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2017-10-26

日本の原爆開発

アインシュタインが「アメリカ原爆を開発しないと、ナチスが先に原爆を完成させてしまう」とアメリカ大統領に進言して、原爆開発が始められた。

アメリカ亡命したユダヤ人科学者をかき集めて、アメリカ原爆開発に一番乗りできた。

アメリカ原爆開発

マンハッタン計画 - Wikipedia

マンハッタン計画(Manhattan Project)は、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツなどの一部枢軸国原子爆弾開発に焦ったアメリカイギリスカナダ原子爆弾開発・製造のために、科学者技術者を総動員した計画である

計画成功し、原子爆弾製造され、1945年7月16日世界で初めて原爆実験実施した。

さらに、広島に同年8月6日長崎8月9日に投下、合計数十万人が犠牲になり、また戦争後の冷戦構造を生み出すきっかけともなった。

日本原爆開発

日本原爆を開発していたけど、アメリカよりも遅かった。

 

日本原子爆弾開発 - Wikipedia

第二次世界大戦太平洋戦争)中、軍部には二つの原子爆弾開発計画存在していた。

大日本帝国陸軍の「ニ号研究」(仁科頭文字より)と大日本帝国海軍のF研究核分裂意味するFissionの頭文字より)である

日本原爆開発と比べて、アメリカ原爆開発は予算人員数が500倍ぐらい多かった。

日本アメリカよりも先に原爆を作れていたら、日本アメリカに勝ったが、現実は厳しい

 

ドイツ原子爆弾開発 - Wikipedia

アドルフ・ヒトラー総統を始め、ナチス・ドイツ指導者からは、研究ほとんど理解されず、教育科学から資金の援助もなかった。

ドイツ日本と同様、指導者科学音痴だったので、原爆開発に力を入れていなかった。

ドイツが本気を出していたら、当然アメリカよりも先に原爆を作れていた。)

 

ユダヤ人と比べると、ドイツ人日本人の頭が悪かったので、原爆を先に作ることができなかった。

ドイツ日本連合国に負けたのは当然の帰結と言えるだろう。

松谷誠の早期講和

日本軍部には、日本敗戦を察知して、被害を最小限に食い止めるべく奮闘した日本人もいた。

 

主戦か講和か: 帝国陸軍秘密終戦工作 (新潮選書) | 山本 智之 https://www.amazon.co.jp/dp/4106037319/

 

松谷誠 - Wikipedia

松谷 誠(まつたに せい、1903年明治36年1月13日 - 1998年平成10年10月7日)は、大日本帝国陸軍軍人陸上自衛官。最終階級は、陸軍大佐陸将

終戦工作

主戦派が主流の陸軍の中で、1943年3月陸軍参謀本部戦争指導課長となり、早期講和模索鈴木貫太郎首相秘書官であった1945年4月、「終戦処理案」をまとめ、ソ連の和平仲介による早期講和を主張した。

戦後構想

松谷は、戦中から戦後初期において自らの業務のために、官僚学者などの部外専門家を集めてブレーングループ(松谷グループ)を組織して、情勢判断対策案の作成を行っていた。1946年1月に松谷グループは、「戦後処理における調査研究」(中央/終戦処理/二四一)として、「建国綱領(案)」という文書作成していた。

昭和18年頃に講和していれば、日本満州国中国領土)を失うだけで損切りができていた。

完全敗北まで突き進んだ天皇および軍部は、判断を誤ったと言わざるを得ない。

歴史にifはないので仕方ないが、周りにイエスマンしかいないリーダーは、偏った情報しか得られないので、適切な判断材料が失われてしまう好例と言えよう。

 

日本人科学者ユダヤ人科学者よりも先に原爆を開発できなかった以上、松谷誠のような早期講和損切り)も必要だったのではないだろうか?

2017-09-29

第二次世界大戦1939年9月1日 - 1945年9月2日)

マジか 何度見直してもまだ100年経ってないのか

平和って短いんやね、一度も戦争体験せずに死んだら幸運

2017-09-25

月蝕歌劇団の公演を見に行った記録

なんかひょんなことから月蝕歌劇団の公演を観てきた。

怪人二十面相 黒蜥蜴復活篇-ガス人間第二号とフランケンシュタイン-』

ピーターパン 月蝕版』

自分にとっては初めての月蝕歌劇団

忘れてしまわないうちに記憶を記録に変えるため、レビューを残しておくことにする。

月蝕歌劇団を知らない人は目の前の箱でググってほしい)

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■全体として

劇団標榜しているところの“アングラ”とは何か、つかんだ。

マジックリアリズム大衆演劇の合体だ。

これ、過去の演目を見る限り、そう間違ってはいないはず。

自分のボキャブラリでいうと、ボルヘス池澤夏樹イタロ・カルヴィーノ筒井康隆、このあたり(マルケス積ん読状態なので知らん)。

怪人二十面相』やら『ピーターパン』やら、もとからマジカルな舞台設定の既存作品をさらに2つも3つもカットアップマッシュアップして、"魔法世界の中で、さらに有りえねぇ超現実が起きる"ある意味なんでもありの“ごった煮”的な世界設定を作って、舞台の制約が許すかぎり絢爛豪華なスペクタクルに仕立てる。

で、そこに昭和風俗をまぜ込んで(たとえば突然、山口百恵のワンフレーズが出てきたり、吉本新喜劇的なシークエンスが乱入してきたり)、さらに'60年代新宿のアングラシーンの楽屋オチ、「唐十郎李麗仙が~」みたいなネタをチクリ、チクリと混ぜ込めば月蝕歌劇団になる。

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あと、これはどうかな……はずれてるかもしれないけど。

60年安保、70年安保的な新左翼臭いと、その文化の“祭りの終わり”みたいな寂寥感が通底しているような気がする。

自分が当時のアングラシーンの空気と政治的な空気を混同しているだけかもしれないけど。

でも、“岸信介”とか、“ロシア革命”とか、そういうワードはちらほら出てくる。

2演目とも、終盤クライマックスマシンガンの乱射をきっかけに急速に話が収束するところも、かならず流血をみるところも、まあ、ほら、いろいろと。

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ともかく自分にとっての月蝕歌劇団はそんな感じ。

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あと、演目の間に『詩劇ライブ』というのがあって、基本は歌唱ショー。短い芝居と群舞。

キャストの紹介も兼ねている、のかな?

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良かったかって? うん、良かった。

ただね。

大正末期(1910年代)の冒険小説明智小五郎シリーズが戦後(1945年~)に伝奇ロマン化したものアングラ時代(1960年代)の空気感舞台化しようとして、当時の若手(高取英1985年)が古豪となって2017年に上演した作品世界に、どの時代の気分で接すればいいのか、混乱するところはあった。

寺山修司とかが登場する楽屋オチに、どの時代の気分で笑えばいいのやら。

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良かったところは……、

舞台は超現実的なんだけどプロット自体は、なんというか、それぞれの人物群が自分たちの課題の解決を目指して動くような、破綻も不条理も無いオーソドックスな作り。

ときどき舞台袖で狐舞が始まったりとか、解釈に困るような隠喩的な演出が入るほかには、ストーリーを楽しむのに支障はない。

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くわえて、これは自分が舞台観劇初心者だからだろうけど、衣装舞台と演技と、つまり色々と作りこんだ箱庭を見ているような感覚

これが新鮮。

そりゃ、どんな超現実もCGでリアルに作ってしまハリウッド映画はすごいけど、いっぽうで、いろいろと“作りもの感”のある世界を、19世紀見世物小屋パノラマのぞき窓みたいに見ている感覚が良い。

(どうしても想像できない人は、映画でいうと

 『バロン』(テリー・ギリアム)、

 『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』(ティム・バートン)、

 『落下の王国』(ターセム・シン

 あたりを思い浮かべてください)

同じビジュアルスペクタクルでも、モデリングレンダリングが古びてしまったら一気に観る価値がなくなってしまうVFXではなくて、どんなに古びても観ていたくなる、吊り操演とミニチュアと火薬の特撮みたいな。

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で、そこに少女歌劇団(厳密には若手女性主体の歌劇団)の、なんというか、キャッキャウフフ感がのっかってくる。

実際、終演後にはチェキ時間があったりと、アイドル公演的な。

(昨年だか一昨年だかに『アリスインデッドリースクール』を観たときにはチェキ握手会があったけど、そういうのって少女演劇のスタンダードなのか?)

