はてなキーワード: 進歩とは
このままAIの進歩が進むとAVは全部AI製になる。そしてAV女優は仕事がなくなる。
あわせてロボット技術が進歩すると、風俗嬢はロボットになって風俗嬢の仕事がなくなる。
これがどういうことかわかるか? つまり女がいらなくなるってことだ。
なんてこった。女がいらなくなっちまうんだぞ。
住居表示の正規化が話題になっていたが、住居表示の正規化は不可能である。
まずデタラメに書く人がいるということが重要な点である。これはどうやっても防げないものだ。デタラメさ加減にも許容範囲はあろうが、この許容範囲そのものも各要件によっては曖昧なものである。
問題は、そのデタラメに書かれたものや、虚無的な例外までも救おうとする態度にある。我々はとかくすべてを100%完全にやろうとしがちであり、ここについてコスト意識を持って考えない。
しかしながら、7〜8割ほどうまくいくルールというのは示せるはずであろう。そうしたルールを公開し、「このルール・規格に沿った自治体は恩恵が大きい。そうでなければ各自プラグインなどを作って頑張って。OSSもあればなお可」というようにすればよい。
要はシステムを作る側が地方自治体に配慮し過ぎなのであり、「住所正規化に携わる人間・組織は、名寄せ困難な地方自治体よりも格下」というような位置付けに現状なっている。これでは正規化は原理的に不可能ではないか?AIを使おうが無理であろう。
無限に例外があるならば、「その無限の例外を切る」という態度が非常に重要であるはずだ。だいたい、無限に例外があるのならば正規化もクソもない。正規なものなど何もないのだ。星の数ほどある例外まで気にしていたら、金がいくらあっても足りない。経験者たちが、バラエティに富んだ無限の例外の1つ1つについての苦労話を次世代に引き継ぐ語り部になっているだけではないか?
これではまるで、多種多様な契約の非正規雇用をパートナー社員と呼んで、全員を「正規の社員です」と言っているようなものである。
こうした「例外を切る」という態度について「酷い」という意見もあるかもしれないが、コストパフォーマンスで見れば、切らない方がコストが増えてかえって酷いのである。こうした事象はFalse Economyなどと言われる。嫌われる勇気を持てないのだ。
実際に例外を切っていけば「住居表示の正規化ができない地方自治体は滅びる」というような状態になってしまうであろう。だから、そちらを逆に支援すればよいのだ。支援すればよい、というよりも支援しなければならない。これこそが進歩であり前進である。
ただしこれは楽観的な論であり、住居表示の正規化のために地方自治体を無視するような法律を作ることは現状ではかなり困難であろう。各自治体住民からの反対運動が起きかねないし、必ず当地の議員からの反発が予想される。
つまりシステム開発側が、小金ごときでおもねるのではなく明確に「ノー」と言わなければならないのである。それを「へへぇっ〜!お金様ですかいっ!」と平伏して、日本各地で勇猛果敢なインパール作戦に突貫しているのが現実ではないのか??
そういう構造を評して「住居表示の正規化程度の問題」と無知な人から言われている。要は軽んじられており、気にも留められていない。「俺たちの方が賢いぞ」と思われているのだ。開発者が不可触民だった時代はすでに終焉を迎えているにもかかわらずだ。
ほう、政府とはそんなパワーすらない存在なのか?と思われている。鶴の一言でやればよいではないか?と思われている。
しかしそんな政府に我々の生活をなんとかしてくれと国民は言う。未だにそういう臣民体制の社会なのである。政府は弱いし、国民も弱いし、俺もお前も弱いのだ。経済がそれを示している。
AIさまがなんとかしてくれるというのは、単なるドラえもん待ちの空想ではないのか?
