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はてなキーワード: 相手とは

2019-03-24

公園ちんこ

近所の公園の植栽がスカスカに整備された。こども相手犯罪防止らしい。

鬱蒼とした雰囲気が好きだったんで、バカのためのこういう社会的コストうんざりするし、予備軍のちんこ切っときゃ済むのにとも思ったり、でも俺も予備軍に入るかもしんねえしなとか思ったり。

というような話をしていたら全方面的に理解されないんだけど、そういうもんなの? 「ちんこ切るとか信じられない」「自分も予備軍かもしれないってそんな自覚あるんだ」のどっちか。

いや、このフレーズ出すとさらにややこしくなるの承知だけど、俺って「普通リベラル」のつもりだったんだけどな…。みんなこういう思考の折り合いはつけないものなのか。

anond:20190324144103

やっぱり、自分がしてるモノ扱いはスルーのまま終わったか

これで寛容なつもりなんだから笑わせる

都合の良い時は寛容な顔して、でも相手には自分の都合の良いアクションしかさないってのが「寛容」?典型的モノ扱いじゃん。

誤りを指摘されてムキになってるのはどっちかな?

anond:20190324143223

あなたのなかの私がどういう人間かは知らないけれど、その人とは無関係に私なりに頑張って生きていこうと思います関係ないけど、匿名相手にムキになって虚しくならないのかな、と思いました。あくま個人的感想ですから答えなくて結構ですよ。ありがとうございました。

anond:20190324140159

そう感じることはそう決めつけること。君の中ではイコール

更にはネット晒し上げてる時点でもはや理解する気もなく、相手を「自分不快なことをせず適度に仲良くしてくれるモノ」や「サンドバッグ」としてモノ扱いしてるのは明白。

己の性嫌悪他人押し付けて、逆らう者は悪(モノ扱い)と称するその醜悪さになぜ気付かないのか。

己の不寛容を棚上げして、他人に寛容さを求めるのか?ちゃんちゃらおかしい。

被害妄想他人を踏みつけにしてる君に寛容を語る資格なし。

anond:20190324133906

言い換えじゃなくて例を聞きたかったんだけどなあ。

申し訳ないけど私は、「ワンチャン狙い」って言葉を聞いて「モノ扱いされた」と感じるのは自然感覚だと思ってしまう。あなたの考えでは、そう感じること自体相手男性をモノ扱いしてるってことになるんだろうけど、そんなこと言ったら他人が本当に考えてることなんて分かるわけがないわけで、コミュニケーションはつねに限られた言葉仕草に基づく(広い意味での)誤解の上でしか成り立たない。元増田の短い文章から元増田相手を「モノ扱い」していたかどうかの判断はできないけど、典型的物語として自分感覚に照らしあわせて解釈する限りでは、そういう状況で「モノ扱いされた」と感じてしまうこと自体は全く不自然なことではないと思ってしまうわけ(感じることと決めつけることは違うからね)。

からその感覚自体が間違ってると思わせるような考えがあるなら聞いておきたかったんだけど、どうやら「相手のモノ扱いやめない」認定されてしまったようなので、諦めます。ところで、そういうあなたの態度に「相手意図を考える寛容さ」はあるのだろうか。

うんこした後の尻、何回拭く?

