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はてなキーワード: 近代文学とは

2018-08-29

文豪アニメ作品に言いたい

私は某文豪アニメ作品(以下B)のファンです。

この前ふとBのゲームを見つけ、インストールしてみて呆れました。

なんですかあの漢字変換オンパレード

「ある」を「或る」とか、「もはや」を「最早」なら、よく使われる変換なので何も文句はないです。

けれど「さて」を「却説」や「ばか」を「莫迦」って一体なんなんですか?

無理やり難しく変換した漢字作品内に散りばめる必要ありますか?

一番呆れたのは「ソース」を「沙司」に変換してたことですね。予測変換じゃもちろん出てこないし、国語辞典にも載ってない。調べたら沙司は中国語だそうで。

一応言っておくと、私は「読めない漢字を出すな!」と怒っているわけではないですよ。実際読めますし。

変な漢字変換ばかりするせいで、せっかくの素敵なキャラクターが、ただの難しい漢字使いたがりの馬鹿っぽく見えるから嫌なんです。

賢く見せよう、文豪っぽく見せようとしてるなら失敗してると思います

こんなので「かっこいい!」「賢そう!」と思うのは精神年齢が低い人じゃないですか?まぁ断言はしませんが。

近代文学の美しさは、柔らかなひらがな古語チックな漢字によって生み出されていると私は思っています

それを一単語ずつ変な漢字にしてたのではせっかくの良さが失われます

以上のことは全て私の勝手な言い分ですので反論されても知りません。

公式が改めてくれることを願っています

2018-08-02

anond:20180802041537

前半部分は論証として認めるが、後半は話がずれてる

明治期以来の自然主義みたいな一人称私小説が今のラノベの源流というのは無理がありすぎるw

エロゲライター含めてラノベにも三人称が多い事実了解したが、影響関係という一点のみでは、近代文学一人称私小説よりは、ここ20年ほどの一人称文体ノベルゲームの方が、なろう系に影響しているのではないか

2018-07-08

三島由紀夫金閣寺」について


金閣寺』という小説が何を表しているのか、単刀直入に語るとすればどのような言い方になるだろうか? それについて敢えて率直に語る事はすまい。

 とは言え、勿論その文章の中心的な部分は割に簡単言葉で表す事ができる。つまりは「美しさ」と「地獄」という二語によってである。ただし、これだけだと余りにも簡単説明でき過ぎてしまう。実は、金閣寺はこの二語のみによって説明できる小説なのであるが、それではあまりにもざっくばらんすぎて、説明が詰まらなくなってしまいかねないのだ。その為、少しだけ読者を焦らす事にする。


 金閣寺1956年雑誌新潮』に掲載され、年内に単行本化し15万部のベストセラーとなった――また、現在に至るまで文庫を中心に300万部以上を売り上げる日本の伝統近代文学の内の一つである海外においては複数言語翻訳され、日本文化を緻密に描いた三島由紀夫文章は各地で絶賛を浴びた作品でもある。しかし、無論この小説には難しい部分がたくさんあって、一朝一夕で読み解くにはハードルが高い。

 しかし、繰り返すようにこの小説は二つのポイントをさえ押さえるならば十分に理解することができる。

 つまりは「美しさ」と「地獄である

 この言葉はあまりにもこの小説を語る際に便利過ぎる。

 金閣寺は美しさの象徴であると同時に地獄象徴であった。これが三島由紀夫がこの小説において語ろうとしていた全てである小説金閣寺』は1950年に発生した、青年僧侶による「金閣寺放火事件」を下敷きにしており、三島由紀夫はこの青年僧の犯行根底に「美への反感」があることを読み取った。そして、そのコンセプトを元に書き上げられたのが、当の大作『金閣寺』なのである


「美への反感」。

 つまり、人は美しいものを時に憎むのである。そのような感情一言に言って地獄の現出に他ならない。

 何故ならば、人は美しいものに中々なれないかである

金閣寺放火事件」の主犯となった青年は幼少より吃音の症状を呈しており、恐らくそ吃音症は彼の人生に薄すらとした重たげな影を投げかけていた。

 吃音症は美しいか否か、と語るとするならば、恐らく人は吃音症を称賛するよりも嘲笑するだろう。いや、これもまた偏見なのかもしれないが、少なくとも三島由紀夫はその吃音の症状一つ取るに、青年僧の人生に降りかかる薄すらとした影の姿をまざまざと感知したのであった。そして、青年僧は自身が美という観念からはやや隔たった存在であることを自覚すると共に、美に対する拭い難い憎しみの存在を抱え続けることになるのである。――自身の美への憧れの象徴として、自身父親から長く「美しい」と語られていた金閣寺存在を、憧れと同時に、憎悪対象とし始めるのである。やがて、青年僧は最終的に犯行に及ぶ――金閣寺放火し、その美の象徴たる美しい建造物を、焼き払ってしまうのであった。

 美に対する憧れ、そして憎しみ、そのような薄すらとした影が、青年僧の人生には降り掛かっていた――これが、この金閣寺という小説を書くに至って、著者である三島由紀夫本人が青年僧に対して抱いていたイメージ重要な箇所であるだろう。そして、もはやこれは自明のことであるとは思うのが、その薄すらとした影――つまりは「美への反感、憎しみ」――とでも言うべき影は、三島由紀夫人生のものをも固く包み込んでいたのである

 三島由紀夫本名平岡公威(ひらおかきみたけ)は1925年に父、梓。母、倭文重(しずえ)の元に生を享ける。

 幼い頃は虚弱体質であった三島が、長じてからは肉体強化のトレーニングに励んでいたことは周知の事実であろう。

 三島心中いかに「美」に対する執着と、そして同時に反感とが存在していたか推して知れることである小説仮面の告白』においても語られていた通り、三島由紀夫心中には鬱々たるものがあった。そして同時に、そこには複雑な、文章によって表現することの憚られるような感情が幾つも幾つも存在していた。恐らく、彼はそのような歪な感情存在する理由を、人生において追究していたに違いないと思われる。

 でなければ誰があん小説を書こうとするであろうか?

 ともかく、三島由紀夫はその人生において複雑な美意識を持っていたし、同時に、その美意識に対する反感を抱き、自分自身感情を飼い慣らすことに苦労していた――そこには美に対する憧れと、同時に美に対する反感、そして美を中心とした地獄があった――これはおおよその三島由紀夫研究者が抱いている彼に対するイメージであろうと思う。三島由紀夫は彼の小説において、彼の人生のものを率直に表そうとしていた。彼の人生というものは、恐らくは彼の書いた小説以上にわかやすものだったのかもしれない。


 金閣寺の作中において、柏木という名の登場人物が現れる。この人物は跛足であり、つまりは歩行に困難を抱える身体障害者であった。

 そして、小説金閣寺』においては明確にこの人物が、当小説における極めて重要な部分を語る鍵となっているのである

 作中における柏木キャラクターについてはここでは敢えて詳細に語らないが、しかし彼が主人公青年僧に対して口にしていた、『金閣寺』という小説の根幹を成す極めて重要台詞について語ることにする。それは、以下のような台詞であった。

地獄の特色は、すみずみまで明晰に見えることだ。しかも暗黒の中で!」(文庫金閣寺、p.129)

 柏木というキャラクターはいわば「地獄」に関する伝道者としての役割果たしている。「地獄とは暗闇の中で一切が明晰に見えることである」。この言葉意味曖昧模糊としている。そこには、語るまでもなく明らかな矛盾がある。暗闇の中では一切が曖昧で、決して明晰になど見えはしないのだ。しかし、このような矛盾物語の後半において一挙に解消されることとなる。そう、ここにおいて柏木の語った一節は、当小説重要テーマである金閣寺の「美的側面」、ひいては、金閣寺の「地獄としての側面」に対して、判明な解答を与える重要キーワードであるのだった。


