はてなキーワード: ラテンアメリカ文学とは
https://anond.hatelabo.jp/20240703191053
ワイ、昨日書いた増田が250以上ブクマされ、ビビり散らかす。まあ逆張り&背伸びしたい勢は想像以上にいるってことなんだろうか。それにしても「百年の孤独」文庫版マジで見つからんな、4件本屋行ったが見つからん。だからまあアレだ、今度は“「百年の孤独」文庫版売ってないのでもういっそ「百年の孤独」は読まないで逆張りしたい人に薦めるラテンアメリカ文学”というテイでお薦めするわ。逆張りしてる/したいやつ、そもそも「百年の孤独」読まんよな。
アウグスト・ロア=バストス/吉田秀太郎「汝、人の子よ」(パラグアイ)
まず名前カッコよすぎだろ、アウグスト・ロア=バストスって。ラテンアメリカの小説家で一番カッコええよ。まあそれは措いといて、これはパラグアイの現代史とかそういうの描いてんだけど、語り方がめちゃ混乱してる。1人称で進んでたと思ったら3人称語りになったり、日記の文章出てきたり。時間軸もめっちゃ変わる。何かググったらロア=バストス、映画の脚本家でもあったらしいけど、脚本っぽさが違和感の理由かもしんない。こういうわけで読んでて何回もは?とかなるけど、その錯綜っぷりがパラグアイの現代史なのかもね、知らんけど。
そう、日系ブラジル人のナカザトさんが書いた日系移民についての小説。月並みなんだが日本の知られざる歴史ってやつを、ある移民の家族史を通じて教えてくれてめっちゃ面白いよ。これ読んでたら、戦前とかにブラジルだけじゃなくパラグアイとかペルーとか、あと他の地域の国とかに行って生きたり死んだりしてた日系移民めっちゃ多かったんだろうなとかしみじみしてしまったわ。水声社から出てる現代ブラジル文学コレクションで一番好きやね、これが。
ある時起きたら見知らぬ部屋にいて、ドアを開けたらまた別の部屋が広がっていて、その部屋のドアを開けたらまた別の部屋が広がっていて……こういう悪夢みたいな状況を描いた作品がこれなんだけども、こっからまた別の意味で変なことが起こっていって、変なことのバーゲンセールが開催されながらも文章は結構淡々としてて、この素っ頓狂さをどこまでも真顔で書いてる作者の顔面が自然と浮かんでくる。訳者によるとウルグアイは“奇人の国”らしい。これ読むと、まあ納得や。
ソル・ケー・モオ/吉田栄人「穢れなき太陽」(マヤ/メキシコ)
これはラテンアメリカの先住民の1つ、マヤ人の小説家が書いた小説集。マヤ語とスペイン語の2か国語で、先住民社会とか女性差別とかそういうのを描いてる。マヤ人の社会やら文化やらについて当事者が書いた本は少ないし、そういう意味でもかなりオススメ。ていうか俺は、ラテンアメリカ文学の入門としてこの人の作品も出てる「新しいマヤの文学」がマジでうってつけだと思ってる。フェミニズムやら、ファンタジーやら、魔術的リアリズムやら色々てんこもりで、薄めでしかも字もデカいから読みやすい。図書館とかじゃスペイン語文学の棚じゃなくて、海外文学の最後のその他の文学の枠に置いてある時多いから注意な。
ラテンアメリカ文学好きは“三大独裁者小説”って聞いたことあるかもな。カルペンティエールの「方法異説」とロア=バストスの「至高の我」とガルシア=マルケスの「族長の秋」ね。この本はそこに並んでもいいようなブラジルの小説だけど、またクソ分厚いわ、出した出版社がそこまで有名じゃないわで。日本じゃ全然知名度がない。てか翻訳過程がオモロイ。訳者、実は三菱UFJ銀行の元理事で、若い頃にこの本読んで感銘を受けて、50年越しに翻訳したらしい。すげえ執念だ。まあこれは俺の文章より、ラテンアメリカ協会の書評読んだ方がええ。https://latin-america.jp/archives/55186
ソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルス/中井博康「抒情詩集」(メキシコ)
前にスペイン語勉強してた時、メキシコの人に「スペイン語話者にモテたいなら、この詩人を読んでスペイン語での口説き方を学べ」って言われてこの人を教えられた。で、図書館行ってとりあえず見つけたこの日本語版の詩集読んでみたんだが……いや全然そういうのじゃなくね!?一体全体何を以てこれ読んで口説き方を学べと言ったんか、それともジョークで言ったんか、マジ分からんが、詩を諳んじられればメキシコひいてはスペイン語圏でモテるってことかね?日本じゃ現代短歌読めればモテる、みたいな。
マヌエル・プイグ/木村栄一「このページを読む者に永遠の呪いあれ」(アルゼンチン)
ブコメでマヌエル・プイグの話が出てたが、プイグったらこれやろ。「このページを読む者に永遠の呪いあれ」やろ、これくらい印象に残る本のタイトルないやろ。この本の表紙の写真と、何か一言だけつけてXで呟けば一発でバズるやろ。というか多分、もうバズってるやつはいるやろ。内容に関しては、忘れた。前の「ポーランドのボクサー」パターンのやつや。今回はタイトルだけ異常に際立って覚えてるやつ。だって「このページを読む者に永遠の呪いあれ」やん、忘れられんやろ、これは。
サルバドール・プラセンシア/藤井光「紙の民」(メキシコ/アメリカ)
これ、ラテンアメリカ文学として紹介されてるの見たことなくて不思議だわ。英語で書かれてるけども、著者がメキシコ出身で主人公たちもメキシコから移住してきた家族だし、土星戦争みたいに常軌を逸した出来事の数々が起こってる感じ、ラテンアメリカ文学求めてる人に面白がられそう。だがこれが曲者なのが、内容や文章も実験的なら、文字のレイアウトでまで実験しまくりなことで、本引っくり返したりしないと読めない部分すらある。だから本のフリをした現代美術を楽しむノリで読むというか、体験すべきというか。
エリザベス・アセヴェド/田中亜希子「詩人になりたいわたしX」(ドミニカ共和国/アメリカ)
これも英語作品だけども、作者がドミニカ共和国出身で主人公も同じ境遇の少女や。で題名通りに主人公が詩人になろうと色々と頑張るんやが、それが詩の形式でめちゃ改行しまくって書かれてるんだよ。これ読んだ時、マジでビックリしたわ。そんな風に小説書いちゃっていいの?みたいな。内容と合ってるのはもちろん、ドミニカ共和国の伝統音楽も出てきて、そういうリズムも感じられんだよな。もち読みやすいし、こん中じゃ一番気軽に薦められるやつ。みんな、児童文学も読めよ。それが周りの読書好きに対する逆張りや。
フェルナンド・デル・パソ/寺尾隆吉「帝国の動向」(メキシコ)
すまんが、1冊まだ読み切ってない本を薦めるわ。ラテンアメリカ文学のクソデカ本の頂点はロベルト・ボラーニョの「2666」だけど、それには全然劣りながらもページ数880でしかも字がめっちゃ小さい。メキシコ第二帝政時代の皇帝マクシミリアンとその妃シャルロッテのクソデカ悲劇を描いたクソデカ歴史小説で、マジで何度も読むの挫折してる。「百年の孤独」関連じゃ“読むの挫折した”って悲鳴をXで何度も見てきたが、俺にとってのそういう本だ。俺の代わりに読み切ってくれ、ホンマに。
あと友田とんの「『百年の孤独』を代わりに読む」もちろん知ってるで。でもいきなり早川で再販されて、何かサンダンス映画祭でやりそうな面白いインディー映画作ってた監督が、いきなりMarvel作品の監督に抜擢された感じで、嬉しいけど寂しい感じやな。その後にMarvel映画作んなくてもずっとハリウッドで大作作り続ける監督とかザラだし、今後はずっとそういう感じで新作も大手から出し続けんのかね?
