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はてなキーワード: 古典とは

2018-10-17

電子辞書って廃れていくのかな

私が学生のころはまだスマフォが普及していなかったので、電子辞書はかなりのお役立ちツールだった。

私の電子辞書国語辞典英和辞典のみならず、古典歴史物理数学等の辞典も入っていたので重宝していたし、大学時代第二外国語の授業では欠かせなかった。

でも今ってネットいくらでも転がってるし、オフラインで使えるアプリもたくさんあるからまり使う子供はいないのかな。

私自身、電子辞書はもう親にあげてしまったのでネット検索オンリー

2018-10-16

anond:20181015234827

まあ手塚作品はもう、単なる一作家漫画という枠を超えて、古典化しちゃったんだよ

ありとあらゆる魔改造を受けてる三国志とか戦国武将みたいなもんだよ

それらがまだ一漫画作品だった頃にリアルタイムで見られたことを、寂しくも光栄に思っておくしかない

ドラゴンボール批判激おこの皆さん

今のネット世代ドラゴンボール世代が多いから怒ってる人が多いってだけでしょ

例えば古典ミステリとかSF読んで既視感あってあん面白くないなーと思うことってあるじゃん、実際は元祖からなんだけど

もっと今風の例えをするなら、なろう系とか異世界転生ものが飽和してる今にゼロの使い魔読んだら新鮮味がなくて「ルイズルイズ!うわぁぁん!」とはならなかったみたいな感じなんじゃないの

ツイッターでも「作る側の人間ドラゴンボール面白くないって感性なんてぶっちゃけありえない」みたいなこと書かれてたけど、作る側の人間ドラゴンボール好きなんか?日本一売れてる漫画ワンピも嫌いな人めっちゃいるのに?むしろクリエイター全員が同じ感性だったら終わってるでしょ…

ハッピーエンドじゃない物語が読みたい

アニメとか漫画ではなく、割と古典で。

「待てども暮らせど帰ってきませんでした...」みたいな昔話でもいい。

なんか最近ハッピーエンドじゃないと駄目みたいな作品ばっかりで飽きた。

2018-10-14

日本語ってなくすべきじゃね?

公用語英語にしたらGDPが2倍くらいになりそう

とにかく日本語文字を打つのに不便だし形が醜いしガラパゴス化の原因になっている

国語英語とし日本語古典として教育すべき

2018-10-13

最近、「女は顔が良ければ人生イージーなんだから専業主婦してろ。」みたいな雑煽りツイート引用RTで叩くツイートが流れてくることが多くなってきた。

いや雑も雑だろと思ってホームを見ると「2018年10月登録」。

件の大放火事件がちょうど1日か2日くらいだから騒動中に作られた垢ってことか。

確固たる根拠があるわけじゃあないが、

bioがやたら反フェミなのに対しフォローしてるのがbts関連やらchantoやらやたらフェミニンってところや、やたらツイートが少ないとこを見るとFの者のマッチポンプなんだろうなぁ…と。

まぁ思想を持つには人の数だけいろんな背景もあるし、フェミがいいとか悪いとかそういう話じゃなくて、

こういう落ち目好戦的クラスタが陥落瓦解する直前にはなんかこういう分かりやすマッチポンプで身内の溜飲下げる特有芸能が発生するのかなぁって。

というのも、例の弁護士大量懲戒請求に関連してハングル板なんJ民が侵攻仕掛けたことがあったじゃん。

そのときに出てきたエピソードに「在日を騙ったコテハン荒らし論破していく姿に熱狂するハン住民」みたいなのがあって…それを上の芸で思い出したんだよね。

こういうのは情けないなぁ恥ずかしいなぁ惨めだなぁってとこなんだけど、

思想における敵(そもそも思想に敵なんているのか?対抗する相手がいるとしたらそれは未来の協力者ではないのか?)を仮想的にやっつけてみせることで鼓舞するのは

どこか古典世界に出てきそうだし、想像してみたら結構スッとするかもしれないし…明らかに不利な状況で不安解消するにはてきめんだろうし…気持ちはわかる。

大量懲戒請求した人たちと同じく、今回乗じてポリコレゲシュタポポリコレアインザッツグルペンを演じてしまった人たちも、お馬鹿ではあったにしてもどこか同情できるんだよな。同意は出来ないが理解はできるってやつ。

