はてなキーワード: 梅雨とは
結構早くに24時前には絶対寝るようにしている意識はあるんだけど、
でも何か違うような気がする質の善し悪し今のところどちらが良いとか悪いとかではないけど、
そういう感じがするわ。
夜だって可処分時間でなにかゆっくり商標登録でもしたいわよね。
でも体質的に
早寝早起きが丁度いいのかも知れないわ。
あーでもだんだんと暑くなってきて、
暑さ慣れぬまた身体に堪える纏わり付くような暑さがやって来る梅雨だわ。
梅雨で美味しいのは麺つゆだけいいわ。
そうそう、
あれだけはなんかお店で食べるように美味く上手に茹でた後の次のなんかテクニックでもあるのかしら?
ボソボソしていて
お店のみたいにツルツルもちっとした感じの滑らかさがないのよね。
乾麺茹でてたもーれと言うより
お店で食べた方が開幕ダッシュで勝てるって分けなのよ。
どう挑戦してもなかなか上手く茹で上げることが出来なくって、
何かコツみたいなものがあるのかしら?
パッケージには茹で時間のあと何分間か蓋をして蒸し時間を作れって、
私はそれ無視しちゃって、
麺ってあっと言う間に無くなってしまって気が付いたらもう全部無い切なさがあるわよね篠原涼子さん的な。
愛しさも心強さもない、
麺もう無いのに残るとか相反するような現象だけど
美味しいからつるつる進んじゃってあっと言う間に無くなってしまうけど、
いやガス代がエネルギーどうのこうのって言ってるわけではなくて、
もう1ターン麺を茹でる間になんかもう満足してしまうわ。
結局は食べてしまうのよ。
そして切なさだけが残るの。
空しいわ。
お皿が空だけに。
そしてまた食べたくなるのよね。
そんな話をしていると冷たい素麺なんか今から食べたくなってきちゃうわよねってお蕎麦の話しをしていたのに。
そんなこだわりのお蕎麦狂の狂想曲は奏でないけど、
上手く家でお蕎麦乾麺が茹で上げる自信が付けば美味しく出来ると思うのよ。
ただそれだけよ。
うふふ。
朝の元気は玉子にあり!って
タマゴは朝の元気の源よ。
何回も言ってるけど。
黄色い色も元気の色よ。
後ボトル半分のこっている水出し緑茶ウォーラーを頂くことにしたわ。
ボトルはしっかり洗って干しとかないと次使うときにすぐ使えないので、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
毎月20日すぎの平日に午後から半休とって、サウナとあかすりに行くのがここ数年の唯一の楽しみ。
一日有給取るとめっちゃ時間もったいないから、半日が丁度いい。
その日は着替え一式持って、少し大きな荷物で出社して、ゆっくりランチ(というか13:30頃食べるだけ)してから、行きつけのサウナへ行く。
見慣れた顔の店員に挨拶し、あかすりを予約してからサウナへ入る。
ここのサウナはそこそこ熱くて、平日午後でもそれなりに人がいる。仕事サボってる会社員も多いぞ。
半年ほど前に今治製のサウナハットを買った。なかなか快適。でも熱いのには変わりない。
あかすりもいつもの韓国人のおばちゃん。他愛もない会話をしつつ、体を委ねる。
昼寝したり、まったりしつつ数時間ここで過ごし、今夜は何食べて帰ろうかかんがえることが楽しみ。焼き肉は臭くなるので行かない。
世の中の多くは洗濯機や洗剤に関することはいっても、意外と乾燥機とかは発言しない
数少ない乾燥機関係だと、乾太くんvs洗濯乾燥機、のようなバトルモノしかない
それらは異能力対決に終止しており、なんやかんやで過去回想を挟んで主人公側が勝利している
話戻すけど、洗濯って乾燥や取り込みっていう工程のほうが難しいんだよ
乱暴な意見だけど、洗濯機や洗剤は割と最新のものを導入すればなんとかなる
人数に合わせた容量を買っておけば今の洗濯機はほとんど問題なし
そこにCMバンバンだしている洗剤を打ち込めばほとんどの汚れは落ちる
一番ポピュラーなのは天日干しだけど、例えば1階に洗濯機があって2階にバルコニーがある典型的な家だと、家事動線が非常に辛いことになる。
また花粉や梅雨の時期はコインランドリーなどを頼らざるをえない。
もし子供がいるならば洗い物の頻度は増えるだろうから干すだけで結構な重労働だ。
洗濯の部分だけよくなっても天日のままの家庭はあまり恩恵を受けない。
最強枠の洗濯乾燥機は、とりあえず実用的なのが10万台からなのがネック。コスパがいいとは思うけど、割りと長持ちする洗濯機を買い替えるには躊躇するよね。
なら天日干しや室内干しでいいやって人は多い。でも家事動線を最小限に抑えられるという点は捨てがたい。
結構おすすめのは衣類乾燥機だけど、これはガス式なら賃貸はまず無理だし、電気式でも設置場所がないケースがある。殆どの場合で浴室に設置するんだけど、洗濯パンが壁にぴったりとくっついてると乾燥機を設置しづらい。
こうやって考えると乾燥の工程はユースケースによってマチマチだ。
中には衣類乾燥除湿機でいいという人もいるけど、これはこれで合わない人も多い。
洗濯から乾燥までを1工程で済ませたいという願いは洗濯乾燥機が最適で万人向けだけどね。
自分の場合、引越し先の賃貸に浴室乾燥機がなかったので電気式の衣類乾燥機を導入した。もし浴室乾燥機があればサーキュレーターと併用して結構ちゃんと乾かせられるんだがね。ただ、今後は衣類乾燥機の設置を含めて部屋や家を選ばないといけなくなった。
注文住宅を作った人の意見の多くに、キッチンと洗濯機周辺の家事動線の問題があげられていた。やはり家の中でも特に動線にシビアになる部分だからなんだけど、一人暮らしだったり洗濯に関心がないと気づかない人も多いと思う。
乾かすのは天日干しという概念で育っているならたぶんそれが一番楽だとは思う。なぜなら家事動線が一番多くて天候などに左右される代わりに、最後の砦になりうるから。下手に乾燥の工程を最適化してしまうと、天日干しに戻れなくなる。
洗濯って割りと難しい。
俺は容姿がキモい。身長だけは高いものの、頭と顔がデカいうえにガリガリで、身長が180cmと恵まれたのにも関わらず7頭身にも満たない奇形だ。その上髪の毛が剛毛で縮れている特殊な髪質をしていて顔も不細工だ。小学生の頃からキモいと言われ続けて、髪までならず性格まで縮れた。中学生の頃に同級生との雑談に混ぜてもらえて笑っていたら「笑顔がキモい」と言われたことがあった。あれは堪えた。「人間は第一印象で決まる」という言葉があるが、「容姿がキモい俺」は第一印象で「キモい奴」認定されてしまう。「人間中身が大事」っていうがあれは誤りだ。顔がすべてだ。「性格が糞でも容姿が良ければ許せる」と言う人間はまあまあいるが、「容姿が悪くても性格が良ければ許せる」と言う人間は実際には少ない。何故なら不細工はノータイムリーで「キモい奴認定」されるので、性格を見てもらえるまでの土俵に上がる事が困難だからだ。学生時代に理解した事といえば「不細工に人権はない」という事。メンタルをやられ低賃金でしか働けない低能になってしまったが、人間に近づくために少ない賃金で色々改善してきた結果、そこそこ人間扱いされるようになってきたので、同じような悩みの人間の手助けになればと思う。
