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2017-07-20

古谷有希子 @SociYu の戯言

http://twitter.com/i/moments/887430878179323908

気持ち悪い文を頑張って読んでみた。このグローバリズムリベラル(なんだこれ)はポリコレで包まれるお花畑理想としているように見受けられる。

ポピュリズムによるリベラル浸透を期待して確信しきっている。こいつの中のマスとは理想郷の中における全体主義理想民に他ならない。

何故ならここでのグローバリズムの中に多数小数民族性趣味・主張・宗教といった表現上のサイレントマジョリティの群れをポリコレ棒で叩いて認めていないから。女性AV等を是としている割にこの点で矛盾している。

そうしてセクシズム・レイシズム肯定する作品はそのうちマス向けコンテンツから消えていくと信仰しきっている。実に滑稽だ。世界は一つの倫理グローバリズムに落ち着くと考えてらっしゃる

根底にあるグローバリズムリベラル日本的リベラルが無いのが救いでリベラル狂信者としては非常に誠実だと思うが言っていることは理想に沿わないもの排除したいだけ。

この点について一貫した理想を持っていて説明できている辺り福音者としてとても優秀だと思うが、日本一般的ネットユーザを正しく理解したうえで福音を届けたいが為に曲解させた吠え方をしているか悪臭漂う

そもそもこいつというかリベラル民は【弱者落伍者・貧窮者】といった範囲を救済するという理想の元から議論を始めているので現実に即さないことを言い出すからキチガイじみて見られる。

こいつを評価できるのはそのキチガイじみた中でもリベラルネオリベ資本主義の仕組みに貢献しているという現実理解していることだ。格差社会是正という面においてリベラル必要という論調自体には何ら問題がない。

最後にこいつの信仰しているリベラル自体(前期として)新しい自由主義なので、アメリカ民主党内ゲバよろしく(後期として新しい)ネオリベ連呼するカッコ悪さは見苦しい。リベ・ネオリベ・リバ・アナーキズムなんてのはただの方法論でしかない。

いかなる理想でも追求し続けたら非理想郷に辿り着くというのが今日現在進行形の各国におけるリアリズムの一致した見解で、突き詰めるグローバリズムというたわけた妄想議論に載せた時点で総ツッコミが来るのは当然だ。過去から現代においてグローバルに受けそうにない尖った創作グローバル化してきた歴史を学ぶといい。なんならアバンギャルドでも勉強した方がいい。

グローバリズムリベラルはお花畑英語で表した自分造語です。しいて例をあげるなら富裕層独特の「みんな私達のようにお金持ちになーれ」的なアレ。平等リベラルにしなさいと上から目線学者面がほざいているワケだが自説のグローバリズム性によって全体主義観点に陥っている。

