はてなキーワード: 文明とは
ついに念願がかなった! これでお姫様やエルフや牝ドラゴンとイチャイチャしたり、モンスター相手に無双できる! と思ったのだが、実際は悲惨だ。
わかるか? 俺は「異世界に転生した」んだよ。
つまり、スライムになったとか、蜘蛛になったとかじゃなくて、俺が異世界そのものになったんだ。
「それって神になったってことか」と思うだろう? 微妙に違う。
俺の腹の上で勇者がお姫様やエルフとイチャイチャしても、俺はそれを観てるだけ。
何だよそれ? もとの世界で、観客としてアニメやラノベを消費してたのと変わらんじゃないか。
世界全体の命運は左右できる、でも、個々別の人間の命運には介入できない。
言うてみれば、自分の体全体は自分の意志で動かせても、体内の白血球の一粒一粒やら、シナプスの1本1本は自分の意志でコントロールできないのと似ている。
そんなわけで、世界そのものである俺にできるのは、たまーに天変地異を起こして生態系と文明をリセットするぐらい。
そう、俺の腹の上で勇者がドラゴンと戦ってる風景を傍観できるとこまで来るのにも、本当に気が遠くなるほど手間がかかった。
旧約聖書じゃ「光あれ」の一言で全部できたみたいに書いてるけど、ありゃ詐欺だな。
最初の数億年は、まず生物を発生させるので手一杯だった。本当にいろんなことをやったよ、宇宙空間から数少ない炭素を集めたり、水を精製して増やしたり、何度も何度も雷を起こしたり、それでやっと、何億年もかかってバクテリアしかできない。
さらに人類誕生まで数億年かかったわけだが、途中でうっかり、アノマロカリスが異常進化して知性を備え、このまま俺の世界は節足動物人類の世界になるのかと焦った時期もあったなあ、数千万年ぐらいで終わったけど。
恐竜時代まで来たら、「やっとか!」と思ったけど、また異常進化した爬虫人類ができちまった。はじめは「ドラゴン娘萌え☆」なんて思ったけどさ、ああいうのは普通の人類がいるからそれとの差異で萌えるのであって、恐竜型人類しかいなかったら、これはこれで飽きるぞ。
でまあ、さらに十億年ぐらいかけて、何度も文明と生態系のリセットをくり返して、ようやく、中世ヨーロッパレベルの人類と、モンスターやドラゴンが同時に生存する世界になった。
でも、それも数万年も続けると飽きるんだよな。
結局、「魔法もモンスターもドラゴンもなくて、人類の科学文明がそのまま発展し続けたらどこまで行くか」に興味が移ってきた。で、今はその世界を数千年ほど続けてる。こないだやっと核兵器の発明まで来た。
そろそろまたリセットすっかな……。
バイトテロ雑感 - ←ズイショ→
http://zuisho.hatenadiary.jp/entry/2019/02/15/203839
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20190217/1550390275
この二人を読み比べると、自分は完全にズイショ氏の方に同感なのだけど、ブックマークだけだと書ききれないことも多いので、こっちで書いてみる。なお、id持ってるのになぜ自分のブログで書かないのかというと、ブログで書くと情と執着が移るから嫌、というだけの理由である。
自分の仕事は海外出張が多く、実はこの文章も日曜日の昼に外国で書いているのだが、海外で接客業の店員に接すると、日本と比べて驚くほど職業倫理が低いと感じる。コンビニ店員はガムを噛んでスマホを見ながら接客するのが普通であるし、ファストフードで注文をすっぽかされても"Sorry! We will do it now."の一言で終わりである。あるときなど、客の少ない時間帯の大手ドラッグストア(雑貨店を兼ねている)では、店員同士が売り物のゴムボールでバレーボールをして遊んでいた。微笑ましいものである。
また、雇用者の側も、ある程度の「あそび」「緩さ」をアルバイト定員には許容している部分がある。アメリカのマクドナルドのCMでは、就業時間中に「俺、念願だった大学に合格したんだ!!」と言ったアルバイトの高校生を、クルー全員が拍手喝采してお祝い(英語で言う"Applause!"だ)するシーンがある。
これらは、日本であれば炎上したり、あるいは炎上を期待して「拡散」されたりしかねないことである。
などと書かれてもおかしくない。
このような日本の特殊さの元凶の一つは、「先生に言ってやろう」「世間に言いつけてやる」という日本人の多罰的傾向にあると思う。日本人は、クレームを相手に直接言えないチキンな性格なので、自分が受けた不愉快や、自分が感じた不平等さ(例えば「自分は職業倫理に縛られて生きているのに、なんでアルバイトのあいつらは自由にしているんだ?!」という怒り)を、「先生」や「雇用者」や「世間」「マスコミ」に言いつけることで溜飲を下げる。そして、そのような「言いつけてやる」行為が、正義だと見なされている。
