はてなキーワード: ティとは
1年前に書いてもらったのと同じ設定。前と違って普通に面白そうになった。
ハリーが3年次にルーピン教授に噛まれて人狼になるという設定で「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」のIF小説のプロットを立ててください。 ドラマチックなストーリーにしてください。 シリウス・ブラック、ピーター・ペティグリュー、セブルス・スネイプを登場させてください。脱狼薬に触れてください。
物語の流れは原作に沿いつつも、最も大きな違いが発生するのはシリウス・ブラックとピーター・ペティグリューを追い詰めた後のシーンです。 ルーピンが狼人間に変身した際、彼は自らを制御できず、ハリーを誤って噛んでしまいます。 ハリーは重傷を負いながらも、一命を取り留めますが、その体内に狼人間の呪いが宿ることに気づきません。
時間が経つにつれて、ハリーは自分の中に異常を感じ始めます。 夜になると異常に鋭くなる感覚、満月の前の数日間に感じる体の重さとイライラ。 彼はすぐに自分が狼人間になったことを知りますが、友人たちに告げる勇気がなく、恐怖と不安の中で一人苦しみます。
ルーピンは自らの行動を深く後悔し、彼の責任としてハリーを守ろうと決心します。 ルーピンは、ハリーに狼人間の呪いを抑制する「ウルフズベイン・ポーション」を飲ませるために、スネイプに協力を頼みます。 しかし、この薬には副作用があり、長期的には狼人間の苦しみを増す可能性があることが判明します。 この「脱狼薬問題」は物語の鍵となり、ハリーの身体的・精神的な苦悩が深まっていきます。
スネイプ教授は、表面上はハリーを嫌悪し続けますが、内心では彼をひそかに守ろうとしています。 スネイプはウルフズベイン・ポーションを調合する際に、ハリーの体に危害を加えることなく、彼を守るための最善策を探りますが、自らの感情と過去の憎しみに縛られているため、冷静な判断が揺らぎます。
スネイプはハリーの父ジェームズとの確執から抜け出せず、彼がジェームズの息子を救うことにためらいを感じる一方、ダンブルドアからの信頼や「命の借り」というスネイプ自身の強い倫理観が彼を葛藤させます。 この一連の過程で、スネイプはポーションに関して危険な選択肢を考え始めます。
ハリーは満月の夜、初めて狼人間に変身します。 彼はウルフズベイン・ポーションのおかげである程度の理性を保っていますが、内なる狼の本能が彼の意志を蝕み、凶暴化する寸前の状態に陥ります。 この時、ピーター・ペティグリューが現れ、ハリーをヴォルデモート側に引き入れようとします。 彼は「お前はすでに怪物だ。闇の力こそがお前に自由を与える」と誘惑します。
ハリーは自分の内なる闇と向き合わなければならなくなり、自分が父親と同じように「正義の味方」になれるかどうかに疑念を抱きます。 彼は狼人間である自分を受け入れることができず、自己嫌悪に苦しみます。 友人たちからも徐々に距離を置くようになり、孤立感を深めていきます。
ついに、シリウス、ルーピン、そしてハリーはピーター・ペティグリューとの最終対決に挑みます。 ペティグリューは、狼人間としてのハリーの力を暴走させ、彼を操ろうとしますが、ハリーは内なる狼と対峙し、「怪物」である自分を受け入れることで、強さと理性を取り戻します。 彼は自らの力を使ってペティグリューに立ち向かい、正義の側に立つことを選びます。
この戦いの中で、スネイプも現れ、最終的に彼の知識と技術がハリーを救う鍵となります。 スネイプは自らの過去の感情を乗り越え、ハリーの命を救うために重要な役割を果たします。 彼はハリーを守るために決断を下し、ウルフズベイン・ポーションの改良版を完成させ、ハリーが狼人間の呪いを制御できるようにします。
物語の最後、ハリーは狼人間としての運命を受け入れつつ、今後も正しい道を歩む決意を固めます。 彼は「自分がどんな力を持っていても、それをどう使うかが重要だ」と悟り、自らの意志で闇に屈することなく、前に進む道を選びます。
スネイプは依然として冷徹でありながらも、ハリーとの間に隠れた信頼感が生まれ、今後の物語の中で二人の関係がより複雑に発展していくことが暗示されます。
背景
トゥワレグ人は昔はサハラ奴隷貿易をやっていて黒人を奴隷にしていた
ちなみにトゥワレグ内の奴隷階級(ハラティン・ベラ・イクランなど地域によって名称が異なる)は自由民と同数~2倍超とも言われる
黒人を奴隷階級として差別しているわけだから、当然マリやニジェール国内では他の民族(黒人)と対立している
2010年代にはリビアの政権崩壊により傭兵だったトゥワレグ人が無職のチンピラとなり大量に帰還
さらにアルカイダ系やイスラム国系のテロリストも侵入し、トゥワレグ人反乱軍と結託して黒人虐殺を開始
マリ政府はフランス軍にトゥワレグ人反乱軍を掃討してもらうが、全く役に立たない
激怒したマリ国軍がクーデターを起こしロシアのワグネル(現在はアフリカ部隊と改名)と組んでテロリスト討伐の成果を上げつつあった
ロシア軍がアフリカで善行を働いていることを憎悪した黒人差別主義者のウクライナ軍がマリに侵略
トゥワレグ人反乱軍を勝手に支援してマリ軍兵士600人を捕虜とし、火あぶり・生き埋め・食人などの方法で処刑
最初amazonで買おうとして、包装の評判が最悪だったから買うの辞めた。amazon以外では在庫なかった。
それで楽天booksで今日再入荷通知来たと思ったら30分以内に売り切れてる。今はもうamazonでもどこでも在庫ない。
本当に楽しませてもらったし、もっと知りたくて、普段こういうの買わないんだけど単純に欲しい。気長に待つしかなさそう。
電子書籍で売ってくれてれば
ホットペッパービューティで「レプリコンワクチン予防接種した人は空気感染するから入店禁止」みたいなのをたくさん見たけれど、どこまで本当なんだろう??
