はてなキーワード: 生まれる。とは
俺は元増田の意見には同意しないが、それはゲーム性に対する考え方が違うからだ。
選ばなければ良い、というブコメなど楽しみ方や仕様、マウンティングのブコメなどあまりにもひどい。
なので、簡潔に何がひどいのか、実際のところドラクエ3のかんたんモード(ゲーム中では"楽ちんプレイ")はゲーム性を損ねていないのかを書きなぐる。
冗長なので読み取れない人が居るのは仕方がない。
元増田はきちんと「勝ち負けの無いゲームがあるのはわかる」「ゲームシナリオが楽しめれば良いとは思わない」「開発者がゲームそのものを破壊するゲームモードを組み込むのは違う」という話をしている。
だから、選ばなければ良いというのは違うし(組み込まれていることそのものを問題視している)、楽しめれば良いというのも違う(シナリオはゲーム部分の没入ありきという前提がある)、マウンティングも違う(私は、と自分の話をしている)
つまりnot for meという話も芯をとらえていない。
突き詰めれば元増田にとって「ドラクエ3はそういうゲームじゃない」のを破壊された、という話をしているので。
これは、少し卑近な例になるが、ニチアサのような女児男児向けアニメや実写作品で、公式が成人アダルトすれすれグッズを出した時の拒否反応に近いと思う。
not for meではないし、選ばなければ良いという問題でも無いのだ。
公式がそんなことをするなんて、存在が生理的に受け付けない、という感覚に近いと思う。だから気持ちはわかる。
ここまで元増田の肩を持っておいてなんだが、俺は楽ちんプレイはゲーム性を棄損していないと思っている。
最初に言っておくと、ドラクエのロールプレイングゲームは、単一の「こういったものだ」というものでは無いと思っている。
ロールプレイ(なりきり)も重要な要素だが、セーブもできないようなダンジョン深くでのヒリついた攻防や、道具とMPとをにらめっこしながら渋い管理を強いられることや、誰から防具を揃えて武器をどうするかなど、それぞれに思い入れがあると思う。
あとで書き添えるが、そもそもドラクエ3のゲーム性の話をするのであれば、今作でもっと触れるところがあるだろうとは思う(元増田はライン越えの話をしているので、まあ蛇足なんだが)。
ドラクエ3は、そもそもで言うとキャラをロストしない。蘇生からの失敗で灰になったり、仲間を永遠に失うことは無い。
ドラクエ3では、戦闘不能は明確に死亡として描写されるが、蘇生は確実に行える。
ただ、これでもってRPGとしてのゲーム性がウィザードリィより劣るとは言えない。ゲームシステムの違いだからだ。
そして、ドラクエでは伝統的に全滅を利用したゲーム攻略があったことも忘れてはならない。デスルーラを筆頭とする、全滅時に戻される仕様はあまたの勇者たちに長く愛用されてきた。
どんな高難易度のダンジョンの奥深くで全滅しようが、装備もアイテムも失うことなく、ゴールドを減らすのみでほぼノーペナルティで復活できた。
全滅後にセーブポイントまで戻されるシステムは利用(許容)しておいて、いまさら戦闘時に死亡しなくなる点のみを論点にするのは違うと思う。
楽ちんプレイでの戦闘不能にならず全滅しないというのは、言い方を変えれば、全滅した後にまた同じ戦闘まで戻す作業をスキップした、ということだ。
(戦闘で全滅して街からまた戦闘まで戻す作業中の悔しさこそがドラクエ3でそれが根幹だ、というのは、ちょっといくら何でも偏っている)
ではなぜあまたのプレイヤーが あぶないみずぎ について言及するのだろうか。
ドラクエの防具が、頭防具+1、鎧+5などでないのはなぜだろうか。
ターバン や くろしょうぞく である理由がそこにないと言えるだろうか。
もちろん、慣れて周回するとそれが単なるデータであり専用装備のフレーバーテキスト(雰囲気のための記載)に過ぎないことも理解できるようになる。
ただドラクエのドラクエたるゲーム性は、そのフレーバーにこそ宿っていると思う。
防具ではあえて触れなかったが、そもそも戦闘不能にならないからと言ってずっと真っ赤なHP1のままゴリ押しするプレイヤーはほとんどいないだろう。
なぜならばクッソ面倒くさいからだ。
単位時間当たりのダメージ量(DPS)を気にしなくなると言うが、それはゲームに多大な時間をつぎ込める人間だけだ。
そりゃ、ダメージ量が上がり、ボスの自動回復が無くなれば、1ダメージの積み重ねでもいつかは倒せる。それは事実だろう。
でも、現実世界のプレイヤーには時間の制約があり、そんな苦行みたいなことはしたくないのだ。
そうすると、ちゃんとそのボスに見合った、周りのモンスターを倒すのに見合った装備品を身につけることになり、きちんと武器には意味が生まれる。
このあたりから、「ドラクエ3リメイクの話するならそこじゃなくね」という話になる。
そもそも、今作では序盤からアイテムが結構拾える。つぼや宝箱を丁寧に確認していくと、結構装備品が揃う。
セオリーを教えてくれる町民もいるにはいるが、古い防具を売っては買い足してとか、ちまちまと金策をする意義は薄い。
装備品の付け替えから、各種ステータス異常を含めても、今作はとても遊びやすい。
とはいえ、店売りの武器防具の性能を見れば、今の装備品に比べて楽になるな程度の想像はつき、全滅しないのであればより試しやすくもなっている。
昔ほど必死になって金策をしては武器防具を下取りに出して新しい装備品にして、という手間はなくなったが、それはゲーム性の本質的なところでは無い(と思う)。
さて、全滅しないことでどんなことが起こるだろうか。
ドラクエ3ぐらいになると、シャレで選べよと忠告される遊び人を何故か連れていきたがる勇者もいるが、基本仲間の職業なんか堅めにそろえるしかない。
殴ってくれる戦士、打撃が効かない相手への魔法使い、回復してくれる僧侶。
でも、今作ではキャラメイクで髪色が選べるし、仲間の見た目もある程度は選べる。
初心者がうっかり、戦士、武闘家、魔物使いにしてしまっても、ほぼ詰まることなく遊べる。
これはテンプレ構成を押し付けることなく、自由に遊んでもらいながら、(そのプレイヤーから見た)理不尽な死を回避できる良い方法だと思う。
全滅したらセーブデータを消して最初からやり直していたものだけが石を投げよ。
ボス戦で、無駄行動や良い乱数を引いてギリギリで勝てたという経験で興奮したプレイヤーも多いはずだ。
それは裏を返せば、運が悪ければ全滅してまたその戦闘まで戻す、もしくはレベル上げして再挑戦するという作業を強いられていたとも言える。
元増田が、新しい土地に踏み込んで知らないモンスターに出会って全滅したときに、黙ってセーブデータを消して最初からやり直すタイプであれば謝罪しよう。ゲーム性を棄損するという非難には正当性がある。
しかし、うっかり全滅してセーブポイントまで戻されて再挑戦したり、道具を大量に使ってなお負けたのでリセットした経験があるのであれば、そのやり直しのタイミングが戦闘中に限定された、という考え方にすることはできないだろうか。
ちょっとしたミスで膨大な時間が無駄になるという経験を無くすのが、楽ちんプレイの目的なのであれば、理にかなっている。
それはプレイヤーに寄り添う形にゲーム性がかわっただけであり、ゲーム性の棄損でもなければゲームの破壊でもない。
俺はドラクエのようにダンジョンの最奥から魔法一つでお手軽に帰ってこられるRPGがダンジョンを題材にしたゲームとして劣っているとは思わないし、死力を尽くして良い乱数を引く戦闘"だけ"がドラクエの醍醐味では無いと信じている。
(遊び方次第だが、全員真っ赤のHP1で戦闘を終えた後、ここは早かったなとキメラのつばさを使って街に戻るのであれば、ほぼ全滅時にゴールドを失わない程度の意味しかない)
ドラクエ3リメイクのゲーム性の話をするならさ、レベルアップ時にHPとMPとが全快する仕様について疑義を呈してくれよ。
キメラのつばさとルーラ(MP0)が天井があっても使えるようになったという点とかさ、ミニマップが右上に常に出てるとかさ、アイテムがもりもり拾える点とかさ。
難易度を いばらの道だぜ にしてても、この辺の仕様変更ってゲーム性を大きく変えてる(損なったとは思わないが)。
全体的に、現代にドラクエ3をリメイクして、ほとんど内容を変えずにお出しする際に遊びやすさがすごく考えられて調整されていると思う。装備変更するときも楽だし。
でも、手持ちのやくそうが尽きて、絶望的な気持ちで いのりのゆびわ を使って、リレミトとルーラで戻ってくるみたいなロールプレイはもうできなくなったと思うと少し寂しい気持ちもある。
が、じゃあマップもノートに書いてメモを大量にとってと言う体験を後の世代にこれこそがドラクエなり!とお出しして良いかと言われると、いやもう時代じゃないしな、という気持ちになる。
だからというわけじゃないが、時代に沿ったゲーム性の変更は許容すべきだと思うんだよね。
それは破壊じゃない、ゲームが苦手でもエンディングにたどり着く人を一人でも増やす救済なんだよ。
というわけで、めっちゃ良くできてるから食わず嫌いしてる人は買って遊ぶと良いよ!
