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はてなキーワード: 漱石とは

2023-12-09

anond:20231209112038

夏目漱石「…キミたちはなべたべないの?」

内田百閒「…ゆうてのう、センセエはゆうちゃったんじゃ!ワシら門弟がセンセエんとこで牛鍋を御馳走になったときにの!みんな遠慮して手ぇつけとらんかったらそがあにゆうちゃったで!ありゃああれよ、ぜったい「鍋」と「何故」をかけた駄洒落じゃて!そがあなふうにの漱石センセエもたまにゃあギャグゆうてのときもあったんよ♡」

増田広島県人じゃけぇ岡山弁いなげなことになっとるなぁゆるしてつかあさいや😢

2023-11-23

奥さん」という呼称について

相変わらずジェンダーがどうとかつまらない話が多いので、過去の用例から奥さん」あるいは配偶者呼称についていろいろ考えたいなあ。と思って書きます

勿論、女中などに似ようはないと、夢か、うつつか、朦朧と認めた顔のかたちが、どうやらこう、目さきに、やっぱりそのうつ向き加減に、ちらつく。従って、今声を出した、奥さんは誰だか知れるか。

 それに、夢中で感覚した意味は、誰か知らず、その女性(にょしょう)が、

「開けて下さい。」

 と言ったのに応じて、ただ今、とすぐに答えたのであるが、扉(ひらき)の事だろう? その外廊下に、何の沙汰も聞えないは、待て、そこではなさそう。

「ほかに開ける処と言っては、窓だが、」

 さてはまさしく魘(うな)された? この夜更けに、男が一人寝た部屋を、庭から覗き込んで、窓を開けて、と言う婦(おんな)はあるまい。(「沼婦人泉鏡花、1908(明治41年

奥さん」は、自分配偶者というより既婚女性に対する敬称として用いられています。「女中などではなく」自分夢想する上流階級を思わせる女性奥さん)が誰か分からないが、夜更けに訪ねてきた「女性(にょしょう)」は普通の「婦(おんな)」ではないだろう……という流れですが、この呼び分けは、日本語代名詞の豊かな言語世界垣間見せてくれますね。

奥さん」という語がめちゃくちゃ出てくる小説と言えば、やはり夏目漱石こころ」(1914(大正3年))でしょう。前半では「先生」の妻である静さんの呼称として、後半では先生青年期に下宿していた、静さんの母親呼称として「奥さん」が登場します。この作品は、一人称の語り手による手記の体を(前半後半とも)取っているため、固有名詞を避ける書き方をしており、その結果であると思われます

私はすぐ玄関先を去らなかった。下女の顔を見て少し躊躇してそこに立っていた。この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまたうちへはいった。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。

奥さんらしい人」という表現から、「奥さん」が「配偶者」の意味で用いられていることが感じられます。ただ、自分配偶者を呼ぶ呼び方ではないですね。

 私の知る限り先生奥さんとは、仲のいい夫婦の一対であった。家庭の一員として暮した事のない私のことだから、深い消息は無論わからなかったけれども、座敷で私と対坐している時、先生は何かのついでに、下女を呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名は静(しず)といった)。先生は「おい静」といつでも襖ふすまの方を振り向いた。その呼びかたが私には優しく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子もはなはだ素直であった。ときたまご馳走になって、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の間に描き出されるようであった。

こころ」は新聞連載ですが、奥さんの初登場は先の連載4回目、その後奥さん先生(夫)の重要なシーンである第8回を経て、この第9回で初めて名前が登場します。この作品先生訪問してきた「私」と奥さんが共に食卓を囲むシーンなどが多くあり、この夫妻は大正当時の一般的夫婦関係よりも幾分現代に近い感じで描かれているように思います

次は、「先生」が若いころ、その奥さんの自宅に下宿をしたとき奥さん母親を「奥さん」と読んでいたというシーンの引用です。(中略があります

 それはある軍人家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷士官学校そばかに住んでいたのだが、厩(うまや)などがあって、邸(やしき)が広過ぎるので、そこを売り払って、ここへ引っ越して来たけれども、無人で淋しくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には未亡人(びぼうじん)と一人娘と下女より外にいないのだという事を確かめました。私は閑静で至極好かろうと心の中に思いました。

(略)