お偉い先生様も参加するあたり、やっぱり学級裁判で冴えない男子ボコすのは一大娯楽なんだなって。

ただやっぱ「性的消費」とかあいまい言葉を使いたがるけど、その辺の定義しっかりしないと今回と同じこと繰り返すし、

日本ポリコレだけでもルールブックとしての何らかの文書必要だと思うんだよね。資本論とかああいう感じの。

今回は私刑裁判だったけど、私刑も刑なら法があるはずだからさ。そういうところをちゃんとすれば、お望み通りリンチしても拍手喝采になるんじゃないかなって。雑感。

あと、それはそれとして去年のゆらぎ荘とか今回もそうだけど例の人はそろそろちゃん落とし前くらいはつけとかないとあかんのとちゃうか?Fクラスタの顔に泥塗ったわけだしさ。

2018-10-12

日本版文化の盗用」議論

アメリカでは文化の盗用」に関する議論が喧しい。ボストン美術館キモ体験についたクレームだとか、当事者であるはずの日本人から見ても「別にいいじゃん」と思わせられるようなケースさえあり、それ自体差別的発想だという批判もあるくらいだ。実際、例の企画は、元々の画がジャポニスムテーマにした画であり、その画の前で日本人ではない人がkimonoを着て写真を撮る行為は、むしろ「ある時代存在したジャポニスム」そして「それを描いた画」という『オリジナル』を尊重した行為ですらある。たとえば日本人着物を着てその前に立っても全く意味がないどころか、むしろそれこそ「オリジナルへの敬意を欠いた振る舞い」として批判されるおそれさえあるだろう(皮肉)。

(※ちなみに、時間のない方は、このあと太字部分だけ読めば大体の内容が分かります。)

だが、そんな自分が、日本でしばしば気になって仕方ない「文化の盗用」がある。それは、TV番組などでしばしばみられる「関東言語話者による恣意的方言使用である。よく例にあげられる「外国の都会の人の言葉標準語で訳されるが、農夫の言葉東北弁で訳される」みたいな問題だけではない。地方舞台にしたドラマ登場人物が喋る台詞などにおいても、方言が、その地方やその地方言語に対する十分な理解を欠いた人間、つまりネイティブ以外によって「ちょっとした彩り要素」としてカジュアル使用される結果、おそろしくひどい形で表現されている。文化への敬意を欠いた使用は、まさに「盗用」と呼ばれるのにふさわしい。

たとえば、関西ネイティブとして断言するが、TVドラマや公に出版されるフィクションなどで見かける関西弁による会話」をみて「自然だ」と感じることは99%ない。それなりにお金をかけているはずのNHK朝ドラ関西指導:●●、などとクレジットが入っているのに)などは、最もひどい例の筆頭である

そういうひどい例を具体的にあげると枚挙に暇がないので、1%の「よい」例をあげてみよう。たとえば谷崎潤一郎細雪戦前作品だが、関西文化に対する深い理解をもとに、「自然な」関西弁が用いられている数少ないフィクションである。谷崎は江戸っ子だが、言語に対する深い感覚と、関西に移り住み関西ネイティブ結婚して緻密にその文化所作、その背後にある思考法を観察した結果として、たとえば第一章冒頭の流れるような会話描写を実現した。相手の反応を伺うような、どこで途切れるのか分からない古典時代のような会話、相手を立てるように話す長女と蓮っ葉な口をきく三女は、それぞれ阿吽の呼吸で話を推進する役/突っ込みを入れる役/疑問・答によって話のオチを付ける役、などの役割(ロール)を自在に演じながら会話を展開させていく。これに較べれば、NHK朝ドラ等の会話が、いか醜悪な「関西弁モドキ」の会話であり、結局「関東弁を関西弁ぽい口調にしただけ」の底の浅いものかがよく分かる。少なくとも関西ネイティブなら、その違いは明白に感じ取れるものだ。