日本的リベラル必要条件に「特ア配慮する」という枷を必ず入れる方々。まぁパヨク

2017-07-18

規範による抑圧 「けしからん」は諸刃の剣

新聞投書欄みたいなタイトルすみません

私の母はとある新興宗教信者でした。

私自信は正直なところ真面目に信仰してはいなかったので、どういった教義だったのか詳しくは知りません。

一つだけ覚えているのは、いわゆる純潔教育を重んじていたということです。

信仰に対する熱心さか、それとも本人の元々の価値観かは分かりませんが、母は私に対して純潔を強く要求してきました。

恋愛はもちろん禁止で、テレビ下品番組ばかりだから自由に見ることは許されず、

その他にも挙げていけばキリがないほど制約の多い生活を余儀なくされていました。

私は決して母に対して従順な娘ではありませんでしたが、大人になった今その価値観に真っ向から反発しているとも言えません。

世間蔓延する性表現下品さに対して「けしからん」と思う気持ちは人並み以上に持っているからです。

ただし、同時にその「けしからん」という気持ち危険だという認識も強く持っています

何故なら、そういった規範意識女性を抑圧する方向に働くことを身を以て体験しているからです。

最近話題になった少年ジャンプの件などを見ていると、

けしからん」と訴える女性たちはそれが諸刃の剣であることに無頓着すぎるように感じます

男性だけを抑圧することが可能であると、お気楽勘違いをしているように見えます

社会が抑圧を強める方向に働くとき女性は常に男性よりも強い抑圧を受けることは歴史証明しています

から、私には彼女たちの主張は自殺行為に見えます

私が「けしからん」と感じても言わないのは、それが自分に返ってくることを恐れるからです。

友達と話が合わなくて苦労した十代の頃を思い出すからです。

あるいは、彼女たちは私の母と同じように、男性だけでなく自分自身自分の娘を抑圧しても構わない人たちなのかもしれません。

私たち規範意識男性も合わせるべきだ、より強い規範カウンターが来るなら来いと主張しているのかもしれません。

それこそ私にとっては「お断りだ」という話です。

規範による抑圧はミソジニーなんかより恐ろしいものです。

ミソジニーを悪だと言うのは簡単ですが、自らを正義と称する性規範を打ち破ることは容易ではありません。

実際、私は母に真っ向から立ち向かうことはできませんでした。

抜け道を探ろうとする反抗心を持っていたことが唯一の救いです。

それがなければ、私は抑圧の再生産をしていたかもしれません。

天皇制なんてさっさと廃止しろ

天皇制本質は、家柄・血統による差別である

高潔なる天皇家を認めることは、当然その対極に、穢れたる存在を生み出す。

天皇皇族を、家柄や血統が良いとして崇める事は、構造的に部落民差別する事と一緒である

天皇が聖性を家柄・血統として、代々伝えることを認めるならば、部落民の賤性もまた、家柄・血統として代々伝えられることを認めることになるのである

また、賤であり穢れた存在を置くことは、天皇自らの聖性・浄性を相対的に高めるという効果がある。

天皇家にゆかりがある関西や、大和朝廷関係がある地域と思われる福岡熊本大分被差別部落が多いのは、おそらく古代中世期に天皇制権力賤民部落民の原形を作り上げたからではないかと考える。

天皇が聖性を家柄・血統として代々伝えることを認めるならば、部落民も当然その賤性を代々伝えていくことまで認めることになるのである

天皇家天照大神から万世一系に繋がっていると信じさせている。何が万世一系と見なされているのか。

一つ目は、三種の神器継承である。これは天照大神時代から代々伝わっているとされている。

二つ目は、霊が繋がっている、とされている。大嘗祭は、収穫を祝う祭であるが、それだけでなく、現在天皇が旧天皇死体と共に寝るという儀式もある。これによって、先帝の天皇霊が新天皇身体に憑くのである。したがって、天皇天照大神と霊的につながっている現人神とされたのである

三つ目は、血が連続している、とされている。皇位根拠古代以来連続してきた血統にあるとされた。

そしてこの連続性は当然今後も継続することが当たり前であるということを正当化させる。こうした天皇万世一系性は、あらゆる家系優越し超越する天皇家家系を強調し、皇位の不動性をわれわれに当然のものとして受け取らせるのである

万世一系を唱えることのメリットとしては、天皇宗教的権威統治権絶対性、さらには身分地位の永続性が担保されるということが考えられる。

しかし、万世一系大嘘である

奈良平安時代などは、天皇皇族後ろ盾にいる各豪族の抗争次第で、皇位血統原理関係なく移動したのである

例えば、聖徳太子は、血統原理から言えば正統な皇位継承者だったのだが、結局天皇にはなれなかった。また672年に起きた壬申の乱では、天皇と名乗る大友皇子天智天皇の子)を大海人皇子武力で倒し自らが天皇になった。

又、天皇家は、万世多系であった。桓武天皇母親朝鮮からきた人というのは有名な話である。また皇室には代々側室なるもの存在し、その側室平民から選ばれたのである明治天皇大正天皇側室の子である。(明治天皇側室大正天皇の生母であった柳原愛子さんは大正天皇知的障害者であったことの責任をなすりつけられたそうである)そのことは皇室家系図には書かれておらず、あたか天皇が一人で子供を産んだように書かれており、見る人に天皇家万世一系につながっていると思い込ませているのである

