はてなキーワード: のものとは
来る8月3日にいたばし花火大会が予定されているが、またあの馬鹿どもの鳴り物入りの自演を見に行くことになるのか。1年前の8月5日の夢映像が残っているからそれで充分とも
昨年は、護送車がいた場所もあったり、舟渡2丁目の馬鹿女が一斉に堤防に出て花火を見ていたという感じだったが、あのくだらん観光協会の催眠が繰り返されるだけ。
私の投げかけは透明で
池の中に投げた石がそのまま沈んで浮き上がってこないことと同じ
Xでフォロワーのポストが2013年で止まっていたことを知った時
ピンポンを押そうか迷う
私は少しずつ世界に忘れられている
15年以上前、アラサーだった自分は新人文学賞などを目指して小説を書いていた。
土日の大部分は小説を書く作業と、小説を書く人が集まる社会人講座の授業に費やしていた。
5年位は続けていたが、やめてしまった。
自分が書くべきことが次第に思いつかなくなってしまったことと、他の受講者の作品や本屋さんで売っている小説を読んでいるうちに、自分には向いていないしセンスがないことがだんだんわかってきたからだ。
ところが最近、自分のパソコンのフォルダを漁っていたらその頃の小説のpdfが出てきた。書くのをやめてばかりの頃は恥ずかしいし痛いから二度と読むまいと心に決めていたが、今の心情としては死ぬ前にあと1回位は読んでもいいかもしれない、小説の見え方も書いていた当時とは大分違うかもしれないと思い、斜め読みでもいいからとりあえず読んでみることにした。
登場人物やあらすじについては触れない。
A
小説を書いてみたいと思って社会人講座に通い始めて間もない頃に初めて書いた。原稿用紙350枚ぐらい。
登場人物の言葉遣いが汚い。直情的すぎる。登場人物の中でホモと疑われる教師がいたのだが、今の時代ではアウトすぎる表現だった。
物語の展開が都合良すぎる。
恋愛描写がくどい。多分これが、よく言われるところの、素人のおっさんが初めて書く小説にありがちな痛さかもしれない。
書いてる時には恐らく頭の中で見えていたはずのものが文字になっていないからなんのことだかわからない記述がある。
過去の知り合いを物語の中で過剰に美化している。つまり、自分の当時の人生観が未熟で甘いということだろう。
主人公がずっと目指していた目的地がいつの間にかすり替わっているのに物語中では一切理由がわからない。
親の心とかの描写が表面的すぎる。
内容をほとんど忘れていたので次の展開が読めないところは楽しみでもあった。
瑞々しい恋心みたいなのはちょっとよみがえった気がした。今よりも恋愛至上主義が強い世相の中で流されつつ抱いた渇望感みたいのを思い出した。
小説すばる新人賞に応募したが1次選考にも残らず。当時はなんで?なんで?って感じだったが(それも恐ろしいことだが)今読めば選考に残るわけないのは十分納得。
B
Aの2年後ぐらいに書いた。原稿用紙500枚。
主人公の思考、社会への目があまりにもすさんでいる。それは当時自分がそうだったことの裏返しだろう。
弱者を執拗に否定しようとする力の存在をことさら強調し絶大視しようとする描写がいくつかあって、それが自分の人間的未熟さというか卑屈さを浮き彫りにした。
犯罪のトリックが稚拙。USBメモリ紛失をでっち上げただけで大企業の情報漏えい事件発生というのは無理がある。
簡単に人が死ぬ。こんなに登場人物をたくさん殺しているのにその必然性も後片付けもないと、当時通っていた講座の講師にも指摘された。
書いた当時の10年後つまりここ最近の時代が舞台なのに、現代のキャッシュレス社会を予見できなかった。虹彩認証でコンビニで1000万円までの現金を下ろせてしまうという設定にはあまりにも無理があった。
刑事がすぐに暴言を吐き暴力を振るう設定が安直すぎる。下手をすれば職業蔑視とも受け取られかねない。
いい奴の主人公が最初のシーンだけめっちゃ嫌なやつ過ぎてその後のシーンでの性格とあまりにも整合性がつかなすぎる。
氷河期世代負け組アラサー男性の絶望感と人生をやり直しの希望みたいのは出たと思う。
