はてなキーワード: 人物とは
「誰かが考える何かの価値は、その人物の固有の考えとして独立している」
とはいうけど、大衆にとってその人の価値とは、能力ではなく、見かけと話し方で決まってるようなものだし、
「自分の価値は自分で決める」がそこまでずれてるかと言えば怪しいところ。
中身とか見てないから、中身ありますでごまかせることのほうが多いし。
他人はそもそも人のことなんて見てないんだから、自分の価値なんて他人は知らないって思うわ。
様々な人の評価を聞くたびに、年を取るたびに思う。
こういうの最近はやってるのかここ30年ぐらいよく聞くけどさ。
「自分が思う自分の価値は自分で決められる」の「(自分が思う)」をカッコ書きにして使い続けるうちに「(他人が思う)自分の価値」さえも自分で決められるみたいになってきてるよね。
確かに強気で言い放てばハッタリ効かせられる時があったり、卑屈になることでその自信のなさに見合った評価に下がっちゃうことはあるけどさ。
でも基本的には「誰かが考える何かの価値は、その人物の固有の考えとして独立している」でしかないと思うんだよな。
社会の中において自分にどういう値付けをされようとしているのかの方針は決められても、それを社会に押し付けきれるかって言うと違うしさ。
そもそも価値っていう需要と供給で決まって上下があるようなもので自分を考えるのが違うっていうか。
「自分にとって自分は一人しか居ないから、自分にとっての自分は価値という概念から独立して、地球一つや宇宙一つよりも重いとさえ言える。でもそれは自分にとってそうであるというだけだ」ぐらいの感じが正解じゃねっていう。
なんかさ、短い言い切りの言葉で雑に優しい言葉をかければ騙せるって言うGTP的な詭弁だよね。
気に食わんわ。
無責任なんだよな。
「身体が男(女)でも性自認が女(男)ならその人物は女(男)として扱え」とか言う割に、身体は男で性自認は女という人が女湯に浸かってて捕まったニュースには「昔からいる変態」「本当のトランスの人はそんなことしない」とか言ってる人たちってなんなの?
捕まった人が嘘ついてる証拠でもあるの?
証拠がないなら君たちが言うべきは「彼女はれっきとした女性なので逮捕なんて間違ってる」とかそういう主張だと思うんだけど、なんでいい加減な憶測で知らんぷりするの?
マジでなんで??
リベラルとしては知性主義、科学主義の立場に立って、科学者らと協力して、科学的にも政治的にも誤った主張を巻き散らす人物―トキシックな害悪―を食い止めたいと願っている。
ただ、これまでのところ1例も起きてはいないのだが、もしわれわれの主張と食い違う事実が科学者らの研究成果の中から出て来たらどうすればよいのだろうか。
とり越苦労であればよいのがだが、万が一のことを考えておきたいわ。
科学的には誤りだが政治的には正しい主張、あるいは科学的には正しいが政治的には誤りである主張というものが、存在するとはこれまでつゆも想定してこなかった。
https://yonosuke.net/eguchi/archives/16363で「キモくて金のないおっさん」という言葉を久々に目にし、かつて別のところで書いたこんな文章を思い出して再掲。
http://wezz-y.com/archives/50640
この文章があまりに酷いので、誰か一人くらいどこが酷いのか指摘しておくべきじゃないかと思いました。北村紗衣さんという方の文章で、書籍にも収録されています。
「キモくて金のないおっさん」というネット用語がある。キモくて金のないおっさんには誰も注目しないじゃないか、という異議申し立てのための言葉である。しかし、文学はずっと昔から「キモくて金のないおっさん」を扱ってきたので、その中から特に2作を紹介する。というのが上記文章の趣旨です。
取り上げられているのはスタインベックの『二十日鼠と人間」とチェーホフの『ワーニャおじさん』です。ここで問題にしたいのは『ワーニャおじさん』の方です。ワーニャおじさんを「キモくて金のないおっさん」の一例として扱うのはシンプルに間違っているし、そもそも作品を誤った形で紹介しているし、チェーホフにも『ワーニャおじさん』にも「キモくて金のないおっさん」にも失礼だ、というのが私が以下言いたいことです。
「キモくて金のないおっさん」という、そもそも定義が曖昧というか、明確な定義なんかあるわけない用語の意味するところには不毛なので立ち入りません。シンプルに「キモい」「金がない」「おっさん」という3つの要件にわけ、それに『ワーニャ伯父さん』の主人公ワーニャさんがあてはまるかのみを問題にしてみます。
まず、作中年齢47歳のワーニャが「おっさん」にあてはまること、これは間違いありません。
一方、上記文章中でも一応断りはありますが、ワーニャが「金がない」は明らかに無理があります。理由は単純、ワーニャは19世紀末ロシアの地主階級の人間で、実際に相応の広さの地所を管理し、その地所からの上がりで食っている人間だからです。地主階級の中では決して経済的に恵まれている状況ではないことは作中で描写されていますが、社会全体の中で見れば断じて「金がない」人間ではない。
ある頃までの文学は基本的にブルジョアのものであり、働かなくても食っていける人間しか出てこない作品も多いのは事実です。その中で比べれば、ワーニャは相対的には「金がない」かもしれない。でも、チェーホフという人は自身が3代前まで農奴の身分で、父親は破産し、短編小説を書き出したのも家族を養うため、作家兼医師として働きづめの人生を送り、作品の題材の多くをロシアの普通の人々に求めた作家でした。日々働いてもぎりぎりの生活しか送れない人を主人公に据えた短編小説をたくさん書いていますし、そもそも『ワーニャおじさん』中にも地所で働く下層階級民の姿はきちんと描写されています。チェーホフの描いた世界全体の中でも、『ワーニャおじさん』という作品単体中でも、ワーニャは断じて「金がない」人間ではないのです。チェーホフはそのような意図でワーニャを描いていないし、実際、作品中でもそのような存在とはなっていない。まずこの点で、ワーニャが「キモくて金のないおっさん」だというのは明らかに間違っています。ワーニャが「金のないおっさん」なら、港区の地主の息子だって「金のないおっさん」になってしまいます。
「金がない」点については、北村さんも文中で触れているのでまあいいです(ただし、なぜ「金がある」人間を「金がない」扱いするのかという説明にはなっていません。「金がある」人間は「金がない」人間ではありません。)。はるかに酷いのはワーニャを「キモい」にあてはまる存在だとしている点です。先に断っておくと、チェーホフは多くの作品で美点を見出しがたい人間を取り上げ、そのような人物に対しても何らかの同情の念を読者に起こさせてきた、これは事実だと思います。でも、『ワーニャおじさん』におけるワーニャはそもそもそのような人物ではない。単純に言ってしまえば、ワーニャは「キモい」人物としては描かれていないのです。
文章中、ワーニャが「キモい」理由として具体的に取り上げられているのは、実は「エレーナに10年前(20年前は誤記です)に求婚していれば、エレーナは今ごろ俺の妻だったかもしれないのに…」と妄想していたという1点だけです。北村さん自ら書いていますが、そもそもこれは妄想であり独白です。この後、確かにワーニャは人妻であるエレーナに愛を告白しますが、別に上記のような妄想を彼女にぶつけたわけではありません。北村さんがワーニャより上等な人間であるとするアーストロフだって、エレーナに告白します。妄想を膨らませた程度のことで「いわゆるキモいおっさんであることを残酷なまでに明らかにしています」は作品の解釈として明らかに飛躍があり過ぎます。
ワーニャが「キモい」存在であることの根拠を一箇所しか上げないかわりに、北村さんの文章は、随所随所に読者がワーニャに対し「キモい」という感情を抱いてしまうような主観的な描写をはさんできます。
