はてなキーワード: ケルトとは
去年のざっくり今頃、若者はプログレなんて聞くなよ~という事を書いた。
1年経ったが、とりあえずCD屋を見てもライブに出かけても特段若者が聞き始めた雰囲気はない、書いた効果かどうかは定かではないが(恐らく関係ない)、とりあえず題名の目的は継続的に達成されていると見て間違いはないだろう、が、
去年はまだジジイしかいねえよぉ(笑)とネタに出来るくらいの精神だったのがディスクユニオン冴えない薄毛の男性しかいらっしゃらないプログレコーナー(あのリュックサック率は本当に何なんだ)やジジイにまみれてのライブ鑑賞(スティーブヒレッジとGongはよかったですね)、若い子もいるよ(笑)などという、俺はこの辺りには自然がねえなと言ってるのにぽつぽつと並ぶ街路樹を指さしていやあるやん(笑)、と同等の言論をぶつけられたりし、あれから1年、1年、1年…
何か素敵な魔法でもかけたのかな?
クラブチッタへ向かう方向だけ、何故かおっさんかジジイしかいない光景。
これを見て、俺はなんとなく思った。
……
若者にもプログレを聞いてほしい!!!!!!!!!!!!!!!!!聞いてくれるような事を書こう!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!俺もデケえ野外フェスにドサドサ出まくるプログレバンド達で盛り上がりてえ、家で女の子と二人プログレを聞いて、アハンウフンエモい雰囲気になりてぇんじゃ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!おい!!!!!!!!!70年代の日本ロックファンのメインストリームだったとかぜってぇ嘘だろ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!じゃあなんで20年代だとメインストリームじゃねえんじゃ!!!!!!!!!!!!!!クソが!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ドームでワンマンライブしろよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
というわけで始めてまいります。蜘蛛の巣のように予防線を張り巡らせた結果所々「事が多い」という文言を多用するハメになったのでこの文章では「事が多い」=「@」と定義します。
おじさまは(個人差がデカいとはいえ)若者好き@。おじさまから見るとなんとなく好きな若者がさらに自分の趣味であるプログレを聞いている。これは…?恋が始まる
事は無いもののそこそこの好感度が叩き出せるのは想像に難くない、というか出る。居酒屋で意気投合したおじさまにに酒奢ってもらったもん俺。へぇ~若いのにプログレなんか聞くの!?いいねぇ~とでも言わせたらもう勝ち確モーション。
この年功序列社会におけるおじさまの立場や金銭的パワーは若者の比ではなく、それなりに人生経験という面でも上手なので、交友の潤滑油として聞いてみるというのはそこそこにアリではないですか?俺の唯一の同年代プロトモ(プログレ友達)はなんかキーボード譲ってもらったらしいですよ?
…この前はジジイとか酷い事ばっか言っちゃって…ごめんね?あんなのうそうそ、俺らお兄さん達の事大好きだから。PFMの正式名称言えない奴はモグリとか、Soft Machineで一番好きなアルバムとか、そういういっぱいプログレの話しようね?チュッ♡
音楽自体が時間芸術なので既にタイパという面では悪いがその中でもプログレはクラシックと同じくらい悪い@。しかしあえて、あえて長い方を取る事により精神的余裕を味わえる。そうなのかな。
だいぶ円熟したジャンルなのもありプログレはネット上に体系的な情報が多い。
名盤まとめサイトから名盤でもなんでもない奴までかなりの量を分類網羅してるサイト、英語に拒否感が無いなら世界中のプログレをまとめたデータベースサイト http://www.progarchives.com/ まである。ググればだいたいすぐに出てくる。
まだ発展途上のジャンルの場合アーティストの情報がSNSやニュースサイトをちゃんとチェックしたりネットを駆けずりまわらないと出てこなかったりする@のを比べると情報収集が楽だ。こんなもん誰も聞いとらんやろwwww的な音源もどこかの知らないおじさまがレビューしてたりする。
テキトーにググればOK!ストリーミングに音源がたくさんある!Youtubeにも(時には合法、時には違法で…)丸々映像やら音源やらが上がっている!と音楽の複雑さとは裏腹に入門者フレンドリーな面がある。
全体的に何らかの部分で凝っているジャンルである。凝りに凝った結果そん所そこらの音楽には出せない非日常世界が展開されるのだ。
こんこんと雪の降る古い日本家屋からイギリスの深い森の向こう、果てはヤバそうな異星の儀式や謎の宇宙的空間などを非常にダイナミックに想起させる音楽というのはそう見つからない。無論視覚的だけではなく、強烈に鬱的な心象を与えてきたり、ようわからん驚きだったり…と部屋で一人ヘッドホンをしてじっくり耳を澄ますと音の向こう側にある普段の生活では出会う事の無さそうななんか凄い世界に精神を飛ばすことが出来る。
先進的なロック、聴いとるんですが!?とアピールすると職場や学校でイケてる人と思われる可能性がある!!