当時の自分は成功したあっち側ではなく、だめなこっち側の人間なんでこっち側の怒りや絶望を描いたつもりだったのが、その描写に卑屈なところがあるため、かえってこっち側の怒りを買いそうでなおかつあっち側からは苦笑いか同情でもされそうな残念感が今も残る。
「このミス大賞」に応募して、もちろん1次選考には通過しない。当時はそんなもんか、という印象だったが、今だったら通るわけないと十分納得。
C
Bを書いた後に、今度は誰も死なない話を、なるべく心温まる話を書こうと奮起して書いた。原稿用紙350枚。
登場人物で、モデルとなる実在人物がそれまでで一番多い。そのためか痛さが際立っている。
物語の展開にAやBほどまでの唐突さはないが、それでも十分唐突。
今どき年寄りしか使わないような方言を若者世代にまで喋らせていてあまりにも無理がある。
難しい命題を掲げておいて導き出した答えがあまりにも安直で稚拙。主人公は大学生なのにこれじゃ中学生かよって感じがしてしまう。
書いている当時は見えていたものを本文に描写していない(書いた気になってる)のでなんのことかわからないシーンが一箇所あった。
主人公のイチャラブシーンがくどい。がそういうのがいい人はいるのかも知れない。ただし、人物描写に深みがないからやはり読む人が読めばつまらない。
もし登場人物のモデルとなる実在人物にこんなのを読まれたらと思うと恐ろしい。
縁あって知り合いの編集者の方に読んで頂いたところ「よいところは何一つない」と断言され、大沢在昌の小説入門のような書籍で勉強することを真剣に勧められた。(一通り読んでみたが実践にまで及ばず自分の血肉とはならなかった)
小説すばる新人賞に応募し、もちろん1次選考に通過しなかった。当時の印象としては、やっぱそうだよなって感じだった。
D
Cを書いてから2、3年後に、通っていた講座の課題として書いた。原稿用紙100枚。
書くことがなくて無理やりひねり出した感が強く出てしまっている。
既存の小説のシーンを堂々とパクっている(ある小説で、土砂を積んだダンプカーが横転して人が生き埋めになるのを見て笑う男のシーンがある)
書いている当時頭に思い浮かべていたシーンと実際に書かれた描写とでまだギャップがある。
(全体を通して…)
これは弥助問題の元ネタ論文でも何でもない可能性が高いので,論文をちゃんと読んでください。
っていうか,こういったテーマについては,藤田みどり『アフリカ「発見」――日本におけるアフリカ像の変遷』(岩波書店,2005年)っていう研究書がちゃんと出ているので,ネット上でかしましい皆様におかれてはまずはそういった文献もあたってみてください(ちなみに,この研究書のもとになった博士論文は国立国会図書館デジタルコレクションで読めます)。
注をよく見てみましょう。おや? 日本語の文献が引用されていませんね。日本語の文献を引用せずに日本史研究ができるんでしょうか? これは問題ではないのですか?
はい,問題ありません。なぜならこれは,タイトル「アジア人と黒人のあいだでの人種と人種観の利用――日系・アフリカ系アメリカ人の場合」からも分かるように,日本史の論文ではなくアフリカ系アメリカ人を主題にした論文だからです。
これはどう読んでも,アメリカの黒人の日本人観および日系人との関わりについてカリフォルニアを中心に調査した論文,つまりはアメリカ黒人の歴史に関する論文であって,ロックリー氏や岡氏がこれを読んでいないと断言することはできませんが(誰しも専門分野外の本や論文を読むことだってあるでしょう),わざわざこれを「元ネタ」にするなどということはとうていあり得そうもないことです。彼らがこの論文を参考にして立論しているのでは? などというのは,馬の心肺機能に関する研究が『ウマ娘 プリティーダービー』を参考にしているのでは? と言っているようなものです。ジャンル違いすぎるわ! あとドリームジャーニー引けなくて凹むわ! っていうか今回のLoHは千直だから荒れそうって言ったの誰だよ! ふつうに安定して英雄譚取れたから拍子抜けしたわ!