ところが、外国(特に念頭に置いているのはアメリカであるが)では、そうはいかない。自分が利害関係者でないのに他人の非倫理的行為を告発して溜飲を下げるのは、どちらかと言えば「卑怯な」行為とみなされる。そんな「告発者」は"mind your own business!"と言われるだけである。また、自分が直接被害を受けていないことに対して、憤ったり「言いつけ」たりしてやろうという発想がそもそもないのである。(逆に、直接の被害を受けたのであれば、その場で immediately に抗議すべきだ。「上」や「世間」に言いつけて叱ってもらうなんて悠長なことは言っていられない)
私は、実害のある「バイトテロ」と実害の無い「アルバイト店員のおふざけ」とは峻別すべきであると考えるし、今後の日本社会が今までのような窮屈な職業倫理をアルバイト店員に求められるような社会ではいられないと考えている。実害のある「バイトテロ」は許されるべきものではないが、それとは全く別個に自分に直接の利害が無いことにまで「世間に言いつけてやって」溜飲を下げようとするその他大勢の人々の行為は意味がないと考えている。なぜなら、彼らのそのような行為は、「自分は職業倫理に縛られて生きているのに、なんでアルバイトのあいつらは自由にしているんだ?!」という僻みから生まれる部分が大きく、自分が強制されている職業倫理の理不尽さについて、使用者や教師に対して抗議して適正水準に是正するという正しい問題解決の道筋から目をそらしてしまっているからである。
たぶん、日本の人口に占める外国人の割合が今よりずっと増えているであろう10年後には、日本流の接客過剰サービスや、サービスの本質と関係ない職業倫理や、感情労働の類は、今よりもだいぶ廃れているものと思われる。外国人労働者は労働に対して合理的な考えを持っているので、お客に実害を与えるわけではないのに、儀式やしぐさを強制されるのは理解できない。おそらくそれらの、「お客様に気を使った」振る舞いは、ガラパゴス的な宗教儀式のようなものとして無意味なものとなっていくことだろう。そしてそうなった時代には、アルバイト店員の振る舞いにはアルバイト店員なりの「緩さ」「適当さ」が許容されるようになり、それがガス抜きとなることで、実害を生むような「バイトテロ」は減っていくのではないかと期待している。
(追記)
なお、諸外国でも「企業」や「有名人」が炎上することはままある。たとえば先日のユナイテッド航空のオーバーブッキング乗客引きずり下ろし事件では、「ユナイテッド航空」が炎上し、多くのSNSユーザが「ユナイテッド航空」の非道さを告発した。だが、実際に乗客を引きずり下ろした客室乗務員や警備員の氏名を特定したり、その客室乗務員や警備員本人を告発したりするような流れは殆どなかったように思う。この展開は合理的である。ユナイテッド航空を告発したSNSユーザは、実際にユナイテッド航空の顧客である場合が多く、自分たちも同じ目にあったかもしれない、ということが想像できるからである。一方、個々のSNSユーザにとって、客室乗務員や警備員本人は、自身の人生で直接関わる可能性が殆どない相手であるから、個々人を「特定」したり「告発」したり「言いつけ」たりしても、意味がないのである。
(追記2)
「障害者」っていう言葉に付随するいろんなイメージの中から、障害者に対する敵意や嘲笑だけを取り出した単語の発明はどこかで必要不可欠だったんだよ。
今は「障害者」って言葉を使っている時はそこまで相手に悪意を持ってないんだなと分かるし、逆に「ガイジ」と呼んでいたら善意は持っていないなと一目で分かるようになった。
言葉の精度が上がったとでも言うのかな。
そのフレーズがどういった意味を持っているのかが分かりやすくなった。
こういう積み重ねって大事だと思うんだよな。
表現しないといけない概念ってのは文明の発達や時代の変化とともにドンドン増えてくわけだろ。
それをやたらめったら責任逃れでグレーゾーン作っては、いざ通じなかったら相手のコミュ力不足のせいだと逆ギレするってのはどうかと思う。
その点「ガイジ」は素晴らしいよ。
その言葉がどういうシチュエーションで何を表したいのかがハッキリしている。
いいね。
「バイトテロ」に憤る人というのが、自分には今一つピンとこない。
たとえば、2万店あるうちの1店のセブンイレブンで、おでんのシラタキを箸で口に入れた店員がいた。
事象は、推奨されるべきことではないが、この事象に憤慨している日本の一般市民というのは、いったい何の被害を受けたというのだろうか?