北村さんはワーニャの結末について、「財産のことで逆上して大騒ぎ」したと書きます。確かに、ワーニャと教授の間で財産について争いが起こり、ワーニャは教授をピストルで撃とうとします。でも、「逆上して大騒ぎ」という書き方は、普通に読めばワーニャが自身に理のないことで勝手に騒いだかののような書き方です。でも、そうでしょうか。
事実関係を整理すると、問題の地所の物語時点での名義人は、教授と先妻の間の娘であり、ワーニャの姪であるソーニャです。ソーニャは地所を母(教授の先妻)から相続しました。ロシアの法制度に詳しいわけではありませんが、多くの国の例に漏れず、その頃のロシアも夫婦別産制だったはずです。つまり、婚姻期間中も土地は妻の単独名義であり、妻が亡くなった際にも配偶者には相続の権利はない。相続権があるのは子だけです。要は、教授は地所についてはまったくの無権利者なのです。
もともと地所を購入したのは先妻の父(ソーニャの祖父)で、娘が教授のところに嫁ぐ際の持参金として土地を購入しました。土地の購入代金を一括で支払うのは厳しかったので、一部は借金しました。その借金はワーニャが土地の上がりから返済しました。地所の管理は、現在はワーニャとソーニャが2人で行なっていますが、借金はソーニャが生まれる前のことなので、借金返済のために立ち働いたのは基本的にワーニャです。
先妻の父が死に、ワーニャの妹が土地の所有権を相続し、名実ともに妹の土地になりました。その際、ワーニャは自身の相続分を放棄し、妹に単独で相続させてあげています。その妹も亡くなり、ただ1人の子であるソーニャが相続した、という経緯です。
ソーニャの所有する地所を、ワーニャとソーニャが2人で管理し、2人は上がった利益の中から教授に長く仕送りをして、教授の生活と研究活動を支えてきました。ところが、教授は退職し、土地からの上がりも減ってきたことから、土地を売却して利益を投資に回そう、と提案してきました。そこでワーニャが怒った、というのが「逆上して大騒ぎ」の経緯です。これ、逆上でしょうか?
教授は地所については無権利者です。しかも、地所に住んでいたわけでも、管理をしていたわけでもない。ただ、一方的に仕送りを受けてきただけの立場です。その人間が、利益が上がらなくなってきたからといって、独断で土地を売っぱらおうとする。ワーニャじゃなくたって怒って当然じゃないでしょうか。
しかも、「あんたの土地じゃないし、長くここに住んできた俺たちはどうなるんだ」と聞いても、教授は「そんな難しいことは分からない」ととぼけるばかりです。ピストルをぶっ放すのはやり過ぎにしても、この経緯で怒ることを「逆上して大騒ぎ」などと形容されたらたまったものではありません。
自分が誰の働きで食えてるのかもろくに考えず高等な人種のつもりの教授と、その教授を支えるため田舎で働いてきて気が付けば人生に行き詰っていたワーニャ。この構図は誰が読んでも明らかなのに、それをわざわざ「逆上して大騒ぎ」などという言葉で形容する。ワーニャに「キモい」印象を与えようという操作が露骨すぎます。
「チェーホフ全集」の後書きにこんなエピソードが書いてありました。
チェーホフの存命中、ロシアのある地方都市で『ワーニャおじさん』が上演された。その舞台では、ワーニャ役の俳優が自堕落な地主として演じ、長靴を履き、百姓風のルバーシカを着ていた。要するに田舎者のステレオタイプということでしょう。当時のロシア演劇では地主といえばそんな風に描かれるのが普通だった。それを聞いたチェーホフは怒って言った。「それじゃいけませんよ、いいですか。わたしの戯曲にはこう書いてあるのですよ。彼はすてきなネクタイをしている、って。すてきなのをですよ! ね、地主たちは、われわれやあなたがたよりもいい身なりをしているのですよ。」
このエピソードを紹介したのはメソッド演技の源流となるスタニラフスキー・システムで有名なスタニラフスキーです。スタニラフスキーは続けて書いています。「問題はネクタイではなくて、戯曲のイデーなのだ。才能ある人物のアーストロフや詩的にやさしいワーニャは片田舎の暮らしで朽ちて行くのに、鈍物の教授は首都ペテルブルグで楽しく暮らし、似たり寄ったりの連中とともにロシアを支配している。これがネクタイのト書きにこめられた意味なのだ。」(スタニラフスキー『モスクワ芸術座におけるチェーホフ』)
これでも、ワーニャは「キモい」のでしょうか?
今は人妻となっている女性との「あり得たかもしれないロマンス」を妄想する。財産のことで怒りのあまりピストルを持ち出す。自殺をたくらみ医師アーストロフのところからモルヒネを持ち出すが、見つかってしまい自殺もできない、というか多分はじめから本当にやる気はない。こういう断片だけ取り出し、著者の考えるところの「キモくて金のないおっさん」像にあてはめ、チェーホフだって「キモくて金のないおっさん」を書いていたんだと言い張る。女性観が歪んでいて、被害者意識が強く、些細なことで大騒ぎする小心者。「キモくて金のないおっさん」のことをそう考えるのは自由ですが、ワーニャおじさんはそういう作品ではありません。権威付けなのか何なのか、古典を歪めて持ち出すのは「キモくて金のないおっさん」論そのものより下品で、キモいです。
父が祖父から譲り受けた駐車場を管理していたりするので、「不動産経営」にまったく馴染みがないわけではないので、増田の苦労は多少だが共感できる。いわゆる「自分の資産の価値を下げかねない存在」になんてもちろん貸したくないよね。
って思いながら読んでて、「そういえば自分がいくつか賃貸契約を結ぶ中で、大家さんもいろいろだなと思ったりすることがあるな」と思いだしたので書いてみてもいいだろうか。
【1】
初めて一人暮らし用の賃貸契約を交わしたのは東京と千葉の境目ぐらいの場所。
大家さん宅の敷地を一部改装した感じで、大家さんの住まいのスグ隣。4階建てで12部屋ぐらい。
内見に行くときは大家さんの家をピンポンして鍵をもらうスタイルだった。
そのときに私の顔は見えるだろうから、こういうスタイルなら増田みたいに契約書出した人の見た目は知れるだろうなと思う。
1Kで2口キッチン、風呂トイレ別、クローゼットは押し入れクラスの広さ。
ベランダから大家さんのお庭の四季折々の木々が見えるのが気持ちよかった。
あまりに条件がいいので「何故こんなに安いのか」と仲介の営業さんに聞いたら「儲ける気がないんじゃないか」と言っていた笑。
確かに、2年住んだがすごくいいご夫婦でよかった。よく庭の手入れをしている様子を洗濯干しながら眺めていた。
出て行く時いろいろ間違えて、2週間ほど廊下に洗濯機置きっ放しにさせてくれないかと頼んだら快諾してくれたしね。良い人すぎる。。
強いて言うなら、隣の一人暮らしのおっさんが最初はただ親切なおっさんだったんだけど、だんだん親切が過ぎて家を出たときに同時に向こうも玄関から出てきたりしたのが若干気持ち悪かった。ナゾのオススメ本とか食べたことがないような食べものを「ぜひ」と時々くれた。
反対の隣の若いご夫婦+お子さんはある平日の早朝から「いるんでしょ?」とナゾのスーツの男がドンドン扉たたいてて怖かった。
それ1回きりしか出くわしてないけど、そのご家族はいつのまにかいなくなってた。
大家さんは良い人だったけど、もうちょっと儲ける気持ちや疑う気持ちがあってもいいかもしれない。
【2】
吉祥寺で部屋を借りようとしたときは全体的に入居条件が厳しかった。
人気エリアはそれでも人が集まるんだなあと思った覚えがある。
その中で印象に残っているのは「安定した収入のある親以外は保証人として受け付けない」物件。
ネットで見て気になったと仲介業者に見せたら「そこは大家さんがちょっと変わってる」とすぐ返ってきたので有名なのだろう笑。