こういうときは注を見て,どんな文献に基づいてこの話をしてるのか? っていうのをチェックするんですよ。弥助が出てくる部分の出典は,第一にMichael Cooper, comp. They Came to Japan: An Anthology of European Reports on Japan, 1543-1640 (Berkeley: University of California Press, 1965)っていう本の66ページで,これはまあ当時のヨーロッパ人が日本について書いたものをまとめて英訳した,っていうやつですから,多分日本語でも同じコンセプトの本はあると思うのでそれを探せばいいでしょう。第二は,Gary P. Leupp, Images of Black People in Late Mediaeval and Early Modern Japan, 1543-1900, Japan Forum 7, no.1 (1995)っていう論文で,ペイウォールの向こうに行ければ読めます(https://doi.org/10.1080/09555809508721524)。要するに,著者のデイヴィド・ライス氏(カリフォルニア大学バークレー校所属)は日本語読めないので,英訳された史料や英語で書かれた論文を典拠にして,本題に入る前のマクラとして弥助についてちょろっと書いたということでしょう。
仮に彼が日本史の研究者なら日本語を読めないのは問題外ですが,論文の内容から察するにあくまでアメリカ黒人史の研究者なので,それならまあ日本語の論文読んでないのも仕方ないかなという感じ。なんだろう,アーサー王伝説そのものについて研究するなら,古い時代の英語とかウェールズ語とかの史料が読めないといけないけど,「日本人がどんなふうにアーサー王伝説を受容したか」という研究なら,『Fate/stay night』が読めれば十分で,アーサー王については日本語の本を参考にしてても構わないじゃないですか。この論文もそんな感じです。
なので,ふつうの日本中世史研究者が,この論文を典拠として用いることはまずないです。だって普通に考えて,こんなの典拠にならないっしょ? 中世ヨーロッパ史の研究者が論拠として『Fate』を参考にするなんてあり得ると思います? そりゃ絶対あり得ないとは言えないけど,そういう蓋然性が薄い推測をわざわざするならもっと直接的な証拠(本の中でこの論文を引用してるとか)を持ってきてもらわないと……
(もちろん,最近は中世ヨーロッパ史の研究者が日本におけるヨーロッパ表象の研究に手を出していたりするので,そういう研究で『Fate』を史料として用いるのは全然あり得るっていうかもうやってる人はいたはずなんですが。そのへんの研究動向は,たとえばhttps://doi.org/10.34382/00003197とかhttps://doi.org/10.34382/00003198とかの論文を読んでもろて……あ,話がズレた)
この論文,表象の研究としてはまあ手堅いので,弥助論争に巻き込まれて変な受け止められ方をするのは気の毒だと思いました。ただそれはそれとして,日系サイドの話もアフリカ系の新聞に基づいて書かれているきらいがあるので,論文のタイトルから「アジア人」「日系」を外して黒人についての論文だと明確化するか,あるいは日系人についてもちゃんと彼らの出してた新聞を読み込んで「日系から見たアフリカ系」を調査しないとダメなんじゃないかなぁ,とは思います。まあ,当時の日系人が出してた新聞って日本語で書かれたやつがいっぱいあるので,単純に読めないのかもしれませんが,だったらなおさら「これは2つのマイノリティについての話です(キリッ」と謳うんじゃなくて,「これはあくまで黒人史の話でっせ」という断りを入れた方がよいような。日系人の歴史は黒人史の添え物とちゃうねんで。
ちゃんと読むっていうのは,この論文のテーマは何で,どういう史料を使っていて,という,基本的なことを確かめながら読むことです。そうすれば,どれが話のマクラに過ぎず,どれが本題なのか,っていうのがわかって,「アメリカ黒人史の論文が日本中世史研究者の元ネタだったんだよ!」なんていうアホな主張をすることもなかったはずなので。
それはお風呂に入らないこと。
お風呂に入らないことは普通は不衛生でよくないこととされて忌避されています。
ですが最近の若い子たちの間ではお風呂に入らないことが良しとされているのです。
それはいったい何故なのでしょうか?