 私は未亡人に会って来意を告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらについて色々質問しました。そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも引っ越して来て差支えないという挨拶を即坐に与えてくれました。未亡人は正しい人でした、また判然(はっきり)した人でした。私は軍人妻君というものはみんなこんなものかと思って感服しました。感服もしたが、驚きもしました。この気性でどこが淋しいのだろうと疑いもしました。

(略)

 私は未亡人の事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんといいます奥さんは私を静かな人、大人しい男と評しました。それから勉強家だとも褒めてくれました。けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。

「上さん」「未亡人」「妻君」「奥さん」は全て同じ人物を指していますが、それぞれの場所ニュアンスが異なることが分かります。それぞれ「下宿屋の女主人」「(夫を亡くした)配偶者」「配偶者尊称)」「既婚女性尊称)」くらいに捉えるのが適切でしょうか。

かみさん奥さんの用例としては、

そういうわけで、私たちは家の主婦奥さんと呼んでいました。下宿屋のおかみさん奥さんと呼ぶのは少し変ですが、前にも言う通り、まったく上品で温和な婦人で、どうもおかみさんとは呼びにくいように感じられるので、どの人もみな申合せたように奥さんと呼び、その娘を伊佐子さんと呼んでいました。家の苗字は――仮りに堀川といって置きましょう。(「白髪鬼」岡本綺堂、1923(昭和3年))

…「下宿屋のおかみさん奥さんと呼ぶのは少し変」という言語感覚から、「おかみさん」「奥さん」の使い分けがくっきりと見て取れて面白い用例ですね。この話は、発表は昭和ですが、岡本綺堂明治まれですし、物語時間10数年前(つまり震災前)という設定ですから言語感覚としては漱石の少し後、大正期の中頃を反映していると言った方が適切かもしれません(まあ、それを言うなら「こころ」の場合、おおむね時代明治期の想定と言えそうですが。)

昭和に入ると、「奥さん」が配偶者を指す呼称としてライトに用いられ始めたように思います。太宰はこういう言葉ちょっとしたニュアンスが本当に上手な作家で、次の用例の言葉の使い分けは非常に印象的です。

奥さま、もうすこしのご辛棒しんぼうですよ。」と大声で叱咤しったすることがある。

 お医者奥さんが、或るとき私に、そのわけを語って聞かせた。小学校先生の奥さまで、先生は、三年まえに肺をわるくし、このごろずんずんよくなった。お医者一所懸命で、その若い奥さまに、いまがだいじのところと、固く禁じた。奥さまは言いつけを守った。それでも、ときどき、なんだか、ふびんに伺うことがある。お医者は、その都度、心を鬼にして、奥さまもうすこしのご辛棒ですよ、と言外に意味をふくめて叱咤するのだそうである。(「満願太宰治、1938(昭和13年))

医者が、夫の体の静養のためにセックス禁止して…というちょっとした掌編なのですが、最初の「奥さま」は、医者患者配偶者である若い奥さんに言い聞かせるとき呼称医者の「奥さん」は医者の(やや年配の)配偶者ニュアンスで用いられていますが、地の文での「奥さま」と「奥さん」の使い分けで、雰囲気表現されているのは実にうまいです。

最後に、呼称という点で、最初に見かけてこれは書き留めておきたい(ぶっちゃけこの記事を書くきっかけになった)のがこちら。

 は水の引くように痩せて、蚊帳の中で死んでしまった。死ぬ前「今度奥さんを貰う時は、丈夫な奥さんを貰ってね」と言った。

莫迦、お前が死んだら俺は一生独身でいるよ、女房なんか貰うものか」

 彼は妻の胸に涙を落しながら言った。その涙をふいている内にふと俺は嘘を言ってるのかも知れないと思った。

 しかし、妻が死んでしまうと、彼は妻に言った言葉を守ろうと思った。死んだ人間に対しては、もう約束を守るよりほかに何一つしてやるものがないのだと思った。

(「蚊帳」織田作之助、(初出が調べられなかったのですが、上の満願より少し後の1940年前後だと思います。))

