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はてなキーワード: 家系とは

2024-07-17

anond:20240716155929

大多数は、決まってんだからそっち行けで納得できるし、デメリットも感じにくい

でも抗いたくなる人たちも居るのが(生物的な)多様性ってやつだと思う

ジェンダーなんかは、一部を除いて遺伝的肉体的な性と絡みすぎてるけど、

もっとレベルを落としたら(上下という方向性を付けるのも変な話だが)

医者家系なんだから医者になれ、いやだ俺はパンクロッカーになる

みたいなのと同じ話だと思う

2024-07-11

anond:20240710200247

政治屋政治家の違いがよくわかんないけど、家系の方が総本山直系ってことでいい?

2024-07-09

虚弱すぎる

20代後半。女。

世の中の人間みんな元気で羨ましい。

私の日常は家から車で10分の職場で働き、土日どちらかに外出の予定があるともう1日は体力回復のために寝て過ごす。たいへん無駄だがそうでもしないとすぐ体調を崩す。

調子に乗って食べつけないものを食べるとすぐ胃がムカムカして気持ち悪くなる。遠出するとすぐ筋肉痛になる。予定が立て込んで寝る時間がずれると眠れない。職場他人と喋ると気力を使い果たしてドッと疲れる。

日々のルーティーンをこなしている間は(一番体調がベター選択肢を取っているので)わりと平気なのだが、少しでもイレギュラーなことが発生するとすぐ具合がおかしくなる。いっそのこと発熱や腹痛などわかりやす体調不良になればいいのだが、「なんとなく気持ち悪い」「なんとなくだるい」みたいなのがジワジワ続く。

自分親族神経衰弱家系なので遺伝なんだろうと思うが、根本的な解決もないまま名状し難い不快感と共に生きている。

当たり前だがこんな様子だとちょっと夜遊びに行こうとかちょっとハメはずして遠出しようとかもあまりできない。(できなくはないが元気の前借りをすることになるため後ほど多大な犠牲を払うこととなる)

周りの友人はしっかり仕事キャリアアップ結婚出産などをして人生謳歌している。さまざまなことの反動で1日家で横たわっているのは自分だけだ。丈夫な肉体が羨ましい。

2024-07-08

親戚が内田有紀さんと結婚約束してた

https://anond.hatelabo.jp/20240708105059

血のつながりはないし会ったこともない親戚だけど、幼稚園内田有紀さんと結婚約束をしてた人がいたのを思い出した。

芸能人の再会したい人を探し出して会わせる番組でやっていた。

その人はオーストラリア留学中ということでスタッフ取材に行くと、夏休みなので日本に帰ってますと言われ日本とんぼ返りという茶番を挟みつつ、ついに親戚が登場かと思ったら、実は音声さんのふりをして最初からずっとスタジオにいましたというオチだった。

この親戚の家系には、ほかにもすごいモテかたをした人がいた。

その人は芸能人でも水商売でも特別活動をしていたわけでもないが、左翼にも右翼にもモテモテファンがいたという。

左翼ファンだと堺利彦右翼ファンだと北一輝がいて、北一輝からは「奥さんファンだ」と言われたりしたそうだ。

2024-07-06

25歳

25歳になりましたあ〜!

私は母親が25歳の時にこの世に産み落とした子供なので、なんか25歳になるってちょっと特別な感じがします。10代の時に思ってた25歳よりもだいぶだらしない仕上がりになっていますが、それにちょっと安心感を覚えているところも正直あります

私の人生中学受験を機にだいぶ上方修正されてしまいましたが、本来なら田舎で娯楽がないが故にうっかり子供ができて若き母親になってたっておかしくないようなカードを引いて生まれたので。これまでちょっと上振れしすぎてたのをちょっとだけ本来非常に高かった可能性の方に修正してるみたいな感じなんですかね。

思いつく限りの血縁者を見渡しても大卒者が2人しかない田舎学歴軽視家系に生まれておきながら私結構頑張ってると思います

宇宙人を見るような目をされながら中学受験をするという意見を半ば無理やり通し、通塾権を獲得した10歳の私ガチナイス。そしてちゃん目標に据えた学校に受かって人生バチバチに切り開くきっかけと一生物の人脈を掴んだのはエクセレント。もはやファビュラス。明確にそこで人生が変わりましたよん。

その後まさかセンター試験1週間前に父親から「なぜお前が遊ぶ時間を買うために俺が4年間も金を出さねばならんのや 公務員試験じゃダメなのか」と言われたとき、うちの家系常識から自分が大きく外れたことに気がつきました。

あ、ちな父親悪い人みたいになってますが、離婚してから一緒に住むことすらできてない娘の得体の知れない選択によって発生したエグめの学費を払い続けてくれた最高の父です。本当に本当に本当に感謝してますわがまま聞いてくれてありがとう。ごめんね。

親に自分の出生に至るまでのストーリーを聞いたことはありませんが、小学生とき母親ママ友に「妊娠したとき○○(遺伝子上の父)とは付き合ってなかったんよね〜☆」的なことを話しているのをうっかり聞いてしまったので私はたぶんうっかりベイビーあるいは未だ知らぬ男の娘です。

