はてなキーワード: 人物とは
今の日本社会は終わってる。
普通、働けば景気が良くなるように思えるが、現代社会は非常に複雑になっていてそう単純にいかない。
ここで言う生産とは労働によって生み出される物やサービスのこと。
良い社会を維持するためにはこの生産と消費のバランスが非常に重要になる。
当然働くことによって生産が増える。
そしてこの生産と消費のバランスが悪くなることによって不景気を引き起こす。
まず社会全体の生産量と消費量がほぼ同じ状態について考えたい。
生産量と消費量が同じ、これはつまり市場で売られている物の量と買われている物の量が同じということ。
物を作れば作った分だけ売れるという企業からしたら夢のような状態になる。
労働者は生産者である一方、消費者でもあるので稼いだ給料は消費に回る。
実はこれが非常に困った状態になる。
確かに消費者からすればありがたいことではあるが生産者側からすれば苦しい状態だ。
生産量が消費量より多いということは、売られている物の量よりも買われている物の量の方が少ないということになる。
販売している商品が売れなければ当然その分は損失になってしまう。
まず一つ目が生産を減らすこと。
そして2つ目が商品を売るためのマーケティング活動を行うこと。
例えば商品の価格を下げたり、品質を高めたり、宣伝を行うなどがある。
これらによって企業の利益は大幅に減少し、それに伴って労働者の給料も下がる。
商品の価格が下がったり、品質が上がるため消費者からしたら恩恵を受けることができる。
しかし消費者もまた労働者であって、商品が売れないことにより給料が下げられるため、お金がない。
せっかく市場に質のいい商品が出回っていても、お金がないのであれば買うことができない。
これによりますます商品は売れなくなり、企業の利益は減っていく。
生産量と消費量の差が大きくなるほど景気が悪くなると話したが、では現代社会はどうなっているのかというと圧倒的に生産が消費を上回っている状況にある。
昔は全て手作業で仕事をしていたのに対して、今は大部分が機械による生産を行っている。
現代の生産能力は昔に比べたら何十倍、何百倍といったレベルで向上している。
それにも関わらず労働時間が昔と比べてもほとんど変わっていない。
日本で言うなら一般的な会社員は週に40時間、それに加えてさらに残業までしている。
それどころか下手したら増えている。
これは非常におかしなことだ。
生産能力が向上したのだからその分労働時間が減らなければおかしい。
それは現代社会では人は働かなくては生きていくことができないからだろう。
生きていくためにはお金が必要で、お金を得るためには働く必要がある。
成人していてまだ年金をもらえる年齢に達していなければ働かなくては生きていけない。
生活保護という手段があるものの、若くて健康な人間では申請が通らない。
それに生活保護を受給している人に対して世間からの風当たりは強い。
親に養ってもらえば働かなくても生きていくことはできるものの、そのような無職・ニートと呼ばれる生き方は世間から非常に軽蔑される傾向にある。
だから少なくとも日本においては経済面、世間体的に働かざるをえない。
そしてこの働かなくては生きていけないという状態が非常にまずい問題を生み出している。
前述したように生産と消費の差が大きくなるほど景気は悪化してしまう。
現代はこの異常なまでの生産により世界中で不景気を引き起こしている。
生産が多いのが問題なのだから本当は生産を減らさなくてはいけない。
しかし働かなくては生きていけない、仕事は尊いものだといった価値観によりみんな長い時間働き、生産を増やし続けてしまっている。
現代のような供給過剰な時代においては、働けば働くほど景気は悪くなり、労働環境も悪化してしまう。
だから現代において働くこと、正確には長時間働くことは社会を蝕む害悪行為でしかない。
生産量が消費量を超過していることが問題なら消費を増やせば良いんじゃないか?
