はてなキーワード: 復讐とは
消退出血で朝から下腹部痛がする。ガスだまりなのかみぞおち辺りもキリキリする。それに、昨夜ささいな事でbadモードに入り、大泣きしたので目もパンパンだ。そういう日は外に出て散歩した方がスッキリするのだが、痛みや浮腫みを言い訳にして、一日中家にいた。ああ、憂鬱だ。
昨日のbadモードが抜けきれず、あんなに性格の良いカレと別れようかと思い始めたので、気分転換に映画でも観る。まさかのアマプラ100円セールに、以前、新文芸坐で上映されていて興味があった、復讐は私にまかせてがあったので、クリックする。”アザだらけになりながら、恋に落ちていく―”に惹かれた。
全体的にフィルム撮影の画面のざらつき、大味でシュールなストーリー、唐突なENDといった荒削りな感じが、どこか70~80年代のアジア映画を彷彿させる。好きだぞ、こういうの。最近の映画にありそうな綺麗な(笑)背景に繊細で傷ついたやつらがでてくる辛気臭いアタマでっかちがつくる映画よりもな。それにバイオレンスではあるが、殺伐としていなくて、インドネシアの緑豊かな自然のせいか、どこか湿気を感じるスローな不思議映画だった。観葉植物好きとしては、エバーフレッシュがそこら中に自生していたり、アデニウムが鉢植えされていたりと植物観察も面白かった。もう一度バリ島に行きたいなぁ。
映画が終わって、ふと携帯を覗くとカレからLINEがきていた。それだけでもう別れようなんて思いがどこかにすっ飛んでいった。しょーもないなぁ。
詐病だとしても、弁明というか、真相の供述を自ら拒否してるとも言えるわけで、
治療したところで、そこは揺らがないと思うんだよなぁ。
仮に松本に治療を施して、まともに喋れるようになったとしても、
多分、本当のことを喋らないだろうし、
今やってる京アニの青葉みたいな戯言を発言する機会を延長させるだけで…
というか、京アニ青葉に今発言させていることは十分意味があると思うんだけど。
一方、松本は司法としては問題なかったと思うし、いたずらに死刑執行を伸ばす意味がわからないというか
あくまで自分としてはだけど、オウム事件ってそんなに難しい話に思えないんだよね。
なんでエリートがあんな宗教や醜い教祖に騙されたんだ、みたいな話があるけど、
基本的に教団幹部も末端も実行犯も、みんなどこか「社会に不適応だった」というか、
社会を恨んでいたり、社会から爪弾きにされたりした人たちだったとしか思えないんだよね。
だって、本当に末端の人たちが、全財産をお布施して出家してたりしたわけだけど、
末端はサリンなんて関係ない、修行するぞ修行するぞ言ってたり、マハポーシャとか弁当屋でタダ働きさせられてたり、
でも、末端信者の中には、いわゆる夫のDVから逃げてきたみたいな人もいたと思うし、
一方でムーとかオカルトに傾倒したから、神秘体験がしたいから来た人もいるだろうし、
ただ、いずれにしても、みんな共通しているのは、社会から自分から抜けた人、自然と社会から排除された人、
社会の外の人たちなんだよな、
でも、それは他の宗教も同じ性質を持っているわけだけど、カルトというか違いがあるのは、
社会に対してのカウンターアタック、実力行使に出てしまったことに尽きると思う。
みんなで勝手に世捨て人やって、シン・エヴァンゲリオンの第三村みたいな自給自足の共同体でもやってれば問題なかった。
ただ、松本自身も中途半端な障害者というか「片目の人間は盲人の国では王様だ」を地でいった人生を送ってきたわけだし、
周囲の障害者を見下しつつ、健常者に対する過大なコンプレックスを感じさせる人物である。
上祐もJAXAのような比較的ホワイトな組織を蹴って入信しているし、
林だったか、あの医師も医者としては不適応なぐらいピュアというか、
医学部に入っても血を見ただけで卒倒してしまい現場で使い物にならない、というススキノ頭部切断の犯人の父親とも被る。
患者が死んでもベストエフォートを尽くす、というのが医者の仕事だということに納得できていない。
元々は松本自身がヨガに興味があった、その周辺のオカルティズムに傾倒していたというのもあるだろうが、
