はてなキーワード: 憧憬とは
( 続・過保護水着は良くないと思うぞ )
そんな中でオレは、たった一人、膝をついて震えている。
新しい水着は選択肢が増えるだけとの触れ込みだが、近いうちに席巻するだろう。やがてジェンダーレス水着の一色に染まると思う。考えてみてくれ。水着は、悩みをもつクラスメイトのために作られたんだ。恥ずかしいからという理由でジェンダーレス水着を選択する仲間のために、キミに何が出来る?
時代が進むほどにブルカ化していくスクール水着を見て、うすら寒いものを感じていた。
オレの考えた通り、新開発の製品にはジェンダーレス・長袖で紫外線カットのお題目の裏側に、生徒の「肌を見せたくない恥ずかしい気持ち」を保護したいという優しい動機が隠れていた。
想像だにしなかったのは、かつて肌を晒すことをためらっていた子どもたちの多くが大人になった今も、
「あの頃にジェンダーレス水着があれば、水泳の授業もラクだったのに」
恥ずかしめたクラスメイトへの怒りや、からかってきた友だちへの憎しみを、露わにしているアカウントは殆ど見つけられなかった。
もし仲間はずれにみえる誰かを抑圧する同調圧力に屈したせいで、恥ずかしさが生まれてるならば。迎合するのは多様性に逆行してるぞ。被害の実態にメスを入れる勇気のある論者は、しかしどこにもいなかった。
「コンプレックスを持っていてもいいんだよ」と、怯える誰かに、対応するための手段を与える。
一見優しく見えるけれど、そこには加害者側を責めずに被害者にばかりコストを負わせる社会の歪みがある。
プールサイドから見守る監視カメラにつないだ人工知能が警告する。そんなソリューションもあり得たはずなのに。
みんなが、まなざしの被害を自己責任として受け入れるつもりなら、もう何を言っても無駄だろう。子どもたちが望むならジェンダーレス・ネックゲイターだって投入されるだろうさ。男女関係なく、うなじを隠せるカバー。時代のアップデートは止められないのだから、このまま世迷いごとをつぶやく有象無象としてネットのノイズに埋もれよう。ふと、ある意見が目に留まった。
体毛を気にしてる人、太ってる人も安心だね。
注意深くみると、そんなニュアンスのことを言ってる連中がチラホラいた。
てめえら、自分が何をしてるのか、解ってないだろ… 😡
モテなかった。
元嫁からはお前とのセックスは嫌いだから二度とヤりたくないと言われて別れた。本当に悔しかった。
ただ、金はあった。
するとどうだ、あれだけ天使や女神のように感じていた女が、下品な声を上げてよがるではないか。女は男以上に性に貪欲で浅ましくなりうる存在だったのか。
街を行く女が全て汚らしいものに見え始めた。どんなに綺麗なお澄ましも、夜になれば股ぐらを湿らせて男に媚びるのだから仕方ない。
汚い!汚い!汚い!
そんなものを買う俺は地獄の残飯を貪る腐った豚だ!このまま裁きにあえばいい!