 飛んで、物語の後半。主人公青年僧は、ついにその目的を実行に移そうとしていた。

 彼の中にある美への憧れの根源――金閣寺存在のものを一挙に焼き払おうというのであるしかし、時刻は夜であった。そこは全くの暗闇であり、暗黒であった――。しかしそれでも主人公の目には、暗闇の中にある筈の金閣寺がまざまざと視認され始めるのである

 そう、正に「暗黒の中で」「すみずみまで明晰に」金閣寺が浮かび上がったのだ。

金閣寺は雨夜の闇におぼめいており、その輪郭は定かではなかった。(p.318)

が、私の美の思い出が強まるにつれ、この暗黒は恣まに幻を描くことのできる下地になった。(p.319)

ついには昼とも夜ともつかぬふしぎな時の光りの下に、金閣は徐々にはっきりと目に見えるものになった。これほど完全に細緻な姿で、金閣がその隈々まできらめいて、私の眼前に立ち現れたことはない。(同)

 そう、ここで暗闇の中で明晰に知覚できたのは、美の象徴として語られる金閣寺の姿そのものだったのである

 金閣寺はここにおいて、彼の記憶に根差した「美」の象徴として語られている。そして、同時に、かつて語られた柏木警句が浮かび上がらせるのは、金閣寺の「美」としての側面と同時に立ち上がってくる「地獄」としての側面だったのである


 小説金閣寺』は、青年僧の中に存在する「美」への屈折した感情を描き切った名作であった。そして彼はその「美」をも、「地獄」をもまた共に焼き払ったのであった。

 そこには、純粋な憧れと同時に、地獄としての大きな側面が描かれていたのである

2018-06-09

文豪ものナマモノなのか

※これは読んだ後に「へーそうなん」と言ってほしいだけの話です※

簡単に言うと、文豪元ネタとしたアニメ漫画小説ゲームドラマ、等々の二次創作(イラスト漫画小説動画、等々)はタレントアイドル声優スポーツ選手、等々の二次創作であるナマモノと同じ扱いなのか、という話。

これまで私は少年漫画アニメオリジナル作品二次創作小説を書いてきた。

からその「文豪元ネタとした某ジャンル」にハマるのも同じノリだった。

私は元々国語が得意で近代文学もそこそこ読んでて推し作家がいた。

そう、ジャンルに沼落ちする前から推していた推し作家がいた。三次元のほう。御本尊のほう。

で、推しが出ている漫画ゲーム、私が知っているだけで四つあるんだけど、そのうちの一つにハマった。ハマった、というのは、二次創作を書いた、ということ。

推し教科書作品が載ってたり載ってなかったりな準メジャーくらいの文豪一般人でも名前作品名が出てくるかも、くらいの文豪

そのジャンルは準メジャーくらいかな?特別有名ではないかも。ファン人口も多いとは言えないと思う。

それでも「二次元キャラ愛」と「三次元本尊作品リスペクト」でバランス取ってるジャンルだと思う。ジャンル公式ファンも。少人数で色濃く、といった感じ。

ジャンル公式三次元本尊関係施設コラボすることもある。記念館の来場者数が前年の何倍、と小さく新聞に載る程度の影響力。

あと「ギャー!!!案件もあったが、割愛偉人ものメリットデメリットは似たようなもの。それでもしもいつかデメリットに振り切れちゃってジャンル公式が終了しても、理由には納得できるし仕方ない、と私は思える。そういう付き合い方。そういう、ジャンルとの距離感

で、二次創作をしたわけだが。

当然三次元に興味ある一般人の目に触れないように検索避けしようと、他ジャンルと同じレベル危機感普通にある。腐った話はぷらいべったーやふせったーを使うとか。鍵かけた裏垢使うとか。まあTwitterpixiv検索避けガバガバから完全雲隠れはいかないけどな!それでも投稿者としてできる努力はしていたつもりだ。

結構Twitterで、公式の話もするし、非公式妄想の話もするし、ジャンルとは関係ない三次元本尊関連の話をする、って人はいる。

というか、私がそうだ。二次元キャラを愛でる同志に会いたかったし、三次元本尊のことも布教たかった。勿論検索避けしてな。あだ名使うとか。

それで、たまにRTで回ってくるわけだよ。御本尊の遺族の方がご存命なので腐は隠れてね、って注意ツイート

その度に横目でスルーしていた。

一つは、そもそも腐は隠れるものっていにしえの教えを疑いなくずっとずっと守っていたから。二次創作をやるものとして、守るべき暗黙のルールは守っているつもりだった。

もう一つは、文豪元ネタとした一次創作(文壇創作呼称するらしい)ではなく、あくま二次元キャラ二次創作であるから二次元作品ファンとして作品を全力で楽しむ権利公式他者迷惑にならない程度のことは、同じもの好きな人だとしても邪魔されたくなかった。

まあ部外者から見たら一緒だと思われるかもしれないが、それこそぷらいべったーとかふせったーとかpixivとかTwitter鍵垢とか、一般人には見つけにくい方法をとっていたつもりだ。完全とは言えないだろうけど、努力はした。

私は他人はわりにどうでもいいので、大っぴらにTwitterやばい妄想ツイートしている人に凸るなんて面倒くさいことはしない。ただ自分が守っていれば燃えることはない、と思っていた。

それが、急に弱気になった。

全然関係ない、ナマモノ二次創作暗黙ルールの話がTLに流れてきたときだった。

文豪ものは、二次元化を挟んだとしても、御本尊とかけ離れていようがいまいが、ナマモノ扱いで、ナマモノルール適用したほうがいいのでは、と急に思った。

ようは半ナマなのではないか、と思った。

私はナマモノを通ったことがない。リアル地雷なので2.5次元を履修したことがない。舞台ミュージカルも観に行っことがないし、声優は聞き分けができないので興味が持てないし、ドラマも観ないし、流行りの芸能人にも興味がない。

でも、なら何故文豪に興味を持ったのか。

蛇足だけど、明治150周年をしたわけで、戦前の人はもう私にとっては歴史上の人物なのだ。おだのぶながもなつめそうせきも歴史上の人物という広義の中の一人なのだ

推し(御本尊のこと)が生まれて100年過ぎて、推しが亡くなって50年はとっくに過ぎた。戦前没だし。

遠い、遠い、教科書に載っている人たちなのだテレビに出ている人たちと同じとは思えない。かつて存在していたらしい、という伝説上の人物なのだ

まあ私が生まれる前年まで生きていた文豪も、私が生まれて翌年まで生きていた文豪もいるが。物心ついたときにはもう「文豪」はご存命ではなかったのではないだろうか。

特に私にとっては、推しは没後50年も70年も過ぎていて、著作権は切れていて、死後評価かつご家族文学に明るくなかったから、遺族が〜と言われても私には他人事に思えるのだ、正直に言うと。推し権利まわりのことで何か用事があったらどこに話がいくのだろう。私には分からない。きっと日本のどこかにいらっしゃる遺族の方を探すところから始めるのだろうと思う。

話を戻すが、私が急に今ジャンル二次創作を発表するのがこわくなった理由は、御本尊関係者に二次創作を読まれしまうことではない。

文豪ものは隠れなきゃいけないとルール押し付けてくる某がいるかもしれない、という被害妄想で、こわいと思った。

いや黙って隠れろよ!