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余剰分析において、輸入による価格低下は消費者余剰の増加をもたらし、それが生産者余剰の低下を上回るため、全体の余剰が増加する。
具体的には、消費者は低価格で商品を購入できるため、支払っても良いと考える金額と実際の支払額の差である消費者余剰が増加する。
このように、結果として全体的な経済厚生が向上する。
貿易による生産者余剰の低下問題は「比較優位によって解決可能」という自由貿易の論理に基づいている。
例えば、日本が農業において比較優位を持つ場合、低価格かつ高品質な農産物を生産することができ、その結果として国際市場で競争力を持つ。
この競争力は輸出を通じて利益を生む要因となり、国内経済全体にもプラスの影響を与える。
一方で、関税を課すと消費者余剰が減少し、結果として貿易全体で誰も得しない状況が生まれる。
関税によって国内価格が上昇し、消費者は高い価格で商品を購入せざるを得なくなるためだ。
このような政策は消費者に損失をもたらし、「俺の国のものを強制的に買ってね」といったネゴシエーションは、結局買わされる側にとって不利益しか生じない。
自由貿易は世界平和に寄与する重要な要素であり、各国がそれぞれ得意な品目を生産し、それを国際的に取引することで価格が下がり、消費者はより多くの選択肢を持つことになる。
22世紀、人間の食生活は大きく変わり、合成食品が主流となった未来。しかし、伝統的な食文化を守るため、特定の「食品擬人化プロジェクト」が進行していた。その結果、生成されたのが「ドーナツ人間」、愛称「ドン」。彼はドーナツの見た目と性格を持ちながら、人間と同じ知性と感情を備えた存在である。
ドンは、22世紀に生きるドーナツ擬人化第1号。彼の夢は地球上のあらゆる「伝統的な食文化」を探訪し、ドーナツ文化の起源を見つけ出すことだった。しかし、彼は自分がいつか腐敗してしまうという「賞味期限」という運命を背負っている。彼の旅は、時間との戦いでもある。
• ドン:ドーナツ人間。好奇心旺盛でポジティブだが、賞味期限を気にしている。
• マキ:未来のフードサイエンティスト。ドンの製造に関わった科学者で、ドンに親しみを抱きつつも、科学者としての冷静さを保とうとする。
• シバ:AIガイド。ドンの旅をサポートするが、時折皮肉屋。
ドンは、22世紀の東京で「伝統的な食文化博物館」を訪れ、古代のドーナツやスイーツの展示を見て心を動かされる。そこで彼は、かつてのドーナツ職人たちが、何世紀も前からドーナツを愛し続けたことを知る。マキは、彼の夢を応援し、ドンの旅の計画を手伝うことを決める。
ドンとシバは、時間と場所を超えてさまざまな料理を体験する旅に出発する。彼らは、イタリアの伝統的なデザート、南米の揚げ菓子、フランスのクロワッサンなど、さまざまなデザート文化を探求していく。ドンは、各地で自分と似た「スイーツキャラクター」たちと出会い、友情を築いていくが、次第に自分の賞味期限が迫っていることを感じ始める。
旅の途中、ドンは自分がゆっくりと劣化していくことに気づく。彼の表面にひびが入り、少しずつ硬くなっていくのだ。それでも彼は旅を続ける決意を固めるが、賞味期限が迫るたびに自己存在の意味について悩むようになる。シバは、冷静なAIとして「記録を残すことで不滅になれる」と助言するが、ドンは「記録」だけではなく「体験」が大事だと反論する。
ついにドンは、ドーナツの「起源」を探し出すために、かつてのアメリカへ向かう。そこで彼は、現地の人々と交流し、古代のドーナツ作りを見学しながら、自分が「愛される食べ物」として生まれたことに喜びを感じる。
ドンの劣化は限界に達し、崩れ始める体を感じながらも、最後のメッセージをマキとシバに送る。彼は、自分がただの「食品」ではなく「愛された存在」として旅を終えたことを感謝する。そして、ドンの残した記録と旅の思い出が、次の世代の「擬人化食品」のプロジェクトに活かされ、新たな「スイーツキャラクター」が生まれる。
ドンの旅は終わったが、彼の存在と記録は後世に語り継がれる。マキとシバは、ドンを思い出しながら、彼の遺志を継いだ新たな擬人化キャラクターたちの旅が再び始まる場面で幕を閉じる。
「ドーナツ人間22世紀の旅」は、有限な命の中で自分の存在価値を問い、自らの意義を見出していく物語。ドンは、人間と同じように存在の意味を探し、限られた時間の中で何を残すかというテーマを描いている。
「これはエロい」と「これはわいせつだ」は意味がまったく変わってくる。
刑法第175条
わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、2年以下の拘禁刑若しくは250万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は拘禁刑及び罰金を併科する。
つまり「これはわいせつだ」と言ったとき、「これは犯罪行為だ」という意味になるということ。
例えばエロ漫画家なら、「私の漫画はエロいです」と言うなら構わないが、「私の漫画はわいせつです」と言ってしまうと犯罪者ですという意味になってしまう。
タイムパラドックスやな! これ、結構頭がこんがらがる話やけど、いくつか解決方法が考えられてるんよ。
過去に戻っても、歴史を変えることはできひんねん。例えば、タイムマシンで過去に戻っても、自分の存在を消してしまうような行動は絶対に取れへんねん。
結局、何やっても、歴史はもう決まってて、矛盾は起こらんように収まるってことや。
過去に戻って何かを変えたら、元の世界とは別の分岐した新しい世界ができるんや。
それで、パラドックスは発生せえへん。例えば、自分が戻ったことで親を救えたとしても、それは元の世界やなくて、新しい世界での話ってことや。
過去を変えようとすると、何かしらの出来事が自然に起こって、元に戻る仕組みがある。
例えば、何か重要な物事を変えようとすると、急に事故に遭うとかで、その変化が起きへんようにするんや。
あるいは、時間は柔軟に変えられるって考え方もあるんや。
この場合、過去に戻って変えたことがそのまま未来に影響を与える。つまり、タイムパラドックス自体が無効になるんや。
ただ、この場合は新しい時間軸が形成されるから、元の歴史とは異なる未来ができるっちゅうことやな。
どれも結構難しい話やけど、要は「矛盾はうまいこと避けられるようになってる」ってことやね。
時間はまだまだ謎が多いもんやから、こういう議論がずっと続くんやろな。
(2と4は同じ論理じゃないの?)
ええ質問やな!
「時空は変更可能」って理論と、「多世界解釈」は似たように見えるけど、実際はちょっと違うんや。
ここでそれぞれの違いを説明するで。
• 根っこは量子力学の考え方や。多世界解釈は「シュレディンガーの猫」の話でも有名やけど、量子レベルで無数の可能性が同時に存在しているって考え方が元になってるんや。
• ある出来事が発生したときに、その結果によって新しい世界(別の可能性を選んだ結果)が常に分岐していくというもんや。
• 例えば、あんたが過去に戻って何かを変えた場合、その瞬間に元の世界とは分岐した新しい世界が生まれる。でも、元の世界もそのまま残ってるから、「並行する複数の世界」が同時に存在しているんや。それぞれの世界は独立していて、互いに干渉せえへん。
• これに対して、「時空は変更可能」っていう理論では、過去を変えたらその影響が直接未来に反映されるんや。新しい未来が形成されるけど、元の世界は上書きされる可能性があるんや。つまり、元の世界が「なくなる」か、「完全に置き換わる」っちゅう話や。
• この理論の下では、一つの時間軸しか存在せえへん。過去を変えると、そのまま新しい未来が展開されるけど、分岐したり、別々の世界が同時に存在するわけやないんや。
• 多世界解釈:過去を変えることで新しい並行世界が生まれるけど、元の世界もそのまま存在してる。つまり、どんどん世界が分かれていく感じや。
• 時空は変更可能:過去を変えると、元の未来は上書きされるかもしれん。つまり、一つの世界が変わっていくんや。新しい世界が作られるっちゅうよりも、世界が変わっていくって感じやな。
あんたがタイムマシンで過去に戻って、昔のお父さんが選挙で立候補するのを手助けして当選させたとするな。その瞬間、元のお父さんが選挙に出なかった世界と、新しく当選した世界の二つの世界が同時に存在するんや。元の世界はそのまま続いてるけど、新しい世界も新たに走り出すんや。あんたはどちらの世界にいるかは、そのときのタイムマシンの設定次第やけど、どっちもちゃんと存在してるで。
同じくタイムマシンで過去に戻ってお父さんを当選させたら、その瞬間に元の世界はなくなって、新しい世界が形成されるんや。あんたが過去に戻る前の未来はもうなくなってしまって、完全に新しい未来に上書きされるんや。つまり、あんたはもう「選挙に出ないお父さんがいる未来」には戻られへん。
年収5000万円で弱者男性って書いてる人いたけど、設定が雑すぎてせいぜい年収1300万円以下程度の人が想像で書いた感じがしたな
・まず年収2000万円にもなると移動が格段に楽になる。この差は貧乏人にも簡単に想像できると思う。つまり、移動にストレスいっぱいの電車を使う必要がなくなる。近距離なら全部タクシー、遠距離なら新幹線グリーン車、飛行機もプレミアムエコノミーと、格段に楽な移動手段を毎回選択できる
・年収2000万円に達すると、金が大きく余り始める。年収5000万円弱者男性増田が想像で補完できてないと感じたのはここらへん。確かに年収5000万円でプライベートジェットを購入したりブリガリホテルのスイートに一か月宿泊するみたいな金の使い方は難しいだろう。それを持ってレストランやホテルのグレードを上げられるだけで一般人と同じ生活をしてる、と考えるのは若干想像力が貧困だ。まず、年収2000万円程度の収入でも毎月一泊10万円のリゾートホテルやディナー8万円のステーキハウスに通える。通える、というのはこのような金の使い方をしても使い道に困るお金がまだまだ手元に残っているのだ。俺は年収600万円の生活も経験してるからこのお金が残るという感覚はデカいことを認識できてる。これは年収5000万の生活を想像だけで組立てると抜けがちな視点だと思う
・年収2000万円でも、赤の他人を雇える。年収5000万増田に抜けてる想像力のもう一つがこれ。クラウドワークスでもツイッターでも何でも、このくらいの稼ぎから他人を使用できるようになる。年収2000万円の俺も、月収8万円で女の子を副業バイトで雇っている。年収2000万円を超えて来ると、人を雇う余裕が生まれる。この感覚は年収800万円や1000万円を単純に数字だけ延長しても生まれない想像だと思う。