お風呂に入らない女の子に一家言を持つオタクに聞いて見ました。
嘘偽りのない本音を聞けました。
「従来はお風呂に入らない不衛生なことはカードゲームを嗜む男性らしさとされていました。しかしこれは女性は身綺麗でなければならない、男性はそれを行わなくても良いとする性差別です。なので、お風呂に入らない不衛生さは男性だけのものじゃない、女性も汚く臭くあって良いのだ、そういう若い世代の非常に前向きな活動を応援したいです。私たちの会は応援のために、女性限定のトレーディングカードゲームの大会を開くことで、お風呂に入らない女性が集まる場を作っています」
なるほど、私も無意識のうちに男性は臭い、女性は良い匂いがするという差別をしていたかもしれません。
女性も臭くていい、衛生的でなくていい、無駄毛を剃らなくていい、そういう価値観を学ぶことができました。
「いや無駄毛は剃れよ」
剃りません。
「脇毛とか陰毛とかは無駄じゃないから良いけど、足毛腕毛の類はちょっと違うかなあって」
一緒です。
そもそも、オタクの性的興奮のためにお風呂に入らないわけじゃないので、関係ないですから、あなたが理解できるとかできないとか。
そうでなくやりたいけど出来ないのであれば一緒にやれる方法を協力して模索したいです。
僕は無駄毛ボーボーで風呂に入ってない不衛生で臭い女性の方が好きなので、僕のためにそうして欲しいです」
きんもー。オタク君一人に好かれても嬉しくないのでどうでもいいです。
以上、洗髪はした方がいいと思いました。
もうすぐ誕生日を迎えて33歳が終わるので、いい機会だと思って平成初期生まれである自分のロマンス観の奥底に眠る作品について、水面まで引っ張り上げて雑語りしてみた。なお性別は男。
GL:これ
ガールズラブと項目を立てておいてなんだけど、実は未だによくわからない概念(もしかして期待して読みに来たかもしれない人がいたらゴメンなさい)。とりあえず自分のステートオブジアートとして率直な気持ちを残したいと思う。
BLの方で書いたように、筆者は昔からティーン向けの少女漫画や少女小説を摂取していたので、(少)女同士の関係性は友情(たまに愛憎)のものとしてプリセットされていた。なので女と女の距離が近くても「ああそういう感情ね」として頭の中の知っている感覚にラベルを振り分けていた。そこに特別な名前を付けることはなかった。ただ「友情・親愛」と。
その後、オタクとして成長すると共に、だんだんと百合という概念が男オタクの間に伸長してきたが、百合市場が出来上がるのを横目に眺めるだけで、自分自身がどうこうということはなかった。
覚えている限りだと、高校生の時(2006年くらい?)にオタク同級生の間で少女同士の関係性を題材にした漫画だったかラノベが友人の男オタクの間で流行っていたと思う。なんだっけ……4コマ漫画で……メガネの女子の眼の前で授業机の中から大量の煮凝りがぬぽって落ちるシーンだけは覚えているんだけど……。当時は百合という言葉は使っていなかった気がするけど、可愛い女の子同士がいちゃいちゃしているのがいいんだ、みたいなことを言っていた気がする。自分はそれに対して、特に思う感情はなかった。いや、逆に今更?という感情だったかも。なぜならば既にその場所は訪れたことがあったから。
自分が初めて少女同士の恋愛にも似た感情のやりとりを意識したのは、小説だった。図書館で借りてきたとある作家の小説で読んだS(エス)といううら若き乙女同士の関係。女学校に通う少女同士の疑似恋愛。そこにあったのは上辺は花畑を舞う蝶のように煌めき美しいが、内側に潜ると内蔵のようなヌメついた湿った感情だった。疑似恋愛、嫉妬、そして混じる疑似ではない気持ち。
そんな作品を読んできていたので、かわいい子とかわいい子がかわいいことをしている、みたいな作品に喜んでいるオタ友がどうにも幼く見えてしかたがなかった。
そうして百合とかGLとはあまり仲良くないまま、女同士の関係は友情というフォルダに入れて今の年齢まできたのだけど…………ただ……心の中で唯一引っかかっている、消化できなかった少女同士の関係があった(過去形)。それが恩田陸の小説「蛇行する川のほとり」に出てくる若い女子高生二人の関係性だ。
タイトル | 蛇行する川のほとり |
作者 | 恩田陸 |