「百年の孤独」読んだ後にこれを読むべきってネット記事が書かれ始めていて面白い。こういうの好きで、色々なジャンルでこの類の記事を読んで探求してる。だけど時々「いや確かに自分は素人なんすけど、もっと段階踏んだ後に読むべき、玄人向けのやつも読んで背伸びしたいんすよ!」と思う時がある。多分、そういうやつここにもいるだろ?そういう同類に捧ぐ。
エドゥムンド・パス・ソルダン/ 服部綾乃&石川隆介「チューリングの妄想」(ボリビア)
今、ボリビア、クーデター未遂があったとかで混乱してるらしいけど、そんな国を描いたテクノスリラー小説がこれ。“チューリング”ってある通り暗号やらインターネットやらサイバー犯罪やら色々先端技術出てきて、いわゆる魔術的リアリズムとかそういうの全然ない。つーか作者自身、ラテンアメリカ文学といえば魔術的リアリズムとかざけんなや!とか思ってこれ書いたとか書いてないとか。クソ分厚いけどオモロイよ。
ここで紹介するなかで一番新しいやつ。これも魔術的リアリズムとかそういうのじゃなくて、科学のとんでもない功罪の数々についてフリッツ・ハーバーとかシュヴァルツシルトとか、あと数学者のグロタンディークの生涯から描いてるめっちゃ禍々しい本。あれだよ、ノーランの「オッペンハイマー」と並べられるべき本、本内にオッペンハイマー出てきた気もする。物理学者の全卓樹がこの本の翻訳はよ出せはよ出せとか言ってて、冷静なフォロワーが「この前もう翻訳出版されてましたよ」とか言われてたのが印象的だった。
ラテンアメリカはラテンアメリカでも南米じゃなくて中米の文学は日本でもあんま読めない。そん中でもこの人はエルサルバドル出身の作家で中米についてずっと書いてる。この本はグアテマラの先住民虐殺を綴った報告書を読んでる主人公がその残虐さ陰惨さにどんどん正気を失っていくって本で、読んでてただただ気が滅入る。トーマス・ベルンハルトとか好きな陰気な人にオススメ。
セルヒオ・ブランコ「テーバイ・ランド」/仮屋浩子(ウルグアイ)
これはラテンアメリカ文学好きにも知られてないやつで、何故なら戯曲だから。何かウルグアイっていう結構マイナーな国の戯曲が日本で演劇化されて、その勢いで本として出版されたっぽい。こういうのいいよな。内容はめちゃ小賢しい。ギリシャ神話、作者自身が登場するメタい設定、そんで現実と虚構が混ざりあう、みたいな。でも小賢しく技巧凝らしてるからこそ面白い物語もあんだよなあ。
クラリッセ・リスペクトル/高橋邦彦&ナヲエ・タケイ・ダ・ジルバ「G・Hの受難/家族の絆」(ブラジル)
リスペクトルな、俺「星の時」読んで泣いたよ。何でって、ここまで複雑な設定を使って無垢な登場人物を痛めつける作者はサディストのクズ人間で、小説読んでここまで怒りを覚えたことマジでないよ。でも「G・Hの受難」は凄かった。何かずっとゴキブリについて語ってて、そのゴキブリの死骸を通じて瞑想して悟りに至るみたいな。は?ってなるよな。ガチで意味不明で、そういうのって文学の醍醐味だわ。
エドゥアルド・ハルフォン/松本健二「ポーランドのボクサー」(グアテマラ)
これは何か、主人公が恋人の乳首噛んでたことしか覚えてねえや。でも読んで色々印象に残った本だとか、全く印象に残らなかった本とかは数多いなかで、“主人公が恋人の乳首噛んでた”みたいに局所的に1つだけ何か覚えてるみたいな本はそう多くない。いや何で読んだんだっけな、白水社のエクス・リブリスシリーズから出てたからかな、それも忘れた。でも確かに主人公が恋人の乳首噛んでたのは覚えてんだよ。不思議だな。
(1)はこちら。anond:20210212080317
好き。ただし、当時の人にしかわからないパロディやジョークが多く、というかこの本を通じてしか残っていないのもあるので、純粋に笑えるかどうかはわからない。とはいえ、わからないなりにナンセンスさは楽しく(「ぽっぺん先生」シリーズにも引き継がれている)、トーベ・ヤンソンなどいろいろな人の挿絵も楽しめるし、こじらせ文学少年・文学少女とも仲良くなれるかもしれない。大学時代の読書サークルは楽しかったなあ。
ドストエフスキーの小説は基本的に頭がおかしい。ドストエフスキー自身がギャンブル依存症でユダヤ人嫌いのヤバいやつだし。
登場人物は基本的に自己主張が激しくて感情に溺れやすく、数段落数ページにまたがって独白する。プライドが無駄に高くて空想癖がひどく、思い込みが激しくて人の話を聞いちゃおらず、愛されていないのに愛を語る。そしてそんな奴らが大好きだ。
ぜひとも増田をロシア文学沼に落としたいのだが、いかんせん「悪霊」を含む五大長編から挑戦するのはハードルがあまりにも高いので、「永遠の夫」か「賭博者」か「地下室の手記」か「白夜」からがおすすめ。ロシア文学はいいぞ。
ところで、高校時代の友人曰く「ドストエフスキーにはまるのは自己愛と自己嫌悪の衝突を必死にプライドで支える人間、言い換えるとモテない」とのこと。ひどい。
こっちはスマートなほうのロシア文学。一家が没落して家や土地を売らないといけないのに、家の経済状態をわかっておらず(認めず)すぐに物乞いに金貨を上げちゃう、現実の見えていないお母さんのキャラが強烈。ギトギト描写するドストエフスキーに対し、勘所をびしりと抑えるチェーホフ。
実家のお母さんと(特にお金関係で)うまくいっていない人におすすめ。
未読。怪作「木曜日だった男」は読んだんだが。ミステリはあまり読んでいないのでそのうち読む。
誰もが冒頭のマドレーヌの香りから想起されるママンとの思い出についてしか語らず、たぶんみんなちゃんと読んでないからなのだが、実は無職のマザコンが自分の性の目覚め(野外オナニーを含む)やソープ通いや失恋の思い出について延々と語っている話で、何度語り手に向かって「働け!」と言いたくなったことか。
しかし、実のところ登場人物の九割がLGBTという当時としては非常に先進的な小説で、さらに当時炎上していたドレフュス事件という両陣営を真っ二つに分断した冤罪事件をネタにもしているので(今でいえばMeTooやBLMに相当する)、実は差別反差別についていろいろ語っている増田たちにすごく刺さる内容だと思う。俺差別してないし~、あいつは〇〇人だけどいいやつだよ~、的な態度もぐさりとやられている。最高でしかない。