・年収2000万円を超えてくると、そこら辺で働いてる人がどうしてもケア対象に見えてしまう。謙虚で控えめだった俺でも数年間年収2000万円を超えて収入が増え続けると、時給2000円以下だったり月収40万以下みたいな人と自分の感覚がかなり違うことは毎日意識させられる。どういうことかと言うと、普段行ってる店や旅行先のホテルや趣味の話をするときにかなり遠慮して話をしなければならなくなる。この遠慮をして話すというのが数年続くと、次第に話し相手と自分が互いに異なる階層で生きてる人間なんだということが嫌でも意識させられる。これが続くと、相手のことを介護や特別なケアが必要な層の人と無意識に認識してしまうようになる。格の違いと言うか、生きてる層の違いというのか。年収2000万程度で、と思うかもしれないが、それでも年収600万とか800万の人と話すときは「絶対謙虚さを意識して会話しないといけない」と決意してから会話しないと油断して場に変な空気が生まれるリスクが出始める。この感覚は年収5000万増田が想像してみるのは若干難しいところかと思う。
とはいえ年収5000万円というのが単年しか実現できてないんだったら年収5000万弱者男性増田の貧しい想像力も擁護できるので、年収5000万を3年くらいキープし続けてみるといい。俺も年収2000万円を超えて3年くらいだが、やはり稼ぎがある程度続くと金の使い方の考え方が大きく変わるから、継続してみるといいよ。
はてブ見てたら解説したくなったので書かせて。シーズン終盤のMRは1950くらい。テリーもMR1800くらいまでいけた。
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ゲームやってない人って弱キャラで頑張るのかっこいいみたいな価値観あるよね。やってる側からすると弱キャラ使い本人以外が弱いキャラ使うの正当化してるの結構グロテスクに感じる。
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弱キャラで頑張るってのはゲーセン時代やオンライン対戦が主流でなく友達と遊ぶのがメインだった時代の遊び方なんだよね。
昔は自分が強くなったらすぐに結果に表れた。相手が固定メンツだから少しでも腕の差が出来たら10連勝だってざらだったでしょう。
んで相手が目の前にいる状況で強キャラ使って勝ち続けても何だか居心地悪いしじゃあちょっと弱いキャラでも使ってみるかってなるのは当然よね。
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でも今の時代は違う、今はランクマッチが主流だから自分が強くなったら相手も強くなる。賽の河原をずっとやり続けるような状態。
めちゃくちゃく練習して寝る間も惜しんで調べものしてでも勝率はずっと50%。
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プレイヤーとして強い人が弱キャラ使ったらどうなる?ほかの強いとされるキャラ使いの中の人は自分より下手な人と当たるわけよね。
自分より下手な相手だけどキャラ性能押し付けられたときは負けて相手の変な手癖見つけた時は勝てる。みたいなことも多くなる。
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たまに遊ぶ程度ならそういうのも楽しいと思うけど毎日毎日それを数時間やり続けるのつらいと思うよ。
弱キャラやりこんで俺だけが使ってるコンボや超反応で華麗に勝ちまくるなんてないんだよね。
攻略の遅かった昔とはゲームの取り組み方が違ってコンボやセットプレイなんかの情報は知っててあたりまえ、そのうえでどこで差をつけるか?ってなってる。
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そもそも弱キャラはなんで弱キャラかっていうとやれることが少なかったりセオリー通り戦ったらずっと息苦しい戦いさせられるから弱キャラなんだよね。
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格ゲーってやってない人からみたら反射神経とかめちゃくちゃ必要そうに見えるよね?
特に一番展開の早そうに見えるであろう至近距離のやりとりとかはプロでも見てから反応してるわけじゃなくて、相手の選択肢と自分の選択肢を整理してぶつけ合う感じのゲーム。ポーカーみたいな感じ。あるいは高速なポケモンバトル。
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んでこの至近距離は完全対応することはできない人類平等だからじゃんけんに例えられたりすることが多いんよね。
んでじゃんけんに持ち込むまでの過程だったり、いかに割のいいじゃんけんに持ち込むかってところで上手い下手が生まれる。
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だから「相手が知らない時だけ通用するじゃんけんになってないじゃんけん」や「もうどうしようもないから自分から不利なじゃんけんを仕掛ける」みたいなことを多用したりしないといけないわけね。
実はグーとチョキしか出せないじゃんけんになってないじゃんけんを仕掛けて「こいつなら知らないだろ」、「うまい人には通用しないけど頼む!」みたいな感じになる。
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もちろんこういう要素は強キャラにもあるんだけど、弱キャラにはこれしかない、みたいな場面が往々にして出てくる。
相手の人が強くてまじめに戦ったら30%しか勝てないので、40%で勝てるであろう運ゲーします!みたいな発想になっちゃう。
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40%勝てるならそっちが正解じゃんって思う?
でも30%のほうの選択肢はやり続けていけば上手くなって勝率あがるんだよね。
まじめに30%を研究し続けていけば1か月後には45%勝てるようになってる。40%のほうはやり続けても40%のまま。
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強キャラは格上相手にまじめにやっても勝率40%です!運ゲーしても 勝率40%です!みたいな感じが多いから自然と上達できる方を頑張れるんだよね。
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もちろん「格上を倒す力」や「勝負強さ」みたいなのも必要なんだけど自力があっての隠し刀というか…
運ゲーギャンブルみたいな戦い方をしている人を否定する気は全くないんだけど毎日何時間もやっている趣味だったら自然と「どうせなら強くなりたい」とかそういうモチベーションになってくる人が多いと思うんだよね。
ちょっと違うけどたまにやる趣味のフットサルなら小学生みたいなわちゃわちゃゲームしてても楽しいだろうけど、毎日毎日の練習してるのに何年も小学生サッカーやり続けるのはつらいみたいな。
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強い人だったら弱キャラ使ったりして遊びなよ!みたいなのはもうめちゃくちゃずれてると思う。現役でやってるひとでそんなこと言ってる人なかなか見ない。
強いキャラを強く使うのも実力だと思ってみんなやってる。世間的には弱いとされてるけど強いと思って使ってます!みたいな人はいるしそれで結果出せればそりゃかっこいいけどそれは本人は弱キャラだと思って使ってないしね。
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マスターの勝率データを参照している人多かったけど公式の全体勝率を見てもキャラの強さはあまりわからないよ。
マスター帯はイロレートってシステムを採用していて適正レートになってからは勝率は強キャラも弱キャラも50%近くに落ち着く。
直近の修正でキャラ相性は変わったか?適正レートになるまでにやめる人がどれくらいいるか?とかサブキャラとしてお試しで使ってる人がどれくらいいるか?とかそういう要素のほうが大きい。
例えば超絶強いキャラがいたとして、そいつが弱体化されてそこそこ強いキャラになってしまったらその月の勝率は50%を切る。そこそこ強いのに。もともとのレートよりは適正レートが下がるからね。
デッキやパーティー組む系のゲームなら勝率というか使用率がかなり参考になるだろうけど格ゲーやバーサスシリーズみたいな参加人数少ないゲームの勝率はかなり条件に気を使わないと参考にならない。
ちなみにこんなに語っといてあれだけどスト6はキャラ差そこまでひどくはない。そしてザンギはちょっと前まで準最強格で今でも普通に強い方のキャラです。
……という冗談はさておき、対策委員会編三章は先生の負傷による一時的退場、アツコ救出・列車砲の停止に並行してミカ・ホシノが精神的な問題で暴走する等と似通った部分がある。二番煎じであるがゆえ、後発の展開はまさに時代が許さなかった…と言える部分もある。しかし後先の問題ではない差異も存在する。
(そもそもここも実際何をしたか明言されていないのだが)地下生活者が先生の肉体の脆さを攻めるにあたって、シャーレの直接爆破を選択し、これはプラナによって防がれている。おそらく後にプレナパテスとなった先生はコレによる負傷でシロコ*テラー誕生まで昏睡しており、物語上の位置付けとしてはプラナがリベンジを果たしたシーンではある。
これに対してエデン条約編三章では調印式の会場にミサイルが撃ち込まれた際、シッテムの箱の防御に過負荷がかかったことで後のシーンでサオリに銃撃されるという流れになっている。
地下生活者の爆破とミサイルによる爆破は性質が違う攻撃(実際にヘイローを破壊する爆弾など、特殊な効果を持つ攻撃手段はあるので)という可能性もあるが、見た目上は先発の描写では爆破の後襲撃して排除しようとしているのに、後発の描写では爆破のみにとどめて追撃しておらず、一見すると詰めが甘いように思える。
これに関しては地下生活者の敗因として、多少の問題をチートによるアドリブで解決してしまう性質と初手でフランシスを排除してしまったせいで先生の情報を共有できなかった、というのがあり、手段の差異に限って言えば時間をかけて領地と手駒を用意したベアトリーチェと対極的なプレイングになっただけだとは言える。それでもどうしても後発である以上、シャーレ爆破によって危機感を煽るのは失敗している感が否めない。
エデン条約編三章では先生の不在にあたって、混迷する事態に立ち向かう補習授業部メンバーの姿が描かれる。アリウス出身であるアズサはサオリ達を止めるため単身立ち向かい、ヒフミはそんなアズサを止めようとするし、ハナコはサクラコに託された代行としてトリニティ内での事態収拾を図り、コハルも自分にできることを探し回った末にミカを助けようとする。
この補習授業部の努力は個々人の結果としては実を結ばず、アズサは一時的撤退を余儀なくされ、ヒフミは置いていかれてしまい、ハナコは拘束されかけ、コハルもまた先生の到着が遅れたら危ない状況だった。しかしあくまで直前まで個々人でこなしていた努力はまったく無意味なものではなく、先生のフォローによって歯車が噛み合い、反撃に転じていく。