NHK朝ドラで、たとえばヒロインに対して友人が、あるいはヒロインが知人や親に、時に熱く、あるいは涙を浮かべて関西弁で「○○○○なんや!」と叫ぶ。見ている私の胸には「ああ、またか」と鼻白む思いが広がっていく。あれで関西配慮しているつもりなのか。関西東京にとって単なる感傷的なエキゾチシズムの対象なのか。あん関西人おらへんねん。ほんまに。

関西では、関東人のように「正論」を「熱弁」することは、申し訳ないがノーマルナチュラルな振る舞いとは見なされない。話の半分をジョーク構成し、自分を「落とし」て低姿勢で粘り強く交渉するスタンス疑問形を多用して「相手に語らせる」手法、話にはヤマとオチをつけるという作法、そういうものを欠く会話は、下品で場をわきまえない失礼なものとみなされ、見下される。幼い子供を除けば、自分意志相手に伝えたいときにはもっとも用いないやり方だ。関西ネイティブ一見感情かに見えるが、それはあくまでロールを演じる意味においてでしかない。生の感情を表に出すのは、基本的に大きな怒りを感じている相当限られたケース・シチュエーションであり、その際にはまた普段とは全くことなる口調・態度・話の作法を取る(先ほどの「細雪」では、たとえば上巻九で女中を叱責するときの口調がその好例となるだろう)が、それもまた原則的にはストレート物言いを避けながら結論へと近づいてゆき、「自分の言いたいことを相手に悟らせ言わせる」ことを目指したやり方を取るのが通常である。そして、可能な限りすみやかに、通常の流れの会話への復帰が図られることで、その特異な状況の調停と幕引きが図られるのが常である(たとえば先の「細雪」の例では、女中を叱責して帰したあとすぐ長女が「やっぱり自分に落ち度があったのだろうか」という意味自分の「落とし」を始めることで、通常モードへの復帰を図っている。もっともこのシーンでは、普段無口な次女が想像以上にこの件について腹を立てていたため、復帰があまりうまくいかない、というシーンになっているが)。

真顔で、正論を、熱弁するヒロイン これを関西弁でやられると、演技の上手下手に関わらず(むしろうまければうまいだけ)、申し訳ないが周囲との調和を失い破綻した人格を演じているようにしか見えないのだ。このため、たいていの関西人が、あれを見て「奇妙に大げさで下手な演技をする演出朝ドラスタンダード」という歪んだ認知もつことでスルーしていることを、NHK関係者理解されているだろうか? 役者が上手に真面目に演じれば演じるほど、関西人には「下手糞」な演技に見え、演じたい役と演技の乖離は増してゆく。方言文化に対する敬意を欠いた行為は、こういう一見滑稽な、内実を考えれば誠に悲惨結論を生んでしまうのだ。

いったい、メディア関係者はこの明白な「盗用」行為について、どのように考えているのか。私はこれが何かを「考えた」結果であればまだ救いはあると思っている。しかし、おそらく「何も考えてない」というのが実情だろう。何も考えていないからこそ平気で「盗用」できるのだ。盗まれた側の痛みなどまったく想像もしていないから、平気で盗んで見せびらかすような真似ができるのだ。とんだ裸の王様である

国内メジャー方言である関西弁ですらこの有様だというところから見ると、おそらくそれ以外の方言についてはもっとひどいことになっているのだろう。異文化カジュアルに親しむことが「悪い」ことだとは言わないし、敬意をもって接してもらえるなら、触れてもらう側にとってもそれは喜びとなる。だが、少なからず敬意を欠いた異文化との接触は、しばしば悲劇的な結論しか生まないものだ。国内異文化に対する振る舞いは、必然的国外異文化に対する振る舞いにも敷衍される。奇妙に滑稽な「クールジャパンの現状、昨今の極めて「内向的な」外交のありようと、このことは無関係ではないだろう。私たち自分たちが何ものかも知らず、他者が本当は何者なのかも分からない中で、相手の予想のつかない振る舞いに、奇妙に怖れ、怯え、媚びているのだ。