当時、20代後半だった私は親がもう60代後半で働いていない(まあそもそも父親はちゃんと働いた試しがないのだけれど)ので無理だった。
学生が住む感じの印象の間取りではなかったけど、若い人しか住めないようにしてるんだろうなと思って別の物件を契約した。
【3】
若い人しか住めないナゾの限定条件で特に香ばしかったのが、妹が初めて一人暮らしをするからと一緒に不動産屋についていったときのアレだ。
間取りを見るとイイ感じに安くて、まあまあ広い。理想ではないけれど、妹の給料でもなんとかやってけそうな範囲ではなかなか好条件。
うんうん、入居条件が「20代の女性のみ」なので妹もあてはまる。
女性のみ、まあわかるわかる。女性専用マンションとかむしろ私も入りたいものね。
乗り気になっていたら仲介の営業さんが「ここはご家族でいろんなマンションをもっているんですが、ちょっと大家さんが変わってて、お会いしたら必ず挨拶をしなければいけない」みたいなことを言っていた。なるほど、礼儀正しさが求められるわけか。我々は実家のマンションの管理人さんに元気よく挨拶するタイプの姉妹なので問題なしだ。と、とりあえず内見に行ってみる。
川沿いだけの立派なマンションだった。対象の部屋はまだ入居中なので中は見ていない。
なんか、1階の駐車場スペースに大家さんがバイクで来たときに停めるためのナゾのスペースがあった。
そりゃ大家さんだもん。うんうん、物件を見に来るときもあるよね。
20代の女性のみ、大家さんが来ると必ず挨拶しなければいけない、大家さん(家族の息子にあたる40代だか50代)はバイクでしょっちゅうマンションに来て掃除とかしてる、変に安い。なぜその条件でこんなデッカイ駐車場スペースがあるのか。
が、総合点としてお姉ちゃんレーダーが言葉にできない警告音を出していたのでそこはやめさせた。
もちろん何の問題もないかもしれないけれど、営業のなんかこう「…」な含みを得た案内の仕方もやめた方がいいだろうと思う材料になった。
仲介業者の話す「大家さんが変わっている」は、向こうもあんまり積極的に連絡取りたくないタイプなのかもしれない。
もちろん、大家さん側の出している条件に見合わない客を弾くためにそう話すこともあるのだろうけれど。
都心部だと、最近はほとんど管理会社に面倒な客の対応も含めてすべて任せているところが多いから、大家さんの人物像が垣間見える瞬間もほとんどない。だからこそ、ときどきこうやってふと何かが見えると「世の中っておもしろいなあ」って思う。
ちなみに冒頭で話した私の父も、ときどきヘンテコな顧客にあたって辟易している。
車庫証明をやたらなくす若い女の子とか。やべーなと思ってたら1ヶ月もたたずにすぐ解約して消えていった。
なんか怪しいものに使われてんじゃないのか。
もう少しメディアの視聴者層とそれに向けた作り方を考えて番組を視聴した方が良いと思いますよ。
基本的にフェミニズムやフェミニストというものは保守的な思想の男児や女児には嫌われるものです。
そして、そういう人々はこの社会に多くいて、フェミニストは少ないのです。進歩的な男女は世の中の割合では少ないです。
だから番組は視聴数、視聴率を稼ぎたいのでマジョリティが楽しめるものを作る。
そうすると、反フェミニズム的な思想の持ち主が気分良くなるような番組が作られるんです。
フェミニストを名乗る愚かな人物が登場して論理的整合性もないお気持ちを並べて
中立の立場である男性に論破(この言葉嫌い)されるとスカッとするでしょう?
水戸黄門や遠山の金さんが長々とテレビで放送されてたのと一緒。
愚かな跳ね返りが成敗されたというカタルシスがある。小さな快楽だけどね。
そういうキャスティングなの。
そんなものを真に受けないためには本を読みなさい。
例のプール付き公営公園で"健全"や"卑猥"という指針が出され、この指針に定数も定量も無いなぁと感じたのだけれど、それよりも気になったのが「18歳未満のグラビア撮影を禁止にしたらどうか?」という試み的な提言をされている方が結構居るのが気になった。
ざっくりわかりやすくいうと、人物をメインの被写体として撮影することをポートレート撮影と言うのだけれど「18歳未満のグラビア撮影を禁止にしたらどうか?」を試み的に提言している人はグラビア撮影とポートレート撮影をどうやって線引きするんだろうか?
個人的におそらくは無理だと思われる。
何故ならグラビア撮影はポートレート撮影という大きなジャンルに含まれる小ジャンルであり、ポートレート撮影の近接用語は景色を撮影する風景撮影や、香水瓶や人形やガジェットなどを撮る小物撮りなどであり、ポートレート撮影というのははてな界隈で言うところの主語デカ問題だからだ。
グラビア撮影はご存知の通り、別に水着や下着、肌面積の多い女性だけを撮るというものではなく、少年青年漫画雑誌の表紙もグラビア撮影だし、露出とは真逆にライダースーツを着込んでバイクにまたがっている人物を撮影するのもバイク雑誌ではグラビア撮影である(バイク界隈のグラビア撮影には峰不二子的な方向性もあるけれど全体で言えば少数派だ。何故なら峰不二子に比肩できる女性はそう居ないから)。
いや撮り鉄のように特定の被写体が好きな連中も居るけれど、実際のところ撮り鉄が列車ばかり撮ってるのか?と言われると大半の撮り鉄は主な被写体が列車なだけで、奴らは列車の無い風景も撮っているだろうし旅先のメシも撮っているはずだ。
カメコとしてイメージしやすいアイドルの追っかけだってそうだろう。何なら筆者には妻も子も居るし、筆者の主な被写体は妻と子である。妻と子で培った撮影経験をアイドルの撮影に応用していると言っても過言ではないだろう。それくらい妻と子を撮ってる。
カメコへ共通する特徴は何なのか?と言えば、キモデブでオタクなおっさんではなくカメラと撮影の知識だろう。カメコなんだからそりゃあカメラを趣味にしていない連中よりはちょっと詳しい。
近年じゃスマホカメラの性能があがり誰も彼もが気軽に写真を撮るようになったが、女の子をより可愛らしく綺麗に撮るという点ではスマホカメラってちょっと不向きだよなという印象をカメコならば誰しもが持っているだろう。
スマホカメラのレンズはいわゆる広角レンズが大半であり、広角レンズは歪みが大きくて太って写る。標準体型がデブになり、デブはよりデブになる。それがスマホカメラのレンズだ。
世の中にはポッチャリ好きが居るというのは非常に重要な指摘だが今回はそこを問題にはしていない。今の自分よりもスマホカメラは太って見えやすいということを問題視しているのだ。
じゃあどうするべきなのか?と言えばズームするわけだ。最近のスマホカメラは多眼になっているので最も拡大できる望遠レンズを選択して撮影する。
ポイントはデジタルズームは使わないことだな。デジタルズームは単に画像ピクセルを拡大しているだけなのでレンズの歪みに影響しないので意味がない。
望遠レンズは広角レンズと比較して歪みが少ないので、痩せて写るわけではないが広角レンズにように太って写りにくい。
まだ女の子を可愛らしく綺麗に撮るポイントはある。1枚の写真へ全身を収める場合は顔を中心にではなく腰を中心に撮るのだ。
顔を中心に撮るとレンズというのは多少なりとも歪みが発生し、レンズの中央はレンズの端へ向かって歪んでいくので顔がデカくなり首より下が小さく写る。
自分の顔がデカいと悩んでいる女の子が居るとしたらレンズの中央で撮るというのは更にコンプレックスを強調する結果となるわけだ。顔はレンズの端へ持っていけ。
更に良いことがある。腰をレンズの中心に添えることで、前述した歪みから腰の部分が多少広がり相対的に上半身と下半身が細くなる。つまり小顔足長になり女性らしい身体の曲線が強調される。
ほんの少し下から煽るように腰を中心に撮影すると小顔脚長効果が更に増すぞ。
胸が小さめなのが悩み?いや一部に需要あるぞ?えっそういうの良いから大きく写す方法を教えろ?
