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はてなキーワード: 古典とは

2024-05-24

児童書メインの出版社児童書はい

本が好きから今まで本を沢山読んでたけど、最近児童書で間に合うような内容は児童書で読んでる。

自伝物語系は読まないけど、義務教育の分野の本や実用書的な本は児童書がかなり読みやすい。

個人的児童書でいいと思ったポイント

・読みやす

児童書固有名詞専門用語以外はほぼ常用漢字だけだし、表現が平坦なので読みやすい。 文章構成レイアウトも「国語的に正しい表現で」「子供理解できるように」が意識されてる。

「五月蝿い」とか「そう云っている」みたいな古典文学みたいな文章はほぼ出てこないのですんなり読める。

それに児童書を主軸に置いてる出版社の本は推敲がかなり厳しいんだろうなって思う程、作者の人柄が全く表に出てこない。誰が書いたかからないような無個性文章で嫌味がなくて読後感が爽やか。知識けが頭にはいる。

トンデモ系が少ない

知識系は中立的な考えの専門家の監修がついてることが多いから、玄米だけ食べればあらゆる病気が治る!みたいな極端な内容が少ないのでいい。

・余計な話が少ない

大人向けの本って200ページあったら150ページくらいはなくてもいいような実例や作者の自分語りになっている本がめちゃくちゃ多い。

例えば仮に正しい目玉焼きの作り方って本があったとして、その本の目的としては目玉焼きレシピが書いてあればいいだけなのに、「作者が目玉焼き出会う前の生活目玉焼き出会って人生がどう変わったかみたいな話」や「いつも目玉焼きを失敗してばかりのAさんがBさんCさんが上手に目玉焼きを作れるようになって前向きな性格になった」みたいな話で埋め尽くされているといった具合だ。

子供向けはページ数少なくていい内容は実際にページ数が少ないか、余白が多いか漫画挿絵で埋められているから知りたいことだけ知れるしすぐ読み終わるからいい。

ということで、児童書は良い。大人向けじゃないと知りえない知識大人向けので読むとしても、予備知識として関連する内容の児童書を読むと大人向けの本を読んだ時に理解やすくなるし。

ただ大人本屋図書館児童書コーナー行くと変な気がするのでネットで買ったり電子の読み放題で読んだ方がいいと思う。

2024-05-22

高校古典全部マスターしてたらすぐにでも古典学者になれるし、日本史世界史ちょっと調べて本書けるやろ

情報教科書完璧マスターした学生コーダー世界でも即戦力ワンチャンあるで!」みたいな吹き上がりはちょっと笑ってしまうぞ。

センター満点でもマスター出来てるやついねーよ。

中学生「見なければいけないアニメの量が半端ない

見なければVtuber話題や友人との話題についていけない…らしい

楽しんでいるのならいいけど、楽しんでいないなら問題だが今はまだ楽しそうだからいか

しかしこれ平安時代でいうところの古代中国古典だよな

大河ドラマでやっている人たちが手紙でやりとりしてたあれ

逢坂の関とか色々

すごい時代になったもんだ。平民の子がそういう高度な会話してんだぜ?

2024-05-21

すっぴんの女が社会で受け入れられるわけないじゃん

どうしてメイクしなければならないんだすっぴんでもいいだろ!

って文句垂れてる女も別にすっぴんが良いものだとは思ってないからね。

めんどくせーからやりたくねーわってだけで。

頭の中でやりたくないこととやらなくていいことが区別つかなくなっちゃってんの。

こんなもん、社会に出てから古文なんか使わないんだから高校の授業に古典があるのはおかしいって騒ぐアホガキと変わんないじゃん。

そんな奴の話を誰が聞くんだよw

自分メイクしている時よりもすっぴんの方が輝いていられるんです!自分にとってはその方がより良い生き方なんです!って自信持って言えるなら別だけどそんなこと考えたことないでしょ?