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俺の顔面には20個以上の平坦なほくろがあった。学生時代のあだなは「チョコチップメロンパン」だった。自分でもひどくコンプレックスだったので、皮膚科で取ってもらった。3mm以下だと確か1個あたり三千円だった。瞼と唇の上に打った麻酔が痛かった記憶がある。とった後はニキビ跡みたいになるが、2か月ほどで目立たなくなった。顔の印象が良い意味でだいぶ変わったのでお勧め。
俺は髭自体はそこまで濃くはなかったが、引きこもり気味で色が白かった為青髭が異様に目立った。某クリニックでツルツルになるまでレーザー脱毛を行った。予約とりにくすぎ。あと痛すぎ。笑気ガスと表面麻酔の2つのお世話になったので、麻酔代だけで一回につき6000円かかった。10回超えたあたりで髭が完全になくなったわけではないが口周りに清潔感がだいぶ出てきた。既存の毛根が死ぬだけで、新たに毛根が作られたらそこは生えてくる。永久脱毛だが実際は別の所から毛穴が生成して生えてくるというイタチごっこになるので、RI●Xの光脱毛でもよかったんじゃないか?と時々思う。今でも通ってる。
俺は歯並びがガチャガチャだった。特に犬歯がわけのわからない方に生えてて、前に出切った前歯で上唇が押されて口が閉じず、いつも唇はガサガサに乾燥していた。歯並びが悪すぎて学生時代あだ名で「ヤク中」とか「プレデター君」とか呼ばれていた。歯列矯正の専門医がいる歯科医で歯列矯正をした。顎が小さく歯の大きさに由来する歯並びの悪さだったので、親知らず含めて8本抜歯した。親知らず抜歯後は地獄だったが、矯正初めの激痛も地獄だった。歯並びが悪い癖に歯列矯正してるのがバレるのが嫌で裏側矯正をした。トータル200万ちかくかかったが、整形レベルで横顔が変わった。歯並び悪い奴にはマジでおすすめ。
俺は腫れぼったい眠そうな目をしていた。人間は「大きい目と大きな口」の人間に好感を抱きやすいらしい。俺は不快感しか与えない目をしたせいか、「性犯罪者みたいな目をしている」とクラスメイトの女子に陰で言われていた。それを面白おかしく掘り返した男子生徒に「レイパー」というあだ名がつけられた。目を大きくしたかったが、二重手術が怖かったので、眼瞼下垂の手術をした。腫れぼったい印象がだいぶましになった。視界の広がりも感じた。眼瞼下垂の手術をした時点で上記2つの手術は済んでいたので、この時点でだいぶまともな顔になった。職場を転々としていたが、容姿を揶揄されることが無くなった。時々「キモい」という言葉を聞くとビクッとするが、聞き耳を立てると他の人の話でホッとしている。情けない。いつか二重手術を受けたいと思う。
俺の髪質は中学時代からひどく縮れてきた。あだ名は「陰毛」「ちんげ」「奈良の大仏」「かた焼きそば」「スチールウール」散々だった。「顔が悪いのは仕方ないけど髪がヤバいのはマジ無理。終わってる。」とクラスメイトの女子に言われた。縮毛矯正を覚えてから、2~3か月に一度のペースで縮毛矯正をかけるようになった。しかし、俺みたいなガチで剛毛の縮れ毛のトップクラスのレベルの人間にしかわからない話だが、太くてボコボコしている髪を縮毛矯正すると髪の毛が黒光りし妙な光の反射の仕方をして「the 縮毛矯正」の髪質になる。俺はこれに対してさらにヘアアイロンをかけて、その上からワックスでセットするというアプローチを行った。これが功を奏してパっとみは人間みたいな髪質になった。10代後半から20代前半までは高頻度で縮毛矯正をかけていたが、最近は梅雨の時期だけ縮毛矯正をかけている。ヘアアイロンで万年誤魔化してる状態なので、雨の日は怖い。誰かと泊まったり温泉に行くことが決まる近日に縮毛矯正をかけて冷や冷やしながら人間の振りをしたりしている。安いヘアアイロンを買うと縮毛矯正のリタッチが困難になるぐらい痛むので、ヘアアイロンは良いものを選ぼう。ヘアケアにホホバオイルはマジでおすすめ。剛毛縮れ毛にしか参考にならない話だが、触った感触が柔らかくなって感動した。
俺は手汗がひどい。中学の頃に学年の男子生徒全員に腕相撲を挑むクラスメイトがいた。俺にも挑んできたので腕相撲に応えた。キショガリの俺は秒速で負けた。負けた俺に対して勝者は叫ぶ。「こいつ手汗やっば!!!!!!!!きっしょ!!!」俺に配布されたテストのわら半紙は手汗でふやけやぶれ、本もシナシナになり、マウスもキーボードもビショビショになる。小学生のころ、クラスメイトの家でゲームをしたときに「手汗が汚いからコントローラーを触らせたくない」という理由で後ろで座ってたことがあった。今思うと俺がコントローラーを持参すればいい話だったので、あれは俺にも非があったとは思うが、友人だと思ってた相手に拒絶されるのは酷く辛かった。手掌多汗症の現時点でのアプローチは大きくわけて3つある。1つはETS手術といって、ざっくりいうと交感神経を切断して手汗を止める方法だ。足汗脇汗も止まることがあるらしい。しかし「代償性発汗」といって今まで汗をかかなかった部位から大量の発汗が起きる副作用がある。これが顔に出ると思うとひどく不安だったので断念した。2つめはイオンフォートレスといって手に電流を流して汗腺を一時的に働かなくさせる方法だ。これは定期的にやらないと効果が続かない上に、皮膚科にそのたびに通う必要がある。さすがに手間すぎる。俺は3つ目の「塩化アルミニウム塗布」を選択した。塩化アルミニウムは皮膚科で処方される。寝る前に振りかけて、ビニール手袋で手を覆いそのまま寝るだけだ。そうすることで汗腺に炎症が起こり汗が止まる。定期的に続けていかないと汗腺が復活するのでやり続けなければならないが、週1の頻度で済む。「俺がいれば干ばつ問題は解決する」という自負があるぐらい手汗がひどかったが、塩化アルミニウムを使いだしてからハンドクリームのお世話になっている。手汗に悩むより乾燥に悩む方が1000倍マシで、今は仕事で他人のデスクのパソコンを借りる事に抵抗感じず人間のような振る舞いが出来ている。
俺はメンタルが弱い。すぐにへこむし、嫌な記憶が堂々巡りする。一時期は身体を強くすれば自身がついてクヨクヨしなくなると思い筋トレを決起したが、苦しい思いするトレーニングは雑魚すぎて続かなかった。そんな俺でもジョギングだけは続いた。毎日5kmを30分切るペースで走っていて、時々10km1時間切るペースで走ったりしている。走るのも苦しいが、何も考えず走り続けるとエンドルフィンが分泌され心地よくなってくる。俺はこれがオナニー替わりになっているみたいでポルノ中毒も辞められた。シコる暇があるなら走りたいと思ってる。走れない日が続くと精神的に病むことが多い。メンヘラ界隈の「リストカット」も痛みを抑えるために「エンドルフィン」を分泌させる行為なので、俺の「ジョギング」も「リストカット」みたいなものなのかもしれない。それでも汗を流すのは気持ちいし、気持ちが前向きになれるのでこれからも続けていきたい。