逆に広角レンズを使え!広角レンズは歪みが大きいため、広角レンズで胸を中心に据えて顔もレンズの端に写るように近接撮影しよう。相対的に胸デカ小顔の写真が撮れる。これは逆にスマホカメラが有利だな。
ここに書いた写真撮影術を使えばマッチングアプリのプロフィール写真とかもちょっとは印象良くなるんじゃないか?需要あるか知らんけど。
カメコはこういう知識がある。撮り鉄は主な被写体が列車なのでポートレート撮影の知識がアイドルカメコと比較すると少々乏しいだろうけど、このくらいは知っている。逆に撮り鉄は雄大な自然とか真っ直ぐなものを歪み少なく真っ直ぐ撮る方法とかに詳しいぞ。
このようにカメラと撮影にちょっと詳しいヤツが疑問に思うわけだ、グラビア撮影とポートレート撮影をどうやって線引きするんだろうか?と。
何が健全で何が卑猥か?なんてポッチャリ好きや貧乳好きが居る世界で一定の線引きなんてできるわけがなく、世の中にはおそらく女性用リクルートスーツが性癖ですみたいなヤツとか、北海道とかに居そうなコートで厚着してモコモコになってる女の子良いよねとか言うヤツが必ず居る。そういう連中に取ってみればリクルートスーツもモコモコなコートのポートレート撮影も卑猥な写真になるのさ。
この世界には衣服を燃やす様子を映したアダルトビデオが存在するんだぞ?もちろん女性、というか男性を含めて人間、何なら生物は一切出てこない。本当に服が燃え上がる様子だけが淡々と流れる映像だ。ハイレベルすぎて理解が追いつかないがアダルトビデオとして実際に販売配信されている(一説には服が燃える映像がアダルトビデオとして販売されている事自体に意味があるらしい。こんにちわ宇宙猫)。
最後に蛇足だが、筆者の妻は不定期に筆者が撮影した妻自身の写真をセレクトし「これ遺影に使ってね」と言ってくる。カメコ冥利に尽きるよね。
不登校体験者のマンガがクリニックにあってたまたま読んだら一ミリも共感できなくてビビった。
小学一年生から学校が苦手な子らしく「友達が話しかけてくれない」「先生が○○してくれない」とないない尽くし。いやお前は王でも神でもないんやから自分の望みを口に出さんのに周りが先回りしていろいろやってくれるわけないやん……。しかも自分は人に話しかけられんのに友達は自分に話しかけてくれて当然と思ってるようやし。「繊細で傷つきやすい自分と違って周りの子はガサツで図太いから話しかけられるもんや」とでも思っとんのかな。新学期に不安なのは皆同じやで。「自分から話しかけてみよ」となんでならんのか。小学生当時なら無理かもしれんけどなぜそうならんかった自分への述懐がないのか不思議で仕方なかった。描く必要無いと思ったんかな。
だいたいいっつも黙ってて自分の考え言わん子なんて周りも話しかけていいか迷うやん。何も言ってないのに周りが適度に話しかけてくれるとかそれこそ「思考読まれてる?」ってビビるレベルやろ。「内気で繊細で自分からは話しかけられないけど絵が上手くて面白い子」という「ありのままの自分」を受け入れてほしいって子供にはむずいし説明要るで。口数少なくてもそういう人物として認知される恵まれた環境も存在するかもしれんけど当たり前じゃないかもな。同級生への要求レベル高すぎたかもしれんで。
親も変わってて、学校に行けない主人公にとにかくいろんな家庭教師を連れてくる。いやこんな他人連れてくる前に親が子に向き合わんのかと。マンガに描いてないだけかもしれんけど親がノータッチ過ぎてビビった。「あんたは王様でも何でもないの! 皆自分の幸せや楽しいことだけ考えて生きてるのが普通なの! あんただってジャンプが好きでいっつも絵ばっか描いとるやろ? 他の子も同じなの。あんたになんて興味ないのが普通なの。それでも仲良くなりたいならまず自分から話しかけなあかんやん。してほしいしてほしいって友達はあんたの召使いでもなんでも無いの! あんたは何ができんのよ? ジャンプの話ならできるよとか絵を描いてあげられるよとかあんたが友達にできることを考えなあかん」とか何で言わんのやろ。マジで意味わからん。
暴力や嫌がらせはもちろんアカンけど「自分は相手のために何ができんのか」「どこまでしたのか」ってことをまずは考えなあかんやん。「どうせ自分は何もできんし」って誰が決めたんや。たとえできてなくたって「必死にやろうとしてくれた」ってこと相手には伝わるよ。小学校には係とか班とか当番とかあるやろ。「自分が休んどる間それはどうなっとったんやろ。誰か代わりにやってくれたんかな? 悪かったな」とか思わんのかな。給食当番でもなんでもええから今自分ができることすればええやん。それでも嘲るような奴らならもうしゃーない、切っていい集団よ。そんな奴らの仲間になりたいとか思うだけ無駄やて。やるだけやれば諦めもつくよ。
「アンタのために存在してる人間なんて一人もおらんの! 私は親やから世話したり優しくしてるだけなの! アンタの発言にいいねしたり優しくしてくれたり手間や時間をかけてくれるのは全く当たり前じゃないの! それでもたまにそうしてくれる人がいたらそれは有り難いことやから『ありがとう』って言うんやで。友達ならまだええけど大人なら怪しいからまず疑うことや」というのが私が子供にいつも言ってること。「もちろんアンタも自分のために生きたらええで。勉強するもしないも自由や。進学せんなら養わんけどな。扶養義務は二十歳までやで」っていつも言ってる。毒親かもしれんな。