日本神話でいうところの国産みってスピアステアするけど

それに影響を受けてシェイクに変えたのが英国古典になったんだよね

2024-05-16

anond:20240516113224

殿下語録を分かる奴なんてニコ動に巣食っている古典RPG動画しか見ない懐古厨ジジィくらいしかおらんぞ。いい加減令和に引っ越してこい。せめて平成くらいにまでは来い。

気づいたこと。ワイ、人間より芸術作品の方が好き

生きている人間よりも、芸術作品の方が素晴らしい

ここでいう芸術作品古典とか現代アートに限らない

無名クリエイターでもなんでもいい

 

10万人とか100万人に1人みたいな芸術家の作り出すものけが素晴らしいと心のどこかで思っているか

 

年齢関係なく無名の人が不慮の事故で死のうが

マジでどうでもよくて

 

逆に有名な芸術家が亡くなると本当に悲しい

2024-05-09

万葉集も新古今も過大評価流行語大賞オールタイムベストみたいなもんじゃ

「なにかそういうデータがあるんですか?」

「ぺこーらに告白しようと思ってる」

「5000兆円欲しい」

これらの流行語万葉集和歌になんの違いもない。

背景のストーリーを把握し、イメージを共有し、その上で表現としてしっくり来たことが評価され、バズり、シェイクスピア語録みたいになる。

そういう類の文化だ。

はっきり言って気持ち悪い。


アニメドラマの名台詞ランキングとか、漫画の名シーン投票とか、そういうのも大差がない。

別にそれ自体はいいが、それを過大評価してるのが気持ち悪い。

FLASH黄金時代過大評価してネットが活かした文化最先端だったのだと憤るインターネット老人welcom to undergroundを見せられているようで共感性羞恥すぎる。


よく分からんけどなんか長年評価されているし若造は知らなそうだからこれ褒めてたら人生ベテラン感出るやんみたいはすけべ心の見え隠れがエグいということだよ。

キモいんだよな。

古典過大評価することで自分が偉くなったかのように勘違いするガキっぽい態度の大人


子供ガンダム手塚治虫過大評価してインスタント文化人を気取るノリを大人にされるとキツすぎるわけよ。

暗黙の短歌テーゼ

最近短歌に関する増田記事とそれへの反応で気がついたのは、多くの人は歌人が共有する短歌に関する暗黙の考え方を知らないということだ。

短歌詠みの間には短歌に関する決まりごとや規範が暗黙のうちに共有されており、それを念頭に置いて歌を詠んだり、鑑賞したりする。私はこれを「短歌テーゼ」と勝手に呼んでいる。

あらかじめ言っておくと、このテーゼは必ず守らなくてはならないルールではない。むしろ現代短歌どうやってテーゼに沿わずして魅力のある短歌を生み出すか試行錯誤している節がある。

だが、どんな流派であっても優れた歌人はこのテーゼ意識し、従うか対抗するかのスタンスを明確にして歌を詠んでいる。そして、そのスタンスがある程度共通している歌人同士が同じ結社の中で作歌や鑑賞をすることで歌風確立させて行くのである

であるから、反例となる名歌はいくらでも挙げられるであろうが、反例があることはテーゼ存在しないことを意味しない。

以下、私はこれが短歌テーゼだと思うものを挙げてみる。これらは私が歌会での経験短歌関連の書物を通じて知ったことをベースにした持論であり、歌壇において認められた学説などではないということは断っておく。これらが短歌テーゼ網羅したものとも考えていない。もしこれも短歌テーゼなのではないかと思うものがあれば、教えてほしい。

また、この記事を書くにあたって各テーゼに従っている歌と、対抗する歌(=アンチ・テーゼ)を例示しようとしたが的確な歌を全部に配置できないので諦めた。こうした歌の事例もぜひ提案してもらえると嬉しい。(この記事果たしてまれるのか?という疑念はあるのだが……)

ちなみにこれから挙げるテーゼに対して確信犯的にすべて逸脱しているのが穂村弘である穂村弘歌人の中でも一般的知名度が高く、フォロワーも多いのだが、実のところ短歌テーゼ的には極めて特異な位置付けにある存在だ。ただし、それは戦後短歌運動の流れを意識的に継承した、れっきとした文学的試みである

1. 短歌は、<うた>である

短歌本来は歌であり、5・7・5・7・7の韻律を守り、音読したときに美しい調べとなるよう詠むことを求める。句割りや句またがりを多用したり、日本語として音読が困難な言葉を入れてはならない。

2. 短歌は、現実描写するべきである

歌会などで短歌の詠み合いなどをすると、時々「この歌は"作ってる"ね」と評されることがある。短歌描写リアリティが無かったり、やけにドラマティックであるなど、現実には起こったことでない内容である判断された時にこう言われる。このテーゼにおいては、どれだけ平凡ではあっても日常に実際に起こったことの方がドラマティックな虚構よりも価値があるのである