抗がん剤と一緒、というけれど、抗がん剤のばく露だってそこまで感染力強くないでしょう?
一緒にいるだけでうつるくらいの毒だったら、接種直後に亡くなりそうなもんだけど。
そして、日本を滅ぼす目的でそんなのが作られたんだ!って意見もよく分からない。
でも日本が滅びたら、日本に輸出している外国企業は損しませんか?
日本への旅行者や住んでいる外国人はどうなる?感染してしまいますよ。
色々謎だらけでよくわからん。
だれかおしえて
AIに論考形式でいろいろ書かせてみた。段落の最初の文の冒頭だけワイが指定した。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
自由意志、構造主義、そしてポスト構造主義における個人と構造の関係性
実存主義における自由意志と責任の関係は、単に自己の選択と形成を重視する思想にとどまらず、倫理的責任や存在論的な自由の問題と密接に結びついている。サルトルの主張する「実存は本質に先立つ」という命題は、従来の哲学が定めた固定的な本質観を否定し、個人が自らの行為と選択によって存在を形作るという、根本的な自由の重みを強調するものである。自由は自己決定の解放を意味する一方で、絶え間ない責任を伴う「自由の呪い」としても捉えられる。これは、選択の余地が存在しない場合でも、その不作為が一つの選択と見なされるためであり、したがって、個人は常に自己の行為に責任を負わねばならないという倫理的要請に繋がる。
これに対して、構造主義は自由意志に対する重要な批判を提示する。クロード・レヴィ=ストロースは、個人の選択や行為が無意識的に働く文化的・社会的構造によって強く影響されると主張し、これにより自由意志の概念を限定的なものとする見解を示した。レヴィ=ストロースは、神話や親族関係に見られる普遍的な構造を明らかにし、これが人間の行動を規定するという視点を提供した。彼の主張によれば、個人の選択や意識的な決定は表層的なものであり、より深層にある文化的な決定が根本的な影響を及ぼすとされる。この立場は、実存主義が強調する自由意志の重要性に対する強力な反論を構築しており、自由意志がいかに文化的・社会的構造によって制約されているかを示唆するものである。
ポスト構造主義やポストコロニアリズム、ジェンダー論の視点では、構造主義のアプローチに対する再考と批判が進められた。ポスト構造主義者たちは、レヴィ=ストロースが提唱したような普遍的な構造や法則が必ずしも固定的でないこと、むしろ歴史的・文化的な文脈に応じて変動し、多様な解釈が可能であることを強調している。ジャック・デリダやミシェル・フーコーといった思想家たちは、構造が流動的であり、安定した「本質」や「真理」が存在しないと論じた。デリダの「差異」や「痕跡」の概念は、言語や意味が常に変動し、固定的な本質が存在しないことを示し、フーコーは権力と知の関係が文脈によって変化し、固定的な構造に依存しないことを明らかにした。こうした視点は、構造主義が提示する普遍的構造の概念に対して、より流動的かつ歴史的な理解を提供するものである。
ポストコロニアリズムの視点からは、レヴィ=ストロースの普遍的構造という考え方が西洋中心主義的であり、他の文化や価値観を一方的に押し付ける危険性が指摘されている。ポストコロニアリズムは、特定の文化や社会に根付く価値観や規範が、あたかも普遍的なものであるかのように扱われることで、植民地主義的な支配や抑圧が正当化されるリスクを指摘する。この視点は、構造主義が提示する普遍的な枠組みが、他の文化や価値観を不当に排除し、支配的な立場を強化する可能性があることを示しており、文化的相対性や多様性の重要性を再認識させるものである。ポストコロニアリズムの批判は、構造主義が持つ普遍的な枠組みの限界を浮き彫りにし、より包括的で多様な文化理解の必要性を訴える。