本作は、高校美術部に所属する女子部員たちが、野外音楽堂で行う演劇の背景美術を仕上げるために夏休みに川のほとりにある合宿を行うというシーンから始まる。(一応)主人公の毬子は憧れの美術部の先輩である香澄さんに合宿に誘われ、有頂天で彼女が主催する合宿に参加する。本来ならば年頃の少女たちの楽しいお泊り会となるはずだったのだが、香澄さんをはじめとする他の参加者は、彼女に何かを企んでいるような、隠しているような態度を取る。次第にただの楽しい合宿ではないことが分かってきたころ、毬子本人が忘れていた幼い頃にあった事件が浮かび上がり彼女の過去を照らしてくる。そして過去を失い、少女は大人になる。
本作のあとがきで、作者の恩田陸は「私が感じていた『少女たち』を封じ込めたいと想って書いた」と記している。その言葉の通り、本作には様々な「少女」が登場する。まだ大人と子供の奇跡の狭間をうつろう毬子、過去を持たない完成された香澄、彼女の相棒で天才肌の絵描き芳野、一足先に大人へと羽化した真魚子。4つの章を通じて彼女たちは多様な顔を見せる。無垢でいながらも自分でも把握していない秘密を握っている毬子、どこまでも独立して半身の芳野にすら内心を明かさない香澄、優れた美術家の観察眼で本質を見抜きながらも最も大切な自分の中の香澄への気持ちに気付いていない芳野、そしてとある事件がきっかけでその輪に無理やり入れられた真魚子(まおこ)。章ごとに語り手が代わり、一つの側面の形質は、語り手へと姿を変えてると主観となる。
本作には、登場人物のうちに公式に女女カップルと呼べる組み合わせが存在する。香澄と芳野だ。常に二人で行動し、二人で一日を過ごし、どこでも二人の世界を作る。互いに互いを引き立て合うようなお似合いの二人。しかし二人は望んで一緒にいるわけではない。過去を共有してしまって、もはや離れられないのだ。お互いに過去という鎖を結びあってしまったと言っても良い。しかし、少なくとも芳野の方は、共に鎖を結びあった相手が香澄で良かったと思っている。
門外漢の自分が考えるに、多分世の中のGL?百合?好きは、芳野編を大いに好むと思う。そこで繰り広げられるのは、互いに誰よりも近く、親密で、そしてお互いに内面の99%まで理解しているのに、その残りの1%が、相手への愛が本当にそこにあるのか分からないという愛の物語だ。芳野編の、今まで無意識に避けてきた香澄の肖像画を描くことで、自分の中の気持ちを形作るという展開はとても美しいものがあると思う。
ただ、自分はこの二人の関係性は処理出来ていた、と思う。友情、親愛、そして強い愛情と。自分が最も咀嚼できなかったのはもう一つの組み合わせ、毬子と真魚子の方だった。
同級生の中でも子供っぽい毬子と、級友に先駆け一足先に大人になってしまった真魚子。恋愛面でもお子様な毬子と既に大学生の恋人がいる真魚子。正反対の二人は対極に位置するからか、親友同士であった。香澄と芳野という二人と比べると、一生離れずに共にある彼女たちに対し、高校生の間は親友でも卒業したら普通に進路が離れ疎遠になり、それでもたまに会ってお茶をする、というような関係だろう。仲良しで大好きだけど、互いに混じり合う程に近いわけでもなく、恋人よりも好きというわけでもない。そう、それだけなら十分に理解できたんだ。
物語の後半、とある事情により毬子の代わりに真魚子が合宿に参加することになる。自分が一番よくわからなかったのがそこだった。毬子が事情により参加できなくなるのは分かる、でもあんな事態になったとは言え、真魚子が嫌っていた香澄たちのところに単身乗り込むようなことをするのか、と。だって毬子と異なり彼女にはなんにも過去の事件に因縁が無い。だからいくら毬子に頼まれたからって、わざわざ事態を究明するために乗り込む必要はなく、ほとぼりが冷めるまで、物語が閉じるまで放っておけばいい。しかし、彼女は乗り込んだのだ。
この機序がずっと咀嚼できていなかったのだけど、最近、もしかし自分の考えは順序が逆であるかもしれないと気が付いた。頼みを受けて乗り込まねばならないほど、本当は彼女にとって、親友は本当に大切な存在だったのだ、と。誰よりも冷静で頭が切れる真魚子であっても、いや毬子の親友の彼女だからこそ動かざるを得なかったのだと。その時、すとん、と腑に落ちた音がした気がした。
香澄と芳野の唯一無二の分かち難い強固な結びつきとはまた違った、同級生の親友というどこにでもある女子高生の毬子と真魚子の結びつきも、それはそれで一つの思春期の素朴な輝かしい感情の頂点なのだと。
対象者の遺伝子を読み取り、その先祖が生きていた時代をVR上で再現するというものだ
初代の主人公は著名なアサシンの子孫であり、彼は実験台にされて先祖であるアサシンの記憶を追体験することになった