プログレはミクスチャー的である@。クラシックやジャズに始まり、ケルト等ヨーロッパの伝統音楽、果てはガムラン等、世界中の様々なジャンルとロックとの結合を試みている。プログレを橋掛りに知らないジャンルを好きになり、聴く音楽の幅がグングン広がる。もしかしたら一生を捧げられるような物に出会えるかもしれない。
同じくらいミクスチャーしがちなジャンルにメタルがあるがあっちは溢れ迸る圧倒的パワーのせいで全てをメタルに塗りつぶしてしまうので、○○メタルに慣れたころいざ元のジャンルを聞くとパワー不足を感じるのだ。圧がね。足りんよね。なんか。
その分プログレは割と素材の味生かしがちなので参照元聞いても割と大丈夫。
あとプログレは概念的なジャンルなので本当にいたるところ、全く関係なさそうなアーティストにもその面影を感じられたりする。終わらない音楽探求の世界へ、飛び込もう!(まあ皆さんそこまで飛び込みたいかと言われると微妙かもしれない)
最寄りのおじさまにお尋ねくださいませ。
と突き放すのは良くないですね。
個人的には、最初は新しいバンドのスタジオ盤orライブ盤、もしくは大御所バンド(King CrimsonとかYesとかそのへん)のライブ盤やライブ映像をYouTubeで見るのがいいと思う。
まず初めに70年代のスタジオ盤を聞くのはやめた方がいい。スタジオ盤ならなるべく最近の、どんなに古くとも1990年代以降に出た作品を聞いた方がいい。
ライブ盤はバキバキでも、スタジオ盤だと70年代周辺はどれもこれもやたら音が弱く聞こえる@のだ。これは音作りの古さや現代との方向性の違いからくる@。一番はドラム。70年代や物によっては80年代のプログレのドラムは現代の感覚からすると迫力が弱いかあまり耳なじみの無いプロダクションがされている@。次点はギターの歪み@。
もしSpotifyユーザーならばそこそこ近年の作品をある程度網羅的に取り上げているNeo Progressive Rockというプレイリストをおススメする。400曲くらいあるのを見てげんなりするかもしれないが、別に全部聞く必要は1ミリもないのでとりあえずこれをシャッフル再生して適当にザッピングして気に入った物を探すと良いかもしれない。
そうかもですね
先日バズっていた、保育園にバイオハザードの本気コスプレで行くとかなんとかいうTwitterを見て気がついた。別にハロウィンそのものが嫌いなわけでもない。コスプレが嫌いなわけでもない。
件のコスプレの方は本当に品質が高いな、と素直に感心した。一方でハロウィンに世の中に溢れているのは、適当な衣装を着ただけでわたしイケてるでしょ、みたいな顔している連中だ。子供にプリンセスドレス着せてる親も同類だ。そしてそのような格好をされたところで、自分の持っている健常者エミュレータは正しく処理することができないので、まともな社交辞令すら発せなくなる。健常者エミュレータは目の前に異常者みたいな行動をとる健常者が発生した場合機能できない。せいぜいが、ふーんという反応のレベルだ。
本気度を見せるコスプレなのであれば「これすごいな」「あの作りどうなってるんだろう」と知的好奇心をそそられる。一方でただ着ただけ、みたいな品質のものや原作のわからないもの、原作がわかっていたとしてもそこからかけ離れているように感じるものなどをわざわざ世の中に開陳する行為に対して、本当に理解ができないのだ。
例えばコミケのように、いわゆる「趣味の集まり」として同好の士が集っているならそれもまた良いのではないかと思う。コスプレ集団と自分とは同好の士ではない、と認識するだけだ。いつの間にか市民権を得ているケルトの祭りだが、誰もが近隣で(低品質な)コスプレをするような世界は本当に勘弁してほしい。
演奏不可能の作品(えんそうふかのうのさくひん)とは、さまざまな理由により演奏が不可能、あるいは困難な音楽作品のことである。
クラシック音楽の世界では、演奏が不可能(または困難)な作品が多数存在する。演奏不可能な作品の中にも、仮に演奏されたとすれば傑作と評価され得るだけの芸術性を備えた作品は多く、これらは安易に無視できない存在となっている。巨大編成の作品や演奏時間の長い曲とも密接に関係があり、イギリスのソラブジの作品はその3要素が完全に組み合わさり、初演できないものも多数ある。
現代のポピュラー音楽の場合には、作曲家、作詞家、編曲家といった独立した職能も存在するものの、作品は演奏との一体性が強く、コンサート、ライブでの生演奏や、演奏を収録した媒体(CD等)という形で公表される点で、クラシック音楽とは様相が大きく異なる。このため、ポピュラー音楽においては、作品を聞くことができるという意味で、ほぼ全ての作品が演奏可能であるといえる。その一方で、媒体への収録(すなわちレコーディング)に際しては多重録音をはじめとする種々の編集が行われるとともにに、演奏においてはシーケンサー等の自動演奏が積極的に利用されるので、純粋に人のみによって演奏することが不可能あるいは困難である作品も多い。このような作品をコンサートやライブにおいて生演奏する際には、自動演奏やテープなどを用いてレコーディングされた作品を再現するか、生演奏が可能なようにアレンジを変えることがよく行われる。また、一時期のXTCのように、高度なスタジオワークを行うミュージシャンの中にはライブを行わない者もいる。
歴史は長く、J.S.バッハの諸作品、モーツァルトのオペラフィガロの結婚や魔笛、ベートーヴェンのピアノソナタ第21番、第29番、ピアノ協奏曲第1番や交響曲第7番・第9番などが古典的な例とされる。
ロマン派では、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の第19番のアリアは良く省略され、シューベルトの魔王や交響曲第9番「ザ・グレート」、パガニーニのヴァイオリン曲、ロベルト・シューマンの交響的練習曲の第2変奏曲や2点へ以上の音域がある4本のホルンとオーケルトラの為の協奏曲作品86、リストの一連のピアノ曲、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に演奏不可能と宣告されたブルックナーの交響曲第2番、ブラームスのピアノ協奏曲第2番やヴァイオリン協奏曲またピアノソナタ第3番の冒頭部、チャイコフスキーの諸作品、マーラーの交響曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番等があったが、それらは現在では演奏技術の発達により演奏不可能と見なされることはなくなった。しかし、プッチーニの「ラ・ボエーム」第一幕のエンディンクは、未だに半音下げて歌われることが多い。