AIは、残念なことに不思議なポッケで夢を叶えてくれるドラえもんではない。したがって我々のび太くんが変わらなければならないのだ。のび太くんだけで住居表示の正規化をなんとかしなければならないのだ。
基本構造はこう
これ、どこの宗教組織だって感じで馴れ合いと慰みあいに満ちたオジサンオバサンの社会なんだよな
なんとなく、まあこういう考えの人は多くいるよなあと思う。みんな自分の好きなように生きる選択をして、それでも社会が成り立っていくようにするにはどうしたらいいんだろう。
私は人間1人あたりが新しい人間1人を生み出さないと、次の世代の負担が爆増してもっともっと厳しい貧しさが到来するぞと思ってすぐ悲しい気持ちになってしまうのだけど(既に私たちの世代が厳しい貧しさを体験している)、次の世代の痛みなど知らぬ、という人もそりゃいるか。とは思った。確かに。でもそれってあんまり大人らしい態度じゃないなと思った。自分が属するグループ、組織、社会の将来を良くする=人類を良くするために生きるのが、人間ってもんじゃないのか。もちろん、次の世代の苦しみが少なくなるように政治でなんとかしようという動きが今後出てくるかもしれない。ただ、団塊、そしてその次に団塊Jrの世代が死に絶えてやっと人口分布がまともになり、若い世代が苦しまなくなる、という、その時代到来までの半世紀くらいで、日本人の貧しさによる精神ズタボロ度はすごいことになってしまうんじゃないか。心配である。
私は人口が漸減していくことには概ね賛成だが(そんなに多くの子供をかかえる余地はもはやこの国にはないし、実際的に仕事に必要な人間の数はこれからどんどん減っていく)、ドデカい退役世代を、細々とした現役世代が養うというのは、無理があるし、つらい。
今の退役世代はまだ貯蓄があるからいいが、団塊Jrが退職し非労働人口になった時に、彼らの生活を金銭面でも身体面でも、現役世代が支え切れるのかは本当にわからない。年金制度の崩壊と言われる2025年は2年後に迫っていて、そこから本当の地獄が始まると思う。
すごく極端で非倫理的な話をすれば、老人達が長生きしすぎで、これは現行の年金制度を作った時には想定されていなかったと思う。そして、老人というのは家や車を新しく買うことはないので、まとまったお金があってもそれを経済に返還できない。子世代の建てる家や土地にどんどん老人たちがお金を出してやればいいと思うのだが、それはそれでしがらみになりそうで、難しい問題だと思う。そうして遺産相続の時が来る頃には、子世代ももはや退役している。長生きしすぎである。頼むから70くらいで死んでくれ。私も70くらいで死にたい。
70くらいなら子世代もまだ40とか50のはずで、孫世代の教育費に遺産を宛てたり、新たに家を建てたりできる。ただ、孫の世話をまかされている祖父母を考えた時に、70は早すぎる。かもしれない。私の祖父は80で死んだ。祖母は認知症を発症し、施設でまだ生きているが90を過ぎ、これは生きすぎだと思う。ただ、戦前生まれの体が頑丈なのであって、敗戦後に生まれた人々はもっと軟弱で、そんなに長生きはしないと思うし、生活習慣が変わったことによる病気も多いと思うので、平均寿命は現実的には80弱くらいになって欲しいと思う。介護現場の人手不足は国の縮図で、少ない現役世代が、自分たちの数倍の人数の入居者の世話をしている。
下の世代が苦しみながら、「もうじゅうぶん生きた、早く死にたい」と言っている世代を支え続ける構図は続く。ただでさえ老人の数が多いところに、出生率1.3というのは、「1.3人の人間の働きで(金銭的にも身体的にも)2人の老人を養う」ことであるから、国が必死になって子供を産ませようとしているのは確かに理論としてはスタンダードだ。
しかし、子供を産み育てる土壌があまりにも貧しくなってしまったために、子供を持つことはかなり難しく、私にはもはや特権化しているように見える。経済面、また、身体面および精神面で一定の条件をクリアし、他人(異性)と生計を一にすることができる人、というのが、現在この国で子供を持つ権利がある人々である。ここがもうかなり狭き門のように思える。異性愛者または子供のために異性と性交することができる人、かつ、健康で共働き+家事+育児ができ、子供の教育費を過不足なく捻出できる人。で、できねェ〜〜〜〜〜。こんな…ハードモードすぎるってばよ。