死なせずにちゃんと育ててくれたと言えばそうかもしれませんが、「親である前に女」系毒親に育てられたおかげでいろいろ歪んでしまいました。

布団の下に隠されていた日記帳DV男との夜の営み記録が記されているのを見たあの日、明確に私の精神は一回死んだんですよ。

深夜に男のところにこっそり行くべく家のドアを開閉する音は未だに耳にこびり付いているし、弟と共に放置されて男との電話に勤しむ声を聞く日々も、男との思い出の品を平然と生活空間に並べられる苦痛も、「子供からそんなことをしても何も分かってないだろう」と私よりも遥かに頭がよろしくない母親にみくびられていたという本当に本当にこの上なく耐え難い屈辱も、残念ながら全部恨んでいるしそのせいでだいぶこちらの価値観おかしくなりました。眠剤でキマってさながらゾンビの如き母親毎日目の当たりにさせられたあの日々の地獄具合が分かりますか?言いたいことがありすます。でも人間って単純じゃないから、こんなに恨んでてもLINEが来たら返しちゃうし今すぐに縁を切る決断もできません。

自分人生に明確に責任を負い始めた時期が私は人より早い気がするのに、まだ全然どこかに責任転嫁したくなっちゃます

25歳じゃまだ無理なのかあ〜〜!!

帰っておいでと言われても帰りたくない場所しかいから、結婚するとかして帰りたい場所を作るか、守るべきものを作るとか(でも子供は産みたくない)しないとそのうち自殺しそうです。困りましたね〜。 30歳になったとき、あの時の私ガチナイス!と言えるような選択をそろそろかましておきたい。まだ選択肢すら手元にございませんが。そんな感じです。

おわり〜

25歳

25歳になりましたあ〜!

私は母親が25歳の時にこの世に産み落とした子供なので、なんか25歳になるってちょっと特別な感じがします。10代の時に思ってた25歳よりもだいぶだらしない仕上がりになっていますが、それにちょっと安心感を覚えているところも正直あります

私の人生中学受験を機にだいぶ上方修正されてしまいましたが、本来なら田舎で娯楽がないが故にうっかり子供ができて若き母親になってたっておかしくないようなカードを引いて生まれたので。これまでちょっと上振れしすぎてたのをちょっとだけ本来非常に高かった可能性の方に修正してるみたいな感じなんですかね。

思いつく限りの血縁者を見渡しても大卒者が2人しかない田舎学歴軽視家系に生まれておきながら私結構頑張ってると思います

宇宙人を見るような目をされながら中学受験をするという意見を半ば無理やり通し、通塾権を獲得した10歳の私ガチナイス。そしてちゃん目標に据えた学校に受かって人生バチバチに切り開くきっかけと一生物の人脈を掴んだのはエクセレント。もはやファビュラス。明確にそこで人生が変わりましたよん。

その後まさかセンター試験1週間前に父親から「なぜお前が遊ぶ時間を買うために俺が4年間も金を出さねばならんのや 公務員試験じゃダメなのか」と言われたとき、うちの家系常識から自分が大きく外れたことに気がつきました。

あ、ちな父親悪い人みたいになってますが、離婚してから一緒に住むことすらできてない娘の得体の知れない選択によって発生したエグめの学費を払い続けてくれた最高の父です。本当に本当に本当に感謝してますわがまま聞いてくれてありがとう。ごめんね。

親に自分の出生に至るまでのストーリーを聞いたことはありませんが、小学生とき母親ママ友に「妊娠したとき○○(遺伝子上の父)とは付き合ってなかったんよね〜☆」的なことを話しているのをうっかり聞いてしまったので私はたぶんうっかりベイビーあるいは未だ知らぬ男の娘です。

死なせずにちゃんと育ててくれたと言えばそうかもしれませんが、「親である前に女」系毒親に育てられたおかげでいろいろ歪んでしまいました。

布団の下に隠されていた日記帳DV男との夜の営み記録が記されているのを見たあの日、明確に私の精神は一回死んだんですよ。

深夜に男のところにこっそり行くべく家のドアを開閉する音は未だに耳にこびり付いているし、弟と共に放置されて男との電話に勤しむ声を聞く日々も、男との思い出の品を平然と生活空間に並べられる苦痛も、「子供からそんなことをしても何も分かってないだろう」と私よりも遥かに頭がよろしくない母親にみくびられていたという本当に本当にこの上なく耐え難い屈辱も、残念ながら全部恨んでいるしそのせいでだいぶこちらの価値観おかしくなりました。眠剤でキマってさながらゾンビの如き母親毎日目の当たりにさせられたあの日々の地獄具合が分かりますか?言いたいことがありすます。でも人間って単純じゃないから、こんなに恨んでてもLINEが来たら返しちゃうし今すぐに縁を切る決断もできません。

自分人生に明確に責任を負い始めた時期が私は人より早い気がするのに、まだ全然どこかに責任転嫁したくなっちゃます

25歳じゃまだ無理なのかあ〜〜!!

