はてなキーワード: 定理とは
俺は「少数派」とわざわざ明記した通り傾向の話をしているのであって、ε-δ論法のような存在定理の話をしているわけではない。
ピーターショルツ教授は、国際数学オリンピックの何とも素晴らしい幾何学の問題で満点で金メダルを受賞した天才だ。
ショルツ教授が解いた問題は、次のようなシンプルな問題。「解けない方が恥ずかしい」問題にあたる。
凸多角形の一辺に割り当てた多角形内部の三角形の最大値の和は凸多角形の面積の2倍以上になる。
IMOが公開した模範解答は、2種類あり、一つは定理を証明し、華麗に示すもの。もう一つは、ベクトルを使用した真面目で独創的な
答案になる。ベクトルを使用したものは非現実的で時間内には無理だ。しかし多くの数学マニアは、問題の分析にあたり、
理想的な模範解答を構成するのは難しい。そこには能力を超えたアイデアがあるからだ。
驚くのは21世紀になっても、このような素晴らしい問題が幾何学の分野に次々出てくることだ。幾何の分野は2000年前から大量の
特定の数学の問題に関しそれに親近性の高い既に確立されている定理を使うことは予想されるが、中々適用できないので、
数学者はそれを適用できるようにするために様々なテクニックを使う。
このように数学の論証過程全体とは結局のところ、論理上の技の着想という美しさとか、既存の定理を出現させるという光るような
着想美によって既にあるものを利用して説明をつけることである。
数学上の問題の解決は、数式の設定における高品質な技と、普遍的な性質に依存するということによって解決される。
隣り合う二つの自然数は無数にある。その最大公約数が1になるということは証明しなければならない。なぜなら自然数は無数に
その証明には、数式設定の技術と、 因数分解の性質に依存することによって解決される。
ABC予想はフェルマーの定理とつながっている重要な定理である。しかしその証明が完成していないのは主に数学者の思考能力の
探求力のなさとか、論理のギャップを補完する新しいテクニックの着想ができないとかの知能の問題にかかっている
法律以外 興味がないない
恋心 奪いちゃいたい
(Down with the second dimension!!)
好きな定理も似てるし
ハマる問題もおんなじ
だけど 黒羽に行った時は
別行動になったけど
ルックスのせいで
勘違いされるんだけど
やっと見つけ出せたんだ
電話してるのに すぐに切るし
目も合わせてくれないし
国際数学オリンピックもしてみた
超難問でも どんな問題でも
私だって 解けるのに
なんで なんで
私じゃ ダメなの?
勝てないのよ 勝てないのよ
どんなに努力しても
法学部には 勝てないの?
振り向いてよ 振り向いてよ
私と リア充になろうよ
でも そんなとこが 好きなんだけど
タテマエ以外 興味がないない
恋心 奪いちゃいたい
もぐらがライバル☆ (2番です。)
私は 教授でしょ
こないだ 対談したとき
腕が 時々腹が立ったんだ
それだけで ドキドキだよ
初等幾何学とか
もし 嘘だと 思うなら
付き合ってみてよ (じゃじゃじゃじゃん)
大事にしてくれるのに
まるで別人 気持ちが見えない!
勝てないのよ 勝てないのよ
私は 今日も ひとり
振り向いてよ 振り向いてよ
手をつないで 歩いてみたいの
ねえ 髪を青くすればいいの?
うちに来てよ 600冊の
勝てないのよ 勝てないのよ
どんなに努力しても
法学部には 勝てないの?
振り向いてよ 振り向いてよ
私と リア充になろうよ
でも そんなとこが 好きなんだけど
タテマエ以外 興味がないない
恋心 奪いちゃいたい
幾何学の問題を解くというのは技法の問題であって、問題のパターンに応じて使う技法は決まっておりパターンを丸暗記すれば解ける。
しかし、数学にガチで取り組む、すなわち、フェルマーの最終定理くらいなものを自分で完全証明するとなるととんでもないことになる。
初見の問題に対して自分で技を発見するというのは難しいし、技以前に、知られている定理を用いる場合にはその定理を知っておかないといけない。
また数学の技法とは結局のところ方法の着想の美しさに帰着するもので、当然恐ろしいものもある。
受験数学みたいなレベルなら何でもいいから教科書を丸暗記し、解き方の技法とかも丸暗記してクリアすればいいが、
東京都板橋区について、律令時代からの経緯は何も知らされていない。いわゆる天皇制、警察が組織されたのは7世紀の話である。それ以前は、
関西に豪族がいただけでこれといって法的なものはなかった。現在、板橋区にあるもののほとんどは、昭和22年から昭和天皇が作ったものである。
板橋区は出来上がった出来上がったといいながらもその町並みのほとんどは昭和天皇が作ったものだ。敗戦以前、明治時代のものなどあるのかどうか分からない。
板橋区は東京でも有数のつまらない街と言われながらも、昭和30年代に、フェルマーの定理につながる理論を発表した東京大の志村五郎が住んでいたと言われるほか
実はかなり有名な私立学校がある。また、都営電車から眺める風景は、ダサいと言われながらも、戦後に作られた高級マンションがひしめている。
蓮根、志村三丁目、前野町、 どこに行っても、超高級マンションだらけだ。生活保護世帯用のアパートでさえ、これが生活保護受給者に用意された住居かというほど
完成度の高いアパートが多い。相当前から、 消費社会、特に、平成時代の金もうけがものを言った結果としての現在の活況と言われている。
数学の問題を解くということは結局のところ、数学上許された技をみせるということですから、問題を解くにあたって、あらかじめ先生から似たような技の