さっき夫とトイレットペーパーの補充回数の不均衡について話をしたんだけどね。

うちはほぼ8割夫がトイレットペーパーを換えてるのよ。

まぁ私は多少気が利かない方ではあるので、トイレットペーパーの補充を忘れて(または気がつかずに)トイレを出る事もあると思うの。

でも流石に8割相手に偏るほどじゃないかなって。そこまで鈍感じゃないと思うのね。

からトイレットペーパー消費量が違うんじゃないかと思って

トイレットペーパー使い過ぎじゃない?って聞いてみたの。

そしたら、うんこした後トイレットペーパーを変えて尻を3回は拭くって言うじゃない。

目から鱗。私はウンコしてウォシュレットして一回拭いて終わりだったわ。

嫌だわ不潔だったのかしら。

トイレ事情って人それぞれでわからないものね……

ずっともやもやする

なにやっても憂鬱になる

死にたいのになにやってんだろって気分になる

夫と笑ってても、楽しく過ごしてても、ほんとは死にたいのになにやってんだろって思う。

未来の話とか、ほんとは希望もなんもないのにわくわくしたりして、その気持ちは嘘じゃないけど、私本当は死にたいんだよなあって思いが頭をよぎる。

顔に、でてるんだろうか。わかんないけど。

夫はとても良い人なので、死にたい気持ちはいつもかなりまぎれる。

週末は外でブランチして、映画見て、お茶して、買い物して、楽しく過ごしたけど夜にはもうめまい。目が、まわる。

この世のいろんなことを触覚し続けることがつらくて、意識を失いたいっていう気持ちになる。

死にたい死にたいって泣くほどじゃなくても、夜はなんかいたたまれなくて眠れなくなる。

映画小説漫画も全部の辛い思いばかり自分にのしかかってきてしんどくなる。勝手に。

何かのメロディ聞くだけで泣きそうになることがある。

いろんなことに気を使い過ぎてしまう。それでいて相手が同じように気を使わなかった時に憤慨してしまう。

勝手で、わがままで、押し付けがましい自分が嫌になる。

それでいてガサツなのでしんどい。ガサツで明るいふるまいをずっとしていなくてはならない(と勝手に思っている)

このあいだの大変なお母さん、すごいと思う。えらいとかのレベルじゃなくて、尊敬する。人間管理して育てるなんてすごいよほんと。

私なんて、子供がいなくてこれだもん。自分すらもてあましてる。

明るく生きられる人間になりたいよ。野菜運動瞑想なのか。やっぱり。

anond:20190324133727

好意の表明としてのワンチャン狙い

以上

お前には何言っても結局相手のモノ扱いやめないの分かってるから

anond:20190324131518

ワンチャン狙い」で相手をモノ扱いしない例をどうぞ

結婚した相手しかセックス出来ないって不具合じゃない?

人生パートナーとして一緒に過ごすってのはわかるけどさ

からってその人にの性的欲求を解消してもらうってちゃんちゃらおかしな話じゃん

これは男女問わず問題になりそうなんだけど、みんなよく我慢してるね

twitterブコメからダメブログからマシって言う人

大概、文脈を読む力が弱い人が大半だと気づいた。

相手の前提や論点をある程度推測してれば、だいたいの意見はなるほどこういう角度で見て言ってるんだろうなってのは容易に想定できるワケ。それができない人っているんだよねー。

ブログで書かれた長文は揚げ足を取りやすいから「俺の方が正しいいいいい!」と突っ込んで成功するけど、

短文に対しておなじことやって、まっとうな前提や論点が飛び出してきて顔真っ赤にしながら退散した経験があるんだろーなーって人ほど、短文はだめだ!ってわめきちらしてること多いなぁ…と思う。

anond:20190324131725

論拠も何も、お前は相手の「ワンチャン狙い」を一方的否定してるじゃん。

そこに相手意図を考える寛容さはなく、ただただ自分サンドバッグとして都合のいい解釈押し付けてるだけ

まさにモノ扱い。

分からんふりしてるのは認めたくないってだけ

生き恥晒してるね

anond:20190324131518

ワンチャン狙い」という相手価値観否定してモノ扱いしてる

ここのロジックが全く分からん。全き人間をモノ扱いすることと、相手の「ワンチャン狙い」を解釈することとが同一の俎上で扱い得る論拠を示せや。つくづく生き恥さらしてるなあアンタ。

anond:20190324131401

お前は「ワンチャン狙い」をモノ扱いというが、「ワンチャン狙い」という相手価値観否定してモノ扱いしてるじゃん

恥を知るべきダブスタ思考

そもそもワンチャン狙い」がモノ扱いというのもお前の醜い邪推に過ぎない

anond:20190324130511

お前みたいな肥溜めにきて年収自慢したり教室で生徒相手に威張るのが好きなクズ

子どもにとって害悪しかないんだからやめて正解だろう

セックスすぐ飽きちゃう

付き合って、するまでの2〜3回はいつも最高に興奮してる。

何もしなくても濡れるくらい。

なんだけど、そこから先、この人は大体何をしてくるかわかってくると、すぐ冷めてしまう。

そして向こうも最初の2〜3回で「こいつは何もしなくても俺に興奮する」と確信するらしく、一気にセックスへの誘い方が雑になってくる。明かりのあるところで押し倒してきたり、特にムードも何もなく胸を鷲掴んできたり。