ちなみに、金に苦労しないボンボンがうだうだ恋愛で悩む小説が好きになったのはこの本のせい。「アレクサンドリア四重奏」とかね。
不条理ギャグすれすれで訳もわからずひどい目に合う小説。いきなりこの小説にチャレンジするのはしんどいので、まずは「変身」か岩波文庫の短編集を読んで、カフカのノリが気に入ったら読むといいんじゃないかな。
読んでいるとカフカがお父さんのことめちゃくちゃ苦手だったってのがびりびり伝わってきて気の毒(カフカは線の細い文学青年、父は叩き上げのビジネスマン。想像できるでしょ?)。お父さんとの関係がこじれている人におすすめ。
最高のダメ人間小説。精神勝利法なることばはどこかで聞いたことがあるんじゃないだろうか。作者は当時の中国人の意識の低さを批判したつもりらしいが、万人に刺さる内容。
ちなみに自分はダメな人間、情けないやつ、どうしようもないやつが大好きなので「指輪物語」のゴクリ(ゴラム)だとか、「沈黙」のキチジローだとかが大好きです。
さえないおっさんが妻の浮気を知りながら一日中ダブリンの町をウロウロするだけの寝取られ小説で(途中で女の子のスカートをのぞいて野外オナニーもする)、このリストの前に出てきた「オデュッセイア」のパロディでもある。
これだけだと何が面白いのかよくわからないのだが、実は当時の反英的な機運の高まっているアイルランドの空気を活写している。それだけではなく小説の様々な実験的手法の見本市みたいになっており、和訳もすごい。たとえばある章では英文学の様々な文体を歴史順に真似て英文学の発展をパロるのだけれど、和訳ではその章は祝詞に始まって漢文になり、漱石や芥川の文体を経て現代小説になるという離れ業で訳している。これがもっと無茶苦茶になると「フィネガンズウェイク」になるのだけれど、すでに言語の体をなしていないのでまだ読めてない。
上記の説明でドン引きしないでください。「ダブリン市民」をお勧めします。
結核療養サナトリウム小説。北杜夫ファンの間で有名な「ねーんげん的」の元ネタ。あらゆる知識を山のサナトリウムで吸収した主人公の運命やいかに! 「ノルウェイの森」で主人公が京都山中の精神病院にこの本を持っていくのは村上春樹なりのジョークか。
ただし、やっぱり長いので美少年萌えな「ヴェニスに死す」か陰キャの悲哀「トニオ・クレーゲル」にまずチャレンジするのがおすすめ。
はまったら「ブッデンブローク家の人々」や「ファウストゥス博士」を読もう。
洗脳エンドのディストピア小説なんだけど、増田で「一九八四年」が古いと言われてしまうんだったらこれはどうなるんだろ。読むんだったら他の「すばらしい新世界」とか「ハーモニー」とかと読み比べて、ディストピアの概念が現実の社会の変化に合わせてどんな風に発展してきたからを考えながら読むと面白いのかも。
未読。長すぎる。
未読。
文学サークルの友人に勧められて読んだんだけど、とんでもない小説だった。あらすじとしては、野望に取りつかれた南部の人種差別主義者が自分の帝国を作るために理想の女性と結婚するが、その女性に黒人の血が混じっていたために離婚して別の女性と結婚することから始まる、二つの家系の因縁話なのだが、時系列がしっちゃかめっちゃかなのでとにかくその男の妄念とその子孫の不幸ばかりがじりじりと迫ってくる。あまりにもすごかったのでフォークナーの他の作品は読めておらず、黒人差別を扱った小説も怖くて読めていない。
未読。
読んだがよくわからなかった。うつ状態のときには時間の経過さえも苦痛で、それを救ってくれるのは音楽だけだ、的な話だったか。とにかく本を読み漁っていたころ、新潮文庫のサルトル短篇集を意味も分からず読んでいたのを思い出す。わけもわからないままヌーベルヴァーグを観ていた頃だ。さっき出てきた高校時代の友人曰く「フランス映画のあらすじはセックスして車で逃げて殺されるだけだ」とのことだが、起承転結に還元できない小説を楽しむようになったのはこの頃からだった。
未読。
短いのですぐ読める。ゴドーはいまだに再臨しないキリストのアレゴリーだという説もあるが、実際のところはよくわからない。意味の分からない話だけど、僕らの人生も結構意味不明だよね、みたいな感じか。
未読。「愛人」は読んだが記憶のかなた。まだ幼くて没落する富裕層とその爛れた愛を十分に楽しめなかった。
どうでもいいが自分が年上萌えに目覚めたのは「海辺のカフカ」のおねショタシーンです。
レムの作品の中では一番好き。たとえ出てくる科学技術の描写が古くなっても(SFだとこういうことはよくある)、理解できない対象として立ちふさがるソラリスという惑星の描写は古びない。
SFは考えうるあらゆる可能性を検討し、人類の達成しうることや宇宙の中での意味について想像力の境界をどこまでも遠くまで広げていく文学だ。中には人類がろくでもない理由で滅亡してしまったり、人間など取るに足りないという悲観的なヴィジョンに至ってしまったりするものまであるが、それでさえ美しい。なぜなら、想像力がヒトという種の肉体に縛られまいと羽ばたいた結果なのだから。
最近SFをろくに読んでいないが、元気が出たらまた読みたいものだ。
初めて読んだラテンアメリカ文学。起こりえないことが起こり、名前がややこしいので誰が誰だかすぐに混同され、しかもそのすべてが意図的である。混乱してもとにかく読み進めてほしい。目の前で起きる不可解な出来事をまずは楽しもう。
慣れてきたら、これが不条理としか言いようのない南米の歴史の縮図だとかそんなことを考えてみるのもいいかもしれない。この本のおかげでボルヘスに、バルガス=リョサに、ドノソに出会うことができた。
一説によるとこの本が文庫化されるとき世界の終末が近づくという本の一つ(未確認情報)。新潮社がなぜか頑なにハードカバーしか出さない。ちなみに「薔薇の名前」にもそうした風説がある。