近代ではストラヴィンスキーの春の祭典、シェーンベルクのピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲、モーゼとアロンがあるが、「春の祭典」と「モーゼとアロン」は演奏技術の発達により現在では演奏会での一般的な曲目になっている。意図的に作曲された例としてアイヴズの歌曲「義務」があるが、今日では演奏家は内声などを省略するか、アルペジオで演奏するか、アシスタントを設けるかで解決されている。彼のピアノソナタ第2番等も同様であるが、本人は「間違った記譜もすべて正しい記譜である」と友人に説明している。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章にも2度の音階的な走句があるが、「困難だ」と結論付けて全てアルペジオで演奏する者もいる。ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番第三楽章の冒頭のパッセージは身長が170cmないと物理的に不可能であり、体格の小さなピアニストやテクニックに不自由したピアニストは左手の音をずらして演奏することが慣例化している。
演奏不可能の作品という概念は現代では新しい複雑性と深く関係している。ファーニホウの諸作品は非常に高度な演奏技術を要するが、彼の音楽に要される困難は主に読譜に集中するため決して不可能な音楽ではないとされる。しかし逆説的に言えば、演奏不可能の概念は、今日例えばパソコンのシーケンサーなどに自分で四分音符をメトロノームに合わせてキーボードで打ち込んでも決して4分音符や強弱が正しく出てこないという経験から、人間が演奏する限りにおいて全ての音楽に当てはまるという事も言える。その外シュトックハウゼンの「7つの日々からNr.26(1968)」の「金の塵」が奏者に演奏の前に4日間の断食を強要していると言う点で事実上の演奏不可能の作品である。
今日最も演奏の難しい現代音楽は、クセナキスの諸作品と言われている。第1曲目のピアノ協奏曲にあたる「シナファイ」、チェロ独奏の為の「ノモス・アルファ」、ピアノ独奏曲の「エヴリアリ」、「ヘルマ」、「ミスツ」、ピアノ独奏が重要な働きを担う「エオンタ」及び「パリンプセスト」等がその例である。クセナキス自身はテレビのインタビューで、これらは演奏困難にさせることを目的として作曲された作品であると語っている。
しかしこれらの作品群も、近年の若手演奏家の技術向上やCDリリースを参照する限り、徐々に不可能とは見なされなくなる日が近づいているのは確かであるが、逆にどんな簡単な作品も人間が演奏する限り100%の完全なる再現は厳密には不可能である。
前述の通りポピュラー音楽はクラシック音楽とは事情を異にする。とは言え、カバー曲やカラオケなど、オリジナル以外の奏者による演奏がまったくないわけではない。
特筆される例としてはサザンオールスターズの「Computer Children」(作詞・作曲 桑田佳祐。アルバムKAMAKURA収録)が挙げられる。この曲は、マスター収録の後にエフェクトなどのデジタル編集を行い、その編集後の曲がオリジナルとされている。したがって、ライブ演奏は事実上不可能となっている。ソフトウェア用マスター作成においてデジタル編集を行うポピュラー音楽は近年珍しくはないが、この曲ほど大胆に使用している例は(リミックスを除けば)、稀有である。
作曲家が演奏困難な作品を書くことによって、演奏技術が向上し、それがさらに作曲技法を拡大させるいう面がある。以下の曲の多くのものは今日では演奏やレコーディングの機会も多いが、作曲当時は「演奏困難」ないし「演奏不可能」とされたものである。参考までに掲げる。
指定された速度で演奏するのはほぼ不可能であり、通常は指定よりもやや遅くして演奏される。また、曲が独奏曲にしては長大であるため、高度の精神力が要求されるという点においても彼のソナタの中では最も演奏困難である。演奏技術の発達した現在では、ロマン派以降のピアノ音楽の大家の作品群と比べれば特別難しい曲ではなくなっているが、それでもなお演奏は困難を極める。また、リストがベートーヴェンの交響曲をピアノの為に編曲したものが存在するが、それらと比べれば、このピアノソナタは比較的易しい。
超一流のヴァイオリン奏者、パガニーニが作曲したヴァイオリンの難曲として知られ、作曲当時はパガニーニ自身以外には演奏が不可能であった。しかし、この作品の持つ魅力は多くの音楽家の心を捉え、さまざまな作曲家によって主題が引用されている。この曲の存在によって、作曲技巧や演奏技巧が大きく開拓された面は否めない。現在でも超絶技巧の難曲として知られるが、一流の演奏家の中には完璧に弾きこなしている人もかなり多い。
タイトルからもわかるように、超絶技巧を要することが目的となったピアノのための練習曲である。ピアノのパガニーニを目指したリストの代表曲である。一般の演奏家にも演奏できるように難易度を少し落とした第3版が現在では普及しているが、リストが超絶技巧の極致を目指して作曲した第2版は特に演奏困難とされ、リスト以外には演奏不可能と言われた。現在ではジャニス・ウェッバーとレスリー・ハワードが録音を残している。
演奏不可能とのレッテルを貼られ、当時の第一線のヴァイオリン奏者に初演を断られた作品。しかし現在では、早熟なヴァイオリン奏者が10代で弾きこなしてしまうことも珍しくない。
は第一楽章がオクターヴの速い動きで事実上の演奏不可能の作品である。解決譜としてのOssiaで多くのチェロ奏者が弾いている。
パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱で書かれたが、彼は「一音も理解できない」として取り上げなかったため、作曲家の生前には一度も演奏されることは無かった。ただし実際には、様式上・技巧上ともに特に大きな困難があるわけではなく、演奏は十分可能である。菅原明朗は「この曲こそプロコフィエフの最高傑作だ」と称え、ピアノと吹奏楽の為に編曲したヴァージョンを残している。
十二音技法によって作曲されている。ただし、急-緩-急の3楽章から成り、両端楽章の終わり近くにカデンツァがあるなど、伝統的な協奏曲の構成に従ってはいる。作曲者はヤッシャ・ハイフェッツに初演を依頼したが、ハイフェッツはこの曲を演奏するか否か散々考えた末、結局「研究しただけ無駄だった」として辞めてしまった。結局初演はルイス・クラスナー独奏、ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により行われた。作曲者自身は生演奏を聴いていないとされる。
1990年代初めドナウエッシンゲン現代音楽祭がカールスルーエの作曲家フォルカー・ハインに管弦楽の曲を委嘱したが、度重なるリハーサルにもかかわらず演奏困難ということでその年の公開演奏が中止になった。次の年もう一度だけ初演が試みられたが結局不可能で、またしても初演を断念させられた。その楽譜は当時の展示即売会で一般公開され、色々な同僚作曲家の意見が聞かれた。現在に至るまで演奏されていない。ブライトコップフ社によって出版されている。
チャンスオペレーションを厳格かつ極度に徹底したヴァイオリンソロのための作品集で、「作曲するのも演奏するのもほぼ不可能に近い」音楽になることを前提に作曲された。しかし、第18曲目の演奏困難度をめぐって1-16曲目までの初演者ポール・ズーコフスキーと意見が対立し、作曲が中断された。その13年後にアーヴィン・アルディッティの助力で作曲が再開されて、無事32曲の完成に至った。現在この作品の全曲演奏が出来るヴァイオリニストはヤノシュ・ネギーシーとアルディッティの二人しかいない事から考えて、最も演奏不可能に近いヴァイオリン曲といえる。