帰っておいでと言われても帰りたくない場所しかいから、結婚するとかして帰りたい場所を作るか、守るべきものを作るとか(でも子供は産みたくない)しないとそのうち自殺しそうです。困りましたね〜。 30歳になったとき、あの時の私ガチナイス!と言えるような選択をそろそろかましておきたい。まだ選択肢すら手元にございませんが。そんな感じです。

おわり〜

anond:20240705220626

子育て終わったんか!いいなー

夫さんが亡くなったのは本当に気の毒だけど

子育てに終わりが来るモードなのがうらやましい

うちの家系は子孫に重度の認知障害が出るから子育ての終わりはない

あえて終わりがあるとすれば親の死

それでも上の代だと親の死後に子は施設入所で大丈夫なはずだったんだけど

今の代では施設も無くなってるんだよなー

2024-07-04

anond:20240703222149

床屋家系から医者って例が身近にやたらいて「庄屋さんじゃなくて髪切る床屋」かどうか確認したらやっぱり床屋だった

すげえ不思議だった

2024-06-26

anond:20240626100644

なんで比較対象なら同性にしないの?

増田女性でBさんは絶対女性にしたかったのなら、

東大には山手線の内側で生まれ育った上級国民お嬢様なんて大勢いるんだからAさんもそういう女性にした方が自然なのに。

Bさんの記述を見ていても、兄や弟と教育に差を付けられたとか県立トップ進学校男子校だったとか

女子ならではのエピソード特にないし。

Aさんを男でBさんを女にしたせいで、はいはいどうせBさんはAさんと結婚してエリート家系に組み込まれから心配不要なんでしょって冷めた気持ちになるよ。


この漫画もそうだけど、経済的格差に焦点を絞るならば比較対象を異性にすると軸がブレると思う。

https://tabi-labo.com/280195/on-a-plate

2024-06-25

ラーメン備忘録

新宿エリア

魚介だしの効いた人気店。毎日使う魚が変わる。ラーメンの後に食べる焼きおにぎりがいい。スープにほぐして〆る。個人的にはみょうが薬味が大変良かった。

池袋エリア

ホタテのダシを取っているラーメン屋。入店からホタテ香りがすごい。うまかった。

  • MENYA NAKAGAWA

現代的な内装外装と味わいが程よいラーメン屋。オススメつけ麺。でも私は醤油が一番いい。二郎とか家系敬遠してる人には特にオススメ

練馬エリア

味玉とチャーシューメンマネギ三つ葉オーソドックス、鳥と昆布スープ全粒粉入り麺がうまい「そうそう これでいいんだよ」をアップデートたかのようなラーメンデイリーユースですすれるしつこくなくもたれることもない味が良い。

anond:20240624182148

いい感じ。

適度に親の代でスペックを均した方が、生まれてくる子供の代で家系格差や家庭間格差が縮まり社会的に望ましくなる。

ガチャとか子供貧困というのが少なくなるよ。

逆に、凄い男女同士と低レベルの男女別同士で配合するルール世界想像してごらん。

子供同士での格差危険なことになるもの

2024-06-23

うちの家系は親戚に医療法律系の人物がいるが、資産相続狙いのために医療差別を受けるのは嫌なわけだ

こんどから医師にかかるときは、土下座して、それ伝えておこうかなあ

anond:20240623124835

両親が複合氏であるときの子供の氏についてはざっと調べた所、各国こんな感じみたい。

(最初に書いた増田法務省QandAは平成22年調査をもとに書かれたものなので、法律が変わった場合などズレがある場合がある)

 

フランス

両親自身の氏が二重氏(複合氏)であるときは,子に付与することので きる氏はそれぞれ一つに限られる。この制限は子の氏が無限に長くなること を避けるという実際的理由による。(p296)

https://www.waseda.jp/folaw/icl/assets/uploads/2014/05/A04408055-00-038020288.pdf

 

ドイツ

両親の結婚の際は夫妻ともに複合氏にすることはできるが

元の文に書いた通り、子供の複合氏は出来ない。子供ごと(兄弟ごと)に氏は変えられない。

 

中国

両親の結婚の際は夫妻ともに複合氏にすることはできるが

子供の複合氏は認められていない。

 

イギリス

結婚の際には元々伝統的に氏に関する法律規定はなく、氏を自由に変更できる。同氏も別氏も複合氏も選択できる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%A9%A6%E5%88%A5%E5%A7%93

親は子供に全く異なる姓を与えることも、片方または両親の姓を名乗ることもできる。

https://www.bbc.com/news/world-us-canada-39417074

英国貴族ジェントリ家系には、「三連姓」を持つ家系がいくつかある、「4つの姓を持つ」姓もいくつかあり、絶滅したバッキンガム公爵家とシャンドス公爵家の姓は、5つの姓を持つ。

https://en.wikipedia.org/wiki/Double-barrelled_name

 

スペイン

スペインスペイン語圏のほとんどの国では、姓を二つ持つのが慣習。スペインでは、女性結婚しても法的な姓を変えることは一般的にない。子供最初の姓は通常父親最初の姓になり、2番目の姓は通常母親最初の姓になる。

https://en.wikipedia.org/wiki/Surname

 