加えて出産(初産)は30までに済ませておいた方が体の負担が少ないので(と私は思っている)、20代で仕事をしながら、人生のパートナーが誰なのかを見極め、その人と着実な関係を構築しなければならない。ウワーーー!難しいよ。私は友人からもきつく「お前は子供を持ってはならない」と言い含められているとおり、そもそも治療薬の関係で妊娠ができないし、おそらくこの病状では育児にも耐ええないだろう。その前にパートナーがいないことも大きな問題だ。私のような「外れ物」が子供を持てないのはまあ当然として(本当は「家族」というものが欲しかったが…)、それなりに普通の生き方をしている多くの人が、上述のなんらかの条件をクリアしていないために、40年前なら結婚出産をしていたであろう結構なボリューム層が、非婚のままである。
ただ、40年前のように誰でも彼でも結婚出産しましょう、という風潮だと、本来その能力のない人が親になり、私のようなアダルトチルドレンおよび精神障害者が大量発生してしまう。正直、親世代の雑な育児のツケが回って「結婚できない」という人もかなり多いと思う。それを言い出したらキリが無いかもしれないが、ちょうど戦後に生まれた人達というのは、目まぐるしく変わった価値観を土台にする社会を生きながら、親は戦前の四角四面な道徳観念をもっており、それによって躾けられるという、かなり不安定な人達なのである。既にこの世代からして。大人の「未成熟」というのは、敗戦後生まれた人達から始まる問題だと思う。「未成熟」という言い方はよくないかもしれないが、大人としての役割のひとつだと私が思っている、「子供が1人で生きていけるように育てる能力」を有していない人が、この辺りから大量に出てくる。
または、戦前はそこまで個人の責によらず、社会全体でなんとか、どんな子も生きられるようにしよう、という、厳しさ前提の優しさがあったのかもしれない。たとえば子供がだめでも、孫が優秀かもしれない。そうやって、とにかく世代を繋いでいくことが優先されていたのは、日本古来の習慣(家制度)である。敗戦により、新自由主義、個人主義が「日本人なりに」受け入れられた結果、家制度は解体され、本人の希望によってパートナーを見つける形に変わった。それが時代の進歩というもので、これが「自由」である。どんなに下の世代が辛い思いをしようと、私たちは「自由」を手放してはならない。破れ鍋に綴じ蓋だったり、不均衡だったり、時には大きな問題のある相手を宛てがわれてする結婚は終わり、自分にとっての最上の相手を探す時代が訪れた。
そこで、今まで「宛てがわれて」結婚していた層の「問題のある人達」は結婚できなくなり、子供の数は減っている。これは、その人たちの遺伝子が淘汰されるならいいのでは?と一瞬思うが、遺伝というのはそう単純なものではなく、最悪な親からでもまともな子供が生まれたりするので、とりあえず宛てがって産ませよう作戦は、生物の生存戦略としては優秀賞だと思う。
ただし私たちは人間なので、やはり「自由」を捨ててはならない。子供を持たない人間たちは、その仕事によって次世代になんらかのものを残すしか手がない。私たちは「自由」だと体を張って証明すること、そして、自分より後に生まれる命のために、少しでも貧困の構造や社会制度をよりよいものに作り替えておくこと。これは子供を持っている人ももちろんやっていると思うが。私は結局子供は社会で育てるものだと思っているので(親個人の責任はそこまで重くするべきではない)、実際に子を持たない人でも、その働きはひいては次世代のためのものなのだから、誰が子供を持っているとか持っていないとかで揉めるべきではないと思う。
サイン盗みとサイン盗み対策は日々過剰に進歩し続けて、1970年ごろになると、ピッチャーとキャッチャーは乱数を送り合うところまでになってしまった。1球なげるたびに乱数を送って隠し持った乱数表と照合して球種を決めていた。乱数はすぐにバレてしまうから試合中なんども乱数表を切り替えるようにしてた。そんなことをするようになったから試合時間がどんどん長くなっていく。1980年頃になったら、21時半の時点でまだ5回とか、試合が完了したら23時だったとか、そういうのが日常茶飯時に。テレビ放送時間には収まらないし、試合を最後までみたら終電で帰れないし、試合中ひまを持て余した選手が攻撃時間中にからあげを食べるようになったり、川崎球場ではファンが流しそうめんをしたり、いろいろな弊害が発生し社会問題となってしまった。