この3つの呼称の呼び分けを、代名詞豊富でない文化圏の人にどうすれば伝えられるだろうなあ、と思ったりします。

さて、蛇足ながら、このエントリを書いた理由について。呼称代名詞というのは、時代によって変遷し、人の心を映すもの。だから、いろいろな意見議論はあっていいと思いますし、そもそも言葉時代ジェンダー観を反映するというのは、取り立てていう必要もないくらい当たり前のことではありますが、そういった、人々の内心の方を変えるのが面倒だからといって、言葉の方に罪を着せるようにして言葉狩りじみたことをするのは、正直「違うんじゃないかなあ」と思います。人々の心が変化すれば、誰が強制しなくても言葉は廃れ、変化していきます。〇〇という言葉を使うな!なんて言わなくても、それが指す事象が消えたり変化したりすれば、あっという間に言葉は移り変わっていくものです。だから、変えるべきことを人々の総意に基づいて粛々と変えるよう努力するのが重要であって、「言葉狩り」みたいな遊びで何か大きな社会貢献を為したような気分になるのは、正直やめてもらいたいなあ、と思っています。そんな感じのことを感じていただけたのなら、この記事を書いた意味があったというものです。ありがとうございました。

2023-11-19

anond:20231119173402

お二方ありがとう

漱石が「月が~」を言ったって逸話事態に詳しくないからその辺はおいておいて、

i love youが、相手に愛を伝えるための発言だとして、それを「月が~」にするのが、意訳かローラライズかといえば、 

i love you明治期までの日本文化に馴染まない、夜のシーンならたとえば「月が~」なら発話者意図に合うのでは、となれば、これは、日本文化ターゲットにしたローラライズ(現地化)ってことね。

了解

この場合文化の隔たりが大きすぎて意訳も直訳も厳しいよなあ。

キリスト教文脈loveアガペーを「ご大切」って訳したって話が確かあったように思うけども。

意訳って何かってのが、自分の中で薄ぼんやりとしたままだけども。

追記】あれ、そもそも、一文に対して<ローラライズ>って概念適用するのが厳しいのか?上でも一生懸命文脈想定して考えてたけども。

追記2】1文に対して考えようとすると、直訳でないものは、意訳だろうがローラライズだろうが、直訳=逐語訳では日本人には伝わらないものになってしまうから、形を変えなきゃいけなくなったという意味で、大差ない/もしくは、意訳という物は存在せず自動的ローラライズというべきものになる???混乱してきた。寝るか。

2023-11-17

皮肉の達人としての京都人イメージについて

京都弁京都人の、皮肉迂遠悪口を言う存在というイメージインターネットネタにされることは多い。

大体の人間にとっては感覚的に自明だろうが、ネットで行われる京都弁ネタ皮肉うまい、婉曲的な言い回しを好むというステロタイプイメージの扱いはは、基本的に誉め言葉である

インターネットというのは――もしくはオタクというのは――或いは日本人というのは――もしかしたら人類の多くが――皮肉や口の上手さ、風刺アイロニーウィット、気の利いた言い回しといったユーモアを好むものだ。

婉曲表現インターネットで好まれている例は色々あげられる。

たとえば、現実イギリスのアイロニカルなジョークは人気だ。フィクションでは、ジョジョプッチ神父ツバメの話やニンジャスレイヤーなどの捻った挑発も人気だ。

誉め言葉方面でも、漱石I LOVE YOUを月が綺麗ですねと訳したというエピソードも人気だ(これは創作実話らしいが、人々がこのような婉曲表現ステキと感じるからこそ、創作実話なのに広まってしまったのだろう)。

意味が分かると怖い話落語考えオチ、なんかの楽しさも、遠回しだからこそ面白みが増す事例だろう。

京都弁もまた、ネタにされつつも羨望の目で見られている。

しかしそれも素直に京都の高い言語文化を褒めるのでは面白みがないから、まるで京都人が意地が悪いから複雑な言い回しをしているかのようなひねりを入れた誉め方をしているわけだ。

少し蛇足になるが、最近インターネットSNS一般したことで、皮肉や逆説、反語表現などが誤読されることが増えたという話題をよく目にする。だからアイロニカルな表現は止めよう、と。

だが、私はSNS時代でも、アイロニー皮肉や捻った言い回しを捨てるべきではないと思う。

言語表現言語文化の洗練というのは、「誰にでも齟齬なく伝わり便利である」という実務的方向だけではなく、「美しい、おもしろい、何かが掛けてある」のような美的方向もあるだろう。