かつて趣味で小説を十年近く書いていた者だ。俺も理系だが、理系は歴史を学ぶ上で決して弱みではない。むしろ、物事を大局的に眺め、出来事の意味や結果をロジカルに考えるうえでは助けになるし、論理的な文章も得意だろう。なので、自信をもって執筆に向かってほしい。
とはいえ、いきなり中世ヨーロッパを舞台にした小説を書くのは難しい。農民であれ騎士であれ、生活の細部を思い描こうとするだけで筆が止まってしまう。朝起きて顔を洗い、用を足して食事をする、その半時間のことなのに細部がさっぱりわからず、筆が進まない。ありがちな悩みだが、深刻な悩みでもある。
仮に十年前の日本を舞台にした小説を書こうとしても、「当時はスマホが既にあったか」「はやっていた音楽は何だったか」「あの事件はもう起きていたか」など、俺たちの記憶は甚だ頼りなく、資料に頼らざるを得なくなる。ましてや、生まれる前の出来事など仮定に仮定を重ねた蜃気楼のようで、資料なしでは立ちすくんでしまう。よくわかる。なので、俺が読んで面白かった本を共有したい。
ところで、増田は世界史を勉強したいと述べているが、どうも「小説を書くための中世ヨーロッパの知識が欲しい」と「知識欲から漠然と世界史について学びたい」が混在しているようだ。ブクマやレスを見ると、その両方に対する回答がある。俺は、ひとまず前者について答えたく思う。後者については、中央公論社の「世界の歴史」シリーズか、講談社の「興亡の世界史」を読んで、そこから気になったキーワードからどんどん広げていくといいと思う。なお、俺は前者しか通読していない。
さて、過去の世界を生々しく想像するためには、俺は四つの視点が必要だと考えている。数理的視点、物質的視点、非物質的視点、それからエピソード的視点だ。以下、それぞれについて述べる。各々の視点に応じて、手に取るべき書籍は異なってくる。
さらに、この四つの視点があると、頭の中で歴史の知識を整理するのに役に立つ。少なくとも俺にとってははやりやすい。
過去の世界は偉大なようだが、人口は現代よりも少なく、都市の規模は小さく、穀物や工業製品の生産量も少ない。そういうわけで、もしもタイムスリップして中世の大都市を眺めたとしても、その小ささに俺たちは意外さを覚えるかもしれない。確かに現代にも通用する芸術作品はあるかもしれない。時代は異なるが、ピラミッドや紫禁城のような壮大な建物もあるだろう。とはいえ、庶民はそんな生活とは無縁であったはずだ。パリの城壁は今や環状線であるが、今のパリの都市圏はそれを越えて広がっている。
さて、小説を書く上ではリアリティが必要になる。それを支えるのが数の感覚だ。例えば、ある国家の人口がどれくらいで、即時に動員できる兵士がどれくらいで、都市と都市の距離がどれくらい離れており、移動速度はどれくらいか。集落の規模はどの程度か。船舶で運べる量は。モデルとする時代の数字をおおよその知っておくことで、明らかに不自然な描写は減らせるだろう。このあたりについては「銃、病原菌、鉄」や通史的に世界の人口を扱った書籍が助けになると思う。細かいことは気にしなくていい。オーダーが合っている程度で充分だ。数字を確かめるだけなら、ウィキペディアだけでもいい。これは英語版を併用することを薦める。
要するに衣食住の細部だ。先ほど騎士や農民の一日を想像するのが難しいと述べた理由はこれになる。増田が必要としているのはおそらくフランシス・ギースの出しているシリーズだ。都市や農村、城の生活が細かく書かれている。
他に、当時栽培されていた植物や動物については、「世界史を変えた50の○○」シリーズもいい。ある素材が手に入るか入らないか、あるいは知識の有無だけで国の命運が変わるというのは、たびたび起きてきたことだ。中世ではないが、例えばヒッタイトで鉄の製法が独占されたこと、柑橘類で長期航海の敵、壊血病が防げるとか、そうしたことだ。
また、具体的な書名はいちいち挙げられないが、図版の多い図解○○のようなシリーズも良い。もし、増田が視覚的にものを考えるタイプならなおのことだ。慣れていくと建築や芸術の○○様式というのが何となくわかるようになってくる。
加えて、児童書も侮っては行けない。専門家が監修した子供向けの本は、えりすぐりの内容を含んでいる。仮に含まれていないとしても、これだけは伝えておきたいという基礎知識は抑えてある。これは立花隆が言っていたことだったと記憶しているが、なじみのない分野を学ぶためには基本的な内容の本を三冊読むといいそうだ。なぜなら、本当に大事なことはその三冊すべてに書かれているからであり、結果的にその分野の基礎を身に着けることができる。
これは当時の人間が何を知っており、どんな風に考えていたかを指す。直接は物質として残らない、人の頭の中にあった知識や文化にまつわることだ。当時の科学知識、価値観、法律、迷信などもここに含めてよい。
さっき中世人の朝を想像するのが難しいと述べたが、昼以降の社会生活を想像するのはこれでさらに難しくなる。
たとえば俺は異世界ファンタジーをあまり読まないのだが、中世には叫喚追跡という風習があった。当時のイングランドの自由市民は犯罪が生じた場合には、その犯人を逮捕・処罰する義務を負っていた。隣保組織の長は角笛を吹き、大声で喚声をあげながら犯人を追跡しなければならず、また周囲の住民もその指揮に従って追跡に加わることが義務付けられていた。しかも、この協力を怠った住民に対しては制裁が課せられる。寡聞にして、こういうファンタジー小説は読んだことがない。
ここまではいかないにしても、海外文学を読むとなじみのない、ちょっとしたジェスチャーや迷信に出会うことがある。欧米だと、指を交差させることで幸運を祈るし、ロシア人は今でも扉越しに握手をすることを嫌う(宇宙ステーションでさえ)。この辺にリアリティは宿る。ジェスチャー関係なら、中世とは少しずれるが「常識の世界地図」が面白い。
法に関しては詳しくないがが、習慣や生活については先ほど述べたフランシス・ギースの本が参考になると思う。価値観では「中世の秋」がいいだろう。科学史については、増田は理系だから「磁力と重力の発見」を薦めたい。難易度はかなり高いが、知識がいかに科学になっていくかを肌で感じられる。
当時の職業に関しては、未読だが「十三世紀のハローワーク」がいいらしい。
キリスト教・宗教史に関しては、聖書のエピソードの概略や聖人伝を知っているといい。絵画が好きなら名画で学ぶ○○といったシリーズがたくさん出ている。ただし、聖書がわかったからと言ってキリスト教がわかったことにはならないので注意。
これは著名な人物の伝記に関する話だ。あるいは、当時の人々が親しんでいた物語も含めてもいい。こういう偉人の伝記や小話をたくさん知っていると、歴史好きの物知りとしてマウントを取ることができるが、その出来事が世界史上でどのような意味があったかを語れなければ、自己満足で終わり益は少ない。とはいえ、興味深いのは確かで、プロットの参考になるかもしれない。
このあたりの知識のためには、児童書も含めて伝記を読みあさることになる。または、ハプスブルク家の歴史だとか、各国史だとかを扱った新書を乱読する。絵画に興味があるなら、これも名画で見る○○のようなシリーズがおすすめだ。