それをうけてゼットが「乱数送受信機能付きグローブ」を開発したんだけど、そういう問題じゃないだろ。
そこで「乱数禁止」「サイン盗み禁止」が取り決められたんだよ。
それ以来、「乱数禁止」「サイン盗み禁止」は絶対のルールになったんだよ。
高校野球でハンケツ王子がやたらハンカチに触ってたけどプロだとあれも禁止。「乱数送ってるのでは」と異議が付きかねないから。
<論点整理>
松尾:人間なのに、すごいことやれてるじゃん、みたいな将棋みたいな価値観は残るから教育はあり。未来のために資産的な意味なら意味がない。
松尾:人間を生産性の指標として捉えるからおかしい。農業が8時間労働から30分でできるようになって、なのに仕事作っているってのは人間がそうしたいからそうしてるだけにすぎない。そういう、やってもしょうもない仕事で優劣決めて分配決めてるだけで、生産性は関係ない。そういう人間なのにすごいじゃんで分配しあってるだけ。
働きたくない、社会と関わりたくないです。AIに仕事奪われる側だな自分は。
尊敬されないし、仕事もできないから、人間社会の評価でも負けてるから配分が取れないわけだな。
<論点整理>
松尾:企業数が増える。少人数で、たくさん仕事できるようになるから、小さな仕事をする小さな企業が増える。
川上:しかし経済では、人からお金を取るシステムにしなきゃだから、みんな無職で金がないと経済が回らない。ベーシックインカムが必要。
松尾:人は人からすごいと思われたい、人と接したい。ベーシックインカムでも、人だからすごいと感じて、人は人に金払う関係は維持されるはず。
ひろゆき:すごい人には大量に金が集まるけど、90%の人は人間に相手されずCGとかに相手されて気持ちいいで子供残せなくなりそう。
川上:人口減った方がいい。労働力みたいな人口が国力の指標になってるけど、AIで労働力はダブつく。資本主義は、資本受け継ぐ人が少ない方が有利だから。
松尾:老化は病気という科学的コンセンサスができつつあり、到達ゴールに据えられているから、10年,20年後は子供産む感覚が変わってる。
不老不死なりてえ。
<論点整理>
川上:文字をソクラテスは否定した、馬鹿になると。でも、現代人はソクラテスの賢さ超えた。AI使えば人間は強くなる。整形とかAIとかVRでマトリックスでプラグ繋ぎたいとか受け入れる人は勝つ。
不老不死になったなら、マトリックスみたいなプラグ繋ぎたいなあ。
リアル社会はクソすぎる。
<論点整理>
ひろゆき:日本でも生成AI作ってデジタル赤字出さないために、松尾さんが数百億円、日本で集めても、デジタル庁みたいに、デザイナーとかが上に立って、まともなことできないんじゃないの?
松尾:GPUを買うのに突っ込んでます、まともじゃない人はGPU使えないから
ま〜一応、勝負してんですねえってかんじ。
GPT-5が出て欲しい、マルチモーダル欲しいとかくらいしか思ってなかったけど、日本もファイティングポーズはとってるんですねえ。
AIで仕事奪われるってのは、現状のchatGPTでなく、もうちょいpdfの読み書きとか、ドメイン知識の理解とか、そういう話が今後できた時に来るんだろうけど。
それって、来年にはもう来てそうだね。
弱者男性で現状の社会では救われない身からすると、さっさとベーシックインカムで失業者になるのが最高だなあってかんじ。
そん時にセクサロイドとか、AIが作る神ゲームや神漫画がないときついけど。多分できるんちゃうの数年以内に。
あとは、不老不死が来るかどうかだなあ。不老不死が来てくれないと困るけど、不老不死は今のところ達成できる道が不明なのが怖いところだなあ。
AIで仕事を奪われた天才や秀才たちが、不老不死に到達できるんかなあ。
こうやって、未来に弱者男性が救われそうな可能性がはっきり見えてきたのはありがたいんだけど。
半導体だのフラッシュメモリの進歩がいまいち現状のAIの使用に耐えるために進歩が必要とか。
AI動かす電力問題が解決する道の核融合がまだまだ遠いとか問題はあるかあ。
ソフト側だけの進歩は強いみたいだけど、ハードがノロノロなんだよなあ。
ロボティクスとか、セクサロイドのキーポイントが抜けてるのも痛い。
仕事だけ奪われて、AIが弱者男性に利益与える未来にはギャップがありそう。その時期は地獄やんけ!