そもそも生産が増えればその分消費も増えるんじゃないか?といった意見もあると思う。
実際に日本の政治家や資本家達は消費を増やそうと必死になっている。
しかし残念ながら消費がこれ以上増えることは絶対にありえない。
食料を例にすると、人が一日に食べられる量は限られている。
食料の生産が増えたところで人間の食べられる限界量が変わるわけではない。
食糧難が当たり前であった昔であれば、確かに生産が増えれば食べる量も増えたかもしれない。
しかし現代は肥満に悩んでいる人が多いことからもわかるように、ほとんどの人が食欲の限界まで腹を満たしている。
つまりいくら食料の生産が増えたところで消費が増えることはない。
例えば町に大きなレストランが出来て、その店がものすごい繁盛したとする。
これだけ見ると消費が増えているように思えるが、実際には増えていない。
このレストランに来た人達はレストランで食事をした分、食事の回数が一回減っているわけである。
もしこのレストランがなかったとしたら、その人達は自宅や他の飲食店で食事をしていたはずだ。
もし自宅で食事をしていたとしたら、そのための食材をスーパーなどで購入していることになる。
つまりこのレストランができたことによって、他の飲食店や食品販売店の売上が減っている。
新しい店ができて儲かったとしても、その分他の店の売上が減るだけであって、全体としては一切消費は増えていない。
これは他の業種にも言えることで、例えばある人物が旅行に行って、その旅先でたくさん買い物をしたとする。
するとその地域では消費が増えて、お店の売上が増える。
しかしその地域に旅行している間、その人が元々住んでいる地域では消費をしないことになる。
もし旅行に行っていなかったとしたら、その人は地元で消費をしていたはずである。
仮にずっと家の中にいたとしても、ゲームをするでも本を読むでもテレビを見るでもスマホをいじるでも、何かしらの消費活動をしていたはずだ。
だから結局どこかの地域や企業の消費が増えたとしても、別のどこかの消費が減っているだけであって、全体としての消費は全く増えていない。
昔はとにかく生産能力が低かったので、圧倒的に物が足りていなかった。
生きるのに必要な食料を生産するのに精一杯で、他の物を作る余裕がなかった。
だから技術が向上して生産が増えれば、それに伴って消費も増加した。
しかし産業革命以降の爆発的な生産能力の向上により、ついに生産量が人々の需要を超えてしまった。
そうなるといくら生産が増えたところで、消費が増えることはなくなる。
ここまで消費が増えることはないと書いてきたが、実は増えないどころか消費は今後減り続ける。
電話、パソコン、ゲーム、カメラ、音楽プレーヤー、地図、本、辞書、新聞。
たった一台のスマートフォンでこれら全ての代わりが出来てしまう。
実際にスマートフォンの登場により多くの産業の消費が落ち込んだ。
もちろんスマーフォンの登場により増加した消費もあるとは思うが、明らかに減少した消費の方が多いだろう。
つまり壊れにくくなっていて、そうなると買い換える頻度が減り、消費が減少することになる。
これらの要因によって消費は増えないどころか、今後減り続ける傾向にある。
この「消費が増えることはない」という事実は経済対策をする上で絶対に頭に入れておかなくてはならないことだ。
しかし日本の政治家達はこの事実に気づいているのか気づいていないのかは不明であるが、とにかく消費を増やすことしか頭にない。
絶対に増えることのない消費を増やすために莫大な税金と労働力を投入している。
このままの状態が続くと社会はどんどん歪になり、やがて崩壊してしまう。
しかし消費が増えることはない。
現代はこの不足している消費を世界中の企業が奪い合っている状況だ。
そしてこの消費の奪い合いはあまりに無意味で、不毛としか言いようがない。
わかりやすいように一つ例え話をする。
A社は現状を打開するためにコストカットを行って商品の価格を下げ、積極的な宣伝活動を行った。
しかしこうなると困るのがA社と同じ食品を扱っているB社である。
A社の商品が人気になったことにより、B社の商品は売れなくなってしまった。
このままではまずいのでB社はA社と同じように商品の価格を下げ、積極的な宣伝活動を行った。
これによりB社は売上を元に戻すことができた。
こうなると結局元の状況に戻ってしまい、A社とB社が行ったマーケティングが完全に無駄なものになっている。
価格を下げるために従業員の給料を抑えたり、宣伝するためにも多額の費用がかかる。
しかしこれだけコストをかけたにも関わらず何の成果も出ていない。
このような無意味で不毛な競争が世界中のあらゆる企業間で行われている。
顧客に対して過剰なサービスを要求したり、長時間の残業をさせたり。
そして一番悲しいことがこれらの働きにって労働者が報われることはなく、それどころかさらに悪い状況に陥ってしまう。