ジェンダー論においては、ジュディス・バトラーがジェンダーのパフォーマティビティを強調し、ジェンダー二元論自体が構造的に強制されたものであり、固定的ではないと論じた。バトラーの理論によれば、ジェンダーは単なる固定的な属性ではなく、社会的な行為や表現によって常に再構成されるものである。彼女は、構造が個人を規定するだけでなく、個人の行為がその構造を再生産し、時には変化させる可能性があることを示した。この視点は、自由意志の役割を再評価するものであり、個人が構造に対して持つ能動的な力を強調する。バトラーのアプローチにより、レヴィ=ストロースの固定的な構造観に対する批判が深化し、個人と構造の関係についての新たな理解が模索されるようになった。ジェンダーのパフォーマティビティは、構造と個人の相互作用の複雑さを明らかにし、自由意志と社会的構造との関係を再考するための重要な理論的枠組みを提供している。
このようにして、実存主義、構造主義、そしてポスト構造主義は、個人と社会的・文化的構造の関係をめぐる議論において、それぞれ異なるアプローチを展開してきた。実存主義が自由意志と自己形成を強調する一方で、構造主義は文化的構造の決定力を指摘し、ポスト構造主義とポストコロニアリズムはその構造の流動性や文化的相対性を明らかにした。ジェンダー論はさらに、構造と個人の相互作用を再評価し、個人の行為が構造に対してもつ潜在的な力を示すことで、新たな地平を切り開いた。こうして、自由意志と構造の関係性に対する理解は、固定的なものではなく、歴史的・文化的文脈の中で絶えず問い直され続けている。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
デリダの項は差延でよくない?とか、ポスコロの部分は構造主義はもっと功罪入り混じる感じだよなーとか、ジェンダー論の項はバトラーの説明によりすぎているし、レヴィ=ストロースへの批判自体は重箱の隅をつつくようなもので、レヴィ=ストロースへの批判的読解(同性愛差別を再生産する構造)はバトラー以外に適任いるよなーとかあるけど、いい感じにAIがまとめてくれた。
いろいろ試したけど、ポスト構造主義の文脈でフェミニズムやジェンダー論尋ねたら聞いてもいないのにバトラーのパフォーマティビティの説明される。AIはバトラー信者だろ。バトラー信者な割にノンバイナリーのバトラーに彼女という代名詞使ってて草。
承認欲求を主成分とする平成後期〜令和のオタクインターネットが芯まで染み込んだ、媚びと話題性こそ正義とするクリエイティビティの墓場のような感性に目眩すら覚える。
20世紀カップヌードルや、NO BORDERのような尖ったCMを作っていた日清はどこへ行ってしまったのだろうか。
今の日清CMの感性でFREEDOMをやったらしぐれういがキャラデ担当で、推し活に悩む未来の大学生の話とかになるのかねぇ…バズネタのパロディやネットミームを織り交ぜながら、ギャグシーンでは作画が大川ぶくぶの絵柄になったりして。
それで、たまに渋いネタも仕込んで、Z世代以上の年齢層にも訴求するSFネタで媚びてきたり。ガンダムとか、エヴァとか、カウボーイビバップとか、電脳コイルとか。
はぁーやだやだ。
なんなら家で腹筋してる方が面白い。
テキストが面白くないんだもん。山田悠介の文章より面白くない。
面白くない女とするアクティビティの何が面白いのかという話だ。オナホの方がよっぽど心が満たされる。
お前らシリコンの塊以下か?
同じ時を生きる信用できる人がいるってのは大事なことだ、
婚活ってのは結婚に必要なわけで、結婚ってのはまあ異性と生活を共にするということで、
現代的価値観でいうのであれば、まあ恋愛的にトキメクかどうかとか、価値観が合うかとか、そういう部分が重要なわけだろ。
なんでみんな、真っ先に書くのが年収と身長と体重なんだ????
そんなことより、どんな本を読むとか、どんなアクティビティが好きだとか、どんなスマホを持ってるとか、肉と魚はどっちが好きとか、
子供は何人くらいほしいとか、サッカーと野球ならどっちが好きとか、普段どういうことして過ごしてるとか、
両親とはどんな関係だとか、そういう人間性とかの方が大事なんじゃねえのか?