文化の盗用」議論に実りある内容があるとすれば、こういったことへの自覚が少しでも私たちの中に生まれることにあるのではないだろうか。私たち自分たちのオリジナル文化とは何なのかについてもう少し自覚的になり、「(異)文化とは何か」ということについてもう少し考えてみるべきだと思う。無邪気な子供のように「世界中ミナトモダチ」では片付かない、異文化接触する際には慎重で警戒した身振りが必要となる、そういうリアル感覚をもう少し我々はもつべきだ。そうすれば、外交についてももう少し現実に即した対応が行われるようになり、海外との交流スムースに進み、そして関西に対する誤解をただただ広めるようなフィクション制作されなくなり私がイライラする機会ももう少し減るのではないかと期待する。(←これがオチ

2018-10-11

山口一男・シカゴ大学教授日本社会学は総じて科学的ではない」

http://www.vcasi.org/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E4%B8%80%E7%94%B7%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC

――手法としては経済学に影響を受けつつ、世界観としてそれ採用するのではないわけですね。

山口 ないですね。社会学というわれわれの学問自由なわけですね。悪く言えばいい加減。分析の最終的な評価にあたっては方法論的厳密さが求められるけれど、その背後には多種多様研究者がいるんですね。エスノグラフィーをやっている人や街へ出てインタビューする事例研究をやっている人なのです。そういった研究ある意味科学的ではないと僕は思っているけれど、彼らは時々すごくいい洞察をする。すると、彼らの洞察データで裏づけできるか、一般可能か、といった問題へと発展していくので、分業だと思っています

ただ、そういう観点から見ると、日本社会学は総じて科学的ではないということになってしまますね。相変わらず古典的理論家が何をどう言ったという文脈解釈エスノグラフィーが中心ですから例外はたくさんいますが、やはり少数です。4000人ぐらいが所属している日本社会学会では、計量分析に真面目に取り組んでいる研究者は1割程度しかいないと聞きました(笑)アメリカ社会学会では逆に計量分析が7割程度エスノグラフィー純粋理論は非常に少ない。ましてや古典理論解釈をやっている人はほとんど希少価値を帯びているといっていいです。

――そういった違いは日米の大学教育の結果なのでしょうか?

山口 日本社会学教育研究では、社会学ヒューマティと分離していないんでしょうね。ヒューマティ自体重要ですが、それと社会科学としての分析意識的に分けなければいけません。たとえば僕の本『ダイバーシティ』にもヒューマティと呼べる内容が入っていますね。それから、たとえば大学学部教養教育では人に考える力を与え、人を育てることを考えますからヒューマティを含め雑多な要素が全て入ってくるわけです。それはいいんですよ。ですが、大学院は研究専門家を育てるための訓練をする場所のはずです。日本研究者は、しばしばその境界意識せずヒューマティ科学をまったく区別しないんです。その結果、研究においてさえ、たとえばドメスティックバイオレンス研究をしている研究者が、計量的分析などほとんどせずに、被害者から聞いた話だけに基づくフェミニスト解釈で男はこんなものだといった論評をしたりするわけです。まったく科学ではないよ。そういった論評は、自分はこう考えるという意見として発言しても構わない。アメリカであっても思想政策を中心とした雑誌でそういった意見を発表して社会的影響を与えている研究者は多いですし、総じて尊敬を集めています。けれど、科学者としての分析とは区別しなければならないですね。論文を書くとき思想部分は禁欲的に落とし、検証しえた分析結果だけを書かなければならない。

社会科学」としての社会学に対する意識希薄な背景には、日本では多くの社会学科が文学部にあることも影響しているのかもしれませんね。計量なんかやったって人の本音のところはわからないよ、みたいなことを言う人もかなりいました(笑)。僕は実証しなければ、一般的なことは何も言えないよって言うんですが。

つの予言

あの信頼が永遠にゼロ嘘八百、エセ保守インチキ作家様が日本史の本出すらしいじゃん。

その題名がまた、言葉プロたる小説家にしては日本語センスの欠片もねーと思うわけなんだけど、

(「紀」とかって重々しくカッコつけてるけど、それに付けてるのがそのまんまの単語バランス悪すぎ、

例えば年号のように、古典からもっともらしい単語を出すとかがないのが「あたまがわるい」感じ)