お前は世界の中心でも何でもないの。でもそのほうが楽に生きられてええやん。世界を救う義務とか重たい家業とか押し付けられてみーや、逃げたくなるだけやで。お前の言うことすることなんて誰も気にしてないの! だからこそ自由に生きていけんの。「言わなきゃ伝わらない」ってのはメリットなの。内心ダダ漏れのほうが怖いやろ。「自分なんていてもいなくてもいい」ってこんなに恵まれたことないんやで。「どこに行ってもいいし何をしても良い自由がある」ってことやで。
「どんな人間に好かれたいか」ってのもよく考えたほうがええ。「不特定多数に好かれたい」って大変やからな。有名人見ればわかるやろ? クラスの人気者になりたいなら人気者に近づいたり観察したりして人気者の努力や苦労をまずは知ることや。人気者の闇やデメリットも必ずあるで。
「僕は特別な人間なんだ。クラスの皆は僕の才能に気づいて話しかけたり気遣ったりして僕の存在を認めてくれるべきだ(僕からは話しかけないけど)」って少しでも思ってる子がおるなら自分なら説教せなアカンと思う。ただこの作者さんは漫画家になって活躍しておられるようやからやっぱり特別な才能がある人やったんやろな。でも小中学生がそれを察するのも難しかったやろなとは思うんや。イエス・キリストすら地元では「大工の子」ってバカにされててんで。この描きようではあまりにも地元の同級生が嫌な奴ばっかやったように見えてなんか気の毒に思った。私も幼稚園から浮きまくってたクチやけど配慮してほしいと思ったことなかったんや。わからんでも仕方ないやろなと思ってた。私も人のこと知る努力せんかったし、お互い様や。
学校っていう雑多な集団に馴染めん人は当然おると思うけどな、毎日学校に通ってる無神経で能天気そうに見える子にもきっと悩みはあるよ。友達になりたいならそれを知ろうとする努力も必要だったかもな。自分に嫌がらせしてきた奴らのことなんて理解する義理ないかもしれんけどさ。
最初に断っておくと、秩序を守って生きているLGBTの人たちを否定するつもりはない。
同性を好きになるのは元から自由にすればとしか思ってないし、社会の秩序を守るなら何を自称して何を着ても自由だ。
ただLGBT活動家の唱える概念に納得いかないものが多く、それをゴリ押しされることに嫌気がさしているだけだ。
LGBT活動家によれば、性別の自称は「性自認」として尊重すべきものらしいが、手術を受けて戸籍の性別を変更していないのならただの自称だろう。
自称を他人に押し付けるな。大体年齢や能力の自称が認められず、性別の自称が尊重すべきものと扱われるのがわからない。
さらに活動家の言うには「SOGIハラ」というものがあり、その中には「望まない性別での生活の強要」も含まれるらしい。
自分の望むように扱え、そうでないとハラスメントだ!ということらしい。無敵か?
変態が「自分は女扱いされたいから女子トイレを使う!止めたら差別と訴えるぞ!」と言い出す未来しか見えない。
こんなのが通るなら今から5歳を自称して子ども料金でバスに乗ってもいいだろう。止められたら「望まない年齢での生活を強要するハラスメントだ」と訴えたらよい。
こんなアホらしいことが通るわけがないと常識的に考えたらわかるだろう。なぜ性別だけはそれが通ると思うのか。
優秀な人扱いされたくともポンコツならポンコツ扱いされて、イケメン美人扱いされたくとも顔がブサイクならブサイク扱いされるのが社会だろう。
皆そうやって現実との折り合いをつけながら生きている。性別だけ自称が通ると思うなよ。
性表現というのは「見た目や言動などで表す性」らしい。服装や言動などをいちいち男の表現、女の表現と分類する考え方のようだが、余計なお世話もいいところだ。
スポーティな服を着たら男の表現と言われ化粧水を使ったら女の表現と言われるのだろうか。趣味くらい好きにさせろ一々男だ女だ分類すんなとしか思えない。
別に他人に対して男らしいとか女らしいとか思うのは自由だ。その価値観を押し付けられることにうんざりしているだけだ。
LGBT活動家は異論を唱える者は差別主義者と扱い、激しくバッシングするらしい。「性自認」に疑問を述べただけで大バッシングを受けた人もいるようだ。
我々の言い分をすべて受け入れろ、受け入れない人間は差別主義者だと言い張る集団に好感を持てと言われても無理がある。
LGBT思想のゴリ押しはマスコミの責任が大きいと思っている。LGBT法案に関しても、活動家の言い分は大々的に取り上げて反対意見はスルーするマスコミが多い。これこそ偏向報道だろう。
最近トランプに惹かれる米国人の気持ちが想像つく気がした。こんな調子で納得いかない思想をこれが正義とばかりに押しつけられたらうんざりもするだろう。
「我々はジェンダー・イデオロギーのカルトを打ち負かし、神が男性と女性という2つの性別を創造したことを再確認するつもりだ。男性が女性のスポーツでプレーすることを許さない。そうすることで、女性の尊厳が守られ、女性のスポーツそのものが救われるのだ。」
日本でもトランプ現象のようなことが起こるのを期待してしまう。マスコミが必死で叩いた人物があれよあれよという間に支持が伸びていくのを見てみたい。さぞ爽快なことだろう。
その方(図書禁止法を支持した保守的な親の権利団体の人物)は、聖書を「最もセックスにまみれた書物のひとつ」とし、近親相姦、獣姦、売春、性器切除、強姦に言及している文章を指摘しました。彼らは例のリストを含んでいました。
"聖書は...我々の新しい定義ではポルノであるため、"未成年者にとって深刻な価値を持たない "ことが間違いなくわかるだろう。このPORNを学校から追い出せ!"