おでんのシラタキをアルバイト店員が箸で口に入れた。そんなこともあるだろう。その箸には、何らかの形で、店員の口内細菌の何万個かが付着したかもしれない。しかしその箸は、おそらく90℃以上の温度で煮える加熱容器に戻され、細菌学的には完全に消毒されたと言える程度まで殺菌されたはずである。心理的に気持ち悪いのは確かであるが、この時点ではまだお客に対する実害は発生していないはずだ。店に対しては? シラタキ一個分、100円余りの実害を与えたかもしれない。以上。
しかも、この事象が起きたことが確認されているのは、2万点のうちの1店のセブンイレブンである。日本中の「一般市民」が「自分の行きつけのセブンイレブンも同じことをやっているかもしれない!」と疑心暗鬼に駆られるのは、さすがに不安を感じすぎではないかと思う。
もちろん、「割れ窓理論」的な発想で、一事が万事と批判する人がいるのも理解はできる。一度タガが外れたアルバイト店員を許すと、同様の行為がエスカレートし、最終的には公衆衛生上の被害(例えば食中毒など)を生むような不祥事に繋がる、だからZero tolerance policyで臨むべきだ、と。それも分からなくはない。だが、そういう発言をしている人が、果たして現在「バイトテロ」に憤っているのと同じ熱量で、過去の食中毒事件に憤っていただろうか? その憤りはむしろ、心理的な、あるいは文化的なフィクションに根差しているのではないかと私は思う。
この文化的なフィクションとは何か、それは「我々は文明国家に住む文明人である」という幻想である。我々は、朝食のパンとコーヒーをコンビニでイートインし、昼には牛丼をテイクアウトし、夕食のおかずの足しにコンビニのおでんを買って帰る生活を、衛生的で文明的なものだと思っている。私は今日の日本の高い公衆衛生がある種のZero tolerance policyに基づく不断の努力で成し遂げられたことを否定するわけではない。しかし、その公衆衛生の高さを我々はもはや日常経験や、明確な統計上の数字で把握しているわけではない(40~50年前ならまだ違っただろう、「あの店また食中毒出したんだって」「あの地域は野犬がうろついているから危険」なんてセリフが日常であった時代だ)。我々は、「なんとなく衛生的で文明的な気がする」という幻想に基づいて消費行動を選択し、その幻想のもとで安心を得ている。安全衛生を求めているのではなく、安心衛生を求めているのだ。
そして、その幻想に基づいて合理的に(と勘違いして)選択した消費行動を、衛生的で文明的なものだと思い込み、それを自らの消費生活のアイデンティティとしているのが我々である。セブンイレブンやすき家を利用する我々は、ときにそこに差異化というスパイスを足して自らの「賢さ」の虚勢を張ってみたりもする。「地元のコンビニの○○なんてこないだ行ったけど汚くてダメ、やっぱりセブンがいいわあ」「(ライバル店の牛丼フランチャイズ)はマイルドヤンキーの溜り場で汚い、すき家の方が制服もスタイリッシュ」だなどと言ってみたりする。
ところが、「バイトテロ」は、この幻想を打ち壊してしまう。コンビニや牛丼フランチャイズを利用する生活が、「ささやかな文明的市民の衛生的な生活スタイル」だと思い込んでいた我々に、それが幻想にすぎなかったことを思い知らせてしまう。だから彼らは憤るのだ。「バイトテロ」の対象となった店舗をライフスタイルに組み込んでいた消費者は、自分たちがかつて行ってきたマウンティングに逆襲される。「セブンイレブンなんてアルバイトがおでんに口付けるような店、よく行けるわねえ」「やっぱり牛丼フランチャイズでランチ買うような層は下の方よねえ」と。消費者たちの憤りの本質は、科学的な衛生環境云々ではなく、「自分が(セブンやすき家のような)衛生的な店で食事をする文明的な人間だ」という、中流なりの自己ブランド意識(という幻想)を破壊されたことに対するものなのではないだろうか?
今までの俺の戦いは何だったんだよ!?