過去歴史で、言語文化が発達したとされる場所時代は、大勢人間言葉交流ができる環境余暇があって、面白みやひねりのある言い回しが沢山生まれたことで言語文化が花開いたとされることが多い。

まさにインターネット人類史でもっとも広く日常的につながった言語環境だ。

そこで芽生えてきた、そして今後も花開くであろう、華美で、ひねっていて、アイロニカルで、美しくて、遠回しで、おもしろ言語表現を諦めるなんて、あまりもったいないのではないか

2023-11-13

正岡子規解像度

シャワー中、ふと「正岡子規解像度って低いよね」と思った。彼について、大半の日本国民は、左を向いている氏の顔写真かあるいはホトトギスイメージ漠然と抱く程度の知識しか持たないだろう、まあ私も知らないんだけど、と考えた所で、私は正岡子規の「解像度」ではなく正岡子規の「理解」と言うべきだったなと自らの過ちに気が付いた。解像度が低いという表現はけだし今風である。ここから転じて、「今風に言えば*」というワード検索することにより私の知らないシノニ存在出会えるのではないかという仮説が生まれた。

子規は写実(写生)にこだわったらしい。見たものありのまま誇張せず書くことが正義なのであーる、などと標榜して支持を集めたが、一方で、かの漱石には「二十世紀今日こんな立場のみに籠城して得意になって他を軽蔑するのは誤っている」と批判を受けた。私は、ありのままを良しとする子規の思想には少しばかり同意する部分があり、例えば直近で言うならXに流れてきた毒々しい色彩の写真を添えて「まるで絵画だった」と書いた意味不明ポストが目に入ってうげーと思った。というか前にも同じ趣向のネタを見たので、またか、とも思った。モネの池だったかアメリカシリアルくらいカラフルな鯉や葉が写っていて辟易した。

そんなことを考えながら包丁をスポンジで洗っていたら小指が当たって、痛っ、となったが、幸いなことに血は出なかった。痛っ、となった瞬間、指をじっと見つめて、さあ、血が、傷口から血が出るのか出ないのか、どっちなんだい、(パワー)、と確認する時のあのドキドキ感は格別である

夕食、スーパーで買った「蓮根つくね挟み焼き」のパックを眺めながら、この食べ物のネーミングの正しさについて考えていた。「挟み焼き」で検索すれば出てくるが、中には「蓮根えびの挟み焼き」、「ひき肉のれんこん挟み焼き」といった考え足らずなネーミングも見られる。この場合は、蓮根の[挟まれもの]焼きとするのが正しいと私は思う。

2023-10-14

anond:20231014204006

せつ【拙】 読み方:せつ

【一】[名・形動]じょうずでないこと。つたないこと。また、そのさま。⇔巧。

「主人は寧ろ—な部類に属すると云ってよろしい」〈漱石吾輩は猫である

【二】[代]一人称の人代名詞男性自分自身をへりくだっていう語。遊里などで用いられた。

「—も今日たまげて仕舞いやしたのサ」〈木下尚江・良人の自白

https://www.weblio.jp/content/%E6%8B%99

さすがに使用者に会ったことはないな。

2023-09-13

anond:20230913132655

芥川「ムカムカしたので眠剤たくさんのんでしにました」

漱石「胃が)ムカムカしたので温熱治療でヘソにのっけられてたコンニャクくってしにました」

2023-07-10

anond:20230709220017

江戸でのうどん位置づけなら古典をひくべきだと思う。

漱石さんはうどん蕎麦も好きじゃなかったようだ。

打ち立てはありがたいな。蕎麦の延びたのと、人間の間が抜けたのは由来頼母(たのも)しくないもんだよ」と薬味をツユの中へ入れて無茶苦茶に搔き廻わす。「君そんなに山葵(わさび)を入れると辛(か)らいぜ」と主人は心配そうに注意した。「蕎麦はツユと山葵で食うもんだあね。君は蕎麦が嫌いなんだろう」「僕は饂飩うどん)が好きだ」「饂飩は馬子(まご)が食うもんだ。蕎麦の味を解しない人ほど気の毒な事はない」といいながら杉箸(すぎばし)をむざと突き込んで出来るだけ多くの分量を二寸ばかりの高さにしゃくい上げた。「奥さん蕎麦を食うにも色々流儀がありますがね。初心の者に限って、むやみにツユを着けて、そうして口の内でくちゃくちゃ遣っていますね。あれじゃ蕎麦の味はないですよ。何でも、こう、一としゃくいに引っ掛けてね」といいつつ箸を上げると、長い奴が勢揃(せいぞろ)いをして一尺ばかり空中に釣るし上げられる。迷亭先生もう善(よ)かろうと思って下を見ると、まだ十二、三本の尾が蒸籠の底を離れないで簀垂(すだ)れの上に纏綿(てんめん)している。「こいつは長いな、どうです奥さん、この長さ加減は」とまた奥さんに相の手を要求する。奥さんは「長いもので御座いますね」とさも感心したらしい返事をする。