そのとおりなのだが。

直接言われたわけでもないし、ただ見かけた対岸の火事自分のことのように被害妄想しただけで、ジャンルに何か転換期があったわけでも、フォロワートラブルがあったわけでもないのだが。

文豪ものナマモノなのだろうか。

二次創作の中でも更なる特殊ルールがあるらしいナマモノ半ナマと同じレベルで隠れるべきジャンルなのだろうか。

なのかもしれない。ならば、私は、それなりに、もっと深くまで潜るまで。なのだが、甘かった頃の自分をほじくり返されて、今まではこうだっただろう!と突きつけられたら、私はどうすることもできない。それがただただこわいのだ。

ただ、二次元キャラとなった推しも、三次元本尊推しも、自分で愛でて、同じファンと愛でて、たくさんの人に愛されてほしいと願っただけなのに。



追記

干物ジャンル。なるほど。さらっとぐぐった。やはりナマモノから派生扱いなのか〜と。

マナー云々は……三次元二次創作ナマモノよりも二次元二次創作に寄っている、のかなぁという初見の印象。

よい言葉を知りました。ありがとう

2018-06-08

英語/日本語

「私は英語が話せます」は…https://togetter.com/li/1234512

講談としては面白いし、英語のうんちくも「ナルホドソウデスカ」って感じだけど、日本語論のところは眉唾で、あまり信用されると困るなあという印象。以下、気づいた点をメモ


漱石の日本語は別に近代文学最初のものではないし、その後のスタンダードでもない。明治近代文学濫觴となった二葉亭とロシア語の影響、鷗外文学ドイツ語受容その他様々なジャーナリズム公文書、そして文法学的研究など明治二十年代、三十年代の様々な文学状況を無視して、現代人に聞こえの良い「漱石」と英語との関連だけで近代日本語の成立を語るのは乱暴まりないし、漱石の影響を一番受けた芥川文壇日本語としてはどこまでも異質で、そして大正の終わりには滅びたような古臭い日本語だった。代わりに現代語の基盤を築いたのは、フランス文学に影響された自然主義新感覚派文学であって、これらの日本語は、漱石の日本語とは似ても似つかない代物だよ。


そもそも漱石の日本語が翻訳文体だというのもほんとに漱石読んだことあるの?というレベルの話で、デビュー当初のあの奔放な江戸弁と漢文脈のミックス体は、むしろ英語の影響を見て取る方が難しいと思うのだが。


まあ、本当の意味英文翻訳文体漢文脈に代わって日本語の基本になるのは、正直戦後じゃないかな。その典型は、日本国憲法かなあと思う。あれ、術語こそ漢文ぽいけど、構文や何かは英語のものだよね。


それにしても英→日ができて日→英が不便だから「欠陥OS」という言い方はちょっと頂けないね講談としても口が滑った感じだ。じゃあ英語は何か国語翻訳できる優秀なOSなんですか?って。機械的翻訳馬鹿にするが、奈良時代の昔からそれが海外文化を一気に取り入れるとき日本語十八番なんだよ。そうして、中国語ヨーロッパ諸語と、複数のまったく文法体系の異なる言語を構文レベル移入しながら独自言語としてのアイデンティティを維持する…そんなアクロバティックな進化を経てきた言語を、軽々しく扱おうとはちょっと不見識が過ぎるんじゃないかね。

英語をやってると、とかく英語ができるってことでひとかどの知識を持っているかのように思い込む輩がいるが、この人は一応は勉強家のようだから、そういう輩の轍を踏むことの無いよう祈っておくよ。

2018-05-18

切実に単位が欲しかったあの頃

目名近代文学の達成B 1

レポート名称講義全体の感想

 私はもともと自ら進んで本を読むタイプではなく、現代文の授業も退屈に全く聞いていなかったので、何だか難しそうである日本近代文学というものも全く知らずに生きてきました。文学部とは反対に、実益価値を置く商学部においてこのような人は多いと思います。それにも関わらず本講義を受講したのは、就活という制約のために労力をそれほどかけることができないという条件に合致し、次に近代文学に触れる可能性のない人生というのは少々勿体無いのものではないかと考え、何か読み始めるためのきっかけになるかもと興味が得られたためです。

 この授業はそういう文学初心者には丁度いいものだったように感じます。扱う題材も文豪たちの探偵小説からということで、ある程度プロットがしっかりしていて初心者にもとっつきやすものでした。また先生もそういう人たちに配慮して少しでも興味を持てるように工夫して授業を行なっていたように思います。大量のパワポの準備や、足を使って村を訪れるなど、手を抜かないところも好印象でした。作品や作者に対する解説解釈も一歩踏み込んだものが多く、ここまで深い読みがあるのかと感心することも多かったです。

 そのおかげか、小中高とあれだけ現代文の授業を毛嫌いしていた私にとっても、この講義面白く興味深いものとなりました。と同時に、ある小説の一篇を長時間かけて解説させられる普遍的現代文の授業スタイルますます害悪のように思えてきました。

 またレポートを提出させ、優秀なものプリントにして共有するというのも良かったです。私の字数を埋めただけのようなレポートに比べて、同じ学生でもなんて中身のあるレポートを書くのかと刺激を受けることもありました。特に氾の妻についてのプロ顔負けの自作小説には驚きました。私も一度くらいプリントに載るようなレポートを書いてみたい気持ちもあったように思いますが、そもそもこれまで二回しかレポートを提出できていないので気のせいだったかもしれません。

 そういえば最近、私は講義を受けていなかったらまず読んでいなかった春琴抄を非常に面白く読み進めています。どうやら講義を受けるにあたって近代文学を知るきっかけにしたいという思いは気のせいではなかったようです。あとは単位さえ得られれば当初の目標をほぼ完璧に達成することができそうです。よろしくお願いいたします。

提出日時:2012/01/30 00:27

2017-09-28

anond:20170928164422

具体的な話をして良いなら、犯罪者自伝平家物語

近代文学には惹かれない。頭を使う物の方が楽しいから

考えずに文章捻り出すより、ずっとその方が人生の為になると思うけどね

2015-10-06

http://anond.hatelabo.jp/20151006114358

「著者近影がない」というパターンも含めるべきでは?

「(近代文学と比べて)作家性を強調しない」とは言えても「大衆に埋没するような存在として提示している」は飛躍しすぎでは?

松永寛和「ライトノベルの著者近影論」

本発表ではライトノベルの著者近影を一〇〇〇枚以上取集した調査の結果を報告すると共に、その変遷の意味を論じる。

著者近影は読者に対し著者をいかに提示するのか、という点において大きな役割果たしている。

我々は漱石や太宰といった作家達の顔を簡単に思い浮かべることが出来る。

その知識、記憶テクストを統括する人格存在を暗示する。

著者近影は近代文学においては作家主義を補強する機能果たしてきた。

しかし、ライトノベルの著者近影は現在近代文学のそれとはかけ離れたものとなっている。

その変遷には作品作家、読者との関係がいかに変化していったのかが表れている。

収集したサンプルは以下の通りに分類した。

1、顔が鮮明に映っている。

2、サングラスや手、帽子などにより風貌を隠している。

3、自分身の回りのモノの写真

4、イラストを使用している。

これらを年代順に並べることによりライトノベルの著者近影がどのような変遷を辿ってきたかが明らかになる。

一九九二年以前は、ライトノベルの著者近影も近代文学と同じように著者の顔をはっきりと映していた。

けれど、一九九三年、神坂一が著者近影にイラストを使用したのを一つの契機として、同様の例が増え始める。

その後、二〇〇〇年に時雨沢恵一がモノの写真を使用したことから、身近なモノの写真が著者近影に使用されるようになる。

現在ではライトノベルの著者近影はイラストかモノの写真にほぼ大別される。

メディア論重要批評家であるヴァルター・ベンヤミン肖像写真と接する時、人々は唯一性、一回性ばかりに注目してしまうと論じている。

近代文学はそのような写真の力に依拠し、著者近影によって作家性を強調していた。

しかし、ライトノベルの著者近影はイラスト、あるいは身近なモノの写真へと移り変わった。

ライトノベルは著者を特別主体としてではなく、どこにでもいる、大衆に埋没するような存在として提示している。

http://amjls.web.fc2.com/PDF2015/P06-25_123.pdf

2015-07-10

制度

授業で近代文学読んでると「あーうちのことだ」って思って冷静でいられなくなる

ひいおばあさんが死ぬまで本当に地獄で、ああやっとこれで楽になるんだ、みんな自由になるんだ…って思ってたけどそんなことなかった

おじいさんおばあさんが家長の座に移っただけだった

何も変わらないどころかもっと悪くなるばかりだ

働いてお金を儲けて東京土地を持って立派な家を維持して

不動産お金を儲けて子供はい教育を、私立に入れて安心させて

そういうサイクルに乗ってきたことに自信を持ちたくて、孫にまでそれを期待して信じてるのを感じる

さなからお墓まいりのときには「このお墓に入るんだよ」って言われてきたから私は婿をとらなきゃいけないんだーって思ってたけど、全く同じことをすでに母が強いられて焦って結婚して結局何もかもが破綻して、現状離婚すらできない最悪の状態だし

おじいさんとおばあさんを変えることはもう不可能から

母は経済的に自立していくしかないし、でも好きな男の売れない居酒屋バイトしてるし、私は母のこと大好きだけど客観的に見ればダメダメだし

私の婚約者は本当にいい人で立派で優しくて思慮深くてこれ以上の人いないって思うけど、彼はおじいさんおばあさんが望むようなタイプではもちろんない

今日も散々遅くまでおじいさんおばあさんに色々追い詰められて、久しぶりに吐き気がするほど泣いた

こういうことっていろんな家にあるのかな?うちだけじゃないんだよね?