それが嫌で、別れる。

その繰り返し。

自分クズさにがっかりする。

からといって相手を一気に嫌いになるわけじゃないから、本当はずっと興奮していたいのにな……。

男女でするのに適したレジャー

もう、あんなにやるまいと思っていたのに

また「男性ショッピングを楽しもうとする」のに失敗してしまった

男性は、目的のものを買いに行くために買い物に行くので、買う予定のないものを一緒に見たり、まだ見たことのなかったものを見つけてそれを好きかどうか確認し合うみたいなことはしたくないってわかっていたのに

観光地へ行ったのがつい楽しくなってまたショッピング相手を誘ってしまって失敗してしまった……本当に私はバカだ……

もう失敗したくないので、同性同士でやるより異性とやったほうが捗るレジャーを教えてください。

自分バカさがほとほと嫌になります

anond:20190324094909

私は進学で早くに親元離れて以来ずっとそのまま親と距離があるから

大人になってもまだ親に大嫌いとか大好きとかいう強い感情持ってる人見ると驚く。

特に大嫌いでも大好きでもない。両者が割り切れないとかもない。血縁があるだけで何とも思わない相手

描いた絵を捨てられたり論理的に話が通じなかったりして思春期の頃はかなり憎んでたこともあったけど、

もう全く別の土地で全く別の自立した大人になったので心の底からどうでもいい。

好きでも嫌いでもないしたまに電話が来たら「あ、こんな人いたな」という感じで思い出す程度。他人だね。

anond:20190324111157

怒る→その怒りに対して怒る→イライラしてまた怒る→相手の気に食わない点に対して怒る→その怒りにまた怒る

無限ループ

anond:20190324111157

みんな嫌いなものはそうやって勝手プロファイリングしてでも叩こうとするよな

いくらご立派な原則をぶち上げたところで、気に食わないもの相手になると引っ込めるのでは何の意味もありゃしない

サッカー馬鹿しかやらんスポーツ

なぜ選手相手ゴールの近くに置いといて

そこにパスしてシュートいかねえんだ

こいつら全員馬鹿じゃねえのか

馬鹿すぎる

俺ならその作戦10点は取れる

だっつーのに

サッカー選手馬鹿しかいねえのか

日本ワールドカップで勝てねえのも馬鹿からだろうな

anond:20190324103559

マウントとるのが目的なんだから文章なんて読む必要ないだろ

バカじゃない?

議論がしたいなら相手選んでリアルでやれよ

いや、できないか匿名に逃げ込んでるのかw

ゲーム攻略することが好き

ゲームを始めたら最初は”正しい遊び方”を案内される。こういう風に攻撃すればいい。こういう風に防御すればいい。

そうやってゲームを進めているうちに、ゲームに用意された「尖った要素」を見つける。「異常な要素」と言ってもいい。攻撃が一撃で終わるとか。相手の行動を全て無力化するとか。ノーコストで行動を挟めるとか。その発動がほぼできないとか。普通に殴った方が早いとか。

試してみる。うまくいかない。当たり前だ、本来はそれを使って遊ぶゲームではない。

でも、用意されている要素なら必ず使い方があるはず。ゲーム仕様を追っていくと、その”答え”を見つけていく。なるほど、これと組み合わせるんだな、こうすれば隙ができないのか。ここでは成立しないのか。どこまでが用意された要素なんだ、ここまでは制作者も想定していないんじゃないか

突き詰めていき、最終的に全く違うゲームになる瞬間が好き。最初から最後まで自分が想定した通りに戦いが動く。素晴らしい。極まりすぎて構成の一つも変更できない所までいく。それを眺めているだけで最高だ。

対戦ゲームで同じことをやると嫌われる。悲しい。普通にやった方が汎用性が高くて強いらしいのだが...