それでも宇予君らばかりか日本スゴイ好きの一般人に売れてベストセラー

どっかの私立学校かに採用とかされるんだろうな。

日本史大家出版後のツッコミを頑張って欲しい。

2018-10-10

anond:20181010143004

先行研究再検証する場合に高いレベル査読を通過している方から選ぶのは当たり前で

お前こそ何寝ぼけたこと言ってんの? 自分の狭いテーマに関連する先行研究は読める範囲で全部読むでしょ? まあ、「微妙に関連はあるけど、外国紀要論文ネット公開もしてない」レベルなら諦めるし、「そこそこ関連性はあるけど、スペイン語読めないしなあ……」みたいなやつなら別に読まなくてもいいけど、自分研究テーマクリーンヒットしているタイトルのものだったら手を尽くして入手を試みるし(留学してる知り合いにコピー頼んだり)イタリア語だろうがドイツ語だろうが読めるものは全部読むんだよ。当たり前だろ。

(単発の論文じゃなくて「よく知らない外国語で書かれた大量の重要な先行研究存在する」場合は、その場しのぎじゃなくて本格的にその言語を読めるようにならないといけない。このテーマを扱うなら○○語は読めないとねえ、みたいな言語が分野ごとにある)

読む前に必要性の重み付けはもちろんするけど(他の先行研究でどれだけ扱われているかとか、研究動向を読むとか)、歴史古典文学と違って現在進行系の事象を扱っている場合判断材料が少ないから片っ端から読みますわな。習ったことない外国語を四苦八苦しながら読んでたらむっちゃ重要な内容だったとか、そういう経験したことないです? 気楽でいいですねえ。

自身研究が広く認められるにはインパクトファクターの高い雑誌の高いレベル査読を受けるのは当たり前でしょ

和文雑誌では基本的インパクトファクターとか気にしてないですわ。質が高い論文継続して掲載している雑誌の格が高いのは当然だけど、それをはかる指標はIFじゃない。少なくとも今のところは。雑誌の格付けがないわけないだろと。そりゃ、有名な雑誌は逐一チェックしてるけどそのへんの大学紀要なんざいちいちチェックしないっすわ。

2018-10-09

キズナアイ オーストリアハンガリー皇太子

元々は

この発言から始まったと思われるキズナアイを巡る騒動について。

上記発言についてキズナアイファンフェミニスト、反フェミニスト社会学者、表現の自由論者あたりが参戦したあたりはまぁ当然という感じ。

そんでそこから出てきたキズナアイ性的ではないって主張から、いやそんなわけねーだろってオタクの人から反論が来たり、

萌え絵とその歴史を経由して古典作品萌え絵化反対派と賛成派が燻り出されてきたり(児童書の絵柄の“萌え絵化”について様々なご意見 - Togetter )、

千田有紀武蔵大学社会学部教授論文関係から英語査読付き論文至上主義派的な発言が出ると(社会学者、査読論文出してなくても教授になれるし、招待論文(依頼論文のこと?)があれば査読論文無しでも良いらしい問題(いろいろ追記有り) - Togetter

いやいや日本語論文重要だって意見が出てきたり(みんな日本語の学術言語としての重要性を軽く評価しすぎ)、

個々の学問によって査読論文重要度は変わってくるって話が出てきたり(人文系の文献の取り扱いとか業績についてちょっとだけ - dlitの殴り書き)。

キズナアイ(正確にはキズナアイ運営NHK判断)が叩かれたのが原因でここまで戦線が拡大するって、第一次世界大戦っぽくないですかね?

2018-10-05

anond:20181005091802

教育勅語日本会議的な「偉い俺様全面的に従え、批判するな。」臭があるからな。もちろん、それを取り除けばというが、似たいようなことを書いてる古典なんざいっぱいある。

道徳は非常に数多くの知識集合体あんな短い文だけを取り上げる必要なんざない。

そもそも教育勅語だけをことさら取り上げるのはああいう偉い上様の言うことを批判するな、崇めろというのが心地よくてそういうのを望んでる日本会議の連中が好んでるから

アイツラの中にはだいぶ神職がいるが、神職は旧華族もだいぶおるからな。

2018-10-03

https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20181003-00000026-jnn-soci