対策委員会編三章ではどうか。単身突撃しようとするホシノに対してノノミを除く全員でかかって返り討ちに遭う。それだけである。補習授業部のメンバーがアリウス出身、行動力、知略、勇気と優しさと役割分担が為されているのと同様、肉体的に強いシロコ、ネフティスの人間であるノノミ、ブレーン役のアヤネ、情に厚いセリカという形になっているにもかかわらず、である。
その後先生が復帰した際には、先程まで先輩に対する反骨芯に燃えていたアヤネがポッと出てきた提案に飛びついて、そのまま全員先生配下の戦力として状況に振り回されているだけになってしまう。おまけにアヤネ生徒会長はプレジデントに一蹴されて自分でも向いてないと辞退し、ノノミの実家の件は執事の乱心がよくわからないまま処理されて流され、セリカに至ってはコハルのような見せ場のひとつも貰えていない。シロコが生徒会の谷で親越えを果たしかけるのが唯一活躍と呼べる活躍だ。
ベアトリーチェに囚われているアツコを救出する目的で動くアリウススクワッドと先生に並行し、ミカが暴走するのがエデン条約編四章である。アリウススクワッドは前章において敵対していた集団であり、物語の途中途中で彼女たちの過去が描写される。そこにセイアの件で暴走したミカが激突し、彼女の今に至るまでの足跡も開示されていく。
対して対策委員会編三章では、ホシノの後追いで後輩メンバーが追いかけるだけで、ホシノ側はバックボーンがよく分からないまま終わったスオウとの中身のないバトルをした後、後輩達と戦い、シロコに根負けした後地下生活者に話をひっくり返されてお流れになる。初期から実装済みのキャラクターであるがゆえ、アリウススクワッドやミカに比べて掘り下げ描写の余地が無いというのはそうなのだが、新キャラであるスオウに関しても意味不明のまま終わってしまい、いい雰囲気になりかけていた対話も結局キャンセルされてしまう等中身のない尺稼ぎパートのような印象が残る。
エデン条約編に比べてホシノ一人の描写に終始しており、対策委員会メンバーも列車砲の件よりも何よりホシノを止めたいという動機で動いている。結果として、ミカを止めたいけど今はそれどころではないというエデン条約編に対して、対策委員会編はホシノ一人が我慢すれば終わるし、一人を止める目的で一致しているのにどうしてここまで後手後手に回っているのかという印象になってくる。
アツコの救出に関してに限って言えばミカはシナリオ上のお邪魔キャラにはなるのだが、サオリとの対決は物語上重大な意味を持っている。サオリとの対話によってミカは自分の最初の動機を思い出し、他人を自分同様に尊重することを学び、それが他人を他人として拒絶する洗脳を行ってきたベアトリーチェへのカウンターとなり、キリエを歌うに至る。
ホシノとヒナのバトルは演出が豪華なだけで物語上の意味は何もない。一応、真実と事実の差異に関しての先生の台詞から推測するとホシノの真実とヒナの事実という対立軸はあるのだが、ホシノがぜんぜん正気ではない上真実がどうこうと言えるのはユメと邂逅した後の話であり、本当にミカとサオリのような対話は一切なく、ホシノがスオウやシロコと連戦した上で戦い、結局ヒナが列車を破壊して決着を濁すといった結果が分かり切った勝負でしかない。時計じかけのパヴァーヌにおけるネルVSトキのような、ギミックを用いた演出の熱さすらも無い。この後はセト討伐で協力するぐらいしか描写はないのだが、後輩やシロコ*テラーを差し置いてエピローグのスチルまで貰っている。
ホシノとヒナに関しては素材は良いのだから、もっとちゃんとした過程があるのならば応援したかったのが正直なところだ。しかしあまりに何も無いまま結果だけいい雰囲気になっているので、虚無度は顔カプに近くないかと思ってしまう。
ここに関しては本当に順序が悪いと思っている。後輩からの呼びかけを拒絶し、先輩と邂逅し別れて、いい感じの曲と共に先輩がいない後輩との二年間を思い出し戻ってくる……という流れなのだが、ユメと別れた後に後輩からの呼びかけが無いせいでなんか吐き出してスッキリしたから自力で帰って来たような様子になってしまっている。せめて先輩と別れた後、後輩のみんなと言葉を交わし合って、暴走して振り回した件もここで謝って、先輩に見送られながら復活する……というような流れであれば後輩の扱いに関して思う部分は薄かったように思う。
結局三章は何がしたかったのかというと、既に分かり切っている動かしようのない事実に向き合う話を延々やっていたのだが、それは結果の分からない物語に比べて丁寧さが要求される方向性のように思う。前提が覆るからカタルシスが生まれる。ホシノのテラー化をいくら死人を生き返らせるようなものと連呼したところで、急に出てきた説明でしかないし、ユメは普通の死因で死んでいて復活なんかはありえないけどホシノは帰って来たよ、と言われても事前に低くしたハードルを越えただけの話にしか思えない。こうなるぐらいであれば、ユメの死因は特殊なものにしてアビドスへ舞い戻らせ、ケイやアヤメも同様に帰還する可能性を示唆でもしていた方が良かったのではないだろうか。
この世に生まれて、イケてない子ども時代とパッとしない社会人生活を送ってきて、うっかり出会った妻との間に子どもができ、親になった。親であることは尊い。こんなに尊いとは思っていなかった。なぜか。親であるというだけで役割が生まれる。子どもにとっての親は自分だけであり、無条件で頼られ、それなりに尊敬されたりする。親であるというだけで。これは大人になるまでに存在意義をそれほど感じられなかった増田にとってとてつもない価値で、親であることは大変なことも多いけど、ギリなんとかやっていけるレベルだし、なんとかやっていけるレベルに設定されているような気もする。難易度調整的に。だから、親になることを躊躇するような社会状況が広く存在するんだとしたらそれは結構シンドいし、結婚するのもしないのも自由、子どもを持つも持たないも自由というのは良いんだけど、その分社会的に価値を感じることのできる機会、しかも最も大きいものを失ってるかもしれないというのは認識しておいたほうが良い気がする。親になること、そして社会に親が増えることが及ぼす個人的、社会的にポジティブな効果は計りしれない。少子化は少親化でもある。
俺は高校を卒業してニートをやっているが、なんだか途端に空っぽになってしまった気がする。毎日に張り合いがなくなり、なにをやっても面白くなくなってしまった。
それは多分、学校的な空間が好きだったからだと思う。毎日出掛ける場所があるということ、そこで顔を合わせる友達がいるということ、受験という目的があるということは結構ラクだったんだなと失ってから気づいた。就職して会社に入ればそれに近い環境に引き続きいられたのかもしれないが、一度レールから外れてしまったら「リズム」というか、「流れ」というか、なんかそういうものがずれてしまって、元に戻ることにものすごくハードルを感じるようになった。これがニートのはじまりなんだと思う。
ニートになって分かったが、ニートになるのにも才能がいる。正確には、ニートを楽しむのには才能がいる。毎日出掛ける場所もなく、顔を合わせる友達もなく、受験とか仕事のプロジェクトとかの目的もない人生を楽しむことが俺にはできない。
俺は割とインドアな趣味を持っていて、一人で本を読んだり映画を観たりするのは好きだが、それはあくまでルーティンな生活があるからだ。ルーティンのなかで生活にメリハリが生まれるからこそ、時間が有限に感じられ、一人の時間にハリが生まれる。
ニートの毎日は言ってしまえば完全なる平坦だ。メリもハリもない。そこでは時間は無限に感じられる。だからいくらでも自由に過ごすことができるのだが、それに反して気持ちはとても不自由になる。
無限であること(終わりがないこと)、自由であること(軛がないこと)は今の世の中では素晴らしいこととされているが、しかしニートになって思う。そんなことは絶対にない。平坦で、果てしない、宙ぶらりんな日常は他人が思うよりずっとしんどいものなのだ。
学校にいた頃は学校なんてクソくらえ、早く出て行ってやりたいといつも思っていた。だけど、失って初めて、その不自由が尊かったのだと気づいたんだ。ニートなんて、いいもんじゃないぞ。
ヤンキーVIP車のハの字のタイヤ(鬼キャン)のエントリがバズっていたので尻馬に乗って軽く書いてみる。
多くの人は車のタイヤは全部直立してると思ってるだろうが違うのだ。
そもそもなんでキャンバーが必要かという事が判らないと、ハの字にするのがカッコ良いとう文脈が出来たって事が判らない。ヤンキー文化というのは大抵、カッコいいの特徴を極端にし過ぎて独自文脈に至っているというのが多い。
『「タイヤがハの字」のクルマ、たまに見かけるけど何のため?→専門家の解説が的確すぎた!』
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/diamond.jp/articles/-/349720
まず、多くの人が抱いている直立タイヤを模式化する為にペンと小皿を用意して欲しい。ペンを直立に立てて小皿をペンにくっ付けて立たせる。ここの小皿がタイヤでペンがハンドルを切った時にタイヤが向きを変える軸だ。
ペンを動かさずに小皿を動かしてみると、小皿はその場で向きを変えるんじゃなくてペンの周りをグルっと回るような動きをする事が判る。
これが自動車だとこの小皿=タイヤには車重が掛かっているのだ。数百キロの重さが掛かっているタイヤ2本をこうやって位置を動かす、しかも腕の力で、というのははっきり言ってチャックノリス以外は無理である。だからこの構造だと停止状態でハンドルを切るという事が出来ない。更にブレーキを踏んでいたらタイヤの動きがロックされるので物理的に無理となる。
初期の自動車もこの問題に直面した。その為、18世紀フランスで造られた蒸気自動車google:image:Cugnot Fardierも19世紀のベンツ初の車、モトルヴァーゲンgoogle:image:Benz Patent-Motorwagenも前1輪の三輪車だった。
でも3輪だと安定性と積載性に難がある。そこで4輪、つまり前の舵輪が2輪で運転に難が出ない仕組みが試行錯誤され、こういう風になった。
1.タイヤの向きを変える為の軸(キングピンという)をハの字に傾斜させる
こうすると、キングピンの旋回軸を延長して地面にぶつかるところとタイヤが設置する場所を一致させることが出来る。つまり、ハンドルを回してもタイヤは接地面を移動させずに向きを変えるだけなので、停止状態でもハンドルが切れるのだ。
剥き身になってる車では見やすいのでこれを見て欲しい。https://youtu.be/13WS1UpG38I?si=46LZ8ChZ6ftGXrZ9&t=180
3:00の辺りから前輪の内側が見えるが、スポークホイールの内側にブレーキドラムがあってその内側にキングピンが見えるが、キングピンは傾いている。またタイヤも逆ハの字に少し傾いていて、キングピンの軸の延長をタイヤの接地面が一致しているのが判るだろうか?