陰茎を吸わせながら、膣に突っ込んだ鍵型の指を慣れた風に優しく搔き出している途中、俺は涙を堪えていた。
その帰りに立呑に行った。
横にいた女がめちゃくちゃに飲む俺を心配して声をかけてきた。昔の俺なら緊張で声が上ずっていただろう。けれど、汚物が豚である俺に話しかけてきただけだ。どうでもいい。
気が付いたらホテルにいた。
さっき別の女を抱いていたホテルだ。
俺はまた、陰茎を吸わせながら、膣に突っ込んだ鍵型の指を慣れた風に優しく搔き出し、今度は―――。
こんなことばかりになった。
まだたまに女は買う。確認のためだ。
異性に対する憧憬とは少年にのみ許されうる幻想であり、我々良識者たる大人はその乳臭い夢から目覚めることを求められはしないものの、目覚めなければ社会の一員の本当の大人とはみなされない。その本当の大人とは、目覚めた地獄で鼻歌を歌いながらスキップすらできる存在であるが、いつの日か、また、子供の頃にみんなで歌っていた楽しい歌を口ずさめたらいいなと思う。
真面目に人殺しをしようとすればあの形にはならないはずでしょう。
ヒト型にはノイズが多すぎる。
ククリやカラシニコフやバイラクタルTB2には、その形の向こう側の殺意のイデアに触れたような気にさせてくれる何かがある。
ロボットものは兵器があのような体たらくだから、なぜその殺し方なのか、お前の殺意はその程度かとなる。
(追記)
戦争で勝つことが目的なら人を殺すより負傷させるほうがいい。1人戦えなくなるだけでなく、傷病兵を運んだり救護したり食糧を与えたりしないといけないので、1人分+αの戦力を奪える。殺意なんかいらない。
これはあるね。
敢えて殺傷力を弱めた地雷だとか、特定の遺伝的グループだけに発病するウィルスだとかね。
ただ命を数値で計る領域に行くとそれはヒトが抱えられる殺意からは取りこぼれた何かになるよねって気がして、
そのへんに自分のフィクションを楽しめるNot for meのラインがあるように思う。
日本刀の美しさみたいなものもまた殺意の領分を超えた別の領域にある気がするなぁ。
端的に言えば命を刈り取る形みたいなものへの憧憬が自分の根底にあるかも。
「カエシ」がついてたりね。
セックスボランティアとセックスが出来なかった人はガッカリしただろうな。
用事が出来て遅れるとか言い出した時点で察しないといけないんだろうけれど、
でもそれならそれでもっと早くストレートにやっぱりやめますって言ってくれれば、
それはそれで仕方ないと思えることなのに、
直前になってどうしてややこしいことを言い始めるの?って気持ちになると思う。
グダりだした時点で気持ちを察することが出来るだろうし、
あるいはそのグダりからセックスへと持ち込むようなコミュ力もあるんだろう。
でも、セックスボランティアに頼らないといけないような人はそういうふうな器用なことが出来ないんだよ。
生真面目で自分は人との約束は破ったことがないとかいう人のほうが多いんだよ、モテナイ男って。
だから人から約束を破られると本当に本当に傷つくしガッカリするんだ。
だったら風俗いけよ、とかそういうことではないんだ。
お金の絡まないセックス、ほんとうの意味でのセックスにより近いもの、
そういったものへの憧憬と渇望の極限状態がセックスボランティアの人にセックスを頼むという行動なんだよ。
もうあとがないって状態なんだよ。おれは一生、風俗以外のセックスをすることがない、っていう諦めのなかに見えた一筋のか細い光明なのよ。
そりゃね、風俗と何が違うんだ?ってセックスに恵まれて生きてきた種族には理解できないよ。
それをわかってほしい。そしてセックスさせてくれ。
わたしは20年くらい前に小劇場に出るような劇団員をやっていた
お友達劇団だったので演劇のクオリティは高くはないけど、みんなでわいわいやるのが楽しかった
座長のワンマン劇団といっても過言ではなく、彼女のための劇団だった
その監督は他にも何人も女がいるらしく「今度の舞台に何番目かの恋人と来るらしい」と通達があった
私は知っている声優さんだったけど、監督も声優さんも一般人には特に有名ではなかったので騒がれることはなかった
当時はTwitterもなかったし
声優さんの他にも監督に恋人は何人もいて、うちの座長と監督との関係をしっている他の何番目かの恋人から嫌がらせを受けることもあったらしい
座長が話すその監督のエピソードはなんとなく可愛らしく、嫌々付き合っているという感じはなかった