3. 短歌は、作るものでなく生まれものである

"作る"という先ほどの言葉の中には、作為的言葉を操り、上手く作ろうとする気持ちを戒めるニュアンスも含まれている。日々優れた短歌を鑑賞し、心のうちに誦じて日常を過ごす中で、するっと生まれてくるものを精製するのが本来短歌なのである。こうした体験なしに、ただ物珍しい言葉をいたずらに組み合わせて面白がられる歌を作ろうとする姿勢は望ましくない。

4. 短歌は、身体性を伴うべし

短歌日常生活に即した芸術である。その生活感覚は、身体から得られるものであって、生活に根ざしていない社会政治的話題や、テレビで見たことなど身体を伴わない経験を取り上げるのは望ましくない。

5. 短歌は、風景と実感の呼応関係である

短歌は、風景描写と心情の表現がセットとなるように構成すべきである風景はただの現実ではなく、それに対峙する詠み手の心情を象徴するものとして描写されなければならない。

6. 短歌には、情念を込めるべきである

ただものごとを説明するだけの短歌はただごとうたであり、本来短歌ではない。短歌には詠み手情念表現されなければならない。

7. 短歌は、日本の伝統文化である

短歌日本語を支える伝統文化である王朝時代以来の和歌歴史を学び、古典の優れた歌に触れながら、そのような伝統に連なることを意識して歌を詠むべきである和歌過去の名歌を鑑賞し、日本文化象徴するような風流事物を題材として歌を詠め。




追記:

ちなみに私自身は1・4・5・6に賛同し、2・3はややや否定的であり、7は積極的否定するスタンスである。7とどう決別するかは、戦後短歌の大きな課題でもあったという認識である

2024-05-06

anond:20240506091319

「猿の母子」は実際には人間だったのを「猿」としたのかもしんねェ…

腹を割いたのは…ちうご古典はえぐい話がぎょうさんあることを思へば…

anond:20240506091319

中国古典、猿の母子の悲しい故事が多い

猿拔母箭_百度百科

https://baike.baidu.com/item/%E7%8C%BF%E6%8B%94%E6%AF%8D%E7%AE%AD

後漢末の人、鄧芝は母猿を矢で射ち抜くと、そばの子猿が母猿から矢を抜いて傷口を舐めて木の葉で止血をしているのを見た。悲しくなって弓矢を捨て「もう狩りはしない!」と決意した。

 

猿母中箭_百度百科

https://baike.baidu.com/item/%E7%8C%BF%E6%AF%8D%E4%B8%AD%E7%AE%AD/4782455

僧侶は、鳥を狙った狩人が木の上の母子猿に矢を放つのを見た。矢は母猿の腹に当たった。母猿は近くの父猿を呼び、子猿を託すと矢を引き抜いて、木から落下し絶命した。狩人は弓を折り「もう狩りはしない!」と決意した。

【古今著聞集/母子猿】の元ネタ

2024-05-02

anond:20240502025213

SF入門に「プロジェクト・ヘイル・メアリー」を推薦する!

あんま表で大きい声では言えねーけどSFって実は古典よりも今のほうが文章的にも展開も格段にアップグレードしてて、とりわけSFキモであるセンスオブワンダーは昔の作品に比べて明確に意識的に重んじられるようになった。

それにしてもSFの楽しみは「三体」とグレッグイーガンだけ読んでれば全体の満足度の9割くらい摂取できるんだが、しかし入門者に向けて三体を勧めるか・・・・?🤔

10ページくらいで挫折して二度とSFに寄り付かない恐れがある。

そこで「プロジェクト・ヘイル・メアリー」。読みやすいんだ、これが。

登場人物も限られてるから込み入った人間ドラマに脳を焼かれることもないし、ギュギュッと詰まったセンスオブワンダーに惹きつけられること請け合いよ。初心者オススメ

2024-05-01

ハンサム落語」に失望した愚痴

けっこう前に見に行った舞台に出ていたへっぼこ役者愚痴が今さらふつふつと再沸騰したので吐き出し。

推しが「ハンサム落語」というシリーズ企画舞台に出たので見に行った。事前発表のビジュアル写真衣装も素敵で、落語俳優二人組の掛け合いで演じるというコンセプトも気になった。