更に、現在天皇家足利尊氏が無理矢理作り出した北朝の子であることである血統原理でいくならば、正統な皇位継承権は南朝にあるのである。(南朝の子孫とされる熊沢という人が大東亜戦争後に、皇位継承権は自分にある。と訴えた話は有名である

天皇陛下はいつも国民のことを考えておられる。福祉にも御興味をもたれ、障害者にも優しいお方である。などと思っている人の何と多いことであろう。しか天皇家は実は思いっきり穢れた家柄・血統人間差別しているのである

天皇皇族部落民に対する差別事例をここでいくつか挙げてみる。

1868年に制定された『法令全書』の第1巻686号には、天皇が巡幸する際に穢れ多い部落が見えないように部落を筵で隠すべきということが書いてある。

そのことの事例として、1922年に起きた大分県の的が浜地区焼き討ち事件、がある。事件のあらましは、皇族列車で巡幸する際、沿道沿いにある、的が浜スラム地区、が皇族の目に触れないように、その地区警官が焼き討ちした、という事件である。的が浜地区は正確には被差別部落ではないが、非人系の部落民や、ハンセン病者や、浮浪者が多数居住していたスラム地区であった。

また、天皇は、部落民土地を取り上げたりもした。

これは大正年代出来事だが、奈良県畝傍山のふもとにあった洞(ほうら)部落が、その下にある神武天皇陵を見下ろす位置にあるとして、行政側は1917年にその部落強制移転を求め、20年にそれを強制執行した。その際、洞部落部落民の遺骨も穢れているとして、徹底的に取り除かせた。

今でも天皇皇族は家柄・血統差別を堂々とやっている。

例えば、宮中賢所に使える女官を選ぶ基準血統血筋である。穢れも未だに重視しており、彼女らが月経とき、お下り、といって強制的に休ませている。月経が終わっても穢れを祓う儀式をしないと元の仕事に戻れないそうだ。

そして最も重大なのが、結婚相手調査を正々堂々としているということである

1993年1月5日付け読売新聞朝刊の一面によると、宮内庁は、皇太子妃候補の身元調査大手興信所に頼んだとのことである。そこには皇室専門の興信所員がいるとのことである。そして直系は4代先まで溯り、大祖父祖父きょうだいまで徹底的に調べたそうである。そして雅子さんが優秀な家系で驚いたなどと興信所は言ったそうである皇室差別主義に凝り固まっていると言える。

天皇制擁護者の大多数は、天皇皇室日本の伝統だ。という理由で賛成していることだろう。しか天皇制日本オリジナルではない。天皇という概念は、中国における道教の最高の信仰対象であった天皇大帝から来ているのだ。

天皇家は、伊勢神宮京都御所儀式とか神主でもやるべきだ。もちろん、その際でも、天皇皇族国民という立場で勤労・納税の義務を負い、また参政権を含めた基本的人権を有する立場に置かれるべきだ。

ジャニヲタアイデンティティ依存

アイデンティティ、という言葉はとても簡単に使われるけれど、高校の授業で改めて学んだときに、衝撃を受けた記憶がある。

アイデンティティ形成するには二つの要素が必要らしい。自己斉一性と、社会集団への帰属性。「わたし」の認めるわたしと、「わたし」以外のものが認める「わたし」は同一で、しか連続性を持っていなければならない(ということだとわたし認識している)。

その授業を聞きながら、ああ、私は一生アイデンティティ確立できないのかなあと思ったものだ。というのも、私は幼少期の私を「わたし」として認識できていない。性格が変わった、というレベルならそれは自己連続性を壊すほどのものではないけれど、なんというか、本当に他人事なのだ。昔にあったエピソード記憶に残っていないわけではないけれど、それに対して浮かんでくるのは「かわいそうだね」とか「よかったね」といった感情であって、「悲しかった」「嬉しかった」では全くない。子供最初に参加する社会である家族の人々も、「まるで人が違うようだ」と言っていて、社会集団への帰属性という意味でも、自己連続性という意味でも、アイデンティティ確立できるとは思えない。(もちろん、家族から意見過去の私と今の私を別人格として捉えているというほどの意見である可能性は低いが。)