彼らは物理的な病気を抱えているより、寧ろ精神的な病、そこから生じる身体的な病に悩まされがちだったであろう。
ブラック企業に入社して、鬱になった、適応障害になった、そこから身体に症状が出るようになった、
そういった輩がヨガをやった途端、あら不思議、奇跡的に治ってしまった、となるのは不思議なことではない。
そこでヨガやマインドフルネスみたいなものが過大に持ち上げられ、ヨガ道場のトップ、教祖も持ち上げられていく。
なんら不思議なことではない。
悪い意味で奇跡的に需要と供給がマッチし、あまりにもマッチし過ぎて暴走した。
宮台氏の著書を読まないで書くが、氏は連合赤軍などとオウムは違うと書いているそうだが、
山本直樹氏が語っているように、互いに殺し合ったりするまでは、セクトのメンバーは文化祭の準備のように楽しかったはずである。
オウムも多分同じだったと思われる。
自分たちの理想のニッポンを実現するため、というか、個人個人の細かい思惑は異なってはいただろう、
社会に対する復讐みたいなものを感じながらやってた信者もいるかもしれない、
しかし、オウムも総じて信者たちは楽しかったから突き進んでいったんだと思っている。
その文化祭の前段階で、どれだけ教祖に取り入れるか、教団内で出世できるか、みたいな競争なり、プレッシャーはあっただろうが、
総じて、そういったストレスもひっくるめて、単にみんな楽しかっただけだと思う。
サリンだって、単に楽しかったから作った、というのが根底にあったと思う。
かわいいは正義、というコピーがあるが、楽しいはいつだって正義、なのである。
だから、なんでエリートがバカな教祖に騙されて、みたいに不思議がる人が今でもいるが、
あくまで自分の感想であるが、理由は簡単、単にエリートも末端も低学歴の実行犯も、単に楽しかったからとしか思えない。
一旦社会に出るということはモラトリアムを卒業することを意味するわけだが、
オウムの教祖松本もその他大勢の信者も、社会を蹴ってモラトリアムに戻ってきたりしていて、
そんな温いモラトリアムの中で、いつまでも文化祭前の準備の高揚感のようなものを持っていたのだと思う。
もちろん、その楽園は永遠ではなかったわけだ。それだけである。
もちろん、宗教学者とかインテリの人たちは、過剰に裏読みしすぎて、オウムの宗教としての意味を勝手に自分で見出し、
宗教としてのオウムを褒め称えたりもしていたわけだが、そういったインテリが信者になったのは少数派なのではないだろうか。
圧倒的に多い末端信者は、みんなどいつもこいつも社会から逃げたがっていた連中だった。
そんな困窮者の全財産なんてたかが知れているわけだが、それさえもオウムは受け入れていた節がある。
もちろん、入信させたらまともな飯は出さないし、無償で働かされるし、ただそれでも生きていけわする。
オウムを深く読みすぎる人たちは、どこかエヴァンゲリオンの読解本を出したりとか、解釈で討論する人たちに似ている。
庵野氏がすでに完全否定しているように、エヴァはわざと穴だらけの話や設定を作っている。
しかし、オウムを過大評価する宗教学者とかインテリは、エヴァにも何か奥深い謎があるのではないか、
と解明したがるのではないだろうか。
自分はリアルタイムと再放送でエヴァの最終回を観たとき、たしかに呆気に取られたものの、
これもアリだろ、だってガイナックスだから…、と思って不満は特になかった。
しかし、自分はよく知らないが、ネットでは荒れてたらしいし、庵野氏ねみたいな暴言が飛び交っていたようである。
まあ、こうなるのは庵野氏というか、表現者側の意図通りではある。
ツイン・ピークスなり、伏線を回収せず、謎は謎のまま、というオチであるからこそ、
無責任で無軌道でさえあるような伏線を設けることができ、それが視聴者を吸引する力になる。
意図したものではなかったかもしれないが、そういう点でオウムもエヴァも似ている気がしている。
バイト先のオフィスのゴミ捨て場に置いてあるのをちょっと立ち読みした覚えはある。
様々な宗教のいいとこ取りなのかな、と思ったし、そういうところがエヴァというか、
ただ、そこに深い意味があるとは思えなかった。