個人としては、起業をしてみてるんだけど、小さな会社ってか、自分一人でやってんだけど。AI使ったりしてるけど、営業とか古臭い感じで一軒一軒会社を訪ねる感じになってる。
地獄から救って欲しいなあ。AIが強くなれば、自分の起業も強くなるから、なんとか世界中のAI研究者頑張ってくれ。
なんか、AIが発展しなきゃ、次の世界が来ないような気すらしてきた。
「画家になるぞ!」みたいな小中学生とかって今なかなか厳しいような。
「映像作家になるぞ!youtuberになるぞ!」とか思っても、映像作家並みの動画作ったり、youtuberみたいなAIが出ちゃうかも。
創作だけじゃない。
今のこの瞬間に人間が努力するその努力は、少し待てばAIが解決してくれるんじゃないって素直に思う。
なんなら、実験とかもAIがやってくださいって思ってる、特に自分は理論系だから、プログラム書いたりしてはい終わりみたいな話が多い。そっからは作業にすぎない。
って感じだけど。
なんか、「AIがやれない部分」をやるべきだとは思うけど。
「AIがやれない部分」がまだハッキリとわからない。そんな部分ないのかもしれないが。
とにかく、「AIが出て、10年経ったけどできないねえ」みたいな分野が無いと、どこに努力を割り振るのかもわからない。
なんか、学問とかクリエーターとかやるより、「人間が喜ぶアウトプット制作」という産業部分の効率化とかを頑張ったほうがいいのかもね。
AI効果というのは、何らかの機構や機能における技術的進歩や普及を受けて、その機構や機能が実行しているタスクに対する人間(主に一般大衆)の側の評価が「知性」から「計算」へと格下げされること。
でも、それは逆に言うと「現時点で達成されていないことができるようになる仕組みは、何でも『知性』に見えていた」一般人の認知のほうに問題があるわけ。一般人はともかく、AI研究界隈の人達は、昔から「知性」のありなしに対しては高い基準を設け、その到達点としてAGI(汎用人工知能)を、その先にASI(人工超知能)を設定している。ここは時代や技術進歩の度合いに関係なくブレてない。そしてChatGPTはAGIではない。少なくともAI研究者は誰もそう思っていない。ワイゼンバウムの話は、生成AI登場の50年以上前に「文脈に応じたテキストを生成する能力を持つだけのプログラムを知性とはみなさない」という研究者がいた、という明確な反例。俺が書いていることはこの基準に照らしたもので、AI効果ではない。
逆に「テキストの続きを書く能力を知性とみなさないのはAI効果だ」と考えるあなたが、なぜ現在形で「テキストの続きを書く能力も知性だ」と自信を持って思えるのか知りたい。あなただって、タイプライターを叩くキツツキと生成AI、あるいはサーモスタットと制御系AIの間のどこかには「知性/非知性」の線を引くわけでしょ(そうでないなら、それは「何でも見方によっては知性と言えなくもないんです」というペダンティックな独り言でしかない)。
その線引きって、たとえばANIとAGIの定義のように、何らかの客観的・外在的基準に照らしたものなの? そうでないなら、その線の引き方こそが、あなた個人の主観に規定されてるんじゃないの?
この投稿はAIの現在の技術的な限界とその適切な使い方について的確な指摘を提供していると思われます。しかしながら、いくつか反論する点も考えられます。
AIの潜在能力の過小評価: この投稿はAIを「道具」として捉え、現在の技術的な限界を強調しています。しかし、この視点はAIの潜在能力と可能性を過小評価している可能性があります。現状のAIが情報検索とコンテンツ生成の間でバランスを取るのが難しいとはいえ、AIの能力は急速に進化しており、将来的にはこれらの能力を兼ね備えたAIが開発される可能性は十分にあります。
ユーザーの期待の無視: 投稿者はユーザーが「知性」をAIに見出しすぎていると述べていますが、これは一方でユーザーの期待に対するAIの進化を促す力ともなり得ます。ユーザーがAIに求める高度な認知能力や「知性」は、AI技術の進歩を加速させ、より高度なAIの開発を推進する可能性があります。
AI利用の自由度への制約: 投稿者はAIを特定の目的に限定した使い方を提案していますが、これはユーザーの自由度を制約する可能性があります。AIはその応用可能性の広さが魅力の一つであり、個々のユーザーが自分の目的やニーズに応じてAIを自由に利用できることが重要です。現状の技術的な制約を認識しつつも、AIの利用法はユーザー自身が探求し、経験から学ぶことが重要と言えます。
頷けるところもありつつ「そもそも人が生まれた場所から移動するのは良くない」は分からない。
どういう考え方から出てくるのか。
もちろん、嫌々故郷を離れなくてはいけない人が出るのは不幸な話だが、生まれたところが気に入らなかったらどんどん移動していけば良いのでは。それが個人の自由であり、移動が人類を進歩させたとも言える。