本当にこういうの見て思うけど、閣僚就任する前に閣僚研修しないのかね。メディア対応なんか出来て当たり前でしょう。

教育勅語の話を持ち出されたら、

あなたたちメディアはどうせ切り取って使うんでしょうけど、教育勅語には普遍的価値もありますよ。古典を参考に当時の英才が頭をひねって作り上げたものですから。そのまま利用することは、当然、皆さんも御憂慮の通り、戦時中に別の意味を孕んで利用された経緯がございますから、出来ないでしょうがアレンジした形で、今の道徳などに使える分野があり、普遍性を持っている部分があると私は思いますよ。それは言わずもがな戦時中のように使うために作るものではありませんし、そのような目的で利用することもありません。同胞大事にするなどの基本的な内容について、現代的にアレンジして教えていこうという動きがあり、古典として検討に値すると考えていますあなたたちメディアは切り取っていいように発言を利用するんでしょうがね」

くらいのこと言えよ。あほくさ、これで1日記事作らんでもいいや、ありがとうありがとうですわ。

2018-10-02

自然権とは

https://www.asahi.com/articles/ASL9V41MQL9VUPQJ004.html

ブコメが「自然権」の件に噛み付いてる。

かに世の中には自然権というアクロバティックな概念理解してない人たちがいるから、「なんだこいつも自然権を知らないのか教えてやろう」という気持ちで書いているんだと思うが、小林よしのりがその程度なのだとは私は思わない。本当のところは知らんけど。

自然権は、しかしやはりアクロバティックな概念だ。だって人間が生まれとき既に誰か周りにはいるんだから権利もそういう人たちから与えられるものだと考えるのが普通じゃないのか。みんな最初はそう思うでしょ?

でも、「自然状態」という誰もが誰をも支配していない仮想的な世界を思い描くこと、本当はないはずのゼロ地点を見つけて、そこからゼロベースで考える手立てを手に入れることで、本来各人が持っているはずの誰にも制限されない権利ってあったはずよね〜と考えることができる。わからんけど、きっとできる。

自然権とは、だからそういう「自然状態」という無重力フィールドで「権利」を発動させたらその考え方のパッケージが裏返ったような概念であって、なんていうか、やはり、足場がないと脆い概念だ。

もちろんこうした考え方をもとにポコポコ近代国家体制理論的に後ろ盾てきたのだから、これはこれでたいへん尊い考え方だしおれは好きだからブコメの人たちの気持ちもわからないではない。

でも、そもそもその「自然状態」って正しいの?とかみなさんは思わないんだろうか。ゼロと設定したそこは本当にゼロなんですか?自然権自然状態依存するんだからゼロ地点が間違ってたらその時点で自然権とかそんな確固たる地位を持たなくなるんじゃねーの?

いや別に思わないならそれでもいいんだけど、未だにホッブズとか持ち出してきて(古典批判的に乗り換えるためには大切だけど)、教理解説するみたいに援用するのダサくないですか?というようなことを思った。

古いマンガ読むのつれえわ

いくら名作扱いされてようと古いってだけで読むに耐えないのはほんとしのびねえが

いやまじでよむにたえねえんだわ

なんだかんだで最近に至るまでマンガ表現も洗練されてきてんだなって感じるわ

読みにくいしテンポやらなんやらが時代錯誤すぎてすんげー疲れるんだわ

もう古典だよ古典

枕草子すげえわーとか源氏物語いいよーとかともうどうレベルですわ

2018-10-01

anond:20181001022514

古典どころか現代文もやってないの?

読解力0でやっぱお前国語大人しくやっとけって感想しか出ないんだけど

いい大学で学びたい意思がある場合高校でやる事は受験勉強だよな?

はいセンター受験の科目見て?共通なんちゃらだっけ?どっちにしろ国語あるよね?

じゃあ古文漢文やらなきゃダメでしょ

次に高校受験予備校ではなくてある程度の一般教養を学ぶ場所として考えた場合

そんなんどの科目も一律重要でしょ

受験進学関係ないんだから

お前は高校数学高校物理受験進学せずにどんなシーンで使えると思うんだ?

それは高校国語古典より頻度多い?

anond:20181001022750

そりゃ定義などないだろ。

増田的には、資本主義社会でそこそこ安定してやっていけるようなスキルを、優先しろって考えてるの?