その監督自体才能がある人だから話を聞いたら面白かったりするのだろう
高圧的な態度の人って恋人と一緒の時は甘えん坊だったりするからそっち系の人なのかなと思った
監督と関係を持ったことで、小さな劇団のチラシに一言その監督のコメントがついた
なんとなく箔がついた
有名監督から注目されている劇団、のような印象がチラシから読み取れた
それだけで、動員に違いがあったりはしない
20年前でその状態で今までそのスタイルでずっとやってきたならそれこそ監督が関係を持った女優はめちゃくちゃたくさんいるんだろうなと思う
とはいえ思い出は20年前なので、その後監督もエスカレートしていったのかもしれない
ネットニュースで読む限りは悪行の内容はなかなか生々しい
あまり騒ぎ過ぎてくれるな、と思っている女優さんもいるんじゃないかな
anond:20190809203213 を書いた者。近況をダラダラと書いてみる。
新卒で入社した会社で働いて今3年目。今年の春から4年目になる。
手取り収入は新卒の時と比べて6万円増えた。月々使える金が6万円増えるって冷静に考えるとすごいな。出費は変わらず15万円ぐらいだから月20万円以上貯まっていく。投資とかした方がいいのかな。暇な時に調べてみる。
フレックスタイム制だから相変わらずセルフプレミアムフライデーとかしてる。あとリモートワークが以前より推奨されるようになって更に働きやすくなった。
業務も相変わらずのんびり楽しくやってる。成果さえ出してれば何も言われない環境。周りには業務時間中にゲームをやってる人がいるぐらい緩い。その人は自分以上の成果を出してる人なので尊敬や憧憬こそすれ不満に思うことはない。優秀な人のおかげで会社が成り立って、自分みたいなエンジョイ勢が生きていけるわけだし。
根っからのインドア派でスマホとデスクトップPCとネットがあれば幸せに暮らせるんだけど、最近は他の趣味を開拓したくなってきた。年20万円ぐらいの予算で楽しめるオススメの趣味があったら教えて欲しい。仕事柄人間関係が広がりにくいので人と関わる趣味だと尚嬉しい。
近況としてはこんなところ。
言葉になったとき、一つのかたまりとして、声として、私の頭のなかをこえてでてくる。また、それを紙に書いた時、文字という紙に滲んだインクとなり、私の身体にあったものから、客体(オブジェクト)としての存在になる。また、私の口ずさむリズムは、音楽となり、その音楽は楽器に憑依して自立する。また、私の見た幻想、見たことない景色は、筆の色彩となり、キャンバスに映し出される。このように私の身体はどんどんと身体の外へ超え出てゆき、他者になっていく。そして他者化したオブジェクトは私に話しかけてきて、新しい対話が始まる。今私が文章を書く度に、書かれた文章は私にはたらきかけて、それが次の文章のいしずえになる。このようにして、私からかたまりとなって出ていったものは他者化し、それらは自律性をもっていて、他者化したもの同士が会話し始めさえする。
あの作曲家の音楽は、私の断片だったものの影かもしれない。私に内在していた音楽は、今、完璧な音楽を前にし、その愚昧さを恥じて消え入ったのかもしれない。辞書は誰かの美しい蒐集であって、これも、私の欠片だったものの憧憬かもしれない。映画は、私の想像を刺激する。だがこれもまた私の小さな欲望だったもの慰めなのかもしれない。このように、夢のような、美しいオブジェクトは、私だった残滓を忘れさせるには十分な効力をもっている。
私の絵は、私という鏡を通して映し出された像であって、絵は私が像をどのように写すかの観念自体である。現実のものを私の想像力によって、色として形として記号化し、物質にして、キャンバスの中に再配置する。観察する私の眼球は、私の呼吸や鼓動でも、動いてしまい定まらない。視点が動く度に陰影や形は変化する。描かれる対象もまた、描いている時間に、僅かずつに、変化していく。これを表現する絵の具の色数も足りない。形、色、大きさ、視点、どれをとっても、物理に筆が間に合わない。一方で、写真は機械的な仕組みによる鏡像だ。光は物質の構成に基づいて、減衰して反射する。カメラはその反射した光をレンズで捉え受光する。その瞬間は一瞬だ。物理が間に合う。完璧に設計されたそれは、美しい像を作り出す。