いうて東大物理卒だって色んな人がいる程度に、某名門音大のヴァイオリンと言ったって色んな人がいて当たり前。
加えて今回はn=5という、n=1に毛が生えた程度の話だ。
しかも「他の音大だって同じようなもんだよ」と言われそうな反面、自分が知る某名門音大卒の誰も彼もが共通する弾き方ということで、そこの学校の校風なのか?と思い、筆を執った次第。
ちなみにこの5人は全員女性、うち2人が自分が過去に習っていた先生である。
ということで前置きはこれくらいにして、某名門音大ヴァイオリン卒の演奏者に共通して感じたこと、それも正直ネガティブに感じたことを挙げてみる。
前提として、ヴァイオリンは元々イタリアの民族楽器だが、ヨーロッパに広まる過程で、ヴィオッティというイタリアの作曲家兼ヴァイオリン奏者が、フランスのトルテという職人に依頼して、弓だけ後付で改良したという経緯がある。
つまり現在のヴァイオリンはイタリア発祥かつ、弓だけフランスで近代化された形で普及していると(だから今でもイタリア製のヴァイオリン本体と、フランス製の弓にプレミアが付く)。
このうち問題になるのが弓。フランスで近代化される前の、元々のヴァイオリンの弓には何かと演奏上の制約が多く、一番のハンデは、腕の筋力で弓を弦に押し付けたが最後、弓が倒れてしまい演奏できないことだ。
結果、ヴァイオリンには以下の奏法があり、奏者はこのどちらかを出発点にしている。
で、これまで会った某名門音大の人らは全員2番目の弾き方。要は抜けのない音を出発点に、弾く音楽に合わせて音を抜こうと工夫する演奏。
それでキレイかつ素敵な音になっていれば、あとはもう好みの問題なんだが、筆者を含む1番目の弾き方をデフォルトにしている人間からすると、「そこでそんなビブラートはかからなくね?」とか、違和感を感じる瞬間がそれなりにあったり。
それから、ロマン派や近現代のやたら難しい曲をめっちゃ上手に弾くのに、古典派の代表的作曲家であり、難易度的にはそこまで難しくないはずのモーツァルトを苦手とする人が多いのも大きな特徴。
しかしながら1番目の弾き方をデフォルトにしている人間は「モーツァルトをまともに弾けない人が、ロマン派以降のメンコンとかブルッフとか弾けるわけないじゃん」
と思っているので、この逆転現象を見るにつけ、「それ、ヴァイオリン弾けたことになるのか??」と疑問に感じることしきり。
基本的に、表現の細やかさと演奏の正確さは比例するのが普通なはず。つまり大味な表現だと音程も外れ気味で発音もあまりきれいじゃなかったりする。
逆に言えば、音程なんて表現が細やかになっていけば勝手に合ってくる。このままじゃ繊細な表現を実現できない!→実現できるくらい音程が正確に合わなきゃ気が済まない!という感じで修正されるから。
その一番素敵な例が、完全独学で名手レベルまでのし上がったギタリストだろう。彼らの表現に、義務感でやらされて正確さを獲得したような音は皆無だ。ハートに突き動かされて精緻を極めた音だけが、そこにある。
表現したいフレーズが完全に線になっていて、その線に然るべき音程の音がはめ込まれている感じ。
「そんなにざっくりな表現で、そこまで音程が合うはずないんだけどな、どうなってんだ??」
なんでそんな、音程だけ全力で合わせたような音で弾くんだろう?というか、なんでそんな演奏で問題ないと思うんだろう??
それよりは表現も正確さも拙いけど、ヴァイオリンが好きという気持ちが音にはみ出たような、一生懸命弾いている演奏のほうが自分は好きだったり。
実はここまで書いた音大以外にも、弦の名門かつ指揮の名門と言われる音大がある。
そっちの音大では、上で書いた傾向を比較的持たない人が多いと言われる。
しかも草創期に在学していたOBOGが、常設ではないが世界的に評価されている、いわば祝祭オーケストラを結成したこともあるレベル。
そこでコンミスを務め、海外で教授をやっていた女流ヴァイオリニスト(故人)曰く
「〇〇先生(その音大の創設者)に教わったことは、世界中のどこでも通用した」
この言葉は非常に重い。
まあ、自分が今更音大に行く可能性なんて、入るまでの大変さはもちろん卒業した後どうすんの?という問題も踏まえて万に一つもない。
しかし、もし今後音大に入れるチャンスが巡ってきたなら、どうせ入るならそこに入りたいなーと妄想するくらいには興味あったり。
https://x.com/Tats_Gunso/status/1832937129371930688?t=sMhsG8F8n6Ux_uFGSk8OXw&s=19
子供を男子だけ女子だけで集めて大人のいない所で生活させたらどうなるか。
これ男女の質の違いを反映してて面白いんだよな。
男子:一日で家の中をメチャクチャにした後は上下の序列を作って家事はせずスナックだけ食べながら家の外で動物を狩ろうとしたところで大人に止められる。