生成AIとかで、写真見たいなイラストが書けるとか、かなりすごいと思っている。
しかし、もう少し先が見たい。
最近だと、「近畿地方のある場所について」というネット小説が流行ったが。
色々な断片的な記事とかインタビュー記事とか、ネットの書き込みを集めた小説で。
これ系は、AI得意だと思う。ストーリーに付随するアーカイブみたいなのをチョロチョロ出すだけの小説形態。
これ、自分は大好きなんだけど、なかなかストーリーが供給されないから、AIに頑張ってほしい
②漫画
ド直球に、漫画が見たい。
そんな、ワンピースなんて大それたやつじゃなくて、同人誌レベルの、数ページでキャラもまあまあ程度似ててくらいでいい。
AItuberはあるのは知ってるが、レベルがゲーム実況者としてみれるレベルにはなっていない。
ある程度のゲームは普通にできますよレベルでぜひお願いしたい。
これけい無理かなあ。流石に完成度高すぎて、AI技術がさらに進歩しないと無理かなあ。
視聴者からの投稿!ホラービデオ!みたいな感じなら、AIいけるんじゃないかなあ。
十秒とかで、鏡に幽霊映すだけとかさ。
1995年-2000年は、ゲーム機でいえばプレイステーション1とかセガサターンが出てきて、3Dゲームが自宅で遊べるようになって、進歩を遂げて行ってた頃じゃん。
パソコンで言えば、MS-DOSにパソコン通信の時代から、Windows95にインターネットと発展して行っているときじゃん。
PC98の16色エロゲからWindowsエロゲに進歩を遂げようとしていたころじゃん。
CPUも486からペンティアムに、そしてCPUクロックも1Ghzの雷鳥にって感じに。
それっぽい言葉を繋げて会話できてるように見せる、という昔からある技術の進歩でしかないんだから、当然昔からある根本的な課題は解決していない。
それをマスコミが何でもできる魔法みたいに喧伝したから、こうやって勝手に期待して勝手に落胆する奴が現れる。
回答が抽象的すぎて役に立たない
1980年代前半生まれなんだけど、小学校中学年の頃にバブル崩壊して、そこからやたら世の中やれ不景気だ、やれ不良債権だ、やれ就職氷河期だって言い出すようになって、山一も潰れて、銀行もどんどん統廃合していって、なんかもうその頃からずっと今もずっと日本って不景気なんだなって思ってる。
大学に進学した頃には「失われた10年」って言われるようになって、気づいたらそれが20年になり、30年になり、どこまで続くんだろうって眺めてる。
途中ITバブルとかあったらしいけど、全然実感ない。アベノミクスとかも自分の周囲で実感のあるやつは皆無だったろう。
今後も少子高齢社会で日本はどんどん元気なくなっていくんだろうなって思ってる。
違うな、元気がいい日本を想像できない、と言った方が正しいな。
ただ、ゲームの進化と共に成長できたのはいい時代に生まれたと思ってる。ファミコンからスーファミ、ゲームボーイ、プレステ、Wii、DSとかメジャーなハードは一通り触った。今はPS5をしてるけど、映像の進化や操作性の向上、物語の作り込み具合の進歩は凄まじいものがある。
まあ、適性がないことは指導していてわかっていたし、当人もそれは悟っているらしい。
しかし面談していて「私にはこれ以上は無理ですから」「もう諦めてます」みたいなことを平気で言ってくるのはいただけない。
同じスキル足踏みでも「がんばってもスキルが伸びない人」と「スキルを伸ばす気がない人」では、会社としては見る目が違うんだよ。
そもそもウチの業界は毎月のように新しい技術が産まれてきて古い技術が捨てられていく新陳代謝の激しい業界で、現状維持は足踏みですらなく、相対的なスキル低下を意味する。
手持ちのスキルだけで食いつなぐのは貯金を切り崩しながら生活するようなもので、いずれ首が回らなくなる。追いつく努力をしてやっとトントン。
だから普通の会社なら伸びないのも伸ばす気がないのもどっちもダメ、という評価を下されるだろう。
でもウチはヌルいし、俺だって人の子なので、同じ足踏みでも「成長を投げてる人」よりは「努力くらいはしてる人」のほうを高く評価したい。
と言っても本当に努力しろと言ってるわけじゃない。せめて努力してるように見せかけてくれ、そのフリでいいから、と切に思う。
スキルが伸びてなくても努力さえしててくれたら、ああよくがんばっているね、くらいは言える。成果はあまり出ていないけれど、そのうち成果が見えてくるとよいね、と前向きに話ができる。努力の方向性について討議もできる。
でも、スキル伸びてません努力もしませんじゃ、叱るしかないんですよ……。
適性がない、努力しても伸びないことはわかってる、そんな人を成長しろと叱らなきゃいけない。これは双方がつらいことですよ……。
だから上手に、ほどよく、うまい加減に、努力してるっぽさをアピールしてほしいのよ……。
やれることは精一杯やってる「感じ」を出してくれ……「感じ」でいいから……。