おじいさんおばあさんと一緒にいると辛いって言っちゃえばその響きだけでもうヒトデナシだし

デリケート話題からあんまり人に相談できないのが悩みだ

とにかく今は頭が割れそうに痛くて気持ちが悪い

早く家を出たい

でもこの家を継いでお墓を守らなくては、そうしなければ祟られる気がする

しかまれない家は悲惨

一番かわいそうなのは母だ

ま、あと何十年かすれば死んじゃうし、そしたら遺産で母と妹とどっかに遊びに行きたいなあ

それまで歯を食いしばって耐えるしかない

2015-06-18

http://anond.hatelabo.jp/20150618221927

ああ、舐められてるなあ、文学部w

史学科なら郷土史の読み書きに役立てるとか、国文学科なら変体仮名踊り字の解読あるいは古典近代文学研究趣味にするとかないの?

まあ実際そこまでやってる人はあんまりいないんですが。

いいとこ読書好きなったりラノベみたいなポンチ文に浸ったりする程度でしょ。

2014-03-25

三四郎」以降、東大生活を描いた小説がない

今更ながら、夏目漱石の「三四郎」を読んでみた。

私見だが、夏目漱石三四郎文壇で評価され、「日本近代文学の祖」になった理由は、案外単純な理由な気がする。

三四郎に描かれてる帝国大学学生模様が、文壇主流派にとって『インナーな話』で懐かしかった」から

小説本来の価値」以上に過大評価されたのではないか?

分かりやすく書くと、文壇大御所たちも東京帝国大学の出で、だから夏目漱石三四郎は「東京帝国大学物語」で、心地良かった。

それまで「東京帝国大学物語」を書いた作家はいなかったから、その意味では夏目漱石の目の付け所はシャープだった。

よく考えたら、東大生の日々を描いた小説って、「三四郎」以降、存在しないんじゃないか?

小説じゃなくマンガなら「東京大学物語」があるが・・・

東大生自身にも責任があるが、東大OBは、「三四郎」みたいなリアルな「東京大学物語」の小説化を怠ってきた、

から世間から余計に東大は誤解されてしまう。

一方で、ライバルである京大は、最近鴨川ホルモー」で登場したりしてるのが羨ましい。

実際、東大舞台小説は後森鴎外大江健三郎しかないようで、このままでは世間東大は「江川達也マンガ世界」と誤解しちゃう

※いや、東大の様子は、東大OBの「私の履歴書」を断片的に繋ぎ合わせれば、判るかな?

今の東大って、マジョリティ理系なんですよね。

三四郎時代東大は、あれはあれで趣きはあるが、工学系統が全く描かれてない点で今の東大とは別物。

今の東大の過半数は工学部なのはまり知られてない。

せいぜい生糸工業と綿紡工業しか日本になかった三四郎当時の東大工学部と、現代東大工学部で、「プレゼンス」が雲泥の差なのは当然。

・・・東大理系の日々実験な、「地味~」な日々を描写した小説って、ないのかな?

2013-12-30

個人的近代文学50選

『超権威主義世界文学百選』http://togetter.com/li/138734というランキングを見て、面白いと思いながらも疑問に思ったことがあって、「20世紀小説ばっかりじゃん!!」ということで19世紀の小説を重視したランキング作成してみました。具体的には近代文学の始まりドン・キホーテ」(1605,1615)からモダニズムの始まりであるユリシーズ」(1922)までです。つまり近代文学モダニズム以前、ということになります小説を選ぶうえで参考になればと。あと、あくまで個人的な基準に過ぎないことを留意してもらえればと。

1.「ドン・キホーテ」(1605,1615) ミゲル・デ・セルバンテス

2.「ガリヴァー旅行記」(1726) ジョナサン・スウィフト

3.「トム・ジョーンズ」(1749) ヘンリー・フィールディング

4.「紅楼夢」(18世紀中頃) 曹雪芹

5.「トリストラム・シャンディ」(1759~1767) ローレンス・スターン

6.「ソドム百二十日」(1785) マルキ・ド・サド

7.「高慢と偏見」(1813) ジェーン・オースティン

8.「黄金の壺」(1814) E.T.A.ホフマン

9.「アドルフ」(1816) バンジャマン・コンスタン

10.「いいなづけ」(1825) アレッサンドロ・マンゾーニ

11.「赤と黒」(1830) スタンダール

12.「ゴリオ爺さん」(1835) オノレ・ド・バルザック

13.「アッシャー家の崩壊」(1839) エドガー・アラン・ポー

14.「嵐が丘」(1847) エミリー・ブロンテ

15.「虚栄の市」(1848) ウィリアムメイクピースサッカレー

16.「緋文字」(1850) ナサニエル・ホーソーン

17.「デイビッド・コパフィールド」(1850) チャールズディケンズ

18.「白鯨」(1851) ハーマン・メルヴィル

19.「死せる魂」(1855) ニコライ・ゴーゴリ

20.「オーレリア」(1855) ジェラール・ド・ネルヴァル

21.「ボヴァリー夫人」(1857) ギュスターブ・フロベール

22.「晩夏」(1857) アーダルベルト・シュティフター

23.「オブローモフ」(1859) イヴァンゴンチャロフ

24.「不思議の国のアリス」(1865) ルイス・キャロル

25.「ミドルマーチ」(1872) ジョージ・エリオット

26.「悪霊」(1872) フョードルドストエフスキー

27.「居酒屋」(1876) エミール・ゾラ

28.「アンナ・カレーニナ」(1877) レフ・トルストイ

29.「ブラス・クーバスの死後の回想」(1881) マシャード・デ・アシス

30.「さかしま」(1884) ジョリス=カルル・ユイスマンス

31.「ハックルベリー・フィンの冒険」(1885) マーク・トウェイン

32.「飢え」(1890) クヌート・ハムスン

33.「クォ・ヴァディス」(1895) ヘンリク・シェンキェヴィッチ

34.「タイムマシン」(1895) H.G.ウェルズ

35.「リリス」(1895) ジョージマクドナルド

36.「シスターキャリー」(1900) セオドラ・ドライサー

37.「ロード・ジム」(1900ジョゼフ・コンラッド

38.「ブッデンブロークス家の人々」(1901) トーマス・マン

39.「超男性」(1901) アルフレッド・ジャリ

40.「チャンドス卿の手紙」(1902) フーゴ・フォン・ホーフマンスター

41.「鳩の翼」(1903) ヘンリー・ジェイムズ

42.「一万一千本の鞭」(1907) ギヨームアポリネーム

43.「アフリカの印象」(1909) レーモン・ルーセル

44.「ハワーズ・エンド」(1910) E.M.フォースター

45.「ペテルブルク」(1913) アンドレイ・ベールイ

46.「変身」(1915) フランツ・カフカ

47.「明暗」(1916) 夏目漱石

48.「ワインズバーグ・オハイオ」(1919) シャーウッド・アンダーソン

49.「われら」(1921) エヴゲーニイ・ザミャーチン

50.「阿Q正伝」(1921) 魯迅

2011-08-20

サブ・カルチャーが力(power)をもつこと、教養のはなし

浅田彰Wikipediaページを読んでいた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E7%94%B0%E5%BD%B0