ロシア

ロシアでは結婚の際に二重姓になることはやや珍しいが、普通で受け入れられている慣習であり、両方の家系を守りたい一部の名家と関連していることが多い。子供には父親の姓、母親の姓、または父親母親の姓を任意の順序で結合して形成された二重姓が割り当てられる。子供の二重姓はハイフンで書かれたとき接続された2語以下で構成できる。

https://en.wikipedia.org/wiki/Double-barrelled_name

anond:20240622123122

恥ずかしながら臭かった側だ

妻(当時は彼女)に「ごめんだけど口臭するよ、胃が悪い感じがする」と言われて超ショックだったけど歯磨き、フロス、舌磨き、マウスウォッシュを丁寧にするようになり、毎朝ブレスケア二つぶのんで、ちょっと胃が調子いかな?という日は朝イチで太田胃酸を飲んでる

からは本当に良くなったありがとうと言われたけど今は妻に感謝だよ

俺の家系胃腸が弱く、親父は胃がんサバイバーだし、当時仕事ストレスやばかったかシンプルに胃からだったと思うけど、口周りのケア普通にやると気持ちいいし今は習慣になったよ

明るい感じ+心配してる様子だったら言われた側も素直に受け止められるからうまい感じで言ってあげてくれ

2024-06-22

anond:20240622110432

戸籍家系なんてなんも関係ないよ

住民登録制度さえあれば戸籍なんかなんの必要もない

anond:20240621180502

台湾人結婚した日本人だけど、以前、増田と同じことを思って妻に相談したことがある。

日本では、外国人結婚する場合夫婦別姓可能になっている。なので僕たちは実際に夫婦別姓暮らしている)

 

まず、台湾での状況について妻に聞いてみた。

台湾では、例えば兄弟が二人いたら、一方は父親の姓を名乗り、もう一方は母親の姓を名乗ったりするそうだ。また、姓は子供が成人後、自分意志で変更することができる。実際に、妻の友人の中にも姓を変更した人がいて、これは特別珍しいことではない。

妻のきょうだいは全員が父方の姓を名乗っているんだけど、これは家系アイデンティティというよりも、姓名のバランス考慮した結果だそうだ。姓名のバランスを考えたときに、父方の姓のほうがゴロがいいから、という程度の理由らしい。

台湾では同じ姓を持つ人が多いので、学校では下の名前で呼ばれ、友人同士ではあだ名で呼び合うことが多い。また社会的にはイングリッシュネームを使う場面も多い。(行政的には日本マイナンバーに相当するものがあるため、個人識別における問題もない)

 

「じゃあ、僕たちに子どもが生まれたらどうしたい?」と聞いたところ、「どっちの姓でもいいと思うよ。日本生活するなら日本人らしい姓の方が生活やすいと思うけど、最終的には子どもが決めることだよね」という答えが返ってきた。日本では本人であっても姓名の改名が難しいことを伝えると、「どっちかの姓をミドルネームにしたら?」と言われた。(こういう発想は自分から出てこないので面白い

 

妻との対話を踏まえると、選択夫婦別姓における子どもの性については、以下がヒントになると思う。

マイナンバーのような制度は、上記を支える社会的な仕組みともなり得るので、そういったビジョンも含めて普及・改善が進んだらといいなと思う。

2024-06-21

私は高齢出産母親からまれたけど長命家系のせいか体力容色共に10歳ほど年下の人と比べても遜色なかったわよってレスしそうになったけど我慢したえらい

どうせそんな特殊例出されてもって言われるに決まってる

2024-06-19

弱者男性三人組

第1章:奇妙な三人の出会い

あるところに三人のモテない独身男性がいました。田中一郎山田二郎鈴木三郎。彼らは高校時代からの友人で、それぞれ違った背景を持っていますが、女性との交際歴がない点で共通していました。

一郎は内閣総理大臣長男であり、エリート官僚として働いていますが、女性との交際歴はゼロ二郎東大卒天才プログラマーで、年収は高いものの社交的ではなく恋愛経験は皆無。三郎は成功した投資家で億万長者ですが、女性とは縁遠い生活を送っていました。

第2章:元気な退魔師との出会い

ある日、三人がいつものようにカフェで集まっていると、元気な小学生女の子、舞響(まいきょう)美月が駆け寄ってきました。彼女は退魔師の家系に生まれ、舞響大天という神様信仰していると話しました。美月は町で起こっている奇妙な現象に困っており、三人に助けを求めたのです。

「おじさんたち、助けて!最近、町で変なことがいっぱい起こってるの。おじいちゃんもお父さんも忙しくて、私だけじゃどうにもできないの」と美月真剣眼差しで言いました。

三人は驚きながらも、美月の熱意に押されて、彼女の頼みを聞くことにしました。こうして、三人と美月の奇妙な冒険が始まったのです。

第3章:調査発見

美月の案内で、三人は町のあちこち調査しました。奇妙な現象の一つは、古い廃墟での怪しい光や音でした。美月祖父から聞いた話によれば、そこには悪霊が封じられている可能性が高いとのことでした。

廃墟に到着した三人と美月は、不気味な雰囲気に圧倒されながらも中に入る決意をしました。中に入ると、そこには古びた祭壇と奇妙な模様が刻まれた床がありました。美月は持ってきた退魔道具を取り出し、準備を始めました。

第4章:退魔の儀式

美月の指示に従い、三人は祭壇の周りに配置されました。美月が舞響大天に祈りを捧げ、呪文を唱え始めると、祭壇が輝き始め、部屋全体が震えました。三人は恐怖に怯えながらも、美月を信じて立ち続けました。