2023-07-08

京都出身だけど、最近やっと鎌倉の魅力が分かってきたか

鎌倉、いいところですね。

関東に来たばかりの頃は、鎌倉にきて、こんな"古都"もあるんだなあと少しばかりびっくりしたけれど。

古都という色眼鏡を外せば、鎌倉の良さがすこしずつわかってきた、気がする。

まず、明治以降の別荘地としての、鎌倉

山と海があって、都市から近い。

鎌倉というと歴史都市と思われがちだけど、案外関西なら西宮から西側須磨とか塩屋あたりまでくらいの雰囲気に近いのかもしれない。

あそこまでハイソ雰囲気はないけれど、東京文化が入ってきていて、それなりに洒落た店も多い。

京都のように深い伝統香りはしないけれど、まあ、いい感じの海沿いの街としては、ありなのではないかな。

春の晴れた日に海沿いの古い路地を歩くと、これが漱石の味わった鎌倉かもなあと、嬉しくなる。

もう一つは、鄙びた田舎町としての、鎌倉

関東風の中華そば(甘すぎず美味しい)とか、無骨な力もちとか、そういう、言ってみれば滋賀の片田舎で感じるような、素朴な良さが鎌倉にはただよっている。鎌倉野菜京野菜パクリみたいで笑ってしまうけれど。

最後に、寺社仏閣としては、見るべきものはそれほど多くないけれど、禅寺の荒々しい雰囲気はなかなかよい。京都の禅寺は洗練されすぎていて、貴族宮殿みたいなのだ。ああいうのは、本来修行の場としての寺ではないんだろうなと思っていたから、鎌倉くらい無骨雰囲気の方が、らしくてよい。

鶴岡八幡宮は、廃仏毀釈で見る影(それは石清水八幡宮もそうだ)もないけれど、それでももう少し建築年代が古ければ良かったのに、と思う。石清水八幡宮だってこないだ国宝になったんだから。あれ、近世建築としても、洛中のものからすれば格落ちすると思うけれども。

それなら鶴岡八幡宮だって、ねえ。あと200年古ければ。

まあ、そんな鎌倉最近楽しんでいます

サーフィンでも、はじめようかな。

2023-06-05

anond:20230605132620

わざわざ紙に書かんでも俺の構想は素晴らしいわ。絵に描かんでも俺の脳内ではすごい景色が広がっとるわ。俺のように美しい世界を見ていれば、それをカメラに写すだけで十分やろ。たとえ作品を作らんでも、俺のように夢がひろがりんぐなら、金持ちより天皇より俺のほうが幸せやわ。

もちろん漱石ちゃんとした芸術論として書いているのであって、これを無産の言い訳として引用する増田がアホなんやけどな。

2023-04-28

anond:20230428110042

漱石自身こころという作品について、孤独と死の表現みたいなことを言っていたのでまさしく哲学なのでしょう。

一方であの作品について、先生とKの同性愛物語と読み解く人もいて、そういう部分をライトノベルのように読み解くことも出来るのではないかなと思います

いや、私ライトノベル読んだことないのですがね…

anond:20230428101451

こころ読んでないんだけど、漱石って小説ってより自分なりの哲学みたいなのを長々書くイメージがある

あれを面白いとするかは人による

2023-03-05

画面「アバターの設定をしてください」漱石「…気に喰わん。」

2023-01-22

JK漱石』に「DK太宰」とかは出演するのだろうか?