こっちの記事だと若干詳しく載ってるけど真偽は知らない
https://newrepublic.com/post/173221/utah-school-district-bans-bible-vulgarity-violence
女性向けのノンフィクション漫画のアンソロジーってあるじゃん。ご近所トラブルや芸能ゴシップや塀の中ネタみたいなやつだ(ほんわら系は例外)。みんな同じ漫画家の別名義なのかってぐらい画風に個性を見出せない。でも同一のアンソロジーの中で同じ人物が別名義を使うなんて詐欺的ですらあるから別人なんだろうけど。
漫画原作の男性向けアニメの原作だって作者ごとに一目見ればこの作者だとわかる程度には絵の癖とか違いはあるよね。まあ分からん人には横槍メンゴとその他の美少女描く漫画家の絵の違いもわからんのかも知れんけどさ。
それが上記のジャンルだとほんっとうに違いがわからない。別に自分がそのジャンルを読み慣れてなくて目が肥えてないからとも思えない。
だってサムネイル自体なんか規格化されてるんだもの。だいたい赤と黒でタイトルが挿入されてる。表紙の背景も黒か赤。ときたま黄色が使われることがあるぐらいって感じか。
その理由としてああいうのは絵のタッチや独創性より内容(文字情報)がメインだからと言ってる人がいたけど、別にそれはあそこまでクローンかよと思えるほど絵の区別がつかない理由になってないよね。絵で勝負してないってことは逆に言えばどんな絵であっても読者が見てくれるかどうかには影響しないんだから、画風に「個性がない」という秩序は生じないはずだ。
なんらかの理由があって意図的に同じような画風の人を編集部が採用してることは明らかだろがその意図はどこのあるんだろうって話。
まあただでさえ時代に取り残されてアップデートを放棄したような画風だから、そう言う人たちを寄せ集めて少ない需要を有効に掬い上げようっていう保護施設あるいはホスピスみたいなものなのかな。
しかし表紙やタイトルのデザインの裁量権も作者側には一切与えられないであろう様子を見るといかがなものかって思う。画風をアップデートできない漫画家は表紙のデザインも満足にできないと思っているってことかなあ
大竹まことに抗議だ。
「性犯罪の原因は男尊女卑」というフェミニズム・イデオロギーについて
https://note.com/wakari_te/n/n5da4ae31a1c7
根本が違う。
6/6(火) 16:16
https://www.joqr.co.jp/qr/article/91863/
6月6日の「大竹まことゴールデンラジオ(文化放送)」では、性犯罪の加害者が二度と同じ過ちを犯さないよう治療を続けている精神保健福祉士で社会福祉士の斉藤章佳さんに性犯罪の加害者になる人の特徴を伺った。
大竹「たくさんの性加害者と接してきた斉藤さんが見出した性加害者になる人の特徴は?」
斉藤「しっかりとデータを取った犯罪累計でいくと、やはり痴漢と盗撮が日本は非常に多い」
斉藤「多いと思います。特に痴漢に関しては満員電車があるのが日本の特異なところですので…」
斉藤「その中でデータを取っていくと、大多数を占めてるのが四大卒で家族がいるサラリーマンという人物像が浮かび上がってくる。そう考えると私も同じ属性なんですよね。そうすると私と彼ら、いったい何が違うんだろうかと考えました」
小島慶子「自分と痴漢になった人との間にどんな違いがあったんだろうっていうふうに身近に考えやすかったんだってわけですね」
斉藤「答えとしては『特に違いはない』という答えに辿り着きました」
小島「何か異常なモンスターのような性欲の塊のような人がやるのではなく、本当にどこにでもいそうな会社員の人がふとしたきっかけで止められなくなるということがわかってるそうです」
斉藤「もうちょっと具体的な人物像を言うと家庭では家事の分担をしっかりやる。育児に積極的に関わる。かつ職場では、長時間労働も厭わない。そういうイメージの人が非常に多かったなと思います」
ぼうず
@ajvoit
http://24zzz-lgbt.com/blog/2023onegai/
@takitaro2
返信先: @takitaro2さん, @MORI_Natsukoさん, @tobiuokiraraさん
埼玉県の多様性の委員でもある遠藤まめた氏のところ、ツイッターだけ中止すると。
当然彼らは平気で嘘をつく。
1. 当団体が参加者をグルーミングしているという主張について
・グルーミングとは子どもへの性的虐待を行おうとする者が、被害者となりうる人物に近づき親しくなって信頼を得る行為をさす行為を指します。
・にじーずは子ども若者支援団体であり、子どもの権利をベースに活動しています。その中には子どもを危害から守ることも当然含まれます。当然ながら性的虐待を含むあらゆる虐待行為はにじーずでは許容されません。
・LGBTの子ども・若者支援は、特別なことをしているわけではなく、通常のユースワーク(個々の若者の固有性を価値あるものとしてとらえ、主体性や持っている力を尊重し、所属するコミュニティや社会全体の正規の一員として若者が位置づけられるようにする支援)の一貫として行われているものだということをご理解いただけると幸いです
通常のユースワーク(個々の若者の固有性を価値あるものとしてとらえ、主体性や持っている力を尊重し、所属するコミュニティや社会全体の正規の一員として若者が位置づけられるようにする支援)の一貫
一環ですね。誤字。
通常のユースワーク=洗脳です
主体性や持っている力を尊重し、所属するコミュニティや社会全体の正規の一員
活動家ですね。
2. 参加者を身体的な性別移行を推奨している/洗脳しているという主張について
・参加者が毎回全員で確認している「みんなのルール」では「正しさはひとつじゃない/カミングアウトのこと、恋人のこと、性別のあり方のこと、性別を変えるための手術やホルモン治療のことなど「こうするべき!」と押し付けたり、お説教したりするのではなく、お互いのペースや方法を尊重しましょう」と定めています。
・特定の生き方を押し付ける行為はルールに抵触しており、スタッフがホルモン治療などの性別移行のための医療をすすめることはありません。
押付けたり、お説教したりするのではなく、お互いのペースや方法を尊重しましょう」と定めています。
ハイ洗脳です。自分が臨んだと洗脳するので。ホルモン治療ではなく乳房切除ですか。
・LGBTの若年層は、学校でも家庭でも本当の自分を表現できないからこそ孤立・孤独を深めています。
・居場所に参加し、同じような仲間と知り合えることで自己受容できるようになり、学校や家庭などで相談ができるようになる側面があります。個々の状況によるためカミングアウトを一概に推奨するものではありませんが、当団体では、利用者が援助を求められる相手(保護者を含む)をにじーず以外で増やすことを肯定的に捉え、歓迎します。
・保護者が送迎する事例は年々増えており、子どもの表情が明るくなったなど好意的に受け止められています。むしろ保護者から感謝される場合が多く、継続寄付として活動を支えてくださっている状態です。
・大人の見学を認めていないのは、学習目的ないし自分の居場所を求めている大人によって若者の居場所が阻害されたり、加害目的の大人が近づくことを阻止するために講じている措置です。
大人の見学を認めていない…敵対的かつ閉鎖的。アウトですね。嘘をつく気すらない。
さっき生き方を押し付けないとか言っててこれ。めちゃくちゃ矛盾している。
それに「教えていない」じゃなくて推奨する立場にない。っておかしいのです。
※なおTwitter上でのLGBT差別が激化していることから、若年当事者に与える影響を考慮して、当団体のアカウントは本日をもって休止します。活動自体は継続していきます。
で、本当にやっていないなら訴えているでしょう。公金チューチュースキームしてるから。できないのはやっているわけです。
そもそもアメリカでも戦争になっているから。やっていないはずが絶対にない。
@MORI_Natsuko
トランス活動家・遠藤まめた氏のLGBT団体「にじーず」では、子供ばかりを集めてなにかしらの集会を開いている。子供たちには親に嘘をついてでも参加するようアドバイス。でも、これを批判すると「LGBT差別」なんですよね。LGBT当事者の私はかまわず批判しますが。😊 https://t.co/DGZA6Kzm3K
@MORI_Natsuko
このハッシュタグは、トランス活動家・遠藤まめた氏のLGBT団体「にじーず」が、親に嘘をついて自分たちの集会に参加するよう子供たちに勧めるもの。→ #どこへ行くのと聞かれたら
このタグで効果的な嘘を子供たちに募集、それを共有し、使えるようにしている。なんで学校や自治体は問題視しないの?
@MORI_Natsuko
30代半ばの大人が大勢の子供を集めて、しかも交通費として500円を与え、親に嘘をつくよう指導していたら、世間の人は「それ、危険じゃないの?」と疑問の声をあげるはず。だけど、遠藤まめた氏はLGBT活動家なので、世間は「差別だ!」との糾弾を恐れてか、なにも言わない。怖いことだと思いませんか? twitter.com/MORI_Natsuko/s…
@MORI_Natsuko
30代半ばの大人が大勢の子供を集めて、しかも交通費として500円を与え、親に嘘をつくよう指導していたら、世間の人は「それ、危険じゃないの?」と疑問の声をあげるはず。だけど、遠藤まめた氏はLGBT活動家なので、世間は「差別だ!」との糾弾を恐れてか、なにも言わない。怖いことだと思いませんか?