浪人をすることになった人へ

~~はじめに

 もうかなり前の話になるが,私も大学受験に失敗し,浪人をすることになった。

 (することになった,というのは,したくてしたわけではないかである。)

 人生で初めて,目の前が真っ暗になるような思いを味わった。

 どうすればいいのかわからず,途方に暮れた。

 そのとき書籍等を通じて様々な先達の経験に触れ,それに励まされてなんとか乗り越えた。

 これは遠い昔の一受験生出来事であるが,ふと思いついて,自分が励まされたように,何かの役に立てばと思って書いてみた。

 時代が変わっているので,個々の科目の勉強法等は記載していない。

 もっと大きな方法論の一例として見ていただければと思う。

 大事試験で失敗してしまい,失意の中にある人が,捲土重来を期すのに少しでも役立ってくれれば幸いである。

 人生で最も勉強をしたのは,大学受験に失敗し,浪人生活を送った時だった。

 その当時は自分なりに辛い思いもした。しかし,その分必死になって努力を行い,いかに状況を打開するかを日々考え抜き,最終的に結果を出すことができたので,得るものも大きかったように思っている。

 なお,前提として,私は小中高と地方公立学校で育った者である。塾にも浪人時代を除いてほとんど通ったことはない。

 高校時代部活をやっていたので,高2の冬までは授業を普通に受けていただけだった。志望校を決めるような段階になってからやばいと思って「受験生」になった,というのがバックボーンとしてあるので,以下の文章はそれを踏まえて読んでいただければと思う。

~~気持ちの立て直し方

 それまで特に勉強において壁にぶつかったこともなかっただけに,不合格の衝撃は当時の自分にとっては,人生のものだった。

第一志望しか受験していなかったので,選択余地なく浪人をすることになったが,仮にすべり止め合格を得ていたら,果たして浪人という選択ができたか,全く自信はない。

 それくらい,浪人するということについて,落胆していた。

 同級生のうち,現役で受かった者が嬉々として大学生活に入っていく中で,少なくともも一年,いろんなもの我慢して勉強に向かう生活余儀なくされるというのは,たまらなくつらかった。

 ひととおり落ち込み終わった後で,考えたのは,一つには,終わってしまたことを悔いても何もこの現実を変えることはできないということだった。

 現役で大学生になる身近な同級生想像し,なぜ自分はそうなれていないのかと身悶えせんばかりに考えたときもあったものの,いくらそのように思ったとしても何も現実は変わらない。過去に属してしまたことは,もう客観的には変えることはできない。そうだとすれば,今できることは,その意味付けを変えることしかないと思った。

 今身を切るように辛く感じられる大学不合格という事実も,たとえば,次の機会に晴れて合格し,20年,30年も経てば,なかったことにはできるわけではないが,その影響は極めて小さくなっているだろうと言い聞かせた。

 またおそらく世の中の評価というのは,失敗の数で評価されるわけではないとも考えた。人の失敗の数を覚えている人は多くない。そうではなくて,失敗の数があったとしても,結局のところ成功の数がいくつあるかが重要だろう。

 そうだとすれば,まだコントロール可能範疇に属している,未来を変えることで,過去出来事意味合いを変化させるしかないのではないか

 来年合格という成功によって,今年の不合格という失敗を塗りつぶすしかないと考えるに至った。

 期間はあまり覚えていないが,ここまで考えを整えるのに1か月くらいはかかったのではないか

~~戦略

 以上で考えたように,今年の不合格という意味合いを相対化するためには,来るべき「次」の受験で,必ず合格しなければならない。

 再来年では駄目だ。また実力だけ伸ばしても駄目で,仮にいくら模試の成績が良かったとしても,現実合格できなければ全く意味がない。

 このようにして,「次」の受験で,「必ず合格する」ということを目標として設定した。

 目標が定まった後,「必ず合格する」とは,どのような状態かと考えた。合格する可能性があるというだけでは駄目だと思った。可能性だけならおそらく今回もあった。「受かりうる」というだけでは足りない。「次の一回」で「必ず」合格しようと思えば,「受からないということがない」,「どうやっても受かる」という状態にまでもっていかなければならないと思った。

 自分の中では,「100回受けて100回受かる状態」というのを一つの基準としていた。

 そうなるためにはどうしたらいいのか。

 以下は,自分の中で描いたイメージである。 

 受験において,本番で出題される試験問題のものコントロールできない。

 自分が得意な問題が出るかもしれないが,苦手な問題が出るかもしれない。

 そうだとすると,たとえば100回試験を受けた際に,自分が得られる得点ないし全体の中での自分順位としては,一定の幅が生じると想定した。

 自分が得意な問題が出れば点数ないし順位は良くなる。苦手な問題が出ればその逆となる。その幅と位置自分の実力を示していることになる。

 受かる可能性があるというのは,自分の中のベストの結果のときに,それが合格ラインを超えているということだ。すなわち,上で述べた実力の幅の上端が合格ラインを超えていることであるそもそもここが合格ラインに届かないというのでは,合格確率は0なのであって,話にならない。

