屈演出理屈が成り立っていないものであるにも関わらず

50万人が集まって平成ワースト評価を下したアニメであるにも関わらず、

監督プロデューサー感想を伝えてしまったら、

周りからは、高々うるさがたのファン文句を言ってるとしか見えないのだ。

から、どうしても、監督プロデューサー一言いいたい人たちは、これから感想を送るのではなく。

「脳の病気かも」「精神科で一回見てもらったほうが良い」「演出ミスってませんか?」

みたいな、送る必要のあるリプを飛ばすべきである

2019-04-02

anond:20190402165859

もしそうなら「けもふれ2はクソ」という批判は無理してコネ出したウソ批判てことだから

「クソじゃないじゃん」「あなた批評は間違ってるじゃん」という形で反論していける筈なんだ

でもそういう論争になってない

anond:20190402163342

宗教戦争っていうかアンチアンチがいるのがなあ

けもふれ1も2もケムリクサも見てないけど

現状のけもふれを庇ってるのがアンチアンチなのはわかる


どういうことかっつうと

「けもふれ2はクソ」

    VS

「何言ってんだけもふれ2はこんなに素晴らしいのになぜわからない!」

ならいいんだよ

これは否定派VS肯定派の論争であり、お題の中心は作品から

健全な論争といえる



アンチアンチっていうのは

「けもふれ2はクソ」

    VS

「お前アンチだな!偉そうに!」

みたいな感じ

まり「けもふれ2はクソ」に怒って言い返してる側もけもふれ2が良いと思ってないわけ

「この作品は素晴らしい」じゃなくて、「作品はどうあれお前の態度が気に入らない」になってるという

これはアホくさいし泥沼の議論


こういうのがわりと至るところであるんだよね

作品を中心にした意味のある論争じゃなくて、

単に動物的な怒りや反発だけで「戦う」奴が現れるっていうの

作品批評ディベートディスカッションが出来無さ過ぎるというか

要するに「お前偉そう」みたいなことだけで駆動してる

2019-03-29

anond:20190329182234

たぶん、批評界隈のいうところの、ゲームリアリティ、とかいう奴なんだよ。

そんで、貴方増田は、そのリアリティを共有していない。

そこに感覚の断絶があるのは、良い面も悪い面もあるだろうけど。増田感覚でしっかり箱庭作ったら一周回って新しいとかありそう。

anond:20190329112652

男のステレオタイプな決めつけによる批判ユーモアだったり社会批評として認識するのに、女のステレオタイプの決めつけにいちいち噛み付くのは、あんまり理解出来ない。

anond:20190328210627

1、2、4つ目はここ好きじゃなくてただの批判批判あるいは批評からなあと思ったけど、忠犬イエイヌ(まわりの人はおいといて)の話が好きってのは普通にありなのかなと思った。

3つ目は新しい視点が得られて面白かった。

カルガモが好き→わかる

イルカアシカケンゼンエロい→わかるけどあいつらあざとさも合わせて質悪くない?11話で助けてくれたけど。

ペパプライブがよい→不満点もあるがまあわかる

一撃でやられるセルリアンが好き→初めて気付かされた。けものフレンズ2の典型的な雑さの一例なんだけど、雑にやられるの確かにかわいいかも。

リョコウバトとキュルルは同族家族)がいなくて(かばんさんはノーカン?)寂しいもの仲間って視点もなるほどと思った。キュルルが旅を続けるならリョコウバトさん仲間にしてもいいんじゃないかと思ったけど、雑な脚本からイエイヌ同様置いてっちゃうんだろうな。

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