長いけど引用

人文知の現在については、『表象』no.01(2007)における松浦寿輝との対談において、「プラグマティック工学知とそれによる利潤追求がすべてだ」(テクノキャピタリズム)という発想の全面化により、「人文知の成立する余地が失われた」。「いまや国家もハイ・カルチャーに興味をなくしつつあるし、オタクあがりのIT成金もハイ・カルチャーに興味をもっていない」。残っているのは、「日本における動物スノッブあるいはスノビッシュな動物としてのオタク、その幼児的倒錯」しかないように見え、実際、「幼児的退行を売り物にするカルチャーが、日本的なオタクの特殊な表現であるということで、世界的に売れてしま」う。「2000年前後に、ドラスティックな変化があった。それまでは近代文学というものが辛うじて生きていた。しかしいまやそういう意味での文学とは違うところ、いわゆるライトノベルケータイ小説アニメゲームのほうが、主流になってしまった。文学もそういうふきさらしの荒野に出てしまったと言う感じははっきりする」

しかし「素直に言って、僕はそういうものは最悪だ」と思うし、「市場論理がすべてだとは絶対に思わない」。とはいえ、それらへの「反動として、ヨーロッパ的(あるいは東洋的)な古きよき教養に戻るというのも望ましくもなければ可能でもない。亡命知識人の体現するヨーロッパアメリカ臨界に、20世紀の人文知の最大の可能性があった。それを21世紀にどうやって取り戻せるのかというのが、ひとつモチーフになる」と述べている。

この鋭さはやはりすごい。

これについこの前の内田樹の話がかぶってくる。

http://blog.tatsuru.com/2011/08/01_1108.php

こちらは引用しないけど、ネット上の言論が暴力的になってきているという彼の印象と、それについての言説。

で、

サブ・カルチャー社会において力を持つということは社会教養レヴェルが(全体的に)落ちたということではないのか?

教養の不足、というのは、他者との距離感を錯誤する。わたし、と、あなた、の違いが曖昧しか感じられなくなってくる。

総理大臣に『バカッ!』ということが、冗談でなくて本気で彼に伝わる、そんな感覚さえもつようになるのでは?

そして政治家もまたひとしく教養を欠き、彼らの十八番であった言葉遊びができなくなって、記者会見で泣き出す?

政治家でない私が政治家と違うのは、互いの囲まれた環境(circumstance)が違うのだから当然で、彼の言葉を理解できないから『理解しようとする』。

今そういうことを皆できなくなってきてるのではないか

『おマエ氏ね』と書き込むひとは、案外以前より一層、本気で書くようになってきたのではないか

二人のコトを読んでそんなことをぐるぐる、もやもや、考えた。

2010-02-17

http://anond.hatelabo.jp/20100217015948

簡単に言えば、メディア化なんですよ。

昔、小説を読むってのは金持ち道楽だったけど、明治が過ぎる辺りに一気に一般化した。

それ以前に、「心中物」とか悲恋が好まれる土壌はあったわけですが、

近代文学の隆盛、そしてその後の三島・太宰時代に至るまでずーっと

恋愛」ってのは非常に重要イシューであり続けたわけです。

それに拍車をかけたのは、カトリック的な「純愛」の勃興ですね。

そういうわけで、上流階級の紡ぐ「物語」の上で「恋愛」っていうフィクショナブルな真実ってのは

既に明治に醸成されていた。

その上、女性解放運動が来ましたよね。家制度に深く結びついた「見合い」みたいな文化

当然攻撃に晒されることになった。これも文学者たちと目茶目茶深く結びついてる。

これが一気に転換を迎えたのはやっぱ戦後昭和の頃じゃないですかね。大正くらいから

上流階級の中で萌芽は無論ありましたが。昭和ってのはそういう時代だったかと思います。

思想・文学の中で醸成されたものが、社会の変化とともに一般化した。そういうわけで恋愛結婚が増えたのかと。

こういう動きは純文学に始まったわけだけれど、当然ながらエンタメに飛び火することになる。

そういうわけで、エンターテイメント、あるいは読み物、あるいは創作物と「恋愛」ってのは

日本に於いても欠かせないものとなった。そして、メディアが増えるに連れ

それは「異国の文化」から「愛の理想」へと格上げされたわけです。

現代では考えにくいですが、一昔前の書籍の持つ力ってのはスゴかったから。

そして、そういった創作の土壌が広まっていた以上「純愛」ってものがドラマの主題になっていくことも

そりゃもちろん当然の流れで、もし「恋愛」を広めた罪科を問いたいのならば

日本の主要な文学者を軒並み叩ききるしか方法がなくなる。

だって、あらゆる創作物から「恋愛」を抜いたらどれほどのものが残るか、想像つくでしょ?

ドストエフスキー川端も、ヘミングウェイもほとんどみんな消滅するわけですよ。

だから今更「ドラマ」なんかに罪を問うてもマジ仕方ない。

必然だったわけです。文学恋愛創作物と恋愛が切り離せない以上、しかもその文化をいち早く

輸入して広めたヤツら、そしてその後の創作の基になったヤツが誰かと考えれば

現代のドラマなんか責めてもマジでどーにもならない。小説に始まるあらゆる創作物を断罪するしかないですね。

そりゃちがう。

http://anond.hatelabo.jp/20100217011554

日本恋愛結婚が増えたのは、明治辺りに「恋愛」って価値観が導入されたことが原因。

当時の純文学の書き手なんて、みんなこぞって恋愛賛美・純愛賛美だったじゃないっすか。

キリスト教価値観とともに持ち込まれたんだね。しかもこれは近代文学の走りでもあった。

浮雲」辺りの話だね。国木田独歩とか純愛超頑張ってたじゃないっすか。

日本人の「恋愛信仰」はドラマに始まったもんじゃないっすよ。

もう、「近代」の訪れとともに「物語」として輸入されて広まってましたよ。

それが許される社会状況になるとともに、恋愛化が進んだのは寧ろ必然

ドラマなんて陳腐なもんではなく、もっと昔に始まっとります。あの辺りからの変化に比べたら

現代(昭和以降)の変化なんて、無いも同然。

2008-11-21

なんだかアレっぽい人とmixiメッセージやりとりをしてみた

けど、いつまで経ってもまともな会話ができなかった。

こっちが「AってBだよね」と会話を振ると「Cはどうよ」と話題を反らされる。

夏目漱石こころって一部実話なんだよねぇ」「仮面の告白はどうよ」みたいな感じ。

いやお前、前の会話に反応しろよ。

オタク同士の会話なんだから相手が理解できるかどうかギリギリのラインの話題を振るのはお互いに礼儀だろうがゴルァ

わざわざmixiで「近代文学が好きです」と書いてるんだし、

「いいよね、近代文学」と書いてきたんだからそれなり以上の知識を期待されるのは当たり前だろ。

何考えてるんだろうこいつ…… と思って相手のmixiを見てると「彼女いない暦=年齢」の文字が。

今年に入って一番納得した。

この人、会話が出来ないんだ……。

(なお、文章中の例は適当です。)

2008-11-13

授業時間の問題じゃないと思う。

彼らには圧倒的に時間が足りなかったのではないか。

彼らには圧倒的に物量が足りなかったのではないか。

彼らには圧倒的に勉強が足りなかったのではないか。

ソフィシケイトされそこなった中学時代の叡智の遅れは、近代文学を叙述したたかが一冊の本を読んだ程度で贖われるものなのだろうか。

あたしエリート。 - Out of Order.