というわけで、全体として

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 1)呪術的なストーリーテリング

 2)箱庭的な幻想感

 3)若い娘さんたちが頑張ってる感

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が、それぞれX軸、Y軸、Z軸に広がって立体的にホンワカした気分になってくる。

これで役満。いい気分。

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以下は、キャスト演出について。

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■岬花音

歌、ダンス、芝居、3枚そろって超人。

もともと彼女アンテナに引っかかったか舞台を観に行ったわけで。

行く前は「ひょっとしたら芝居が弱いかなー」と思ってたけど、そんなことはなかった。

純朴ショタ(少年探偵団の小林少年)からガラッパチ女子高生まで演じ分けていた。

いま確認したら、全体の振り付けもやってる。スゲェよこの人。

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白永歩美

上に書いた岬花音菜嬢がトップか一枚看板かと思ったら、すごい人がいた。

白永歩美

OG客演なのか、現役トップなのか、よくわからん。(そもそも一般的な意味でのトップと、月蝕歌劇団の“ヒロイン”とか“トップ”の意味が違うのかもわからんが)

動いて良し、喋って良し、歌って良し。加えて舞台向きの強力な眼と唇、長い手足その他ビジュアル

ピーターパンになって最後は飛ぶ(榊原郁恵ばりとは行かないけど)。

普段は何やってる人だ? 専属か?

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白川沙夜

コメディアクションストーリーテリング、怪盗紅あざみのパートほとんど彼女一人で回していた。

アンサンブル彼女が周囲をブン回している感じ。(いや、周りが抑制しているのか? そこまでの鑑賞眼は俺にはない)

イヤそりゃ紅あさみ役なんだから当然といえば当然なんだけど、そういう長時間の高負荷に耐えられるキャストなんだから、信頼性の高い人なんだろう。

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新大久保

どうしても必要なサポートには男優さんも入る。

で、この人。

発声から演技まで、一人レベルが違った。

いや、レベルというのとは違うな。

キャラクターの性格と感情と現在の意図がわかりやすい、演劇らしい演劇をしていた。

キャリアの違いか。

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■河合瑞恵

この人というか、この人を見て思ったことを書く。

河合瑞恵さん、男役として帝国軍人とラスプーチンを好演。なんだけど、それとは別に幕間のライブで『夢は夜ひらく』(藤圭子)を歌っていて、これが実に良かった。

宝塚OG的な妖艶な雰囲気が出ていて。

そこで気が付いた。

「この劇団、成熟した大人の女性の出番がない」

いや、大人の女性キャラクターは出てくるのよ。でも、『二十面相』の誘拐少女の母親にしても、『ピーターパン』のアレクサンドラ皇后にしても、設定上の年齢よりは10歳か20歳は若いキャストが演じてる。黒蜥蜴も紅アザミも、おそらく。

少女ショタと男役とサポート男優だけで構成されていて、大人の女性存在がすっぽり抜け落ちてる、この劇団

いつもそうなのか? そういうコンセプトなんだろうな。暗黒タカラヅカだし。

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■嘴音杏

タイガーリリー役はさておき。詩劇ライブ歌唱

上手い、凄い、空気も変わる。専業で本業なんだから当然か。

声量といいキャラクターといい、どれをとってもレベルが違う。

ただ、ほかのキャストが黒を基調にした演出で、おそらく劇団ストック音源をバックにJ・A・シーザーの幻想世界や女心とかを切々と歌ってるところに、パーソナルカラーの赤コルセットと赤ドレスで生バンドの高音質2MIXをバックにブルースゴリゴリ歌って月蝕歌劇団を3分間だけ痴人倶楽部にしてしまった感じがする。

良いか悪いかは別として。

芝居は。んー、良しあしが言えるようなキャラクターじゃなかった。

政治的に正しくない、だけど、ある意味では由緒正しい戯画化された“インディアン”だったので。

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■江花実里(と高畑亜美

明智小五郎+α役。オフの顔を見たら、アラかわいいお嬢さんベテラン主体の劇団だったら、小林少年をやっててもおかしくない。

客演らしい。

「美丈夫ですか? やりますよー」といってこなせる彼女みたいな人が、実は隠れた高能力者なのかもしれない。

だってあれよ? 明智小五郎と黒蜥蜴といったら、つまり天地茂と丸山明宏よ? そういうダークで苦みのあるキャラを演じて象徴的にせよベッドシーンまでこなす。役者ってすごい。

そういえば高畑亜美さん。一緒に観劇した元同僚が「あの黒ボンデージの人は役者魂を感じる」と言っていた。

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■北條華生

緊縛師をエキストラで連れてきたのかと思ったら、そのままシレっと芝居を初めて、V・フランケンシュタイン博士を演じきってしまった。しかもうまい

調べたら緊縛師ではなくて緊縛もこなす役者さんだった。みんな多芸なのね。

吊るしのとき、役者の影で見えなかったけど、1/2なり1/3なりのプルアップ・システム(滑車みたいに距離2倍、荷重1/2にするロープワーク)をやってるはずで、一瞬、芝居が停滞したように見えたけど、あれでも相当手際が良かったんだなと後から思った。

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はるのうらこ

北條さんのロープワークもさることながら、吊るしというのは吊るされる方にも技量がいるわけで、ハーネスガッチリつかんだまま気絶するという難しいことをやっていた。

男役。

悩める青年将校をきっちり演じきっていたけれど、華奢なのはいかんともしがたい。女性役であらためて見てみたいと思った。

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中村ナツ子

な!に!も!の!だ!? こ!の!ひ!と!

Web/エディトリアルデザイナーライターイラストレーター、Photoshopper。

チャラっと調べてみたけれど、原稿(というか体当たりルポ)もロゴデザインも依頼主のテイストに合わせて手堅くこなす。

役者で声優。前説もこなす。となりの知乃さんにも目配りしながら観客席と当意即妙のやり取り。

舞台にも立つ。しかも端役じゃなくてしっかりスポットのあたる役どころ。

これでJavescriptとSQLが書けたらホンマモンの超人や。

こういう人が一番まぶしい、そして怖い。

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プロップ舞台

足りぬ足りぬは工夫が足りぬ。いやそうなんだけど、せめて南部十四年式拳銃は用意してほしかった。ポスターにもあるんだし。

ネバーランドの崩落シーン。大道具の意地と苦労がしのばれる。というか、そのための柱だったのね。

周囲の柱といい、中央の小部屋といい、随所に設けられたピットといい、演目に合わせて必要十分な空間の設計がなされていることに、いまさら感心する。

意地と苦労といえば、ピーターパンの飛行シーンも、無くても成立するだけに、「これをいれねば!」とウィンチを仕込んだ意地と心意気がうかがえるよなぁ。

ところで、いま調べたら、中央の小部屋は常設みたい。

なるほど、上手と下手のほかに中手があると、バーン! と登場するシーンとかに便利だよね。

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J・A・シーザー(と音響

絶対運命黙示録』『私の中の古生代』(←だったっけ?)しか知らなかったんだけど、「ほかにどんな曲があるんだろ」と思ってたところ、つまりはこれこそがシーザー節だった。

主旋律の音域を広く取ってロングトーン多用おまけに変拍子の幻惑的なスタイル

これがそのまま歌手泣かせの難易度となって跳ね返ってくるわけで。ノリで合わせていたら絶対にロストする、ブレスで死ぬ、超絶覚えゲーみたいな世界

こりゃ役者さんが大変だろうと思った。

あと音でいえば、既成の歌謡曲のダビングものJ・A・シーザー氏の打ち込み音源、ボーカル無しで舞台で歌うものボーカルありの既成曲で舞台でも歌うものマイクあり、マイク無し、古いローファイ音源と新しいハイファイ音源、とバラバラのチグハグだったのが気になった。

歴史の長い劇団だから地層のように多種多様な音源が混ざってるんだろうと想像するけど、どこかで専門家がDAWで新録して整理しないと、大変なことになると思う。

あとマシンガン銃声のポン出し、キャストトリガーを渡せるような仕組みはないものか?