なんとなく、それは執着心があまりにも薄すぎたからなのかなあと思っている。遅い子供だったのもあって、物質的な不満を感じたことがなかったから、ものへの執着が芽生えなかったのかな、と。嬉しいとか悲しいとかそういう感情は、執着からなるものだ。執着が薄かった頃の私は、今の私から見て、どこかぼやっとした、つかみどころのない、何かの膜に包まれたような存在なのだ

だが、別に今の私は普通にキレるし悲しむし自担への執着心は人一倍強い。二年前の「わたし」と、一年前の「わたし」と、昨日の「わたし」と、今の「わたし」は同一であると、はっきりといえる。それはいつ頃からか、と考えはじめると、実は自担を初めて見た頃ぐらいからだ。「私のアイデンティティ形成のキッカケはジャニーズです」だなんて笑ってしまうけれど、たぶん、本当にそう。もちろん、当時はそんなことを考えてはいなかったが、「何かを好きになる」ということは当時の私にとって非常に重要なことだったのだと思う。それが彼の魅力のなしえたことなのか、それともそろそろ何かに執着しなければならない、と深層心理的なところで考えていたときに彼がたまたまテレビに映っていただけなのか、はよくわからないが。ともかく、それからは彼に執着しまくったし、彼を馬鹿にされたら怒ったし、彼を見ると嬉しかった。そうしているうちに、なんとなく他のものにも執着できて、今の私からみて「他人事」とは感じない自分になってきた。

その時から今まで、ずーっと彼だけを応援してきたわけでない。でも振り返ってみると、いつの時代も何かに対する「オタク」であったように感じるし、友人には「何かに貢いでないと死ぬサカナかよ」と笑われる。アイデンティティを彼と出会った時点から連続性で捉えていいのならば、私のアイデンティティ形成の要は「何かを熱狂的に好きでいること」なのかもしれない。自己同一性の要が自分でないものへの愛だなんて、かなり寂しい人間な気もするが、まあ宗教とかもそんなものだろう。

から、私のアイデンティティは彼と、彼の所属グループに大きく依存している。例えばの話であるが、ある日彼らがすっかり全員芸能界をやめて、私を含む世の中の人全てが彼らのことを忘れたら?私の友人のアイデンティティは揺るがないだろうが、私のアイデンティティは揺らぐだろう。何か他の熱狂信仰対象を手に入れれば執着は取り戻せるけれど、自己連続性が示されない。他になにかの記憶を注入したら、もうそれは私ではない気がするし。(そもそも記憶唐突な変化が訪れた場合、それが消去のみであったとしても、その人間は私といえるのか?)

前振りだけで2000字近くなっているのだが、なにを言いたいかというと、彼(ら)の連続性こそが私の連続性を担保しているものであり、そのアイデンティティ崩壊は私のアイデンティティ崩壊につながる。

グループとして考えたときと、個人として考えたときアイデンティティを同じように考えるのは無茶なことだし、同じように考えられたとして、彼らのアイデンティティは人数ではないのだと思う(多分)。いくら彼等がデビューから今の人数であったかのように振舞っても、私の持っているシングルジャケット写真から一人消えることはないし、というか彼らの記憶からも消えることはないだろう。だから別に、彼らとしては連続性が揺らぐようなことはないし、私の連続性も揺らぐようなことは本来、あるはずがない。

しかし今現在私の依存先は彼であり、私はときに彼の言葉事実の重みを凌駕するような気になってしまう。彼が彼らの連続性を否定するときわたしもまた、わたし連続性を否定されるような気がするのだ。事実として、彼らの連続性が揺らいでいないとしても。

極論を言ってしまえば、別にエリクソンかいう会ったこともないおっさんの持論でギャーギャー悩む必然性はないのだが、それでも、今を生きるのに、過去必要なことは事実だと思う。そして、自らの過去を自らの言葉否定していくのは、どう考えても健康的ではないし、それが一部のファンが言う「前を向く」ことになるとは、私にはどうしても思えないのだ。