インド独立の瞬間に生まれた子供たちが全員テレパシーの使い手だった! こんな話があの岩波文庫に収録されるんだから世の中わからない。
主人公は裕福な家で育つが、じつはそれは出産時の取り違えによるものであり、誤って貧しいほうで育ってしまった子供が復讐にやってくる。それも、真夜中の子どもたち全員を巻き込む恐ろしい方法で。
インドとパキスタンの分裂、人口抑制政策、そういったインドの歴史をちょっと頭の隅っこに入れておくと面白いが、昼ドラ的な入れ替わりの悲劇の要素のあるSFとして娯楽的に読める。権力を持った強い女性に対する嫌悪感がほんのりあるのが難点か。
ちなみに、「悪魔の詩」も読んだが、(亡くなった訳者には本当に申し訳ないが)こっちのほうが面白かった。あれは当時のイギリスのポップカルチャーがわかっていないと理解が難しい。
独自の神話的なヴィジョンで有名らしいんだが、邦訳あったっけ?
未読。
卒業旅行でパリに持って行った。たぶん時期的には最高だったと思う。とにかく血だとか死だとか堕落だとか退廃だとかそういうのに惹かれる人生の時期というのがあり、まさにそのときに読めたのは幸せだった。もっとも、所詮自分はそれらを安全圏から眺めていただけだったが。
同じく卒業旅行でパリに持って行った。残念ながらフランス語はわからないのだが、フランスのサンドイッチは最高だった。当時はまだピュアだったのでキャバレーやフレンチカンカンは見に行っていない。
未読。
未読。
ドストエフスキーの作品がカーニバル的、つまり一斉にいろんな出来事が起きてしっちゃかめっちゃかになって、日常の価値観が転倒する、みたいな内容。確かにドストエフスキーの作品は爆弾抱えた人間が一か所に集まってその爆弾が一斉に大爆発、的な内容が多い。
ただ、これ以上のことは覚えていない。実はあまり文芸批評は読まない。
未読。
疲れたので続編をやるかは不明。日本文学や哲学・思想は海外文学ほど読んでないし。まとめてみて、遠ざかっていた文学に久しぶりに手を伸ばしたくなった。
「イリアス」は捕虜の奴隷女の配分をめぐった交渉がこじれた結果、勇者が拗ねて戦場に出ず、味方がどんどん死ぬところからスタートするので、昨今の倫理観からは問題があり、神話初心者にはこっちをお勧めしたい。「オデュッセイア」も家で待っている妻を忘れてよその女のところで数年過ごすが、まあ魔法をかけられていたということでこっちのほうがマシだ。舞台もあちこち移動するから飽きないし。
ユニークなのは、劇中劇的にオデュッセウスが時間をさかのぼって事件の進展を語る箇所があることで、ホメロスの時代にはすでに出来事が起きた通りに語る手法が飽きられ始めていたのかな、と想像できる。
実は「ラーマーヤナ」とある共通点があるが読んでみてのお楽しみ。
聖書はなんせ二千年前以上の宗教書だから、原典に当たる前に基本的な出来事の流れと時代背景や当時の常識を理解していないと読解が難しい。当時のユダヤ民族の偏見も混じっているし。加えて、ところどころ立法全書的に当時の習慣や禁忌を延々述べる箇所があり、通読はさすがにできてない。新約聖書だけは何とか意地で読破した。
ところで、どうして「創世記」だけを取り上げたのだろう。たとえば物語として盛り上がるのは「十戒」の「出エジプト記」だ。「ハムナプトラ」とかでエジプトが悪役になるのは大体これのせい。いきなりこれにチャレンジするのなら、手塚治虫の聖書物語のほうがいいかもしれない。
犯人探しが不幸を呼ぶことから嫌ミス的な要素もあるし、ギリシア神話の「不幸な運命を避けるために必死になって行動した結果、結局その運命を呼び寄せてしまう」というアイロニーが大好きな自分としては、その典型例なので好物だ(予言を鵜呑みにした結果ドツボにはまる「マクベス」も好き)。
これが面白かったら、アイスキュロスの「オレステイア三部作」もおすすめしたい。何世代にもわたる恨みの念が恵みの女神として祀られることで鎮められるというモチーフは、異国のものとは思えない。
一般教養で唐詩の授業を取ったので岩波文庫でぱらぱらとめくった覚えがある。なにぶん昔のことなので記憶は曖昧なのだが、はっきり覚えているのが王梵志の「我昔未生時」で、天帝に生まれる前の時代の安らぎを返してくれるように願う詩だ。当時は反出生主義が哲学・思想界隈でここまでホットなトピックになるとは予想してはいなかった。
酔っ払いの詩。酒が飲める酒が飲める酒が飲めるぞーという内容。著者は文学者であっただけでなく天文学者・数学者としても知られるが(三次方程式を解いた実績がある)、ここで展開されている詩はひたすら現世の美しさとはかなさをうたったもので、酔っ払いは世の東西を問わず、というところか。イスラム世界の厳格なイメージをひっくり返してくれるので面白い。ガラン版のアラビアンナイトや高野秀行の「イスラム飲酒紀行」とあわせてどうぞ。
フィレンツェを追放されたダンテが苦しみの中生み出したキリスト教最高峰の文学のはずだけれど、とにかく気に食わない政敵を地獄でめちゃくちゃな責め苦に合わせているところを面白がる下世話な楽しみ方ができる。地獄にいる人物は聖書やギリシア神話、歴史上の人物も多く、ヨーロッパの歴史や文学をざっくり知っているとダンテがどれだけやりたい放題やったかがわかるので愉快。
ただし、地獄編の続きの煉獄編・天国編はキリスト教哲学をかじっていないと結構しんどく、しかも風景が山あり谷ありの地獄と比べてひたすら恵みの光が明るくなっていくだけなので、絵的に面白いのは地獄のほうだ。
ついでに、ヒロインがかつて片思いをしていたベアトリーチェという女性なので、ベアトリーチェの美しさを歌う箇所も下世話な目線で楽しめる。妻帯者の癖に未練たらたら。
未読。後述のラテンアメリカ文学とかジョイスとかは読んだんだが、そこに出てくる過剰なものや糞尿譚も結構楽しんだので、いつかは読みたいと思っている。
四大悲劇と「ロミオとジュリエット」はざっくりと読んでおくと、いまにも受け継がれているネタが結構あることがわかって楽しいし、意外と下ネタのオンパレードなので当時のイギリス人に親しみを持つことができる。ついでに上記のうち二作は黒澤明の映画の元ネタでもある。