おまえの考えが浅いだけだ、オウム真理教の教義はもっと奥深いところにある、と思っている人もいるだろうが、
エヴァのように、人はまったく意味のないものにも勝手に深く考えて意味を見出してしまう生き物なのだ。
理系はそのへんがはっきりしていて、意味がないと思えるものも、思考を積み重ねていけば必ず納得できる地点に到達する。
ゴミのような表記のコードであれ、論理的に破綻しているものは計算機では正しく動かない。
結局は理系だって人間だから感情があるし、寧ろ論理的思考や数式では埋まらないことが社会には多くある。
自分としては、そこで「諦める」ことが大切なのだと思っている。
例えば「人と人とは分かり合えない」という諦めがある。
そこで理系というか論理的思考ガチガチの人間は「いや、こうしたら人と人は分かり合えるのではないか?」と試みる、
試みるのはコミュニケーションとして正しいが、そこで人と人が完全に分かり合えるまで探求してしまう。
その過剰な探究心が、エヴァのわざと開けられている穴を埋めようとしたりする方向に向かってしまう。
低学歴は頭が悪すぎてオカルトに傾倒したり、そのまま受け入れてしまう。
しかし、どちらも共通するのは社会に対する憎しみだったり、結局は「救われたい」という誰しも根源的に持っている願いである。
詐欺と同じで、誰しもが騙される、騙されないと思っている人ほど騙されたりするのと同じである。
自分だって、社会から阻害され、どこかでそんな阻害された人たちが集まり、そこでモラトリアムが形成され、
文化祭の前の高揚感のようなものがずっと続くとしたら、自分ものめり込んでしまうかもしれない。
ただ、圧倒的に自分がそういった人たちと異なる点があるとしたら、私は究極のぼっちだということである。
そんな自分が最近になって自損事故を起こし、重症を負って入院し、その後も日頃の不摂生が祟って病気が連発し、
家から一歩でも外へ出るのさえ辛くなり、今でも一日一日生きるのが限界の日々を送っていて、
こうなって初めて結婚してないこと、独身であること、当然子供もいないし、家族もいない一人暮らしであること、
なんだかんだ行政はそこまでは助けてくれないこと、
家族がいないと入院とか、手術とか、退院してからも日々の生活、買い物さえもつらいとか、
やっぱり、周囲に人がいないことによる気楽さというのはある。
退院したり、病気が一段落すると、生活は辛いものの、周囲に迷惑をかけていない、気負いしないという気楽さはある。
宗教的救いなら聖書を読むとか、ふらっと受け入れてくれる教会に行くだけで十分だと思ってるし、
オウムじゃなくても、自分をありのまま受け入れてくれる組織、そんな都合のいいものが存在するわけないのだが、
そういう自分の居場所があったとしても、ウザったさが勝ってしまうだろうし、
実際にそういう居場所を探した時期もあって、いざ浸かってみたら自分には本当に辛かった。集団生活とか。
だから、自分は文化祭とか文化祭の前準備とか後夜祭みたいなのも嫌いなんだよね。
そういう青春が嫌いだったし、男子校だったから校内では恋愛要素はゼロだし、
先輩からラブレターを貰ったやつがいるというホラーな噂もあったが嘘だったし、
だから、オウムや連合赤軍の集団での楽しさみたいなのは自分には感じられないし、無縁なんだよね。
でも、普通の人たちにとっては文化祭とか学校のイベントは楽しかっただろうし、
楽しめなかった青春がなかった人も、なんだかんだラブコメ漫画とか小説とか、
あと風俗なんかで自分になかった青春を取り戻そうとする人もいるのだろうけど、
宮台氏は、俺みたいな孤独死を消極的に肯定している人間をヘタレと呼んでいるし、
もしかしたら、相手を罵倒することで奮起させることを狙っているのかもしれないけど、
世の中って、やる気があろうが、どんなに行動しようが、どうにもならないことってあるわけだよ。
それを努力と運で乗り越えてしまった人たちは、努力でなんとかなると錯覚してるんだろうけど、
運を起こすために努力するのも大事なんだけどさ、不運が重なってどうしようもないことって社会にいくらでもある。
ヘタレだろうがなんだろうが、長い人生、ずっとこの牢屋からどうやったら抜け出せるんだろう、