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……んー、こんなところか。

機会があったら、一度は観てみても良いと思います。そこでハマるかハマらないかは、あなた次第。

自分? チャンスがあったら、もう何回か行こうと思ってる。

2017-06-20

日本戦争に勝った

とあるアメリカ西海岸のビーチでは1945年日本敗戦が伝えられると喜びを爆発させ、

一斉に海に駆けだしていったそうだ。

その頃、日本ではイモの取り合いをすることはあっても水着を着て泳ぎに行くなんてことはなかったそうだから

文明格差というのは恐ろしいものであると感ぜずにはいられない。

その72年後、日本人妄言を言い出した。安部首相というマヌケな62歳は「日本戦争に勝った」という。ボケてきたのだろう。チーン

2017-05-26

[] 日本には大統領制度が必要です。

[Politics] Japan needs a president system.

 

1941年日本アメリカ攻撃を仕掛けた。

1945年アメリカ日本原子爆弾を投下した。

日本第二次世界大戦で負けた。

GHQ日本征服した。

アメリカ軍は依然として日本駐留している。

実質的に、今日本はアメリカ植民地です。

1972年沖縄県帰国しました。

沖縄県米国の州になるほうが良かったでしょう。

沖縄米国の州になった場合沖縄の人々はアメリカ人と同じ権利を得ました。

から沖縄県は失敗した。

日本も失敗した。

日本米国の州になれば、日本人アメリカ人と同じ権利を得ることができる。

アメリカ兵士日本女性強姦したとしても、日本人は彼らを逮捕することができます

米国のように日本大統領制を作りましょう。

日本人にとって有益です。

 

In 1941, Japan attacked to the USA.

In 1945, USA dropped atomic bombers to Japan.

Japan lost the World War II.

GHQ conquered Japan.

The USA army is still stationed in Japan.

Now, Japan is the colony of USA practically.

In 1972, Okinawa Prefecture returned to Japan.

It would have been better for Okinawa Prefecture to become the state of the United States.

If Okinawa became the state of the United States, people in Okinawa got the same rights as Americans.

So, Okinawa Prefecture failed.

Japan also failed.

If Japan becomes the state of the United States, the Japanese can get the same rights as Americans.

Even if the American soldiers rape Japanese women, the Japanese can arrest them.

Let's make the president system in Japan like the United States.

It will benefit for the Japanese.

2017-05-14

急激な左転回 アメリカ対日協議会 OSS フラクフルト学派も参加 のちのCIA ジョセフグルーらによって蹂躙されることになる 歪み

(1942年6月13日 - 1945年9月20日

[] 労研饅頭

労研饅頭(ろうけんまんとう)は、愛媛県松山市内にある「労研饅頭たけうち」が製造販売している小麦粉を主原料とした蒸し菓子

一種和菓子饅頭まんじゅう)ではなく、蒸しパンまたは中華料理の甜饅頭ティエンマントウ、tián mántou)に似る。

  

直径10cm前後、重さ60g前後の、小ぶりで甘みのある蒸しパン状の菓子である

小麦粉をこねた生地酵母発酵させ、蒸し上げたものである。形状は種類によって円盤のものと、楕円形のものがある。

生地によもぎやココアなどを練り込んだものや、豆類や乳製品を入れたもの、中に小豆餡を入れたものもあり、種類も豊富である

太平洋戦争から続く製法で作られており、素朴な味わいで、地元一部の人に根強い人気がある。

  

昭和初期、松山市は深刻な不況に襲われ、夜学生が学資を確保することが困難であった。それを見かねた私立松山夜学

現在私立松山城南高等学校)奨学会は、夜学生の学資を供給する事業がないか模索していた。

その頃、岡山県倉敷市にあった労働科学研究所満州現在中国東北部)の労働者主食であった「饅頭」(マントウ)を

日本人向けに甘くアレンジし、これを岡山県京阪神業者販売していることを聞きつけた。

小麦粉で作る饅頭安価製造できるため、これを松山製造販売し、学資を確保するとともに夜学生の主食にもしてもらうことを

企画したのである

こうして1931年松山で「労研饅頭」の名で販売が開始された。「労研」とは労働科学研究所の略。また、饅頭を「まんとう」と

読むのは中国東北部主食マントウ」が起源からである。なお、当時は4個で5銭、松山市内の学校や軍内で販売され、夜学生の

学資確保に貢献したという。

  

なお、労研はこれを、当時の女工の厳しい労働環境配慮し、手を汚さず、素早くエネルギー補給できる食品として開発した。

労研は、当時、クラボウ社長であった大原孫三郎が、労働者環境改善のために設立した研究機関だった。

  

その後、労研饅頭個人営業竹内商店現在販売店「たけうち」の前身)が製造販売するようになったが、戦火の拡大により、

1943年には小麦粉も入手難となり、販売休止に追い込まれた。しかし、受け継いだ酵母は守り通され、1945年終戦後には早くも

販売が再開されている。一方、岡山京阪神では戦火によって労研饅頭酵母が途絶えてしまい、京阪神では労研饅頭のもの

復活することなく、消えてしまった。こうして、戦後唯一残った「たけうち」が1952年に「労研饅頭」の登録商標を取得した。

高度成長期には洋菓子などに押されたが、保存料などを使わない自然食であることが見直され、松山名物菓子として定着している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%B4%E7%A0%94%E9%A5%85%E9%A0%AD

2017-04-28

私は「一般人

こうした発言をする人は、自分が正常な「一般人」だという確信を持っていて、うたがうことがない。

個人的怨恨はいささかもなく、そのことをぜひとも念頭においてほしいのだが、こうした発言は、残念ながら「私は無教養バカです」と大声で叫んでいることに等しい。

なにかを知ること、ほんとうに正しいことを知って、尋常な「一般人」にもしなれるのだとしたら、それは、自分知識限定的であることを認めること、自分判断がほんとうは正しくはないのではないか、とうたがいをもつことからしかはじまらいからだ。


戦時中戦争疑義を呈したり、思想犯として検挙された人を「非国民!」とののしった「一般人」は、自分がまっとうな「国民であることを疑わなかっただろう。

だが、1945年8月15日になって、そのような「国民」にはなんの正当性もない、あるいはそんな「国民」はそもそも存在していなかったことを知って、ポカーンと虚脱状態になってしまった。

発作的に泣き出したり、自殺した人もいた。


当時の人々を見て、なんてバカ国民だろうと思うかもしれない。

だが、『自称一般人」』を「非一般人」あつかいする「一般人」は、戦時中「バカ」な「国民」と何も変わらない。

気づけば自分が信じ込まされていた社会認識を疑う、自分のもの見方を疑うという能力をまったく欠いている点で、何も変わらないのだ。


頭がおかしい人の特徴のひとつは、自分の頭がおかしいことがわからないことだ。

統合失調症にかかっている人が「集団ストーキング」の被害を訴えているのを見ると、哀れに思う。

だが当の本人にとっては、それは普段見ている世界への疑いの末に、見出された「世界真実であることに変わりない。

ネットで見た真実」を信じて、陰謀論者になってしまった人を見ると、哀れに思う。

だが当の本人にとっては、それはやはり「世界真実であることに変わりない。

一般人である自分の見ている世界が、こうした哀れな人々の世界と違うことを、論理的説明できるだろうか。


ふとした瞬間、特定人間意図によって、自分が「非一般人」を憎み、攻撃するように仕向けられていたことに気づくとする。

その時の自分は、まだ「一般人なのだろうか。

一般人」と「非一般人」を区別し、自分が「一般人であることを疑わない人は、人を迫害し、殺す。

そして、自分が人を殺したことをけっして認めることがない。

危険なのはいったい誰だろうか。

http://anond.hatelabo.jp/20170428225941

http://anond.hatelabo.jp/20170428130025

東京中心日本を学ぶためには明治政府の成り立ちも知る必要があり、

そのためには・・・って感じでどこまでも続くんだけど何言ってんの?