ここまでくるのに俺は相当なお金と時間を費やした。いまだに彼女は出来ないし、これからも出来ることがないだろうし、今でも人間関係が酷く怖い。それでも異性に告白してもらえるぐらいの人権は得ることができた。(生意気なことに俺はそれを断ってしまったが、今でも友人として仲良くしてもらっている)多からずとも友達ができたり、容姿を馬鹿にしてくる人もいなくなったりして、学生時代に比べれば快適な生活を送れている。髪質に至っては毛根から変える方法が今の技術ではまだ存在しないので、これからもコンプレックスに向き合っていく必要があったり、やはり誰かに容姿を馬鹿にされるのが酷く怖い。誰かが馬鹿にされてるのを見るのも酷く嫌な思いをするので、容姿いじりには加担しないようにしている。そして容姿で他人を判断しないようにしている。もしも俺みたいに容姿に悩んでる人がいたら助ける足掛かりになれば嬉しい。産まれちまったもんはしょうがないので一緒に生きましょう。
私は「インターネット上で故人のブログが閲覧できる」ということを知り、廃墟サイトまとめを閲覧していた。
そもそも一体なぜ私が故人のブログに興味を持ったのかということについて述べたいと思う。中学生の頃、図書館で南条さんの本を借りた。当時私はリスカやアムカを常習的に行っていた。そのような自傷行為がきっかけで南条さんの本に辿り着いたと記憶している。
本には、南条さんという人物について、また彼女がインターネット上に残したものについて書かれていた。
「死んだらインターネットで公開したものが残り、さらには書籍化されるパターンもあるらしい」
衝撃だった。
南条さんは、生存した証をインターネット上に残して死んだ。いや、「生存した証がインターネット上に残ってしまった」と言い表した方が正しいのかもしれない。
さて話を戻すと、インターネット上で閲覧できる故人のブログというのが、二階堂さんの「八本脚の蝶」という日記サイトだった。利用されていたのは「@niftyホームページサービス」で、このサービス名から推測できるように、当時はまだ世の中に気軽に開設可能なブログサイトは広まっていなかったのかもしれない。
二階堂さんもまた、南条さんと同様にに生存した証をインターネット上に残して死んだ。特筆しておくべき点が、二階堂さんは南条さんと異なり「自らの意志で生存した証をインターネット上に残して自殺した」という点である。
私は、南条さんも二階堂さんもインターネット上でリアルタイムにて追うことができなかった。そのことについてなぜか「残念だ」と感じてしまうの自分自身の気持ちが不謹慎でたまらなかった。
インターネットではブログサービスの代りに増田が流行り始めた。私は主にメンタルヘルスについて発信している増田を好んで見ていた。そのうちそのクラスタ内のある増田について「どうやらあのアカウントの持ち主は自殺したようだ」と囁かれている場面に何度か遭遇するようになった。
このような場面を目撃し私は、非常にモラルの欠けた発言になるのだが「インターネットに生きた証を残して伝説になるのも悪くはない」と感じるようになっていた。
さて、『八本脚の蝶』は2020年2月に文庫化され河出書房新社より発売された。文庫化されるという情報を得た時点で既に私は、自分の心の中で妙にひっかかるものを感じていた。故人の尊厳について考えた。
前置きは長くなったが、本編の日記を読んで感じたことを述べていこうと思う。
私はいつの間にか、2001年当時自分が何をしていたかということについて思いを馳せていた。2001年6月13日水曜日、私は小学6年生だった。私は6年生のゴールデンウィークに旅行先で体調を崩し、風邪をこじらせてしまい入院した。自宅で寝ていると熱がぐんぐん上がり、布団に包まっても寒くて寒くてたまらなかった。後になって改めて親とその話をしていると、どうやら熱性けいれんを起こしていたらしい。
ところで北海道の運動会は春に行われる。私は運動会当日までに退院することができた。当時の担任の先生が「持久走どうする?」と確認してきたので、私は「徒競走だけ出ます」と答えた。グラウンド5周の1キロなんて走りたくなかったのである。
私にとってそんな小学校最後の運動会が終わり、初夏なのか蝦夷梅雨(北海道にも一応梅雨のような時期が一瞬だけ存在する)なのかわからない曖昧な気候の中で、小学校生活を送っていた。おそらくそれが、私の2001年6月13日水曜日だったのではないかと思う。
2002年4月8日、月曜日。おそらくこの日に私は中学1年生になった。中学校に進学したといっても、私が通っていたのは小中併置校だった。わかりやすく説明すると、小学生の教室が校舎の2階にあって、中学生の教室が3階にあるということだ。つまり中学生になると階段を上る段数が増えるだけのことである。
私は新学期の校舎の何とも言えないにおいに敏感な子どもだったので覚えているが、小学生のフロアと中学生のフロアとでは、においが異なっていた。中学生の階の廊下や教室は、やはり中学生らしい大人っぽいとでも言ったらいいのか、とにかく少し変なにおいがしたのを覚えている。
4月も8日頃となると、多くの会社にとっては新年度の区切りを迎えてから数日経過したというところで、まだ新しい環境には慣れていないという時期ではないだろうか。
2002年4月8日の月曜日、二階堂さんにとってのこの日は、ある本に引用されていた詩を見つけることができた日ということになっている。どうしても読みたくて探していたのだという。彼女にとってのちょっとした記念日であるように感じられる。
2002年の3月末~4月初旬の彼女の日記を確認してみると、すっぽりと更新されていない空白の期間になっていることがわかった。年度末から年度初めは、やはり忙しかったのだろう。
彼女は文学部哲学科を卒業した後、編集者・レビュアーとして働いていたようだ。新年度が始まって早々しかも平日に、ずっと探していた本が見つかったという出来事を日記に書くほどに、彼女は本に対してかなり熱心な人物だったんだろうとぼんやり想像する。
2003年4月1日火曜日、この日は平日だ。
平日だが、二階堂さんの日記は「その一」「その二」「その三」「その四」「その五」「その六」「その七」、これに止まらず「その八」「その九」、さらに続き「その一〇」「その一一‐一」と綴られている。私はそのことに気付き、なんだか雲行きが怪しくなってきたと感じた。「その一一‐二」「その一二‐一」「その一二‐二」と日記は続くが、いくら新年度の決意表明にしても長編すぎやしないだろうかと思う。「その一二‐三」の日記の次に、彼女はやっと翌日の4月2日を迎えられたようだ。