中高時代普通の人の倍の授業を受けていても、"sophisticate"を「ソフィシケイト」とカタカナ化するぐらいだからまあそこは致命的な問題ではなかろう。

と、からかいだけで終わらせてもいいのだが、単なる揚げ足取りと思われないために一応。

スペルや発音の覚え間違いぐらい誰でもしますよ。本当に重要なのはそこじゃない。そうじゃなくて、学校の授業の時間数が多いことが本当に重要か、ってことです。授業時間なんて人生の中の時間にしてみればたかが知れているわけで、逆に言うと授業中にしか勉強しない人はそれ以上大成しませんよ。普段の時間から勉強する(場合によっては勉強しているという意識すらなく)姿勢が身に付いているかどうか、そこが重要。そういう姿勢を身につけるためにはただひたすら授業時間を増やせというものではない気がするが。

経験上、詰め込み教育を受けたときはその場で習ったことの定着は大きかったが、それ以上に自主的に考えようとする姿勢は退化してしまっていたように思う。せいぜいそういう教育で得られるのはこういうスペルや発音を間違えないことぐらいでしかない。逆に言うと、ブログ主さんの頭の中身は学校の授業だけで得られたものなんかじゃない。

2008-11-11

http://anond.hatelabo.jp/20081108170922

なるほど。数日の議論を読んでみて、水村本の目次を確認してみると、否定派および肯定派がそれぞれの立場に別れた理由が少しわかっってきた。

目次・水村美苗日本語が亡びるとき』http://books.yahoo.co.jp/book_detail/32157995/

1章 アイオワの青い空の下で「自分たちの言葉」で書く人々

2章 パリでの話

3章 地球のあちこちで「外の言葉」で書いていた人々

4章 日本語という「国語」の誕生

5章 日本近代文学奇跡

6章 インターネット時代の英語と「国語

7章 英語教育日本語教育

なるほど。本で第4章以降を読んだ人からは、もう知ってるよという反応や具体的提案についての否定的コメントが出てくるのも頷ける。日本語とか英語とかあるいは語学教育とかについて何か語りたくなる人も現れるだろうし、反対に、多文化主義的な観点からのコメントも出てくるだろう。

わたしなどは、8月に読んだからでもあるが、むしろ第1章がとてもおもしく感じられた(そりゃあだって、理論的な解決がこの本にあると思って読む人なんているだろうか。水村さん作品に親しんでいる人はもちろんそんなこと思わないだろうし、煽った人たちの力点もそこにないだろう)。

おそらく、

柄谷周辺の論者の問題意識に沿って書いた議論の向かう先・解決策を期待してこの本を手に取るか、あるいは、「アイオワの青い空の下で「自分たちの言葉」で書く人々」と交流しながら問題の所在を発見するというその出発点に着目するか、これにより、この本の評価はかなり分かれるのではないか。

多分、梅田さんがこの本について語りたくなったのも、水村さんがアイオワで様々な国からやってきた文学者と触れあう内に、日本日本語についての問題に近づいていったというプロセスを、梅田さんの場合であればシリコンバレーでの経験になるかと思うが、この本を読みながら追体験し共感したからのではないか、とわたしは思った。

第1章のところだが、アイオワに各国の作家とともに招かれて出会った内の一人が、若いころロシア娘と恋に落ちたりもしたことがありその頃学んだロシア語を用いて盆栽に詳しいリトアニア青年と会話のできるモンゴルの老詩人で、何かの時に水村が老詩人に向かって“You are an important person”といったときに、英語が苦手なのでたどたどしいながらもゆっくりと静かに“Everbody is important”と答える場面やそのほかの場面は、外のものに触れることでいくつかのばらばらの点が繋がり問題が自分のものとして感じられるプロセスとして見ることができ、さすがにマドル・スルーというようなものではないが、問題を自分のものとして受け止める過程はそれなりに緊張し疲れるのだが充実した読書だった。

そういうことが問題となってるのはずっと昔から知っているよ、何この話、古くさい、というのは十分あり得る反応だろう。ただ、問題の所在を個々人がそれぞれ理解するというのはそれとは独立重要なことだろう。もちろん、この本とは別の入り口でも全然かまわないのだが。

そういう意味では、今回の騒ぎをきっかけに、こういう問題があるんだあ、と思った人にとっては水村さんの本は一つの入り口として悪いものではないと思う。

別の話。

http://d.hatena.ne.jp/Thsc/20081109/p2

話は少しそれるが、これを読んで、まず、「あたし彼女」読もうと思った。

もうひとつ思ったのは、

新潮9月号に載った前半部読んだ感想としちゃ、読めたもんじゃないよ。

何の説明もなく日本文学は一人で幼稚なものになっていっていたと断じている作家が、この『ひとり』をひらがなに開く言語センスすら持ち合わせない作家が、<叡智を求める人>は今の日本文学など読まないなどとぬかしているのだよ。

という記述について。この方の水村本の理解からはそのように読めるし、きっと正しいだろうと思う。

ただ、もうひとつの可能性もあるのではないかとわたしは考えた。(いま新潮および本が手元にないので原文を確認することができない。「一人で」あるいは「ひとりで」が本のどのような箇所でどれくらい用いられれているか確認しないままではあるが、Thscさんの指摘にインスピレーションを受けてわたしの理解を書いてみることにする。)

Thscさんの主張はおそらくこうだろう。

日本文学は一人で幼稚なものになっていっていた」

という文の「一人で」は、「おのずから(自ずから)」あるいは「ひとりで勝手に」というニュアンスで用いられていると理解できる。そうであれば、「ひとりで」とひらがなで表記するべきであろう、と。

しかし、もしかすると別の考え方もあるのではないか。

「一人で」と漢字で表記するという点に固有の意味を見ようとするならば、日本語が「ひとりで勝手に」幼稚なものとなっていった、という理解とは別の理解でこの文を読まなければならない。その理解とはこうだ。

水村の議論全体をふまえると、水村は「言語というものは孤立すると衰退する」と考えているのではないだろうか。言語は「一人」になると衰退する。

このようなニュアンスを込めて、ひらがなにせず、あえて漢字を用いて「一人で」と表記したと考えることはできないだろうか。ここではそのような理解の可能性を指摘してみよう(もちろんこれはまだ単なる思いつきの段階であり、実際には、本文で語が使用されている箇所を逐一チェックしていく必要がある)。

ただし、このように考えたとしても、それならば違った書き方をするはずだ、等の疑問は当然に出てくるだろうし、結局のところは、Thscさんの理解が穏当なところだろうとわたしも思う。

別の可能性を指摘しただけでは水村さんが確信犯で「一人で」を用いたことの立証にはならないし、ひらがなか漢字かの選択だけでこのような微細な部分をオミットするのは文章家として正しい態度ではないのだから、いずれにせよ批判されても仕方のないところだろう。

2008-06-27

ほんとに「蟹工船」って読まれてるの?

いろんな報道で売り上げが5倍だとか何だとか言われてるんだが、その割に話題にしている人間を全く見かけないのはどういうわけだ?

というか、ワーキングプアと呼ばれる連中にあの手の文学作品を読む時間精神的余裕があるとは思えんのだが。

Wikpediaの項目によると、読売新聞5/2付の記事がもっとも古いらしく、その3ヶ月前の朝日新聞には、売れているという記述は無いものの作者の小林多喜二を取り上げた記事存在している。

そして5月中旬から今に至るまで、他の新聞社メディアもこれに追随するように「蟹工船が売れている=ワーキングプア格差社会」の論調が見られるようになっているわけだが、その根幹になる「若者蟹工船流行中」という事象がちっとも体感できないので、どうも違和感を感じざるを得ないんだよな。

もし誰か知っているのなら、格差の底辺に居るような人達が、上記の5月以前に蟹工船を絶賛しているようなURIを教えて欲しいんだが…。

まあ、そういう人達ネットにすら繋げられないのかも知れんけど。

■■追加■■

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20080502bk02.htm

プロレタリア文学を代表する小林多喜二(1903??1933)の「蟹工船(かにこうせん)・党生活者」(新潮文庫)が、今年に入って“古典”としては異例の2万7000部を増刷、例年の5倍の勢いで売れている。過酷な労働現場を描く昭和初期の名作が、「ワーキングプア」が社会問題となる平成若者を中心に読まれている。