 

日本史世界史に加えて1945年を境目にした現代史って科目の設立なら同意

2017-04-16

当時白豪主義を採っていたオーストラリアは、有色人種への迫害政策を行っていた。反日主義者として知られていたウェブは、終戦後の1945年9月オーストラリア政府の依頼を受け、1942年日本軍ニューブリテン島ラバウルへの攻撃に際して、オーストラリアではテレビ放送映像を流したとのことであるが、沈められた日本の船から脱出した日本人捕虜)ら数百人を航空機から執拗な機銃掃射によって虐殺した上で、150名以上のオーストラリア人及び先住民殺害したとされる報告書を現地調査を行った上で発表した。

天皇の訴追を主張していたオーストラリア政府は彼を代表判事に選ぶことにより、天皇法廷で裁くという意思を表明したものと考えられる(法律上観点から見ると、本来事件告発に関与した者はその事件裁判官になることはできない)。

そのようなウェブ意向法廷における訴訟指揮でも表れた。裁判の開会の辞においては「被告達は嘗て、如何に重要地位にあったにしても、それが為に受ける待遇は、最も貧しい日本兵、或いは一朝鮮人番兵よりも良い待遇を受ける理由は見当たらない」と日本戦争指導者に対する敵意を露にした。

裁判検察側に有利になるように進められたケースが多々あり、検察側に不利な発言意見が弁護側から出されると、裁判長訴訟指揮権行使して遮ったり却下したりするといった場面がしばしば見られた。最も有名なのがアメリカ人弁護人のベン・ブルースブレイクニー及びジョージ・A・ファーネスの「事後法で人を処罰することは出来ない」といった旨の弁論に対しても、「全ての動議を却下する。その理由は将来闡明にする」として裁判を続行させたケースである。また清瀬一郎の「この裁判極東国際軍事裁判はいかなる根拠において実施できるのか」という質問に対しても「後から答える」とだけ述べて休廷し、その後回答することはなかった。また、中国で冀東保安隊日本人居留民に対して略奪、暴行凌辱殺戮など残虐の限りを尽した通州事件についても却下している。

法の不遡及は法の一般原則とされており(成立過程が独特な国際法上においても、必ず要請されるべきか否かは議論のあるところだが)、これを検討することな却下したことは訴訟指揮上大きな問題とされる。ただ、これは先に開始したニュルンベルク裁判訴訟経緯を踏まえた決断とも考えられる。

また、前述の通り、天皇法廷に立たせるべきとの見解を持っていたこから天皇戦犯にせず、占領政策に利用する意向を決定していたダグラス・マッカーサー命令を受け、裁判天皇責任が無いという展開に進めることを意図していたジョセフ・キーナ首席検事とは激しく対立していた[1]。

オランダベルト・レーリンク判事証言によると、ウェブは酒気を帯びた状態法廷に来ていたこともあったという。

1922年死刑廃止したクイーンズランド州オーストラリアの他の州の死刑廃止1968年から1985年)の判事であったウェブは、23年間にわたる判事生活死刑を言い渡すのは極東国際軍事裁判が初めてだったため、「極東国際軍事裁判所は、被告絞首刑に処する」の部分の口調はある意味の興奮があったという[2]。ちなみに、ウェブ自身被告人全員の死刑に反対票を投じている[要出典]。

http://anond.hatelabo.jp/20170414183358

家庭を持つことが人権ではないし自分同性婚独身でもなんでもいいとは思うが、とりあえず人口を維持できる出生率2.1からの差を引くだけでも少子化ですでに数百万人の犠牲者が出ているし

国債残高も既に1945年と同水準かそれ以上に達している。

数字上は日本(も韓国中国もどこもそんなもんだが)は既に10年以上交戦状態にあり、その分の消耗や貧しさをサービス残業コスト・プッシュ・インフレとして既に実感できているのが現実だと思う。

ただじゃあ名目上だけでも現状を維持しようってよりも自分ももう最低でも数百万人の犠牲者は出るだろうと諦めてしまっている。

2017-04-01

メロンパン名前の由来

メロンパン名前の由来って、実は「メロンのような見た目のパン」ではないって知ってました?

メロンパンに使われる特殊クッキー生地名前が「メル生地」というそうで、「mel(メル)on(乗る)」=メロンというのが、メロンパンの正しい名前の由来です。

メロンパン日本で作られ始めた昭和30年代、せっかくだから見た目もメロンっぽくしちゃえ!と、今の見た目になりました。

戦時中において、敵国語である「mel+on」は、果物メロン(=和名メロン)であると主張して乗り切ったことから、この名前の由来が一般化したとも言われています

ちなみに、太平洋戦争1945年(昭和20)年に終結してますし、メロンパン日本で生まれたのは1930年だそうです。

また、メロンパン名前の由来は「始めはサンライズと呼ばれていたパンが、マスクメロンの普及後、その見た目からメロンパンと呼ばれるようになった」ですし、戦時中メロンパン名前について何か言及があったかどうかは、僕は知りません。

毎年この日になると、多少のバリュエーションチェンジを加えながら、決まってこのウソをつくのですが、何故か未だに信じる人が後を断ちません・・・

2017-01-17

「(空襲から)逃げちゃダメだ!」

http://anond.hatelabo.jp/20170116162327

リンク先『婆ちゃんに戦争の話聞いてきた』で語られている「婆ちゃんの工場を襲った」空襲はおそらく、1945年8月1日深夜から2日未明にかけて行われた富山空襲のことだろう。

それ以前、7月にも市街地に対する比較的小規模な空襲は度々行われている(模擬原子爆弾、いわゆるパンプキン爆弾の投下も行われた)が、8月空襲市街地の実に99.5%を焼き尽くす大規模なもので、ブコメでも言われているように「空襲で全部なくなった」。燃え盛る炎が明々と夜空を照らしていたという証言ネットでも複数読める。

で、だ。問題

ものすごく暑かったので、多くの人は川に逃げたらしい。そんな人でごった返した川めがけて、空襲は襲った。川に逃げた人はみんな死んだ。

というくだりである。この「川」というのはおそらく、富山市街地を貫流する神通川を指す。皮肉にも、上空から夜目にも目立つ神通川と広大な河川敷のもの攻撃目標となって多くの犠牲者が出たといわれているが(富山空襲 浅田 高明|戦争記憶~寄せられた手記から~|NHK 戦争証言アーカイブス http://www.nhk.or.jp/shogenarchives/kioku/31/ )、そのいっぽうでこんなことも行われていた。

神通川に掛かる連隊橋(今は富山大橋)を軍が封鎖し、逃げて来る市民に対し「戻って消火せよ!」などと馬鹿げた命令を出した

(あの戦争富山空襲」 : 勝手に言ってます http://yosirin.exblog.jp/21519632/

火たたき・バケツリレーなどによる「防火演習」がしばしば行われ、空襲の際には、避難する道路に、警防団警察憲兵などが立ち、「戻って火を消せ」、「非国民!」などと、避難を押し止めた

イントロダクション | 「富山空襲」のことを知って下さい! http://www.geocities.jp/toyamakushunokaii/introduction.html

逃げたらアカンかったわけである。何故か? これは日中戦争が始まる前に公布された「防空法」という法律に拠っている。直接的には、真珠湾攻撃の直前に行われた防空法第一改正、およびそれに基づく内務大臣通牒で、空襲時の退去の禁止罰則を伴う)と応急消火義務国民に課せられたことに由来する。この規定が、10万人の死者を出した東京大空襲のあともなお有効だったことは、まさに富山空襲でのエピソード物語っている。