舞台当日は推しのいろいろな側面や、様々な役を演じ分ける演技力の高さや、好みのビシュをバッチリ堪能した。その舞台ならではの企画もあり、舞台のものはとても楽しめたし行って良かった。演出音楽美術もすべてが最高だった。

ただ、共演者に何人かへっぼこ役者いたことだけがずっともやもやしている。悪ふざけが過ぎる連中だった。その場のノリで悪ふざけをして姑息に場を引っ掻き回せば「ウケる」と思っている連中だった。

彼らの演目は酷かった。舞台のコンセプトとして落語を演じる以上は、その元ネタに敬意を払って欲しかった。

古典芸能には「守破離」があり、習熟度に応じて型を守る、型を破る、型から離れる、という段階がある。その舞台シリーズに何度も出演経験があるらしいへっぼこたちは、「今さら真面目に演じてもサムいだけ」とでも考えていたのだろうか。それとも生来の悪ふざけ好きなのだろうか。

とにかく落語登場人物を茶化し、その型を破ることに腐心していた。

そしてその悪ふざけはあまりにもサムかった。古典芸能は、洗練されているがゆえに古典となっている。長い年月を経ても消えなかった落語たちを、小手先姑息にイジって面白くなるわけがない。そのイジり方で面白くなるのであれば、先人たちがすでにそうしている。それでは面白くないからこそ、今の型で伝承されてきているのだ。

古典という根のしっかり生えた樹齢数百年の大木相手に、枝葉を追って笑いを誘うような真似はあまりにも無様であり、気分が悪かった。

リハーサルと異なる演技をしたり、女性役をオッサン風に演じてみたり、悪ふざけのすべてが「出オチ」でしかなく、出オチで一瞬の笑いを取った後はひたすらに寒かった。

私の推し初心者らしくしっかりと型を守って演技をしていて、生真面目なその役者としての在り方を見てまずす好きになった。

そしてさすがは落語、見よう見まねでも初心者でも、きちんとやればそれなりに面白くなる。役者さんが演じるから演技はうまいしか企画が素晴らしく、掛け合いを二人組で演じるところがミソで、初心者役者でもちゃん落語として見られる仕上がりになる。

真面目に演じればそれだけできちんと面白ものになる舞台だ。しか落語にはさまざまな登場人物が出る。推しが一舞台でいくつもの役を演じ分ける様を見られたのは大満足だった。

へっぼこたちはそんな推しを巻き込んでくだらない悪ふざけをした。そしてへっぼこたちの演目は余りにもつまらなかった。

から推し活躍には満足しつつ、ずっとがっかり感を抱えている。推しが良かったんだからいいじゃないか、と思う一方で、古典落語を粗末に扱うへっぼこ役者を目の当たりにしたのが残念だった。

舞台のコンセプト、企画演出脚本美術音楽衣装もグッズもなにもかも素晴らしかった。和洋折衷の色っぽい衣装も、演目を切り替えるとき演出も、お洒落な照明も、客入れの案内からグッズ販売スタッフまで感じが良かった。

からこそ、悲しい。

へっぼこ役者たちはこの舞台常連らしい。つまりあれだけの舞台を作り上げられる企画グループが、あのへっぼこ役者たちの悪ふざけを良しとして、繰り返しオファーしているのだ。

私は「あのへっぼこ役者さえいなければ素晴らしかったのに」と思っているが、へっぼこ役者たちの悪ふざけが企画者の本意ならば、この舞台に関しては私の方こそ「お門違い」なのだ

あの素敵な舞台から「お前はうちの客じゃない」と言われた気がした。好きになったから、悲しかった。

どんな漫画ドラマ小説舞台も、自分が楽しめなければ悪いのは自分だと思っている。ただ、Not for meなだけだ。作品に「私好みじゃなかったんですけど!」と言っても意味はない。ただ去るのみだ。

多分もう見に行かないと思う。すくなくともあのへっぼこ役者が出ている回は。

今日たまたま配信で見た舞台作品に、一番へっぼこに悪ふざけが過ぎた役者が出ていた。やっぱり悪ふざけしていて、そのくせ声量がなくてダサくてやっぱり寒かった。第一印象が悪すぎてもうよく見えることはなさそうだ。