社会全体として消費が増えない以上、一つの企業が努力により売上を増やしたとしても、その分他の企業の売上が落ちる。
売上の落ちた企業は社員にさらに厳しい労働を要求するようになる。
製品やサービスの質が高くなるので、当然消費者からすれば恩恵を受けることができる。
多くの労働者は企業間競争により給料を下げられ、長時間労働を強いられているため、金も時間もない。
せっかく質の良い商品が売られていても、それを買うための金と時間がない。
そしてこのまま何の策も打たないとさらに状況は悪化していき、取り返しのつかないことになってしまう。
ここまで現代社会の問題点について話したので、ここからは改善策についにて話したい。
そして消費が増えることは絶対にない。
生産を減らすということはつまり労働力を減らすということである。
今の日本でも法定労働時間が決まっており、週に40時間までしか働けないと法律で決まっている。
しかしこの週40時間労働というのが現代の生産能力を考えると異常なほどに多い。
現代は科学の進歩により昔とは比べ物にならない生産能力を持っている。
これがどれくらい異常なことか言うまでもない。
これに加えて日本人の多くは長時間の残業をしているのだから目も当てられない。
これは非常に難しい問題なので正確には言えないが、現代の生産能力を考えれば半分の20時間にしても多いと思う。
週に10~15時間くらいの労働時間が適正なんじゃないかと思う。
そんな短い労働時間で社会が回るはずがない、と思われるかもしれないが何とかなるんじゃないかと思う。
その理由については後述する。
2つ目の方法が毎月国民全員に定額の給付金を与えて、働かなくても生きていける環境を作ること。
この方法は近年話題になっているベーシックインカムという制度だ。
例えば月6万円などの人間がギリギリ生きていける金額を毎月国民全員に支給する。
これによって人々は生きていくために無理して働かなくてもよくなる。
これらの策によって労働力が減り、生産と消費のバランスが緩和され、景気が良くなり、労働環境も改善されることが期待できる。
https://anond.hatelabo.jp/20220527000129
に続く。
driving_hikkey 特高警察やその流れを引き継ぐ入管での残虐行為を見ればこれは決してよその国の他人事ではない。
maruX これを読んで中国との戦争に考えが及ぶのは暴力の図式に囚われている。ウイグル問題は外交で働きかけるべきだが、日本の入管が外国人を苛め抜いていることについても考えるべきでしょう。
toro-chan 日本人が驚くのが分からない。入管で同じことをしてるだろうに。中国人に聞けば同じ言い訳が返ってくる。ウイグル人は優遇されてる、犯罪者だ、怖いから隔離すべき。国も右翼も反省しない点、改善されない点も同じ。
fukuoka_sakuma なるほど、日本の入国管理局と同じかまだマシな扱いやなと。ウイグル人よりも本邦の入管収容者の方が酷い扱い受けてるとしか思えなかった。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/xinjiangpolicefiles/special/
fukuoka_sakuma 再教育施設ならまだ良いのでは?日本の入管はオーバーステイ如きで外国人を長期勾留した上に適切な医療も受けさせず収容者の虐待で何人も人殺してる訳で、差別をするな、と厳命してる中共の方がよほど人権意識高い。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20220524/k00/00m/030/019000c
fukuoka_sakuma 、釣りアカウントかと思ったがTwitterの @sakuma_fukuoka と同一人物だとすればそうじゃないのかも。2013年からあるアカウント
コロナ禍がビジネスに影響を与え続け、その期間が2年を超える中で、大きな変化といえるものにデジタル化の加速という流れがあります。それまで耳なじみの薄かった「DX」という言葉が経営の常識となり、自社の製品・サービスをネット上で販売するECビジネスやオンライン営業はもはやB2C、B2Bを問わぬ重要戦術となっています。従業員一人ひとりの身近な部分では、テレワークやオンライン会議などコロナ前には想像もできなかった働き方が、あっという間に浸透しました。
この流れは業務を根本から見直すことにも直結しており、特に業界的な変革期と昨今のデジタル化の急流が交錯した業種において激しい動きが目立っています。その最たるものが金融業界でしょう。日本経済新聞の調査によれば、銀行、証券、保険などの大手13社で3年以内にDXを活用した業務削減に伴う人員削減は4万人に達する見込みであり、うち明確に配置転換が見込まれる人員は7000人余りとのこと。それ以外の3万人超については、「未定」というあいまいな状況に置かれています。ただ、日本の労働法規上、自然減以外の余剰人員を解雇することは難しく、どのように再活用していくかは大きな課題となっている形です。