私の気づかない重さの違い、色の違い、大きさの違いがあるが、機械は私の感覚よりも雄弁にその違いを語る。私の想像力という鏡では写すことのできないものを機械は美しく写す。そして、私の周りには、機械で均整されたオブジェクトで溢れている。情景は写真として、あの時の記憶は音として保存され、CDとして。主観だった感覚は時計の刻む時間に、関係だった信頼は流通するお金に、手書きだった字も統一された活字になった。
たとえば、私の書いているこの文章には、私が覚えていない漢字も沢山ある。「朧げな記憶」という言葉を私のおぼろげな記憶だけを頼りには書くことができない。いまこうやって、パソコンを使って漢字変換の機能を私が使っているから、こういう、ひらがなばかりではない少しかっこつけた文章を書くことができる。また、私はとてつもなく方向音痴なのだが、グーグルの地図があるので、初めていく場所でも戸惑うことなく辿り着く。このように、私の漢字を書く能力、土地勘、すべてが機械は私を上回っている。私の拙い感覚や想像力は、より優れた機械によって、どんどんと私の身体の外の機械へと挿げ替えられていく。私以上の他者、に私は私以下にされてしまう。
いつから物質に、システムに、メディアに、人が合わせ込むようになったのだろう。機械を作る人は、正確に、速くなければいけない。機械を作る時、機械に私が作られる。たとえば、漫画のなかの天才に、本当の天才はいるのだろうか。漫画のなかの天才は、漫画のなかの表現に制約される天才だ。もっとも、天才的な数学の理論を漫画に書くことはできない。それは漫画の世界を超えてしまうからだ。もし本当にその理論があるのだったら、漫画ではなく現実に論文として発表される。ではどのように天才性を描写するか。簡単な方法には、周りより頭の回転が速いという形で、描写される。すると、漫画の表現を真に受けて、そのうちに私たちは頭の回転が速いことが天才だと信じるようになる。語りえないものは語りえないので、語りえないまま、失われていく。語りうるものだけが、語られて、語りうる媒体を培養の養分として生き残る。ミュトスはロゴスの最後の良心のしかただったのかもしれない。
今日、二人でランチをしながら聞いた話だ。モンブランが流行っているという。賞味期限が3分だと店は言うらしい。立って食べる席しかないという。店員が動画や写真をとってくださいね、というらしい。多分、SNSへの投稿を期待しているのだろう。急いでモンブランを食べるらしい。それも立って食べるのだ。一体いつから人間はこんな機械みたいに急かされるようになったというのだ。モンブランを立って食べることを誰が望んだのか。機械が速くなればなるほどに、人間まで速い物質にさせられる。でも私は立ってモンブランなんて食べないし、流行は追わない主義だから、と、私は機械を速くする研究をしながら、私はそういう人たちを想像して、侮蔑的な目で見ている 自分に、 分裂しそうになる。
私以上の誰かにすげ替えられていくうちはまだよかったのだ。私が私以下の誰かにさせられるうちはよかったのだ。私以下の機械に私にいつのまにかすげ替えられてしまっている。私が私以下の機械にさせられてしまっている。
私が高校生の頃、機械が歌を歌うようになった。抑揚のなさ、透明な高音、少しの切なさに心が惹かれた。これまで聞いたことがなかったけれど、すぐに耳に馴染んだ。いまは、人間が抑揚のなく、透明な高音で、少しの切なさを歌っている。
久々に実家に帰って、宇都宮駅に着いた、おばあさんが駅の改札口でずっとICカードを押していた。ずっとICカードを押すけど、ゲートは開かない。どうせすぐに駅員さんがくるかなと思ったら来なかった。おばあさんは何回も何回もカードを押すけど、異常音だけがなって、何も起きない。声をかけたらおばあさんはカードを二つ持っていて、一回開いたのに、動くのが間に合わなかったのだと思う、もう一回おばあさんはカードを押してしまったので、異常になっていた。もし、砂漠のなかで、このおばあさんと、ゲートだけだったらどうしよう。砂漠のだれもいないところでこのおばあさんとゲートだけの光景が妙に浮かんでしまって、悲しくなってしまった。
「あら、ゲートさんにもう少しやさしく押したら今度は開くかしら。」いいえ。機械です。
「そんなこと言わないで、私のこと覚えているでしょう?」いいえ。機械です。
「次は、こんな当て方はどう?」いいえ。機械です。
毎日同じ動き、同じ場所に同じ条件なら、同じだけの光を。反復、振動、円周。変わらない日々。計算とぴったり合う動き。