(続
女子:全員同じ部屋で寝泊まりすることになり、ちゃんとした料理を持ち回りで作り家事の当番を決め室内を飾り始めるが、そのうちイジメと派閥と仲違いが発生して寝る場所はわかれ二人の子が実験から離脱。
というツイートが流れてきたが、女子の話がかなり改変されている。
この実験で寝る場所が別れ、いじめと派閥争いが起きたのは男子だし、大人から止められたのは狩りではなくハリネズミ虐待だ。
多分これらは男らしくないと思ったから女子達に押し付けたのだろうが、何でわざわざ圧倒的に女子のほうが良い結果を残した実験結果を歪曲してまでそんなツイートをするのだろう。
動画を見たら男子達はかなり少年らしい愚かさ乱暴さ残酷さで行動をしていて、他の子と同調しイキリ散らかし、破壊活動やバカをやらないと、舐められて虐められる空気が作り上げられているのがわかるのに。
男子のそういった同調圧力の強さは男も経験があるだろうに、何でこれは男らしくないから女子に押し付けようとなるのだろう。
似たような話で、映画「先生を流産させる会」がある、これは実在の事件の映画化を押し出して売りにした作品だが、実際は男子十数人が先生を流産させる会を結成して、誰が流産させるか競っていたのを女子達が告発して止めたのだが、内藤瑛亮監督が男子ではリアリティが無いからと女子生徒たちが犯人に改変した作品だ。
こういう陰湿で愚かな行為は女子がやるはずだという思いがあるのだろうが、何でフィクションで1から作らず実際にあったことを捻じ曲げようとするのだろう、こういうのをたまに見かけるが謎すぎる。
https://www.yourtango.com/news/social-experiment-tracks-10-boys-10-girls-left-alone-house
大人に監視されていない男の子10人、女の子10人がそれぞれ5日間過ごしたらどうなるだろうか?
同じような結果になるだろうか、まったく違う反応を示すだろうか。
2002年、Channel 4は『Boys And Girls Alone』というタイトルのドキュメンタリー番組を放映。
この社会実験では、男の子10人、女の子10人がそれぞれホームで一緒に過ごす様子をモニターし、彼らの行動や交流を追跡した。
このドキュメンタリーは、5日間に渡って大人に監視されていない状態の子どもたちを観察することを目的とする。
◼︎社会実験第一弾『ボーイズ・アローン』、11歳〜12歳の少年10人を追う
https://youtu.be/7F6w2naog5s?si=cMDQ4ybPExp-Od-P
少年たちは、食料が十分に備蓄され、子供たちを楽しませるためにさまざまなおもちゃ、ゲーム、本、絵の具が置かれたホームに送り出された。
日中、カメラクルーがホームの様子を撮影するが、安全上の問題がない限りは少年たちと関わったり、介入したりしない。
カメラはそれぞれの寝室にも設置され、夜間の少年たちを監視。ベッドルームは2つあり、大きな部屋には6台のベッド、小さな部屋には4台のベッドがある。少年たちが助けを必要とするときはいつでも求めることができるように、ホームにはベルが置かれている。
さらに、制作チーム・看護師・両親・あるいは事前に会った児童精神科医と会話することができ、少年たちはいつでもホームから出ることができる。
彼らはまず、壁にペンキを塗りたくり、食べ物を床に投げつけ、水鉄砲で水をかけあった。3日目に数人の少年が壁のペンキを落とそうとするまで、この調子だった。ホームで生活する前の週に全員が料理教室で授業を受けたにもかかわらず、少年たちは誰もその技術を生かす様子はなかった。それどころか、食事はほとんど砂糖とシリアルだった。料理といえば、冷凍ピザをオーブンで焼くくらいだった。
少年たちは2つのグループに分かれ始める。一方は騒々しく、もう一方は身を潜めて静かにしていた。彼らはよく、遊び半分でいろいろなもので互いを叩き合っていた。そのグループの中で、まわりとは違うと見なされた少年・マイケルは、少年たちの標的になった。
5日目になると、家の中はゴミ屋敷と化し、食べ物やおもちゃ、椅子が散乱し、料理に使う食材はほとんどなく、カオスのまま終了した。
『ボーイズ・アローン』は反響を呼び、同チャンネルはまったく同じコンセプトの第2弾を制作することにした。
第2弾 『ガールズ・アローン』では、料理・掃除・交流に対する女子のアプローチが大きく異なることを証明
本編YouTube→ m.youtube.com/watch?v=PJ1nPP…
第一弾の少年と同年代の少女は、行動や整理整頓の方法が異なっていた。初日、一人の少女が料理と掃除を担当し、家庭内の食事の準備をした。