https://www.youtube.com/watch?v=VtN52hqC4Ps
ルール:車両・武器等の出現(spawn)・無敵化(Godmode)・銃弾無限等可
ただし、状況に応じて臨機応変に変えることもある
ダンスがくだらなくて笑っていた人が何人も(そのダンスを作った文化祭実行委員と性徒会生徒会役員のセンスも疑うが)いたのだが、それに対してさっきの委員・役員の担当のS先生(社会科担当)がキレた。
当然笑っていたのは本人。このころから人権とか全く理解できていないし、こいつに人権はないというのがまるわかりなわけな。まず自分勝手なわがままを言うために人権はあるのではない。
多分この辺は親の影響だろうな。
ちなみに、こういう風に同級生をせせら笑い、叱られるとガチギレするの、完全にドン引きされる。
赤い羽根募金は暇空茜がインチキで黒い羽根であることに気が付くまで、強制だったので、ここでも喧嘩を売っていたにすぎない。
これだけやってきていじめられるのは当然。
この辺でも自分が一番じゃないと気が済まない社会不適合者らしい感じがありあり。
肩書き通りリバティーシティ警察本部特捜課の課長。特捜課設立に大きく関わった人物である。
物腰は柔らかく、丁寧な口調だが、怒ると物凄い剣幕で怒鳴る。
多分これが父親だな。
修学旅行の際も、俺がトイレに言った隙に俺の座席に他の人(いじめっ子含む)の荷物をおいて座れなくしたり、新幹線の中のトランプに入れてもらえなかったり、仕方がないから寝ようとすると「現実から逃げようとしている」と言って来たりします。
これ、自分が被害者ぶって机に突っ伏して泣き出すとかしている。それで人の話を聞かない。挙句の果てにいじめられたと嘘を親に言いつけて学校に文句を言う。
学校もあきれている。
なお、入るなって言われているのに写真に入ってくるとかしているね。気持ち悪いな
そらそうだろ。なぜおまえが勝手に写真に入ってくる権利や人権があるんや。
このラインでトイガンの話をしているの、護身用か復讐用か威嚇用かだね。
要するに人に対して使う気でトイガン売ってくれとか言っている。
家にあるのを持ち出さなかったのは親が勝手に撃たせなかったんだろう。(撃つまでに親の許可が必要なので時間がかかる)
今日もし行ったら何をされていたか。明日行ったら何をされるか。明後日は?明明後日は?来週は?夏休み明けは?そのずーっと先は?
考えるだけで恐ろしいです。
今まで以上に酷いことに合うだろうし、大津市の自殺した人(生きていれば自分と同い年だったらしいです)みたいに、自殺の練習をさせたれたり、ハチを口の中に入れられたりするのかもしれません。
本当なら、普通なら、学校にいく事は、「勉強をすること」や「友だちと思い出を作る」とかの筈です。でも、俺にとっては「いじめられに行く」「暴力を振るわれに行く」「罵詈雑言を浴びに行く」ことなのです。
この将来ハチを口に入れられるかもしれないからエアガンで人を撃とうとするのマジでヤバい性格なんだわ。
多分肺炎はうそ。自分が言っていることがでたらめだから本気で話せないんや。今と変わらない。いじめられているのではなくめちゃくちゃなことをやって嫌われているだけや。
行けばいじめの集中砲火。
ニートやホームレスを馬鹿にしている価値観。社会不適合者であることが中学で確定。全く治らない。頭も悪い。
言うて俺も近い性格だからわかるけど、ここまでヤバくなかったわ。
そもそも科学部でなぜ回転翼やオスプレイを発表するのや。マジで頭おかしいわ。
そして当然ながらまともに部活動はしていない。
これは罰ゲームではなく、こいつが口説こうとしていたのが後輩の女子だった。当然これだけ気持ち悪いから、気持ち悪いからみんなでよそでやれっていう手紙を渡して断りを入れたってことですわ。一人だと何しだすかわからないからね。
だいたい9月に本を24冊購入するというのがあり得ない。自分だったらマジで捨てられてそう。どこにも合格しない。肝心な勉強を全くやらない。
おい!こんな人死にまくりの人体破壊描写ありのグロ漫画なら早く教えろよ!
美少年美少女キャラの王道バトルマンガぽかったからそんなの描かないとおもてたぞ!