2024-04-29

自分が何で異世界転生小説大好きなのか考えていた。

しかも超甘口の世間的に馬鹿にされやすタイプの奴が好きだ。

今日休日だけど気温が変動しすぎて体がキツイんでぐったりしてるからさ。行動する気が起きない。部屋掃除とかした方が良いんだけどなあ。

主人公自分投影しているのはもう確実。それでいて現代もの近未来SFミステリといった以前好んでいた小説より異世界転生へ主軸が移ってしまったのはなぜなのか。

しかしたら、既存社会に影響を与えたくないのかな。迷惑をかけたくないのか。

バトルロワイアルとか流行ったじゃん。エンタメとして素直に面白かったけど、どこか遠くに「実際の殺人ゲームではないが実質的にぼくたちはこれをやらされているのでは」とか「こんなくそったれな大人社会から手を取って抜けだそう、出し抜いて台無しにしてやろう」みたいな実社会に対する気持ちが残るじゃん。モデルとして提示するというか。

それを異世界転生は残さない。だって新天地うつっちゃってるし、元の世界に影響を与えることはまずないからね。荒唐無稽世界に行っちゃってるからそちらの教訓を持ち帰ることすら読者はできない。

自分いくら幸せになっても、自分にかかわった人を不幸にしても幸せにしても、現実のもしくは現実類似した世界に影響は与えない。だから好きなのかなあ。安心から

ん?なんでそれが安心なんだろうか。現実に持って帰る教訓が一切ないことがなぜ好きなんだ。

説教臭いのはエンタメにはこりごり。うんまあそうだな。私は確かにそうだ。

それに加えて自分人生に行かせそうな教訓なんぞうっかり受信しちゃったら自分人生で頑張んないといけないじゃん。

ロスジェネのつらさなんてほぼ構造的なもんで個人努力なんて同世代から奪うことにしかならないってのにさあ。

抜本的な対策なんて突き詰めたら親世代社会から取り除くしかなくなっちゃうんだよ。古典には親殺しはよくあるが歴史に残る英雄が達成するならともかく自分でやったら単なる犯罪者だもんな。考えない方が良いんだよ。

ああだからかあ。そういうことかあ。

親を殺さないために、我慢するために、異世界の話を読んでるんだなあ私。

オタクが生じるプロセス

自由濫用と度が外れた放縦の許容による昔の道徳の便利化と定形化。

単純な楽しさを追い求めることは悪くないが、社会的孤立層は非友好的環境に接する。

鬱病のような障害に対して人間的な助けを提供しないで、孤立する状態は不健全オタクが生ずる土壌を提供する。

度が外れた比喩風刺の混用、古典に対する誤読から始まる。

単純な楽しさの乱舞は社会に多くの活力素と新しい概念発見提示するが社会的分節化によって魅力的な環境にはなれない。

2024-04-26

筑波大学お薦め図書リストの「まず読みたい100冊」についての感想

個人の感想です

学生のためのお薦め図書リスト | 筑波大学 比較文化学類公式ホームページについての感想です

・「まず読みたい100冊」の話しかしません(次に読みたい100冊は単に好きな本リストでしょうから


三四郎』 『地獄変・偸盗』

最初にこの2つを持ってくる意味が分かりません。あらゆるリストにおいて最初の2つはこのリストがどういった順序になっているのかを示すものであるべきです。五十音順かと思いましたが、それなら次は『二千日回峰行 大阿闍梨酒井雄哉世界』になるはずですから違いますね。大学生向けということですから対象年齢順ではないでしょうし、難易度順というはずもないでしょう。

もしもあえての順不同だとしても、最初のいくつかはコンセプトの紹介となるものを選ぶべきです。このリストを見た人がどういう思いを受け取ればいいのか迷わないように。

まさか、それで選んだのが「漱石明治時代大学生を描いた名作です。自分と比べて見るのも一興。」「何百もの小説を残した芥川。「羅生門」だけじゃ物足りない。」ですか?ならば多くの人がこのリストを見限るでしょうね。「若造ども、俺が超おすすめ古典文学ってのを教えてやるよ。無教養な君たちはまずはこの辺でも読みなさい」ですか?まあ確かに、そういうリストなのかも知れないですね。だからといってそれをいきなりぶつけてみせるのは初対面の相手に対しての礼を失している。礼を失しているようなものが作ったリストに載せられたあらゆる作品不憫でなりません。