結局のところ連続性やらアイデンティティやら云々よりも、私にとって一番問題なのは私が彼の言葉事実以上に重く受け止めてしまっていることで、だけど私は趣味との適度な距離の取り方、がいつまで経ってもイマイチよくわからない。距離を置こう、と思うと((もしくは強制的距離を置かれると))、また新たな依存先にズルズルとのめり込んで、またそれとの距離感おかしくしてしまう。

もう潮時なのだと思う。やっぱり原点だから、戻って一からまたやり直しても、距離感おかしくなるスピードが他のものと段違いなのだ

でも他のものに移行しようと思っても上手くいかなくなってしまっていて、どうすればいいのかわからない。このままズルズルとダメになっていくのも、また私らしさなのかもしれない。

2017-07-15

海外で働いているが日本みたいに精神論唱えるバカ出会ったことがない

現在ドイツの現地企業で働いているが、今まで海外のいろんな職場で様々な人に出会ってきた。

最近気づいたのだが、日本人(おっさん)の大好きな精神論根性論を唱える人に一度も出会ったことがない。

大の大人会社精神論とか、無益すぎるし、時間無駄だ。それが普通だと思うし、日本普通じゃないだけ。

そんなつまら発言するくらいなら、それに変わる論理的実行手段を示すべきだ、それができないか精神論なんてまやかしに頼ることになる。

日本で働いていたとき、月1の全社ミーティングのようなもので、部門クラス以上の人が前に出て、話をするんだけど、まあみんな精神論ばかり。本当、時間のムダだった。

いつも、馬鹿だなーって思ってた。ある日飲み会の席で、その一人と話すことがあっていつものように精神論で話しだしたから、精神論抜きで話してもらってもいいですか?って言ったら、もうまったく中身のない話に(初めからだけど)。本人もその時に、自分いかに中身のない人間か気づいたと思う。

文明的に未発達な国くらいじゃん?非論理的な慣習を盲信する文化を持つ国って。アマゾンジャングルアフリカに住む部族パプアニューギニアでもいいけど、なんか超非科学なことをいつまでも信仰してたりするけど、日本も同じレベルだと思う。

精神論を唱えるのは論理思考の欠落だし、こんな発言をするようなら、もはや頭を使う仕事はできない状態と考えたほうがいい。

もし役職やらを与えてしまっているのであれば即剥奪したほうがいい。首にできるならしたほうがいい。

でも日本社会はできないんだろうなあ。

日本無益ヒエラルキーによって、無能時代の流れを読めないような人間会社権限を持ち、現在の衰退を引き起こしているにもかかわらず、保身力のみに長けている。

もし自分上司やら同僚が精神論根性論を唱えてたら冷静になってくれ。どうせ大したことは言っていない。

まあ、そんな人達は、気合とやらでがんばって定年を迎えてくれ。

2017-07-14

https://anond.hatelabo.jp/20170714181116

警官反抗的な態度を示した」時点で冤罪でも何でもなく射殺されるに十分な罪だよ

もし他意なくポケットに手を突っ込んだとしても「警官からしたらそれは「ピストルを取り出す予備動作である恐れのある行動」なんだから

その時点で射殺する権利が成立する

実際に生命危機に晒されている警官けがそのジャッジを許されるんだから

であるからこそ警官には一切逆らうなってのが向こうの常識

日本じゃこの感覚絶対分からんし正直俺にも分からんけど帯刀が許されなくなった日本よりも2000倍野蛮な環境だと想定すればいい

セーフティを最大の権利としておきながらピストル所持を許すというダブスタしてるから日本チンパン勢も少しは胸張ってもいいぞ

あいつら自分ピストル持ってることで安全になると本気で信じてるから

未だに銃信仰が多い

まだチンポかたどった像を祭ってる宗教の方が生産性があり文化的

2017-07-13

リベラルはもう二度と「性教育の推進を」なんて言わないでほしい

『ゆらぎ荘の幽奈さん』炎上の件。

  

年齢制限によるゾーニングは、「子供に見せないように大人配慮する」と、「子供が見ようとするのを大人妨害する」という2つの方法があるんだけど、どっちに主軸を置くつもりなんだろうか?