当時の人々に身近だっただろう中世の騎士の物語については、ブルフィンチがアーサー王伝説、シャルルマーニュ伝説をまとめている。それとは別に「マビノギオン」も面白い。とはいえ、いきなり原典に当たる必要はなく、入門書を読めばいい。
ギリシア・ローマ神話は呉茂一の本が細かいところまで網羅しているし、ホメロスもオウィディウスも岩波文庫に入っているが、呉茂一の本は初心者には細かすぎるし、原典に当たるのは趣味の領域だから、小説を書くなら入門書で充分だと思う。同様の理由で、「史記」だとか「ローマ帝国興亡史」なども趣味に属する。当時ならではの視点は面白いが、鵜呑みにできない誤謬もあるだろう。
もちろん、単純に上記の分類にすべて本が収まるわけではない。大抵の通史・各国史はこれらを兼ね備えている。
以下、何となく面白かったものを思いついたままに書く。「中世ヨーロッパの歴史」「十二世紀ルネサンス」「ケルトの水脈」「西ヨーロッパ世界の形成」(ただしこの本は著名な王の事績がほとんどの載っておらず、当時の価値観や考え方についてのページがほとんどで、そこがアマゾンで叩かれている)。それから、隣人からの視点として「「イスラーム」から見た世界史」「アラブが見た十字軍」など。
書き洩らしているかもしれないが、今のところ思いつくのは以上だ。
他に、中世を舞台にした小説・映画もおすすめだ。難解だが読み応えのあるミステリ「薔薇の名前」、SFだが「異星人の郷」がいい。「大聖堂」は未読だ。「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」はコメディだが細部の正確さは中世映画随一であるとのこと。毒のある笑いに抵抗がなければおすすめ。
中世風の舞台を描くために中世について勉強する。素晴らしいことだ。俺は敬意を表する。それに読んでいるうちにどんどん楽しくなってくるだろう。何かを知る、これは純粋な喜びだ。
だが、小説を書く以上、ある程度は想像力で補わないといけない。ある場面を書く際に必要な情報があるとしても、そもそもその資料は存在しないかもしれない。研究者でさえわからないことは多い。俺もこれだけ読んできたが、わからないことだらけだ。むしろ、疑問が深まった感さえある。細部も忘れてしまった。増田はぜひ自分で本を買ってメモを取るなり線を引くなりしてほしい。読み飛ばさず、時間を掛ければそれだけ得るものも多いだろう。
もっとも、描写に困った場合は、該当シーンを省いてしまうのも手だ。小川哲がどこかで述べていたが、ある歴史SFを書くときに、細部を省略したシーンがあるという。ストーリーにあまり関わらない部分を省くのは、立派なテクニックだ。読者だって中世建築の細部について延々読まされても困るだろう。
もうひとつ忘れてはいけないのは、増田は研究者になろうとしているのではなく、小説を書こうとしている、ということだ。知識は目的ではなく、手段だ。これを忘れてしまうと、他人の設定の粗を探したり、中世なのに価値観が現代的なのを揶揄し始めたりする。こうなると、物語世界を素直に楽しめなくなる。
大事なのは歴史的正確さよりも、読者を喜ばせることだ。そういう意味では、演出として火薬が出てきたっていい。あるいは、読者が感情移入しやすくするように、人を殺してなんぼの武将ではなく、戦争で人を殺すことをためらう武将として、描写する必要がある(ドラマの戦国武将がやたらと戦争を嫌い、優しいのはそのためだ)。異世界ファンタジーの読者が読みたいのは中世ではなく、中世っぽいものだ。そもそも中世ヨーロッパ風なのに唯一神を信じていないファンタジーは多い。
そういう意味では、本を読んでもその知識が直接生きることは少ないかもしれない。くれぐれも、読者に向かって知識をひけらかしてはいけない。あるシーンの正確さのために資料に当たるのはいいが、その成果を延々披露しては読者のストレスになるだけだ。もちろんそういう衒学的な歴史小説もあり、固定ファンはついているが、ネット小説の読者には少ないだろうし、ネット小説の肝であるPVを稼ぐことにはならない。これはいい悪いではなく、ネットと書籍の媒体の差だと思っている。
また、レッドオーシャンの中世ヨーロッパ風ファンタジーに飛び込むのなら、正確さよりも作者の専門知を活かしたものの方が(ブクマで書いている方もいるが)読者の目に留まりそうである。そして、くどいようだが、これだけおすすめの本を書いてきたが、読者が欲しいのは正確な知識ではなく血沸き肉躍る物語である。
だが、作者にとっての最大の危険は、どんな物語よりも過去に起きた事実の方が面白いのだと気づいてしまうことだ。この罠にはまると、どんな小説も所詮作り事と思われて素直に読めず、何を書いてもむなしくなってしまう。言い換えるなら、創作欲が知識に殺されてしまう。増田には、これに一番気を付けてもらいたい。
それを防ぐには、面白い小説を読み、面白いものを書くこと、これに尽きる。先行作品としての中世ファンタジーを愛し、数多く読み、繰り返し読むこと。
今さらって感じもするが、8月くらいにセールだったのでサクナヒメ買った。
買うときにサントラ付きのデラックス版にするか悩んで、ちょっと調べてみたら作曲担当が曲の解説してるっていうんで、
彼の世間的な知名度がどんなもんかしらんけど、15年くらい前にBMSやフリーゲームをよくやっていた私からすると
BMSで「虚無への黙祷」をやったり、muzieで「天路歴程」をダウンロードしたり、RPGツクール作品でも曲を聞くことがあったり、
当時大変印象的な作曲家の1人だった。
大変懐かしく、(こっちが一方的に知ってるだけだけど)久々に同級生に会ったような気持ちになった。
さっきゲームもクリアし、ネタバレを恐れず楽曲解説を読めるようになったのでざっと読んでみたけど、
「虚無への黙祷」のケルト風楽器に触れてたり、田植唄とNinja Action TeamのBornの共通のルーツについて語っていたり、
いや増すばかりの懐かしさでちょっと泣きそうだ。
MMTができるのって
おそらく格差是正することを言いたいんだと思うけど、MMTは格差是正しましょうなんて言ってないよ。
確かにMMTが流行るきっかけになった、ステファニーケルトンは左派だからそういうイメージはあるかもしれないけど、MMTは単なる貨幣理論で、至って中立な立場。それを政治利用する側の意思によって、政策に入れるか入れないかの問題だと思う。
老人とか資産持ちが賛成するわけないし
それができるなら今の状況になってないやん
机上の空論だろ
それともMMTといえば老人を騙せるとかそういう話?
経済成長させるためにはマイルドなインフレは必要だよね。経済成長って緩やかに上がるのが正常なんだから、株価が暴落するようにいきなり目減りすることもないから気づかないんじゃない?でないと、安倍政権がインフレ2%目標かかげた時、資産家の多くが反対していると思うけどそうじゃないよね。経済成長はみんな必要って思っているから要らぬ心配だと思う。むしろ買い手側がインフレを期待して土地需要が生まれるし資産家もハッピーだと思うよ。あと、経済成長に反対して日本人は貧乏であるべきと思っている老人が日本にどれくらいいるのかわからないけど、、あなたが説得してみてはいかがだろうか。
机上の空論?まだやってもいないのに?