しかしこれだと問題も発生する。例えば右に傾いた円盤を転がすとどうなるだろうか?右にどんどん曲がっていくよね。だから逆ハの字に傾いたタイヤは走り出すとずっと右のタイヤは右に曲がろうとし、左のタイヤは左にっ…て状態になってて、無理にねじ伏せて走る事になる。タイヤのゴムはずっと「消しゴム掛けてる」状態になってるから直ぐに減ってしまうし燃費だって悪くなる。
そこでこうする。
右のタイヤは右に行こうとするので左向きにする。すると右に行くのと左に行くのが釣り合って直進するのである。
左タイヤはその逆に。
なんだが無茶苦茶で無理させてるように見えるが、実際にはちゃんと安定する。そしてこのタイヤの整列状態が戦前から1970年頃までの標準となった。
この為に逆のハの字が標準状態なので逆ハの字がポジティブキャンバーと言われる。上から見て前側を狭めるのはトゥインという。トゥはつま先で、つま先をすぼめた内股で立ってるイメージだ。ポジキャン+トゥインが70年頃までの標準ね。
だが逆ハの字の車というのは今は見ないだろう。それは駆逐されてしまったからなのだ。
まずレースなどのスポーツ走行。カーブでは外側のタイヤが踏ん張るのだが、車体が遠心力で外側に傾く(ロール)。するとタイヤも一緒に傾くので、逆ハの字が強くなってしまう。この状態だと踏ん張りがきかないというのは判ると思う。
だったらレースカーは駐車場の据切りとか考えなくていいのだから、最初からハの字(ネガディブキャンバー)にしておけばロールした時に直立状態になるからカーブを速く走れる。
という事でレースカー=ハの字となり、つまりはネガキャンは速さの象徴となったのであった。
特に1970年代まで多く使われていたタイヤは今のものと構造が違う。今使われているタイヤはラジアルタイヤといって、空気を入れる前も入れた後もタイヤの形が同じになるように構造がしっかりしている。更に接地面は平らになる様に鉄のワイヤを編んだベルトが入っていて、空気圧の多寡で形が変わらないようになっている。
だが70年代までのタイヤはバイアスタイヤといって、形が変化するように柔軟な構造になっていた。自転車のタイヤと同じである。空気を入れるとトレッド面(地面に当たる外周部分)も丸っこく変形する。だが接地面は車の重みで凹むので、これが接地面積になるという構造だった。
こういうヤワな構造のタイヤではタイヤが突っかい棒の方向に向いていれば踏ん張れるが、逆向きだとヨレてしまって全然踏ん張れない。
更にポジキャンが車界から駆逐されてしまったもう一つの理由がFF化だ。
FFは前輪を駆動する方式の事だが、初期のFF車には重大な欠陥があるものも多かった。
歩くほどの一定速度でアクセルを踏まずにハンドルを切ってぐるぐる回ると、前輪の向きと前輪が通るルートは一致している。だが速度を上げていくとタイヤはゴムなので外側にジリジリと滑りながら曲がるようになる。
ここでタイヤが大幅にスリップせずに路面とハンドルに追従するのは接地面のグリップ力によっている。このグリップ力を超えると滑りが大きくなってスピンや外側の壁にぶつかってしまうわけだ。
前輪駆動では駆動力が前輪にかかるが、グリップ力はカーブで踏ん張る力と駆動力で折半しているのだ。
これがどういう事かというと、首都高の急カーブでハンドルを切っているのにちゃんと曲がらず、外側に膨らんでしまうという時、グリップ力の限界付近になっている。
ここで慌ててアクセルを戻すと、駆動力分に割り振られていたグリップ力が全部カーブ踏ん張り力にやってくる。するとハンドルが効きすぎて急旋回し内側の壁に突っ込んでしまう。曲がらないからとハンドルの切り増ししていたら最悪だ。
だから首都高カーブでの事故というのは、外側の壁にぶつかるよりも内側にぶつかる方が圧倒的に多い。
逆ハの字のポジキャンではこの挙動が起きやすくなってしまう。因みに初期FF車でこの特性が強く出て問題視された車にはgoogle:image:ホンダ1300セダンなどがある。ホンダ1300は後から2ドアクーペが出るのだが、クーペの方が穏やかでセダンの方がじゃじゃ馬という不思議な車だ。
また車の駆動力は内側から伸びるドライブシャフトで伝達されるわけだが、この時、力を受ける軸の方に曲がろうとする特性がある。つまり両輪とも上から見て内側に向こうとしてる訳で、これはトゥインと同じ状態だ。これをこのままにしていると加速の度にタイヤが減ってしまうしハンドルも安定しない。
だったらFFではトゥアウトにしておけばいい。トゥインと逆にガニ股につま先を開いた状態だ。
トゥアウトにしたら加速していない時に備えて、キャンバーをハの字にして辻褄を合せなきゃならない。
という事で、FF車や4WDが殆どとなった現在、逆ハの字のポジティブキャンバーは見なくなってしまった。一番最後のポジキャン車は恐らく1990年終売のシトロエン2CVかと思われる。google:image::Citroen 2CV
市販車でネガキャンが可能になったもう一つの理由はホイール形状の変化だ。
昔はスポークホイールだったが、今は鉄のプレスホイールやアルミ鋳造のホイールが多い。ホイールのディスク面を外側にずらす事(オフセット)で内側に空間が生まれる。更にタイヤもホイールも太いものが主流になっている。
するとステアリングの旋回軸の先をホイール内に入れてしまう事が可能だ。するとこの旋回軸の延長にタイヤ接地面を持ってきて更に緩いハの字にする事が出来るようになった。
ところで、この10年ほどで省略される事が多くなったが、その前は黄色く細いスペアタイヤ(テンパータイヤ)を積んでいるのが一般的だった。
そもそも細いので接地面の位置が合わなくてチグハグな状態になる。その上で、上記のバイアスタイヤが抱える問題を抱えていて、FFのフロントに付けた場合は上記の危険な特性を呼び出してしまう可能性があるのだ。
なので、FFでフロントがパンクしたからとそのまま黄色いスペアを前に付けると危ないのだ。更にそれで高速に乗っちゃったりというのはもう自殺行為でしかない。だから黄色いスぺアには「FF車の前輪には絶対につけるな」と書いてある。
まず、道路を走行する車の規制法は二つあって、役所も二つある事を踏まえよう。
規制法は、車両法と道交法、規制役所は警察と国交省(運輸局)だ。
で、警察は道交法と車両法を扱い、国交省運輸局は車両法だけを扱う。
車両法の政令は「道路運送車両の保安基準」、略称保安基準と言って、具体的にどの部品はどういう風でなきゃいけないかという事が書かれている。改造する場合や荷台などを付ける場合はこれを参考して判断する。
保安基準ではタイヤは車体からはみ出して露出してはいけない。これは元は水はねを予防するための基準だった。
だがこれは違う意味で大事な規制になっている。それは歩行者との接触時にタイヤ周りの回転物を接触させない為だ。ボディに接触したのとタイヤやホイールのナットなどに接触したのでは受傷程度が全然違うのだ。タイヤへの接触では巻き込んで踏んでしまう可能性が高くなるし、ホイルナットなどに接触すると抉るような力が人体に掛かって重篤な傷害を負わせてしまう。
ネガキャン強めくらいだと上の方はタイヤハウスに収まっているし、張り出した下側もボディ外寸内に収まる。故に警察に検挙されるという事もない。
しかし鬼キャンともなると、明らかに下側が出過ぎているし、ボディ外寸を超える。だから警察に検挙されうる。
では車検は?というとこれは多分ネガキャン強めでも鬼キャンでも通らないはずだ。
というのも、車検では「サイドスリップテスト」というのがある。上記で説明した、タイヤに無理な力が掛かっていないか、トゥインとキャンバーの組み合わせが釣り合っているかのテストだ。
具体的には横にスライドする鉄板の上をゆっくり通過する。釣り合っていなければ鉄板が横に動くので「サイドスリップ ×」と電光掲示板に表示されて車検落ちだ。
キャンバーいじってあるとここで落ちてしまうので車検は通らないという事になる。
このサイドスリップは改造車じゃなくても駐車場で縁石にぶつけた、サスペンションのゴムブッシュが経年でヘタっている、とかでもタイヤの整列が狂って落ちてしまう事が多い。
だが警察はこのサイドスリップテスターを持っていないのだ。そこまで厳密な検査で車両法違反を摘発するという運用になっていない。だからサイドスリップでは車検には通らないが、警察には検挙されないという状態である。
というわけで、ハの字のネガキャンはレースなどの速さの象徴が過剰化し実用の範囲を飛び出して、速く走れなくなったというヤンキー文化にありがちな代物である。
だが昔は逆ハの字のポジキャンが車の当たり前であって、その中でハの字のネガキャンにするというのはレーサー標榜の不良であった。
しかしエンジンの高出力化、車重の増加により太いタイヤが主流となってネガキャンの方が都合が良くなった上に、FFの主流化によってトウアウトにする必要からネガキャン必須となった。
故に今は嘗ての不良の象徴だったネガキャンしか世に無くなった。そうなると不良性を売り物やファッションのアイデンティティとする者にとっては、実用性ブッパする程の鬼キャンにするしかアピールする方法が無くなったとも言えるのである。
だから「なんであんな異常なキャンバー角付けるの?」と問われたら「”世間側”の全てが不良側に寄って行ったからその先に逃げるしかなかった」というのが一つの答えになるのだ。
なんだかんだで社会人になった時にSwitchを買って、どうぶつの森やスマブラ、ポケモン、モンハン、スプラをしてる(してた)
小学生の時にはなかったはずやが
Switchで鬱になるのは上記のタイトル、オンラインで人と協力プレイ・対戦する機能があるが、何にせよランカーになったり、どうぶつの森でやりたい島作るためにボイスチャットやテキストチャット入ってTLでやり取りするのに、相手の気持ちを推し量る能力がないと詰む。相手に噛まれてもいなす力量か本当に独りで廃人になるほどのめり込む精神がないと詰む。一部のタイトルについてはゲームコミュニティに入っているが、Switchはある程度のお金とネット環境と電気と時間さえあれば買えて遊べるため、付き合う?交渉する?ゲーマーの人生というかぶっちゃけ家庭持ちとか就労状況(大企業からニートまで)とか年収とか異性経験まで、ピンキリな人々がTLでレスバしててそこにエネルギー持ってかれる。コミュ力ある奴に情報が集まって1種の派閥というかカーストが生まれる。レスバにエネルギー使うの無駄すぎるし、あるいはコミュニティ内で交際とかそんなモノを見てしまうとぶっちゃけ萎えてまう。当人達はそれが幸せやから邪魔をする気にはならんが。今のゲーマー年代のコアが20-50歳やからしゃーないのはしゃーないが。
かといってソロでしてるとSNSにある攻略情報がみたくて仕方なくなるよな。wiki単体で見ても分からんもの分からんし。
せめて一部の炎上してるプレイヤーくらい頭さえ賢ければ、自家発電のように一人でモクモクしょーもないエントリー吐き続けて楽しめるものやが。
若いときはそれでも一人で籠もってコツコツしてたが年取ってから妙にネットに再度踏み込んだのが悪い
いやリアルと同じで夢見すぎなのかもしれん
俺もあんま思いつかないんだよね。
とある中国産ゲームに「三月なのか」って名前のキャラが出てくるんだけど、言質の言葉だと「三月七日」で英語だと「March 7th」なんよ。
ぶっちゃけこの3つの中でまともに名前として成立してるのって「三月なのか」だけだと思うんだよな。
「なのか」はパっと見だと「菜乃花」の平仮名表記っぽくも見えるし、三月って名字も超珍しいけど実在しないわけじゃない。
だからこれを見ていきなり「3月7日」という意味を見出すことはあんまないと思うし、そのおかげでその意味にふと気付いたときにインパクトが生まれる。
そんでさ、三月七日はともかくとして「March 7th」はもう完全に人の名前じゃないだろ?