興味深いのは、劇中劇というかメタフィクションが必然性を持って登場することだ(父を殺した叔父の目の前で、その殺人の場面そっくりの劇を演じて動揺させるシーン)。すごく先進的だ。かっこいいぞシェイクスピア。
基本的には正気を失ったおじさんが繰り広げるドタバタ劇で、下巻では著名になったドン・キホーテをからかう公爵夫妻までも出てくる。これだけだと精神を病んだ人をおちょくる悪趣味な書物だとしか思えないのだが(というか最初は時代遅れの騎士道精神を批判するために書かれた)、昨今はドン・キホーテに同情的な解釈が主流。最近テリー・ギリアムが映画化した。
自分が道を踏み外した元凶。誰だこんな子供を人間嫌いにする本を児童書の棚に並べたのは。クレヨンしんちゃんを夕方アニメにするレベルの蛮勇だ。四部作だが、最後の馬の国では人間という存在の醜悪さをこれでもかと暴き立てており、おかげさまですっかり自分は人間嫌いで偏屈な人になってしまった。作者の女嫌いの影響を受けなくて本当に良かった。
とはいえ、当時のアイルランド支配はこれほどまでの告発の書を書かせるほどひどかった、ということは知っておきたい。
夏目漱石「吾輩は猫である」に出てくる。基本的にはふざけた話であり、著者が自分の誕生から一生を語り起こそうとするがなかなか著者自身が誕生せず、しかも物語の進捗が遅いせいで半年ごとに本を出す約束なのにこのままでは永遠に現在の自分に追いつかない、みたいな語りで笑わせてくる。挙句の果てに著者が途中でフランス旅行に出かけてしまう。英文学というジャンルがまだ黎明期なのに、こんな愉快なのが出てくる懐の深さよ。
だが、これだけふざけているのに、登場人物の一人がうっとうしい蝿を「この世の中にはおれとおまえと両方を入れる余地はあるはずだ」といって逃がしてやるシーンはいい。
未読。「毛皮を着たヴィーナス」と「眼球譚」は読んだんだが。バタイユどんだけおしっこフェチなんだよ。自分もお尻とかブルマーとか競泳水着が好きだから笑わないけどさ。
個人的にはとても好き。人生できっと何かを成し遂げられるはずという万能感ある思春期に読みたい。主人公の行為は決して褒められたものではない。様々な悪事を働き、幼い少女を妊娠させたうえ捨ててしまう。このシーンのせいで、もしかしたら二十一世紀には読み継がれない古典になってしまうかもしれない。しかし、主人公が最後にたどり着いた境地の尊さの価値は失われることはないと信じている。現世で最も美しい瞬間とは何か、あらゆる物質的な快楽を手に入れた主人公が見つけた答えを読んでほしい。後半はギリシア神話を知らないとつらいかもしれないが、そのためにギリシア神話入門を読む値打ちはある。
未読。同著者の「赤と黒」は貧乏な青年がひたすらのしあがろうとする話で、あまりピンとこなかったのだが、文学サークルの友人から最近来たメールに「訳者を変えて再読したら面白かった」と書いてあった。
さえないかわいそうなおじさんが好きなので好き。ロシア文学というものは、名前がややこしいうえに同じ人物が様々に呼ばれるので敬遠されがちなのだが(イワンが何の説明もなくワーニャと呼ばれるなど)、登場人物をメモしたり、ロシア人名の愛称の一覧を頼りにしたりして飛び込んでほしい。このハードルさえ超えれば最高の読書体験が待っていることは保証する。ロシア文学はいいぞ。
ポーは大好きなんだけどどうしてこれを代表作に選んだのかはよくわからない。個人的には王道の「黒猫」とか「アッシャー家の崩壊」とかを最初に読むのがいいと思う。中学生の頃、狂気や暗鬱さにどっぷり浸っていた頃に読んだのだが楽しかったし、作中の詩が今でも世界で一番好きな詩のひとつだ。ちなみに、東京創元社のポー全集には、ポーのユーモア作品もいくつか収録されており、意外な顔を知ることができる。もっとも、今読んで面白いジョークかどうかまでは保証しないが、こじらせ文学少年・文学少女としては必読か。
最高の昼ドラにして非モテ文学。俺は愛されずに育った、俺は永遠に誰からも愛されない、だから他人の幸福を破壊してもいい、的な気分に一度もでもなった人は何としても読んでほしい。
映画「マチルダ」の中で児童書に飽きた天才少女がこれを読もうとする場面があるんだけど、これ小学生が読む本じゃないだろ。単純に難しいのではなく、とにかく話が脱線しまくる。まともにストーリーが進まずに、著者自身のクジラに関するうんちくが延々と続く箇所もある。雑学隙の自分は楽しく読んだが。
敵のクジラを殺してやろうとするエイハブ船長の狂気についていけるかどうか。
自分が人妻萌えを発症した元凶の一つであり、世界文学初のカーセックスシーンがあることでも知られている(自動車ではなく馬車でだが)。ストーリーは夢見がちな女性が夫に幻滅して若い男やチャラ男と浮気し、サラ金から借金を重ねて自殺するという「闇金ウシジマくん」的なノリ。妻の浮気を知ったさえないボヴァリー氏の哀れな反応は必見。自分が寝とられ文学が好きになってしまった元凶の一つ。
自分はこれまで村上春樹のノーベル文学賞受賞はないものだろうと考えていた。
なぜなら村上春樹の源流にある英文学作家のほとんどはノーベル文学賞を獲ってないからだ。
J・D・サリンジャーもカート・ヴォネガットもジョン・アーヴィングもリチャード・ブローティガンもレイモンド・カーヴァーもレイモンド・チャンドラーも獲っていない賞を何故村上春樹が獲れるのか?という話だ。
上記に示したような20世紀後半世代の英文学作家はノーベル賞を獲りにくい傾向にある。
おそらくこれはニューレフト以降の人文世界では「脱欧米中心主義」の考えが支配的であり、
文学の世界でも例外ではなく、マイノリティやポストコロニアル(被植民地)的視点、非欧米的な価値観が評価されやすいからだろう。