俺は主人公側の不殺がともかく大っっっっっっっっっっ嫌いなんだわ。
敵が躊躇なく殺しにきてるのにこっちは殺さないってイライラする設定だなとずっと思ってた。
んで殺したら殺したで悩みだして、「もう誰も殺さない!」とか不殺に目覚める阿呆を何度見てきたことやろ。
そこでこの呪術よ!
恵はまだ殺してないけど「俺はあいつらとは違う」って殺すのに躊躇ってない描写がある。
何と言っても禪院家大量殺人した真希な!長年虐げられてきた恨みを爆発させ圧倒的な力で蹂躙するカタルシスときたら!
甚爾ですら出来なかったことをやってみせた漫画史に残る名シーンだろ!
復讐は何も産まないとか言ってる阿呆は全員これを読め!気持ちいいんだよアホ!
でもな少し心配事がある。
落とし前をつけなきゃいけないけど、先生としては良い落とし所が無くて手っ取り早く真希を殺す展開にするんじゃねえだろうと睨んでる。
そんな安易な展開はやめてください!真希を殺すのは逃げですよ!
殺しに来たから殺した。
これで良いんですよ!
でもこれは安倍晋三の「責任を痛感する」と一緒で、口先で感じると言ってるだけで具体的には何もしないでしょ?
虎杖もそのうち復活する野薔薇も物語の最後には裁判を受けて有罪になり収監されないでしょ?
それはこの作品は人を殺してしまった罪を追求する作品じゃないから。人を殺してしまった人間の心理を掘り下げる作品じゃないでしょ。
そんな作品なんだからクソ真面目に大量殺人した真希に報いを受けさせなきゃいけないとか考えなくていいんです!真希は絶対幸せになっていい!
最大の違いを「殺されたのが皆に恨まれていたか好かれていたか」や「悪事をやっていたかやっていなかったか」だと思ってる人が多そうなので訂正しておきたい。
両者の最大の違いは「現実を正しく認識できた上で犯罪を実行したか」だ。
青葉が考えていた黒幕は実際には全く持って黒幕でもなんでもなく、山上の考えていた黒幕は実際に黒幕であったとも言えるという違いだ。
山上が殺した相手の罪は「山上を救わなかったこと」だと勘違いされることがあるがこれは間違いだ。
「山上のような人たちの人生が破壊される方向に明確に日本の舵を切り続けていた」という明確な罪がある。
青葉の場合は「青葉のしょうもない小説をアニメ化してやりその恵まれない人生を救ってやらなかった」ということが青葉の心に火を付けた原因と言えるが、コレは全く持って逆恨みも良い所だ。
「逆恨みを根拠にした暴力」と「明確な罪への復讐を根拠にした暴力」、この部分こそが両者の最大の違いなのだ。
この両者において「自分の認識を論拠に独断による暴力を実行」という決断部分は全く一緒である。
青葉が逆恨みで、山上が復讐となるのは、青葉が歪んだ現実認識を持っていて、山上の現実認識は現実に沿っていたという違いだけなのである。
もう一度言うが、ここを間違えている人を結構見るので気をつけて欲しい。
宗教が普遍的な善を子供にインストールしてくれる、っていうのは異教徒狩りや戦争起こしてきた歴史やらを鑑みたら全く同意出来んなぁ。
仮にインストール出来ても聖職者や行政府の腐敗という現実と教育内容とのギャップであまりよろしくない心理的ショックを与えてしまうように思う。
宗教二世問題もあるし子供に特定の思想を吹き込むべきでないだろう。
そもそも善悪というのは実在しない人間の思想上にのみ存在する曖昧な存在なわけで善悪を教えるというのは極めて困難なようにも思う。
例えば殺人は悪、を教える場合を考えるだけでも正当防衛や無人島で生き残るためにやる場合や侵略者を撃退する場合、政府から正式な命令を受けて行う場合等の限界事例について論じなければならなくなるし、そもそも悪だとなぜやってはいけないのか?という堂々巡りの話になる。なので善悪を教えるよりは殺人をすればその殺した人の関係者から恨みを買い復讐される恐れが発生する等の合理性の面から教えたほうがいいように思う。
理数国が優秀というのも他国に比べて平均が優秀みたいな話であって、ネットの海を漂ってたら知性の欠片もなさそうな人間を多く目撃するわけで