なんかの登録番号かなんかにさえ見えてきて、アンドロイドかなんかじゃないのかっていうミスリードになってしまっている。
じゃあ母国語の三月七日はどうかといえば、これは見た瞬間に日付だと分かってしまう。
日付を名前にしているって情報が前に出すぎていて、日本語版のような一見した自然さがない。
つまり、翻訳チームの努力っていうか言葉と設定の相性のお陰で「三月なのか」という人名に関してだけ言えば日本語版は本家版を超えてしまっていると俺は思うんだよな。
こういうのって他にあるのかなあ。
翻訳小説の名手が完璧にかました名翻訳を言語で読んだら言葉が下手くそすぎたってパターンとかは割とあるのか?
翻訳が凄かった小説といえばアルジャーノンに花束をが思い浮かぶけど、アレを原語で読むのは結構しんどそうだなあ。英語だから頑張れば出来そうだけど。
しっかり稼いでいる、そしてそれに自負もある責任感の強いおじさんなんだろうな、ということは割と容易に想像ができる。それなりに家族サービスもしている。
そういうタイプのおじさんの中には、「社会的な地位に基づく自負」を、サラリーマン人格以外の全方位において適用できるかのようにこじらせている人が一定数いて、恨みおじは、そのタイプなのかもしれない。
産後の恨みは一生おじは、「育て上げたって感じがするなぁ」の一言で、恨みおじ家の家庭のパンドラの箱を開けてしまった状態なのかと思う。
少なくともこの件より前は、恨みおじ自身も妻に対して『妻はあまり自己主張をしないタイプで、だけれども器用に誤魔化すタイプでもない』という古い専業主婦型の性格類型ではあるものの比較的フラット~ポジティブな印象を妻に対して持っていたわけで、それまでは、恨みおじが抱いていた「分業だが協力した家庭運営」を夫婦お互いの努力により大きな破綻なく作り上げていたのだろうと思う。恨みおじが問いただしたりしなければ、妻はこれまで通り、努力と諦めと愛情をもって家事や子育てをし、夫である恨みおじも色々なことを我慢したりして、お互い協力して家庭を円満に運営し続けていたんじゃないだろうか。分からんけど。
そうはいっても、現代の夫婦、家族は言葉によるコミュニケーションにより円滑な関係を続ける方が良いわけで、恨みおじが問いただしたこと自体は責められるべきことじゃない。ただ、聞き出した結果がおじの思ってたのと違っていたとしても、それを否認してしまったらせっかくのコミュニケーションが何の意味もなさなくなり、むしろ恨みおじの家父長的ハラスメントポイントがアップする。そして妻も「愚かなる専業主婦ポイント」がアップする。これは家庭にとっては小さい不幸の種ではある。まぁ多少の不幸なんてどんな家庭にもあるけれど、放置してこの小さい不幸の種から芽が出て葉が茂ってしまうと、よくあるタイプの「冷え切った熟年夫婦」になる種ではある。
恨みおじの一番の傷ついたポイントは、「自分の考えていた温かみのある分業家族」が、自分だけじゃなく妻の我慢や諦めもあって成り立っていたことを突きつけられたからではないか。
恨みおじも我慢や諦めがたくさんあって、妻も同様にあった。それは聞きださなければ表出しなかったのだから、相殺して許しあう方が適切だろうと思う。
おじは
文字にすると端的だが、もっと長々と具体的に話された。その割に、振り返ってみると上記の3~4行でまとまるような内容しかなかったな
と余談のように書いているが、愚痴が冗長になってしまう程度には「やらかし」の回数が多かった可能性も推測できる。それに関して、まるで妻を「話を要約する能力がない奴」みたいな印象操作をするような余談はあまり上品な言葉ではないと思うし、そういう話ぶりからは、こいつ普段からこんなイヤミったらしい当てこすりしてんじゃねという印象も生まれる。
産後1年弱のたった数回のやらかしのことを何十分も話していたのだとしたら、①相当ひどい(死ぬ可能性のあるレベル)やらかしだった、②問い詰めておいていざ話し出したら批判だったのでろくに話を聞いてらんないなって態度をしていた、とか、そんな可能性もある。③単に妻が話が長くて恨みがましい、という可能性ももちろん十分あるが、だとするとそれまで20年以上の夫婦関係の中で妻の、家庭の何を見てたんだ?お前の目は節穴ですか?という話だ。自己主張は少ないがごまかせないタイプなんだろ?妻は。
恨みおじが、根本的に勘違いしているところは、会社員として結果を出すという仕事と、子育てを同じ尺度で査定評価しようとしているところだ。
総量では圧倒的に貢献してきたプラスの方が大きいと思っていた(し、冷静になって考えてもここは揺らがないと思う)
総量って何だろう。
家庭の運営に必要なリソースは、①金、②割いた時間・労務、③精神的なコミット、④緊急時対応力、ぐらいがぱっと並ぶところだと思うが、特に①とそれ以外は比較するための尺度が全く異なるので「圧倒的に貢献してきた」と簡単に言うこと自体が愚かである。要するに、恨みおじはちょっと自分に対する査定が甘くないだろうかと思うのだ。
お金がないと家族は路頭に迷うのは当然で優先順位は高いが、そもそも家族内分業で夫が金を稼ぐことにリソースの多くを集中できる環境は妻が作っているということを忘れている。冒頭に述べた「稼いでいる自負があるおじさん」が一般的に忘れやすいところで、まぁ色々異論はあっても妻の扶養控除を適用しているのなら少なくとも扶養控除以外の部分については「妻が夫が稼ぐためにしている労働」として堂々と数えられる部分ではある。外に出て稼いでいるんだぞ!というなら「生んだんだぞ」になるので水掛け論にすらならない。今二十歳になる長女がいる年齢の女性だったら、3人産んで育て上げられる社会環境は実質無かったのだから妻に給与所得などがないことを妻の責任できるものでもないし、もっと言えば2024年だって金を稼ぎながら子供を3人育てられる女はごく少数の恵まれた環境にいるものだけだ。そういう現実をまるっと無視して「冷静になっても揺らがねえ俺のジャスティス」と思ってるのだとしたら、割と滑稽である。
会社では、営業、生産、企画、人事総務、管理など様々なセクションがあるが、恨みおじは「営業が、新商品の成功を自分の手柄のように喜んでいる」みたいな構図にも見える。営業は当然顧客開拓などに血道をあげて努力をしただろうしマーケティングの手伝いなども責任感を持って従事しただろう。だが、それを生み出した生産、企画やマーケティングの力も大きいし、支える人事総務や管理などのセクションがなければ会社という機構自体が動かない。出来る営業担当者なら「各部門のみなさんおかげで最大売上になりました」と言うところだろうと思う。それが「育て上げたって感じだよなぁ!」と肩を組まれても、工場の生産管理担当者も「あっ、はぁ」となるだろう。恨みおじの言いぐさはこの間抜けな営業マンみたいな感じなのだ。
家族の満足度や子供の成長ぶりが、家庭運営の成功を図る尺度の一つだと思うが(もちろんone ofでしかない)、恨みおじは、実はこの「家族の満足度」において「バツ1つ」付いた、そしてそれに傷ついた、というのが今回の件の別の角度からの見方として筆者が提示したいことである。
少なくとも家族の1人はそれほど(自分ほど)は高い満足度がなかったという「結果」に落ち込んでいるのではないだろうか。頑張ってきたという自負がある人ほどショックだろうと思うので気の毒だとは思う。
もしも、妻からの査定について、自分は我慢強くて家庭に責任感があるから言わなかっただけで自分が稼いだ金で生きているくせに妻は我慢強くない愚かな女で満足してないのは不遜である、と思うなら、仕方がないが、その場合は熟年離婚コースの方に3コマ進む、である。
一方で、もし恨みおじが、本当にもう少し冷静なら、他の家族構成員であり主に家庭の受益者となってきた子供たちに(受益者と言うとなんか変だが子供なので当然だな)話してみたらいいと思うのだ。妻一人の感想ではなく子供たちにもリサーチをすればいい。「娘が成人してパパも肩の荷が下りた、ここまで無事に育て上げられたなぁと思うよ」と聞いてみたらいいと思う。娘はにっこり笑って、そうだね!社会人になるまであと数年お願いします!とか言ってくれるかもしれないし、はぁ?何言ってんの?という顔になるかもしれない。
子供は馬鹿ではないので親の背中を見ている。恨みおじが本当に「俺だって仕事も頑張ってきた、自分なりに家庭も大事にしてきた」のなら、子供は父親を尊敬し尊重するだろう。
そうじゃないなら育て方が悪かったので、母親はもちろん、自分が「育て上げた領有権」を主張する程度には父親にも当然責任がある。「育て上げた」のだから、育ちあがった状態に一部分の責任があるのは当然。