 自分の実力を客観的見積もったときに,現役の受験時点でも,得点幅の上端は合格ラインを超えていると思った。しかし,全体として超えているかというとそうではなく,大半は合格ライン以下に位置していたのではないか分析した。

 この状態だと,運よく自分の実力の上端付近が発揮できるような問題であれば合格という結果になるが,そうでなければ不合格という結果になる。

 以上の思考過程を経て,「必ず」合格するという状態を実現するためにすべきこととは,自分の実力を示す得点幅の下端を合格ラインより上にもっていくことだと規定した。その状態が実現できれば,どんな問題が出題されても必ず合格できる。

 このようにイメージした。

~~戦術

 次に,得点幅の下端を合格ラインよりも上に上げるためにすべきことは何かと考えた。

 ただちにこうすればいいということまではわからなかったが,とりあえず実現すべきこととしては,得点できるはずの問題を必ず得点するということだった。先のことはわからないが,最低限,このことを徹底しなければならないと思った。

 それだけでいいのかは,未知の領域なので不明であったが,得点幅の最下端を合格ラインよりも上にしようと思ったら,少なくともこの程度のことは実現できていなければ話にならないだろうと思った。

 先に述べたように,受験の本番では,試験問題コントロール範囲である受験会場に来てしまってからでは,いくら「ここを勉強しておけばよかった」と後悔しても,その時点で知らない知識は答えようがない。試験現場でできることとしては,そのときに持っている力で解けるはずの問題を確実に解くことだけである

 この視点は,いろいろなところに適用できるが,たとえば時間配分のところにあてはめると,「解けない問題時間を浪費して,解けるはずの問題を解けないということを起こしてはならない」ということであると思った。

 また,当時よくしていた勘違いなどのケアレスミスも,本来解ける問題を取りこぼす可能性があるので,起こしてはならないことになる。

 これらは,本来解ける問題をこぼしているという点では共通しており,このようなことがあってはならない。

 受験本番までは実力自体を向上させることももちろん目指さなければならないが,それと同時に,試験当日に,その時点で持っている実力すべてを最大効率得点につなげられるようにしておかなければならない。

 その観点から模試などを受けた場合の振り返りとしては,正解したかどうかはあまり気にせず,正解できなかった問題があったとして,「その時点で正解する可能性がなかったのかどうか」を入念に確認した。

 知識が足りなかったなどの理由で,そのときは正解する可能性がそもそもなかったのであれば,それはその時点ではもうしょうがないので,ただただ後日正解できるよう,知識を補充するなどして実力向上を図るというだけのことである

 一方,その時点で正解できたはずの問題を取りこぼしていた場合は,全力で悔しがるようにした。

「必ず」合格するという目標達成の観点からは,このような事態絶対に起こしてはならない。

 そのようなことをしている限り,「必ず」合格するという目標は達成できないからだ。

 その場合,正解できたはずの問題をとりこぼさないために,なぜそのようなことが起きてしまったのか,再発防止策として何が考えられるかなどを必死で考えた。

 以上は基本的自分の中だけでの問題であるが,一方で他者との比較視点も生まれていた。

 正解可能性について考察しているうちに,自分が正解できなかった問題について,他の受験生はどうなんだろうかという視点が生まれたのである

 自分が間違えた問題の正答率が高かった場合は,それだけ多くの受験生に差を付けられたことを意味するのであるから試験結果に与える影響は極めて大きい。一方,正答率が低かった場合には,大半の受験生もまた正解できていないわけなので,差を付けられた受験生の数が少なく,試験結果に与える影響は少ないということになる(極端な話,正答率が0%の問題であれば,全員が間違えているということから得点という点だけみればその問題はなかったのと同じであって,間違えたことの影響は0である。)。

 このような視点で各問題ごとに正答率を確認するようにすると,感覚的には一般的に明らかに簡単と思われる問題でも,正答率が100%ということはないということに気がついた。受験生は,ごく簡単問題でも意外と間違えてしまっているのである