この配慮妨害は、たしかに重なりあう部分もあるが、明らかに性質が異なる。配慮積極的にやってよいが、妨害というのは自由侵害なのだからいくら子供に対してであっても必要最小限に行われなければならない。

  

ジャンプを読んでいるのがあくま子供主体性の発揮だということ、それはもっと重視されてよい。

巻頭カラーで載せているのは配慮を欠いていた」という指摘は可能かもしれないが、子供は以前からこういう漫画掲載した雑誌だということを分かったうえで買っている。そして今後購読を続けるかどうかも、子供たちの選択にかかっている。

大人がこれに自主規制を求めるのは、配慮ではなく、どちらかと言いうと妨害になっているということを自覚してほしい。

無論、妨害はやむを得ないという自覚を持って活動しているならば、それはそれで一つの立場と言えるだろうが……。

  

  

  

ところで、たしか少年ジャンプの読者層は高校生~成人が多く、残りは中学生だったりするので、小学生(とくに10歳以下)となると、ほとんど読んでいないはずだ。これを一律に"子供"扱いすることには違和感がある。

  

そんなこんなで思ったんだけれど、子供主体性をあからさまに軽視しているリベラルは、二度と「性教育の推進を」なんて言わないでほしい。

貴様らには性教育を通して子供主体性の発揮を求める資格がないと思う。

  

例えば避妊性病予防について教えたり、その知識を持たないと自分加害者被害者になってしまう恐れがあると教えるのが性教育の内容だ。要するに、「コンドームを使いなさい」という主体性子供要求するものである

性教育は、決して子供たちがセックスをやることを推奨するものではないが、一方で、もしセックスをするならコンドームを使えと教えているわけだ。これは子供にも主体性があることを所与の前提としなければ成立しない。

  

リベラルは、エロ本18禁しろと言っていたり、ジャンプ漫画過激だと言っているが、18歳未満がコンビニ等でコンドームを買えるということをどう思っているのだろうか?

子供セックスをやることは望ましくないから、子供へのコンドーム販売自粛するべきだろうか?

勿論、エロ本ジャンプを買うことは遊興にふけることであって、コンドーム防衛のためだから、その価値を同列に論じるべきではない。しかしながら、遊興と防衛を分離して考えることもできないだろう。遊興のごとくセックスをやってしま子供、それに付き合わされる子供にこそ、この防衛手段へのアクセスを開いておくことが必要からである

  

「遊興的に性愛を楽しむことは不要だ」と決めつけて忌避する禁欲道徳は、性教育に反対する者たちの主張に説得力を与えてしまうようにも思われる。

なぜなら、反対派の主張は、「子供は無理にセックスをやる必要はない。純潔を保つことが一番の防衛だ」というものからである。この「遊興をしないならば防衛必要ない」という話は、ミクロで見るかぎり妥当になっているケースも多いと思う。

  

(※この論点は「リベラル宗教保守区別がつかない」というエントリで補足したので、そちらをトラックバックから読んでください。)

  

  

  

追記(2017/7/14 21:10

ブコメで突っこみを頂いたけれども、リベラル側の主張は、たしかに、「エロは許す。性暴力女性蔑視は悪だからさない」というものだった。

しかし、私がいつもリベラルに感じている苛立たしさは、まさしくこの点における洞察力の欠如である

  

どうやらリベラルは、エロを性暴力女性蔑視から分離できると考えているらしいが、それは誤りだ。具体的には下記リンクエントリで、「エロと野蛮さは切り離せない」の章を参照されたい。

一つ言えることは、お行儀のよいエロ表現なんか絶対に楽しくないってことです。

人権平等という正しい理念を詰めこんだエロ表現があるとすれば、おそらく私はそれを(ポルノ的な意味では)評価できないし、その偽善には吐き気を催すほどの不快感に見舞われるでしょう。私にとってのエロとは、どこまでいっても女性蔑視暴力性と切り離せないものです。