数ヶ月前の俺以上の腐夢ヘイト感情を抱くものを目撃してしまったため
動揺状態だ…
昨年ダイナミックコードが2017年5ch年間ワースト賞すら栄誉ある勲章とする様な厄介者となってしまい
全国のツタヤに入荷
これが俺の18年の腐夢コンテンツへの憎しみにブーストをかけたのだ。
18春放送組は腐夢枠はコナンゼロペルソナ僕アカ三期だけで十分だったのに
ニルアドよついろバトラーズされ竜とかが一気に入荷されてきた。
これが「腐夢コンテンツは悪い文明」みたいな感情を一気に暴走させる原因になった
動揺してる俺でも潜在的には腐夢コンテンツへの反感は動いている
抱かれたい男の全国のレンタルビデオ店への入荷に極めて否定的な感情があることをすでに見抜かれているか今も自分で気づかないうちに
今期の腐夢関連(Bプロ・モブ以外)の全国レンタル屋入荷に対して恐怖の感情を持っているからだ
それだけ18春放送の腐夢コンテンツ入荷の件が心に深い傷を負わせたということなのだから
その腐ヘイトを受け入れなかった先があの18春、17秋のダイナミックコード、同年春の喧嘩番長乙女だったとしたら俺はもっと先見性に気づくべきだった
俺は98年にもサブカルチャー業界や界隈にとってよろしくない選択をしてしまったのだ
ドラゴンボールZ全盛期からかけ離れてることへの批判は学校の連中からもあった
続く
その件への不満から8への要望で男性パーティーキャラ構成についてのことを書いたがその要望は俺にとって黒歴史ものだった!!
昨年ドラクエ8の実況動画を見てライブチャットでヤンガスやトロデをおちょくる様な書き込みがあり怒りを覚えた
PS四半世紀の歴史上でトップ10に入る真の漢のうちの一人を愚弄するとかなんということだ
業界のレンタル屋への腐夢コンテンツ入荷奨励へのカウンターとして
なろう系についても16年に警告してた者がいた
当時問題提起を怠ったことがスマホや百錬とかいう最強無双ものが映像化されるということに繋がってしまったのだから
感情のまま動いて理想の世界を標榜してら人は満足するのだろうか…
答えはNoだ
BS11が17春夏の改編期まで空き枠に「この男子…」シリーズばっかり放送して
BS11未放送のショート系放送しなかった事が俺の腐夢コンテンツへの反感の始まりだった
だがGジェネ新作発表での一部の宇宙世紀信者は行きすぎた発言をした
当時の腐夢に対して威光を示すチャンスだったのに
ダイナミックコードやバトラーズ、ニルアド等腐夢コンテンツのメインキャラを敵ボスとして登場させたら
俺は空しく感じるね。
宇宙世紀キャラで種やWキャラ叩きのめしたいみたいな奴と同じ穴のムジナになることを拒否するね
こんな歪んだことして満足感得ても悲しみが増えるだけだからだよ。
生存のためのリソースが大量にあるとき、種が繁栄に向かうことは仮に前提だとしても(それ自体怪しいが)、たとえば狭い範囲に大量の個体が存在して生存のためのリソースが限られる状況下など、種の数を増やすことの方が危険である場合もある。だから、種の本能には当然そのためのセーフティネットも組み込まれていると考えた方がいい。でなければ種が滅ぶのだから。たとえばリソースを使い尽くして滅んだイースター島の文明などを参考にしてもよい。
そして現在の「地球」は、「人類」が際限なく個体数を増やしていい状況だろうか? 我々の生存に必要なリソースはまだ十分にあるのだろうか? 少し考えてみたらいい。中国14億、インド13億の人々全てに今の先進国並みの生活水準を実現したらどうなるか。その日は刻々と近付いている。それを敏感に感じ取ってか、実は、世界中で合計特殊出生率は下がりつつある。先進国だけの話ではない。比喩でなく「人類」そのものが、何かを感じ取った結果として、「個を増やすゲーム」から降りつつあるのが現代という時代だ。
https://gigazine.net/news/20180325-population-bomb-defused/
そんな状況下でいまだに「個体数の増加が種の繁栄に繋がるので正しい」と主張する人間の方が、ちょっと生物としての本能が働いていないのではないかとさえ思う。そういう人こそが、正しい意味で「ワタシ(=個)の親族さえ増えればよい」という、限りなく「種よりも個」の幸福を追求する発想で動いているのではないか。もう神ですら「生めよ増やせよ地に……はもう満ちたからいいや」とか言い出しかねない状況である。
そんなわけで、「種の本能」的な理屈で言えば、あなたには盛大にブーメランが突き刺さることになる。「種の本能」が本当にあなたにあるなら、あなたは、多様性を肯定し合計特殊出生率を下げつつある全ての人々の行為や人類の現状をこそ、肯定すべきだろう。
まあ、あなたは本当は「種の本能」信者なんかでは無い、本当はただただ自分が子供の頃から慣れ親しんだ偏見を手放せず時代の流れに反発しているだけであることが認められない小人(しょうじん)に過ぎない、と私は思っているがね。