それもありだけども。

 

というか、増田がそう思うなら、古典なんかさっさと切る方針でいけよ。

それで終了。問題ないじゃん。

anond:20181001022229

その「少しも」の定義高校古典である理由分からんなぁ…。

何故必要と言いたがる人は皆、根拠を言うより先に勝手自分の考え(妄想)を自明だと考えちゃうの?

そもそも国際的舞台というのを目的にしてる時点で稚拙でくだらない、お笑い論理だけどね

anond:20181001021656

いやいや、洗脳しているとは言ったけども流石に国民の皆が皆、中学レベル教養しか無いのはマズいし(就職予備校としてではなく学問を学ぶための)大学で専門的な内容を学ぶ際に必要となる普遍的知識思考力は高校で身につけられると思ってる。要は大学で「学びたい」人には必要だということ。

貴方が言ってることは古典擁護派の人間本質的に何も変わらないんだよな。俺の一番最初に書いた文を読んでもらえればわかるが、繰り返すようだがあくまでも優先度の話をしている。

anond:20181001014553

権力者側(エリート)の言い分としては、「それくらい軽々と乗り越えて来い」ってことだ。

実際、国際的舞台自国古典のことを少しも(高校古典くらい)語れないのは、不味いってことだろう。社交的に。

 

そこら辺、スルーして行くなら、少しランクの低い(エリート的に)進学先を選べって、メッセージだと思う。

(この世界エリートだけで構成されてないから、そんなに真に受けることはない。自分にあった進学先を選ぶのが良いだろう。)

anond:20181001015201

それ言ったらおしまい

あくまでも俺を含めて皆さん中等教育特に高校)が国民全員に不可欠であるという前提の上で話してるからね。俺は建前上そうしているだけで高校自体必要ないと思うけどもね。欧州のどっかの先進国みたいに高校のあり方自体根本的に疑って変えることはこの国では120パー無理だから敢えて高校で学ぶことは今後の人生で大いに役立つということを自分自分洗脳して、その中で特に目立った古典について指摘してるだけ

だって古典に関しては高校受験予備校だと認識してないような人間にとってさえも明らかに無駄だもん。寝る前なので支離滅裂駄文失礼した

anond:20181001014553

理数科って事は進学校でしょ?

それなのに馬鹿だな

高校なんか全部入試目的なんだから

いらないのは保健体育やら美術やら体育祭文化祭部活動

センター科目である国語古典大事だよ

お前は高校で何を成し遂げようと思ってるんだ…

理数科の高校生が思う古典についてのあれこれ

しばしばホッテントリ入りしてる中等教育における古典必要性についての議論だけど、マジで必要だと思ってる奴に意見を訊いても馬鹿みたいな回答しか得られないよね。

彼らの主張には2パターン反論で9割封じ込める; 「じゃあ金融論理学など、別の学問も同等に必要なのでは?」、「じゃあ中学校で習う内容で十分なのでは?」

正直週3は馬鹿げてるとしか言いようがない。俺は古典については特に提出物は文字通り一切出さず、1年初学期にも拘らず赤点を叩き出したが、大概の生徒はこのくだらない科目の為に多大なる時間を割いている。助動詞やその活用漢文定型文を覚えてる暇があったら英単語の1つや2つでも覚えた方が明らかに有意義なのは自明である。何、古典文法理解することは現代口語文を理解する上で必要になるという主張もあるだろう。勿論こういった古典必要派の主張に誤りなんてどこにも無い。それが卑怯なんだよな、マジで。「必要性」の話なら、俺がさっき挙げたような学問も必ずどこかしらで役立つことにはなる。ただ、ここで重要なのはあくまでも「優先度」に尽きる。これさえ理解できない人間が本当に多い。卑怯者の無学者め。

恐らくこういう風潮の原因は「1回(指導要領に)入れたら簡単には戻せない」という考えにもあるだろうねえ。ま、兎に角こういう議論すること自体が非常に馬鹿馬鹿しいので、早めに真面目な高校生無駄時間を使わせるのやめさせた方がいいですよ。俺はこんな国に留まるつもりはサラサラいから好きにしてくれて結構だけどね。仮に古典の成績1でもクソ喰らえだよ全く。

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