@MORI_Natsuko
トランス活動家・遠藤まめた氏のLGBT団体「にじーず」では、子供ばかりを集めてなにかしらの集会を開いている。子供たちには親に嘘をついてでも参加するようアドバイス。でも、これを批判すると「LGBT差別」なんですよね。LGBT当事者の私はかまわず批判しますが。😊 t.co/DGZA6Kzm3K
「子供や家族連れで賑わう公園が突然の閉鎖。そのきっかけは、子供の声がうるさいという近隣住民からのクレームだった」
そんなニュースを聞いてあなたはどう思う?
――そいつは何て心の狭いやつなんだ!せっかくの遊び場を、どうせ使いもしない奴が文句言いやがって!
――死にゆく老人がこれからを担う子供の遊び場を奪うな!
そう感じるだろう?俺も同感だ
子供はしっかり外で走り回り、きゃっきゃと声を上げ、草や土を掴み、全力で遊ぶのが何よりだ。本当に心からそう思う。
だが、そんな俺も公園を管理する市に対してクレームを入れたことのある1人なんだ。勿論、騒音について。
つまり傍から見れば、俺は「公園で大きな声を上げて遊ぶ子供を愛しながら許容しない」不思議な存在だということになる。
日本各地にあるこの問題、まず確実に言えることがある。
「公園クレーマーと非公園クレーマーが見ている公園の姿は違う」。
そして、「現状、公園クレーマーたちはクレームを上手に世間に伝えられていない」。
次に、これを読んでいるあなたが「公園クレーマーってちょっとオカシイよね」と思っていることを前提に、以下の事実を列挙したい。
・公園クレーマーは必ずしも子供の声が無条件に嫌いな偏屈ジジイではない。
・非公園クレーマーが公園クレーマー化するのは、一部の非常識な利用者のせいである。
・非常識な利用者だけを除外する仕組みを、行政は持ち合わせていない。よって、公園クレーマーは全ての利用者を敵視するしかなくなる。
・公園クレーマーは、クレームをつける行為に負い目がある。
さて、じゃあ早速冒頭の文章をニュース原稿だとして、続きを想像してみよう。
――子供や家族連れで賑わう公園が突然の閉鎖。そのきっかけは、子供の声がうるさいという近隣住民からのクレームだった。
とすれば、次に来るのは男性ナレーションの低音ボイスであえて野暮ったく読み上げられる次の語句だ。
――「子供の声が、うるさい」
その次は行政の記者会見のシーン。
――「近隣の方との話し合いを続けてまいりましたが、双方の納得には至らず、やむを得ず閉鎖の判断を致しました」
で、そこからが問題だ。恐らくここで、普段の公園の様子か、或いはイメージ映像などで、元気よく遊ぶ小さな子供たちが映し出されることになる。
――「家族連れで賑わう平和な公園で、何が?」
これが大問題なんだ。
少なくとも俺は、こうした元気よく遊ぶ小学生、保育園児、幼稚園児は、好きなんだ!癒される!
きゃっきゃきゃっきゃと楽しそうにおいかけっこをして、たまにミ゛ャー!と寄声を発して、あーあーと泣き出して、しばらくすれば何でもなかったかのようにまたギャーギャーと走り回って…
心から平和を感じるんだ。
精一杯走りたまえ。あーあー、転んじゃって。大丈夫?
俺はこれを、うるさいとは思ってはいないんだ。
じゃあ、「子供の声がうるさい」と言ったクレーマーの気持ちはなんなんだ?
俺はそのクレーマーの気持ちを理解しようと努めることができる。恐らくその人も、最初からそれがダメだったわけではないんだ。「ダメになった」んだ。
(一応補足しておくが、この日記では「俺」と「公園クレーマー」という主語をほぼ同一として扱う。いわゆる「主語がでかい」状態だが、便宜上許して欲しい)
俺が公園クレーマーになった原初のきっかけは、とある夜のことだった。
当然すぎて端折っていたが、俺の家の目の前には公園がある。住所はとりあえず北関東ということでボカさせてほしい。
大きくはないが、追いかけっこは勿論、キャッチボールやフットサルくらいなら十分できる広さがある。
2階の窓からすぐ見下ろせるところにベンチがある。そこに、夜な夜な中学生か高校生くらいの男子連中がたむろし、談笑しながらボール遊びをするようになった。
変声期を終えた男子の声は、かなり通る。そして、ボール遊びの中でもとりわけサッカーボールを蹴る音というのも、実はかなーり、通る。
少なくとも俺の家の窓は全く防音性という面で貢献しなかった。
ボン、ボン。ギャハハ。ボン。ボス。ギャハハ。ボン。
不規則なリズムで、しかし短い間隔でリビングに響くその音を聞いていると、30分も経たないうちにまるで面白半分に自分の頭を蹴られているような気分になり、怒りが湧いてくる。
ここで、自明の事実を書く。
こうしたたむろ連中は、必ずしも「迷惑をかけるつもりで」やってはいない。
彼らは、「自分達の発している音が、目の前の家の中にまで達していることを想像できない」のである。
壁を隔てた向こうに、自分たちの存在が察知されていることを知らないのである。
これは誰しもが陥りがちなことであるが、どうも人間と言うのは「見えていないならば聞こえていない」と認識しがちである。
自分から見て、近くの家の中など当然透視はできない。ならば聴覚も届かぬ場所であると錯覚するのだ。
要は、「想像できないことは認知できない」のである。
結局その日は警察を呼び、お帰り願った。(夜9時台だったので世間一般的にも迷惑案件だと判断した)
翌朝、その場所にはペットボトルやカップ麺などの大量のゴミが散乱していた。
夜の騒音はその日で終わらなかった。
ここでのポイントは、「同じ連中が毎晩たむろしに来るわけではない」ことである。
とにかく色んな人が来る。
金もなく公園に行くしかないカップル。
夜しか時間が取れないのであろう、子供を引き連れてバッティング指南をするおっさん。
花火をしに来た家族連れ。
先程の件と別の男子学生グループは幾つもいた。
中には缶チューハイで酒盛りする中学生男女グループというのもいた。世の中的に見れば全く珍しくもない、可愛い非行の一種だが、目の前で見せつけられるのはさすがに弱った。
そしていずれの人達も、当人らが思っている以上にその声や動作音は聞こえてきた。
中にはTikTokの流行りの動画を大音量で流す奴もいた。
ただ、それですら、彼らはこちらのことを認識していないのである。
単に「流行りの音楽を好きな音量で鳴らす俺」という環境を欲しているのであり、それが他者に聞こえているとは思っていないか、考えたこともない。
彼らにとって俺の家は書き割りの背景と同じなのである。
そのうち、夜に公園に来るすべての人間がバカに思えてくるようになった。
先ほど書いた通り、「自分の出した音がどのくらい遠くまで聞こえているか」「それが思いもよらぬ誰かの耳に届いているか」というのは「想像力」の話である。
なので、彼らは「想像力の無いバカ達」だということになる。
一方こちらは常に公園の音が耳に入ってくる。
自分の感知エリアの中に公共の場があるのだ。自分の感知エリアの中にバカが入り込んでくる可能性が常時あるのだ!