 この点に気づいたときには,大げさにいえば勝機見出した思いがした。

 とんでもなく難しい問題まで正解できるようにならなければ「必ず合格」という目標が達成できない,ということだとすると,その難易度はかなり高い。

 難問というのは,どんな問題が出るかもわからいから難問なわけで,対策という意味では容易ではない。

 しかしながら,正答率が高い問題を取りこぼさない(他の受験生に差をつけられない)ということは,意識して徹底的にやりさえすれば実現できることだと思った。そして,これがきちんと実現できれば,成績的にはかなりのところまでいけそうだと思った。

 このとき受験生活の中で,初めて具体的な見通しがついた。

 時期的には,浪人になって最初の方で行われる模試の結果を分析してこう思ったはずなので,わりと早い段階でこのような確信を得られたのはありがたかった。

 以上から,正答率が高い問題を重視し,かつ,それを絶対に落とさない,ということが具体的な行動目標となった。このように目標が明確になると,自ずとそれを実現するための勉強法も明らかになった。

 自分が正解できる可能性のある領域を増やすことを目的とした勉強塗り絵に例えれば,色が塗ってある範囲を広くするようなこと)も勿論必要にはなるものの,それよりもむしろ正解できる可能性のある領域での正解率を高くする(塗り絵で言えば,色むらをなくし,より濃くするようなこと)勉強を重視すようになった。

 より具体的にいえば,復習を重視するようになったということである

 知らない問題よりも,一度やったことのある問題の方が正解率は高くできるはずで,投入する時間に対して得られる成果が高いと思われるからである

 復習は徹底的に行うようにした。特に記憶重要となる社会の科目などは,一日の勉強最初には,それまでやった学習内容をさかのぼってかならず目をとおしてから先に進むようにした。

 具体的には,使っているノート基準最初から前回勉強したところまで必ず全部目を通すということをしていた。それはその一冊のノートを使い終わるまで繰り返した。見直す時間が膨大になってもしょうがないので,時間一定を心がけていた。勉強が進むことによって見返す領域が広くなることになるが,その分見返すスピードを上げて各ページ毎の見る時間は減らして行った。

 ノート最初の方であればあるほど,何度も目にしているので,時間が短くても問題なかった。時間よりも回数を重視し,回数を繰り返すことで,記憶への徹底的な定着を図った。

 これは面倒に思うかどうかだけで,誰にでもできることと思う。そして,記憶力に個人差は多少あれど,何十回と接触した内容については,誰でも記憶には定着しやすくなる。とにかく,一度学習した内容を,二度と忘れたくなかったので,そのようにしていた。

 そのような学習法を実践していたことで,知識系の問題については,絶対の自信がついた。

 当時は,記憶違いということはほとんど起こりようがないような状態を実現することができていた。

~~結果

 以上のような勉強法を行ってきて,浪人の夏に大学別の模試を2つ受けた。

 これはその大学を受ける受験生であれば,たいてい受けるという種類の試験だったので,模試とは言え,その時点でのその大学を受ける受験生の中での位置付けを図る重要試験だった。

 浪人生活を開始するにあたって,自分の中では目標があった。

 「100回受けて100回受かる」という観点から,冬の大学模試で100位以内に入ることを目標としていた。

 当時,志望学部合格者数が600名程度であることから,少し目標としては高いかと思ったが,これくらいが実現できなければ,安全圏にあるとは言えないので,あえて高めの目標を掲げたつもりだった。

 蓋を開けてみると,夏の大学模試のうち,最初に結果が返ってきた方は,79位だった。

 自分で定めた目標クリアできたので,非常にうれしかったのを記憶している。

 想定していたよりも成績がよかったので,浪人生活全体を通して,このときが一番うれしかったように思う。

 (それでも,これは単なる模試に過ぎないので,この程度の成績で油断はいけないと自分を戒め,喜ぶ気持ちを押さえつけた。)

 しばらく経つと,もう一つの大学模試の結果が返ってきた。そちらは20位だった。全く想定しておらず,正直自分もびっくりした。こんなに結果が伴うとは思ってもいなかった。