富山空襲ではまず市街地の周縁部に焼夷弾を投下し、市民の逃げ道を断ったうえで存分に焼き払うという手法が用いられたが、地上でも軍や官憲によって逃げ道が断たれていたわけである。その結果が婆ちゃんの語った戦争の話、ということになろうか。

最後に、いち地方都市にこれほど大規模な空襲が行われた理由がふるっている。

「これ(=第13回の大挙出撃)は、陸軍航空部隊の第28回記念日にふさわしい祝賀であった。またカーチス・E・ルメイ少将に対するすばらしい餞別となった。同少将米国戦空軍参謀長となるため、第20航空軍司令官を辞任する前に、この攻撃を自ら計画し、かつ指揮したのであった。」 (1945年8月2日付ニューヨークタイムズ

陸軍空軍記念日である8月1日の攻撃は、持てる空力を駆使し、あらゆる努力を払うよう指示する。(米本陸軍戦略空軍司令部から、第20航空軍「現地」司令官への指示文書

富山空襲と母のこと: 壺中山紫庵 http://atky.cocolog-nifty.com/bushou/2010/08/post-78e5.html

参考:防空法について

空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」――戦時中の「防空法」と情報統制 / 大前治 / 弁護士 | SYNODOS -シノドス- http://synodos.jp/politics/13238

2016-12-04

死の収容所へ 1

ヨーロッパユダヤ人絶滅の準備

 ドイツ軍ソ連侵攻は「特別行動隊」(Einsatzgruppen :アインザッツ・グルッペン)によるすさまじい組的殺作戦をともなっていた。侵攻から数週間を経ずしてナチスは他のヨーロッパ地域に住むユダヤ人絶滅作戦の準備に着手した。1941年7月31日、ゲーリング( Herman Göhring 空軍相、元帥)はラインハルトハイドリヒ(Reinhard Heydrich SS上級部隊隊長、SS大佐)に次のような命令を伝えている。

「次を命ずる‐貴官は、ヨーロッパドイツ支配圏におけるユダヤ人問題の『最終的解決』に関する組織、実務、そして財務上の必要なあらゆる準備にかかり、… さらに、ユダヤ人問題の『最終的解決遂行にかかわる準備組織、実務、そして財務上執るべき手段計画の全容を、本官に対し速やかに提出せよ」

 この任務遂行の準備を調整するためハイドリヒは1942年1月20日、ヴァンゼー(ベルリン郊外)に会議召集した。会議にはドイツ帝国閣僚の面々、ヨーロッパ占領地域各国のドイツ総督、そして、ゲシュタポ本部ドイツ移民ユダヤ人局長・アドルフ・アイヒマンを含むSSの上級将校たちが出席した。

ヴァンゼー会議」の決定はやがて、政治および軍事面において、全世界に重大な展開を引き起こすことになる。

 1941年12月11日日本軍による真珠湾攻撃を受けてドイツアメリカ合衆国に対し宣戦を布告した。戦争はすでに人類を連合国側と枢軸国側に隔て、全世界を巻き込む総力戦様相を帯び始めていた。この新しい局面は、ドイツ戦争遂行上の衝害から解き放った。ドイツにはもはや政治的配慮や「ユダヤ人の大量殺戮がもう始まっているのではないか」という世界世論に気がねをする必要が全くなくなったのだ。

 ヴァンゼー会議の進行は詳細にわたって記録され、議事録ニュルンベルク国際軍事法廷証拠として提出されている。それによれば、ハイドリヒはまずヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決について自分ゲーリングから全権を委譲されていることを告げて会議を始めた。会議の中でハイドリヒは次のように述べている。

総統意向により、ドイツ移民は目下ユダヤ人をことごとく東方追放し、その跡地に対して行われることになった…

ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終的解決の中では、各国に散在する約1100万人のユダヤ人が考慮されなければならない。次のとおり…」

 ここでハイドリヒはヨーロッパ33の国と地域ユダヤ人口をリストに揚げている。リストにはドイツ占領国や同盟国とは別にイギリスソ連ヨーロッパ地域、また中立国ポルトガルスペインスウェーデンスイスアイルランドトルコといった、ドイツ占領する予定だった国も含まれていた。

 ユダヤ人大量虐殺の実際の準備はハイドリヒによる組織の準備と同時に進められた。1941年夏、ハインリヒ・ヒムラーアウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・ヘスを呼んだ。ヘスは戦後証言で「ヒトラーユダヤ人問題の最終的解決の実行を決断したことを、このときヒムラーから知らされた」と明らかにし、さらに次のように述べている−「事実東部で行われているようなやり方(ソ連地域でのユダヤ人殺害特別行動隊による狩り込みと射殺)では与えられた任務対応できなかった。絶滅という任務のためには、特にアウシュヴィッツ収容所対応させる必要があった」。

 この会談の直後、アイヒマンアウシュヴィッツを視察している。二人は、ソ連で行われている射殺は大量の人間を短時間のうちに皆殺しにするには不向きであり、大量殺戮はガスを使う他はないとの結論に達した。

 ガスを使った殺害ナチドイツにとって初めての経験ではなかった。すでに「安楽死計画」において、ガスが使用されている。この計画1939年9月から1941年8月末まで実施され、7万から9万人にのぼる精神病者と重度の障害者がガス殺された。わずかにユダヤ人も含まれていたが、このとき犠牲になったのはほとんどがドイツ人だった。ナチスはこの「安楽死計画」を、「役立たずの穀つぶし」—ナチは彼らをそう決めつけた—を国家から駆逐し、アーリア人種の優性を高めるための手段だと考えていた。ヒトラーはこの計画にあたり「T-4」という秘密組織を発足させている。「T-4」は総統直属の正式組織として医師を擁する医療関係の諸機関大学研究所病院等)を支配した。不治の病に苦しみ死を待つばかりとなった病人たちの命運が、かれら医師たちの手に委ねられた。

 かくして犠牲者たちはそれぞれの医療機関に用意された気密構造の部屋へ案内され、ガスによって窒息したのだ。死体特殊な焼却炉で燃やされた。このガスを使った安楽死はすぐに外部に露見し、ただちにこの殺害行為をやめさせるための抗議行動が‐特に犠牲者の遺族と教会から‐起こった。ヒトラーは譲歩し、1941年8月末、これら医療をかたる殺人を当面中止するよう命じた。

 しかしこの安楽死計画の中で蓄えられた経験は、「最終的解決」の準備をしていたSS当局に役立つことになったのである

絶滅作戦

 絶滅作戦としての最初のガス実験は1941年9月アウシュヴィッツで行われた。ソ連軍戦争捕虜たちが実験台に選ばれた。彼らは密封された地下室に閉じ込められ、チクロンBによってガス殺された。非常な短時間捕虜たちは窒息死した。以後続けられた一連の実験で、ナチスはガスという新しい殺害方法を開発するめどを立てるに至った。同じ頃「特別行動隊」も、ハイドリヒ指揮下のSS技術局の援助を受けて同様の方法を開発している。ここでは「ガス室」の代わりに「ガス・トラック」が用いられた。この車の外見は救急車冷蔵車に偽せてあったが貨物室は気密構造となっており、マフラーから貨物室まで 延ばされた特殊パイプ排気ガス中の一酸化炭素を密閉された貨物室に直接流し込むようになっていた。犠牲者たちが貨物室に入れられるとドアが閉まり、鍵が下ろされ、そしてエンジンがかけられた。

 「ドライブ」は、全員が死亡するまでに30分も要しなかった。所定の場所に着くとドアが開けられ、死体は運び出されて埋められた。この「ガス・トラック」は、大型のものでは150人を、小型のものはその半数を収容した。ソ連ドイツ占領地域では1941年12月だけで、数千にのぼるユダヤ人が「ガス・トラック」で絶滅させられている。