しかしその4月2日水曜日の日記のタイトルは「その一」とある。この日は「その七」まで綴られているが、分割されている記事もあることを踏まえるとトータル9回更新されたということなのだと思う。おそらく当時はスマホなど普及していなかったはずなので、勝手な個人的な予想になるが、彼女は自宅で夜中になるまで複数回にわたってブログ記事を投稿したのではないかと考える。もしくは、職場のPCから小分けして投稿していたという可能性も考えられる。しかし、2002年4月8日月曜日の日記から判断する限り、彼女であれば絶対にそんなことはしないのではないかと思う。
一投稿あたりの文字数は、今でいうブログ(いわゆる収益化を目的としたブログ)と比較するとかなり少なく感じられる。
しかし彼女の複数回に及ぶブログ投稿を現代の増田で例えるなら、短文の増田をかなりの回数にわたって連投しているという状態に置き換えられるのではないかと思う。多くの人はそのような増田のことを、はてなーもしくはいわゆる「病み増田(メンタルヘルス系の内容を扱う増田の中でも特に思春期の中高生が該当するように思う)」に分類すると思う。事実私も、一晩にかけてそのように連投しているアカウントを見かけると、どうしてもメンタルヘルス系の悩みでも抱えているのだろうかと見なしてしまう。
さて連続して投稿された日記の内容はというと、私が生きてきた中でそのタイトルも作者も聞いたことがないような本からの引用である。また、彼女が数年前に受け取ったと思われる知人からの手紙を引用している投稿も見られる。
ふと私は、おそらく二階堂さんは思考の整理のためにブログを使うというやり方をとるタイプの人間ではないだろうかと感じた。というのも私も時たまTwitterをそのような用途に用いるからである。そしてどういうときにその思考の整理をするかというと、それは「ものすごく死にたいが、どう対処していいか方法が見当もつかないとき」である。これについては、もしかするとピンとくる方もいるかもしれない。そのようにしばしば私はTwitterで思考の整理を行う。なぜなら自分自身の脳内の回転及びそれによって生じる思考をインターネットに吐き出さなければ、到底処理しきれない状態に陥っているからだ。
そしてなぜあえてインターネットに吐露するのかというと、リアル社会には私の話を聞いてくれる人が存在しないからだ。私にとって、リアル社会で相手の様子を窺いつつ的確なタイミングでふさわしい言葉で相談を持ちかけるという動作は、極めて難しい。過去に何度も相談時のコミュニケーションに挫折する経験を重ねたことがきっかけで、そのような事態に辿り着いてしまったのではないかと疑っている。
彼女の本心は今となってはわからない。そのため私のような人間が、勝手に彼女と自身を重ね合わせ、どこかに類似点があるのではないかとあれこれ想像してしまう。
ふと、彼女の死とはこのような在り方でよかったのだろうかと思わず考えてしまう。死後に自分の作品が残るとは、そういうことなのだと思う。
2003年4月に私は中学2年生になり、無事に厨二病を発症した。インターネットに本格的に参入したのは、この時期だったかと記憶している。休み時間には、情報の担当教諭がヤフージオシティーズのアカウント取得を手伝ってくれた。
やはり、当時はまだブログがそこまで一般的なものではなかった。私はまずは無料レンタルスペース(現代でいうレンタルサーバーのようなもの)を契約し個人サイトを作っていた。そしてレンタル掲示板を設置し、同盟バナー(ハッシュタグで繋がる文化など当然存在しなかったため、共通の趣味で繋がる同盟という文化が主流であった)を貼り、繋がっていた。あの頃はそのような時代であった。
私は夜な夜な日記(これはノートに綴った日記であった。というのも夜はインターネットができない家庭環境にあったのだ)を書き、アムカをするようになっていた。田舎特有の地域性、そこで生じた問題、そして本来の私の性格と一体何が根本的な原因であるのかはわからないが、ちょうど家庭内でもそこそこ大きな出来事が発生し、私は混乱のさなかにあった。
やがて私は個人サイトの別館を作るようになった。それはおそらく現代でいうTwitterの複垢(サブアカウント)のような類に非常によく似ているのではないかと思う。私はやがて、いかにも「メンヘラポエム(笑)」と晒されそうな文章を拙いながらも公開するようになっていた。
私は日本におけるインターネット内でポエムが馬鹿にされる風潮にいまいち納得がいかないので補足するが、あの頃は「テキストサイト」とカテゴライズされる個人サイトが充実していた。現代詩ともエッセイともいえない、インターネットならではの文章をポートフォリオのようにまとめた個人サイトは、当時かなり多くみられたように思う。
このように、思春期も相まって私は何かと思いつめて過ごす時間が多かった。先に述べたアムカをするようになったのは、確か半袖を着なくなった秋頃だったかと記憶している。
二階堂さんの日記は2003年4月26日の土曜日で更新が途絶えている。4月26日というと私の誕生日の翌日なのだが、そんなことなど今はどうでもいい。4月26日の日記は、6回更新されている。「その一」「その二」「その三」、そして「お別れ その一」「お別れ その二」「お別れ その三」という題で投稿されている。
そしてその後に、おそらくこれは投稿時間を設定したことによる自動投稿なのではないかと思うのだが、「最後のお知らせ」が更新されている。その内容は、「2003年4月26日のまだ朝が来る前に自ら命を絶ちました」という旨を報告するものである。
人の死についてあれこれ憶測することが心苦しいが、おそらく夜中のまだ朝が来る前に、最期のまとめとお別れの言葉を、何人かの対象に向けてそれぞれ投稿したのではないかと思う。そして、2001年から更新が続いていた日記をありがとうございましたという言葉で締めくくり、パソコンをシャットダウンしたのかどうかはわからないがきっと彼女のことなら身支度を整えてどこか高い建物へ向かい、そして亡くなったということだと思う。
断っておくと、私は『八本脚の蝶』すべてを読破したわけではない。二階堂さんが好んだ幻想文学などの専門分野について私は詳しくないため全文の理解が困難であるという言い訳により、私は挫折した。しかし何とも言えないモヤモヤとした疑問が残った。
冒頭で私は「インターネットに生きた証を残して伝説になるのも悪くはない」と述べた。再度ここで明記するが、『八本脚の蝶』は2020年2月に文庫化された。
もしかするとインターネットに生きた証を残して自殺するということは最悪な選択肢なのではないかと私は思った。というのも、自らの意志に構わず書籍化され、需要や編集者の熱意があれば数年後に改めて文庫化されるというパターンもあり得るということが今回わかったからである。
果たして彼女はそのようなことを望んでいたのだろうかと、厚かましくも疑問に感じてしまう。世に広まるということは、全く想定していないターゲット層にまで届いてしまうということだ。もしかすると「自殺なんて弱い人間が行うことだ。自殺をする人間は敗者だ」などと主張する層に触れ議論を呼ぶこともあり得るかもしれない。