お行儀のよいエロは、ジャンプを読んでいる子供にもウケが悪そうです。子供不謹慎もの下劣ものが好きなのだし、性描写もそっちの方向でなければ楽しく受容されないでしょう。エロが野蛮さと結合してこそ楽しめるという子供感性は、なまじそれを否認してみせる大人より正鵠を射ています。この感性のあり方は否認せず、内心の自由として尊重し、一方でこの野蛮さを制御する文明的な理念について子供に啓発することができるならば、多分それが最適解だと思います

  

『【表現規制】『ゆらぎ荘の幽奈さん』炎上の件について』

https://anond.hatelabo.jp/20170712001904

エロが野蛮さと結びついているのは、漫画というフィクションだけに限らない。

しろ現実世界における男女のセックスにこそ、「とにかく女とヤリたい」とか、「彼氏に嫌われたくないからヤル」とか、そういう心理が含まれる。いくら相手への愛情があってもこの傾向は不可避だし、それどころか愛情希薄なままセックスをやることもあるわけだし、エロは野蛮さと切り離すことができない。

リベラルが言っている「差別暴力のないエロもある」などという綺麗事は、まったく現実を見ていないお花畑だ。大切なのは、そのようなお花畑信仰を捨てて、エロ差別暴力と不可分であること、それはフィクションでもリアルでも同じなのだという前提に立つことだ。

  

我々がリアルでやっている普通セックスが、レイプやDVと地続きであるということを認める覚悟もないリベラルは、ひどい偽善者か、そうでなければ呆れるほどに自己反省を欠いている。性欲はポリコレに反するようにして湧き上がってくるものだし、エロは、社会正義に叛逆するような侵犯に至高の価値を見出さんとする意志なのだ。つまり、「ルールなんか無視して遊興をやりたい!」というのがその本質だ。

性教育法律は、これに対して、最低限のルールを守りなさい、理性を働かせなさいと要請するものである。そして逆説的だが、このことは、エロ差別暴力とは切り離せないと自覚する(させる)ことによってこそ初めて可能となるのだ。

例えば男がコンドームを使うというのは、セックスが女を傷つけるものだと自覚し、理性でその悪を制御することだ。これは男が女を誤って妊娠させる行為について、「悪だからダメ」と決めつけて忌避するのではなく、「悪だから制御せよ」という前提を採用しておかなくては実行不可能だろう。もし「悪だからダメ」という前提の方をとるならば、セックスをやらなければいいわけであって、これは「遊興をしないならば防衛必要ない」という宗教保守論理である

リベラル表現物に対して「悪だからダメ」という潔癖な基準採用するのは、この宗教保守論理を補強してしまうのではないかと思う。そのように潔癖な考え方では、とてもではないが、性教育の推進を訴えることなどできないのではないか

性教育は、セックスが性暴力・性被害と密接に結びついている危険ものだという現実認識から始めなければならない。人があえてその危険を冒そうとする意志こそがエロティシズムである性教育はこの意志を野蛮だから無くせだの、悪いことだからダメだのと言って忌避するものではない。そうではなく、それ自体はやむをえないからと是認した上で、だからこそ安全制御するための方法を教えるものなのだ

  

再追記(2017/7/14 23:10

これは前回の記事で書いたことなので省略するけれども、「エロ問題ない」と言っているリベラルの嘘つきぶりには、もう本当にハラワタが煮えくり返りそうだ。

あの漫画が今回炎上したのは、確かに性暴力女性蔑視という文脈があったかもしれないが、それは後付けの理屈であって、第一義的にはその絵がエロいからである視覚に訴えかけてきて我々の感情を揺さぶる絵だからこそ、そこにある性暴力女性蔑視という観点が際立ってくるのだ。

これはエロと、性暴力女性蔑視との不可分性をあらわしている典型例だ。リベラルはそのことに無自覚すぎて、しかも両者を分離できると平然と言ってのける人も多い。私はその欺瞞ぶり、鈍感さには堪らない苛立たしさを感じている。

  