突然、祭壇の上に黒い影が現れ、悪霊が姿を現しました。美月は退魔の剣を振りかざし、悪霊に立ち向かいました。一郎、二郎、三郎は美月を守るため、力を合わせて悪霊に立ち向かいました。

第5章:決着と悲劇

激しい戦いの末、美月は退魔の剣を悪霊に突き立て、封印を施しました。悪霊悲鳴を上げながら消え去り、廃墟は静けさを取り戻しました。三人は疲れ果てましたが、美月笑顔で言いました。「ありがとう、おじさんたち。これで町は安全だよ!」

しかし、その後、町では別の不幸が訪れました。美月悪霊との戦いで力を使い果たしたため、彼女の体には大きな負担がかかっていました。彼女は徐々に体調を崩し、入院することになりました。医師の診断によれば、美月回復は難しいというものでした。

第6章:三人の未来

三人の弱者男性は、美月を救うことができたものの、彼女健康犠牲にしてしまたことに心を痛めました。彼らは美月の見舞いに通い続けましたが、彼女の体調は改善せず、次第に意識も失われていきました。

ある日、美月の病室で、彼女家族が集まりました。三人はその場に立ち尽くし、何もできない自分たちに無力さを感じました。美月父親は三人に感謝言葉を述べましたが、その瞳には深い悲しみが宿っていました。

第7章:永遠の別れ

美月が息を引き取ったその日、三人は静かに病室を後にしました。彼らはそれぞれの生活に戻りましたが、心の中には美月との思い出が深く刻まれていました。

三人は友情を深めながらも、再び同じようなことが起こらないようにと誓いました。彼らは定期的に美月の墓を訪れ、彼女冥福祈りました。美月との永遠の別れを受け入れながらも、彼女勇気と優しさを忘れないように心に刻んでいました。

しかし、美月の両親は三人に対して深い恨みを抱いていました。彼らは三人が美月を無理に危険な状況に巻き込んだと信じ、娘の死の責任を追及しました。三人は町の人々からも冷たい視線を受け、孤立していきました。

2024-06-18

発達障害水泳平成不況リーマンショック、30代

・これは何か

私の半生を占める水泳と、それがその後の人生に及ぼした影響について整理するために書いた記録である

なお、当時は強いストレス下に置かれていたため、詳細を思い出せなくてぼんやりしている部分もある。

・なぜこれを書いているか

私は現在休職状態にあり、ADHDの診断を受けたところである

精神科に通いつつ、投薬とカウンセリング治療をおこなっている。

そしてカウンセリングを受けつつある今、自分がいまこうなっていることの底にはあまりに苦しかった水泳記憶があり、それを直視することは避けては通れない道ではないかと思ったからだ。

(先生に直接「直視しろ」と言われたわけではない。ただ、「あなた言葉あなた感情をひとことも説明しませんでしたね」、と言われ、その原因を自分で考えていたら、勝手にそこに行き着いたという話である)

正直に言えばそこに目を向けるのはめちゃくちゃ嫌で、前回のカウンセリングを受けてから2週間くらいメソメソメソメソメスティーソ泣いていたのだが、友達と遊んで少し息抜きをしたらちょっとした気づきと癒やしがあり、なんとか気力を振り絞れそうなので書いてみた。

水泳のこと

3歳から高校2年まで水泳をやっていた。

早いうちに才能を見出され、小学校1年か2年くらいでヘッドハンティングのような形で選手育成クラスに移った。

当時、肉体にすごく負荷を掛ける練習方法流行っていた時代だったから、シンプルに肉体的につらかった。スパルタが主流で、体罰は当たり前だった。

楽をしようものならコーチにも怒鳴られ叩かれ全員の前で吊し上げられた。そこまでは周りのみんなと条件は変わらないのだが、私の場合母親ほとんど毎日練習を見にきていて(それほどに熱心な親は他にはいなかった)、仮にコーチに怒られなくても、母親の目から見て私のパフォーマンスが悪ければ、そのことを帰りの車の中で詰められる日々だった。

行き帰りは車で母親に送迎してもらっていたが、車の助手席に乗り込むと母親の「今日練習について」の裁判が始まるので、毎日まるで犯罪を犯して法廷に立たされるみたいだった。キツい負荷の練習をこなしてやっと家に帰れるのに、すこしも安らいだ気分になれなかった。

でも、私は無理にでもやらせればやらせただけ、負荷をかければかけただけ、結果が出せてしまタイプ人間だった。

父親も叔母もスポーツ学生時代成功した経験があって、家系としても肉体的に優秀だったのだと思う。

それが母親成功体験になってしまい、尻を叩けば叩いただけ結果が出るという思い込みを強化したふしがおそらくあるんじゃないかと思う。

長期休みに入るたび、朝夕2回の練習では足りないと別のプールに連れて行かれ泳がされた。この習慣は我が家では「こそ練」と呼ばれていた。

ただでさえキツい練習をしてるので嫌だったが、嫌がれば母親から「速くなりたくないの?」と頷くまで詰められる。

こうやって追い込めば追い込むほど結果が出たので、母はどんどんエスカレートしていった。

極め付けはようやく出来始めた友人関係破壊されたことだった。

中学に上がると、小学生選手育成クラスから中学クラスに上がって、ここがジュニア女子選手としては一番上のクラスだった。その上に、高校生の男子さらにその上澄みだけが入る、一番練習ハードクラスがあった。