事実、書籍化された『八本脚の蝶』は私のような読者にまで届いたし、加えて私は今こうしてこのような文章まで書いている。果たして私のこのような行為は許されるものであろうか。
文中で軽く触れたが、私にとって増田は思考の整理のためのツールとして役立っている。
私は物心ついた頃より、「この子はぼんやりと過ごしているねぇ」と周囲から見なされることが多かった。しかしその一方で、「あなたは随分と真面目だね」などと言われる場面もたびたびあった。その理由について私は、私の脳は必要以上に過剰な思考を行っているためではないかと考えている。
私にはストレスや言いたいことを溜め込む傾向がある。「我慢しちゃだめだよ」とかなりの数の人たちから言われた経験がある。しかし、言える相手に言える範囲で相談をし、さらに増田で大量に噴出しても追いつかないのが残念ながら現状なのだ。
私は、増田を含むインターネットとは「最後の砦」であると考えている。リアル社会で捨てきれない期待をインターネットに託している。もし私がインターネットに見捨てられたなら、どうにかして確実な方法で間違いなく命を絶つと思う。それほどまでに私はインターネットに縋り付いている。
果たしてインターネットは苦しみの最中に置かれた人間にとっての救いとなるのだろうか。
今となっては、様々な利用目的によりインターネットは利用されている。インターネットで事業を興し収入を得る個人も随分と多く見かけるようになった。しかしインターネット上に人が増えたわりに、一向に私はそこで救われることがないように感じる。
私はリアル社会の中で、絶望に絶望を重ねている。冷静に振り返ると自滅して傷ついている場面が多いようにも感じられるが、何らかの救いを求めてインターネットに入り浸っている。もしも私がインターネットに絶望しきってしまったのなら、それは完全に終了の合図だ。「死」以外に何もあり得ない。
インターネットを彷徨っていると、「死ぬ以外の選択肢が無いために死ぬという選択を取った」という人間が多数存在することに気付かされる。
二階堂さんが一体どうして「八本脚の蝶」というウェブサイトを立ち上げたのか私にはわからない。もしかすると彼女の日記のどこかで触れられているのかもしれない。
しかし、私にはそのことについて何時までもこだわっている時間は無い。正直に言うと、小康状態を保ちながら生きていく上では、他人のことを気にかける余裕など皆無なのだ。そして当然なことであるのかもしれないが、健康な人間にとっても同様に、いわゆる「生きづらい人」を気にかける余裕というものは本当に無いらしい。最悪の社会だと思う。
しかしその「最悪な社会」だからこそ、インターネットは救済希望者を受け入れて欲しい。私の意図することをより明確に言い表すなら、「すべての利用者がインターネットを通じて他者を救済する世界であって欲しい」。
相変わらず私はぐちぐちと思考の飛躍や感情の上下運動に振り回される様子を、増田のしかも匿名で披露している。どうかこのことに何らかの意味があって欲しい。
私は自分自身の人生について、「あまりにも辛く、ほとんどの時間を疲れ果てた状態で過ごし、さらに今にも死にたくなる瞬間がたびたび勃発してしまう」ものであるように感じている。それならば、私の不幸によって同じようにどこかで苦しい思いをしている誰かが救われて欲しい。
「自分自身とよく似たパーソナリティの人物の言動や思考を知ること」は、抱えている苦しみを解消することにかなり役立つのではないかと思う。そのような情報を医療機関で提供してもらう機会が少なく、私はインターネットに救いを求めている。そういうわけで私は毎日欠かさずインターネットを利用している。
私はインターネットヘビーユーザーのまま亡くなっていったすべての人たちを観測したわけではないが、目にした限り彼らは社会に対する憎しみを叫ぶことなどせずにこの世を去っていったように思う。彼らに共通することとしては、後世に何らかの表現方法でアドバイスを残し、そして希望を託して亡くなっていったように感じられる。
私は彼らから希望を託された側として生を続けたいと思う。そしてそれがいつまでの期間になるかはわからないが、インターネットに救いを求めつつも、積極的に自分自身の不幸を開示していこうと考えている。
実家の近所に「あさひ観音」と呼ばれる観音様がある。国道何々線と、私の実家に至る車2台が余裕ですれ違うだけの幅はあるがボロい道路のまじわる、信号のない交差点から、ちょっと実家寄りに入ったところにある。
「あさひ観音」の「あさひ」がどういう字を書くのかは知らないが、そういう名前なだけあって、東向きに建っている。トタン屋根の小さな祠のような建物の中に、二体の石像が納められている。どちらも「ばかうけ」を真ん中から折ったような形の、子供の背丈くらいある石を彫ったものだ。岩肌は長く風雨曝されたかのようにざらついている。
真ん中に据えられた一体は本当に観音像のような形が浮き彫りされている。が、向かって右隣の石は、言われてみれば人の形のように見えるかもしれない、「ばかうけ」か皮つきフライドポテトのような形のゴツゴツとした岩だ。
父に聞いた話では、これらの石像はもともと河原に落ちていたのを、村の誰かが拾って来てここに祀ったものだという。
祠の前には何故か、一基の鳥居が据えられている。鳥居はバブル時代の頃に新品の木の鳥居に取り替えられたものの、それ以降は全くの手付かずなので、今や黒灰色に染まり朽ちかけている。
祠の周りには紫陽花が植わっている。梅雨になると美しい青い花を咲かせる。昔はお賽銭箱もあった。今はない。
神社のように鈴が下がっていたかどうかは、記憶が曖昧だ。あったような気もするし、なかったような気もする。ただ記憶にあるのは、そこを通りかかる際は、祖母に五円玉をせがんでお賽銭箱に投げ込み、「ご縁がありますように」とその言葉の意味も知らない癖に、神妙に手を合わせていたということだけだ。
「あさひ」というと、父から聞いた都々逸を思い出す。近所の山に住んでいた三軒の金持ちの威光を読んだもので、しめに「朝日に輝く○○(家のあった場所の地名)」という。その○○のお家が父の先祖だというが、信憑性は薄い。ただ、父の言うように山の麓の駅の側に、その家の古い墓標が道祖神かお地蔵さんのように草に埋もれている。見た感じ「あさひ観音」くらい古そうな、風雨に曝され磨耗した、石の墓標だ。
なんて、まるで父の生家と「あさひ観音」に関連があるかのようなことを書いたが、全然関係はない。あさひ観音は村の皆で崇拝してきたもので、誰が拾って来たのかは、今となってはわからない。ただ言えるのは、父の先祖は明治辺りにこの村に越して来た人なので、村の歴史上では根っからのジモティーではないのだ。