現実のように生々しい光景のため、アニムス利用者もまたアサシンの如き殺人技能を取得することができる
アニムスはシリーズが進むうちに進化していき、古代人の遺体から遺伝子情報を読み取ることで、血縁者でなくても当時を再現できるようになった
しかしこれは情報から組み立てて作った仮想世界であり、完全に過去を再現できているわけではない
バグが発生し、当時には存在しないはずのものや、実際とは違うものは出てくることもある
大きなバグによって、現実にありえない神話に出てくるような巨大なクリーチャーが出現することもある
またこの世界はSFである一方でファンタジーでもあるので、実際にその当時にクリーチャーが存在していたよ設定の場合もある
エジプトの巨大アヌビスはバグで、ギリシャのメドゥーサは現実に存在した設定っぽい
遺体からVRする場合はその人物が特に強く関心を持っていたものがクローズアップされるのだろう、マップ内で場所によっては季節がバラバラで花も雪も見られることがある
これは「時代考証的におかしいだろ」という部分への言い訳のような設定でもある
話題となっているシャドウズ以前にも、うっかりミスによる変な描写や、ちゃんと調べたら地味すぎたので脚色して当時存在しない建造物を表現したことがあった
アサクリシャドウズにも現代編(過去世界をVRで見ている現代人の視点)はあるそうだ
弥助とナオエのW主人公ということは、一人の現代人が両方の遺体などから遺伝情報を読み取るパターンかもしれない
桜と柿と稲が同居するシーンは、異邦人である弥助が日本に来て見たそれらを印象深く思っていたからアニムス上では同時に再現されたのかもしれない
アサクリにはゲーム本編以外にもソシャゲや本などの外伝があり、それによれば2013年の現代日本ではアサシン教団は大阪のヤクザを乗っ取って隠れ蓑にして活動している
10年以上前の話なんだけど、友人のOがひょんなきっかけであるテレビ番組に出る事になった
Oはどちらかと言えば今で言う所のチー牛タイプ
友達として付き合う分には普通に気の優しい良い奴だったけど、異性からはモテるタイプでは無かった
何でそんなOがテレビに…と思ってたけど(本人も「何で(沢山いたサークルメンバーの中から選ばれたのが)俺なんだろ?」なんて言ってたけど)
撮影が終わった後のOの落ち込み具合と、実際に放送された番組で理由は判明した
今で言う非モテのキモオタを弄って嘲笑う、という趣旨の内容だった
明らかにキャラ作りを超えて弄る(虐める)行為に「手慣れている」様なグラビアアイドルだかモデルだかやあまり売れて無さそうな芸人らに徹底的に愚弄されていた
今だったら大炎上だし、当時ですら掲示板の一部の片隅では少し話題になってた
今まで男女問わず見せていた気遣いや優しさが異性相手には無くなり、明らかに女性不審と憎悪を拗らせて敵意を見せる様になった
そんなOに対し「世間はあんなクソ女ばかりじゃないよ」なんて励ましてたけど
例のテレビの件で近寄ってきた女も居て、その殆どがわざわざOをからかいに来た様な女達ばかりだったこともあり
遂にOは完全に壊れた
女性への憎悪をむき出しにする様になり、彼の周囲からは人々が離れていった
あれから何年も経ったけど、Oに恋人が出来たとか結婚した、なんて話は当然聞いた事がない
そんなOの名前を久々に見かけたのは、大学の同級生が「これ、Oじゃないか?」とシェアしてきた、ある事件の犯人としてのニュース記事だった…
自分の知る限り、元のOはさえないタイプかも知れないけど、真面目で心優しく親切な人間だった
そんなOが、あの番組をきっかけに、完全にブッ壊れたミソジニー男になってしまった
まるでイジメ被害者が歪んで加害者になっていく経緯そのものだった
「他人に優しくない人は他人から優しくされるわけがない」みたいな言葉があり
「だから弱者男性は他人に優しく無いから異性から相手にされないんだよ!」と弱者男性差別を肯定する論調で使われているけれど
女性からあそこまで悪意をぶつけられ、優しくされなかった人間が、女性に優しく出来るわけないだろって今でも思う
その気持ちに名前をつけるなら慎重にやれ。できればあんまり深刻でない名前をつけろ。なんなら「嫌悪感」ってのも過剰に深刻だし、間違った命名かもしれない。
つけた名前が間違っていても、今後は同種の感情をその名前のものとして認識するようになる。そうなったらもう以前の自分とは変わってしまう。最悪の場合手のつけられない怪物のようになってしまうかもしれない。