例えば同じ20世紀文学の新潮流でも、リョサやマルケスのようなラテンアメリカ文学の作家は獲っているが同世代の英米のビート・ジェネレーション作家(ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、リチャード・ブローティガン等)やポストモダン作家(トマス・ピンチョン、ドン・デリーロ、フィリップ・ロス等)は誰一人受賞していない。
あまりに欧米的な村上は、日本人作家でありながら上記のような英文学の系譜として評価されており
それ故に世界中で読まれ、それ故にノーベル賞の受賞は難しいだろうと思っていた。
だが去年のボブ・ディランの受賞で大きく流れが変わった
ボブ・ディランの受賞理由は歌手としてではなくビート・ジェネレーションを代表した文学としての評価だ
まるでこれまで無視してきた英文学作家の特定の世代をあわてて補填するかのような受賞である。
僕はこのボブディランの受賞で数年以内に村上春樹が獲るのではと予想した。
もしボブ・ディランがジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、リチャード・ブローティガンといった受賞しなかったビートニク作家を補填するものだとしたら
サリンジャー、ヴォネガットといった受賞しなかった英文学の作家達を補填するのに一番ちょうどいい作家は村上春樹だからだ(もしくはジョン・アーヴィング?)
これは結構驚いた。イシグロが受賞するにしてもまずは村上春樹が先に受賞するだろうと思っていたからだ。
この受賞で同じ日本(日系)人の受賞で不利になるのではいう声は多い。
英文学の系譜であり、良く言えば世界的な人気作家だが、悪く言えばマスであり通俗的な作家である。
これらの共通点はこれまでの村上春樹が受賞しないと思われていた理由であった。
(個人的な推測だと村上の過剰な性描写がセクシズムを理由に外された?)
とはいえ無根拠に騒いでいたこれまでよりかは村上春樹が受賞に近くなったといえるだろう。
カズオ・イシグロが受賞する文学賞の選考過程に村上春樹の名前が上がらないはずがない。
このボブディランからカズオ・イシグロという流れは驚いた人も多いと思う。
ノーベル文学賞を含めた学術的な場での世界文学の評価が大きなパラダイムシフトを迎えてるのは間違いない。
そしてこの傾向は村上春樹の受賞に極めて有利な状況だろう。
というか長々と話したが簡単なことだ。
J・D・サリンジャーもカート・ヴォネガットもジョン・アーヴィングもリチャード・ブローティガンもレイモンド・カーヴァーもレイモンド・チャンドラーも獲っていない賞を村上春樹が獲ることはありえないが
ボブ・ディランとカズオ・イシグロが受賞した賞なら村上春樹が受賞する可能性は十分にありえるということだ。
追記
https://anond.hatelabo.jp/20171006224419
上記を受けての記事です。
履歴書の趣味のところに書くと無難どころかありきたりすぎて面接のときに触れられない趣味、堂々たる第1位はきっと読書。かく言う自分ももちろん趣味の欄にはそう書いている。読書。筆圧の濃い癖字が履歴書に踊る。
以前、学生の頃は読書家を自負し、講義中も本を手放さなかった。ついにはラテンアメリカ文学の講義中に真ん前で読んでいて教授に
とマイク越しに注意された。ラカンかっこいいと思っていた自分が心から恥ずかしい。おもしろい講義だったのに本当にすみません。
でも今は本を読んでいない。読みたいなと思うし読もうとして本を開いても、同じ行ばかり読んでしまう。言葉の意味が頭にはいってこない。大きな本屋にはいると情報量が多くてなにも考えられなくなる。うろうろして吐きそうになって店をあとにする。パニック。蕎麦好きの蕎麦アレルギーと同じく、これは一つの悲劇だと自負している。
思うに、普段会社にいて使う頭の部分と読書をして使う頭の部分が同じなのではないか。で、自分は要領が悪いので仕事をするとヘトヘトになってしまう。その行き帰りに本を読もうとしても、スリープモードになってしまっているので、文字を読んでも頭にはいってこないのだ。
だから会社から帰ると、気分転換に以前はよく録画した映画を観ていた。読書に比べると右脳使ってる感じがするな〜と思って観ていた。でも映画すらも筋が追えなくなってきて、今度はもう普通のテレビ番組。「ここ見てくださいよ」というのが演出ではっきりとわかる類のものを見て、パブロフの犬みたいにだらしなく笑っている。記号→即リアクション。ゲラゲラ。間寛平おもしろいなぁ、みたいな感じ(間寛平が悪いわけではないけど)。文明が発達していない未開の地域の部族にテレビを見せると、過剰なリアクションをするとどこかで聞いた。だとしたら文脈とか高度に様式化された部分を読み取ってこその文明人だと思うんですよね、自分は。
でも読書が高尚な偉い趣味、というわけでは全然ない。これはあからさまな偏見だが、読書が好きな人は大抵スポーツが苦手だからしょうがなく本を読みはじめた人が多いと思う。本当に偏見だ。だが懲りずさらに偏見を言い続けるが、本を好きな人は本を好きな自分偉いって思っている節があるから大抵鼻持ちならないイヤなやつだ。家にこもって黙って一人で本を読むことのなにが偉いものか。友だちと会え。それか浜辺でゴミを拾え。読書は別に偉くもなんともなく、運動不足につながるクソみたいな趣味だ。でも読みたくなるから自分クソだなって思ってしてしまう、それが読書。
まずはじめに私のスペックを書きます。都内で四本の指には入る私大卒(ミスコン経験、でも落ちました!)、20代半ば、普通のOLです。趣味はホットヨガ、ネイルアート、あとスポーツ観戦とか? 食べ歩きもします、あと読書や映画はめっちゃ好きで、卒論はラテンアメリカ文学でした。
さてここで嫌気が差した方々、おめでとうございます、あなたは非リア充センターポジションです。
そしてさらに煽るようなことを。
今までの彼氏の数は3人(今も続いてます)告白されてきた数は多分20ぐらい。合コンは行ったあとはメールがいっぱい来ます。肉便器と言いたくなった非リア充さん、いままでに付き合ったことのある人数を教えてください! ヨロシク!