まぁそもそも、子供は3人いるらしいし娘さんも大学生ということはまだまだ社会には出てない。成人の年齢は18なわけで何で今「育て上げた」って突然?と思われそうな気はしないでもない。妻もそんな風に感じたのかもしれない。
仏教の根本概念である「空性」は、あらゆる現象が固有の実体を持たず、相互依存的に存在することを説く。この空性の世界は、無限の可能性を内包する量子の海のようなものだ。我々の認識する現実は、その海面に一瞬だけ浮かび上がる泡沫に過ぎない。
空性の海は、常に揺らぎ、無数の可能性を生成消滅させている。この絶え間ない生滅の過程は、仏教で説く「諸行無常」の原理そのものだ。観察という行為は、この無常の流れの中から一瞬の「常」を切り取る営みと言える。
仏教の「縁起」の教えは、全ての現象が相互に依存して生じることを説く。観察という行為は、この縁起の原理が顕現する瞬間である。無限の可能性の海から特定の現実を引き出す神秘的な過程だ。
縁起の網の目の中で、観察者と観察対象は複雑に絡み合っている。観察という行為は、この網の目の一点に触れることで、全体に波紋を広げる。この波紋が、混沌から秩序を生み出し、無定形の可能性を具体的な形へと結晶化させる。
仏教の「無我」の教えは、固定的な自己の存在を否定する。観察者と観察対象は、互いに独立した存在ではなく、深い次元で結びついている。観察という行為自体が現実を創造するのだ。
無我の視点から見れば、観察者は宇宙の一部であり、宇宙もまた観察者の一部だ。この相互浸透的な関係性の中で、観察行為は宇宙が自己を認識する過程とも言える。我々の意識は、無限の可能性の海に投げ込まれた石のように、現実という波紋を生み出す。
仏教の「刹那滅」の思想は、全ての現象が瞬間ごとに生滅を繰り返すという考えだ。我々の意識は、無数の可能性が交差する点に位置し、刹那ごとに新たな現実を選択している。
この刹那滅の過程は、無数の平行世界が絶えず分岐と融合を繰り返す様子とも解釈できる。観察という行為は、これらの無数の世界線の中から一つを顕在化させる。しかし、選ばれなかった可能性は消滅するのではなく、別の次元で実現し続ける。
「如来蔵」の思想は、全ての衆生に仏性が内在することを説く。物質の本質も、固定的なものではなく、むしろ可能性の集合体だ。観察されるまで、物質は明確な形を持たない。
如来蔵は、全ての可能性を内包する根源的な「場」とも解釈できる。観察という行為は、この無限の可能性を秘めた如来蔵から、特定の現実を引き出す過程だ。この過程で、混沌としたエントロピーの高い状態から、秩序立ったエントロピーの低い状態への移行が起こる。
仏教の「般若智」は、現象の本質を直観的に把握する智慧を指す。観察という行為は、この般若智が宇宙の根源と交感する瞬間だ。それは、無限の可能性の海から特定の現実を引き出す神秘的な過程であり、混沌から秩序を生み出す創造的な営みである。
般若智による観察は、単なる物理的な測定ではない。それは、観察者の意識が宇宙の根源的な創造性に直接参与する霊的な行為だ。この過程で、宇宙の無秩序は一時的に減少し、意味ある秩序が生まれる。
仏教の「中道」の思想は、極端を避け、調和のとれた道を歩むことを説く。観察という行為も、この中道の原理に従っている。それは、完全な無秩序(高エントロピー)と完全な秩序(低エントロピー)の間の均衡点を見出す過程だ。
観察によるエントロピーの減少は、この中道的な均衡への移行と解釈できる。それは、混沌と秩序、可能性と現実性、無と有の間の微妙なバランスを取る営みなのだ。
仏教的視点から見れば、観察という行為は単なる科学的プロセスではない。それは、悟りへの道程そのものだ。観察を通じて、我々は空性の海に触れ、縁起の網の目を認識し、無我の真理を体験する。それは、刹那滅の流れの中で如来蔵の無限の可能性に目覚め、般若智によって宇宙の根源と交感する営みなのだ。
この解釈において、量子観測によるエントロピーの減少は、混沌から秩序への移行、無明から智慧への覚醒を表現している。それは、科学と宗教、物質と精神の二元論を超越し、存在の根源的な一元性を示唆するものだ。
我々の一瞬一瞬の意識的な観察が、宇宙の秩序を生み出し、現実を形作っている。そしてその過程こそが、悟りへの道筋なのかもしれない。観察という行為を通じて、我々は宇宙の創造に直接参与し、同時に自己の本質を悟っていく。それは、科学的探究と霊的覚醒が一つに融合する、深遠な悟りの道なのだ。
”手伝う”は「他人の仕事を助けて一緒に働く。手助けをする。助力する。」なので、他人がやることを助けるというニュアンスになる。そのため手伝うでは主体性がないと指摘される。
夫も妻も家事育児を”自分がやるべきこと”だと認識おり手伝ってもらっているということだと思うが、一般的には妻が家事育児をやるものという認識があるため誤解が生まれる。
例えば、皿洗いを隔週交代で担当するとして、皿洗いを手伝うと表現するか?担当が決まっており、他人のする皿洗いを助けているわけではないので、手伝うとは表現しない。
単体テストというのは、画面を手動で操作してスクリーンショットを撮る仕事だった。エクセルで仕様書を書き、レビューをしていたが、レビューアーはテストケースよりも、枠線の整え方に気を配っていた。
誰かが自動テストを導入しようと言い出した。「再現性がある」「保守性が高まる」「もっと良くなる」と口々に言われていた。
でも、テストコードを開発する工数はどうするのか、開発コードが増えればさらに大変になるのではないかと不安があった。
それでも、これが実現すれば、何かが大きく変わる予感がした。
アプリケーションフレームワークはStrutsだった。フォームをポストする瞬間にカオスが生じ、50行の無駄なコードを書き、100行の読みにくいコードを理解することが技術者の条件だった。
ある人が「レイヤリング」という概念を持ち出し、別の誰かが「DI」と言い出した。アプリケーションアーキテクチャという言葉も登場し、ファウラーという人物の名前も聞こえるようになった。
新しい構造が提案され、それに影響を受けながら、「いつかは美しいアプリケーション構造が生まれるのかもしれない」と夢を抱いていた。
当時、PerlでCGIを作っていたが、PHPやRubyが登場した時は、正直Web"サイト"を作るためのものだと侮っていた。
しかし、次々と洗練されたWebアプリケーションフレームワークが生まれ、StrutsやJavaEEよりもはるかに使いやすくなっていった。
数多くのWebフレームワークの中で、どれを選ぶべきか悩みながら、「いつか完璧なWebフレームワークが現れるかもしれない」と期待していた。
サーバーは冗長化され、ReversProxyを使い、セキュリティのために構成を変更してきた。そしてクラウドが登場し、Dockerなんて本番で使えないと言っていた時代から、
気がつけばどこに存在するのかもわからないクラスターの中で、コンテナアプリが動いている時代になった痛快だ。
かつてLinuxマシン一台を「鯖」と呼んでいた時代から、世界は目まぐるしく変化し続けるとかと思っていた。
誰かがAjaxと言い出し、別の誰かがReactと言い出した。「こんな方法でHTMLを作って良いのだろうか?」と疑問に思いつつも、「Webはアプリケーションだ」という感覚が強まっていた。Webアプリケーションがどう進化していくのか、未来を感じることができた
私たちは、ソフトウェアを開発すること自体に大変さを感じていた。新しい技術やフレームワークが次々と登場し、その都度課題が解決される一方で、新たな課題が生まれる。これほど面白いことはなかった。そしてエンジニアたちには一体感があり、誰もが自分なりの方法で課題を解決し、そのフィードバックループが世界を動かしていた。だからこそ、今は少しつまらない。変化は穏やかになり、「お金を稼ぐ」という目標だけが共通となり、課題は個々の事象に閉じ込められている。しかし、それが悪いことではない。ただ、私たちの時代が変わったのだ。
かつては、私たちの目の前には普遍的な課題があり、それぞれがそれぞれの場所で課題を解決し、そのフィードバックループが世界を動かしていた。
生成AIで例えると、それをどう使うかではなく、エンジニアが一丸となって生成AIをチューニングしていた。世界情勢で例えると、世の中の飢餓を全世界の人がアイディア出して、解決しようとしてたいた。
今でも、普遍的な課題は世界中に転がっているが、それらは高度で、私たちには手が届かないものが増えてしまった。
ITは面白かった。プログラミングが分かるだけで、世界の課題を一緒に解決できる時代だった。それぞれが自分の場所で働くだけで、世界を動かしていた。そんな時代が終わってしまったと感じる。
老害といえば昔話だろ!