2022-12-17

鼻毛積極的に利用したい

やすだけでゴミから守ってくれるけど、もっと活用したい

カラーリングするとか、エクステ付けて目立たせるとか、工夫したい

でもそういうの、この人類歴史上、ないんだよ

ごめん、Wikipediaみたらあった。

加賀藩三代目当主前田利常は、自分に謀反の疑いがかけられた時、加賀百万石を江戸幕府によるお取り潰しから護るために、わざと鼻毛を伸ばしてバカ殿を装った。

数少ない鼻毛活用法。

夏目漱石は、鼻毛を抜いて原稿用紙に植え込む癖があった。この鼻毛の生えた書き損じの原稿は、漱石弟子の一人である内田百閒が保管していたが、第二次世界大戦中に空襲で焼失してしまったため現存しないという(第三随筆集『無絃琴』所収「漱石遺毛」)。

どうでもいいエピソードだった。

まり歴史鼻毛活用したのは前田利常だけだ

自分は二人目になりたい

何か良い案はない?

2022-12-02

大河ドラマに運慶が出て来たのでちょっと思い出したこと

昔『ユメ十夜』という、漱石夢十夜十本をそれぞれ別の監督が撮るって企画モノの映画があったんだけど、

運慶が出てくる第六夜(監督松尾スズキ/主演:石原良純 feat.阿部サダヲ)の話。

ご存知運慶がダンスで仁王像を彫ってるところを(踊りながら彫ってるのではなく、本当にダンスで彫っている)観衆が2ch語で実況するという趣向で、

当時は「撮影から公開までの間にもう作中の2ch語が古びてしまった」とか言われていた。実際もうズレていた。

それだけネット民の方も、ニッチなりに時代最先端を高速で突っ走っているという自負があったんだろうけれども、

今思うとなんのことはない。単にネタにしている2chへの解像度が思いっきり低かっただけだった。

撮影時点で公開しても、いや、それどころかタイムマシンで一、二年前に持っていってもまだ古臭かっただろう。

2022-10-03

anond:20220927195940

漱石小説は、そもそも東京辺に住む読者」を想定して、「あそこら辺よ」ってくらいにしか風景描写はしてないように感じる。

想定読者範囲として、今とは時代がずいぶん違うことも考慮に入れるべきだと思う。

2022-09-28

anond:20220928180933

お前まともに漱石読んだことないだろ?俺様が親切にもわざわざ引用してやったから読んでみろ。「春はものの句になりやすき京の町を、七条から一条まで横に貫いて、煙(けぶ)る柳の間から、温き水打つ白き布ぬのを、高野川の磧(かわら)に数え尽くして、長々と北にうねる路を、おおかたは二里余りも来たら、山は自ら左右に逼せまって、脚下に奔(はし)る潺湲(せんかん)の響も、折れるほどに曲るほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る。山に入りて春は更ふけたるを、山を極めたらば春はまだ残る雪に寒かろうと、見上げる峰の裾すそを縫うて、暗き陰に走る一条(ひとすじ)の路に、爪上(つまあがり)なる向うから大原女が来る。牛が来る。京の春は牛の尿の尽きざるほどに、長くかつ静かである。」

anond:20220927195940

それはそれでええんやで。たとえば漱石は初めに確定的な記述を行うタイプだけど、人物描写風景描写あいまいなまま話が進んでいって、関係から曖昧さが消えていく様な描写もあるやろ?