いま振り返ってみると、私はかなり発達障害的な特性のはっきり出た子どもであり、周りと関わるのがかなり下手だった。だから、キツい練習を何年も毎日一緒にこなしてきたというのにチームメイト連帯感を育めなくて、ずっと浮いていた。浮いているのに才能だけあったから、周りからすると目障りな子どもだっただろうと思う。選手育成クラスというだけあってそこそこ実力主義ではあるので、幸運にもいじめられこそしなかったが(あるいは特性上あまり他人に興味がなく嫌がらせに鈍感だっただけかもしれない)、やっぱり浮いていた。私は人生を通してずっと普通になりたい、と漠然と願ってきたが、その願いはこういう環境のなかで醸成されてきたように思う。

(ちなみに、当時どのくらい浮いていたかというと、なんか男子たちが私に話しかけるのを何かの罰ゲーム一種として扱っているな、と気づいたことがある程度には浮いていた)

けれど、ここで話の合う友達ができたことで、この一瞬だけ練習に行くのが楽しかった時期があった。

私はもともと才能があったので、中学生のクラスを受け持っていたコーチにも期待されていたし、たくさん話を聞いてもらえて、私自身もコーチのことを頼れる大人だと思っていたし、期待に応えたいと思っていた。信頼関係を築ける大人との出会いがここであった。だから、このクラスちゃんと私の記録は伸びていた。

だけど母はその伸びでは満足できなかった。

母にはいわゆる白雪姫の母コンプレックスみたいなものがあって、私が楽しそうにしていると不安になる性質だった。不安を感じやすく、その解消のために誰をどれだけ振り回しても良いと考える傾向があった。

私が楽しんで練習に行き始めた時、母は不満だった。私が苦しんでいないから、きっと負荷が足りないのだと考え、「娘の才能が無駄に消費されている!」と強く不安を感じたのだろうと思う。これでは速くなれない、と母は考えた。

そして、「上のクラスに上がりたいと言いなさい」と母は私に強要した。

私はかなり嫌がった。もともとジュニア女子が入れる中で一番上のクラスではあったし、せっかく話の合う友達ができたのに、その子たちと話せなくなってしまうことも嫌だった。先生の期待を裏切ってしまうことにもなる。すごく抵抗があったことは覚えている。

母は私に、「あん肥溜めみたいなクラスにいたら、あなたダメになってしまう」と言った。

嫌だった。泣いて抵抗した気がする。あまり覚えていない。でも、最終的には「上がりたい」と言わされた。コーチはショックを受けていたと思う。でも最終的には上のクラスコーチに頼んでくれて、私の(母の)要求は通った。

中学1年の女子高校生の男子クラスに入れられて泳ぐことになった。毎日階段をまともに降りられないくらいの筋肉痛になった。まわりはひと回り年の違う高校生の男子しかいないので、友達と話せる機会は減った。肉体の負荷は上がるのに、心の支えは何もなくなり、ただ苦しかったしつらかった。

私が苦しんだので、母の不安は解消された。

そして、精神とはうらはらに、私の肉体はそれに応えた。

実際に大幅に記録が伸びた。一緒に泳いでいた高校生の男子より私は上のタイムを叩き出し、彼らにもよく頑張ったと認められた。中2のころにはジュニアオリンピックで決勝に残り、関東中学で優勝し、全国でも10本の指には入った。国体にも県代表で選出された。県で私より速い選手はいなくて、私がベストを出せばその度に大会新記録、県の新記録だった。母はこのことについて、自分が尻を叩かなければ結果が出せなかったはずなので、自分の手柄だと考えた。

注意して欲しいのは、これらの成果を私自身もまた喜んでいたこである。才能や能力があると見做されることは、特性持ちの人間にとっては他人から受けるマイナス感情を弾く盾にもなる。母の手柄は、私を絞り上げ、苦しめて作り上げられたものであるが、同時に私を守るものでもあった。

あなたは結果で他人を黙らせなさい」というのが、母の持論だった。母は私のために、心を鬼にして私を苦しめていたはずである。叩けば結果が出ることがわかっていたのだから

この頃から試合合宿遠征先に行くと、夜中にこっそり抜け出して、当て所もなく歩き回るようになった。特に裏道や暗い道を選んで歩いた。いま考えると、間接的な自傷だったと思う。酷い目に遭いたかった。私という価値が一気になくなってしまうくらい、誰かに酷い目に遭わされたかった。母が守る『私』という価値と、それに伴う苦しみが分かちがたく結びついていたために、母の目の届かないところで地味な自傷行為に走っていたのだと思う。

体に傷を残すようなことはできなかった。そんなことをした日に母を襲う衝撃と、その衝撃の余波を受ける自分のことを考えたら、とてもではないが無理だった。

しかし、こういう無理は続かないものである。ほどなくして精神的に破綻して、泳げなくなった。中3の秋ごろだったように思う。喘息悪化させ、負荷のキツい練習から逃げ、最後は何か喚き散らして家に帰り、そこからしばらく練習に行けなくなったように思う。詳細は覚えていない。