いやいや、、だからこの記事はMMT批判記事って言ってるんだよ。
意図的にわかりにくく書いてるのか、ライターがMMT理解していないからなのか知らんけど。
おかげで、ブコメの大半がわかってないコメントばっかだもんな。
ここでケルトン教授が言いたいことは、「政府は好きなだけお金使っていいのか?」という問いに対して、
国債をいくら発行したのかは気にする必要はないけど、インフレになってきたら自国の経済が回っているということだから、高インフレにならないよう財政を縮小させたり、増税して(回収して)調整しましょうと言ってるだけ。つまり、政府は「財政の健全化」じゃなくて「経済の健全化」を考えて政策を行わないといけないって言ってるわけ。
経済成長にはマイルドなインフレは必要なんだよ。で、そのインフレにするには政府が何もせず市場に任せておけば、勝手に経済活性化してくれるとでも?これが新自由主義社たちの考え。デフレ時はむしろ悪化させてしまう。今の日本が良い例だよね。
だから政府は国債発行(お金を発行)して、財政を拡大させ、減税して、投資や消費を促して生産力を上げなきゃいけない。需要が拡大しすぎて、貨幣価値が下がりすぎると高インフレになってしまうから、その時は逆をやればいいだけなんだよ。
そして、日本のデータが既にそれを証明しちゃってる明らかな事実があるんだから、日本はMMTを批判できないと思うよ。だからマイルドなインフレになるまで(日本はインフレ2%目標にしているんだったらその目標に達成するまで)、国債発行(貨幣発行)していいんだよ。
池澤夏樹=個人編集 世界文学全集II-11所収 ピンチョン「ヴァインランド」
岡地稔「あだ名で読む中世史 ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる」☆
今尾恵介「ふしぎ地名巡り」★
奥野克巳「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」
ピーター・ゴドフリー=スミス「タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源」
テッド・チャン「息吹」★★
ピエール・バイヤール「読んでいない本について堂々と語る方法」☆
イリヤ・ズバルスキー、サミュエル・ハッチンソン「レーニンをミイラにした男」☆
チャールズ・C・マン『1493――世界を変えた大陸間の「交換」』★★★
ジョン・サザーランド「ヒースクリフは殺人犯か? 19世紀小説の34の謎」
東京創元社編集部「年間日本SF傑作選 おうむの夢と操り人形」
高丘哲次「約束の果て―黒と紫の国―」
堀晃ほか「Genesis 一万年の午後 創元日本SFアンソロジー」
水見稜ほか「Genesis 白昼夢通信 (創元日本SFアンソロジー 2) 」
村上春樹「ラオスにいったい何があるというんですか? 紀行文集」★
サリンジャー「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年」。
チョン・ソヨン「となりのヨンヒさん」
「ガラン版千一夜物語 1」★★★
「ガラン版千一夜物語 2」
「ガラン版千一夜物語 3」
「ガラン版千一夜物語 4」
「ガラン版千一夜物語 5」
「ガラン版千一夜物語 6」
ジョン・サザーランド「ジェイン・エアは幸せになれるか?―名作小説のさらなる謎」★★
ジョン・サザーランド「現代小説38の謎 『ユリシーズ』から『ロリータ』まで」
J・P・ホーガン「未来からのホットライン」
ロバート・アーウィン「必携アラビアン・ナイト 物語の迷宮へ」★
ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」(光文社)★★★
ジュリアン・バーンズ「フロベールの鸚鵡」
イアン・マクドナルド「黎明の王 白昼の女王」
オルガ・トカルチュク「逃亡派」☆
ユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来」上巻☆
ユヴァル・ノア・ハラリ「ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来」下巻
住吉雅美「あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスン」★★★
ルーシャス・シェパード「タボリンの鱗 竜のグリオールシリーズ短篇集」
オルガ・トカルチュク「昼の家、夜の家」
エイミー・B・グリーンフィールド『完璧な赤 「欲望の色」をめぐる帝国と密偵と大航海の物語』
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ4」
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ5」
タクブンジャ「ハバ犬を育てる話」☆
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ6」
ホアン・ミン・トゥオン「神々の時代」★
ヴァールミーキ「新訳 ラーマーヤナ7」
ローデンバック「死都ブリュージュ」
ホセ・ドノソ「夜のみだらな鳥」
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」上巻
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」中巻
ロレンス・スターン「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」下巻
入江亜季「北北西に曇と往け」(一)~(四)
石黒正数「Present for me」
澤江ポンプ「近所の最果て」
カシワイ「光と窓」
月ごとに一番面白かった本を3冊選び、★をつけた。ただし、どうしても入れたかったものは☆をつけた。月ごとの順位なので、たとえばパク・ミンギュにはもっと星をつけたいのだがそれが反映されていない。
数えてみたが、2020年に読んだのは活字149冊、漫画22冊だった。毎月12冊から13冊読んでいると思っていたので、単純計算で150冊を超えると思ったが、ぎりぎり足りなかった。とはいえ、毎月10冊という目標は達成している。
1年を通して見ると、ノンフィクションばかり読む時期や、SFばかり読む時期などが明確に交代していることがわかる。特に、4月から6月はSFとファンタジーがほとんどだったが、8月以降SFを全くと言っていいほど読んでいないし、逆に11月、12月は1冊をのぞいてノンフィクションがない。
また、芥川賞をはじめとした日本の現代文学をほとんど手に取っていない。ベストセラーやエンタメ、ホラーもない。逆に、韓国やタイ、ペルーやチリなど、日米欧以外の海外文学の割合が高い。