余剰人員再活用のキーワードとして2021年辺りからよく耳にするようになったのが、「リスキリング」という言葉です。「リスキリング」とは英語にすると「reskilling」、すなわちスキルを身につけるという意味の「skilling」に「再度」を意味する「re」を付けたもので、「職業能力の再開発、再教育」という意味で使われています。広義には時代に合わせたスキルの再取得を意味しますが、今の時代に限定した狭義では「DX化に対応できるスキルの再取得」という意味で使われていることが多いのではないでしょうか。
先の金融業界の例で申し上げれば、りそなホールディングスでは行員1700人を3~6カ月の研修期間を経て事業承継分野やDX関連業務に配置替えすることを計画しているようです。第一生命保険では全社員をデジタル人材として再教育し、社内のIT資格取得を義務付けるといいます。SMBC日興証券でも、22年度中に社員の約1割にあたる900人をデジタル人材として再教育の上、再活用する考えを公表しています。
急速なデジタル化の流れで、金融機関におけるリアル店舗網の縮小は加速度的に進んでいます。同時にフィンテックの活用をはじめ金融機関のビジネスモデルは根底から変革を求められており、今後を見通した変革の設計図面に対して人材面での対応が追い付いていないのが実情であると映ります。
このようにコロナ禍と業務見直しの過渡期が重なった金融機関ではかなり激しい動きが見て取れますが、他の業界でも時代の趨勢(すうせい)はいかんともしがたく、早晩ほぼ例外なく同じような流れにのまれるのは間違いのないでしょう。そうなると気になるのは、長年同じことの繰り返しに慣れてきた中高年社員はリスキリングに直面してどうなるのか、という問いかけです。
パーソル総合研究所が20年に発表した調査で既に、国内企業約800社の約36%が「シニア社員の能力・スキル不足が課題になっている」と回答しており、5年以内に課題になりそうだと回答した企業まで含めると、70%近くにまでのぼっています。中高年社員をいかにして取り残さないかという「守りのリスキリング」は、見逃せない問題になってきているのです。「人生100年時代」といわれ定年延長や再雇用が既定路線になりつつある中で、企業経営は新たな重たい課題を抱えることになったといえそうです。
出所:パーソル総合研究所「企業のシニア人材マネジメントに関する実態調査」
人事戦略の変革はリスキリングだけではなく、採用面にも大きな動きが出ています。スキルを持った人材を積極的に中途採用する動きです。
やはりこの領域でもビジネスモデル転換を急ぐ金融機関が先行している感は強く、3メガバンクで22年度中の中途採用が前年比8割増という計画が打ち出されています。一方で新卒採用は3メガバンク合計で前年の5000人から1100人へ大幅な減少傾向にあります。リアルの非効率な業務がデジタルに置き換わること、そして今後も進むDX化で実践的なスキルが重視されることなど、この傾向は他業種にも広がることが大いに考えられるでしょう。そうなると最終的には、世界的に見てガラパゴスな終身雇用を前提とした日本企業の採用は、近い将来いよいよ終焉を迎えることになるのではないかと思うのです。
そもそも長期雇用を前提としたわが国では、チーム型優先での組織運営にふさわしいゼネラリスト養成を目指した「メンバーシップ型雇用」を採用の基本としてきました。この「メンバーシップ型雇用」は結果的に、基礎学力を一つの物差しとした学歴優先採用を醸成することとなり、特に大手企業は一人でも多くの有名大学卒業生を採用したいという方針で長年採用競争を繰り広げてきました。
しかしスキル重視の中途採用が人材補充の有力手段となり新卒採用が減ることになれば、新卒採用についてもこの傾向にシフトしていくのは当然の流れです。すなわち、日本的「メンバーシップ型雇用」が「ジョブ型雇用」に取って代わられるのは時間の問題であると思われるのです。
今後、採用においては、終身雇用を背景とした長期的展望でゼネラリストを育てるという人材方針が改められることで、入社後に想定されるジョブにハマるかハマらないかが、その合否を決定する最大のポイントになるでしょう。そうなれば新卒採用は、「人物重視」といったあいまいな表現に“化粧”された学歴偏重に陥ることなく、応募者がその時点でスキルとして何を身につけているか、あるいは企業が要求するスキルを持っているか否かが問われることになるはずです。とりわけ語学力やプログラミングをはじめとしたITリテラシーなどが、新規採用の際の基本資質として問われることになるとみています。