コメントなしの紹介

紹介としての体をなしていません。ただ名前を挙げるだけで仕事をした気になっていいのは山手線を暗記したことを自慢する幼稚園児の鉄道オタクぐらいのものです。なぜオススメするのかを書いてください。オススメされたものへの礼儀です。オススメする側が上で、された側が下だと考えるから礼を失するのです。

大学とは大人の通うものです。先日まで高校生だった人間であっても、言動子供っぽさがあっても、大人として扱ってやることによって、彼らに自分たちはもう大人なのだという自覚を与えるのも大学役割です。学生大人として対等に扱ってあげてください。大人同士だと認識しているのに教える側が絶対的に偉いと思ってるなら、それはもうただの人格破綻です。

紹介コメント(80字以内)「一般教養」 「古典的名著」

どう一般教養なのか、どう名著なのかを書いて下さい。最低限の表現力が欠如しています先入観を持たれることを恐れて書かないというなら、そもそもが間違っています。入門的な書物名前を出した時点で多くの学生は「お前らはまずこの程度のものから身につけなさい」という説教のような印象を受けるでしょう。実際にそう言いたいのですか?そうだとしても、それは効果的な態度ではありませんね。

なぜ学生がまだ最低限の教養を身につけていないのかを考え、そこからバカからだ」という結論にでも至ったのでしょうか?それなら、そんなバカ相手にただオススメするだけで意味はないですよね?それでなにかやった気になって「俺はやれっていったけどなー」とチャチいペシミズムにでも浸りますか?そうじゃないでしょう。なぜ、これをまず学ばなければいけないのかを、言語化してください。それが無理ならリスト作成に関わらないで身を引いて下さい。リスト作成者の人も、こういう人に身を引かせられるようにしてください。座組の段階の問題でもあるのですよ。

ギリシャ神話』 出版社岩波文庫ほか」

一番オススメ出版社のものはどれですか?いくつもの出版社作品を読み比べて欲しいと言うならそう書いて下さい。もしもこれを読んでほしいという一番のオススメがあるならそれを書いて下さい。少しでも多くの情報を伝える努力をする姿勢を。

あっ、駄目だ。

そろそろイライラして変なこと書きそう。

もうここで俺は辞める。

誰か続きを書いてね。

ツッコミ自体はまだまだあるから

まあ6割ぐらいは割と悪くないんですけどね。

参考文献が書いてあったり、オススメ理由が書いてあったり、とりあえず興味を持った順に読むって形に持っていきやすいし、自分がひとまず何から読むべきなのかの道筋もある程度示されていると思いますし。書店での入手可否やkindleでの有無なんかがあるのもいいと思います結構いいと思いますよコレ。

2024-04-25

バストアップ歴史

バスト(Bust) 胸像/胸像画

元々は彫刻用語である。人の上半身彫刻表現したもの。後に絵画にも使われるようになった。

発明されたのはヘレニズム期ギリシャ紀元前3世紀)

 

バストショット

意味は胸像画とほぼ同じ。ただし絵画彫刻ではなく写真テレビカメラ映像作品において使われる

いつから使われているか不明だけれども昭和には使われていたと思う

 

バストアップ/バストアップ写真

意味は胸像画とほぼ同じ。ただし古典芸術彫刻ではなく写真イラスト等に対して使われる

バストアップ

最近豊胸手術意味で使われている(?)らしい

英語では Breast implant

2024-04-18

anond:20240418110459

ラノベレーベル名乗って無くてもラノベ出してる所はあるしラノベってカテゴライズ自体が後付けだから客観的指標は無い

作者が謳う場合もあるし作者は意図してないけど出版社がそう取り扱う事もあるし公式には言われてないけど読者の多数が判断してそうなることもある

からお前の指すそれはラノベじゃねえよっていう議論自体不毛所業

これは小中学生でもサクッと読める娯楽小説だなって感じたらラノベって判断でも間違ってないし

ラノベレーベルからハイファンタジーハードSF出したって構わんのだ

 