だけど、そこで辞めるには水泳は私の人生で大き過ぎた。人生の大半を占める一大事業に等しかった。だからそこから高校2年の夏まで、通うスクールを変えて足掻きブランクを取り戻し、記録は少し伸びたし、インターハイにも出た。

ただ、大学受験に切り替えるならこの辺りがタイムリミットだった。結局、わたしはここで引退して受験に切り替えた。水泳のために自分学力よりかなり下の高校に行ったので、辞めてから予備校漬けになった。

受験勉強は圧倒的に楽だった。体の負荷も消えたし、学業自分特性から見ても結果の出しやすい分野だった。あまりにも結果が出やすくて、母も不安にはならなかった。躓きや苦しみも多少はあったが、水泳で受けたそれとは比べ物にならなかった。この時期、私と家族はかなり明るく過ごした。

大学には簡単合格した。願書を出した大学ほぼ全てに受かった。

とにかく家を出たかったので、その名目が立つ大学を選び進学した。

ここから水泳を辞めた後の話に入る。

友達が作れない、学業に身が入らない問題が出る大学1年目

ひとり暮らしをはじめて、やっと手に入れた自由を楽しんだ。でも1年目、ぜんぜん他人との関わり方がわからず、友達が作れなかった。小中高と水泳にかまけていて、相変わらず発達特性的な部分で学校でも浮いていたし、そもそも自分偏差値より随分下の学校に行った(水泳にはリレーメンバーの都合がある)ため、頭の程度が均されている環境でほかの人間と接して友達になる機会がまったくなかったのだ。県大会で何度も優勝し、実家に腐るほどトロフィーがあっても、友達の作り方がわからなかった。この時点で、私の能力は社交性に比して随分歪だったと言えると思う。

ひたすら学校と家を行き来して、家ではゲームばかりやっていた。

1年の後半の方になってようやく所謂オタクサークルに入って、対人能力に似たような問題を抱えた人たちに出会い、それでやっと少し友達ができた。ここから就職活動が始まるまでは、楽しく過ごせていたと思う。彼氏もできた。

とはいえ、あまり成績は良くなかった。勉強したいと思って進学したはずなのに勉強に向かう気力が湧かなかった。どころか、水泳を辞めたことが傷になっていて、「どうせ最後には全部台無しにする、水泳だってあれほどつらい思いをして人生を捧げてきたのにそうやってダメにした」と囁く声が頭から離れなくて、あまり集中できなかった。

漠然と、卒業したら死のうかな、と思っていた。

就活ができない問題が出る大学3年生

学業もそんな感じだったので、いざ3年になってもぜんぜん就職活動を進められなかった。というか授業もギリギリラインだった。

振り返ると、つらい思いをして思春期を生き延びた先に、ようやく手に入れたご褒美としての『自由』がたった4年で終わることに全然納得が行っていなかったんだという気がする。他の人たちは将来を考える精神の準備ができていたのに、私には何もできていなかった。こんな人生の先に、また何十年も続く苦痛が待っていると思って、絶望感があった。

就職留年

このあたりのことはぼんやりしているが、就職活動が出来なさすぎて就職留年した。ちょうどリーマンショック東日本大震災の影響があった時期で、特に女子就活は周りを見渡しても厳しかった。なので就職留年という言い訳は通った。

でも、留年したのに就活全然ちゃんとできていなくて、とうとう親が乗り込んできた。希望する企業の傾向は決まっていたので、母親マイナビリクナビエントリーする企業を選んでくれて、エントリーシートや履歴書に書く志望動機などの文章としてこちらで考えたら、それを母が手書きで代筆してくれたりして、こんな大学生はおそらく他にいないなと思うほど過剰にサポートしてもらった結果、なんとか書類選考が通るようになり、面接を受けたりと就職活動らしいものを進めることができた。

面接が苦手すぎて苦戦はしたが、なんとか内定をもらった。たた、周りがちゃんとこなせていることも自分にはろくすっぽできないとわかって情けなかった。

卒論が出せなくて2度目の留年

このあたりもぼんやりしている。夏くらいに内定が決まって、そこからしか全然ゼミに行かなかった。いや、たぶん特性的に並行してふたつのことができないので、就活中はゼミにも授業にも行けていなかった気がする。内定が決まった後、バイトしろと言われてしていて、必要な授業の出席とバイトくらいはしていたが、ゼミに出てないので卒論が当たり前に書けなかった。英米文学専攻なので卒論英語で書く必要があった。ぼんやり決めたテーマがあるくらいしかなくて、そのまま冬になった。ちょっと書こうとしたけれど当たり前に書けなくて、でもそれを就活を熱心にサポートしてくれた親には言えなくて、卒論提出の日に失踪した。1〜2週間家に戻らず、銀行口座の金が尽きたら死のうかなくらいの気持ちでいた。漠然と死のうと思っていたし、その時が来たのかと思っていた。