放物線の、上に凸の、エネルギーを与える。日射強度時間積算量。青い、レイリー散乱。純粋大気の青さと太陽の完璧な円周運動に軽い目眩。
帰り道、暗い住宅街で、なにか声が、聴こえた。
女が家の中でさめざめとなく声だった。私はその家の前で足を止めて聞き入ってしまった。
良い声だった。弦楽器の奏でる音楽のようだった。もっと聞いていたかった。さめざめと泣く声を。
朝、歩いて3分の駅に向かう。
歩道の上に猫のシルエットがあった。ダンボールがかぶせてあった。
猫はダンボールに塗られた粘着質にべっとりと体毛をまったく密着させて、うごけなくなっていた。
猫に挨拶した。しゃがんで、猫を見た。猫は逃げない。許可をとって、前足からゆっくり体毛とその粘着質を剥がしていく。猫は泣く、が、たしなめる。ようやく前足だけ自由になった。
おじさんが、背後から歩いてきた。いつも通る横断歩道のおじさんだった。私の電車が間に合わなくなるのを心配してくれて、なにかあったのと声をかけてくれた。
手が粘着質にまみれていた。トイレは誰かが使っていたので、手をお化けみたいにして、トイレが開くのをまっていた。
でも次の日、おじさんのやさしい嘘。「うん、大丈夫、剥がれたみたい」
でも、私は指6本、10分程度の汚れ分しか助けられなかっただけのこと。あの猫は私のたった10分の汚れ、私はあの粘着質、あの粘着質は猫。
自分自身もきっとそう見られてるんだろうけど、今まで俺が出会った「ディレクター」という肩書きのヤツは、本当に唾棄すべき奴ばかりだった。中身がなくて、薄っぺらくて、口だけで、悪い時はその口さえ営業に劣り、聞き齧った数年前の業界知識をひけらかし、ちょっと名の知れたマーケッターなりクリエイターなりのセミナーに参加しただけで自分も同じ土俵に立っていると錯覚し、目の前の顧客を見ず、ユーザーを見ず、会社の偉い人だけにはニヤケ面でヘコヘコし、しかも内心では、イチ会社員に過ぎない立場にかかわらず、自分こそが会社を回しているかのような尊大すぎる自尊心を持ち、モデルや歌手やフォトグラファーに甚だ馴れ馴れしい態度で接し、要件定義もできずに言われたことをデザイナーに丸投げし、じゃあせめて何かあったときの責任くらいは取ってくれるかというと、それさえ下流の作業工程の人間に丸投げするという、まあ本当に、ほんっっとーにクソみたいな奴らばっかりだった。何回もこの「ディレクター」という肩書きにウンザリし、自己嫌悪し、自家中毒で吐きそうになりながら、結局まだここにいるのは、俺の目指す、俺が本当になりたい人物像を体現しうる職種が、ディレクターだけだからなんだろうな。
つまり、たくさんの案件をちゃんとこなしてきた人間としての深みがあり、人の話をよく聞き、だけど無理な案件を引いてきた営業には言うべきことを言い、最新の業界情報を一生懸命勉強して振り落とされないように努力し、セミナーではなく現場で四苦八苦し、その気になれば自分で手を動かしてデザインを作ったりコードを書いたりできて、顧客の気持ちに寄り添い、ユーザーにいい体験をしてほしいというギヴァーとしての精神に満ち溢れ、会社の偉い人をうまく転がしながら現場の意見をちゃんと通してくれて、だけどあくまで会社員として組織のために自分があると思っていて、モデルや歌い手やフォトグラファーの仕事に敬意を払い、斬新で、かつあくまで顧客の課題を解決することが大前提のアイデアに基づく要件定義ができて、チームのメンバーがなるべく早く家に帰れるように奮闘し、なにか問題があれば何の他意も打算もなく「自分が責任者です」と頭を下げられるという、そういう人間。もう一回だけ、そういうディレクターになれるように、頑張ってみようかなぁ。
私は主張したい。
決してメインストリームになれない「陰キャ」上がりの当時の業界人がメディアを介して間接的なマウンティングを行い「陰キャ」の聴衆が受け入れた結果なのである。
実際のところ、小山田が過去に障害を持つ同級生を虐めたか否かは大した問題では無い、何故なら日本全国で小山田の行為に類似したいじめはどの年代でもどの地域でも珍しいとは言えない内容だからである。
だが、普通はそんないじめの経験は、武勇伝としても自慢話としても公の場で話す類の内容では無い。
何故、小山田は25年前に積極的に悪質な虐めを全国誌で語り、その内容がそのまま出版され、多くの読者が受け入れたのだろうか?