意識してきたわけではないが、自分の好むジャンルは科学や歴史のノンフィクション、神話、行ったことのないラテンアメリカやアジアの文学、メタフィクション的であったり奇妙な味がしたりする短篇集、古典、であるようだ。一方で、女性作家の割合は低く、特に日本の現代女性作家をほとんど手に取ってない。一時期は多和田葉子だとか江國香織とかをよく読んでいたので女性作家が嫌いなわけではなく、ヴァージニア・ウルフも好きだし、ハン・ガンも自分の中では大当たりだったので、もう少し割合を増やしてもいいかもしれない(追記。身につまされる話よりも読んでいて気持ちのいい本を読む率も増えた)。
割合の話でいえば、大学時代はもう少し文豪の作品を多く読んでいたように記憶している。それと、いくつからの例外を除き、世間の動きや話題とは遊離したチョイスばかりである。世の中から目を背けているわけではないが、日々の雑事とはまた違う視点に立てたのはありがたかった。新型コロナウイルス関連の記事ばかり読んでいては気がめいってしまう。
今年は少し冊数が少なくなるかもしれないが、引き続き毎日の気晴らしとして、気が向いたものを好きなように読んでいきたい。
以上。
半分正解であると思える。残り半分は「当たり前でしょう」という話。
戦車を活かせたのがアルメニアではなくアゼルバイジャンであった、という点で
だがそもそも、領土を奪い合う地上戦において戦車が重要なのは当たり前の話である。
占領とはそれ即ち軍事力による領土の確保であり、地上における軍事力の最たる物が装甲戦闘車両の王である戦車だからだ。
なので「地上戦で重要だったのは戦車だった」と言われると「当たり前でしょう」としか言えない。
肝心なのは戦車を活かすことができた要因であり、そこにアルメニア・アゼルバイジャン最大の差があったのだろう。
近年のアゼルバイジャンの軍事費増大により、軍事バランス的にはアゼルバイジャン側が優勢であった。
対するアルメニア側はナゴルノ・カラバフ自治州東部に対アゼル陣地を構築していたが
↓
航空偵察により陣地の位置・陣容が露見し航空爆撃や砲撃で陣地が無力化、または放棄を余儀なくされる
(後述する杜撰な運用による陣地の脆弱性も無力化に寄与したものと思われる)
↓
といった具合で徐々に都市を失い、最終的に自治州の首都ステパナケルト直前までアゼル軍が迫る事態となっていた。
なお、アゼル軍は当初ナゴルノカラバフ自治州の北部と南部から攻勢を開始したが
北部の高山地帯では陣地に阻まれ思うように進軍できなかったものの、比較的平野部の多い南部で突破に成功していた模様。
詳しくは戦況の変化を調べてもらいたい。
本戦争において最も注目すべき点であり、アゼル軍進撃最大の立役者が無人戦闘航空機(UCAV/ドローン)の活用だった。
(アゼル軍はMiG-29戦闘機、Su-25攻撃機を十数機程度。アルメニアに至っては戦闘機ほぼ0、Su-25攻撃機が数機程度)
アルメニア軍はS-300長距離地対空ミサイル、SA-8/SA-15短距離地対空ミサイル等のロシア製地対空ミサイル複合コンプレックスを保有・形成しており
これら防空ミサイルをアゼル軍が保有する少数の航空機で破壊するのは困難であり、アゼル軍側は航空作戦を実行できないと戦争前なら予想されていただろう。
ところがアゼル軍は外国から多数のドローンを購入し実戦に投入した。
アルメニア側は当初健在であった地対空ミサイルシステムにより、投入されたドローンの大半を撃墜したものと思われるが
それでもアゼル軍はドローンを投入し続け、ついにはアルメニア防空網の破壊に成功したのである。
活躍が目立ったのは次のような機種だ。
遠隔操作または自律飛行が可能で、対戦車ミサイルや誘導爆弾等の各種対地兵器を運用できる。
カナダ製の高性能なイメージセンサを(勝手に)搭載しており、偵察機としても優秀な性能を持つ。
※勝手に搭載しているのがバレたのでカナダからトルコへは輸出停止に。現在はトルコ製国産センサに切換中らしい
→イスラエルIAI社製の「カミカゼ特攻ドローン」。1機辺りの値段:諸説あり(1000万円~1億円程度?)
ステルス形状の機体そのものに爆破弾頭を内蔵し、自律飛行により目標近辺を徘徊・滞空。
対空ミサイル等の電波発信源を探知すると機体ごと突入し自爆攻撃する。
またイメージセンサも搭載し遠隔操作も可能。目標を識別して攻撃する事もできる。
バイラクタルTB2は射程10km以上の誘導爆弾が運用可能であり、
ハーピー/ハロップは地対空ミサイルのレーダーが稼働していればそこに向かって突っ込んでいく。
レーダーを漫然と運用していれば、これらのドローンには容易に探知されてしまうし、ドローンが近くにいる事に気付かずレーダーを起動してしまっても探知されてしまう。
特にSA-8/SA-15短距離防空ミサイルはレーダーと発射機が一体型の車両なので、ミサイルごと破壊されてしまえば戦闘続行は不能である。
これらドローンの攻撃により空いた短距離ミサイル防空網の穴に入り込み、長距離防空を担うS-300までも破壊に成功し
さらにアルメニア地上戦力をドローンで一方的に攻撃することができたのだろう。
前述の短距離地対空ミサイルはそもそも、地上付近を飛行するヘリコプターや巡航ミサイルの迎撃を目的として運用されるものだ。
それが何故、同じく地上付近を飛行するドローンの探知に失敗し攻撃を受けたのか?
ここからは予想されている事に過ぎないが、防空システム運用の失敗として
・防空ネットワークが存在せず、ミサイル発射機ごとに単体で運用されていた(=ミサイル部隊の連携ができていなかった)
・電波管制(EMCON)が徹底されておらず、逆探により位置が容易に露見していた
・ミサイル発射車両に偽装がされておらず、ドローン搭載のイメージセンサで容易に発見できた
等が考えられる。
いくらドローンとはいえ、それよりも小さくて速いミサイルを探知できるレーダーがドローンを探知できないという事はないだろう。
(低速すぎて探知できない、あるいは探知するが閾値以下の反応でノイズとして弾かれる場合はある)
形状やレーダーの種類により探知性は変化するし、迎撃ミサイルとの位置関係によって迎撃の確率も変わるので単純な比較は禁物であるが、
従来の巡航ミサイルとドローンのスペックを書いてみるとこんな感じである。
トマホーク巡航ミサイル:全長5m/直径50cm/巡航速度800km/h
バイラクタルTB2:全長6.5m/幅12m/巡航速度130km/h
山頂付近に設置されたレーダー、早期警戒機やルックダウン能力があるレーダーを持つ第4世代以上の戦闘機なら低空目標も探知できるであろうし
ネットワークを通して友軍防空部隊に位置情報を伝達、レーダー起動無し・もしくはミサイル発射直前の照準時のみレーダーを起動しミサイル発射・迎撃も可能であろう。
こうしたミサイルシステム以外の警戒網がアルメニア側には不足していたと思う。
偽装については地対空ミサイルだけでなく車両全般や陣地にも同じ事が言える。