われわれ世代が就職活動をしていた40年ほど前は、銀行などの募集要件に当たり前のように「大卒文系男子」という狭い枠がハメられていました。しかもこの「大卒」の裏には、「できれば有名大学」という言葉が明らかに潜んでもいました。だからこそ、教育ママや教育パパはわが子を中学から有名校に入れて、有名大学に進学させることこそ親の務めと思ってきた節があります。
しかし気が付けばダイバーシティー、ジェンダー平等が常識となった今、企業の募集要項に「文系」「男子」などを付することが非常識な時代となり、もはや「大卒」を掲げることすら常識に適わなくなる日は近いと感じさせられます。筆者の住む街の路上で夜な夜な繰り広げられる塾通い送り迎えの駐車車列渋滞を見るにつけ、教育ママ、教育パパの教育目線もそろそろ変えないといけないのではないかと感じる次第です。
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2205/26/news042.html
厳しめ作品に原作名タグを付けるなとか付けても問題無いはずだとかの話題
まず腐だろうが夢だろうが厳しめだろうが全部原作崩壊してんのは一緒で同じ土俵なんだから誰も原作名タグ付けないのが一番平和
エロとかグロとかリョナとかってまあ大きな理由にあたる年齢制限云々を差し引いても隠れるべきとされてると思うんだけど、全部同じレベルの特殊性癖だからコソコソしとけばいい
腐とか夢とかは比較的(十分だとは思わないけど)「○○腐」「○○夢」みたいな派生タグで隔離が図られてるだけほんの少しマシ寄りなのかもしれない
厳しめも「○○厳しめ」みたいなタグ作って内輪で盛り上がってる分には別に誰にも何も言われないんじゃないって思った
過程で見かけた「設定を借りてるんだから原作名タグを付けないなんて逆に失礼!」というダイナミック論はやべーけど正直面白い
子供のありもしない悪評広められてる親にその悪評の発信源たる人物が「でもお家の名前ごと広めてあげてるんだから失礼では無いですよね?」って言ったら許してもらえると思ったんかな
実際文句言ってんの親じゃなくてその子供可愛がってるだけの赤の他人だから例えとしては不適切か
あとそれは置いといて「厳しめってどのくらい厳しめなの?」と思って読んでみたら中身は「自分にとって気に食わないキャラクターに正義の鉄槌を下します!常識が盾です!えいえい!スッキリした!」みたいな感じで概ねヘイト創作だった
5月20日にディズニー+で配信された作品のネタバレ有り感想になる。
未見の方は注意してほしい。
前提として、本作は1989年に放送された「チップとデールの大作戦 レスキュー・レンジャーズ」の続編でもリブートでもない。
・現実の人間とアニメのキャラクターが同じ世界に共存しているという「ロジャー・ラビット」風の世界観
・「各アニメ作品はキャラクター達が演じて作られたもの」であり、その舞台裏を描くという「シュガー・ラッシュ」等と似た構造
・チップとデールもお馴染みの高い声やコミカルな動きは演技であり、主演作の「レスキュー・レンジャーズ」終了から時間が経って二人の人気や知名度が落ちている、というところから物語が始まる
以上のような挑戦的な設定ながらストーリーは王道で楽しめたし、ディズニー内外のアニメキャラが大量にカメオ出演するため画面の中から自分が知っているキャラを探すという「シュガー・ラッシュ」や「レディ・プレイヤー1」のような楽しみ方もできる愉快なお祭り作品だった。
しかし、出演キャラや元作品へのリスペクトに欠けると感じる描写が多々あった。
中でも受け入れ難かったのがラスボスに据えられた「ピーター・パン」の描かれ方だ。
永遠の少年であるはずのピーターが中年になり(彼はただの役者なので普通に歳を取る)悪事に手を染めているというだけで元作品のファンにはショッキングだが、メインはそこではない。
彼は「ピーター・パン」への出演で栄光を掴むが、思春期への成長に伴い役者として上手くいかなくなり、犯罪の道へ進む。
これは、「ピーター・パン」の声優であった実在の人物「ボビー・ドリスコール」の生涯を元にしている。
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=2031989
ボビーは子役として「ピーター・パン」を含む様々なディズニー作品に出演するが、成長して子役でなくなるとディズニーから突如契約を打ち切られ、薬物中毒になり31歳の若さでホームレスとして亡くなる。
これを話のネタとして使い、あまつさえ悪役の人生と重ねて描くのは、あまりにもむごいと感じた。
作中のピーター・パンは何の改心もせず、救いもなく、下衆のまま物語は終わる。
これをよりによってボビーの人生を狂わせた張本人であるディズニーがやるのか?