男の子たちとは違い、女の子たちは全員キッチンのテーブルに集まり、初めての食事を一緒に食べた。食事が終わると、女子の何人かはファッションショーを企画し、自分たちを楽しませるためにケーキを焼くことにした。
アクティビティが終わると、一人の少女が家の掃除と整理整頓を始め、他のメンバーもそれに加わった。やがて彼女たちは集まり、料理と掃除の分担表を作成した。
◼︎この社会実験は、女性がリーダーシップ能力がジェンダー的偏見の影響で見過ごされがちであるという議論を呼び起こした
このシリーズが公開された当初はやや物議を醸したが、最近ネット上で共有されたクリップが広く話題を呼んだ。両グループが同じリソースを持っていたにもかかわらず、男子が大混乱を引き起こしたのに対して、女子は組織化され、明確な決定を下すために協力し合っていたことを、人々はすぐに指摘した。
『みんなが料理コースを受講したの?それで、料理をしたのは1グループだけ?掃除をしたのも?ミーティングを企画したのも?タスクを分担したのも?そして、そのグループは「すぐいがみあうし感情的すぎるから、リーダーに向いてない」って言われてるグループなの?』
『少女たちは業務分担表まで作っていた!そして、肯定的な言葉を使い、自分の後始末をし、多くは寝る前にシャワーを浴びていた! 髪が濡れていた。 すごい。 とても誇りに思う』
◼︎ 少年たちの行動は「男に課せられている社会的役割」のせいだと非難する人も
『男の子はそうやって育てられるんだ。 他人の面倒を見ることができない。 彼らは他人の世話をしない。 これは女性の問題だ。 つまり、この機能不全は社会のせいであり、男性が社会からどう思われたいかが影響している。』
女子にも不完全な部分があり、いがみ合う瞬間もあったが、しばしば一緒になって合理的な解決策を考え、男子のように2つのグループに分かれることはなかった。
聞きたいんだけどさ
実はなかったりしない?
それなのにふんわりと恋愛への憧れだけ募らせてない?
潜在的アセクシャル(厳密にはアロマンティック)、男女ともにかなり多いと思うんだよな
社会的に恋愛をするのが当然すぎて、自分がそうだと疑いもしないとか
「自分に自信がないだけ」「怠惰なだけ」とか外野から言われて間に受けちゃってたり
でもさ、本当に、胸に手を当てて考えてみて欲しい
まず中高大一貫校の関東学院で中学から大学までを過ごしている。
高校での募集は行って居らず、大学の偏差値は40台前半といったところ。所謂F欄。
関東学院大を卒業した進次郎氏は東京大学よりも格式が遥かに高い、ニューヨークのコロンビア大学大学院に入学するのである。コロンビア大はアイビーリーグの一つ、という説明も不必要な程の名門校である事は言うまでもない。日本人留学生の受け入れも多く、明石康氏も同校出身だ。(実は大島てるも出身)
関東学院からコロンビア大学院。すごい努力だ。すごい努力が見える。
しかも知日派、ジャパンウォッチャーとして名高い保守系国際政治学者、ジェラルドカーティスゼミを指名。カーティスに師事した。
卒業後はCSIS(戦略国際問題研究所)の研究員として就職。ここも保守系シンクタンクの名門で、日本などの金融系シンクタンクが分析に留まるのに対して、アメリカの政治に影響を与える力を持つ。ぶっちゃけ、ここが「ここは戦争をした方が良い」と意見を出したら西側諸国は戦争を始めるのである。
そんな世界を動かすトップレベルなところに研究員として就職したのだ。
そしてこれが唯一の職歴だ。エリート中のエリートの仕事、世界を動かす仕事以外した事が無い。因みにCSISは1年で退職した。
関東学院卒なのにこんなすごい経歴なんだが、週刊新潮がそのからくりを説明している。
「小泉進次郎、名門「コロンビア大学院」留学は「特別なプロセス」 関係者が証言」
https://www.dailyshincho.jp/article/2021/08200557/?all=1
つまり、カーティスゼミに入る事を前提に、関係者が色々手を回した。
そのキーマンがマイケル・グリーンであったと。グリーンはジャパンハンドラー(日本転がし/日本の飼い主)の代表的人物だ。ブッシュ政権ではNSC(国家安全保障会議)の日本朝鮮担当部長を務め、その後はCSISで上級顧問日本部長を務めている。日米関係の超重要人物だ。
こうして進次郎氏はコロンビア大学院に入学出来、卒業も出来た。
更にCSISにも入社出来た。マイケル・グリーンが東亜担当部長やってるんだからそりゃ通るし部下として配属されるわな。
新潮の記事ではビクター・チャ氏が骨を折ってくれたと書かれているが、この人は記事にある通りに後にNSCアジア部長となり、トランプ政権ではトランプの北朝鮮限定戦争を抑止した人物である。
なんともすごい人物が続々登場して努力した結果、進次郎氏はコロンビア大→CSISの学歴職歴をゲットした。