 1941年12月8日。占領ポーランドのロッヅ管区ヘルムノ村(ポーランド名ウッヂ市ヘウムノ)近郊で最初絶滅収容所が稼働を始めた。殺害には「ガス・トラック」が用いられた。犠牲者たちは主に列車で運ばれ、収容所の近くで降ろされた。そこは一部を公園に囲まれ崩れかかった古い宮殿の中央広場で、人びとは垣根に囲まれ区域に通されると「労働に就く前にこれから車に乗ってシャワーを浴びに行く」と告げられ、次のように言い渡された。「衣服を脱いてこの車に乗るように」

 「ドライブ」が始まった。車が4キロメートルほど走ったころには、排気ガスによって全員が毒殺されていた。「終点」は森の中の柵で囲まれ場所で、そこにはこの仕事のために特別に殺されずにいるユダヤ囚人の一団が待機していた。彼らが死体を車から降ろし、そして埋めた(後には死体は焼却処理されるようになっている)。ヘウムノではこうした「ガス・トラック」が3台稼働し、当局員として150人ほどの警察官とSS隊員を擁して1943年4月に一旦閉鎖されるまで稼働し続けた(その後1944年から3ヵ月あまり再稼働)。ここではロッヅ管区他から連行されたユダヤ人と少数のロマ・シンティヨーロッパ語名ジプシー)の集団、合わせて30万人近くが殺害されている。

 1941年11月ポーランド総督管区内でユダヤ人絶滅作戦の準備が始動した。ヴァンゼー会議ハイドリヒの挙げたポーランド在住ユダヤ人口は228万4千人であるハイドリヒは1942年5月にチェコレジスタンス暗殺されたがそれ以後この暴挙は彼のファーストネームに因み、ドイツ政府より「ラインハルト作戦」のコードネームを与えられた。作戦指揮官には後のルブリン管区SS司令官警察長官、オディロ・グロボチュニクが任命された。グロボチュニクは3つの絶滅収容所計画を実行に移した。1942年3月中旬、まずベルゼック(ポーランド名ベウゼッツ)収容所、次いで同年5月ソビボル(同ソビブル)収容所が、そして7月末には第3の収容所、トレブリンカが大量虐殺を開始した。ドイツ東方植民地に設置されたこれら3つの収容所はいずれもガス室を備えていた。ここでは一酸化炭素ガスが使用され、ガスは屋外に設置されたガソリンまたはディーゼルエンジンからパイプで引き込まれた。それぞれの収容所には2、30名のSS隊員と、90から120名のウクライナ人(もとソ連軍捕虜で、ナチス・ドイツに協力を申し出た者)が 当局員として駐在した。SS隊員のほとんどは「安楽死計画」の要員から抜擢された者たちで占められ、後者ウクライナ部隊はルブリン近郊のトラヴニキにあったSS錬兵場で編成・訓練を受けたので、付近住民からは「トラヴニキ・マン」と呼ばれていた。

 ヘウムノ、ベウゼッツ、ソビボルそしてトレブリンカの各絶滅収容所は、文字に違わぬ殺人工場だった。連行された人々は、そのままガス室直行させられたのだ。何百人かのユダヤ囚人処刑を免れていたが、これは当局員と囚人たちの身の回りの世話のためであり、こういったグループはすべて数週間あるいは数ヵ月ほどで殺され、随時交代させられていた。

 ルブリン近郊のマイダネク収容所ユダヤ人、非ユダヤ人双方を収監する完全な構造を備えた強制収容所で、この地区にある他の収容所は全てマイダネクの補助収容所として機能していた。おびただしい数のユダヤ人がここで殺され、あるいは移送中に通過し、あるいは囚人として収監された。この中にはポーランド軍属のユダヤ人戦争捕虜も含まれている。マイダネクを生き残った者は数えるほどしかいい。

 強制収容所および絶滅収容所のうち最大の規模を持つアウシュヴィッツ収容所は、第三帝国ポーランド南部シレジア地方建設された。1940年、早くもアウシュヴィッツ村(ポーランドオシフィエンチム町)に近い旧ポーランド陸軍兵舎敷地強制収容所が設置されている。これは元々ポーランド軍将校政治犯収容するためのものだったが、I.G.ファルベン社などドイツ軍工業囚人労働力を提供するため、収容所近辺に多数の労働収容所が補助収容所として置かれるようになった。1941年にはビルケナウ村(ポーランド名ブジェジンカ)に最大の規模を持つ絶滅収容所アウシュヴィッツⅡ(ビルケナウ)収容所建設が開始された。ビルケナウはアウシュヴィッツ基幹収容所アウシュヴィッツⅠ)から西へ約3キロメートルの地点にあり、1942年5月に稼働を始めている。チクロンBを使用するビルケナウの4つのガス室は一度に1万2千人を殺害する能力を備えており、死体ガス室に隣接し連動する焼却炉(ナチはクレマトリウム火葬場と呼んだ)で 焼却された。焼却炉は24時間あたり8000人分の死体処理が可能だったが、1日で殺害される人数はこれを上回っており、残りの死体ガス室近くの森の中で野積みで焼かれた。アウシュヴィッツでのガス殺は1944年末まで続けられた。2つの収容所は約2500名のSS隊員を擁して1945年1月まで稼働し、その間に130万から150万のユダヤ人を含む、180万から200万人が殺害された。

 アウシュヴィッツビルケナウ収容所絶滅収容所と同時に強制収容所としても機能していた。殺されるために収容所に到着した人々は「選別」を受けるよう命じられることがあった。若く屈強な男たちは絶滅の集団からはずされ強制労働に就かされるか、他の収容所移送された。他に子ども双生児脊髄障害を持つ遺伝病患者などが選別の対象となった。彼らはドイツ人医師たちの医学実験用に選ばれていたのだ。医学博士ヨーゼフ・メンゲレは、医師団の中でもとりわけ悪名高い。

 生き残った囚人たちも「選別」を免れたわけではなかった。1日に何度も行われる点呼で衰弱したり病気にかかった者、または労働に適さない者が見つけ出され、彼らはガス室に送られた。

 厳格をきわめる制度の下に束の間の余命時間が貸与され、囚人たちはそれを生きていた。飢餓さらす、むち打ちなど懲罰の苦痛を与える−この種の非道所業はすべて囚人たちの心身を消耗させ死に至らせることが目的であり、SS隊員でもなければ思いつかないようなものばかりだった。 恐怖は、囚人たちの日常だった。囚人バラックから毎日、何十体もの死体が運び出されていた。 アウシュヴィッツビルケナウ−ここで心身を全うし得た者は、ごくわずかにすぎない。

2016-06-05

http://anond.hatelabo.jp/20160605065403

母国名前でも本当は何も問題無いはずなんだが、下手に過激愛国心と結び付くのが不味い。1898年ポーランド人占領下)や1945年米国人戦争中)がポロニウムアメリシウムと名付けても驚かないけど、2016年日本ジャポニウムって命名は笑うw

2016-05-11

http://anond.hatelabo.jp/20160511103008

増田現代史勉強しなかったかまだする前なのかな?