自社の作品に命を吹き込んでくれた実在の人間に対して、感謝やリスペクトといったものが一切感じられなかった。
本作には「デザイン変更前の(キモいと言われた方の)実写版ソニック」がそこそこ出番のあるキャラクターとして登場しており、彼はこの作品で新たに命を授けてもらったように感じられた。そこには救いがあった。
どうして自社のキャラクターに、それを演じてくれた人にその救いを与えてやれなかったのか。
>そういうこと喚き散らしてる人に限ってグッズも円盤も買わない配信サービスで観ただけ、みたいな別に大したことない人多いイメージある
>〇〇はいいぞ…!っていう人とかもそう
>本当にやばいやつは何も言わずに大金つぎ込んでるし特にそれに対して他人に何かを言ったりしない気がする
>これなんなんだろうね
https://anond.hatelabo.jp/20220426103956#
別にそんな事はないが金を使わない上にそれを公言するヤツはおつむがヤベー傾向にあると思う
というか原作未読・未視聴とかゲーム未プレイをアピールして2次創作しているヤツすらもいて
いよいよ極まって来たなって思ってる
アニメ・ゲーム・マンガに金をぶっ込むのは、キャバやVに金をブチ込むのと実質的に変わらない面もあるので
金をぶっ込む余裕がある=まとも(常識がある) とはならないが、
少なくともそこそこの金を得る手段(社会性)は持っている人物である
それを正面から放棄している人物が集まるオタク界隈は本当に弱者の寄合所ですわ
> 売春婦多いよ。アニメ・ゲーム・マンガに金をぶっ込むのは、ホストに突っ込んでるのと同じ。
https://anond.hatelabo.jp/20220426104103#
ジャニオタ、バンギャ、2.5次元追っかけ、ソシャゲ廃人、BL狂いには夜職は多いが、
オタク趣味は男女共にそれなりお金がある人たちの趣味だったのですよ
女にしたって古くからPC自作含めて触ってる、DTPオペやデザイナー、CADオペ、3DCG(住宅パースなど)が多かった
そういう職では無くても当時高額だったPCを入手出来る手段を持つ職や実家の人が多かった
今やそれがまったく期待できないのがオタク界隈ですな
そこそこの金を得る手段(社会性)を正面から放棄するあたおかが集まるのがオタク界隈。弱者の寄合所
私はAから話を聞き、内容や納期、意義や目的、条件など必要な情報を得ようとあれこれ尋ねる。
「それはどういうことですか?」
「なぜですか?」
「これはこういうことですか?」
しかし実際にこれらの問いに対して具体的かつ明確な答えが返ってきたことはない。
BからAに対してはそういった情報の提示があったのかどうかまでは知る由もないが、なかったとしても、Aは私のように尋ねたりはしなかったのだろうか。
AがBから言われたことを上から下に、右から左に受け流すだけの無責任な丸投げをして終わるようなレベルにとどまる人物なら、率直に言って失望を禁じ得ないが、これが無責任な丸投げでは決してないとすれば、私からの問いには何も答えられなくとも、Bには何も尋ねなくとも的確にその指示命令に答えることができるAには畏怖の念を禁じ得ない。
ダメだよ、僕たちには感情的になってつい言ってしまうとか拗ねるとか感情的になって短絡的な反応をするとか理解できないんだからさ
本当にしてほしいことや本当に思ってることを感情を取り除いて言わないと…
咄嗟にイライラしたりして会いたくないなんて言ったら、それがこの人物が熟考して2人にとって最善だと客観的合理的に判断した結果だとしか受け取れないので、もう二度と会いに来なくなるよ?
他の人が好きだからごめんと言われたら
そうなんだ2人にとっての合理的結論は導けたね!これからは友人として仲良くしよう
って納得されてしまうし、一度納得したら気持ちも合理的に切り替わるのでおしまいだよ?いくら好きでもお互いの意思の合致のない関係を続ける合理性がないからね
我々相手には素直にならないと全部本気にされるよ
例えば「性犯罪の疑惑がかかった映画監督」とか、ふつうに被害を告発した女性が全面的に正しいことを言っているかのように決めつけ、ものすごい初手の段階から性犯罪が事実と確定したような叩きが頻発していて、それなんらかの間違いがあったらどうすんの?ってどうしても思ってしまう。百歩譲ってここで間違いがあったら自分はそのことを全力で後悔し謝罪し拡散し続ける覚悟をもってやってる、というわけでもなさそうだし、仮にまあそうだとしても「一方の人間からの話があっただけで、初期の段階からもう一方を犯人と決めつけ叩く」が正しいとは思えん。
なんかこう、自分が間違っている側について、無辜の人間を糾弾してしまっている可能性があるから怖いとか、一瞬たりとも思うタイミングがないんだろうか?
【戦国こぼれ話】惨殺された兄弟姉妹。なぜ豊臣秀吉は厳しい処罰を下したのか?