あまり記憶が定かではないのだが、昔、毎年寒い冬の時期に村の公民館で「甘酒祭り」が行われていて、これが「あさひ観音」に関係するお祭りだったと思う。祖母や地元の人たちは「甘酒マチ」と呼んでいた。「マチ」というのが「祭り」を意味する方言のようだが、しかし市の中心部にある大きな神社の「夏祭り」のことは「マチ」とは言わないのは、謎だ。
甘酒祭りでは村の人々に分け隔てなく甘酒が振る舞われた。お年寄り等は酔っ払っちゃうまで飲む。子供も一杯くらいは無病息災のためだから飲めと言われたものだが、私はどうも酒粕が苦手なせいで、一口舐めただけでよした。
それ以外に、「あさひ観音」にまつわるイベントごとの記憶はない。観音様はただそこにあるだけだったが、定期的に誰かが世話をするようで、湿気った祠の中にあるわりには苔むしもせず、赤い前かけと頭巾は時々新しいものに替えられていた。祠の格子戸には錆びた鎖が巻かれ南京錠で施錠されていたが、鍵を誰が管理していたのかは知らない。ただ持ち回りではなかったと思う。うちに観音様の鍵があったことはないので。
観音様の祠は一軒の農家の敷地に隣接している。というより、農家の敷地がわざと観音様の祠を避けるように垣根をそこだけ凹ましてめぐらせてある。もしかすると、実は観音様の所までその家の敷地だったりもするのかもしれないが、よくわからない。その家と同じ並びの数件と我が家には何故か付き合いがない。別に仲が悪い訳ではなく、単に家がちょっと離れているというだけだ。回覧板を回し合う「班」がうちとそことでは違うのかもしれない。
ともかく、私の子供時代はまだ、「あさひ観音」は地域の人々から大切にされていたが、いつの間にか「甘酒祭り」は行われなくなったし、お賽銭を集めることももうなく、今はたぶん放置されていると思う。Googleマップで見てみたら、祠は昔と変わらず、だが屋根は錆びて鳥居は朽ちていた。なのに紫陽花はそのままで、祠の外の石碑もちゃんとあり、祠のなかには苔ひとつ生えていない観音様がある。だが赤い前かけはだいぶ色褪せていた。
結論として、コメ不足はさほど問題にならないだろうと思っている。
米の不作というのは、いろいろな原因で起きるが、
飢饉が何度も起きていた江戸時代とは違うので、虫や病気の被害はまだ農薬である程度なんとかなる。
日本で蝗害(バッタ)というのは、ほとんど聞いたことがない。ウンカは何度かあったと思われる。
現在起きる食糧不足を招くような不作というのは、俗にいう梅雨寒からの冷害が一番だと思う。
1993年の米不足もそれが原因だ。
全然関係ないけど、なぜバッタが同一方向に移動するかというと、後ろのバッタに食われないようにするためという説を知り驚いた。恐ろしい。
減数分裂期と呼ばれる、イネが花粉(精細胞)と胚珠(卵細胞)を作る時期のことで、
コシヒカリの場合は17度に2時間当たるとで不稔(実ができない)が発生し始めて、10度ではほぼ全滅すると言われている。
9月中旬の収穫であれば、減数分裂期は7月中旬ごろになるだろう。
ちょうど梅雨の終わりくらいの時期にあたるけれど、梅雨前線の北側が冷たい空気で、南側が暖かい空気だ。
梅雨前線がしっかり北上してくれないと寒くなりやすく、特に東北地方は奥羽山脈の西側で低温なうえ霧が出やすくなる。
米の国内生産ランキングは新潟-北海道-秋田-山形-宮城と続き、東北で約30%が栽培されている。
また、低温多湿になると、コメの最大の病害であるイモチ病が発生しやすくなる。
火山灰などのチリが日光を遮り低温になること、雲が発生しやすくなることなどが原因としてあるようなのだけど、
しかし、93年冷夏の原因とされるフィリピンの噴火は北半球で、今回は南半球だ。果たして影響があるのか?
軽く調べた感じでは、1600年のペルーの噴火が同じ緯度で起こっていて、ゆるーくまとめられたのがこの記事。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/24/
何かの手がかりにするにはあまりに情報量が少ないけど、北半球でも大きな影響があったようだ。
ワインが壊滅的というのは、おそらくブドウが壊滅したということで、
果樹が致命的なダメージを負うのは開花期の降霜、多雨・日照不足による病気の多発なんかではないだろうか。
低温・多雨というのは十分に起こりうると思う。
それでも、コメについて93年ほどひどい状況にはならないと思う。
93年は需要1000万トンに対し生産740万t。当時の備蓄米は1,2年前のの軽い不作もあって20万t程度だったとwikipediaには書かれていた。
現在の米の需要量は700万t程度。生産量が720万tくらい。備蓄量は100万tとされている。
93年よりはるかに凶作に備えられていると言っていいだろう。
飼料のほとんどはアメリカからの輸入だし、小麦はアメリカ・カナダで80%だ。
多雨・日照不足で収穫量が減るのはどんな作物でも同じだ。収量も減るし、病気も出る。
93年当時より食糧事情はグローバル化し複雑になっているけれど
自国で不足したら輸出が減るというのは今も昔も変わらない。
コメが足りないより、小麦・飼料が足りないの方が問題になる気がしていて、
結果的にコメの需要が伸びで値段が上がる程度であれば、最近低価格が続いて困っていた農家としては大助かり。
そんなシナリオ、期待しない方がいいのはわかってるのだけど。
結論として、コメ不足はさほど問題にならないだろうと思っている。
米の不作というのは、いろいろな原因で起きるが、
飢饉が何度も起きていた江戸時代とは違うので、虫や病気の被害はまだ農薬である程度なんとかなる。
日本で蝗害(バッタ)というのは、ほとんど聞いたことがない。ウンカは何度かあったと思われる。
現在起きる食糧不足を招くような不作というのは、俗にいう梅雨寒からの冷害が一番だと思う。
1993年の米不足もそれが原因だ。
全然関係ないけど、なぜバッタが同一方向に移動するかというと、後ろのバッタに食われないようにするためという説を知り驚いた。恐ろしい。
減数分裂期と呼ばれる、イネが花粉(精細胞)と胚珠(卵細胞)を作る時期のことで、
コシヒカリの場合は17度に2時間当たるとで不稔(実ができない)が発生し始めて、10度ではほぼ全滅すると言われている。
9月中旬の収穫であれば、減数分裂期は7月中旬ごろになるだろう。
ちょうど梅雨の終わりくらいの時期にあたるけれど、梅雨前線の北側が冷たい空気で、南側が暖かい空気だ。
梅雨前線がしっかり北上してくれないと寒くなりやすく、特に東北地方は奥羽山脈の西側で低温なうえ霧が出やすくなる。
米の国内生産ランキングは新潟-北海道-秋田-山形-宮城と続き、東北で約30%が栽培されている。
また、低温多湿になると、コメの最大の病害であるイモチ病が発生しやすくなる。
火山灰などのチリが日光を遮り、低温になること、雲が発生しやすくなることなどが原因としてあるようなのだけど、
しかし、フィリピンの噴火は北半球で、今回は南半球だ。果たして影響があるのか?