いわゆるモテる・スイーツ・でも付き合いたい、よく言われます。かわいい、賢いね、機転が利くね、よく言われます。付き合って、よく言われます。男友達、女友達ともにたっくさん、それが私です、ごめんね~! リア充でぇー。(甲高い後輩の声で)
さて、世の中にリア充しねば、という人々が蔓延っていますが、その人の言葉はどうしようもなくねたみやうらみ、そねみでみちあふれていますことね? 私もそんな中の一人でした。少なくとも、中学校までは、フツーにいじめられてました。いや、嘘じゃなく。しょうじきにいえば、中学の卒業アルバムに、先生しかコメントかいてくれてないです。(捨てたよ!)
さてこっからいじめられた経験についてお話しましょう! 私、小学校から中学校まで、友達、いませんでした。そんでもって、普通に男子にきめぇきめぇ言われてました。いじめられた経験がある人ならわかると思いますが、いじめをしてくる異性というのはただならぬ恐怖心を植え付けます。
私はXX菌ならぬ、「XX皮膚(当時、私はニキビひどかったので)」という理由でいじめられました。
ちょっと男の子に自分の持ち物が触れただけでも「まじやべぇ、けがれた」とか言われたし(どんな穢れだよ!)、無理やり学級委員を同じようないじめられっこ男子と組まされてやらされたり、あとは席替えで、隣の席になった男子が、本当に嫌そうな顔で私のほうをむいて、机を10センチぐらいわざとらしくずらすのが懐かしいです! 死ねばいいのにとおもいました! 席替えは本当に怖かったなー。
でも学校に行き続けました。私、死んだら負けだと思ってました。死ぬやつはクズだなあと思ってました。テレビでいじめを苦に自殺する女の子や男の子たちのニュースが流れるたび、バーカ! 負けてやがる! とひねた風に思いました。でも毎日辛くって毎日泣いてた。学校は正直行きたくなかったけど、保健室にいるあの子やあの子やあの子やあの子のように、弱くはなりたくはなかったんです。
そうして私、おべんきょうして、ちょっと離れた進学校に通いだしました。そこは共学でした。
私はとりあえずちょっとでも自分を変えようと思ったんです。まず外見。それが全部今に繋がってる。
最初に春休み、皮膚科に通うことに決めて、にきびを治しました。すぐに完治ではないですが、汚いけどそこそこ見える顔、に治りました。眉毛を切って、縮毛強制をました。(当時、今も? さらさらロングはやりだったんです)。
まず外見から。これが功を奏した。
高校スタートでは無事、浮きませんでした。なんていうか、みんなフツーに接してくれた。でも最初、人付き合いというのは本当に難しかった。ほぼ親とぐらいしか話したことのない私は、同性も、異性も、話しかけ方なんてわからなかった。
そこで失敗しながらも学んだこと、それは、聞き役を頑張ること。はじめは喋り方がわかんなくて、同じグループになった女の子たちにもオタオタと喋りかけたり、その会話が長すぎたり、または変な主張のようになってしまって、よくえ? って顔をされました。でもそれが、逆によかった。
人がえ? っていう顔をしたときは、それが、あなたおかしい事言ってますよ、という合図なんだと、15歳にしてようやくわかったんだもの(そしてそれをわからない成人男女もいかに多いことか)。
多分、会話に慣れていない人は、同性や異性のリア充っぽい人に、え? ってされるのがとてつもなく怖いんだと思います。自分を拒絶してる! 敵だ! って思うんじゃないんでしょうか。
でもそれは、自分がトンチンカンなことをただ教えてくれているにすぎないんです。
全部が全部、あなたをつつみこんでくれる、家にいるかーちゃんばっかじゃないんだ、と私はそこでようやく気付きました。人付き合いって言うのは、相手を不快にさせないようにするものなんだって。だから、私は言葉を区切ることを覚えました。人の話を聞くことを覚えました。上から目線で(私それしってるけど~)っていわれるのは、私も言われるのが嫌だと思ったから、いわなくなりました。
若かったのでしょう、会話の方法もつかめたし、男の子の肩も気軽にたたけるようになったし(それまで異性に触るって言うのは、本当にすごいことだと思ってた)、コミュ力と最低限の外見は身につきました。
あと、最後に学んだのは、これはさっきも言ったんだけど、リア充は全部「敵」じゃないってことだった。むしろ、人間だった。いじめっこは許せない(もうどうでもいいけど)、でも、目の前にいるイケメンやかわいいリア充ちゃんたちは、いじめっこじゃなかった。普通の、ただの人間だった。
私はずっとリア充を仮想敵にしていたんだけど、敵じゃないとわかって、普通に付き合っていく方法を覚えた。これで人生が、生活がスムーズに行ったんです。
バカにされない人生はたのしいということを、私は高校生になって知りました。
最後にまとめ
さて、ホットヨガをしている、ネイルアートが好き、などというと、あなた方は世論に惑わされたスイーツだとお思いになりましょう、でも、あなた方はそれをどのぐらい知っていますか?