豊臣秀吉像。時代劇では明るくひょうきんな秀吉だが、実は残酷な男だった。(写真:アフロ)
現在でも隠し子なるものが存在する。隠し子がいた場合、亡くなった親の遺産をめぐって争うことは決して珍しいことではない。非常に厄介な問題である。
豊臣秀吉といえば、弟の秀長などが有名であるが、知られざる兄弟姉妹が突然姿をあらわしたことがある。秀吉はどのように対処したのだろうか。
秀吉の兄弟姉妹については、以下に示す興味深い史料がある(フロイス『日本史』第12章より)。
1人の若者が、いずれも美々しく豪華な衣裳をまとった2、30人の身分の高い武士を従えて、大坂の政庁(大坂城)に現れるという出来事があった。この若者は伊勢の国から来たのであり、関白(秀吉)の実の兄弟と自称し、同人を知る多くの人がそれを確信していた。
時期は、秀吉が関白に就任した翌々年の天正15年(1587)のことだ(秀吉は51歳)。この若者に関しては他に史料がないものの、秀吉と兄弟であることを周囲の人々が確信していたとの記述は、興味深い。
秀吉は実の兄弟と称する若者に対して、いかなる対応をしたのだろうか。
関白(秀吉)は、傲慢、尊大、否それ以上の軽蔑の念をこめて、自らの母(大政所)に対し、かの人物を息子として知っているかどうか、そして息子として認めるかどうかと問い質した。彼女(大政所)はその男を息子として認知することを恥じたので、デウスに対する恐れも抱かず、正義のなんたるやも知らぬ身とて、苛酷にも彼の申し立てを否定し、人非人的に、そのような者を生んだ覚えはないと言い渡した。
若者が秀吉と面会した際に、何らかの身分的な保証を求めた可能性がある。秀吉があえて母・大政所に若者のことを問うたのは、当然「知らない」と言わせるためだったに違いない。
大政所も秀吉との暗黙の了解のうちに、「若者のことを知らない」と答えた。大政所も後ろめたいところがあり、何かと不都合なことがあったのであろう。
■残酷な結末
母・大政所が知らないとなれば、若者は権力者・秀吉に嘘をついたので、苛酷な運命が待ち受けていた。続けて、同史料を引用しよう。
その言葉(大政所が知らないと言ったこと)を言い終えるか終えないうちに、件の若者は従者ともども捕縛され、関白(秀吉)の面前で斬首され、それらの首は棒に刺され、都への街道筋に曝された。このように関白(秀吉)は己の肉親者や血族の者すら(己に不都合とあれば)許しはしなかったのである。
母の大政所には、3回以上の結婚歴があったといわれている。貧しい大政所が生活を維持するためには、仕方がなかったのだろう。大政所は不特定な男性と関係を持ったのは確実で、当時としては珍しいことでなかったのかもしれない。
■姿をあらわした姉妹
無残な最期を遂げたのは、この若者だけではなかった。次に、史料を挙げておこう(フロイス『日本史』第12章より)。
その(若者が殺されてから)後3、4ヵ月を経、関白(秀吉)は、尾張の国に他に(自分の)姉妹がいて、貧しい農民であるらしいことを耳にした。そこで彼は己の血統が賤しいことを打ち消そうとし、姉妹として認め(それ相応の)待遇をするからと言い、当人が望みもせぬのに彼女を都へ召喚するように命じた。
「己の血統が賤しいことを打ち消そう」としたとあるのは、血のつながりのない兄弟姉妹を根絶やしにすることを意味する。秀吉は自分の知らないところで、血縁者を名乗る人物を消したかったのだ。
■惨殺された姉妹
さらに話は続く。
その哀れな女は、使者の悪意と欺瞞に気が付かず、天からの良運と幸福が授けられたものと思いこみ、できるだけの準備をし、幾人かの身内の婦人たちに伴われて(都に)出向いた。(しかるに)その姉妹は、入京するやいなやただちに捕縛され、他の婦人たちもことごとく無惨にも斬首されてしまった。
この姉妹はあまり気乗りがしなかったようであるが、最終的には使者の甘言にそそのかされたようである。秀吉に会うためにふさわしい服装を整え、来るべき輝かしい未来を信じて入洛したのであった。しかし、結果は史料にあるとおり、無残なものであった。おそらく首は晒しものにされたに違いない。
秀吉といえば、明るくひょうきんなイメージがあるが、実は大変残酷で怖い男だったようだ。https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20201110-00207204
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/honeshabri.hatenablog.com/entry/request_to_hatebu
「idコールのせいで殺人事件が起きた」という意見が支持されてるが、逆だろうに。