その雰囲気を醸成したのが体育会系文化の下位互換としての90年代サブカル文化だったのである。90年代サブカル文化は、00年代以降のオタク文化とは似て非なるものであった。
00年代オタク文化はハレとケの、褻に当たる存在であることを自認しており、また、それは属性ではなく役割である。つまり、普段は「陽キャ」として振る舞う一般的な大学生が熱烈なオタク文化のファンになることも、役割であるが故に成立するのである。
90年代サブカル文化においては、これは成立しない、何故ならサブカル文化は属性であるが故に、メインストリームになり得ない存在であることが所属と同時に確定するからである。
多くの者が成長と共に就職等で、サブカル文化という属性から自然に離脱することにはなるが、留まり続ける者もいる。それが、メディアを牛耳る業界人だ。
今でこそ高収入で社会的地位が高いイメージだが、当時、サブカル文化属性の業界人はメインストリームに対して劣等感を抱いていた (※ ハリウッドでも似た話があるので、これは珍しいことでは無い)。
この劣等感は金銭的な収入では満たされない感情だったのだろう。社会的な地位が上がるにつれてサブカル属性の業界人は、メインストリームの体育会系の強者に匹敵するようなエピソードが欲しくなる。
しかし、人間は正直な生き物なので、完全に空想の嘘は付けない。結果生み出されるのが、90年代に公放送や出版物で繰り広げられた下劣ないじめ体験談につながった。
これは、小山田だけの問題ではない、小山田の経験を自らと同じサブカル属性の強者の武勇伝と位置づけ誇示するように掲載した雑誌関係者、自らと同じサブカル属性の英雄の功績として希望を感じた読者は、皆等しく文化を醸成した因子なのである。
陽と陰が協調し一つの目的に向かう初めての機会は、学生時代の文化祭である。(※ 24時間テレビが近いと思うかもしれないが、24時間テレビは、テレビ業界に所属している者が中心であるためにサンプリングに偏りが生じている)。
五輪はこの文化祭以来の、初の世代を跨ぐメインストリームと非メインストリームの協同作業だったのである。
この機会に、90年代サブカル文化の代表的な負の象徴である、小山田の過去が全国規模で炙り出されたことは決して偶然では無い。
https://anond.hatelabo.jp/20210718192945
なんでもかんでもフェミニストのせいだから許される、と思ってンのかな。白饅頭に課金してそう。 / “京都アニメーションの性暴力について” #増田 #釣り— ワッシュ (@washburn1975) July 19, 2021
嫌いな白饅頭に牽制したいがために「キチガイツイフェミを装った反フェミ」のフリして投稿、自作自演だったのが真相のようだ。
そんな事のために「こんな会社燃やされて当然」とかわざわざ書いたのかと思うとゾッとする。
参考までにこのワッシュって奴は金田淳子のバキ道レイプ描写批判の時にも「カネジュン先生が全面的に正しい!これを叩いてる反フェミのオタクほうがおかしい!!!」とツイフェミ絶対守護るマンになっていた。
今週のバキ道をちゃんと読んだんだけど、カネジュン先生の言ってることも本当に真っ当です。勇次郎の悪行は悪行として描かれているし、傷ついた人の防衛反応もリアリティを持って描かれているけど、そこにある有害な男らしさへの憧憬が指摘されている。 https://t.co/tzAMcVgeMj— ワッシュ (@washburn1975) July 16, 2021
オレたち漫画ファンは、ちょっとおかしな描写があったりしたら、容赦なく叩くじゃないですか。それこそ新條まゆの鉄砲とか、鬼龍おじさんが廊下を練り歩いたりとか。でも性暴力の描き方についてちょっと批判的なことを言う人がいたら、なぜか自分たちが「殴られた」「放火された」と言い出すのね。— ワッシュ (@washburn1975) July 16, 2021
最近のkanoseさんって車椅子クレーマー伊是名夏子の件でも「伊是名夏子が絶対に正しい!熱海駅職員が悪い!!!!」ってツイートしてて、随分香ばしい人になっちゃったんだなと思った。
それは何をもって「表面的な利用だ」としているの?