ちなみに昨今は古典文学や古い小説萌えイラストを添えて再版していることも多いので表紙が可愛い女の子っていう定義はもう当てはまらない

古典的な美の概念

美術史家のハインリヒ・ヴェルフリンは、イタリアルネサンス絵画建築に具体化された古典的な美の概念について考察している。

イタリア ルネッサンスの中心的な考え方は、完璧バランスです。この時代は、建物と同様に人間の姿においても、それ自体の中に静止している完璧イメージを達成しようと努めました。あらゆる形態自己存在する存在へと発展し、全体が自由に調整され、独立して生きている部分にすぎません…。古典的作曲システムでは、個々の部分は、たとえ全体にしっかりと根付いていても、一定独立性を維持します。それは原始芸術無政府状態ではありません。部分は全体によって条件づけられていますが、それでもそれ自身の命を持つことをやめません。観客にとって、それは分節、つまり部分から部分への進行を前提としており、それは全体としての知覚とは非常に異なる操作です。

古典的概念では、美しさは、比例、調和対称性、および同様の概念に従って、統合された部分を配置して一貫した全体を形成することで構成される。

これは西洋原始的な美の概念であり、古典および新古典建築彫刻文学音楽のどこにでも体現されている。

アリストテレスは『詩学』の中で、「生き物、そして部分から構成されるすべての全体が美しくあるためには、部分の配置に一定の秩序がなければなりません」(アリストテレス、第 2 巻)と述べている。

そして形而上学では、「美の主な形式は秩序、対称性、明確性であり、数学科学は特別な程度でそれを実証しています。」(アリストテレス、第 2 巻)

アリストテレス示唆しているように、この見方黄金分割などの数式に要約されることもあるが、それほど厳密に考える必要はない。

この概念は、とりわけユークリッド原論などの文書パルテノン神殿などの建築作品に例示されており、また彫刻家ポリクレイトス (紀元前 5 世紀後半から 4 世紀初頭) の正典によって例示されている。

カノンは、完璧プロポーションを示すように設計された彫像であるだけでなく、今では失われた美に関する論文でもあった。

医師ガレノスは、この文章の特徴として、たとえば、「指と指、すべての指と中手骨、手首、そしてこれらすべてと前腕、および前腕と腕」の比率指定していると説明している。

その論文身体のすべての対称性私たちに教えてくれたポリュクレイトスは、その論文に従って人間の像を作り、論文と同様にその像自体正典と呼んだ作品でその論文裏付けた。

古典的テキストにおける「対称性」の概念は、双方向鏡像関係を示すために現在使用されているものとは異なり、より豊かであることに注意することが重要

それはまた、古典的意味で美しい、物体の特徴である部分間の調和の取れた測定可能比率一種にも正確に言及しており、道徳的な重みも担っている。

たとえば、『ソフィスト』 では、プラトン高潔な魂を対称的である説明している。

古代ローマ建築ウィトルウィウスは、その複雑さと、適切であるがその根底にある統一性の両方において、中心的かつ非常に影響力のある定式化における古典的概念体現している。

建築は、ギリシャ語タクシーと呼ばれる秩序と、ギリシャ人ディアシスと呼ぶ配置、そしてギリシャ人エコノミアと呼ぶ比例と対称、装飾と配分から構成されます

秩序とは、作品の細部を個別バランスよく調整し、全体としては対称的な結果を目指して比率を配置することです。

プロポーションは、優雅な外観、つまり文脈の中で詳細が適切に表示されることを意味します。これは、作品の細部がその幅に適した高さ、その長さに適した幅である場合に達成されます一言で言えば、すべてが対称的な対応関係を持っているときです。

シンメトリーは、作品自体の細部から生じる適切な調和でもあります。つまり、与えられた各細部が全体としてのデザインの形に対応することです。人間身体と同様に、キュービット、足、手のひら、インチ、その他の小さな部分から、リトミーの対称的な性質が生まれます

アクィナスは、典型的アリストテレス多元主義的な定式化で次のように述べている。「第一に、誠実さ、あるいは完璧さです。何かが損なわれていると、それは醜いからです。次に、適切な比例または調和があります。そして明晰さもあります。明るい色のものが美しいと呼ばれるのは、このためです。」(『神学教典I』)