2万7千部ねえ…。それって平成若者の何パーセントなんだろ…。

■■さらに追加■■

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-03-16/2008031614_02_0.html

青年トークで「蟹工船エッセーコンテストで大賞を受賞した山口さなえさん(26)は、不当解雇され労働組合も助けてくれなかった経験から「私たち世代が絶望にならざるを得ない構造を、現代の蟹工船として書きたかった」と発言。長く派遣で働いた同準大賞の狗又(いぬまた)ユミカさん(34)は「『蟹工船』に共感するプレカリアート(不安定労働者)を代表して言いたい。『私たちをもっといい船に乗せろ』」と叫びました。

まあ、自分の事をプレカリアートなんて名付けてる時点で色々と染まってる人だとは思うが。

赤旗Webサイトで「蟹工船」で検索をかけると、今年初頭(1??2月)頃に色々とプッシュしている様子が伺える(それ以前となると2005年2002年と散発的に取り上げられているだけ)。こんな記事があった。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-02-27/2008022701_03_0.html

デビュー作「一九二八年三月十五日」などで「貧困を生み出す社会のしくみに目を向け、これを打破する闘争を主題にしたところに多喜二の最初の大きな飛躍があった」と不破さん。とくに「当時の非正規の臨時工を描いた『蟹工船』がいま若者に読まれ、たたかいの力になっていることに多喜二が喜ぶだろう」と話すと、「ホーッ」と感嘆の声ももれました。

少なくともこの時点で、不破の脳内では若者蟹工船を読んでいるという事になっていたらしい。赤旗以外のそっち系も調べてみるかな。

■■もっと追加■■

記事の発端は、5/2の読売の記事だと思われるわけで、

今年に入って“古典”としては異例の2万7000部を増刷、例年の5倍の勢いで売れている

これが本当に記事にするような事象なのかどうかを検証すべきなのかも知れんね。特に近代文学なんて元の販売スケールが大きくないんだから、ちょっとした事で数倍に跳ね上がったり数分の一に激減したりというのも珍しくないような気がするし。

2万7千部なんて、どこかの大手書店の営業がプッシュするとか、どこかの活動家講演会で取り上げたりする程度で軽く到達できそうな数字に見える。あるある大辞典納豆が売り場から瞬殺されるようなご時世だしな。

それに元の記事では「5倍のペースで売れている」としか書かれてないのに、いつの間にか購入者の大半が若者だという事になってしまっているのも気になる。購入者のプロファイルをどうやって知ったんだろ。中高年をメディアで煽ってちょっと騙くらかすだけでも数万部は軽くいけると思うんだが。赤旗日曜版だって100万部いってるんだし。

2008-04-13

http://anond.hatelabo.jp/20080413233342

あのさあ、ライターだったらリード文に気の利いた文章一つ書けないでどうするよ。狭い業界の技術専門誌だけに書いて生きていくつもり?一般科学雑誌とか、もっとそういう野心はないわけ?そういうとき、古典の素養は必要だよ。

古典が読めるってことはまったく評価にならんだろ。プログラマとしては。

人間プログラマだけじゃないんだけどね。それに、言ってること理解できてるのかなあ。プログラマにとってのLispや低レベル言語が、日本語を書く人にとっての古典にあたると言っているの。

そんなの情報系の基礎教養だ。微積分学や古典勉強するよりははるかに楽だし。

それはあなたの場合でしょ。文系の人なんかだったら、古典なんて寝てても理解できるけどLispなんて一生理解できないといわれると思うよ。あなたは、自分が理解できなかったものを過度に難しいと思い込んでるだけ。

ビジネス定型文書くのにはもちろん、企画書仕様書技術書を書くのにも、古典漢文の知識なんぞ必要ないだろ。

へー、あなたプレゼンしないんだ。顧客投資家向けに気の利いたフレーズ一つ思いつかないようでどうするの?

別に古典教育がどうなろうが観光ビジネスの改革にはならんだろうに。

観光が産業として大したことない、というからその点に反論したまで。俺はあなたの論点の不備を一つ一つ指摘してるだけで、自分が一貫した主張をしようとしているわけではない。

日本文学についてはそうかもな。でも、当の近代文学もろくに読んでない奴が、下敷きにだけ手出しても意味ないだろ。まずそっちが先じゃないかな。

じゃあ、ロックポップス聴いてない奴がクラシック聴いちゃだめなわけか?そんなの勝手だろ。古典の方が近代文学より好きな人間だって沢山いるよ。俺だってそうだが。

教育を強化するなら数学優先にすべきだな。あと英語の強化かな。古典なんか最後でいいよ。

あのね、そんな優先順位つけるまでもなく、全部できると言っているの。

古典数学よりジェネラルだとでも?

あのさあ、「ジェネラリスト」の意味わかってる?いろんな分野に視野横断的に目が効く人のことを「ジェネラリスト」っていうんだよ。数学だけ勉強してれば文学歴史も語れるっていうのかい?

足りてるわけねーだろ。仕事やりながら勉強してるような状態だよ。これが、高校でやってなきゃ偏微分とかと同レベルの理解度でしかなかったんだと思うとゾッとするね。基礎だけでも仕込まれててよかった。

自分が大学でサボってたことを自慢するなよ。普通はもっと勉強するんだよ。自分が勉強しなかったことを、「高校で教えてくれなかったせいだ!」なんて言ってたら、これだからゆとりはって言われるだけだよ。

数学系でも電子工学系でもねーもん。適当試験前の一夜漬けで切り抜けてた。終わったら速攻忘れた。あと量子力学なんか何に使うんだよプログラマが。

使わないことは一切勉強しない人なんだ。ふーん。隣接分野から発想って出てくるもんだけどね。忠告しとくけど、俺が挙げたのは工学部のどこでも学びそうな分野だし、それから量子力学知ってると信号処理がわかりやすくなるんだけどね。まあいいや。

俺が思ってるものと比べてるんじゃない。「古典と」比べてんだよ。ちゃんと答えろ。

なんでそんなエラそうなんだ?だから、比べられないって言ってるだろう、何度も。少なくとも答えが自明に出る問題ではないし、客観的に妥当性のある調査ができるとも思えないと言っているの。

日本が観光立国になるのと工業立国になるのとどっちがいいかという比較だろ。

そんなのは個々人の価値観だろ。日本工業立国であるべきなんて考えを無理強いする権利は君にはないよ。

http://anond.hatelabo.jp/20080413160350

例えば、JavaとかRubyとかVBとかPHPとか、そういう種類の言語一種類しか使えないプログラマがいたらどう思う?あまり難しい仕事任せられないって思わない?

古典が読めるってことはまったく評価にならんだろ。プログラマとしては。

無論、最低限の英語力は必須だし、英語力は高ければ高いほどいいが。

韓国語中国語ビジネスチャンスに繋がるかもね。

最低限、Cとかアセンブラとかできるだけ低レベルに近い言語はある程度使えてほしいし、できればLispみたいな関数型言語とかOSコンパイラ理論とか、そういうのを知識としてだけでもいいから知っておいてほしいと思うよね?

そんなの情報系の基礎教養だ。微積分学や古典勉強するよりははるかに楽だし。

だったらどうして、古文や漢文勉強が自分には意味ないって思うかなあ?日本語で文章を書くのは、仕事上の重要スキルでしょ。まずその前提がよくわからない。

ビジネス定型文書くのにはもちろん、企画書仕様書技術書を書くのにも、古典漢文の知識なんぞ必要ないだろ。

あと、日本の観光ビジネスはまだ産業として未熟だよ。

別に古典教育がどうなろうが観光ビジネスの改革にはならんだろうに。

ただね、現代文学古典文学を下敷きにしてたりするから両方読めると楽しいことは知っておいた方がいいだろうね。

日本文学についてはそうかもな。でも、当の近代文学もろくに読んでない奴が、下敷きにだけ手出しても意味ないだろ。まずそっちが先じゃないかな。

それとさー、どうしてあれを教えたらこれを教えるのやめろって話になるわけ?両方教えたらいいだけじゃないの。ただでさえゆとり教育なんだからさ。

教育を強化するなら数学優先にすべきだな。あと英語の強化かな。古典なんか最後でいいよ。

それは単なる君の不勉強でしょ。高校までで役に立つこと勉強したいんだったら高専とか工業高校に行くべきなんだし。普通高校ってのはジェネラリストを育成するところなんだからね。

古典数学よりジェネラルだとでも?