脳みそからっぽな女がやってる馬鹿なことだ、さて、その脳みそからっぽなことをやっている人間がいるのは日本だけで何人いるでしょうか。そしてそれは日本だけですか?
あなたが好きなアニメやマンガ(私もアニメは普通に好きです、Vガンとか)、ネットで流行る音楽にはまること、それとホットヨガやネイルアートや食べ歩きに精を出すこと、それってどう違うの?(クリエイティブにならず、双方ともに消費するという場所に立っているだけでお考えください)
http://anond.hatelabo.jp/20100913002509
小学生の頃、中休みや昼休みに遊びの輪に入れず図書室に逃げ込んでいた。
そこで読んだ「十五少年漂流記」や「ロビンソン・クルーソー」辺りが出発点だろう。大丈夫、俺もそうだ。
そして大方の場合、小学校~高校までははっきり言ってクソだっただろう。
グレたか孤独だったかの二択しかない。家庭科の授業と体育は大嫌いだ。大丈夫、俺もそうだ。
そんなわけで、自分の才能はどこにあるか小学生の俺は考えた。運動、論外だ。絵、話にならない。勉強、出来なくはないが一番には到底なれそうもない。そんな時、読書感想文コンテストが市の優良賞に選ばれた。そうか、俺の才能文章じゃね?
そもそも「書きたいもの」がそんなにない。ファンタジーもSFもラブロマンスも特に好みではない。
なんとなく「文学」に憧れはあるが、そもそも文学ってなんだ。これは本を読まねばなるまい。
とりあえず「金閣寺」と「人間失格」を買ってみた。どっちも意味がわからなかった。ただ、人間失格を読んだとき「要するにゴミ野郎だよね」と思った記憶はある。これのどこがいいのだろうか、と真剣に思った。金閣寺は途中で放り投げた。
仕方が無いので、遊び人のおじさん(36歳、ヒモ)に相談した。面白い文学ってない?おじさんは「これを読め」と安部公房の「壁」を貸してくれた。世界がひっくり返った気がした。あの衝撃は未だに忘れられない。「S・カルマ氏の犯罪」「バベルの塔の狸」。まさに「衝撃」と呼ぶのにふさわしかったと思う。ようするに、文学とは衝撃なのだとそのとき俺は思った。「作者は何を言いたかったでしょうか?」という国語教育の呪縛から解き放たれた瞬間だったと思う。
おじさん、面白かったよ。とおじさんに本を返すと、次におじさんが貸してくれたのは
中島らもの「バンド・オブ・ザ・ナイト」と三島の「不道徳教育講座」だった。今思うと、中一に貸していい本では決して無いのだが。これらの本は「衝撃」という点では安部と全く比較にならないが、とにかく面白かった。中島らものラリった文章と三島と毒たっぷりのユーモア。おかげで、俺は加速度的に人生を踏み外していった。その後、叔父さんは叔母さんと離婚しどこかへ消えていってしまった。どこかで野垂れ死んでいるかもしれないが、元気ならいいな、と思う。
もともと、安部公房からスタートした読書遍歴だったのでとにかく「実存主義」というやつに俺は興味があった。
言うまでも無い、カミュである。「論ずるに値する議題は一つしかない、自殺である」(ちょううろおぼえ)のシジュポスの神話、なにより「異邦人」は安部以来の衝撃を俺に与えた。また、この頃俺の心を捉えたのはもう一つ、いわゆるビート文学である。ケルアック、ギンズバーグ、そしてバロウズ(これは中島らもの影響も強い)、そしてもう一つ。読書暦の長い人は次に何が来るか容易に予想が出来るだろうが、ドストエフスキーが直撃した。「カラマーゾフの兄弟」や「罪と罰」は当然として、俺の心をえぐったのは「貧しき人々」だった。あの主人公の愛すべきクズっぷり!誰も悪人はいないのに、誰もが加速度的に人生の谷底へ落下していく感覚。学校をさぼっては喫茶店でひたすら本を読んだ十代だった。しかし、サルトルに関してはさほどピンと来ていなかった。「嘔吐」が面白いとは全然思えなかったのだ。根っこをみたらゲロが出る、それで?といった感じだった。
この年齢になると読書に対する耐性もかなり固まっていたので、バルザックやゾラも読んだ、カフカも読んだ。ラテンアメリカ文学にも手を出し始めた。ボルヘスやマルケスも悪くはなかったが、なんといっても「ペドロ・パラモ」のファン・ルルフォが心を捉えた。セリーヌ、ジット、ベケット、クノー、ロブ・グリエといったフランス文学の一連の流れも好きだった。とにかく読みまくっていたことだけは覚えている。おかげで、センター試験の数学は4/200点だった。
そして高校を卒業した。この時期には熱心に小説を書いていたような記憶がある。だが、今読み返しても全く面白くもなんともない。無駄に重苦しい下手糞な文体、意味不明なストーリー展開、自意識過剰さだけがひたすら鼻につくクソみたいな小説だった。大学入試は願書を出すのを忘れた。家にもいられなくなり、家を出た。その後はなんか二年くらい働いた気がする。ある日ふと、立ち寄った本屋でテリー・イーグルトンの「文学とは何か」を読んだ。そうか、よし、文学理論をやろう!そう思って大学を受けた。北海道の片田舎で二年も働いただけあって貯金はそこそこあった。なんとなく某私大を受けたら受かった。奨学金を借りて、三畳間に住んで暮らした。死ぬほど楽しかったことだけは覚えている。図書館の充実っぷりと来たらすさまじいものがあった。幸せだった。いつまでもこうしていたかった。
大学の間は一生懸命研究をやったとしか覚えていない。卒業する頃、現実的に大学院はムリだと悟り就職した。その間に小さい文学賞や論文の賞を幾つか取ったけれど、デビューには全くつながらなかった。今はとある金融機関の出納担当をしながら小説を書いている。明日も早いから寝なきゃならない。何が言いたいのかさっぱりわからなくなったけど、とにかく小説っていいものですよね。人生って辛いですよね。そういうわけで、リンク先の増田にイーグルトン読めとお勧めしたいだけなんですよ。面白いよ。