SNSやネット上で出回っているアルメニア軍兵器が撃破される、ドローンの空撮とおぼしき映像をいくつか見てもらいたい。
その殆どが偽装をしていない、あるいは偽装はしているが中途半端でバレバレなのである。
(車輪の跡が残ってる、周囲の植生や地形に溶け込んでいない、赤外線暗視装置対策が皆無)
電波管制や偽装はアメリカやロシア、中国、そしてもちろん日本の自衛隊においても、現代の軍隊における基本中の基本であり
ネットワーク化は現代の高度化した戦争において優位性を保つための必須条件である。
これらが徹底されていなければ、敵部隊の偵察により自軍の存在は容易に発見されてしまい
逆に言えば、これらを徹底することで偵察に対する被探知性は低下し、
ドローンの画像センサ/赤外線センサに対しても発見される確率は低くなる、
もしくは発見するために接近しなければならない距離は短くなり、自軍がドローンの接近に気付く機会も増えるというものである。
自衛隊の演習で隊員がヘルメットや服に草をボーボーになるまで貼り付けたり、車両が草にまみれすぎて草そのものが動いてるような写真や映像を見た事があるだろうか。
あれらはふざけているのではなく、偽装という戦闘に必要な技術を実践しているのである。
また最近では偽装網(バラキューというらしい)にも赤外線放射を抑える物があり、これを使用すれば赤外線暗視装置にも効果があるようだ。
今回のナゴルノ・カラバフ戦争ではドローンの活躍が華々しく喧伝された。
だがその活躍も、一つ一つ紐解いてみれば軍事的には常識と思える要素の集合体であり
それらの対策を強化していくことでドローンへの対処は可能だと考えられるのである。
懸念しなければならないのは、ドローンは戦闘機よりは安価で数を揃えやすく
アゼルバイジャンのように多数を集中運用することで十全な防空網でも突破されてしまうかもしれないという事だ。
ポケモン剣盾に関して西洋の文化に詳しいユーザーの面白い考察を見ててイギリス要素をこれでもかと盛り込んでるなぁと驚きました。制作についてイギリス出身の社員が指揮に関わってたそうで,古代イギリスで起きた土着のケルト文化圏と移住でやってきたキリスト教文化圏の邂逅の話,イギリスにある環状列石や地上絵,バイキング,70年代のパンクロックと反体制派の思想の結びつきなどが盛り込まれてて西洋の歴史に疎かったのですが結構興味が出ましたね。ブラックホワイト以降のポケモンは現実にある地域の文化や生活や歴史などを新旧のポケモンの設定や世界観に組み込んでヒト社会にポケモンが溶け込んでいるような作りを目指していたものが剣盾ではっきりとしたものとなったようなので,また日本を舞台にした完全新作のポケモンを作ってほしいなぁ。九州がベースとなっている舞台があるルビーサファイアのリメイクでは熊本県の都市が元になってる街で熊本の都市にあるようなアーケード街が建設されてたので,現実の舞台をゲームに盛り込むノウハウで日本の地域ネタを盛り込んだらなかなか面白いだろうなぁ。
人類「どうして敵だったはずのおまえがこんなことを……!!言えっ!なぜだっ!?」
旧型コロナ「グフッ……言った……だろ……?おまえをパンデミックにするのは俺様だって……グバッ」
人類「……!もういい!これ以上しゃべるな!」
新型コロナ「愚カナ……タカガ人類ヲ庇ッテ、我ガ〈死ノコロナビーム〉ヲ、真正面ニ受ケルトハ……コロナノ風上ニモ置ケヌ愚物ヨ」
人類「ッ!?貴様……それ以上旧型コロナを侮辱するなっ!!!」
旧型コロナ「(ガシッ)待て……俺にやらせろ。やられっぱなしは……性に合わん」
新型コロナ「ソウダソウダ」
旧型コロナ「ふん……忘れたのか……2020年現在、治療法の定まっていないコロナウィルスは……Covid-19だけじゃあ、ないんだぜ?」
人類「ま、まさか!?それをやったら、おまえはもはやおまえじゃーー」
旧型コロナ「じゃあな、人類……おまえと戦った中東や中国での日々……楽しかったぜ」
旧型コロナ「喰らえーー
突!然!変!異!」
\ピカー/
新型コロナ「!?馬鹿ナ……塵ノヨウナ旧型ノ感染力ガ爆上ガリシテユク……!?感染力4万……8万……28万……マダ上ガルノカ!?」
人類「これは……もはやエアロゾル感染なんてレベルじゃない……旧型……おまえはもう……」
〜〜【回想・広東省にて】〜〜〜
人類「大切な人を守るためだ!」
旧型コロナ「フ……今のおまえでは俺には絶対勝てない、としても?」
人類「大事なものを守るためならなんだってやる。貴様を倒すためなら悪魔と取引して怪物にだってなってやるさ!」
旧型コロナ「フフフ……」
〜〜〜【回想終了】〜〜〜
旧型コロナ「(人類ーーおぼえているか。あのとき、俺が笑ったのはおまえを嘲ったのではない。自分を嗤ったのさ。『大切な人を守るためなら怪物にだってなる』とためらいなく言い切ったおまえを羨ましがる俺自身に気づいてな……)」
旧型コロナ「(感謝するぜ、人類。俺はおまえのおかげでようやく俺にも「大切な人」ができた。自分が自分でなくなったとしても救いたい相手がーーそれはーー)」
新型コロナ「インフルエンザノ2万倍ノ感染力ダト!?ソンナノアリエルワケガーーエエイ!突撃ダ!」
旧型コロナだったもの「ウゴゴゴゴゴゴゴオゴゴゴオオオオオオオ!!!」
いがいといけるもんだ
カットトマト(紙パック)+魚の缶詰(サバ水煮、シーチキン)+たまねぎ(1ネット)+αで毎日を過ごしました
基本保存が効くもののみ ベーコン、じゃがいも、さといも、納豆も賞味期限が1週間あるようなのはだいたい買った
でも流石に土曜日ぐらいに飽きたので米が食えるおかずを考えてたまねぎを水にさらし、シーチキンを混ぜ込んで、カットトマトに醤油、創味シャンタン、お酢を入れて火にかけ、ベーコンを一度火に通して冷やして、シーチキンたまねぎの上に並べて作ったタレをかけて「なんちゃって冷シャブ」みたいなの作ってから創作する喜びに溢れてカットトマトをベ―スにいろいろつくりました
やっぱシーチキンは便利でした
崩すつもりがなんだかんだでTerrariaで金曜日からさっきまで潰れました
今度アプデあるので楽しみです なんで自分はもっと早くこのゲームを買わなかったのでしょうか?
ようやくスケルトロンっていう骸骨倒せたので後ウォールオブフレッシュってやつ倒して終わりですかね それ以上先のエンドコンテンツもあるそうですが
自分はめちゃくちゃ喉が乾いちゃう人間なのでいっぱい買い込みました
なので水出し用の茶葉(紅茶とジャスミンティー)と2リットルの烏龍茶1ケース(6本)で全然たりました
烏龍茶は全然消費しませんでした まだ2本目の封をあけてないのが冷蔵庫にあるレベル
一切の外出なしなので当然0枚です
多分専門家がみたら「ラジオ体操だけでは運動とはいえません」っていうとおもうけどむしろ普段、家→車→会社(デスクワーク)→車→買い物→家みたいな生活の自分では筋肉痛が起こるレベルでした いまは筋肉痛はおきてません