1945年7月頃、東京は既にその土地の6割くらいが焦土だったんだよ…

「四ヶ月以上前から」そうだったんだぞ。そこに原爆の一つが加わって降伏すると思えるかね。

2016-05-07

互助会ブックマークコメント

http://megalodon.jp/2016-0506-2020-07/dabunmaker.hatenablog.com/entry/nikkanheigou 日本韓国植民地支配なんてしてないけど? (魚拓

いつもの互助会ブコメは以下のとおり。焦げた匂いを感じたのかブコメしないチキンもちらほら

b:id:akihiro5 韓国人は気性が荒いから喧嘩したくない。
b:id:gaou2 仲良くしようや?(注:ブログ主
b:id:kamennkousi 今回は歴史ですか!ホント守備範囲が広いですね。それにしても今回の記事はやや突っ込みましたね。火事の予感・・・
b:id:lightgauge ネットをうろついてるとドンドン反韓に傾いていきます
b:id:marsweexavi おっしゃる通り!併合なんですよね。右よりの番組で毎回やってました。
b:id:Daisuke-Tsuchiya 韓国人友達何人もいるけど若い人たちは歴史はあるけど過去過去って言ってたよぉぉ
b:id:masaki709 どこかで謝罪する側、される側の関係を終わるべきなんだと思う。「謝ったからもう許せよ」とか「謝罪し続けろ」とかじゃなくて、ラグビーの「ノーサイド」のような。
b:id:hisatsugu79 こ、これは可燃性の高い記事、、、。/最近よく読んでる池上彰によると、常にこういったセンシティブトピック賛否、敵味方両サイドから分析理解しろと言います。やや偏った言説に見えますよ。
× b:id:lacucaracha ほんと、誰のおかげで文字が使えるようになったと思ってんだか。この蛮族め。ブログを書き綴るたびに4000年の歴史感謝してほしいアルね!!
b:id:sakura-neko283 隣の家の人がムダに突っかかってきたら気分悪いですが、そんな感じですね★ムダにストレス。。>< (注:互助会ではないが、ブクマは全て互助会系。サブアカ?)
× b:id:opensuse 日韓併合後も政治面では朝鮮衆議院議席が割り当てられず、帝国議会への参政権はなかった(内地朝鮮人衆議院議員が1人いたけど)。衆議院議席戦争末期の1945年に振られたが選挙実施されていない。
× b:id:MisojKun その当時、その現場で生きていないのに断言するのはすごいと思う。あと立場によって解釈変わるのが歴史
b:id:sirocco 今まで反発するコメントをすることが多かったが、自分歴史を把握しているかというとかなり怪しい。糖質制限ホントかよと思ったし、水素水はとんでもトンデモだと思った。そもそも植民地支配併合はどう違うのか
b:id:kato_19 コバさん・・・・・・いまさら目覚めちゃったのか・・・ネット歴長いのに?こういうのってどうしたら良いんだかわからん。(注:互助会ではないが、ブクマは全て互助会系)
b:id:xinsg 偉そうに反論ばかりしてるブコメうんざり。そろそろアフィ目的で「はてぶホイホイ」というタイトルの、こういう記事ばかりで埋め尽くされたブログが出てくるんじゃないですかね。
b:id:ka_rinchaco01 この手の話題はてな絶望的に相性が悪いうえに、反互助会勢力に互助会認定されているから変な燃え方をした感じ。
b:id:daumaneko そう。日本西洋諸国がやってきた植民地支配はしてません。ただ、併合された韓国の人にとっては屈辱的なこと。

○…ブログ主肯定 ×…ブログ主否定 △…奥歯にブログ主が挟まった

エントリから出てきた互助会

b:id:kamennkousi 今回は平和日常記事で来ましたね。前記事の様なエッジの効いた話も大好きですよ。ブログ教科書じゃないですもの邪馬台国位置についての記事とかも面白い話題になりそう。お暇があれば意見を聞きたいですね。

個人的に気になったのはメタブのこれ

b:id:zaikabou カス

ポジ熊の「南京大虐殺は無かった!」には説明していたが、なんちゃってレトロゲーマーには「カス」の2文字で斬り捨てた。

2016-01-25

ある少年飛行兵の話し

から71年前の1945年1月25日、彼はフィリピン沖で護衛空母特別攻撃実施し、戦死した。

私は彼の存在老人ホームでのボランティアで知った。

陸軍飛行場が近くにあったこの地域では、東大に入るのと同じくらい難関のパイロットという道が、

現実的ものとして認識されていたようである

彼もまたそんな軍国少年の一人で、軍人になることを決意し、陸軍少年飛行兵となった。

彼が乗ったのは「戦闘機」ではなくて、「爆撃機」だったそうだ。

99式双発軽爆撃機通称「99双軽」と呼ばれたその機体は、かの有名な零戦と同じく、

序盤はその軽快な運動性で戦果を挙げていたが、後継が続かずに旧式化していった歴史を持つ。

入隊して以降、実家へは手紙も寄越さなかったそうである

ただ一度、その99双軽で帰ってきたことがあったそうだ。

彼の乗った99双軽は実家のあった大字上空で旋回、上昇、降下といった曲芸飛行を見せた後、

小学校の校庭に彼のしたためた遺書を投下して、飛行場へと消えた。

弟の方がこの一部始終を見ていて、曲芸飛行の様子を教えてくれたが、その飛行の意味は分かっていないようであった。

飛行機特に大戦中のレシプロ機はとてもデリケートな乗り物で、華やかなイメージとは裏腹に、

常に危険と隣り合わせの代物であった。

急降下爆撃を念頭に置かれて開発された99双軽も、降下速度を見誤れば引き起こしの際に粉々に吹き飛ぶし、

戦闘機に比べて機体が重い爆撃機は旋回や上昇での失速も激しい。

操縦手達もレッドアウトやホワイトアウト危険さらされる。

恐らく何時間にも及ぶ訓練の中で、彼は自分と機体を極限まで追い詰め、その操縦スキルを手に入れたのだろう。

彼はその後大陸戦線へと送られた。

恐らく、故郷上空で見せた急降下で敵の車両拠点に爆撃を加えたのだろう。

そして、それは最後特攻の際も恐らく――。

記録は残っていないが、さんざんっぱら旧式化した双発の爆撃機である

戦果は無かったろう。

享年19歳。

19の青年ができた最後親孝行が「急降下」を見せることであったことを思うと、今でも胸が苦しくなる。

只今は誰にも看取られることなく逝った彼の無念を思うばかりである

2015-10-14

 鎌倉の町で最も醜悪な歴史遺物は、鎌倉駅西口にあるウォーナー博士への感謝碑だろう。

 連合軍文化財保存に留意して、京都鎌倉などの古都への爆撃を控えた ― 今もってこれを信じている人は多いが、具体的にそれを進言したのがウォーナー博士だとされている。この「都市伝説」は、吉田守男氏の研究によって事実ではないことが既に明らかにされている。

 京都鎌倉が大規模空襲に遭わなかったのは(必ずしも空襲が無かったわけではなかった)、原爆投下予定地として残されていたり、軍事施設がないため空襲候補リストの下位にランクされていたためであった。

 なぜそのような都市伝説が広がったのか。直接的には1945年11月11日朝日新聞記事に由来している。朝日新聞はこの記事をどういう根拠で書いたのだろうか。

 GHQによる対日工作の一環と見るのが文脈的には妥当だが、そうではないのだとしても連合軍積極的には否定肯定もしなかった。鎌倉だけではなく奈良など全国にあるウォーナー顕彰碑日本側の有力者が建立に尽力している。鎌倉の碑については吉田茂元首相も関与したようだ。

 ウォーナー博士自身は繰り返しそのような事実はない、自分はそういうことには関わっていないと明言していたが、「謙虚な人柄」と解釈されてその言い分は無視されてしまったようだ。

 GHQの思惑は別にして、この伝説日本側で相応に受け入れられたのは、二つの要因が重なっているように思われる。

 ひとつには「東洋スイス」を理想像とする戦後社会主義左翼の「非武装中立論」に合致していたこと。軍備ではなく文化に力を入れれば、襲ってくる野蛮人などいないという、非現実的なある種の選民思想であるスイスでさえ行っていない非武装中立という絵空事を強化する例として、文化の力、というものが過剰に喧伝されたものである

 もう一つの要因は、京都奈良鎌倉に在住する人々の選民思想を刺激したことだと考える。

 文化財があるから鎌倉を爆撃してはいけないという考えは逆に言えば文化財など無い、貧民が住む沿岸工業地帯などは爆撃されても構わないという考えと紙一重であるし、人によってはほとんどイコールであった。とにかく連合軍無差別に何百万人という非戦闘員虐殺したのである。その事実を前にして、自分たち居住区は文化財があったから爆撃されなかった、ありがとう、と言ってしまえる神経が醜悪でないのだとしたら、いったい何が醜悪なのか。