種類を教わっておけば、どのような技を使えばいいのかはすぐに思いつくことです。それに対して初等幾何のように証明の技を何も教わっていないと
何年かかっても解くのは難しいと思います。フェルマーの料理というマンガで、ブロカールの定理などが紹介されていますがそんなものを習っている人は
ほとんどいません、もちろんマンガにあるようにブロカールの定理とかを使ったことがエレガントなのが当たり前です。マンガでは、僕は幾何学は座標計算で
解くことにしているんだ、という主人公が出てきますがこの記載は嘘です。かなりハイレベルな幾何の問題をデカルト座標で解くことなど無理です。
従ってその漫画には相当な誇張があると思います。またブローカルの定理を使って解いたというのは女性検察官のような女性の主人公ですが、
正方形のパッキング問題については科学誌のニュートンが、難問で解けないと紹介して終わっている。ネット上では灘高校生が類似の問題に関して
色々な定理を紹介しているが、正方形のパッキング問題ではない。それの他、インターネット上で、この問題に関して、いわゆる本物の数学の専門家が
プロの分析を公開しているものはない。従って我々はニュートンに記載されているところが大体だと思う。ニュートンは以下のサイトを援用している。
https://erich-friedman.github.io/packing/squinsqu/
多くの数学者が真面目に場合分けをして発見したり解いたりしているが、はっきりいってここに載っている図形以上の具体的な証明は何も書いていないし文献もない。
最近の数学者は、数学の世界にはこういうことがあるああいうことがあるというだけで、では肝心の証明に関しては一切説明しないところがある。しかし、数学の証明作業は
結局のところ、 数学が認めている、または、隠している、テクニックを着想するアイデアということになり、それのためには、数学的知識に対する教養のみならず、
たえず、 問題を解決するための技をいかに繰り出すかに関する芸術的創造的なトレーニングを必要とする。
では例えばそれがいかに難しいかというと、かの有名なフェルマー予想は完全証明に400年かかったのである。それのために必要な理論構築、その理論の上に
では、フェルマー予想が、ワイルズの方法ではなく他に簡潔な証明方法があるかというと誰も発見していないのである。
数学の定理に対してその証明がほとんどの場合用意されているというのは一種の奇跡のようなものであり、証明すること自体ができないという例がないと言われている。
多くの数学者は、証明の仕方がないというのではなく、まだ分かっていない、ということが多い。初等幾何学という典型的な数学の分野が示すように初等的な幾何学の問題は
全て初等的に証明されており、幾何学の未解決問題というのは存在していない。
日本円では、一方を1円にした場合に、 1円があれば全ての金額を払うことは自明だからフロベニウス数は存在しない。従って日本では貨幣交換問題は問題にならない。
フランスでは、2,5 サンチームという互いに素な貨幣があるためこの問題を考えることができる。 2,5サンチームだけを使って支払うことのできない最大の金額は
逆に4円以上の金額については、2,5サンチームを組み合わせることで全て支払える。これは数学上の美しい定理である。
例えば 7サンチーム 2+5
9サンチーム 4+5
11サンチーム 6+5
など。なぜこのようにして、支払えない最大の金額が存在し、それより大きなものは全て支払えるのかは数論上の難問である。
日本円には、1,5,10,50,100,500,1000,5000,10000円の紙幣ないし貨幣しかなく、このうち、互いに素 GCD=1となるのは、いずれかの貨幣を
1円にした場合しかないので実用上、 1円とそれ以外の組み合わせでしか試すことができない。
またこの定理は、 GCD=1となるように貨幣を2種類選ぶと、 支払えない金額の最大値があり、それ以上の金額については全て支払えるという美しい定理と言い換える
こともできる。
次にルーローの三角形であるが、初等幾何学上、ルーローの三角形を作図するところまでは数学的実質があるが、はっきりいって、ルーローの三角形を回転させると
正方形のほとんどのところを通過するというのは数学の問題ではない。またその通過領域の面積を求めることに意味はない。
法律の内容は立法技術としては、単なる法則であって、最低限のことを規定するだけである。
数学の解法において、その問題に特有のテクニックをアイデアとして用いつつも有名な定理を使用することがあるように、
法律は基本的に社会を安定させる道具であって、ほとんど数学と同様に機械的に運用されなければならないが、法律は人間的なものであるから全てが機械的ではない。
裁判、検察、弁護などの事務は、法律のテクニックによって機械的になされるが、
例えば検察官、裁判官の異動人事などは、機械的に行われるものの、最終的な裁判は、刑法の機械的な適用のみならず、
他の規定による修正や、量刑判断は、裁判官の人格的判断が介在してくる。
従って全てが機械的ではない。
数学が形而上学であるからといっても、そこに含まれる本質は形而下のものにもあるのであって、哲学という点では同じであり、方法論や手段としても同じである。
すなわち、数学の問題を解くのが全て計算や図形の移動、数式の工夫などに終わるわけではなく、結局は既に確立された定理に依拠したりしている。
また、場合によっては、自分で定理を確立してその定理を用いて解く場合もある。
この場合に証明に介在しているのは、機械的なテクニックとともに何か偉大なものだと言わねばならない。
裁判官が裁量権を握るときに、その裁量権なるものは全く裁判官の個人的な感想ではなく、次第に形成されてきた社会通念によるのであるが、