軽く調べた感じでは、1600年のペルーの噴火が同じ緯度で起こっていて、ゆるーくまとめられたのがこの記事。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/24/
何かの手がかりにするにはあまりに情報量が少ないけど、北半球でも大きな影響があったようだ。
ワインが壊滅的というのは、おそらくブドウが壊滅したということで、
果樹が致命的なダメージを負うのは開花期の降霜、多雨・日照不足による病気の多発なんかではないだろうか。
低温・多雨というのは十分に起こりうると思う。
それでも、コメについて93年ほどひどい状況にはならないと思う。
93年は需要1000万トンに対し生産740万t。当時の備蓄米は20万t程度だったとwikipediaには書かれていた。
現在の米の需要量は700万t程度。生産量が720万tくらい。備蓄量は100万tとされている。
93年よりはるかに凶作に備えられていると言っていいだろう。
飼料のほとんどはアメリカからの輸入だし、小麦はアメリカ・カナダで80%だ。
93年当時より食糧事情はグローバル化し複雑になっているけれど
自国で不足したら輸出が減るというのは今も昔も変わらない。
それになんかしょっちゅう「コムギがー」というニュースは見る気がする。
コメが足りないより、小麦・飼料が足りないの方が問題になる気がしていて、
結果的にコメの需要が伸びで値段が上がる程度であれば、最近低価格が続いて困っていた農家としては大助かり。
そんなシナリオ、期待しない方がいいのはわかってるのだけど。
できれば2人紹介したかったが、1人に留める。
ここまでの6人は問題ない。何かあっても私が責任を取ろう。が、この2人は今でもK市で働いている。うち1人は男性で、当時は入庁3年目だった。
協調性がないとの評判であり、人事評価では直属の上司から「免職を促すことが相当である」とのコメントが入っていた。しかし、実際に本人と面談してみると……といったパターンの子だ。本質が見えていないのは上司の方だった。
残り1人は女性で、当時は入庁1年目。上に挙げたGさんと同じく直向きな職員だった。地元の新聞記事にも「期待の新人職員!」という記事が載るほどに期待されていたのだが、残念なことに、頑張りすぎてうつ病になってしまった。その後のじりじりとしたリハビリと、復活後の活躍には目を見張るものがあった。よって、この子を取り上げようと思っていた。
迷ったが、男性の方を選んだ。理由は私と同性で、気質も似ているところがあったので心の内部を覗きやすいと感じたからだ。男女比の関係もある。仮に、E太とする。
私が特定任期付き職員として採用されて3年目のことだった。E太さんと話したのは。彼は入庁4年目だった。ある意味で先輩にあたる。
当時は20代後半で、福祉の部署で働いていた。といっても、ケースワーカーや自立支援、福祉事業者の審査といった類ではなく、裏方の仕事だった。直接福祉の仕事に携わることはなかったが、それでも部署全体を支えるポジションだったのは間違いない。
梅雨時のある日、彼について人事面談をしてほしいと福祉課長から依頼があった。このE太さんというのは、いわゆる問題職員という扱いだった。私は、彼のいったい何が問題だったのか、その時は理解していなかった。が、K市の問題職員リストにE太さんが名を連ねていたのは事実だ。
福祉課長によると、彼には以下のような問題点があり、人事で指導してほしいという。
・みんなと協調的な行動を取ることができない。自己中心的である。
今回は3点目で引っかかったようだ。
いろいろと調べていったが、やはり机上のデータでは見えてこない。他の福祉課の職員から聞き取った情報も総合すると、先週あった課全体の飲み会でひと悶着あったらしい。
うす暗い飲み屋の片隅に座っていたE太さんが、近くにいた福祉課長やその他先輩がいた席まで呼ばれた。「この間のことで話がある。ちょっとこっちに座れ」と言われたE太さんは、ダイレクトに断った。「行きません」と突っぱねたとのこと。それで先輩職員らと口論になって、そのうち優しめの先輩職員が彼の席に移ってきて、まあ飲みなよとお酒を注ごうとしたところ、これもまた「帰りがバイクなので」(※真偽はわからない。E太さんの嘘かもしれない)と断った。
そんな態度に憤ったほかの上司や先輩が、E太さんに詰め寄り、お酒を吞ませようとした。それでも断固とした態度のE太さんに、先輩は次第に声を荒げ、ついに係長級の職員がE太さんの首根っこを掴んだところで、「やめてください!」と彼が拒否して……市役所職員の宴席から大声が響いたものだから、近くに座っていた別のお客のグループが店員に静かにさせるよう苦情を入れるも、店側も注意ができず……翌日になって、その居酒屋で飲んでいた人が市役所に直接クレームを入れたというのが顛末になる。
福祉課長の言うことは明らかに自分寄りである。ここまでのハラスメント行為があったとは聞いていない。私がほかの係員に聞き取りをしなかったら、あやうくE太さんだけを悪者にするところだった。
彼にしても、飲み会に参加したなら、もっと仲間意識を持つ必要があった。飲み会は、「供食」の場だ。供食は仲間同士でしかしない。古今東西、自分達の敵と一緒に食事を取るなんて文化はない。一緒に食事を取るということが仲間であることの証なのだ。昔の人間というのは、そんな儀式を神聖視せざるを得ないほどには、人間や組織の生き死にが間近にある生活をしていた。
ある日の午前、窓ガラスに雨粒が叩きつける中、面談室に入ってきたE太さんはソファの前で立ち止まった。「座ってください」と私が言うと、彼はゆっくりと腰かけた。
初めに言ってしまうと、私はE太さんがそこまで悪い人間ではないとわかっていた(後述)。それで、リラックスしながら、今日は何を話すんだっけ? とバインダーに挟んだ聞取票を手に取った私は、簡単な挨拶の後、E太さんとのやり取りを始めた。
「朝ご飯は食べた?」
「はい。食べました」
「どんなものを?」
「どんなカップ麺が好き?」
「特に好みはないです」
「そうか。私も毎日そんな感じだ。おにぎりとカップ麺は合うよね」
「そうですね」
「E太さんは、バイクだっけ?」
「私はバイクではありません」
「バイクじゃないの?」
「自転車です」
「そういう意味じゃありません」
※重ねて言うが、これまで私が記してきた会話の記録には不自然さが否めない。方言や言葉の癖など、個人情報に関わる内容を編集していることによる。
指導を目的とした人事面談というと厳しいイメージが漂うだろうが、相手が筋金入りの問題職員でなければ概ねこんなスタートを切ることが多い。信頼関係を築くためだ。
雑談が続いた後、いよいよ問題の核心のフチに触れる問いかけをしてみる。
「それで、福祉課長から聞いた件なんだけど。今回の面談のきっかけ」
「……はい」