18 世紀のフランシスハッチソンは、この見解を最も明確に表現していると思われることを次のように述べている。

「したがって、体の均一性が等しい場合、美しさは多様性と同じです。そして多様性が等しい場合、美しさは均一性と同じです。」 (Hutcheson)。

実際、この見解の支持者はしばしば「数学スタイルで」話す。

ハッチソンは続けて、最も美しい対象として数式、特にユークリッド命題を挙げる一方で、次のような普遍的物理法則によってその根底にある巨大な複雑性を持つ自然熱狂的に賞賛している。

「美しさはある、と彼は言いますアイザック・ニュートン卿の計画における重力がそれである」(Hutcheson)

美とは部分間の特定比率問題であり、したがって古典的概念に対する一連の非常に説得力のある反論と反例が、エドマンド・バークの著書「私たちアイデア起源についての哲学的調査」で与えられている。

植物界に目を向けると、そこには花ほど美しいものはありません。しかし、花にはあらゆる種類の形とあらゆる種類の性質があります。それらは無限に多様な形に加工されます。 …バラは大きな花ですが、小さな低木の上に生えていますリンゴの花はとても小さいですが、大きな木の上に生えていますしかし、バラリンゴの花もどちらも美しいです。 … 白鳥は、自白すると美しい鳥で、首は体の他の部分よりも長く、尾は非常に短いです。これは美しいプロポーションですか?私たちはそれが事実であることを認めなければなりません。しかし、首が比較的短く、尾が首と体の残りの部分よりも長いクジャクについてはどう言うでしょうか。 …人間身体には、相互一定比率を保っていることが観察される部分がいくつかありますしかし、美しさの効果的な原因がこれらにあることを証明する前に、これらが正確に見出されればどこでも、それらが属する人は美しいということを示さなければなりません。 …私としては、これらの比率の多くを非常に注意深く検討したことが何度かあり、多くの主題においてそれらが非常に近い、あるいはまったく同じに保たれていることがわかりました。それらは互いに大きく異なるだけでなく、一方が非常に美しい場合には、 、そしてもう1つは美しさから非常に遠いです。 …人体のあらゆる部分に好きな比率を割り当てることができます。そして私は、画家がそれらすべてを観察し、それにもかかわらず、もし望むなら、非常に醜い人物を描くことを約束します。

2024-04-15

いまや、PS3より古いゲームクリアまで楽しむことができるひとって、古典文学を楽しむことができるくらいの能力はあるよなと思う。

ファミコン以前のゲームなんて古代文字の解析くらいの能力がありそう。

anond:20240414235713

まあ、古典(夏目とか、太宰とか)を読んで模倣して自分なりの文体を見つけるのか楽な道だとは思うが……

観察、観察だな。まず経験があって、それから創作があるのだから

たとえば中学生が下校中に上級生に絡まれて殴られる描写をするとしよう。

・「なんだかよくわからない奴が急に絡んできて、よくわからないことを言われて、2回も殴られた。嫌な気持ちになった。」

これでは文芸は生まれない。現実出来事の羅列に文芸はない。

・「その日の帰り道、加曽利と喋りながら帰っていたとき、突然背の高い男に呼び止められた。ソイツはつり上がった目と妙に大きな口で、ヘラヘラと笑いながら私の肩を掴んできた。なんだコイツは?心当たりなど無い。胸が早鐘を打ち、若干の苦しさと居心地の悪さが全身に駆け巡る。男はやれ半袖でかわいいね、とか、舐めてんのか、などとワケのわからないことをまくしたてる。何なんだ?一体。

 すると突然、腹に重い衝撃を感じる。そして頬にもう一発。まさしく星が見え、口の中に殴られた時の鉄のような味が広がる。たまらずダウンして、加曽利がいなくなっていることに気づいた。薄情者め……殴られた不快感と驚きは、裏切り出汁がよく効いたドロドロのスープとなって、私の血に流れた。

 男は捨て台詞を吐いて去った。私は打ち捨てられた人形のように倒れたままだった……下校途中の誰もが私を避けて通り過ぎていく。」

ほぼ一発書きだからアレだけど、まあこんな感じ。言いたいのは、よくよく自分を観察してイメージを胸に形作り、それを描写しないと、文芸は生まれないと思う、ということ。

2024-04-11

anond:20240411002849

この問題ってさ、アニメ化実写化が「1回しかできない」ってところに原因があると思うんだよな

古典みたいに○○版××、△△版××って、何度も映像化されるようになればどうでもよくなる問題

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