CSISで進次郎氏のような人材が必要だったんだろうか?普通に考えたら判るがそんな訳がない。
つまりはコネだ。それまでの自民党総裁は米側の要求はなんだかんだと有耶無耶にして結局日本が大損ならやらないし、吉田茂や角栄を筆頭に憲法9条があるからと再武装を有耶無耶に断って出兵もしないし、経済成長に全振りするから低価格高品質化した日本製品に北米市場を喰われてしまう。米企業には、軍事機密に属する技術のコピーは出来ないという縛りがあるのに、軍事産業が無いという建前の日本は、新技術が軍事技術に属するかとか気にせず、それどころか米軍の装備の実物が無いのに機能だけから脳内逆アッセンブリして応用技術として製品に組み込んでしまう。汚いな、流石日本汚い。
だが小泉純一郎総理は比較的アメリカの要求を聞いてくれるし、革新的であり、その革新さはアメリカのネオコンサバティズムに立脚している。
一般企業で数年以上働いてしまうと、経験と思想のすり合わせが必要だ、とか直線的に目標達成すると周囲の環境を折り込めていない天ぷら的なものを作ってしまって全体としてはコストが余計に掛かったり、パイを縮小させてしまう、といった事を覚えてしまう。
進次郎氏も実質的な「一般的に認識される職歴」というのはゼロなので、全アイデンティティであるコロンビア大→CSISコースをやるしかない。これは歴史と思想とアイデンティティの問題であり、進歩主義の一つである。
ただ、ネオコンサバティブで問題となる、戦争を引き起こす問題は現在封印されてはいる。イラク戦争で大失敗して「change」を旗印にしたオバマ政権が誕生し、色々妨害したがオバマは8年務め、足元の共和党はトランプに塗り替えられてしまって居場所がない。
でもそれ以外のアメリカの要求が来た時に、それが日本の国益を著しく損なわないか、国際社会で受益する以上甘受すべき不利益なのか、Winwinなのか、構造改革なら先行の効果測定結果があるのかという判断はどうせ進次郎には出来ないだろう。
この辺の魂胆は党内でも同じなんだろう。
岸田のように、カルト議員のパージを行うかも?という不安、裏金問題で公正や法治の方に舵を切るのでは?という不安を抱えなくて済む。
顔もいいので国民からの批判も緩む。例えば大阪知事の吉村洋文は株券印刷業と揶揄されるアンジェスの人間をすっかり信用して「大阪の会社が初のワクチンを供給する」と考えてしまい補助金を出した。製薬業に無知過ぎた。するとそれを見たイソジン製造元の営業は怪しい話を吉村に吹き込む→信じて記者会見でイソジン治療法を発表→イソジン爆売れというのをやらかした。明らかに製薬業周辺の知識がない所をつけ込まれているいるのだが、顔がいいのでスルーされてしまった。イケメンはバカを超えるのだ。
これは利用しない手はないな。って事で、イケメン、バカ、純粋培養、社会人経験なし、世襲という条件がたまらなく利用価値があるって事なんだろう。
コネは普通は仕事回して貰えるとかの限定的な利益だが、進次郎さんのコネはもっとスケールが違うので、実質はリモコンだと思われる。
2023年くらいから、男女混合システムになって一気にクソ化した
普通に考えて女子が男子と同レベルの技術や身体能力を持っているわけないじゃん?
パックに女子が混ざってくるせいで男子の当たり引ける確率が減るし、
単純に自分の好きな選手が聞いたこともないような女子選手より弱いのがマジで許せない
ボンマティは可愛いし好きだけど、デブライネやベリンガムよりサッカー上手いわけないよな?
野球で言うと、稲村亜美が佐々木朗希より上とか、それくらい無茶苦茶なことやってるよ
はっきり言って俺はかなりリベラルやフェミニスト寄りの考えを持ってるけど、
この件に関しては今でも許せないしすぐにでもやめてほしい
そもそもサッカーは男女混合でやるスポーツではないので女子だけのモードを作ればいいだけの話
なんでこんなクソ仕様にしてしまったのか、なぜこの件にもっとユーザーが声を上げないのか
Switchの有機EL版が実売で38000円くらいだから次世代機は4万越えはほぼ確定だし、本体もソフトも滅多に値下げしないことで有名な任天堂が初手から為替レート無視して安く売る可能性も低いから、現在の1ドル140円換算で400ドル・56000円くらいにしてくる可能性もある
またSwitchやPS5のときは発売から2年近く品薄でまともに買えない事態が続いてたから、次世代機もそうなる可能性は極めて高い
ギフティッシユで買ったAmazonギフト券使ってたら8万没収された上にクレカで払った10万も帰ってこなくて、永遠垢BANになったで。
しかも、別に18万くらいはどうでもいいんだけど、Amazonプライムフォトの全てのデータもBANで、マジでAmazonは二度と使わねぇ!ってなったわ。
M理論の幾何学を最も抽象的かつ厳密に記述するには、圏論的アプローチが不可欠でござる。