 この意味において私はあの碑をこのうえなく醜悪なものだ、というのである

 あれは我が国の、文化人と呼ばれる人たちの程度の低さ、無責任体質、奢り切った選民思想結晶のものである。それらは軍部上層部にあってはこの国をいったんは滅ぼす要因になったが、それは軍部のみにあったのではなかった。

 徹底してものを考えない、いや、徹底してものを考えるという行為ポーズにして自らの装飾にすることにしか関心のない「指導者層」は左翼の中にも、むしろ左翼の中に顕著に存在するものだった。

 ウォーナー博士はそう言う人々とはまるで違う、知的に誠実な人だったので、顕彰碑は彼に対する侮辱であるし、我々にとっては恥そのものである

 だが、だからこそ、あの碑は我々の愚かさ、傲慢さの証拠として残しておくべきである鎌倉と言う町の、底音部に流れる奇怪さが具現化したものとして。

2015-09-26

韓国の歴史メモ

紀元前108年~220年:漢     (植民地

221年~245年:魏         (植民地

108年~313年:晋         (植民地

314年~676年:晋宋梁陳隋唐  (属国

690年~900年:渤海        (属国

1126年~1234年:金        (属国

1259年~1356年:モンゴル    (属国

1392年~1637年:明        (属国

1637年~1897年:清        (属国

1897年下関条約により清の属国から解放される←←←←←←ココ重要

1903年ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシア属国化回避

1905年1945年日本保護国併合

1945年1948年アメリカ(非独立)←←←←←←ココも重要

1948年大韓民国成立(アメリカ軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)

1948年軍事独裁政権誕生

1948年済州島4.3事件 3万人虐殺

1950年朝鮮戦争 400万人殺し合い

1950年保導連盟事件 30万人虐殺

1951年国民防衛軍事件 10万人虐殺

1951年居昌事件 8500人虐殺

1979年:軍出身大統領政権誕生

1980年光州事件 600人虐殺

1993年:初の文民政権誕生←←←←←←韓国民主化してまだ20しかたっていない

1997年アジア通貨危機国家財政崩壊によりIMF土下座

2012年米韓FTA可決、事実を知った国民火病デモをするも後の祭り

日清戦争講和条約下関条約

日清戦争講和条約は第一条から朝鮮独立国と認めて朝鮮から清への貢物は廃止する」。

日清戦争清国側の宣戦詔勅にはっきり 『朝鮮ハ我大清ノ藩屛タルコト二百余年…』(和訳)と謳った上で 戦闘状態に入った上での馬関条約一条

2015-08-27

http://anond.hatelabo.jp/20150827145527

1945年来、70年間も直接的な戦禍に遭わずうまい具合に経済成長してこれたんだ。大感謝だよ。

海外就業経験積むのは良いねホント

2015-08-05

祖父は二次被爆者だった

1945年8月6日広島原子爆弾が投下された。

そして当時中学生だった祖父は、6日から1週間の内に広島市へ入市した。

これは父から聞いた話であり、私が祖父から直接聞いたのは「広島原爆二次被曝たか手帳を持ってるよ」だけだった。

分子供に話す内容ではないと思ったのだろうが、祖父の死後、やはりどうだったのか気になった私は父親に聞いた。

1945年8月6日広島県にある祖父の通っていた中学校中心部のでは無いらしいが調べてみても分からなかった)の校長教職員・生徒は、

陸軍学校掃除という事で集合し、広島の中心地へ向かった。だが、9人だけは違った。

そこには祖父も含まれていた。祖父はその時、何らかの事情で行く事が出来なかった。

他にもスイカを食べ過ぎてお腹を壊した生徒や、寝坊した生徒など祖父を含めて9人が行かなければいけない大切な仕事を休んでしまった。学校側もお怒りだったらしい。

だが結局、その9人を置いて広島市内に向かった全員が原爆によって亡くなった。生き残ったのは事情で行けなかった9人だけだった。

広島市爆弾が投下され多数の負傷者が発生したという話を聞いたのは8月6日夕方だったらしく、中心部から来た宅配屋(?)の話を聞いたそうだ。

祖父は学校の生徒の事が気になってか、ただ興味本位だったのか、とにかく原爆投下から一週間以内には、自転車中心部へ向かった。

広島市中心部に入った時、目の前の水平線に敵戦闘機による掃射の様な光景が広がっていたのを見て祖父は危険を感じた。

だが、敵戦闘機エンジン音や、近くに居る人達に緊迫感が無かったのを見て不思議に感じた祖父がよーく見てみると、

それがいつもは見えなかった広島湾だった事が分かった。陽光を受けてキラキラ光る海面が、

建物が消えた広島市内のずっと先に写り、それが敵戦闘機の掃射と似ていただけだった。

どこまでも続く荒野と、その先に見える広島湾に驚いた祖父は自転車を走らせた。

中心部に近づくにつれ、路肩にまとめられていた遺体が道の真中で放置されている状態を目撃した。

祖父はその遺体に近づくと、カエル達がその遺体に這っている所だった。(食べていたのかは分からない)

遺体に群がるカエルを取り除く事しか出来なかった祖父は、とにかくそカエルを潰したり引っぺがしたりして少しでも供養になればと

遺体を見つける度にやっていたそうだ。が、自転車を走らせても走らせてもその光景が海の方まで続いていたそうだ。

祖父にとっては原爆ピカドンではなく、カエルだった。実際の原爆の炸裂の瞬間は見ていない祖父は、原爆はどうだったのかと聞かれても

このカエルの話しか出来なかった。更に原爆を目撃していないんだから被曝はしていないという感覚だったのか、40歳半ばまで被曝手帳をもらう事は無かったそうだ。

生き残った9人の同窓会の時に二次被曝してるんじゃないかという話になり、被曝手帳をもらえるのではないかという事で診断した所、

二次被曝している事が分かり、被曝手帳正式にもらったそうだ。

そしてこの他8人はどうなっていたのかというと、特に強烈なのがその内の1人が暴力団系に進んでしまっていたという話だ。

というのも同窓会に現れたその1人は、黒い車のドアを部下に開けさせ降りてくる所を目撃し、言われなくても分かってしまったという。

祖父はその人にこう話しかけたそうだ。

祖父『せっかく原爆から生き残ったのになぜそんな道に進んでしまったのか』

その人『そうするしか無かった、俺にはこの道しか残ってない。』

祖父『まだやり直せる。亡くなった彼らの事を考えて道を歩もう。』

その人『いや無理だ。もうこれでしか生きていくことは出来ない。すまん。』

そのまま同窓会のこの会話を最後に何年も顔を見せる事が無かったそうだが、ある日の新聞で、その人が暴力団同士の抗争のさな

殺されたという記事を見て、父が「これはその人なんじゃないか」と指摘した時、祖父は頷くも無言でやりきれない顔をしていたそうだ。

祖父の話はこれぐらいで、他に強烈だったのは祖父の親戚の乗っていた漁船が爆風の直撃を受けて船長の体にガラスが突き刺さりまくって亡くなったという話で、

その後漁船広島まで帰ってくると突然真っ黒焦げた人達の中から名前を呼ばれ、気付くとそれが親戚だったり、また近所の人だったりと

祖父の親戚は広島に集中していたので親戚の間ではこんな話をいつもしていたそうだ。

孫の私にこういった話をされる事は無かったが、話を聞いてみて、同じ級友含め学校生徒のほとんどがが犠牲になった中で

生き抜くという事は非常に辛かった事だろうと思う。でもそれでもやりたかった職に付いていたそうだし、こういった話をする事もなく、

会ったら美味しいものをいつもごちそうしてくれた祖父には尊敬するしかない。明日原爆投下から70年・・・

2015-08-03

http://anond.hatelabo.jp/20150803121052

1945年に15歳~30歳だった人が2015年に85歳~100歳な訳で

まあ寿命を考えると死が近い訳でというかバタバタ死んでるだろうし

死のその前に語り口を記録しておきたいとか犬の巡礼的な意味もあるだろうし

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