意見には意見をぶつけ、悪口には悪口を言い合ってた方が健全だ。
Hagexは生前、余裕しゃくしゃくの態度で相手を揶揄していた。
もう相手は言い返してこれないだろう、と。事実言い返せない状況だった。
そんな状況は殺意を抱くのに十分すぎる。
「えっ、それだけで?」と思った奴は、人間の感情について感覚がマヒしている。
それだけで殺意は容易に芽生える。
なので殺人事件に対しては「そりゃそーだ」という感想しかなかった。
そう思っていたが、未だに何が憎悪を煽るのかわかってなさそうで呆れた。
相反する2つの意見がそれぞれ多数支持を集めるとして、スターつけてるのが同一人物でもない限り「ダブスタ」とは言わないと思うよ。
「はてな民」とか「ブクマ民」とかは党派掲げて集まってるわけではなく、単に同じサービス使ってるだけの全然考え方違う人間の集合体なんだからいろんな意見があって当たり前だろ
「いろんな意見があるんだな」「賛否あるんだな」って感じるのが正常。「ダブスタ」って認知持つのはぶっちゃけ何か検査受けたほうがいい特性ありそう。
外部の人間である夫に、所有権があるみたいになってるの、おかしくないか。
…なんか最近、似た事件あったな、と思って頭をひねってたんだけど、さっき思い出した。
役所がミスで5千万円近くのカネを、ひとりの口座に振り込んで、結局ギャンブルに使い込まれちゃった。
あれって、振り込まれた時点では「自分の口座にあるのに自分に所有権があるものではない」って状態になってたわけじゃん。だから正当な拒否方法は、銀行に通告することだった。事態を知った銀行には、役所と話し合ってカネを戻したりする責任が生まれる。
夫の責任で、生命の種を埋め込まれた結果、自分の体の中に自分の所有でないものが入り込んでしまった。
同じように考えると… 自分の所有ではない胎児をどうにかするには、夫と話し合って胎児の処分を決める必要がある、となってしまう。
昔、テキストサイト作っている奴で、単なるコピーもしくはリンク集作ってるだけのクセに、自分が世の中動かしてるって馬鹿なスタンスで周りを見下す奴が居たのね
で、そいつは会話した内容や、教えたニュース記事のアドレスは、情報提供元としての俺とかの名前を出さず、自分の手柄だって言う感じでアップする奴なんだ
特徴的な声優の誕生日に、その人物の誕生日が掲載されてないサイトのアドレス送ったり
そしたら、案の定「声優〇〇様、お誕生日おめでとう」って言ってアドレス貼ってるんだけど、誕生日記載がない自分が教えたサイトのアドレス貼ってる
で、翌年に誕生日で無い日に、メールフォームから別の人間になりすまし(いわゆるネット系オフ会で知り合った人間のふりをすればいいだけ)して、誕生日おめでとうって話題をソース提供したら、案の定そのアドレスリンクして誕生日おめでとうってデタラメ記事載せてた
昔、テキストサイト作っている奴で、単なるコピーもしくはリンク集作ってるだけのクセに、自分が世の中動かしてるって馬鹿なスタンスで周りを見下す奴が居たのね
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特徴的な声優の誕生日に、その人物の誕生日が掲載されてないサイトのアドレス送ったり
そしたら、案の定「声優〇〇様、お誕生日おめでとう」って言ってアドレス貼ってるんだけど、誕生日記載がない自分が教えたサイトのアドレス貼ってる
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で、そいつは会話した内容や、教えたニュース記事のアドレスは、情報提供元としての俺とかの名前を出さず、自分の手柄だって言う感じでアップする奴なんだ
特徴的な声優の誕生日に、その人物の誕生日が掲載されてないサイトのアドレス送ったり
そしたら、案の定「声優〇〇様、お誕生日おめでとう」って言ってアドレス貼ってるんだけど、誕生日記載がない自分が教えたサイトのアドレス貼ってる
で、翌年に誕生日で無い日に、メールフォームから別の人間になりすまし(いわゆるネット系オフ会で知り合った人間のふりをすればいいだけ)して、誕生日おめでとうって話題をソース提供したら、案の定そのアドレスリンクして誕生日おめでとうってデタラメ記事載せてた
『私は私だけの世界を生きており、そこに他者は存在しない』(世界と生はひとつである、私は私の世界である、主体が存在しなければまた世界も存在しない)が
受け入れられないってなぜなの・・・?
時間は存在しない(複数の出来事同士の相互作用、世界は物ではなく、実際には出来事の集まりであり、複数の出来事の関係性を、時間のように感じている)事からも
例えばウィトゲンシュタインの下記↓とか『?!』ってならない・・・よね・・?
▼ 追記: