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2021-05-16

私の心はイスラエルと共にない。

あなたならどうしますか?ある日突然24時間で300発以上のロケット弾テロリストによって撃ち込まれ、愛する家族の命や、家を奪われたら。イスラエルにはテロリストから自国を守る権利があります最初ロケット弾一般市民に向け撃ったのは一体誰だったのか?私達の心はイスラエルと共にあります

中山泰秀 防衛副大臣ツイート(2021/5/12

https://twitter.com/iloveyatchan/status/1392160326116732928

現職の防衛副大臣 中山泰秀(なかやまやすひで)氏は、イスラエルによるパレスチナガザ地区への空爆行為に支持を表明した。

多くの人にとって、イスラエルパレスチナガザ地区問題ニュースでちらっと耳にしたくらいだと思う。

かにイスラエル側の言い分を鵜呑みにすれば、パレスチナテロリストで、イスラエル被害者で、パレスチナ側がロケット弾を打ち込んで来るから反撃するのだというのは筋が通っている。

イスラエル支援国のアメリカ同盟日本防衛副大臣としては、「立場」を弁えた発言かもしれない(なお、政府見解は異なるのだが......)

だが、何故パレスチナロケット弾が打ち込むのか、何故報復としてわざわざ空爆するのか、君は考えたことがあるか。

そして結論を言えば、イスラエルによる空爆肯定するのは、ウイグル族迫害を、香港言論弾圧を、ミャンマー軍事革命正当化することに等しいのである

これを知っても、イスラエル正義パレスチナは悪だと思えるか。

1945年まで、現イスラエル国土には現在パレスチナに住む人々が住んでいた。

現在イスラエル建国したのはユダヤ民族である。彼らは流浪の民で、民族固有の土地がなかった。安寧の地を求めた彼らの主張はこうだ。

「君の家は2000年前、俺の先祖が住んでいた土地に建っている!不法占拠者め!今すぐ出ていけ!!」

こうしてパレスチナの人々は隅に追いやられ、イスラエル建国された。

イスラエル側は停戦条約を幾度となく破り、侵略を繰り返している。

パレスチナイスラエル間で停戦条約が結ばれたこともあった(現在も本当は停戦中のはずである)。

その際、両者不可侵境界線が引かれたのだが、イスラエルは入植・侵攻を止めることはなく、パレスチナ土地はみるみるイスラエルのものとなった。

そこに住む人々は住む家を追い出され、ガザ地区に身を寄せるか、難民となるしかなかった。

https://ccp-ngo.jp/palestine/

先に手を出したのは、どちらだろうか?

イスラエルガザの戦力差は、一流の総合格闘家小学生くらい離れている

ロケット弾300発」と聞くと、ああ何と恐ろしいのかと思うのかもしれない。

しかし、この「ロケット弾」はお手製工作レベルの代物であり、イスラエルの持つ最新軍事兵器とは天と地の差がある。

防御の面でも、イスラエルは「アイアンドーム」と呼ばれる最新ミサイル迎撃システムを備えており、万全の体制を立てている。

https://en.wikipedia.org/wiki/Qassam_rocket

ハマスが使うロケット

イスラエルは、これが撃ち込まれたからと、世界トップレベル軍事力を持って徹底的に空爆するのである

そして、百倍以上の市民殺傷する。

イスラエル側にロケットが飛んでくるという緊張感はほとんどない。境界沿いで、空爆されるガザ地区花火感覚で楽しむイスラエル人が多くいるほどである

https://www.nytimes.com/2014/07/15/world/middleeast/israelis-watch-bombs-drop-on-gaza-from-front-row-seats.html

(ちなみに、イスラエルは定期的に空爆を行い、それを「草を刈る」と比喩している。繰り返される”報復"の空爆は、彼らの想定内なのだ

イスラエル軍は市民無差別空爆する

イスラエルは「ここにテロリストが潜んでいるかもしれないから」という建前のもと、医療施設の入っているビル一般市民が住む地区でさえ無差別空爆する。

「ここら辺にテロリストいるみたいなので、空爆して全員〇します。無関係連帯責任っしょ」

と君の住む家が破壊され、身近な人が亡くなったとき

「ははは、近くに住んでたなら仕方ないね」と君は許せるだろうか。

誰の心がイスラエルと共にあるの?

中山氏は、国際法違反を散々指摘されているイスラエル軍事行為肯定している。

ツイート中の「私達」が誰を指しているかからないが、

少なくとも私の心はイスラエルと共にない。

2021-04-25

24年以内に第三次世界大戦は起こるか否か?

この増田を読んだ人の考えを聞きたい。
テーマは「24年以内に第三次世界大戦は起こるか否か?」

第二次世界大戦終戦したのは、日本定義では1945年8月15日とされている。
現在2021年、後24年と少しで第二次世界大戦終戦から100年になる。
現在世界の情勢は意外と不安定になっているが、24年以内に第三次世界大戦が起こるか起こらないかと考えると
結構難しい所だと思う。

私は70%の確率で起こらない、30%の確率で起こると思っているが、この増田を読んだ人の意見が聞きたい。

第三次世界大戦が起きるとすれば

第三次世界大戦が起きるとすれば、それは、「中国 VS アメリカ」を主軸とした戦争になると私は考えている。
イギリスEUから離脱を考える程に経済的に弱体化しており、EUイギリス離脱される程に経済的に弱体化している。
ソビエト連邦が維持できない程に弱体化した結果がソビエト連邦崩壊だと考えればロシア経済的に弱体化している。

今の世界経済的に強国と言えるのは、日本中国アメリカアラブ首長国連邦ぐらいだろう。

そして、この経済の強弱図はおそらく、これから24年では変わる事はない。

であれば、第三次世界大戦を起こせる国は、中国アメリカ以外に無いと言える。

第三次世界大戦が始まる前に起こる事

第三次世界大戦が始まる前に先ず起こる事が有るとすれば、国際連合・・・国連崩壊だろう。

国際連合には、第二次世界大戦戦勝国がそれぞれの利益の取得で揉めないために設立された経緯がある。

言い換えれば、国際連合戦勝国クラブであると言える、第二次世界大戦前に存在した国際連盟が、第一次世界大戦戦勝国クラブであった様に。

故に、第二次世界大戦戦勝国5国には、国際連合の中でも特に強い権限が与えられている。

この、強い権限が、現在日本では国際連合が大きく動けない理由となっている。

第三次世界大戦が起こる時には、中国アメリカのどちらかが国際連合を脱退する等して、国際連合崩壊するだろう。

第三次世界大戦で起こる事

第三次世界大戦は間違いなく、初手で核兵器を撃ち合い、それを対空ミサイル等で自国領土に着弾する前に

阻止する核兵器の撃ち合い戦争になるだろう。

その先どうなるかは私には想像がつかない。

第三次世界大戦が起こらなかった場合

第三次世界大戦を起こせるのは中国アメリカだけだと私は考えているが、中国アメリカの両方が

核戦争になる事を恐れて第三次世界大戦24年以内に起こさない事も考えられる。

その場合中国新疆ウイグル自治区は恐らく中国によって完全に支配され、ウイグル人絶滅すると私は考える。

アメリカ新疆ウイグル自治区の情勢に外から意見はするが実質放置状態だ。

その理由は、ウイグル人の主宗教イスラム教からという事にある。

これがもし、ウイグル人の主宗教キリスト教ユダヤ教であればアメリカヨーロッパ諸国が物を言い

実際に軍隊派遣していたのではないかと思う。

そう考えると、第三次世界大戦が起こらなかった場合24年以内にウイグル人絶滅すると考えられる。

最後

雑な文になってしまったが、第三次世界大戦24年以内に起こるか否かを考えてみた。

この増田を読んだ人それぞれに、「24年以内に第三次世界大戦が起こるか否か?」を考えて増田にしてもらえると嬉しい。

2021-04-03

KKOエヴァに乗る機会なんて与えられない

KKOは昔はシンジみたいなヤツだったけれど

ゲンドウが父親ってわけではなく

エヴァに乗る機会もなく

美少女と知り合うこともなく

普通の女にすら相手にされず

その辺の家に生まれたか金もなく

なにごともなく本当に何もなく大人になり

ただ大人になっただけだった

KKOが悪いのか

そんなことはない

魔女狩り時代に生まれた女が魔女の疑いをかけられたとして何ができよう

1945年広島で生きていた人に何ができようもの

KKOだって同じだ

この時代日本庶民に平凡以下の容姿で生まれしまったのだ

どうしようもない

からKKOは救われるべきなのだ

2021-03-28

「東アジア反日武装戦線」の初心と過ち

韓国発の映画『狼をさがして』は何を描いているか

太田昌国 評論家編集者

 韓国発のドキュメンタリー映画『狼をさがして』が間もなく日本で公開される。金美禮(キム・ミレ)監督2020年作品で、原題は『東アジア反日武装戦線』という。映画が描くのは、1974年から75年にかけての出来事――「東アジア反日武装戦線」(以後、「反日」と略す)を名乗る人びとが「連続企業爆破」を行ったこと――とその背景である

歴史像と世界像が一新されてゆく時代のただ中で

 描かれる時代は、アジア太平洋戦争日本帝国敗戦してから30年近く経った時期に当たる。活動を担ったのは、敗戦から3~5年経った頃に生を享けた、当時は20代半ばの若者たちだった。いわゆる「団塊の世代」に属する。その彼ら/かの女らは、敗戦以前に日本がなした植民地支配および侵略戦争責任を問うた。同時に、戦後過程はすでに30年近い長さに及んでいるにもかかわらず、日本がその過去清算することもないままに、改めて他民族に対する加害国と化している現実に警告を発した。手段として使ったのは爆弾だった。

 その標的はまず、戦前絶対無謬の存在として日本帝国を率い、戦後は「平和」の象徴となった昭和天皇に向けられた。だが、「お召列車」の爆破計画が実現できなくなった後は、戦前戦後を貫いて繁栄する大企業に的を絞った。

 戦後日本象徴する言葉は、長いこと、「平和民主主義」だった。それは新憲法を貫く精神でもあると多くの人びとが考えていた。

 天皇戦争責任が問われることも裁かれることもなく始まった戦後は、「一億総無責任体制」となった。この体制の下では、日清戦争以降、断続的にではあっても半世紀もの間(1894年1945年アジア太平洋地域戦争を続けた近代日本実像を覆い隠し、この戦争全体像を、最後わずか3年半の「日米戦争」に凝縮して象徴させることが可能だった。広島長崎の「悲劇」を前面に押し出し米軍占領下の沖縄辺境ゆえに無視して、日本全体があたか戦争の「被害国」であるかのようにふるまった。「反戦平和勢力」の大勢も、そのことに疑いを持たなかった。

 1960年安保闘争の時にも、1965年日韓条約反対闘争の時にも、戦前日本帝国がなした対外政策と関連づけて現在分析する言動ほとんど見当たらなかった。すなわち、日本社会総体として、近代日本が持つ「植民地帝国」としての過去をすっぽり忘れ果てていたと言える。

 1960年代後半、この社会思想状況はゆっくりとではあっても変化し始める。日本は、高度経済成長過程で目に見える形での貧困は消え失せ、急速に豊かになった。この経済成長最初の基盤となったのは、1950~53年の朝鮮戦争による「特需景気」だとする捉え方が常識となりつつあった。

 時代はあたか米国ベトナム侵略戦争の渦中で、沖縄を軸に多数の米軍基地があり、インドシナ半島輸送される米軍物資調達地でもある日本は、再度の「特需景気」に沸いていた。近くに住むアジア民衆が苦しんでいる戦争によって自分たちの国が総体として豊かになっていく――この際立った対照性が、とりわけ若い人びとの胸に突き刺さるようになった。

 加えて、米国でのベトナム反戦運動は、黒人先住民族インディアン)の権利回復の動きと連動していた。植民地主義支配人類史に残した禍根――それが世界じゅうで噴出する民族問題の原因だとする意識が、高まっていった。

 「東アジア反日武装戦線」に所属した若い人びとは、それまでの歴史像と世界像が一新されゆくこのような時代のただ中にいた。彼ら/かの女らは、日本近代史と現在が孕む問題群に、「民族植民地問題」の観点から気づいたという意味では先駆的な人びとだった。

「重大な過ち」の根拠を探り続けた歩み

 「反日」はこうして獲得した新たな認識を、すぐ実践に移そうとした。当時刊行された「反日」の冊子『腹腹時計から鮮明に読み取れるのは、次の立場だ。「そこにある悪を撃て! 悪に加担している自らの加害性を撃て! やるかやらないか、それだけが問題だ」。政治性も展望も欠いた、自他に対する倫理的な突き付けが、行動の指針だった。「反日」が行った、1974年8月30日東京丸の内三菱重工ビル爆破は、8名の死者と385名の重軽傷者を生み出す惨事となった。

 「反日」にはひとを殺傷する意図はなかった。事前に電話をかけて、直ちに現場を離れるよう警告した。だがそれは間に合わなかった。しかも、なぜか「反日」は三菱爆破の結果を正当化し、死者は「無関係一般市民」ではなく「植民地人民の血で肥え太る植民者だ」と断言した声明文を公表した。映画の前半部で、この声明文がナレーション流れる

 多くの人びとはそこで「引く」だろう。半世紀前の当時もそうだった。それゆえに、彼ら/かの女らは、日本では「テロリスト」や「血も涙もない爆弾魔」の一言で片づけられてきた。

 その責任の一端が、「反日」そのもの言動にあったことは否定し得ないだろう。だが、実はそこにどのような内面の思いが秘められていたのかということは、路傍の小石のように無視されてきた。そんな渦中にあって、獄中の彼ら/彼女らは初心を語ると同時に、自らが犯してしまった重大な過ちの根拠を探り続けた。獄外には、その試行錯誤を〈批判的に〉支え続ける多様な人びとの存在があった。映画『狼をさがして』は、これらの獄中・獄外の人びとの歩みを74分間の時間幅の中に刻みつけている。

過去を振り返ることをしない社会は、前へ進むことができない

 画面には登場しない「主人公」のひとりは、「反日」狼部隊大道将司である。彼は2017年5月、長らく患っていた多発性骨髄腫で獄死したが、死刑が確定してのち、彼はふとした契機で俳句に親しむようになった。生前4冊の句集にまとめられたその作品は、人間関係自然とのふれあいも極端に狭められた3畳間ほどの独房にあっても、人間はどれほどの想像力をもって、ひとが生きる広大な世界を、時間的にも空間的にも謳うことができるものかを証していて、胸を打つ。それは、ひとを殺めたという「加害の記憶悔悟」を謳う句において、とりわけ際立つ。

 映画でも紹介される「危めたる吾が背に掛かる痛みかな」もそうだが、他にも「死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ」「春雷に死者たちの声重なれり」「死は罪の償ひなるや金亀子」「ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな」「いなびかりせんなき悔いのまた溢る」「加害せる吾花冷えなかにあり」「秋風の立ち悔恨の溢れけり」などの秀句がある。

 「反日」のメンバーの初心と、結果としての重大な過ちを冷静に振り返るこの映画制作したのは、韓国映画監督キム・ミレとその協力者たちである。ふとした機会に「反日」の思想と行動を知ったキム・ミレ監督がこの映画制作したのは、「人間に対する愛情、その人間を信じること」からだったという(「『狼をさがして』――金美禮監督に訊く」、東アジア反日武装戦線に対する死刑・重刑攻撃とたたか支援連絡会議=編『支援ニュース』420号、2021年3月6日)。社会正義のために、加害国=日本搾取され殺された東アジア民衆の恨みと怒りを胸に行動した結果、数多くの人びとを死傷させてしまった、つまり自らが加害者になったという事実に向き合ってきた「反日メンバーに対する思いを、かの女はそう語る。

 だが、その裏面には、次の思いもある。彼らは「長い期間にわたって、自らのために犠牲になった人々の死に向き合って生きねばなりませんでした。苦痛だったかもしれませんが、幸いにも『加害事実』に向き合う時間を持つことができたのです。8名の死と負傷者たち。それがこの作品制作過程の間じゅう私の背にのしかかってきました。しかし、彼らと出会うことができて本当に良かったと思います。この作品は、私に多くのことを質問するようにしてくれたからです。どう生きれば良いのか、今も考えています。」(キム・ミレ「プロダクション・ノ-ト」、『狼をさがして』劇場パンフレット所収)。

 74~75年当時の「東アジア反日武装戦線」のメンバーからすれば、韓国の人びととの共同作業は「見果てぬ夢」だった。日本自分たち戦後の「平和民主主義」を謳歌している彼方で、韓国および北の共和国の人びとは、日本植民地支配を一因とする南北分断と内戦、その後の独裁政権の下で呻吟していたからだ。

 そんな時代が40年近く続いた後で、少なくとも韓国では大きな体制変革が起こった。表現言論の自由を獲得した韓国新世代のなかから、こんな映画をつくる人びとが現われた。キム・ミレ監督は、この映画日韓関係の構図の中で見られたり語られたりすることを望まないと語る。過去を振り返ることをしない社会は、前へ進むことができない。日本韓国も、どの国でも同じことだ、と(前出『支援ニュース』および2021年3月18日付「東京新聞」)。

脈打つフェミニズム視線

 最後に、もうひとつ、肝心なことに触れたい。この映画を際立たせているのは、女性存在だと思われる。

 刑期を終えたふたりの女性が、生き生きとしたその素顔を見せながら、獄の外から窓辺に寄ってきた猫との交友を楽し気に回想したり、かつて自分たち闘争に大きく欠けていたものを率直に語ったりする。前者の年老いて元気な母親は、娘が獄に囚われてから、娘と自分たちを気遣う若い友だちがたくさんできたと笑顔で語る。二人は自宅の庭を眺めながら、「アリラン」を歌ったりもする。

 キム・ミレ監督らが撮影する現場に付き添う姿が随所に見える女性も、長年「反日」の救援活動を担ってきた。撮影すべき風景、会うべきひとについて、的確な助言がなされただろう。

 死刑囚の獄中書簡集を読んで、あん事件引き起こしたひとが自分と変わらぬ、どこにでもいるふつう青年だと知って、縁組をして義妹となったひとの語り口もごく自然だ。女たちの運動を経てきたと語るかの女の言葉を聞いていると、獄中の死刑である義兄とは、媚びへつらいのない、上下関係でもない、水平的なものだったろうと想像できる。

 そして、もちろん、韓国人のキム・ミレ監督女性だ。弱い立場にある労働者現実を描いてきたかの女は、男性の姿ばかりが目立ち、男性優位の価値観が貫いている韓国労働運動の在り方に疑問を持ち、スーパーで働く非正規女性労働者が大量解雇に抗議してストライキでたたかう姿を『外泊』(2009年)で描いた。日本でも自主上映されたこ作品に脈打っていたフェミニズム視線が、『狼をさがして』でも息づいていることを、観る私たちは感じ取るだろう。

2021-03-17

anond:20210317162502


総理大臣

片山哲

1945年昭和20年)に日本社会党が結成されると書記長就任、翌年には日本社会党委員長(初代)に選出された[1]。1947年昭和22年)の第23総選挙日本社会党が143議席を獲得し、衆議院比較第一党となる[1]。これを受けて衆議院首班指名選挙では、420議員片山投票し、片山内閣総理大臣となる。この首班指名選挙では2位が吉田茂齋藤晃の1票のみであったため、片山得票数(420票)と2位との差(419票差)は、衆議院首班指名選挙における最高記録となっている。

片山内閣」も参照

片山民主党国民協同党と連立内閣組閣する。

2021-02-27

anond:20150702005758

どうしてこうなるのかというと、もう21世紀に「地域ならではの文化が力を持つことはなくなってしまっている」ということ。

1945年の時点で、もう地域文化なるものは何の役にも立たなくなるといわれてはいたが、当時の日本人馬鹿なのでだれもわからなかった。

1990年代に入ると、地方ヘイト田舎ヘイトが渦巻くようになり、ごみのような祭に金を落とす暇があるのなら予備校を作れ!という声が発生するようになった。

その声に負けて、多くの地方都市にはサテラインの予備校が建った。このあたりがターニングポイントだったと思っている。


今、地域祭りかいうので盛り上がっている地方田舎は、みんな馬鹿の塊しか住んでいない土地だ。

そういうことを言うと地方田舎の人は怒るが、現実なのだから仕方がない。

いずれ、日本国民のだれもが、現実に屈する時が来る。

2021-02-12

森 喜朗に寄り添ってみる

以下はWikipediaコピペが大半である

森の年表

1937年生まれる。

小学1年生の1944年に、母が亡くなる。

小学2年生の1945年に、第二次世界大戦終結する。

中学1年生の1950年に、北朝鮮韓国朝鮮戦争を起こす。

高校1年生の1953年に、冷蔵庫洗濯機トースターなどがようやく登場する。

高校2年生の1954年に、ゴジラ映画一作目が上映される。

21歳の1958年に、東京タワーが完成する。

27歳の1964年に、東京オリンピックが開催される。

32歳の1969年に、第32回衆議院議員総選挙立候補する。

以下はWikipediaから引用である

選挙直前一族会議中に、近隣の家から出火した。この時、森は決死覚悟で家にとびこみ、仏壇を抱えて出て来たという。当時の北陸地方仏教への信仰が篤い土地柄であったこともあり、この行動は風向きを変えることになった。

らしい。時代である

40歳1977年に、内閣官房副長官就任する。

46歳の1983年に、文部大臣となる。

51歳の1988年に、日本が初めてIPインターネット接続をする。同年、リクルート事件発生。森は約1億円の売却益を得ていたとされ、一時謹慎する。

57歳の1994年に、日本標準的な定年が60歳となる。

58歳の1995年に、テレホーダイが始まる。

61歳の1998年に、Windows98誕生する。

63歳の2000年に、当時の小渕首相脳梗塞で倒れる。その3日後に第一森内閣発足。日本国の長となる。

以下は、Wikipediaから引用である

前任者の急病による就任であり、総裁になるための正式な準備無しでの登板だったため、内心「正直いってえらいことになったな」と思ったという

64歳の2001年に、えひめ丸事故発生。森はプライベートゴルフ場におり、第一報が入ったとき関係者からその場を離れないよう指示されていたらしいが、第三報が入るまでプレーを続けた。ゴルフを続ける映像が繰り返しテレビ放送されかなりの悪印象となる。

2001年、森は総理大臣を辞任する。約1年の任期期間だったが支持率は低く、前述のえひめ丸事故の印象やたびたびの「失言」が支持率低下の原因だったとされている。

69歳の2006年に、Twitter誕生する。

73歳の2010年に、育ての母が亡くなる。

75歳の2012年に、議員引退する。

76歳の2013年に、アルゼンチンブエノスアイレスで行われた第125次IOC総会に現地入りし、東京オリンピック (2020年)開催決定の瞬間に立ち会った。

77歳の2014年に、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長就任する。

82歳の2019年に、#KuTooが誕生する。

84歳の2021年に、失言により、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長を辞任する。

寄り添ってみる

森が物心がついたのはいつ頃だろうか。仮に小学1年生の頃として、この頃は1944年である。母が亡くなった年である

森が小学2年生のとき第二次世界大戦終結している。どんな時代であっただろうか。戦後教育なので、今よりはるかに奔放な教育がなされていただろう。有り体に言えば体罰や、現代倫理観では時代錯誤とされることが、当然の教育としてなされていただろう。

そのような教育を通して、森は育ったのだ。

日本インターネット誕生し、私達がWindows98テレホタイムをしていたころには、既に森は61歳で定年を過ぎている。

森は内閣時代もとにかく失言が多いイメージであった。生来性格とみるか?育った時代教育環境も影響しているはずだろう。

私達の感覚では、「時代に合わせて感覚アップデートできないものは置いていかれる」「アップデートできないものが悪い」というのが通常だが、森にこれが可能だったとは到底思えない。

特別に森がというより、一般論としての森の世代であるTwitter誕生たころには70手前の世代である

自分母親父親職場上司に「感覚アップデートしろ」というレベルではない。それよりもっと上の世代人間である学生時代戦後経験した世代である

PCが使えなくて当たり前だろう。スマホが使えたら上々だろう。その世代人間は、感覚アップデートするのが嫌なのでなく、どう感覚アップデートすればいいのかわからないのではないのか。

この世代人達は恐れているのではないか自分の古くさった感覚アップデートできてないことは自覚しつつ、言葉ひとつで多くのバッシングが飛んでくるこの時代を恐れているのではないか

哀れと思うこそすれ、責められないと思うのだ。私達も、いずれきっと行く道である

森内閣時代、私は中学生であった。胡散臭い爺という印象であった。私と同世代で森が好きなやつは少ないのではないか

しかしこうして年表を並べてみたら、お疲れ様でしたとしか言いようがない。

2021-01-17

anond:20210117091326

「性比」でググると、なんかいろいろ理由がでてきた。

オスとメスの男女比が1:1でない集団であっても、オスを産みやす遺伝子・メスを産みやす遺伝子があって、数が少ない側の性別のほうが生まれやす遺伝子が広まることで結果的に1:1に戻るらしい。1:1になれば産みやす遺伝子釣り合うので偏らないらしい。遺伝子ってよくできてるね。

そもそも日本だって戦争若い男ゴッソリと減って性比が偏ったのに、あっという間に元通りになったよね。1945年以降の毎年の性比の推移ってグラフいかな。あるかな

遺伝的に多様性を確保するために、たとえ偏っていてもいずれは自然に1:1に収束するようにできている。

とはいえ、性比が1:1でも一生のうちに一度でも生殖できる個体と、一度も生殖しない個体。というのは太古の昔からいたはずじゃね?って思うけど。そもそも二次性徴を迎えるより若く死亡する率が高かったわけだし。

種全体としては多様さと持続可能性を確保するために、より多くの個体生殖してもらったほうが有利だとは思うけど、「個人自由」を解放したら、そりゃあ美男美女生殖需要は偏る。そうでない個体生殖できなくなり、多様さは減る。種の存続よりも「現世代個人的な好み」によって生殖の成否が決定される。

あー。あとはその、男女で心身の作りが違うし、婦人病という女性しかからない病気もあるわけだ。

まり環境的に「男性が死にやすい要因が増えた」とか「女性が死にやすい要因が増えた」といったケースへの強度を増すためにも、やはり性比を1:1にしたほうが生存戦略として強いのか。かも知れない。

数が少ない側の性別だけ死にやす環境になったとき、片方の性が極端に数が少なくなったり絶滅してしまったら、生殖機会の確保が困難になるから。1:1が最も生殖機会は高い(選り好みは別として)

何百万年生存してきた遺伝子なので伊達ではない。

遺伝子は、生存するために常に数と性質に余裕を持たせておくわけだから、その「余裕」のための犠牲として、死んだり、自殺してしまったり、生殖できなかったり、多様性ガチャメチャクチャ不利な先天的な初期スキルを与えられてしまったりする。来世に期待。

2021-01-14

追記沖縄県民の俺がおすすめする泡盛

俺は沖縄県民だ。

そして酒を飲む側の人間で、その中でも泡盛が好きだ。

沖縄を訪れた酒好きは物は試し、と泡盛を飲むだろう。

多くの人は、居酒屋やそこらのお店で売っている手ごろな泡盛を、旅行気分で飲むのだろう。

でもその時、「泡盛、おいしい!」と感じる人は少ないと思う。

そのようなシーンで出てくる泡盛はだいたい新酒である蒸留したての泡盛だ。どぎつくて癖のある風味が口に広がる、沖縄県民でも10人中9人が「まずい」というような風味だ。

だがちょっと待ってくれ。泡盛は新酒と古酒とでは全く異なる飲み物なのだ蒸留したての泡盛が売り物として世に出回ったのは、1945年沖縄戦ですべての古酒を失い、いちから事業を再開せねばならない酒造メーカーが当座の資金繰りのためにやった苦肉の策であって、本来泡盛古酒しか飲まないものである、という説が(俺の中に)あるぐらい、新酒と古酒は違うのだ。

新酒はとにかくきつい。ウイスキーだって蒸留したての酒を2,3年は樽貯蔵してから初めて売り物にするのだから、あれをロックストレートでおいしく飲める奴はかなり重症ではないか水割りもまずいと思う。

ともかく、新酒を飲んで泡盛体験を終えるのはもったいないし、むしろ負の体験しかならない。


からそう、古酒を飲んでほしい。泡盛古酒うまいコスパもいい。

ジョニ黒というウイスキーがある。12年物メインでブレンドされた酒で、アルコール40度の700mlで2,000円代で買えて、うまい。そりゃ世の中にはもっとうまい酒もあるだろが、ジョニ黒はコスパの良さに定評がある酒で、俺も好きだ。

このジョニ黒と同程度もしくはそれ以上の泡盛銘柄がたくさんある、と俺は思っている。俺はそう感じている。俺はこれを紹介したい。

もしもあなたウイスキー焼酎を楽しんでいるのならば、ジョニ黒と同程度もしくはそれ以上にうまくて、かつ、2,000円代で買える泡盛を紹介したい。あなたに。沖縄泡盛を飲むときの参考にしてもらえれば幸いだ。


【ジョニ黒と同程度もしくはそれ以上にうまくて、かつ、2,000円代で買える泡盛

★海の邦 12古酒 アルコール度数30度

県内の酒造メーカーからなる沖縄県酒造協同組合がつくっている古酒だ。琉球泡盛の一番槍みたいなやつだ。

泡盛は3年ほど貯蔵したもの古酒と呼べるのだが、飲むのならば10年以上の古酒を勧めたい。泡盛は5年から7年目にかけて急速に熟成が進むと言われており、正直3もの古酒を飲んでも熟成感はないしあまりおいしくもない。

だが10年以上の古酒ならば、古酒ならではの香りと味わいを楽しむことができ、おいしい。

古都首里 10古酒 アルコール度数40度

瑞穂酒造の古酒泡盛古酒香りバニリンというバニラ香りと同じといわれている。泡盛古酒にはソフトクリームのような甘ったるさとアルコール香りが鼻の奥を抜けるような感覚があって、古酒を飲み込んだ途端にその感覚は消える。そうして、その感覚を追いかけるようにして、もう一度古酒を口に含む。おいしい。

★おもろ 10古酒 アルコール度数43度

瑞泉酒造の古酒。他にも10古酒として「king」という銘柄も出しているが断然こっちがおいしい。

南海王国 10古酒 アルコール度数35度

菊之露酒造の古酒宮古島の酒造メーカー。同酒造の沖縄ローカルCMでは魔裟斗国仲涼子が出ている。心地よい香りと味わい。アメリカンコーヒーのようなすっきりとした印象でおいしい。

久遠 長期熟成古酒 アルコール度数35度

多良川酒造の古酒宮古島の酒造メーカー宮古地域は硬質の水が泡盛に向いているのか立派な酒造所が多い。

泡盛古酒は、10年物100%ならば「10古酒」と名乗れるのだが、10年物と3年物と新酒をブレンダーがいい感じにしておいしい泡盛を作ってしまった場合にはそうはいかない。たとえそれが10年物100%の古酒を超える酒質だとしても「10古酒」とは名乗れず、精々「熟成古酒」としか名乗れない。久遠10年物メインのブレンド酒であり、長期熟成古酒と銘打っている。香ばしくてとろみがあって、個人的に一番おいしい。

もちろん、もっとうまい泡盛銘柄もあるのだろうが、海の邦、古都首里、おもろ、南海王国久遠は2,000円代で買える。



ただし、それは沖縄県内での話だ。内地では輸送料とか酒税軽減措置適用されないとかの事情もあってもっと高くなる。酒税軽減はせいぜい100円程度の影響しかないはずなので、主には輸送料が要因だ。

沖縄県内でも、業務スーパービッグワン(沖縄ローカルディスカウントショップ)や酒のスマイルorアルテック(ともに沖縄ローカル酒屋)でなければ2,000円代で買うのは難しいだろう。これら以外の店舗ではもうちょっと高い値段がついている。

でも心配はいらない。業務スーパービッグワンも県内の至る所にある。

から、もしもあなた沖縄を訪れる機会があって、泡盛でも買ってホテルで飲もうぜとか、泡盛頼んでみようぜみたいなことがあれば、ぜひとも10古酒を手に入れてほしい。そうすれば、沖縄の夜をもっとみんなが楽しく過ごせるはずだ。

【おまけ】

琉球王朝 特選古酒 アルコール度数30度

久遠と同じく多良川酒造の古酒。2,000円未満で買える。リーズナブルでおいしい。特選古酒と銘打った、底が太ったボトルノーマルビール瓶型のボトルでない。

★菊之露 VIPゴールド アルコール度数30度

南海王国と同じく菊之露酒造の古酒。1,200円とかで買える。ジョニ黒には負けるがコスパ最強の泡盛。8年古酒をメインにブレンドしたらしい。

★忠孝or瑞穂 新酒 アルコール度数30度

忠孝酒造、瑞穂酒造がつくる泡盛。1.8ℓで1,000円強で買える。ソーダ割りにするとおいしい。泡盛新酒の他の銘柄ソーダ割りは、泡盛の癖を炭酸が強めるだけだが、忠孝と瑞穂は甘い香りがはじけて(俺の中では)おいしい。




追記(1/18)



!?


たくさんのブクマいただきまして、「泡盛」という言葉が多くのみなさまの目についたことをうれしく思います

それと同時に、先だって紹介させていただいた泡盛を飲みながら投稿した増田ですので、ブクマの多さにおののきながら読み返してみると、違う違うそうじゃない、と反省すべき箇所がいくつかあります。少し補足させてください。

1つめ、泡盛の新酒について、「沖縄県民でも10人中9人が『まずい』というような風味だ」「負の体験しかならない」、なんて明らかに言いすぎだ。これはいけない。10人中7人だ。3割の人間けがあの世界に行けるのだ。顔に痣が浮かぶような奴らだ。たぶん早死にする。俺があと一歩のところで届かなかった、至高の領域だ。

2つめ、泡盛10年以上の古酒をすすめる、としたが、もう少し正確に言うと、10古酒で十分だ。どういうことかというと、泡盛熟成は5年を超えたあたりから加速度的に進むが10年目あたりで落ち着くと言われている。泡盛熟成酸化なり何なりの化学変化であるとすれば、それが永遠に続くことなんてありえない。仕次ぎうんぬんの話もあるが、ともかく10年経てば十分泡盛熟成している。それ以上の年数の泡盛は味よりもその稀少性なりストーリーなりを楽しむものであり、神々の遊び的なものだろう、と俺は踏んでいる。神ならぬ我が身としては、10年程度の市販古酒を楽しみながら、甕貯蔵の我が家専用泡盛を仕次ぎし育てて数十年楽しんでいく、というのがいいんだろう、と思っている。

3つめ、古都首里10古酒アルコール40度は、ラベル沖縄限定って書いてました。通販本土のみなさまでも買えるかもしれないけど、、、すみません古都首里バニラ香りが強く、たぶんバニラエッセンスが入っている(入ってない)と思います。おいしいので、地元の方はぜひお試しください。

そして、本土の方も沖縄を訪れた際には、ストレートでもロックでも炭酸でもシークヮーサーでもアセロラでもコーヒーでも牛乳でも何でも、泡盛をおいしく楽しくしてください。

あわがもりもりきんにくもりもりあわもりもり~

2021-01-07

どうして音楽家になろうと思ったんですか?

これはすべてしゃべる必要があると思っている。私は作曲ピアノの道に入った経緯を人に話していない。話しても理解してくれないから。

ここから先はすべて本当の話である

私の父親は暇さえあればパチンコを打っており、当時2歳の私を腹のあたりに抱えて、パチンコを打っていた。今では考えられないが、すべての客がタバコを吸っていた。煙の揺らめきとともに、パチンコ玉が転がり落ちてゆく。大して勝っていなかったように思う。

帰宅したら、どうやら私は機嫌を損ねたらしい。仕方がないので、テレビをつけることになった。

偶然ペリーヌ物語のオープニングだった。

ミュゼットの懐かしい音質、おそらくフロリンド・サッソーネ楽団から引用であろうヴァイブラフォンのオクターブオズバルド・フレセド楽団経由のドラムスと、タンゴを知ってる者なら次々と出てくる金属的な音。

もちろんこれらの音楽的な意味も分からず、私は世界名作劇場の枠を見せろと、親にせがんだらしい。

ペリーヌ物語赤毛のアントムソーヤ冒険、南の島のフローネはすべてリアルタイムで見ているはずである。そこから先は見ていない。

こうして小学校に入る前に、近代和声のほぼすべてを掌握してしまったので、ピアノのレッスンは苦痛だった。当時のアニメのオープニングも職業作曲家が本当にフルスコアを書いていた。振り返れば、贅沢な時代を過ごしたものだ。

それだけでは音楽家になれるわけがないだろう。問題はこの先だった。

当時デパート屋上ゲームセンター相場が決まっており、どこの地方都市でも一緒だったはずである。私の故郷もこれで、ここに連れて行けとせがんだ思い出が残っている。

そしたら、100円玉を与えてくれて、真っ先に遊んだのがPole Position IIだった。コンピュータが正確無比に音符を奏でることが、小学校低学年の私にはショックだった。

とにかく、生楽器ではない音源の音が、当時の私には美しく聞こえたのだろう。この「生楽器ではないのに綺麗な音」というものを、ゲーム遊んだ3年後に現実に見ることになった。

「…それでは平部やよいさんのアルトサックスGS-1とオーケストラのためのSong of Nostalgiaを…」

この作品演奏のために、わざわざグランドピアノしまい、GS-1を出したのであるGS-1といってもほぼ通じないので説明するが、ヤマハが出したデジタルピアノの機種である。まだクラビノーバという単語がなかった。

このデジタルピアノの音はいまだに忘れられない。かなり高価だったのか、私の出身地でこれを購入した人は少なかったように思っている。

音がどうして、こんなに綺麗に鳴るのか、という問いが私の中で目覚めたのだろう。そこから勉強は早かった。

もう現代音楽ピアノピースなら、小学5年で買っていた。ハーモニクスを覚えたのは石井眞木の「彼方へ」だったはずである

微分音を最初に聞いたのは中学2年だった。イワン・ヴィシネグラツキーの「互いに12Hzずれて調律された2台のピアノのための24の前奏曲」がFMたまたまかかったのである。厳密にはヴィシネグラツキー微分音は計器で測ったものとは違うのだが、そんなことが中学生に分かるはずもなかった。

現代音楽 1945年以降の前衛」も高校時代本屋立ち読みして、「この程度か」とさっさと読了した思い出もあった(この本の原著第3版は学部生でも読むのが大変なので注意)。

数学のように厳密性を重視しなくとも曲は書けるので、現代音楽先読み可能だと思う。ただし、児童強要してはならない。それは意味を持たない。

誰一人国際メジャーを制した音楽家がいない土地だったが、自分情報収集することはできた。

地方都市での一軒家購入記録

はてなあもすなる家買日記といふものを 我もしてみんとてするなり

はてなーが最近やっている家購入記を、俺も便乗してみようと思い書いた)

 

概要

・某地方都市県庁所在市の隣接市。

 

子供が産まれることになったので、それまで住んでた借家をやめて家を買うことにした。

子供が動き回るようになると床や壁を汚したり壊したりするだろうし、家のカスタマイズもしたくなるだろう。これまで数回の引っ越し・荷造り作業が非常に手間だったので、幼児育児しながらの引っ越しはまず不可能だと予想された。

 

妊娠初期からなんとなく探し始め、妊娠6ヶ月で本格的に探し始め、出産3ヶ月前に物件決定、1ヶ月前に引っ越した。

物件選定、下見、ローンや物件契約は俺と妻二人で行い、実際の引っ越し作業は俺一人で行った。

 

・庭付き一戸建てを借りて2年間住んでおり、自分たちが家に求める重視したい要素と、どうでもいい要素をある程度把握できていたので、それを家探しに反映させた。

 

 

物件選定

 

ネット物件情報サイト市町村名で絞り込み、安価順にソートして諸条件から気になる物件を20件ほどリストアップ

中古場合は値引きの可能性もあるので、これまでなら出せる上限価格の2割増しまリストアップした。

リストアップした物件はぜんぶ休日に現地に行き外観や周辺環境を見た。不動産屋に連絡して内覧させてもらったのは上位5件。

エクセル物件比較表を作り、要素ごとに傾斜配点して点数を付けて最も高得点物件を買った。

高配点順に、「駐車場台数」「延床面積(部屋数)」「価格」「構造」「築年数」「両実家から距離」「校区小学校から距離」「最も近い保育園から距離」「バス停から距離」「敷地面積」「土地条件」「駐車場が露天か屋根付きか屋内か」「他」

俺が比較表を作り、いちおう妻にも見せて意見を聞いてたが、ほぼ追認状態だった。

(実際に使ったエクセルファイルを晒そうかと思ったけど、増田添付ファイル付けられないんだね。)

以下、各項目ごとに説明する。

 

駐車場台数」

地方都市なので車がないと何もできん。俺バイク通勤、妻は車通勤子供が産まれれば子の保育園への送迎のため俺の車も必要になる。なので最低2台分。駐車場無しは論外、1台分のみの場合は庭を潰して駐車場追加できるか、もしくは周辺道路に恒常的に路駐できる立地か(車庫法違反になるが、住宅街では実家車庫証明とっていつも路駐してる人も多い・・・)で判断

両親が子育て手伝いに来てもらえばその車を止めるスペースも必要になる。できれば3台分ほしい。

→ 3台分ある家を買った、妻車、子送迎車、残り1台分はバイクガレージとして使ってる。両親が来たとき住宅地の最奥で交通量が少ないので車庫の前に路駐してもらってる。

 

延床面積(部屋数)」

リビング、俺の部屋、妻の部屋、寝室、将来の子供部屋、で4LDKが最低条件。もちろん部屋は多いほど良く、面積は広いほど良い。

→ 6LDKとなった。部屋は多いほどいいと実感している。寝室二つにしていつもは3人一緒に1Fで寝て、風邪ひいたら一人だけ2F寝室で寝たり、いろいろ助かる。

 

価格

世帯年収1700万~2200万。物件価格4000万が上限と妻と合意したので、4800万以内で探した。

(妻は公立病院勤務医で、当直・オンコール量により増減。妊娠後期から産休までは時間外一切無しなので1200万、育休明けから現在までは週2のオンコールのみなので1400万程度。ただ住宅ローン審査では前年までの源泉徴収票判断するので、金融機関からは1700万として見られてたはず。

俺は残業あっても無くても500万。県庁時間外手当ほとんど付かない)

→ 建物登記で持分1/2ずつ、土地は保留地なので組合の所有者台帳に連名で記載、実際の負担も1/2ずつとした。

→ 購入価格は下紀売主との値引交渉参照。

 

構造

当時住んでた借家が築10年のプレカット工法木造住宅だったが、壁の外板(サイディング)つなぎ目シーリング劣化して雨水が浸入し、中の木が腐って雨漏りがあり、さらに同構造隣家の2Fベランダが腐って半壊してて、プレカット木造住宅には不信感があり対象外とした。

大工が作る伝統的な木造住宅は皆無だった。

実家は築2~30年の鉄筋コンクリート造だが目立った不具合はなく、信頼感があった。

よって鉄筋コンクリートRC)造、鉄筋コンクリートブロックRCB)造、軽量鉄骨造の順に高評価とした。

→ RC造を買った。売主(建て主)がリフォーム業の社長で、その知識を生かして作った注文住宅ということで、内覧して一目見て質がいいとわかる造りだった。階段上り下りしても木の軋み音が全くしないとか、天井が高いとか、天井裏みたら断熱材が分厚いとか、床下も広いとか、壁収納が各所に多い(いまだ使い切れてない)とか。

「築年数」

新築のほうがもちろん良かったが、当時は型枠職人不足が顕著でRC新築坪単価が異常に高騰しており、手が出る価格新築はプレカット木造ばかりなので、中古住宅中心に探した。

住宅ローン控除が効くのがRCだと築25年以内の購入なので、築25年が一つの基準。ただし利率負担以上に安い物件があれば築25年以上でも良い。

→築20年を買った。コンクリートのひび割れ等は全く見られない。

「両実家から距離

とても幸運なことに、俺の実家と妻の実家が車で10分の近距離で、かつお互いの職場からも車で20分以内の距離だったため(これは結婚決めてから判明)、両実家に近い位置で探した。

夫婦二人ともフルタイムで働いており、育休あけてから祖父母サポート絶対必要になると予想されたため、両実家から車で30分以内の条件で探した。

実家のあるA市と俺実家のあるB市は隣接。AB市か隣接した市町村で絞り込んだ。

→両実家の間で妻の実家寄り(妻の両親の毎日散歩コース)の物件となった。

小学校から距離

中学生になれば自転車バスが使えるから距離があってもいい。小学生特に低学年)は徒歩通学が基本になると思われるので、子供が歩いていける距離として2km以上で足きり。できれば1km以内。

→買った家の校区小学校は崖を迂回しないといけないので延長距離4kmあり足切り対象なのだが(この家が家の造りや面積の割に安かったのはこれが第一要因だと思う)、妻の実家が市境を挟んだ隣の市にあり、妻実家の校区小学校は家から800m。これを生かす。

越境入学は同市内ならまだなんとかなるかもだが、別の市だとほぼ不可能市民税納めてないし仕方ないね

「最も近い保育園から距離

認可保育園であっても世帯年収から保育料が最高負担額(月6万ほど)になるので、認可外・認定保育園でもいい。車で送り迎えになると思われるので小学校ほど距離は気にしないが、あまりに遠いと渋滞からんで勤務時間に支障する。

→結局、基準に沿って運営されてる認可保育園安心だねとなり、家から3kmほど離れた保育園入園できて車で送迎してるので考慮する必要はなかった項目。

バス停までの距離

子供高校生になれば離れた進学校に行くかもしれず、そうなればバス通学となるだろうから、あまり遠くないほうがいい。2km以上で足きり。

→1.5kmほど先に本数の多い路線バス停がある。高校生なら歩ける距離だろう。

敷地面積」

庭は無くてもいいが、あればいろいろ使えるだろうからガーデニングとか、子供が歩けるようになったら庭でプールとか、小学生になれば犬を飼うとか。

→30㎡ほどの土の庭がある。興味なかったが、いろんな植物植えてデザインするのはやってみると楽しい

土地条件」

当時は東日本大震災から数年のちで津波記憶が新しく、標高は確保したい。

谷地は通気性悪く水害ありそうなので避けたい。崖ぎわ地は見晴らし良いが安定性が心配だが切り土なら問題なし、盛り土絶対不可。平坦な住宅地の中なら土地安定性やリセールバリューは良いが、道に面した1方以外の3方を他民家に囲まれていて息が詰まらいか心配(両実家借家も、2方のみ他民家で1方は林や崖だった)

→ 数十年前に台地を切り土して造成した住宅地の南に開けた崖ぎわの物件にした。この物件候補にしてから県立図書館に行って明治時代以前からの古地図を見たり、国土地理院サイト米軍撮影1945年前後航空写真を見たり、県の地図サービス災害指定区域確認したりして、

昔と今とで大きく地形が変わってない(その間の大きな地震でも崩落等してない=地盤が強い)こと、盛り土ではなく切り土であること、敷地が急傾斜地崩落危険区域指定(再建築時に制限がかかる)てないこと、を確認した。

眺めはいいし、日当たりはいいし、リビング先の庭の先は斜面で林なので四六時中リビングカーテンを開けたままにしておけるし、今のところは満足している。かつてない巨大地震が来たら土地も家も無くなって無くかもしれないけど。

→ 土地区画整理事業が施工中で保留地上の物件なので、いろいろ勉強して詳しくなった。ネットバンク住宅ローンが使えない以外はデメリットは無かった。リセールバリューには影響するかもしれんが、この家を売る頃には換地処分は終わってるでしょ。

→ 用途地域にこだわりは無かったが、小学校バス停までの距離で足きりすると必然的市街化調整区域は除外され、市街化区域第一種低層住宅地域の物件ばかりとなった。

駐車場屋根付いてるか、屋内か」

車もバイクも雨ざらしにはしたくないので最低でも屋根があったほうがいい。無ければあとからカーポートを付ければいいが費用が200万ほどかかる。できれば横風や埃も防げる屋内駐車場だといい。

→ 電動アルミシャッター付の屋内駐車場となった。ガレージとしてバイク整備に使えて最高。壁にアンカーボルト打ち込んでメッシュパネル付けて工具並べてある。密閉空間で音が漏れないので雨でも夜でもエアコンプレッサーやディスクラインダーが使える。ぐへへ

 

「他」

周辺環境は閑静な住宅地の最奥で、家の前の1.5車線道路交通量少なく(周辺家に用事のある車しか通らない)子供を道で遊ばせても大丈夫そう。家が売りに出ている理由が、売主夫婦が高齢になり介護住宅に引っ越すための処分ということで、周辺とのトラブル理由ではない。下見や内覧ときに両隣・道向かい・道向かい両隣の方に挨拶して少し話したが、変な人はいなかった。

現在も、たまに顔を合わせたら挨拶してちょっと世間話するくらいで、軽い近所付き合いのみしている。

保留地のせいか自治会対象外となっており、自治会費や行事参加の負担がない。

なにより妻の両親の毎日散歩コースにある家で、毎日周辺を見てる妻の両親から問題ない」とお墨付きをもらえて安心できた。

県庁所在地隣接の市街化区域なので、小児科は車で10分以内に3院、大きな総合病院も車で20分以内に2院、他内科整形外科クリニックも徒歩(車2分程度)に数院あり、医療関係不安はない。

買い物も価格重視のスーパーからちょっと高めのデパート系列スーパーなど車10分圏内に5~6件、ドラッグストアホームセンターも車10分圏内にあり問題ない。

(年とって車も運転できなくなったらどうしようね?3食つき老人ホームに入るしかいか

購入

 

住宅ローン

妻は倹約家(いくつかの趣味以外には服や娯楽に金使わない)なので現金一括で買えるだけの貯蓄があったが、住宅ローン減税のおかげで利息負担無しで借りられるので、何かあったとき手持資金確保のためもあり、常識的に頭金を1割入れて残りはローンを組んだ。

均等に資金負担しようということで、持分1/2ずつの共同債務とした。

住宅ローン控除年1%よりも融資利率が低ければ、借金して金が入ってくる逆ざやとなるので、控除が効く10年間はなるべく融資残高を増やすべく、20年ローンとした。10年たったら一括繰り上げ返済する。月々の返済額が減るぶん貯めておく。

変動金利のほうが遙かに利率は低かったが、金利変動リスクを避けたくて10年固定金利にした。(でも今の状況だと変動のほうが得だったな。賭けに負けた。)

 

土地区画整理事業地内の保留地上の物件という特殊条件のため、年利0.65%等の低金利を誇るJNBソニー銀行等のネットバンクのローンは使えなかった。

地場都市銀行2行に仮申し込みし、低利率のほうに本申込した。(妻がメインで使ってる銀行のほうが高かったので担当者からずいぶん引き留められたが、仕方ない)

世帯年収の2~3倍程度の物件価格、お互い安定した職業ということで審査トントンで進んで融資決定の連絡があった。

年収源泉徴収票)以外の金融資産も開示したが、融資担当者は俺の数百万の貯金はチラッと見ただけで終わりだった。ちょっとプライドが傷ついたぜ。

利息は0.8%台で、融資手数料等の諸費用を含めると逆ザヤは僅かとなった。

 

住宅ローン減税は初年度こそ税務署に行っての確定申告必要で面倒だったが、2年目以降は年末調整職場に用紙出すだけなので慣れれば手間でない。

 

 

・値引き

基本的都市部中古住宅は売り手市場だが、この物件は1年前に4800万で売りにだして売れず4600万で売られており(校区小学校が遠いのと保留地なのが原因だと思う)ちょっと強めに出てみた。

不動産屋を介して、「もともとの予算が4000万なんです、がんばって4100万なんです、保留地なので金利の安い住宅ローンが使えなくて苦しいんです、金利分まかりませんか?」と。

4400万のオファーがあり、こっちは4200万で再度要請。最終的に「4300万よりは下げられん、それで無理なら売るのは諦める」との回答で、4300万で妥結した。

近くにある小学校距離と保留地以外の広さや造りや築年数が似た物件は6~8000万で売られてるので、造りのいい広い家を安くで買えたと満足している。

 

 

不動産

仲介手数料は上限いっぱい取られたが、土地区画整理組合との所有者変更のやりとりや価格交渉で駆け回ってくれたので不満はない。

 

司法書士

登記関係銀行指定司法書士に一任した。土地登記がないので建物分のみ。市中の方に依頼したらもっと安かったと思う。

 

 

反省

結果論だが、保育園までの距離考慮しなくてもよかった。それ以外は満足。

子供が産まれる前は「田舎で静かなところがいいね」と学校までの距離をきにせず人里離れた田舎の広い一軒家をネットで見た「こんなところいいね」と話してたりしてたが、子供が産まれると子供第一の選定となった。でも子供独立したらまた判断基準が変わるんだろうな。

2021-01-02

anond:20210102015347

横だけどもう30年失われてるわけじゃん? 1945年から30年って日本絶頂期だから必要なのって「ダメになる」とか「復活させる」つーより「日本にも科学を導入しよう」レベルだよな

2020-12-26

RRDいわく1944年10月25日日本戦時下でなかった

RRD と言えばはてな左派界隈を代表する人物の一人だが、どうも彼が1944年10月25日日本戦時下でなかったと主張しているようなのだ

 

発端は以下の記事についた彼のブックマークコメントだ。

記事の内容はツイッター朝日新聞社アカウントが紹介した戦時中女子挺身隊が出勤をする様子が合成により人数を水増しされているというものだ。

https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/asahi-photo">www.buzzfeed.com

 これ自体問題はないしかし、RRD 氏が奇妙な事を言いだしたのだ。

朝日新聞戦時中写真めぐり謝罪。「工場に出勤する女子挺身隊」は合成、Twitter掲載

ネタウヨ的には朝日新聞捏造したことになってるのね。さすがトランプ信者根城だけのことはある。そりゃ話も通じないわ。

https://b.hatena.ne.jp/RRD/20201222#bookmark-4695948251994769250

 

とのことだが、

 

発表によると、写真は、戦時中写真週刊誌「アサヒグラフ」の1944年10月25日号および、朝日歴史写真ライブラリー戦争庶民 1940~49」(朝日新聞社1995年)に掲載されていたという。

 

 

肝心の記事には1944年10月25日アサヒグラフ刊行されたと明らかに記述されているのだ。

さて、1944年10月25日はどんな日かというと、レイテ沖海戦が終わりマッカーサーレイテ島に司令部を設置した日なのだ

これはもちろん言う必要もない事なのだが、日本降伏したのは1945年だ。ポツダム宣言受諾日なのかミズーリ号上での調印なのかは議論余地はあるだろう。しか1944年10月25日太平洋戦争が終わっていたと言う歴史学者はいないのではいか?

よしんばいたとしてもかなり異端の説だろう。論文レベルではあるのかもしれないが寡聞にして存じ上げないので、id:RRD氏にご教示いただきたい。

 

また、太平洋戦争が始まった日も1941年これも異論はないだろう。日中戦争考慮してもそれらは太平洋戦争よりも早く始まっていた。

1941年から1944年日本戦時下というのも自然と導かれる。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/asahi-photo

ついでにいうとこの記事の他のコメントを読んでも戦時中朝日新聞社によって刊行されたと言う事実否定したり疑問を挟む人は彼以外に誰もいないのだ。

トップコメント朝日新聞社プロパガンダに協力した貴重な史料という内容である

彼とスターをつけた人間のみが奇妙な認識でいるのだ。

 

なぜ、こんな間違いを犯すのか?

1.内容が理解できない

2.終戦の日がわかっていなくて戦後朝日新聞社軍部プロパガンダをまとめた物と勘違いした

 

1.は流石にないと信じたい。2.も大概なので2.の間違いを犯したのだろうと思う。

 

俺ならこんな間違いをしたら恥ずかしくてコメントを消すだろう。

2020-12-23

anond:20201222134536

文明の衝突1945年でもう終わった。

1991年に終わったという人も多いが、1945年の時点でソ連計画経済袋小路だった。

そのためスプートニクチャイコフスキーコンクール宣伝して外貨を得ようとしていたが、この時点でもうソ連人に生産性はなかった。

西洋文明ほとんどを拒否し、自国産にこだわり続けてしぼんだのがソ連

2020-12-06

日本競馬史上の重要事件並びに記憶されるべき事件(画期となる出来事) 1854-1980

https://anond.hatelabo.jp/20201219095651

出来事

1854 日米和親条約締結、下田函館開港

1856 日米修好通商条約締結

1859 函館横浜長崎開港

1860 横浜外国人居留地において、競馬が行われる(居留地競馬

1867 大政奉還王政復古

1868 明治改元戊辰戦争開始

1869 戊辰戦争終了

1870 東京招魂社(現・靖国神社)において、初めて洋式競馬が行われる(招魂社競馬1898年まで)

1874 台湾出兵

1877 西南戦争開始~終了

1894 日清戦争開始

1895 日清戦争終了/馬匹調査会設置

1904 日露戦争開始/臨時馬制調査委員会設置

1905 日露戦争終了

 桂太郎内閣による馬券発売の公認(黙許)(公認競馬中央競馬ルーツ

 馬政第一計画の制定(第一期:1906年1923年、第二期:1924年1935年

 帝室御賞典(横浜)創設(当初の名称皇帝陛下御賞盃)

1906 内閣総理大臣直轄の機関として馬政局が設置される

 帝室御賞典(東京)創設

1907 小岩井農場種牡馬インタグリオーと20頭の繁殖牝馬小岩井農場の基礎輸入牝馬)をイギリスより輸入する

1908 馬券発売の禁止馬券禁止時代の始まり

1909 ウラジオストックにおいて日露競馬会が行われる

1910 韓国併合

 馬政局陸軍省外局となる

 改正競馬規程(閣令)を根拠として、産牛馬組合による競馬が開催されるようになる(地方競馬ルーツ

 主要競走に騸馬(せん馬)が出走不可に。芦毛、月毛、河原毛が出走不可に(毛色の制限1928年まで)

 帝室御賞典(阪神)創設

1911 優勝内国産馬連合競走(連合二哩)創設(ラングトンが第1回の勝馬となる)

1912 大正改元

 宮崎競馬場において、商品券付き勝馬投票実施される(事実上馬券)。1914年までに全ての競馬倶楽部実施するようになる

1914 第一次世界大戦開始

1918 第一次世界大戦終了/シベリア出兵1922年まで)

1922 帝室御賞典(札幌)創設(1937年秋まで。1922年1924年は春のみ。1925年1937年は秋のみ)

 帝室御賞典(福島)創設(春のみ。1922年春~1937年春)。帝室御賞典(函館)創設(秋のみ。1922年秋~1936年秋)

1923 関東大震災/旧競馬法制定(馬券発売再開)/馬政局廃止

 帝室御賞典(函館)創設(春のみ。1923年春~1937年春)。特殊ハンデキャップ競走創設

1925 濠抽混合創設(当初の名称は各内国抽籤濠州産馬混合競走。1932年より目黒記念

1926 昭和改元

 下総御料牧場が2頭の繁殖牝馬(種正・稙道)をアメリカより輸入する

1928 横浜特別創設(1943年秋まで)/連合二哩(牝馬)創設(1928春~1941秋)

1931 満州事変

 下総御料牧場が3頭の繁殖牝馬(星旗・星若・星友)をアメリカより輸入する

1932 東京優駿創設(1950年より「日本ダービー」の副称が付く。ワカタカが第1回の勝馬となる)

 下総御料牧場が3頭の繁殖牝馬(星濱・星谷・星富)をアメリカより輸入する

1934 中山大障害創設

1936 二・二六事件

 旧競馬改正

 馬政局再設置/馬政第二次計画実施1945年まで)

 各地の競馬倶楽部統合し、日本競馬会発足

1937 日中戦争開始

 天皇賞(帝室御賞典)創設(連合二哩並びに各競馬倶楽部で行われていた帝室御賞典を統合。当初秋2600m、春2700mで施行され、第3回から春秋共に3200mで施行ハツピーマイト(ハッピーマイト)が第1回(1937年秋・東京)、ハセパークが第2回(1938年春・阪神)の勝馬となる)

 連合二哩はこの年限りで廃止。各地の帝室御賞典はこの年春限りで廃止

 ヒサトモ牝馬として初の東京優駿制覇

1938 軍馬資源保護法制

 菊花賞京都農林省賞典四歳呼馬)、優駿牝馬オークス)(阪神優駿牝馬)創設

 ヒサトモ牝馬として初の天皇賞(帝室御賞典)制覇

1939 皐月賞横浜農林省賞典四歳呼馬)、桜花賞中山四歳牝馬特別)創設(五大クラシック競走が成立)

1941 太平洋戦争開始/セントライトが初のクラシック三冠を達成

1943 クリフジクラシック三冠(変則)を達成

1944 競馬開催の一時停止。この年の競馬能力検定競走として施行される(戦前競馬はこの年限りで終了)

1945 太平洋戦争日中戦争終了/日本占領/馬政局廃止

1946 競馬再開/地方競馬法制

1947 天皇賞再開(この年春は「平和賞」の名称施行

1948 新競馬法制定。日本競馬解散国営競馬時代の開始

 2歳(旧3歳)競走が競走体系に加わる

1949 朝日杯3歳ステークス1991年から牡馬及び騸馬(せん馬限定レースとなる。現・朝日杯フューチュリティステークス)創設

 阪神3歳ステークス(1991年から阪神3歳牝馬ステークスとして牝馬限定レースとなる。現・阪神ジュベナイルフィリーズ)創設

1951 中央競馬における重勝馬券の発売(1961年廃止

 トキノミノルが無敗で二冠を達成

1952 日本独立占領時代の終了)

1954 高度経済成長の開始(1973年まで)

 日本中央競馬会(略称1986年までNCK。1987年からJRA)発足(国営競馬時代の終了)

 啓衆社(競馬予想紙を発行)が啓衆賞を設け、各年に活躍した競走馬表彰することを始める(1972年から優駿』(日本中央競馬会の機関紙)の主催による優駿賞、1987年から日本中央競馬会の主催によるJRA賞となる。最初年度代表馬ハクリヨウ(ハクリョウ))

1955 日本中央競馬会が英国ジョッキークラブとの間に騎手に対する制裁相互実施協定を締結する(国際交流の始まり

 東京大賞典(秋の鞍)創設

1958 ハクチカラ戦後日本調教馬として、初めて海外遠征する

1956 有馬記念中山グランプリ)創設(メイヂヒカリが第1回の勝馬となる。八大競走成立)

1962 日本中央競馬会が優駿誌上でフリーハンデ公表

1963 中央競馬において8枠制が導入される

 メイズイとリユウフオーレル(リュウフォーレル)の2頭が年度代表馬に選出される

1964 東京オリンピック。東海道新幹線開業

 シンザン戦後初のクラシック三冠を達成

1965 シンザン天皇賞秋・有馬記念を制覇し、五冠を達成(当時牡馬が出走できる大レースを全て制覇)

 シンザンが2年連続年度代表馬に選出される

1967 栗東トレーニングセンター開場

1968 中央競馬における繋駕速歩競走はこの年限りで廃止される

1969 競走馬輸入自由化

1970 大阪万博

 スピードシンボリが初めて有馬記念を連覇し、1967年以来2度目の年度代表馬に選出される

 競馬ブックより「合同フリーハンデ」が発表される

1971 ニクソン・ショック

 地方競馬における繋駕速歩競走はこの年限りで廃止される

 貿易自由化に伴い国内生産者への保護政策実施されたことにより、持込馬有馬記念を除く八大競走への出走権を失う

 トウメイ天皇賞秋・有馬記念と連勝し、牝馬として初の年度代表馬に選出される

1972 沖縄返還

 地方競馬における騎乗速歩競走はこの年限りで廃止される(中央競馬では戦前限り廃止

1973 第1次オイルショック高度経済成長の終了)

 ハイセイコー中央競馬移籍し、好成績を挙げ、国民的人気を集める(1974年有馬記念2着(勝馬タニノチカラ)を最後引退

1974 単枠指定制度の導入(1991年10月5日廃止最初指定馬は同年の皐月賞におけるキタノカチドキ最後指定馬は1991年セントライト記念におけるレオダーバン

1977 テンポイント有馬記念トウショウボーイとのマッチレースを制し、年度代表馬に選出される(3着はグリーングラス

1978 美浦トレーニングセンター開場

2020-11-24

anond:20201124215614

1945年ですでに消滅してて、その後余生を生かされてるだけで100年持っただけでもハッピーって思ったほうが良いんじゃないか最近思ってるじつは日本ってもう存在しないんじゃないか

2020-11-21

anond:20201119234440

の子供の頃は米軍トラックを見つけたら「ギブミーガム!」「ギブミーチョコ!」って叫びながら追いかけておやつをもらっていたって先生が言ってたけどそんな話ももう聞けないんだろうな…。


   / ええと、1945年10歳だった人は今年85歳だから、まだ平均寿命に達したくらいであって、お元気でご存命中の方も決して少なくはないと思いますよ。

2020-11-05

アメリカ大統領選挙、次の大統領はどうなるか

どっちが勝つかわからないけど、とりあえず次の大統領はこんな感じ。

どっちが勝っても

アメリカ史上最高齢就任した大統領

これまでの「史上最高齢就任した大統領」はロナルド・レーガン(2期目の就任時に73歳)で、「史上最高齢で1期目を開始した大統領」はドナルド・トランプ(70歳)だけど、バイデントランプも2期目のレーガンより年上なので、「アメリカ史上最高齢就任した大統領」が誕生する。

トランプが勝ったら

アメリカ史上初の一般投票で勝たずに2期務めた大統領

開票結果を見ていると、一般投票バイデンが勝ちそうなのはほぼ確定。この結果を選挙人投票でひっくり返したら、トランプは「史上初めて一般投票で勝たずに2期を務めた大統領」になる。

過去一般投票で勝たずに選挙人投票で逆転して大統領就任した者は5人いる。1825年に就任したジョン・クインシー・アダムズ1877年就任したラザフォード・ヘイズ1889年就任したベンジャミン・ハリソン2001年就任したジョージ・W・ブッシュ、そして2017年トランプである。このうち、アダムズとハリソンは次の選挙落選し、ヘイズは次の選挙出馬せず、ブッシュは次の選挙一般投票勝利した。したがって、「2回とも一般投票で勝たずに選挙人投票で勝って2期務めた大統領」は歴史存在しない。

また、大統領の急死や辞任によって昇格した大統領は、皆、次の選挙落選するか一般投票勝利して再選されるかのどちらかであり、「副大統領から昇格して、次の選挙一般投票で負けたけど選挙人投票で勝って2期努めた大統領はいない。

したがって、仮にトランプが再選された場合、かなり高い確率で「アメリカ史上初の一般投票で勝たずに2期務めた大統領」が誕生することになる。

バイデンが勝ったら

アメリカ史上最高齢で退任した大統領

レーガンは77歳で退任したけど、バイデン就任式当日には78歳になっているので、「アメリカ史上最高齢で退任した大統領」になることが確定する(トランプ場合任期途中で辞めたりすると史上最高齢にはならない)。

アメリカ史上2人目のカトリック大統領

アメリカカトリック信徒大統領になるのはジョン・F・ケネディ以来2人目。

およそ30年ぶりの戦前第二次世界大戦終結前生まれ大統領

1993年ビル・クリントン1946年まれ)が就任して以降、ジョージ・W・ブッシュ1946年まれ)、バラク・オバマ1961年まれ)、トランプ1946年まれ)とここ30年ほどは戦後まれ大統領が続いている。もしバイデン1942年まれ)が勝利すれば、ジョージ・H・W・ブッシュ1924年まれ)以来28年ぶりに戦前第二次世界大戦終結前生まれ大統領就任する。

ブコメで指摘されて気付いたけど、1939年ナチスポーランドに侵攻してから1945年日本降伏するまでの間に生まれ大統領はこれまでにいないから、アメリカ史上初(そしておそらく唯一)の「第二次世界大戦中に生まれ大統領」になるのか……

前任者より早く生まれ新人が2人続けて就任するのはおよそ100年ぶり

前任の大統領よりも年上の者が新しい大統領になったことは何度もあるが(前回の大統領選は、クリントンが勝ってもトランプが勝ってもオバマより年上の大統領だった)、それが2回続けて起きるのは、セオドア・ルーズベルト(1858年まれ)より年上のウィリアム・タフト1857年まれ)より年上のウッドロウ・ウィルソン(1856年生まれ)が大統領就任した1913年以来のことである

苗字文字数が同じ大統領が3人続けて就任するのはアメリカ史上初

これまで2人続けて苗字文字数が同じ大統領就任したことは6回ある(Van Buren→Harrison、Lincoln→Johnson、Grant→Hayes、Kennedy→Johnson、Carter→Reagan、Obama→Trump)。だが3人連続したことはない。もしバイデン(Biden)が当選したら史上初の例となる(Obama→Trump→Biden)。

そういえば、オバマバイデントランプペンス(Pence)と、2代連続で正副大統領苗字文字数が一致しているのはレアケースかもしれない。大統領選挙二大政党候補者苗字文字数が一致する(Trump vs. Biden)のは、2000年ブッシュゴアBush vs. Gore)以来20年ぶり。

共和党政権が1期しか続かなかったのは戦後

第二次世界大戦後のアメリカでは、民主党が1期でホワイトハウスを明け渡したことはあるが(ジミー・カーター政権)、共和党が1期でホワイトハウスから追い出されたことはない。再選に失敗したジェラルド・フォードジョージ・H・W・ブッシュも、前任者(リチャード・ニクソンロナルド・レーガン)が共和党員なので共和党ホワイトハウス支配は2期以上続いている。もしトランプが1期で追い出されバイデン政権誕生したら、戦後初めて共和党が1期でホワイトハウスを明け渡すことになる。

初の女性副大統領・初の黒人副大統領・初の黒人女性副大統領

カマラハリスは、女性としても黒人としても、そしてもちろん黒人女性としても初めての副大統領になる。

メディアだと「黒人女性としては初の副大統領」って言われるけど、女性としても黒人としても初なので表現が難しい。「初の黒人女性」だと、白人女性黒人男性がそれ以前にいたかのように聞こえる(「黒人女性初の国務長官」だったコンドリーザ・ライスがそうで、「女性初の国務長官」はマデリン・オルブライト、「黒人初の国務長官」はコリン・パウエル)。

追記

戦前警察アメリカ分署です。1942年はすでに米もWW2に突入しており、バイデン戦前まれは明らかに誤りです。戦中か戦勝前としてください

ご指摘感謝。おっしゃるとおりで赤面の至り。

カトリックの少なさに驚く。ググる2014年時点で37%がプロテスタント23%がカトリックらしい。それでも凄まじい偏りだが、どんな背景があるんだろう

大きく2つの理由があって、

このうち後者について、ケネディ1960年選挙演説で次のように言っている。

わたしは、公的にはカトリックでも、プロテスタントでも、ユダヤ教でもないアメリカを信じます。そこでは、公共政策に関して、公僕が、ローマ教皇キリスト教会全国協議会やその他の宗教組織に指示を求めたり、そのような組織から指示を受けることがありません。

https://www.jfklibrary.org/learn/about-jfk/historic-speeches/address-to-the-greater-houston-ministerial-association

まり20世紀後半になっても「教皇の言うことを聞くやつが大統領でいいのか」という不安があったという話。

ちなみに、バイデンアメリカ史上初の「カトリック信徒副大統領」でもある。「二大政党から大統領候補に指名されたカトリック信徒」としては4人目(アル・スミスJFKジョン・ケリーバイデン。全員20世紀以降に民主党擁立)。

なお、これまで日本首相になったカトリック信徒は3人いる模様(原敬吉田茂麻生太郎)。プロテスタントも何人かいるし、首脳の信じている宗教という一点に限ってはアメリカなんかより日本の方が遥かに多様という。

初の女性米国大統領副大統領からの昇格で実現する可能

仮にバイデン任期途中でリタイヤしてハリスが昇格し、2024年の大統領選挙ハリス女性候補に敗北すると、「初めての女性大統領」と「初めて選挙で選ばれた女性大統領」が別人になるので、トリビア好きにはたまらない展開になる。ニッキーヘイリーには頑張ってほしい。

(現状、「最年少大統領」がこの状態で、「最年少の大統領」はセオドア・ルーズベルトだけど、彼は前任のウィリアム・マッキンリー大統領暗殺に伴って昇格したので、「選挙で選ばれた最年少の大統領」はジョン・F・ケネディ。仮に今回の選挙ピートブーティジェジが勝っていたら限定なしで「史上最年少の大統領」になっていた)

バイデンさんが大統領になったら、健康問題的な意味で4年間きちんと勤め上げられるかどうか不安だよ。

一番のリスク大統領就任式という説も。就任式は1月に屋内で行われるけど、高齢バイデンには風邪を引くリスクがある。実際、1841年に、68歳だったウィリアム・ハリソン大統領めっちゃ寒い日に就任式で長々と演説して3週間後に風邪を引き、そこから肺炎になってアメリカ史上最も在任期間の短い大統領になってしまった(在任31日間)という故事があるので……

(ちなみに、日本内閣総理大臣で最も在任期間が短かったのが東久邇宮稔彦王の54日なので、日本首相よりアメリカ大統領の最短在任記録の方が短い。ハリソンの在任期間はあの宇野宗佑の半分以下)

2020-10-27

ホロコースト否定で有名なN医師について。

かつてマルコポーロ事件というものがあった。

マルコポーロ事件 - Wikipedia

この記事を読めばN医師とは誰のことかたちどころにわかるのだが、それはさておき、色々調べてみると、この事件文藝春秋社が一方的に悪いことがわかる。結局、スポンサーへのSWCから圧力という事実存在せず、勝手に慌てふためいただけの文藝春秋者が雑誌廃刊し、社長が辞任し、そして勝手花田編集長(当時)が辞めたのだけだったのであるしかしこれは最悪だった。ホロコースト否定的なことを言うのはタブーだ、という誤った認識世間に与えてしまたかであるSWCは単にホロコースト否定論を監視する団体であり、それまで世界中でずっと抗議してきたのである。なぜなら、欧米では日本など比べ物にならないくらホロコースト否定論は昔から大きな問題だったかである

 

事件の中心人物だった、N医師のその当該記事噴飯物記事だった。何せこのN医師普通ならあの有名なAuschwitz強制収容所は「アウシュビッツ」或いは「アウシュヴィッツ」と日本語表記される筈なのに、「アウシュウィッツ」と呼んでいたくらいのレベルだったのである。今でもAmazon古本で『アウシュウィッツ真実』という初版本は売っているので、その表紙をWeb上で見てみるといい。これが別の出版社からのちにペーパーバック版として出された時に、こっそり「アウシュヴィッツ」に直しているのが笑える。ちなみに、この指摘をしたのは、N医師ネットで散々苔にするほどに論駁していた山崎カヲル氏である

 

N医師は、デイブスペクターによれば、それまでは英字新聞への投稿マニアに過ぎなかったらしい。おそらくは、そうした趣味1995年当時、そこそこ盛り上がりを見せていた欧米ホロコースト否定論に接する機会を与えたのであろう。N医師にしてみれば単に当時の流行り物に飛びついただけだったに違いない。ともかく、N医師別にホロコーストに詳しいわけでもなんでもなく、その程度のレベルであったから、文芸春秋社はきっちり反論記事でも載せるべきだったし、或いはN医師記事など最初から突っぱねるべきだったのである。どれだけ噴飯物の内容だったかは、これでも読んでみるといい。

『アウシュウィッツ「ガス室」の真理』の虚偽

 

だが、たった一度のその記事は、N医師人生を大きく変えてしまった。未だにN医師日本ホロコースト否定論者の第一人者としてたくさんの信者存在する人物になってしまったのである知名度を生かして講演料まで稼いでいるらしい。前置きが長くなったが。

 

アウシュヴィッツのクレマトリウムⅠの捏造疑惑に関する経緯

この問題は、結構事情が複雑である簡単説明英語だがこちらで読むことはできる。一体この煙突問題を誰が言い出したのかはよくわからないが、クレマトリウムⅠの捏造疑惑自体は、1980年代ごろにフランスの有名なホロコースト否定論者だったロベルトフォーリソンが言い出したのである。大概の細かいホロコースト否認論はこのフォーリソンが発祥であるフォーリソンはホロコースト否定を公に行ったことで当局逮捕され、裁判になり、実はこの裁判でクレマトリウムⅠの捏造疑惑は形上は一旦決着しているのだ。だが、フォーリソンはそんなことで諦めるような人ではない。

続いてホロコースト否認問題では欠かせない話題であるツンデル裁判というのがカナダで起きる。欧米では当時かなり大騒ぎになった事件である。そして、このカナダ事件フォーリソンは深く関与した。有名なロイターレポートの発案者も実はフォーリソンなのである。それはともかく、クレマⅠの捏造疑惑ネタがまたこ裁判内で取り沙汰される。この時はフェルデラーという超悪質なホロコースト否認論者が証人となって裁判で取り上げたようである。間違いなく暗躍したのはフォーリソンであろう。この裁判の決着はさておき、最も目立ってこのクレマⅠの捏造疑惑を取り上げたのは1990年代に入ってデヴィッド・コールというユダヤ系アメリカ人だった。ユダヤ人だってホロコースト否認はする人はするのであるが、彼はアウシュヴィッツ博物館に出向いて、アウシュビッツ 担当者まで登場させるビデオを撮ったのである。このビデオは今でもネットで視聴可能であるコール自身はこのビデオ販売に抗議したらしいが、出回ってしまったものしょうがない。しかし、このデビッドコールネタ元は間違いなくフォーリソンであるコールの裏で暗躍していたかどうかまでは知らないが、フォーリソンが1980年ごろに指摘しなければ誰も気づかなかったのは間違いない。2000年代以降はオーストラリア否定論者フレデリックトーベンという人物がこのクレマ1捏造疑惑喧伝していたようであるが、この人物も何度か逮捕されてるということくらいしか私は知らない(正直どーでもいい)。

 

ガス室捏造疑惑って簡単にいうとどういうこと?

簡単には説明がなかなか難しい。全体を把握しようとすると、ホロコーストの全体的な細かな問題まで把握しないといけなくなる。ただ、こう説明することはできる、ホロコースト否定派はどんなことがあっても絶対断じてガス室」だけは認めることはない、のである。他の虐殺方法程度なら認めるホロコースト否定論者はいるけれど、ガス室だきゃあ絶対に認めてはならぬものなのである。そのガス室現在アウシュヴィッツという最も有名なホロコーストにおける強制収容所内にあったものとして公開されているのだから否定論者にとってはまず最初に疑いの目を向けるものになってしまったのだのだろう、それ故に、否定論者にとってはクレマトリウムⅠと呼ばれるその場所は「戦後捏造された」ものでなければならない。

ところがこのクレマトリウムⅠ、実に否定論者にとって都合がいいことに、実際に戦後に「再現工事がなされているのだ。前述したリンク先を読めば書いてあるように、戦時中にいったん防空壕になっていたものを、ガス室として公開するために、もっかい戻したのが、昔は共産圏だったポーランドだったのだ。そして、この再現工事に実際に携わった当時の職人が、前述したフォーリソン裁判に出廷し、「再現工事をこんな感じでやりました」ときっちり証言していたのである。当然、捏造だなんて話にはなっていない。しかし、フォーリソンら否定派は「そんなに都合よく裁判証人が出てくること自体怪しい」と引き下がらない。何せ、1980年代当時は、相手東側であり、西側にとっては怪しすぎる共産圏国だ。背後にはソ連がいて、疑うにはもってこいの状況だった。

 

だが、ほんとはどうでもいい煙突問題に未だにこだわるN医師

前述した海外サイトへのリンク記事にもあるが、煙突問題とは、戦時中にクレマトリウムⅠにあった煙突が、そこが防空壕に改築されるとき解体されたのである。そして、その煙突アウシュヴィッツ博物館1948年オープンするのに合わせて、当時の再現という意味でもう一度作り直されたのだ(煙突だけではなく他も色々工事しているが、結構杜撰再現工事であることは頭に入れておく必要がある。図面をよく見ればわかる)。だから、一時期煙突はなかったのであるが、戦後にそのなかったときのクレマトリウムⅠの写真が残っていて、それを現在写真比較して「戦後すぐにはなかったじゃないか!どうして今あるんだ? 捏造しだろ?」と仰るのである。……アホかと。

実際、煙突ガス室にはほとんど全く関係がない。火葬場があれば、煙突必要だった筈で、クレマトリウムⅠのガス室否定しても、そこが「死体置き場」だったことを否定する否定論者はゼロだって死体置き場」自体バッチリ図面にそう書いてあるのだからである。むしろ煙突がもし戦後に再建されていなかったら、図面を見た人間は気づく筈である、どうして煙突がないのだ? と。結局、防空壕だった時もその前の時も、図面が残っているので、問題根本があるとするならば、ガス室としてほんとに「死体置き場」を使用したのかどうかだけが問題の筈なのである。これが、N医師にはどうしても理解できないらしい。そもそも悪いのはフォーリソンなのであるが(図面をきっちり1980年ごろに既に取得しているのであるが、フォーリソンには図面を正しくみる能力はなかったようである)、そもそも論としてそこがガス室とされるのは、図面にも文書にも残ってないのだからアウシュヴィッツ司令官だったルドルフ・ヘスやその他の証言者の証言しかないのである。こんなの否定論者が一番よく知っている事実の筈である。つまり、最も怪しむべきはその「証言証言者」であるわけだ。だから、私はそのことを直接本人に言ってやったのだが……。

 

実際話してみると、実にくだらない低レベル陰謀論であるに過ぎなかった。

N医師最初アウシュヴィッツ司令官のルドルフヘスの話がガス室根本である」のようなことを言ったので、私はそれはおかしいと指摘した。何故ならば、ルドルフ・ヘス逮捕されたのは1946年3月であり、実はその約1年も前に、問題にしているクレマトリウムⅠのガス室に関する証言をした人物いるかであるポーランドは、ドイツ撤退すると、さっさと戦後処理に取り掛かり、ドイツ終戦を待たずに戦犯裁判に動き出していたのだ。だから1945年4月16日アウシュビッツ囚人だった人物がクレマトリウム1のガス室についてポーランドクラコウというアウシュヴィッツ収容所のある地元法廷で宣誓証言をしているのである。これは時系列として全くN医師の言っていることに矛盾する。

すると、N医師はこう言ってのけたのである

「肝心だったのは、連合国としてはアウシュヴィッツ司令官だったルドルフ・ヘスに中心人物として証言させることだったのであり、誰が証言をし始めようと構わなかったのである」と。

まぁ、そんなことだろうなとは予想はしていたが、N医師自身脳内ストーリーさえ辻褄あわせができればそれでいい低レベル陰謀論者に過ぎなかったのである。彼はこうも言っている(昔からである)、「ヘスはイギリス人拷問を受けて嘘を言わされている」と。拷問を受けたというのは拷問した人物が手記にそう書いているので、事実であるだろうが、拷問受けてなくても当然信用してなかったわけだし、それよりももっと矛盾しているのは、これ拷問したのは「イギリスである。N医師は別のところでは、「ポーランド」が怪しいと言ったり、「ソ連」が怪しいと言ったり、単にめちゃくちゃな脳内理論披露しているだけなのである陰謀論者の一般的な主張通り、陰謀それ自体証明は一切ない。陰謀は巧妙にできているかである

だったら何故、「煙突問題」のように疑われるような事実を残すんだよ? と突っ込んでやりたいところだが、奴らは脳内論理の辻褄さえ合えばそれでいいので、どんなにツッコミを入れても無駄である

 

そんな下らない低レベル陰謀論者を指示する信者たち。

当然私など、N医師に比べりゃ微塵子のような存在しかいから、支持はN医師に集まる。N医師自体ネットに腐るほどいる低レベル陰謀論者に過ぎないことは実際どうでもいい話なのだけど、N医師を支持する人が実際に結構いるという事態を目にしてしまうと、こっちが頭が変になりそうだった。SNSはそうした言わば人気者をあたかも「教祖」のようにしてクラスター形成する仕組みだから、それ自体現象としてしょうがないのだけど、頭では分かっていても実際に見てしまうとねぇ……。

 

というわけでさ、ホロコースト否定論なんざ、そんな下らない低レベル世界なんだ。あなたは、「ガス室」はそれでも疑わしいと思いますか? つーか、なんでそんな低レベル陰謀論が支持者を集めるのか、私にはちっとも理解できません。 

 

追記すると、N医師にはクレマトリウムⅠは一回防空壕に改築させていることだけはなんとか認めさせた。それすら認めていなかったのだから、呆れるけど。

2020-10-04

anond:20201004133730

選挙権がなかった、とは言うけど、日本女性参政権が認められた1945年って、フランスイタリアと同じなんだよね。

ドイツ1919年だけどその結果は・・・

2020-08-15

日中戦争従軍した祖父

過去記憶を頼りに書いているため、情報の正確性を保証できません。それを了承の上でお読みください。

前置きを飛ばしたい場合引用ブロック部分へ

今は亡き私の祖父は、日本軍兵士として末期の日中戦争従軍した。

10年前、祖父は私にその時の詳細を一度だけ語った。

第二次世界大戦が終わって75年、その話を自分記憶がこれ以上劣化しないうちに書き留めておく。

祖父1920年12月まれ1944年頃〜1945年従軍体験を語った当時90歳(認知機能正常)

・私 …1990年まれ、話を聞いた当時21歳

私は幼い頃から祖父中国戦争に行ったことを知っていた。

しかしそれ以上のことは何も知らないままだった。

大学2年のGW、私は両親、妹と共に父方の祖父母宅へ遊びに行った。

祖母と母が台所食事の片付けをし、祖父、父、妹、私が居間で団欒していたその時だった。

祖父が何の前置きもなく、そして極めて淡々と、幼少期から戦争体験を語り出した。


祖父淡路島の山深い農村で生まれた(長男ではない)。

高等小学校卒業後、街の酒屋で奉公した。

将来なりたい職業兵隊だった。

こんな田舎の子供でも「兵隊になる」と思わせる学校教育がなされていた。

奉公が終わった祖父本州民間企業就職した。

そして、徴集がかかった(徴兵検査1921年春?)。

戦地へ赴くよう命令されるまでは、日本国内で訓練を受ける。

兵隊には任期があり、その任期を過ぎると、戦場へ行かなくても良くなる。

任期陸軍・常備兵役現役の2年間?)

祖父任期満了の直前に「中国・石家荘」への出兵命令を受けた。

祖父の話しぶりからは、小学生頃は兵士に本気でなりたいと思っていたが、

いざ徴集される段階になってからは、出兵せずの任期満了を願っていたように感じられた。

ちなみに祖父JR国鉄と呼ぶノリで、中国全体を「満洲」と呼んでいた。

そのため私は石家荘を旧満洲国の都市勘違いしていた。


祖父日本から中国沿岸部まで船で移動し、その後陸路にて石家荘に到着した。

石家荘で祖父はある鉄道の警備を任された。

この鉄道を走る汽車日本軍の物資を運んでおり、これを中国側に妨害される恐れがある。

そのため駅だけではなく途中の線路も警備する必要があり、

祖父担当箇所は山あい農村に近い線路であった。

日本軍は農村占拠し、逃げ遅れたり抵抗した現地の民間人捕虜として捕らえ、使役していた。

しか日本軍に捕まっていない現地人もいて、

彼らが日本軍を襲ってくることがあった。

祖父は彼らに応戦し、山中を駆けずり回った。

当然ながら地の利日本軍より現地人にある。

それに山は樹木で覆われ視界が悪く、敵の姿が見えず、どこから襲ってくるかがわかりにくい。

彼らは銃を含む武器を持っており、しか自分たちの生活基盤を取り戻すべく必死こちらに向かってくる。

木と木の間からは、壮大な万里の長城が見えた。

祖父が戦ったのは民間人のみだったのか、民間人擬態した軍人だったのか、それとも両者混ざっていたのか」

という、かなり重要情報が私の記憶から抜け落ちてしまっている。


ある日、祖父は仲間達と共に銃の撃ち合いをしていた。

もちろん敵から銃弾自分達に向かって飛んでくる(祖父は「プププププッ」という効果音と共に

親指と人差し指でつまむようなポーズをとり、右から左に水平に移動させることで弾道を表現した)。

その時、横にいた年上の兵隊に弾が命中し、彼は息絶えた。

そしてその後、祖父の片脚にも弾が当たった。

祖父は山の中を担架で野戦病院へと運ばれた。

運んだのは、中国人の捕虜達だった。

銃創のでき方によっては、当時の医療技術では脚を切断しなければならなかった。

しか祖父場合銃弾は膝上を貫通しており、脚の切断は免れた。

ただ、祖父の傷の縫合は無麻酔で行われ、激痛が伴った。

祖父野戦病院入院している間、祖父のいた部隊中国側の総攻撃に遭った。

結果、部隊の多くの兵士犠牲となった。

祖父は小柄で屈強ではないため、戦友会では「あの時入院していなかったらお前も死んでいただろう」とよく言われたという。

祖父はその後、1945年8月15日太平洋戦争終戦」を現地で迎えた。

一ヶ月後に日中戦争終結したが、他の任務があったらしく、

祖父帰国は1945〜1946年の冬頃となった。

この部分を聞いた時、私は色々なショックを受けた。

戦争リアル、穏やかでニコニコしている「おじいちゃん」の抱える痛み、そして父や自分誕生紙一重だったということ。

私は祖父の膝上・その裏の傷跡をこの時初めて認識した。


祖父による戦争体験の話には後日談がある。

実は、祖父は膝上の銃弾貫通と同時に片足の小指を失っていた。

このことは、祖父葬儀喪主の伯父(祖父長男)が挨拶の場で初めて語った。

喪主挨拶では他にも、祖父が夜中に大声を出して飛び起きていた(のを幼き日の伯父が目撃した)ことが明かされた。

祖父戦地体験を引き金としたPTSD発症していた可能性がある。

これらの話を祖父がすることはなかったし、裸足の祖父を何度も見ているはずなのに、指が無いことに全く気がつかなかった。

銃弾効果音まぬけさといい、「自分中国人を撃った」経験を話さなかったことといい、

祖父の語りは孫娘用にかなりマイルドになされていたに違いない。

祖父がなぜあのタイミング戦争体験を孫に話したのか、その意図を聞くことはもうできない。

話に圧倒されてしまい、また深堀りを戸惑ってしまい、曖昧情報確認や疑問の解決ほとんどできなかった。

90歳で突如戦争体験を語った3年後、祖父は93歳で他界した。

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