名前をつけずに済むならそれが一番いい。そういう些事に脳のリソースなんか割かずに全部忘れてしまって、アホになって生きたほうが人生楽しいんだよ。
非難をした女性黒人ジャーナリストに対して、人種差別主義者であるという批判も寄せられている。
参考になったコメントの中に、彼女に限らず、アメリカのジャーナリストは、自分たちの「正義」に基づいた物語を押しつけ、それを批判するものに人種差別主義者のレッテルを貼る傾向があると説明があった。このコメントの投稿者は、こうした非難の背景にあるDEIの思想そのものが、現代の植民地主義、帝国主義に他ならないと論評していた。
今批判されてるのは「SV界隈のキチガイがお出ししてくるゴミ生成AI」なんだから、別にAI全般、生成AI一般は進めていいんじゃね? AI分野そのものが否定されてる訳じゃない。
あと気になったのは市立小学校であるにも関わらず、校庭は小学生のもの、と断言する声が多かったこと。
そりゃ女性には狩猟時代から続くと言われる井戸端会議文化があるからな
もちろん個人差はあるが男は基本的には一匹狼で女性は集団を作りたい人が多い
男同士で打ち解けるのはスポーツや仕事などなにかの目標を一緒に成し遂げるためとかの理由が必要
男で女性並みにコミュニケーションが潤滑な人は女姉妹に囲まれて育ったとか
ブコメを見ると誤解なども多いようなので私からの視点を共有したい。
結論からいうと、デイトレードは一部の人間は勝てる。これは運ではない。
買いと売りのバランスの文を目視で測り一定の利益が出たところで利益を確定するだけだ。
先の記事どおり市場には化け物やHFTのBOTが存在しており、これらに勝つことは容易ではない。
そのため、カモが集まる銘柄を毎日探す努力が必要となる。直近でいえば三菱重工などが適切であった。
言葉にすると「情動的なトレードが多く発生する場で甘いトレードの差分を受益する」というのがデイトレードだ。
もちろん巨大資本のランダムウォーカーに轢き殺されることもあるが、その時はすぐに損切りすればトータルではプラスになる。
パチンコの期待値とまったく同じ考え方で、適切なトレードをすることによって勝てる。
よく株価は決算の内容などファンダメンタルズによって決まると思っている人がいるが、それは完全に間違っている。
株価を直接的に決めている要素は「市場参加者の心理」であり、その他のファンダメンタルズや地合いなどの要素はそのさらに1層下にある。
好決算が出ても、出尽くしや実際の株価変動を見て市場参加者が売却したいと思えば株価はどこまでも下がる。
これを理解しているかどうかが株式市場で勝てるようになる第一歩となる。
デイトレードにも共通するが、今買ってる人がどんな気持ちで何故買っているのか、
今売っている人がどんな気持ちで何故売っているのか、そこに感情が入ってしまっていないかを考え続けることが必要となる。
これまで記述した「市場参加者の心理」を踏まえて株価を毎日観測すると、株価の天井と底を高確率で当てることが可能となる。
「今その銘柄を見ている全員が今後も上がると思っている状況」が天井であり、
「今その銘柄を見ている全員が今後も下がると思っている状況」が底である。
つまり極度の楽観を観測したところで売り、極度の絶望を観測したところで買えばいいだけなのだ。
これは数年の私ですら得られた能力なので、敏腕トレーダーのほとんどがこの技術を身に着けていると思ってまず間違いない。
上記以外にもその時々のトレンドがある。例えば最近でいえばチャートが綺麗な銘柄が上がるトレンドなどがある。
この手のトレンドは時間が経過すればするほどそれに気づき、タダ乗りしようとする人が増えていき「甘いトレード」に変容する。
そしてトレンドが変わっていく。
そのため今のトレンドを常に掴み、考え続けることが必要となる。
ここまで株価の変動とそれを構成する大事な要素について語ってきた。
上記をしっかり理解し、毎日株価の変動を確認し市場参加者の心理を考え続けることによって株価の変動を高確率で当て続けることが可能となる。
株価変動の予想をもとに自分のお金をBETし続けること、これが出来る人が本当に少ない。難しい。
特に昨今では市場心理を理解しているHFTのロボットなどが大きく揺さぶってくる。
レバレッジをかけた取引などではこの揺さぶりの心理的な影響が何倍にも膨らむため、
多くの人は評価額のマイナス域で安定を取った損切りを確定させてしまい、負ける。