 ただやはり,「まだ受かったわけでもなんでもないので,いくら模試の成績がよかったところで,本番に受かるという目標が達成されたわけではない,油断だけはしてはいけない,もっと取れたはずだ」と自分に言い聞かせるのに必死だった。

 その後も大きな方針を維持したまま勉強を続けたところ,冬の大学模試では13位と14位という結果だった。

 受験本番はどうだったのか,順位は発表されないので分からない。

 予備校の発表する模範解答に照らして行った自己採点結果は悪くなかったし,結果はもちろん合格だった。

 合格確認したときには,うれしいというよりは,ほっとした。精神状態としては,「受かっているかどうかドキドキする」という状態ではなく,「絶対受かっているはずだが何かの間違いで落ちてないだろうな」という気持ちだったからだ。

~~まとめ

 方法論は人に合わせて千差万別なので,以上の方法が唯一絶対ではないと思う。

 全く同じ人間が一人としていないように,誰にもピッタリと当てはまる万能の方法などというものはない。

 それを前提として,自分浪人生活のうち,成果につながった要素を抽出するとすれば,以下の点ではないだろうか。

 まず一つには,本気で結果を出したいと思っていたことだと思う。

 何事につけ,物事には障害がつきものである。そのような前提状況の中,何も考えずにただ臨めば,結果が出るかどうかは当たるも八卦当たらぬも八卦のような確率論に終わってしまう。

 「本気で結果を出したい」というのを行動に置き換えると,「受験優先順位を上げ,その他のことはどうでもいいと考える」ということである。本気でそう思えれば,遊びたいとか,のんびり寝ていたいとか,そんなことは気にならなくなる。

 それは「誘惑に打ち勝つ」ということとは感覚的には少し違う。誘惑を感じている状態は,まだ本気度が高い状態とはいえないと思う。本当に結果を出したいと思って,その状態に入ったときには,その他のことは本当にどうでもよくなる。

 「その他のことはなんでも差し出すから,とにかく希望している物事について結果を出させてくれ」という心持ちになる。そのときは,優先順位が二位以下のものごとは些事である

 そのような状態に入れると,仮に何か障害が生じたとしても,手段を尽くし,工夫を尽くして,結果にたどり着くという状態になる。

 時間しろエネルギーしろ資源が有限である以上,その中で一つの結果を確実に出そうと思えば,何が何でも結果を出したいという状態自分を持っていくことが必要になる。

 不合格という現実に直面したとき,何度も「嘘でしょ。結果を取り替えてくれないか。」と何度も思った。しかし,一度出た結果は変わらない。これが現実である

 自分の周りの環境自分コントロールすることはできないということをまざまざと体感した。

 一方で,自分はいくらでもコントロール可能なのだ

 不合格回避したいという思いを,エネルギーを,合格への執着へと昇華させることはできるはずだ。

 二つ目は,以上の状態を前提として,「結果を出す」ということを実現するためにどうすればいいのか必死で考えたことではないかと思う。

 先に記述した思考過程を経て,自分なりに結果を出すために必要な条件を考え,それを満たすためにひたすら実行した。

 小中高と地方公立学校で育ってきて,全国規模で自分が試されたことも位置づけをはかったこともなかったため,余力を残すという発想がそもそもなかったということも幸いした。

 自分みたいな遅れて必死になった者が全国レベル受験生相手に確実に合格するという状態に達するためには,とにかく妥協なく徹底的にやり切る以外にはないと思っていた。

 後にも先にもこのときほどストイックになったことはない(なお余談だが,このときにあまり想像以上に結果が出てしまったため,後になってまた別の試練に立ち向かうことになった際に,「あそこまでやらなくてもいいだろう」と無意識に思ってしまい,無駄に回り道をすることになる。何事も,やるなら最初から本気でやるべきである。)。

 当時,浪人時代灰色一色で,とても精神的につらいものであったが,きわめて得るものの多い時期でもあった。

 生活のことは親に完全に甘えられる時期であり,徹底的に勉強のことだけ考えていればよかったという意味では,むしろ幸せな時期であったともいえる。

 浪人時代を通じて,物事に本気になるとはどういうことか,結果を出すとはどういうことかなどを身をもって体験することができ,その後の人生にも大きないい影響があった。たまたま運よくラッキーで現役合格してしまっていたら,このように自分を振り絞るような努力をする機会は得られなかったの

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