M理論の幾何学的構造は、三角圏の枠組みで捉えることができるのでござる。特に、カラビ・ヤウ多様体 X の導来圏 D⁰(Coh(X)) が中心的役割を果たすのでござる。
定義:D⁰(Coh(X)) は連接層の有界導来圏であり、以下の性質を持つのでござる:
1. 対象:連接層の複体
この圏上で、Fourier-向井変換 Φ: D⁰(Coh(X)) → D⁰(Coh(X̂)) が定義され、これがミラー対称性の数学的基礎となるのでござる。
2. 各対の対象 X,Y に対する次数付きベクトル空間 hom𝒜(X,Y)
3. 次数 2-n の演算 mₙ: hom𝒜(Xₙ₋₁,Xₙ) ⊗ ⋯ ⊗ hom𝒜(X₀,X₁) → hom𝒜(X₀,Xₙ)
これらは以下のA∞関係式を満たすのでござる:
∑ᵣ₊ₛ₊ₜ₌ₙ (-1)ʳ⁺ˢᵗ mᵣ₊₁₊ₜ(1⊗ʳ ⊗ mₛ ⊗ 1⊗ᵗ) = 0
この構造は、Fukaya圏の基礎となり、シンプレクティック幾何学とM理論を結びつけるのでござる。
M理論の完全な幾何学的記述には、高次圏論、特に(∞,1)-圏が必要でござる。
定義:(∞,1)-圏 C は以下の要素で構成されるのでござる:
2. 各対の対象 x,y に対する写像空間 MapC(x,y)(これも∞-グルーポイド)
3. 合成則 MapC(y,z) × MapC(x,y) → MapC(x,z)(これはホモトピー整合的)
この構造により、M理論における高次ゲージ変換や高次対称性を厳密に扱うことが可能になるのでござる。
M理論の幾何学は、導来代数幾何学の枠組みでより深く理解できるのでござる。
定義:導来スタック X は、以下の関手として定義されるのでござる:
X: CAlg𝔻 → sSet
ここで、CAlg𝔻 は単体的可換環の∞-圏、sSet は単体的集合の∞-圏でござる。
この枠組みにおいて、M理論のモジュライ空間は導来スタックとして記述され、その特異性や高次構造を厳密に扱うことが可能になるのでござる。
M理論の幾何学的側面は、量子コホモロジー環 QH*(X) を通じて深く理解されるのでござる。
定義:QH*(X) = H*(X) ⊗ ℂ[[q]] で、積構造は以下で与えられるのでござる:
α *q β = ∑A∈H₂(X,ℤ) (α *A β) qᴬ
ここで、*A はGromov-Witten不変量によって定義される積でござる:
α *A β = ∑γ ⟨α, β, γ∨⟩₀,₃,A γ
お米品薄解消してきているのかしら?
こないだマーケットでは米袋売ってたわよ。
街の道端でも露店でお米量り売りしているのをみて
えーそこまでみんな必死なのね!って思ってよく見たら
私も手に取ってこの黒いのお米?って尋ねたらコーヒー豆だよって教えてくれて
あ!私はそれまで本当にお米だとそれを信じていたので手に取るまでなにも疑問に思わなかったわ。
平成の米騒動とはこのことね
まあお米じゃ無かったので買わなかったけれど、
世間は勝ってよね。
みんながお米を食べなかったら若者の米離れ!っていうし
若手力士の怪我して試合の土俵に出れないのは力士の肉離れ!って怪我が理由らしいので
そして米が足りなかったら足りなかったで
チェーン店とかの外食のお米はそんなに鬼気迫る感じではなく普通に大盛りも頼めちゃうし、
一般に向けてのお米がどうなってるのか?
今こそ墾田永年私財法とか自主流通米とか制度見直した方が良いのかもしれない私は分からないけれど、
江戸時代のお米作りの名人の大塩平八郎さんが今の状況を知ったら笑われちゃうわよね!
まさに我田引水!
知っているお米に関する言葉をならべるだけで凄い賢そうな人だと思うでしょ?
だから一概にお米の世界の品種を言えば賢そうに見えるとは限らないところがまた難しいのよね。
インドカレー屋さんに言ったら一度は手食をやってみたいけど、
慣れないとなんか上手く指先でご飯を掴んで食べることができないので、
下手にやると張り切ってる人だと思われるから
すぐに手を洗うところで洗いたいと思っちゃうわ。
店内からすぐ見えるところになんか、
わりと大きな手洗い場があるインドカレー屋さんは手食を張り切っていいお店かもしれないってどこかで聞いたけれど
私はなかなか手食でそれら食べるのがちょっと恥ずかしい張り切ってる人と見られるわよね。
お米が本格的にマーケットで買うに困らなくなったら
ご飯にピッタリな早く美味しい焼き秋刀魚にありつけますように!
うふふ。
急にこぞって納豆が食べたくなるブームって突如訪れるので今その納豆グラフのピークかもしれない時期かもね。
美味しくいただきました。
それの2種類の柑橘系果汁デトックスウォーターってところかしら。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!