普段からハイエンドのAndroidとかゲーミングPCとかで144Hz、120Hzディスプレーの恩恵をはっきり感じ、60Hzへの憎悪すら抱いてる人は簡単にわかるみたい。画面の更新速度が60Hzな上に、更新する順番の方向が一方向だけだから、スクロールをすると左右で更新タイミングが遅れたりする側が生まれる。iPad mini5を使ってたけどそんなこと思わなかったのに、6でなぜ発生したのだろうね。
一部の右翼の人々からすれば彼が”かわいそう”っていう価値観は受け入れられないし、靖国なんかはかわいそうっていうスタンスを拒絶してる。
そして、それこそが韓国や中国が靖国神社への参拝に反発する理由だし、日本人でも一定数の人が批判する理由なわけ。
ここが理解できないとなぜ、亡くなった人に慰霊の気持ちを表明することに反発するのかっていう疑問が生まれる。
あの方は戦争で亡くなった、かわいそうにっていう感情を持った人が集まって慰霊を行う限りだれも批判しないし、中韓も別に批判はしない。
ではなぜこのかわいそうって立場を受け入れられない人がいるかっていうと、かわいそうって言ったときにはその死が避けられるべきものであり、亡くなった人は不幸であるという含意がある。
他方それを拒絶するって事は戦死者たちの死は有意義であるって事であり、また戦争自体も有意義だったという評価につながるわけでそれ故に他国や一定数の日本人もまた批判するわけ。
これは普通に有り得る話。ガバナンスが効いていなかったり現場を把握してない経営陣や現場パンクしてるのにスケジュール調整せずに仕事取ってくる営業とか何年もバレてなかった横領事件とかいくらでもある。
また次の記事を見る限りアダルト関連の規制は個別の通告によって行われており少なくとも独断の余地がある。
"通告”は各社に対して(口外しないことを条件に)個別に行われることになる。しかも、この“通告”は国際カードブランドの“日本”の拠点を通じてではなく、アジア太平洋地域の本社である“シンガポール”から直接行われている。確認したところ、“シンガポール”本社として全体で動いているわけではなく、同本社内の特定の部署が個別に交渉を行っているようだ。そのため、通常の窓口で日本やシンガポールの拠点に問い合わせても、どの会社に対して、どのような規制の“通告”が行われているのか、同社内の人間ですら把握しておらず、報道が行われて初めて事情を把握したという状況が生まれる。
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2405/02/news110_2.html
また基準によるワード規制は行われてないとあるが実際にはDLSite等でワード規制は行われているわけでありこれは通告を用いた現場の独断説を強化する。
また児童ポルノを例に上げてるが例えばアメリカでは非実在児童も合衆国法典第 18 編第 1466A 条によって規制されているがこれは2003年に設けられたもので今更規制の動きに入るのは奇妙である。visaにそのような基準が追加されたりしたらPaypalが基準を公表しているようにvisaも公表するのでなかろうか。
https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3050387_po_0681.pdf?contentNo=1
知恵は、非常に多くのことを包含しているため定義するのが難しい資質の 1 つである。
心理学者は、知恵には知識、経験、深い理解の統合、そして人生の不確実性に対する寛容さが含まれるという点で同意する傾向がある。
賢明な人は一般的に、人生の問題は解決できるという楽観主義を共有し、難しい決断に直面してもある程度の平静さを感じる。
知恵には知性が必要かもしれないが、それだけでは十分ではない。
全体像を把握する能力、バランス感覚、知的謙虚さ、そしてかなりの内省も知恵の発達に貢献する。
知恵は経験を通じてのみ獲得できるが、経験自体が自動的に知恵を与えるわけではない。
知恵を測定およびモデル化しようとする理論が数多く登場している。
心理学者のポール・バルテスらが開発した有力な理論では、知恵を「複雑で不確実な事柄について優れた洞察、判断、助言を可能にする、生活の基本的な実用性に関する専門知識」と定義している。
これには、豊富な手続き知識、豊富な事実知識、さまざまな生活環境の理解、価値観と優先順位の相対性に対する認識、不確実性を認識して管理する能力という 5 つの主要な要素が含まれる。
これらの基準は、仮想シナリオを提示し、参加者がそのような状況で何を考え、何をするかを評価することで測定される。
社会学者のモニカ・アーデルトは、個人は反省、思いやり、真実の追求を含む性格特性として知恵を発達させると考えている。
心理学者のロバート・スターンバーグは、知恵とは自分と他人の間のバランスであり、行動が共通の利益に向けられることだと理解している。
知恵には、知識や経験などの認知的要素、状況や自分自身を分析する能力である反省的要素、そして慈悲や思いやりを意味する向社会的要素が含まれる。
知恵は、視点の転換、心の広さ、知的謙虚さなどの能力にも関連している。
賢明な人は過去の観察や意見をより微妙な思考スタイルに取り入れ、白か黒かの選択肢ではなく複数の視点を考慮する。
新しい考え方にオープンであること、つまり現状に挑戦することは、知恵の特徴であり、知恵を培うのに役立つ。
賢明な人は一般的に公益のために行動するが、同時に自分自身のニーズも満たされるようにし、競合する要求や目標の間で調和を図る。
また、賢明な人は他人の行動を単に判断するのではなく、他人の動機を理解しようとする。
他人への理解と尊敬を育むことに加えて、知恵は充実した目的意識をもたらす。
仕事上の重大な決断を下したり、辛い人間関係の葛藤を解決したりするなどの経験を積むことで、より多くの知識が得られる。
また、教育の場で批判的に考え、視野を広げることを学ぶことで、スキルを磨くこともできる。
決断を下す際、偏見を持たず、客観的な視点を持ち、知的謙虚さを持つことは、すべて適切な結論に到達するのに役立つ。
これらの特徴により、全体像が生まれ、特定の状況の要求と、さまざまな状況に対処する方法に関する知識との適合性を判断するのに役立つ文脈的要因が明らかになる。
別に嫌なことがあったとして、それを書くかどうかは個人の自由なので、何ら問題はないと思う。 私が興味深いと感じているのは、わざわざリスクになり得る誹謗中傷や暴言などの書き込みを、脊髄反射でしてしまう心理。 書くという行為は、案外エネルギーを消費する。 大半の人は脳や脊髄とSNSが繋がっておらず、書き込むまでのハードルが高い。いや普通に繋がってたら怖いけど。 しかし、それでも書いてしまう場合、何を目的としているのかを考えたくなった。 これは心理学のお話だが、他者が否定的情動状態にある時、それについての共感を覚え、その相手を援助することを向社会的行動と呼ぶ。 実際、全ての人が同じ反応を見せる訳ではないが、それは大まかに3つに分けられているという。 ①共感→②同情 →③苦しみ ①は皆さんがイメージするような共感性。相手の情動的状態や状況について理解し、心配することから生まれる。 相手の情動と同じであるけど、相手が悲しければ、自分も悲しくなる。この共感は②か③に発展していく。 ②は共感とは若干違っており、相手への共感があるものの、心配や関心の情動が強い。 ③は共感が自分の個人的苦しみにつながる場合に生まれる。 相手の情動を心配しつつも、その気持ちに対する嫌悪的な情動的反応があり、自己が対象。 相手を助けるよりは、逃避、あるいは無視、攻撃をするのかもしれない。 同情に向かうか、苦しみに向かうかは、共感による情動の喚起が強いかによるらしい。 喚起が強すぎる場合、自分の情動を鎮めたいという気持ちが強くなり、自身の内面にそれが向かい、苦しみへと変わる。 何事も適度であればいいのだろう。 誹謗中傷を投稿したり、それに共感したりするのは、決して「向社会的行動」ではないだろうし、むしろ反社会的であると思う。 私はそこから「負の向社会的行動」みたいなものを感じる。存在しない定義を作っていてすまん。 もっと分かりやすく説明するのであれば、 社会的証明や悪意の共感(schadenfreude)、の定義を説明したほうが良いかもしれない。 一応言っておくけども、以下の例は私が経験した事なので、某芸能人の事じゃないよ。 例えばAさんはSNSで何気ない活動をしていたとする。 知り合いであるBさんは、Aさんを常日頃から嫌いに思っていて、表立って批判や非難の投稿をできない歯痒さを覚えている。 Aさんを嫌いなのはBさんの問題だが、Bさんにはそれが分からないし、何ならあらゆる全ての責はAさんにあると思っている。 そして何か些細なものが引き金となって、BさんはAさんへの誹謗中傷を書き込む。 BさんはAさんが皆から嫌われることへの共感を欲し、その自己の苦しみに同情すらしてほしい。 つまり嫌いな相手が嫌われているという「社会的証明ー個人の意見の妥当性が証明されることー」が欲しい。 そして自分のShadenfreudeー他者の不幸や失敗を喜ぶ感情ーを肯定されたい。 そして嫌いな相手のことを考えて嫌な気持ちになった自分を、周囲からヨシヨシされたい。 要は誹謗中傷や暴言を簡単に書いてしまう人は、かまちょを兼ねた愛情飢餓の餓鬼が多いのだと思う。 これに加えて、衝動制御の弱さが重なると、脊髄とSNSが繋がっているかのような速度で、 思ったことを何でも書き込んでしまうモンスターが出来上がる…のではないだろうか。