小説読まない人間想像力のたりないバカが多いのは、曖昧もの曖昧なまま読んで脳を訓練されてないからないんじゃないかと思う。

2022-09-27

小説などの描写イメージできない :追記あり

旧字で旧仮名使いの古い本を読むわけでもないのに、どうしても活字の本の中での描写が頭の中でイメージしきれない。

読めない本の種類としては圧倒的に小説が多い。

技術書解説書などは問題がない。

一番の問題は、風景などの視覚的な描写を頭の中でしっかり思い浮かべるのができてないことだと思う。

知識が足りてないという事もあるし、ひとつひとつのパーツは理解できてもそれを頭の中で映像化するのが難しいのだ。

例えば

私は墓地の手前にある苗畠の左側からはいって、両方に楓を植え付けた広い道を奥の方へ進んで行った。 するとその端れに見える茶店の中から先生らしい人がふいと出て来た。

夏目 漱石こころ」より

夏目漱石はかなり分かりやすい素直な文体作家だと思うけど、自分にはこういったちょっとした描写ですらイメージするのが難しく感じる。

墓地は思い描ける、苗畑は普通の畑とは違うのか?と不安になったのでググった画像で補完するがまあ大丈夫

楓、広い道、茶店、どれも単体では想像できるけど、問題はこの光景俯瞰で見えない、地図のように絵を描こうとしてもかけないのだ。

まず「左側」でつまづいて、苗畑と広い道の位置関係もわからない。

漫画ならこれらが全て背景絵として描かれてると思うので、なんの引っ掛かりも感じないだろうと思う。

小説だと光景を事細かに描写する必要もない場合もあるわけで、そういう時はある程度読者が好きにイメージすればよいんだけど、自分場合まり曖昧しかイメージできなくてその場面の全てがぼんやりしたものになってしまう。

小説自体は、場面ごとの描写がはっきりと頭の中で映像化できてなくても読み進めることはできる。

でも頭の中で映像化されていないとぼんやりした空間登場人物がそれぞれ現れるだけという味気ないものになる。

から頭の中で映像化できないことがとても歯がゆいのだ。

ミステリー小説なんかでトリックとして建物構造だとかが描写されてる時もだいたいよくわからない。

特に空間把握能力が著しく欠けているのかなとも思う、実際地図を読むのは下手だし方向音痴だし。

ただそれだけじゃなくてちょっとしたディテールとかも掴めない事が多いし、それが気になって中々先に進めなくなったりする。

小説の中で描かれる描写が、全部ちゃん自分の頭の中で思い浮かべることができたらどんなにいいだろうと思う。

でもどうしてもそれができなくて、結局集中しきれず最後まで読みきらないことが多い。

子供の頃からまり読書はしてこなかったし、漫画ばかり読んでいた。

今は漫画はたくさんあるから漫画でいいじゃんと開き直ってもいいんだけど、やっぱり小説もっと読み込めたら楽しいんだろうなと思う。

なにか特訓の方法などあるんだろうか?

小説挿絵を描く人ってどんな風にして描いてるんだろうか?


追記

コメント色々ありがたい。

一番驚いたのは「そこまでイメージする必要はないのでは」という意見が多いことだった。

みんな小説など読んでる時は頭の中である程度具体的にイメージしながら読んでるものだと思いこんでいた。

ただ、言われてみれば登場人物の顔はおぼろげなまま読んでるのにそこは気になってないとか、自分の中に矛盾もあることに気づいた。

ファンタジアではないかという意見もあり、初めて知った言葉だけどこれも興味深かった。

自分がアファンタジアかどうかは分からないが、記憶イメージとして思い出すことはできるので、そういうのとはちょっと違うのかもしれない。

2022-09-22

"I love you"の訳は「訳せない」が正解

日本人は家に帰ったときに「ただいま」と言うが、それを英語に訳すと何になるか?

直訳すると"Now, I'm home."とかになるわけだが、それは正確では無い

なぜなら米国人だろうが英国人だろうが家に帰ったとき挨拶する習慣は無いし、するとしても決まり文句存在しない

同じように電話での「もしもし」を英語に訳したときに"Hello."になるか?と言われるとそうではない

そうした文化的な違いの一つが"I love you"であって、日本人は「我、汝を愛す」などと言うことはない

恐らく漱石が言いたかったのは「日本人はそんなことを言わないのだから原作日本人に置き換えるならそれを加味して訳さなければならない」と言うことだろう

ロミオとジュリエット日本舞台にして作り直すなら"I love you"なんて言わずもっと背景を踏まえて翻訳しろ、ということなんだと思う

単にそのたとえの一つが「月が綺麗ですね」であって、昼間であれば「風が気持ちいいですね」でもいいわけ

とにかく好意を持っているというのはそれ以前の背景情報でお互いに理解できているので敢えて何かを言う必要は無く、何か台詞を当てるなら適当雑談してればいい、というのが本来意味だと思う

そのあたりの文化的な相違を理解せずに「I love youは月が綺麗」などと言ってるあたりが本当に発想が貧困であるのだけれど

現代社会では普通に「君が好きだ」「付き合って欲しい」というようなことを面と向かって伝えるほどに欧米化が進んだから

もはや「月が綺麗ですね」は都市伝説になったし実体を伴わない都市妖怪になりつつあると思う

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