「周りの職員のこと、どう思ってる? この人は好きとか、嫌な人とかいる?」
「特にいません」
「E太さんの態度や行動が、同じ課の職員を傷つけることがあるみたいだ。私も調べてみたけど、そう思ってる人も確かにいる。どうしてこの結果になってしまうのか、考えていることを教えてほしい」
「普通に、とは」
「正しいと思うことを言ったりやったりして、でもほかの職員からするとそうでないみたいです。嫌われるのはわかっても、でも自分がやるべきだと思うのでやっています」
思ったより早く本音を出してくれている。チャンスだ。私は、聞取票が挟んであるバインダーを机の端に裏返しに置いた。ここからのやり取りはうろ覚えだ。
「E太さん。せっかくの機会だから、腹を割って話そう。公文書には残さないから、もうこのバインダーはいらない。一対一でE太さんと話したいと思ってる。ところで、私のことは知ってるよね。ここのプロパー職員じゃないって」
「知っています。2年前にK新聞(※地元情報誌)で読みました。〇〇社の出身で、人事領域のプロだと書いてありました」
「知ってるんだね。ありがとう。でも、プロと言えるほど経験は積んでない。社会人を20年以上やっているけど、人事は6年くらいしか経験がない。ほとんど営業だった。大人の事情というやつで、プロにはほど遠くてもプロなんだと――そうアピールしないといけないことがあるんだ(ここで両者の笑い声があった)。で、話を戻すけど、E太さんはどうして今の状態を保ってるのかな。変えてみたいとは思わない?」
「キツイと感じることはありますが、これでいいと思っています」
「どういう理由で、キツくてもいいと思ってる?」
「自分のやりたいことがあります。社会人として、こういう生き方がいいって。それで、その目的から逆算して考えると、今は人間関係よりも実力がほしいんです」
申し訳ないがここまでだ。これ以上は、私の記憶からE太さんの口述を曝け出すことはしない。
簡潔に言うと、彼は仕事が一番ではないタイプだった。E太さんの人生の優先順位の中で、仕事は3番目ということだった。だから、民間から公務員に転職しようと思ったし、だから、どれだけみんなに嫌われようがどこ吹く風でやってこれたのだ。
肝心なことを述べていなかった。E太さんの仕事ぶりだ。毎年、人事課に提出される査定表で、彼は3年連続で5段階中の2を取っていた。もちろん低い数字だ。実務能力は平均3.5だったが、礼儀やマナー、人格、職務遂行姿勢などで大幅に減点を受けていた。
私が再調査したところだと、彼の査定は控えめに見ても3はあったように思える。福祉課で彼と同じくらい「人柄が悪い」と評価を受けている人間も、その多くが3を取っていた。それに彼は、年は若いが福祉課の裏方として3年以上も職場を支えてきた実績がある。
ちなみに調査方法だが、①人事権限で福祉課の共有フォルダに入ってE太さんの成果物を確認する、②E太さんの同僚を面談室に呼んで印象に残った行為や実績を聞き出す、③過去のE太さん関係の始末書を読み解く――という3通りの方法で行った。確認できた事実は以下のとおりだ。
・オフィスソフトの腕前は一流である。パワポもExcelもAccessも使いこなせる。文も読みやすい。
・プレゼンテーションの能力が高い。普段は物静かだが、かつて大都市の商工会議所で行われた各市町合同での新人職員研修会の折、K市の未来について数分間のスピーチを行い、拍手喝采をもらったとのこと。
・事業計画立案。E太さんは広告会社の出身だった。その経験を活かし、福祉課の裏方としてケースワーカーなど福祉職を支えるための各種設備・インフラを整えるための計画書を作り、それがそのまま課の予算要求に使われていた → ということは、彼の上司はその仕事振りだけは認めていたということだ。
・福祉課の職員からの苦情はあるが、市民や取引業者とのトラブルの記録はない。
・年下の職員には人気があるらしい。例えば、彼が選挙のスタッフとして従事した際、開票作業の前に事務吏員の腕章をみんな装着するらしいのだが、「安全ピンが刺さりそうなので、私の腕に腕章をつけてください」という体で、何人かの女子職員がE太さんの前に並んでいたという。尾ひれが付いているとは思うが、そういうこともあったのだろう。
私が退職するまでの数年間で、E太さんと呑みに行くことが何度かあった。まさしく意気投合であり、今回ここまで赤裸々に彼のことを書いてきたのも、彼なら笑って許してくれるだろうという甘えから来ている。
私は、彼が悪い奴ではないとわかっていた。上の面談の1年前のことだ。かなり広めの川べりで行われたK市の音楽イベントに、私と彼がスタッフとして動員されていた。ステージ発表が始まると、スタッフはみな暇そうに周辺警備をしていた。
さて。一級河川にかかる橋の袂だった。カートを押している高齢のおばあさんがE太さんに声を掛けた。私は、高いところから偶然それを眺めていた。
E太さんは、話しかけてきた老婆としばらくにこやかに話をしていた。その老婆は、さっきはE太さんの上司や、ほかの若手職員にも声をかけていた。誰もが皆、迷惑そうに会話を切り上げてどこかに去ったというのに、彼だけは、その老婆の話し相手をしていた――貴重な体験だった。こういうところに人格が滲み出るのだ。
とはいえ、このままではE太さんの株は落ち続ける一方だ。それに、職員を傷つけるような冷たい態度もよくない。社会人には、絶えず相手を不快にさせないよう振る舞う義務がある。会話をしたくなくても、そうした態度をおくびにも出さず、明るく振る舞わねばならないことだってある。わかっているのといないのとでは、社会生活に大きな差が出てしまう。
E太さんに何度も伝えた。「こんなのはもったいない。もっと仕事に打ち込んで、本気をアピールして、みんなの信頼を集めてみたら?」と伝えてみたが、なしのつぶてだった。こちらとしても、今の状態でE太さんを問題職員リストから外すことはできない。どこかの部署で重大な人間関係トラブルを起こす可能性があるからだ。私はE太さんのことが好きだけれども、それとこれとは別問題だ。
結局、私が辞める時まで、E太さんを理解する人は少なかった。孤高で、人とは交わらない。でも仕事ができて、市民や業者からの受けがいい。いろいろと惜しい職員だった。今でも彼を思い出すことがある。今度K市に遊びに行った時は、また彼を呑みに誘うつもりだ。
この章の最後に。なぜ、私は彼を好きになったのか。
『渇き』を感じたからだ。E太さんは人生に飢えている。自分がやりたいこと、どんな人間になりたいのかはっきりしているのに、叶えられずにいる。叶えられる保障もない。
でも、足掻き続けている。まるで昔の私自身を思い出すようであり、懐かしい感じが脳内からビンビンと込み上げてくる――ビールは、渇いているからおいしいのだ。いつかE太さんが大成して、そんな美味を楽しめる未来があることを祈っている。