それに、君はたまたま高校で習った行列計算だけで用が足りてるのかもしれないけど、行列の計算だけできても普通は何の役にも立たない。

足りてるわけねーだろ。仕事やりながら勉強してるような状態だよ。これが、高校でやってなきゃ偏微分とかと同レベルの理解度でしかなかったんだと思うとゾッとするね。基礎だけでも仕込まれててよかった。

というか、固有値ベクトル空間を理解せずにどうやって大学卒業できたんだ?力学も振動論も微分方程式統計学信号処理量子力学も、何一つ理解できないでしょ、それじゃ。

数学系でも電子工学系でもねーもん。適当試験前の一夜漬けで切り抜けてた。終わったら速攻忘れた。あと量子力学なんか何に使うんだよプログラマが。

信号処理は真面目にやっときゃよかったなとちょっと思うね。今んとこクリティカルにそういうもんが必要になる仕事はやってないが。

ていうか俺プログラマじゃなくてライターね。

ただし、君が思ってるほど高校行列計算は一般には役に立たないし

俺が思ってるものと比べてるんじゃない。「古典と」比べてんだよ。ちゃんと答えろ。

とんでもないよ。オーストリア日本の一人当たりGDPを調べてごらんよ。

日本が観光立国になるのと工業立国になるのとどっちがいいかという比較だろ。話を摩り替えるなw

2008-01-31

ぜんぜんオンタイムじゃないケータイ小説のはなし

リアル物語」に、本来担保はいらないんだよ。

人が人として獲得してきた物語歴史において、圧倒的に「事実を元にした」の方が多い。逆に言えば「フィクション」なんてのは近代的作者が発生して以降のごく最近発明で。物語=作者の内面の発露、ではなく、物語=おもしろくて役に立つ現実、なわけ。

現代:作者>内面>物語フィクション

以前:話者=現実物語リアル

ってゆー。あれだな。私見だけどこいつ性善説。「このおもしろい話をしている人が、誰の得にもならない嘘をついているはずはない」っつー。

たとえば? そうねぇ。世界でもっともヒットした物語である聖書のことを考えてみればすぐわかる。

聖書リアルじゃない」って認識がひろまったのはつい最近だろ? まして「聖書が本当だったか検証しよう」「聖書の本当の作者は誰だ?」なんてのも。

で、そーゆー古い意味での物語は、近代以降地下に押し込められたとは言え、常に揺り返しを試みてきているわけ。巷間の昔話、民話。あるいは民俗学で言う「世間話」。ちょっと前だと『本当にあった怖い話』『学校の怪談』ブームとかな。

で、現在。なんか「リゾームと自我の分散」とか言いたくなってくるんだけど、なんだっけ、美嘉だっけ、彼女って「作家」じゃないでしょ。いろんな意味で。近代的作家ってゆーのは確固たる自我思想と内面と教養があって、「物語」はその従属物ってのがふつーでしょ。最初の方に書いた図の不等号はそういうことなんだけど。たとえバカにされがちなラノベ作家だって、そう意味じゃ立派な「作家」だ。川上未映子川上未映子でないと『卵と乳』書けないけど、美嘉ってのは誰でも良いでしょ。

つまり彼女は「友達の友達」なわけだ。

そして「恋空」は「昔話」。

それを近代文学の文脈で把握/批判使用とするのは無為なんじゃねぇのかなぁ。と。

で、これと同じ話は報道に対する姿勢とも通底する。

あるいはWeb上のあらゆる情報に対する「釣り?」という反応とも。

両方とも性善説というか、人間の「フィクション許容量」に関する話なんだけどね。

まぁそんな話を途中まで書いたんだけど、あまりの陳腐さに吐き気がして止めて2週間。

スティッキーズに残ってたんだけど、次に書きたいことが出てきたから邪魔だしもういいやっ、で公開してみる。

2007-11-28

http://anond.hatelabo.jp/20071128224920

今の不安定で不安でしょうがない世界

そうだ、それだ!

不安な世の中だからこそ、それが同じような世代の作者または主人公によって意味づけられていく(物語化される)ことに惹かれるんだ!希望が持てるんだ!

近代文学は自己の発見と混迷の世から生み出された。

ケータイ小説生産・消費も、内容はアレだけど、若者の生きようとするエネルギーとして認識されるべきなんだよ!

2007-07-03

北國新聞 2007年7月2日号より転載

北風抄 - ”文学賞批判”を批判する

 『文学賞メッタ斬り! 受賞作はありません編』(大森望豊崎由美著、パルコ出版)は、書名どおり芥川賞直木賞や主要文学賞選考のあり方を”メッタ斬り”する対談であり、ことに、選考委員のお歴々が実はまったく小説を読めていない、批評能力に乏しい─と軽い調子で鼻で笑って斬るところがミソであるようだ。

 そのあたりはまあ読み流すとしても、白山市制定の島清恋愛文学賞にまで鉾先が向けられるとなると、ちょっと黙過しにくくなる。

 「島田清次郎は二十歳のときに書いた『地上』という小説ベストセラーになったばかりに人生を誤ったんですね」との認識も粗雑に過ぎるが、「最後は早発性痴呆現在統合失調症)と診断されて精神病院に収容され、肺結核にかかって三十一歳で死んじゃった。こういう人を記念して恋愛文学賞を創設した白山市はたいへんな勇気があるなと思いました」との発言には大いにひっかかるものがある。

 この「たいへんな勇気」が肯定的な意味で使われているのではないことはもちろんだ。この筆法でゆけば、三島由紀夫賞も、”市ヶ谷自衛隊駐屯地突入日本刀で総監に斬りつけ、割腹して果てた人物を記念して文学賞を創設した”出版社はもっと「たいへんな勇気」があったことになる。

 『メッタ斬り』の対談者は石川県人が島田に寄せる微妙な心情に全く気付いていない。「島田清次郎の悲劇は何がしか石川県人の心を揺さぶるものを秘めている」(水洞幸夫氏)のであり、夢や理想や栄光を求めて東京へ出たものの、空しく挫折した無数の石川県人と島田が重なり、郷関に残った者ともどもシンパシーを呼び起こされるのかもしれない。私などは、この賞の創設を、痛ましい限りの生を余儀なくされた島田の鎮魂として意義深い、と勝手に解釈している。

 『メッタ斬り』の島清恋愛文学賞への批判はそれだけではない。批判の大半は、選考委員のひとりへのかなり激しい誹謗で占められている。名前を秘すのはかえって失礼だから挙げておくが渡辺淳一氏のこと。近代文学の名作をも”メッタ斬り”にした『百年の誤読』でも、豊崎氏は渡辺氏のベストセラー失楽園』をこっぴどくやっつけた。『メッタ斬り』では、同じくベストセラーになった『愛の流刑地』に罵詈讒謗の集中砲火を浴びせている。

 豊崎氏らが『愛の流刑地』を読めないのは勝手だが、だからといって渡辺氏の選考委員としての資質まであげつらうのは行き過ぎも甚だしいと言うべきではないか。失礼千万ではないか。私個人としては、第九回の岩井志麻子氏(『自由戀愛』)、第十回の谷村志穂氏(『海猫』)の受賞など、わが意を得たりとひそかに喜んでいただけに、見当違いの選考委員攻撃には不快を禁じえない。

 『メッタ斬り』が巻末で小説群を百点満点で点数評価しているのも賛成できない。文学作品はこんな評価方法にはなじまないはずだ。文学批評なるものは、褒めようと貶そうと、読者にひとつ読んでみようと思わせるのが”芸”であり、点数評価では”芸”も何もあったものではない。『メッタ斬り』が全編真摯な態度に欠け、先に述べたように当世流行の軽い”ノリ”で批評して見せるのも不快。蟷螂の斧に過ぎない地方からの発言だが、とにかく書いておきたい。

────青山克彌(泉鏡花記念館館長)

 
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