これは結構大変なことで、つまり自分自身が「公園の24時間警備システム化」してしまったのである。
これは良くないと思い、市に電話を入れた。
クレームではない。「夜間の大声やボール遊びを禁じる看板を立てられないか」という要望としてだ。
「あくまで自分は要望のつもりだったんですがねえ」と言い訳したいのではなく、あらゆる体裁において実際要望として伝えた。
いわゆる公園クレーマーとしての立場になりたいわけではないし、日中の利用のマナーは良く感じているというようなこともできるだけ言った。
結果、1週間内には夜間早朝のボール遊びや集会、騒音を立てる行為はご遠慮ください、といった旨の即席看板が立った。
この看板にはある程度の効果があった。
ありがたいことに地域の全体的な民度は低くなく、夜の利用者がこの看板を見て「もう1個の広い公園行こうか」などと発言する様子も見られた。
だが、それでも無視する者も少なくなかった。
そして、俺ももう手遅れだった。
警備システム化した神経は、最早日中の音ですら気になるようになってしまったのだ。
常時テレワークであるため、在宅せざるを得ない中、ボールを蹴る音や子供の騒ぎ立てる音が聞こえる。
いや、それでもやはり冒頭書いたような、「小さな、天使のように朗らかな子供たちの駆ける音」は何の問題もなかった。
中高生男子の声とサッカーボールの音が、いかにもたむろ連中を想起してしまい、聞くだけで頭痛がするようになった。
大半の少年たちは育ちが良く、騒ぎ立てはするものの、辺りが暗くなればささっと帰ってくれる。
だが恐ろしいことに、「そもそもいること」が許せなくなった。夕陽が沈みかけ、薄暗くなったあたりで「早く帰れ早く帰れ」と念じるようになった。
そして――どうにかベンチを撤去出来ないか?一部の区画だけでも閉鎖できないか?
いつしか「クレーム」を入れるようになったのだ。
ここで、非公園クレーマーであろうあなた方に問いたい。
あなたが想像する公園クレーマーが「子供の声がうるさい」と言った時、あなたが想像する声の主はどんな姿だろうか?
小学生や、幼児たちを想像していないだろうか?
そのうえで「まさかこんな子供たちを排除するなんて!」と憤っていないだろうか?
また、「勝手に昼間で想像している」のではないだろうか?
違うのだ。
もう少し上の年齢の、「自我が目覚め、夜遊びもしたい、生意気盛りの子供たち」なのだ。
そして、俺には今自宅の目の前にいる利用者が「良い利用者」なのか「悪い利用者」なのか判別がつかない。
全ての音を拾うしかないのだ。
そうなれば俺が言うことはただひとつ、「子供の声がうるさいんだ」である。
しかしその言葉から逆引きされる「子供」とこちらのいう「子供」には隔たりがあるし、経緯はいっさい伝わらない。
さて、そろそろあなたには幾つかの疑問、というより「ツッコミ」が生じていることだろう。
――引っ越せばいいのでは?
――家の防音性能を上げればいいのでは?
――イヤホンとか耳栓でなんとかならない?
――他の住民が気にしてないなら気にし過ぎなのでは?
引っ越しはそう簡単にできるものではない。膨大なローンが残っているし、自分ひとりの問題ではなく家族を巻き込んだ話になる。
窓を増設するという手がある。しかしこれも公園に面した各窓に処置するだけで100万円はカタい。マインクラフトみたいに素材があればポンと設置できるものではない。
イヤホンや耳栓というのは応急処置として有効である。しかし「自分の家で行動を制限される」ストレスの方が強い。なぜ自分の家で、家族との会話もシャットアウトし外界の音に我慢させられているのか、ということになる。
それに、これはまた派生的な「症状」なのだが、俺のようになると音だけでなく「窓を開けたら人がいる」という状況ですら悩みの対象になるのだ。目の前のバカがいつバカをやり出すかわからない恐怖が発生してしまうのだ。
大体、「夜間の集会はご遠慮ください」という看板がある状況で集まっている時点でそいつはルールを自己都合で無視できる人間なのは確定しているのである。
そんな奴が自宅から10m強先にいること自体がストレスになってくるのだ。
そして最後。
ここがまた、公園クレーマーと非公園クレーマーの隔たりの原因である。
公園クレーマーとは、恥ずかしいものなのだ。
だって、公園は良いものである、という世間の認識があるのだから。
そして既に、公園にクレームを入れるのは「わからずやの偏屈ジジイ」だとする一般通念があるのだから。
俺だって、もし街を歩いていてテレビの取材にあたり、「公園にクレームを入れるのってどう思いますか?」と聞かれたら、
「ウフ、うん、まあその、公園って子供たちがねえ、元気よく遊び回る場所だからねえ、その、それをねえ…」
などと口ごもるだろう。
「アッ、こいつ公園クレーマーの仲間だぞ!」と思われたくないので。
恐らくだが、インタビューで公園の騒音を肯定的に捉えている人の中にも、「実は参ってるんだけどね…」という人がいる可能性はゼロではないと思う。
こうして、公園クレーマーの印象は「誰にも理解できないキチ○イ」へとどんどん先鋭化されていく。
とはいえ、この日記では解決策を示して欲しいわけではない。
あくまで公園クレーマーとは何なのかを公園クレーマーの立場から書いているだけである。
ということで長くなったが、それでも、俺のような公園クレーマーに対して「偏屈」「気にし過ぎ」と感じる人は多いだろう。
それはそれで問題ない。何せ事実、神経過敏になっている。
最早俺は、バカが来て騒音を出すのがダメなのではなく「常にバカが来て騒音を出す可能性がある」ことがダメになっている。
もしかすると、今はまだ俺が愛おしく思っている小さな子供たちすら、今後は煩わしくなっていくのかもしれない。
そうなれば、次にニュースに登場し、世間から罵られるのは俺ということになるだろう。
だが、非クレーマーたる皆さんには、少しだけ想像をしてもらえないだろうか。
あなたがイメージする「公園」「公園の騒音」は、クレーマーの思うそれとは時間帯も対象人物も在り方も違っていないだろうか。
また、あなたは公園の目の前には住んでいないのではないだろうか。
ならば、「自分が自宅に居ながら公共の場の音を感知する警備システム化する」という感覚を知らないはずである。
何も公園クレーマーを理解しろとは言わない。
ご推察の通り、精神疾患的な症状は少なからずあるので、そこを含めて理解しろというのは傲慢であろう。
ただ、公園の騒音という社会問題について何か語ろうと言う時、少しだけ、想像をしてほしいのである。
最後に余談として。
あなた方が考えるツッコミにはもう一例あると思う。
――自分が若い時もやんちゃしたのに、今の若い子のそれは許せないの?
これはこれでデカいテーマなので書くなら別の日記として書くべきだろうことだが、正直に言えば「許せない」が「心の慰めにはなっている」という程度だろうか。
俺も学生のころ、男子連中で友人の家に寝泊まりし、近くの公園でバカ騒ぎした記憶がある。
下校時に彼女を連れ立って、公園の木の陰でいい思いをしたこともある。
迷惑をかけたし、その近隣の住民に我慢を強いたうえで「仕方なく許された」のが今の俺であることは解る。
実際それらは個人的には「いい思い出」として処理されているし、懐かしく思うこともある。
だが、「ならば自分も許そう」はそもそも道理でない。単に個人の思想の一種でしかない。
あえて極端な例を言えば、過去にゲーム感覚で万引きをした経験のあるヤンチャ坊主が成長して小売店の店長になったとして、自分の店の万引き犯に対して「でも自分もやったことだしなあ」と許せるかという話である。
学生の頃イジメを働いた人間が社会人になって会社でイジメられて「でも俺もイジメっ子だったしなあ」となるかという話である。
そういう因果律で人生を捉える人がいてもいいが、それがイコール正しい考え方ではない。