結局親に口座の金を引き上げられて、無様にも死ねずに戻った。怒られ、殴られ、彼氏にも心配をかけまくり、色々あったとは思うのだが、この辺りの記憶ぼんやりしている。

ひとり暮らしの家を引き払い、実家カンヅメになって母親監視のもと卒論を書いた。足りない単位のための授業とバイト以外の外出はさせないくらいの感じだったと思う。

ひとり暮らしの家を引き払った時、この時も家がゴミ屋敷になっていたので、ゲーム依存病気だと親に疑われたが、ゲームは単なる逃避行動で、やれない環境であればあっさり辞められた。振り返ってみれば、何らかの支援の網に引っ掛かっておくタイミングがここだったような気がする。ただ、スポーツで結果を出し、世間的には良い大学に行ったような人間が、ゲーム依存なんかで病院に罹るのは外聞が悪い、という意識がなんとなく家族全員にあったのか、結局ここでは必要だったであろう支援とつながることはできなかった。

この環境でなんとか卒論を書いて卒業した。就職は結局バイト先に拾ってもらうかたちになった。

新社会人として

もう一度実家を出てひとり暮らしをはじめた。

働き始めるととにかく眠かった。ひたすら眠かったことを覚えている。仕事でも会議でも寝てしまい、怒られて、怒られたあとは体が一時的闘争反応というか覚醒状態になるので、それで過集中を起こし仕事を進めてなんとか巻き返す、みたいな感じだったと思う。昼に寝てしまうので夜は眠れなかった。その悪循環で昼にまた意識を失った。

本当は病院に行くべきだったと思うが、家に帰るとその気力もなかった。家の電球が切れて、ほとんど暗闇だったのにも関わらずその家を引っ越すまで電球を変えられなかった。1年以上真っ暗闇で生活した。歯が折れて激痛でも病院に行けなかった。ぎっくり腰でも行かなかった。ゴミ屋敷はここでも生産された。

この時期私は相当な困難を抱えていた気がするけれど、同時にどこか安心しているような部分があった。自分価値がこうやって毀損されていくことに対する「ざまーみろ」という気持ちがあった。ちょうどこの頃、母親と完全に連絡を遮断して、実家と絶縁状態になった。直接のきっかけはなんだったか覚えていない。ただ、自分価値ボロボロと溢れ落ち、人生ダメになっていくことについて、母親への不健全復讐欲求が満たされるように感じていたのは覚えている。

この状態を5年くらい続けて、3つくらいの現場経験した。就職先は人売りのSESだった。

コロナ禍でリモートワークが開始する

これは自分にとって大きな転換点だった。寝ているところを他人に見られないのでストレスが大幅に減り、なんとか自分が起きていられる時間帯に仕事を進め、眠りたい時は寝ていることができた。とても褒められた就業態度とは言えないが、それほど能力的なハードルが高い客先でなかった幸運もあって、なんとか巻き返しが効いた。この時期が一番平穏だったように思う。この現場自分にとって一番長く続いたし、終わり方も案件ごと終了ということで円満だった。

この現場が4年くらいで終わり、本社に戻ることになる。

本社に戻る。眠気の問題ふたたび

リモートワークが終わり片道40分くらいの通勤生活が数年ぶりにスタートする。10年近く戻っていなかった本社に知った顔はほとんどなく、コミュニケーションが得意そうな子たちの若い顔が並ぶ。すでにこの時点でうまくやっていけるか不安ではあった。

自社開発の案件アサインされるも、やはり眠気の問題が復活し、怒られる。仕事客先常駐とは違い、粒度の粗い仕事を上手いことやっておいてというような感じで振られるため、勝手全然からず、先の見通しが立たない。作業をうまくこなせず、進捗が出せない。学歴スポーツの成績だけ見れば能力はあるはずだと思われているので、サボっていると見做される。寝てるよね?なんでコミット全然出ないの?

年次だけは無駄に高いので直属の上司もおらず、まともな相談先もなく、周りの子たちは若くてこんなことを相談できる相手ではなく、結果誰にもうまく頼れずにひたすら信頼を失い続け、頼みの綱だった週1回のリモートワークも許可を取り消される。

社長から新卒みたいなことを注意させないでくれる?」と言われる。怒られて、闘争反応になった勢いで、なんとかメンタルクリニックの予約を取った。

そうやって通院治療を開始したのが、2023年10月ごろ。

日中の眠気、夜の不眠、集中困難、ゴミ屋敷などの問題が主訴。

これらの問題は通院治療を開始したところでたちどころに解消するようなものでもないので、年末年始休みを挟んだ後、ボツボツ休みが増え、雪崩れ込むように職場に行けなくなって休職開始。

心理検査(WAIS-Ⅳ)の結果、言語理解ワーキングメモリ・処理速度の間で有意差50を超えた。言語理解・知覚推理凸、ワーキングメモリ・処理速度凹のタイプだった。

この結果と、現在社会生活が送れていない実態をもって、5月ごろにADHDと診断された。

現在は、投薬治療カウンセリングを受けている。

・総括

概観してみると、今の私を状態説明する要点は、下記のようなものであると考えられる。

特性を持って生まれ子どもが、いわゆる体育会系世界に入れられ、なまじ才能があったがために、支援 Permalink | 記事への反応(21) | 22:15

2024-06-13

anond:20240612201458

子宮頸がんってがん家系かどうかって関係ないんじゃなかったっけ

男が持ってるウイルスが原因でなるから

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