80年代のアニメが海外に届いていたことはそうした映像的なサンプリングを「レトロ」として使用していることからも分かるじゃん。
そして、そうしたアニメの主題歌がヤマタツの影響下にあったことは誰かが前述していたよね。
であるならば、「アニメが主題歌と一緒にケーブルテレビかなんかで先に届いていてその憧憬がvaporwaveの発生とヤマタツの海外での再評価につながった」っていう可能性を否定できる根拠がなくない。
もちろん可能性の一つでしかないわけだけど、だからこそ、音楽評論の場でもっとアニソンの影響力について議論されるべきだって話じゃないの。
体験し得たかもしれない情景を精緻に描いた作品を代償行為的に楽しむことで 空疎な己を超克したかのように振舞うと決まって漏れる溜息がある これは俺の心の嗚咽 人類よ覚えておけ これは枷 名を憧憬という - id:vlxst1224
おああーーーっ。あーっ。いけない。いけないやつだこれ。あーいけない。すごい幸せオーラ。光属性。弱点突かれてる。んんっ。死ぬ。死ぬわこれ。ああーっ。もうあかんか。あかんな。闇属性やっぱあかんな。ああーっ - id:vlxst1224
時代が違えば国語の教科書に載る詩人か俳人になってたと思う。羨望を誰も傷つけることなくかと言って己を責めることなく表現する才能は見事という他ない。(別増田にid名指しで批判されたから自分はid名指しで称賛してやるぜグフフフフ)
ブコメをまとめたらなんか人生の教科書~はてなブックマーカーからの言葉~ みたいなものになった。各自適当に人生に役立てたらいいと思う。名(迷)言って書いてたけど、ほぼ名言。ブクマカの表現センスに拍手👏
そのうちid消してこの記事も消えると思うのでブクマするなら魚拓にどうぞ。
今IT系の社会人として生きている(今は会社辞めて無職だけど)のは、ブクマ始めた頃にわけのわからないプログラミング系のサイトがホットエントリーにあって、よくわからんけどカッコいいって憧れをもったから。そこはブクマカに感謝してる、ありがとう。(仕事どうしよう…)まだまだブコメでおもしろコメントしたかったという気持ちがないと言えば嘘になるけど、Twitterのはてブアカウントは見てるので適当にコメ欄は見に行くかもしれない。
あ、あとはてな運営さんはabout:blankのブックマークを削除できないバグがあるので暇だったら直したほうがいいと思いますよ。
それじゃあはてなのみなさんお元気で!
彼らにとって体制側とはリベラル思想の世界であるので、それに反発しているわけだ。
だがこの反発の正体は社会の革命などという大それたものではなくもっと家庭的な問題に起因している。
もともと日本の戦後左翼は自分の親(この親も戦争でPTSDなど抱えていた可能性もあるが)と折り合いがつけられなかった子供たちによって構成されており、
現代の見方で解析するなら恐らくはアダルトチルドレンに属するだろう人々だ。
それと同様、トラウマを治療することなく自身の家庭問題を逃避する形で、怒りだけを社会に持ち込んで居場所を作り出した、それがネトウヨコミュニティ。
では俗にパヨク(支流には俗流のフェミニズムや弱者男性論も入る)と呼ばれている人々は何かというと、これはネトウヨとコミュニティが異なるだけで本質的には同じなのだ。
彼らもまたアダルトチルドレンである。だがこちらはもう少し複雑な状況である。
ネトウヨコミュニティは男性が先に作り始めたが故に基本的に男社会なので、男性的でない男性や女性には入りづらい。
だから周縁的な人々がしばしば行きがちな外国への憧憬に寄り集まり、海外で流行っていた「リベラルっぽい」集団を形成した。直接向こうでリベラル思想を学んできた人々としばしば正反対の言動を取るのは彼らが学問として体系的に取り込んでこなかったからである。
つまりパヨク世界はネトウヨに対するカウンターカルチャーである。
だがどちらも確固とした社会思想も信念も持ち合わせていないうえに、そもそも本当に社会をよくしたいとは思っていないため、同じ相手と同じ問題についていつまでも解決しない論法によってぶつかり合い、非建設的な言い争いで延々と絡み合い続ける。傷のなめ合いや互助を反転させた関係だ。