これに対抗できるのは最初からメンタルが壊れた人間くらいのものだ。
「資金が半分になるということを現実的・具体的に想像したうえで、それでも良い資金を投資に回す」
ということになるだろう。
氷河期世代がネットでやってきた事をリアルタイムで見て、その後どうなったかも見てる事
これを学んだから世代叩きを嫌う人が多い傾向にあるけど、もっと考えてみたら
今の男女対立で凶暴化する陣営を見て距離を取ることに思い至るべきなんだよね
だという仮説を立ててみた。以前の都知事選挙における外山の演説のフレーズを石丸に置き換えてみた。
なお、外山恒一の政見放送は長くなるから,下記を見てほしい。政見放送には2種類あるから、どちらも見逃さないように。
▪️YouTube
https://youtu.be/P0Omi6wnqsQ?si=FoVjK0pDgE9zZ-ny
▪️書き起こし
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid265.html
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・改革なんて無駄だと思っている。政治改革だとか何とか改革とかには一切興味がない。こんな国はもう滅ぶしかないと思っている。
・多数派の「ヤツら」同士で決めた多数決は、我々にとってのものではない。「ヤツら」は我々のことを聞く気なんかない。
・選挙で何かが変わることはないと思っている。
歴史学とは歴史学者を名乗る反日が証拠もなく捏造した歴史を庶民に押し付ける学者ごっこするためのものである
今回弥助騒動に現れた学者が普通の日本人に味方しなかったのはやつらが日本人の心を持たないいい年して学者ごっこで遊んでいるだけ反日だから
生意気なこと言ってねえで
桑持って畑を耕せよ
お前はただそれだけやれよ
お前はインターネットなんか使うな
お前は!!
桑を持って朝から晩まで畑を耕す!
藁の家で寝る!
毎日これをくり返せ!
役目をはたせ!
なのはそのとおり。
もろちんももろちん、低賃金でこき使ってる「オマエの代わりはいくらでもいる」系の経営者もいっぱいいーっぱい居るんだけど
保育士界隈はまだ公費補助が経営の柱じゃないみたいだけど、介護業界さんはガッチガチに固められてて厳しいみたい。
介護報酬そのものも減額されてるし、それ以外の部分で差別化して稼ぎを増やす、なんてのをできる経営はほんの一握り。
なので、介護報酬の減額で人件費UPは不可能な状況。これで人材獲得競争に競り負けてる上に、より高い方へ退職者もガンガン出る。
離職超過が定着してしまってるそうだ。
おちんぎんが多くの分野でじわじわ上がっていくのはきっと良いことだけど、その過程で削られるのは分かりやすい悪ではなくて、最低のコストで回してる社会の底の方なのかも、と思いました。
ワイ男なんだけれど、時々名前から女だと思われることがあってな、そういう時に嫌だなーと思うからワイの性自認男なんだろうな。
当時は町内会が小学校入学時にいろいろとプレゼントしてくれたんだけれど、そのプレゼントがピンクだったか赤だったかで (当時、赤やピンクは女子の色) なんか自分が否定されたような気分になったものだった。親を通して抗議して、男の子らしい黒とか青とかのに変えてもらった。
いろんなところから参加してくる習い事の合同合宿で、受付で部屋番号を告げられるシステムだったのだが、部屋に行ったら女子しかいなかったとかも結構ショックだったな。
その部屋にいた先輩 (女) のアドバイスを受けて、本部にその旨を伝えて、部屋を変えてもらった。
ドキドキしたり好感を抱いたりする相手はふっくらとした同じかちょっと上くらいの歳の女性ばかりだったから、性指向は女性だったんだろうな。
多分、性自認はどちらにカテゴライズされることに納得感があるかだと思う。
その文化におけるステレオタイプをどれくらい受容できるかは多少はあると思うけれど、あまりそれにこだわるといけないのかなって思う。
かつては車は男のものって感じだったけれど、今は女のレーサーも評論家も見るしな。
かつては短髪は男のものだったけれど、今は短髪の女性もたまに見る。
かつては女はスカートだったけれど、ズボンをはいた女も普通に見るしな。
時代が変わればステレオタイプとされるものは変わるので、それになじめないからと言って一生変えられないスティグマを打ち込むのはいかれてるってことを言いたいだけ。