(※詳細は上記リンク先で、「エロからこそ批判されている」「差別表現には問題があるが、エロ表現にも問題はある」「作中で性被害肯定的に書いたことは問題本質ではない」等とした章を参照せよ。)

日本人宗教は「滅私奉公

https://anond.hatelabo.jp/20170712073958

ここでも言われてるが道理が通ろうがなんだろうが「死んで償う」という発想がでるのは

儒教を元にした滅私奉公精神から来てる

お家のため、殿のため、一族のため、であるならばいかなる非合法的な手段も取るし判断もする

豪族が出来て

天皇が出来て

武家が出来て

幕府が出来て

戦国が出来て

徳川が治めて

鎖国して

黒船開国させられて

尊王攘夷をして

明治政府が出来て

太平洋戦争して

負けて

GHQ自由平等を教えられて

バブルがはじけて

自由平等を忘れて

滅私奉公精神だけ残り

既得権益だけ残り

システム的癌だけが残り

ブラック企業が産まれ

大企業は自浄作用がないため腐り

潰れ保護され

外資が買い取り

またロジカルシンキングが輸入されて

社員幸福になって

競合はそれを遅まきながらマネ

ベンチャー最初から取り入れて

おかげで景気が回復し始めてる

外敵のいない政治

未だに儒教で回ってる

から政治が糞なまま

 

恐ろしいことにこの間ずっと国民主人公になったことはない

いや、1度だけあった

太平洋戦争戦前

今では朝日扇動たからだとか陸軍が悪いとか言ってごまかすが

なんてことはない

国民のもの自主的に襲撃してたり暴動起こしてたのに

朝日が油を撒いて陸軍が乗っかっただけだ

最初から国民が主犯で国民が悪く国民主人公だった

これを客観的に受け入れないことには

次に国民主人公になったとき同じ失敗を繰り返す

 

もうね

全部儒教のせいなんですよ

またその前から続く天皇を崇拝する信仰から来てるんですよ

年功序列

これ立派な宗教ですよ

日本人お上の言う事、世間の言う事に不平不満はいっても

実際に行動することはない

死ぬか生きるかの一揆ですら権力転覆ではなく減税目的ですよ

徹底的に民衆である自分らが

主役になる気はゼロ

与えられた労働を消化する奴隷になりたいんだよね

これ全部DNAのせいですよ

 

この滅私奉公精神GHQが輸入したシステムバブル絶妙マッチした成果が

経済力2位の栄光時代ですよ

でもバブルが弾けたら滅私奉公けが残り

ブラック企業不正の増加

これこそが儒教の真の姿ですよ

日本人はみんな管理されたい欲求奴隷根性がその血に刻み込まれてる

からちゃんと宗教に入ってるんですよ

「仕組み」よりも「真か否か」よりも「誰が言ったか」の方だ大事

事実」よりも「誇り」、つまり感情」「建前」の方が大事

日本人はみんな漏れなくこれに入ってます、俺でさえ…

日本人はこの滅私奉公自覚してください

これを美しいと感じてるのがあなた信者である証拠です

あなた人生の主役は天皇でもなければお上でもないし世間でもないし将軍会社でもない

あなた自身です

ちゃんとあなた主人公物語を書いてください

 

というと、途端に不安になって何かに縋りたくなるのがDNAのせいなんだよな

自分主人公」という状態に極度にストレスを感じる

ではなく「○○会社サラリーマン」でありたい

自分より大きな存在である○○会社が主役でいてほしい

みんなこう考える

日本人はみんな蟻です

小学校の頃、皆新聞取ってたけど何だったんだろう

今22歳で、ほどほどの田舎小学校に通っていた者だけど。

小学生の頃、学校行事で何か作るからとか、習字で使うからかいって新聞紙をもってこいとよく言われた。

うちは新聞を取ってなかったから、なんでこの学校は家に新聞紙がある前提で話を進めるんだろうって思った。でも実際、新聞を取ってないのなんて、クラス35人いて、自分の家とあと1件だけだった。

あの光景はなんだったんだろう。いくらなんでも35件家があって新聞を取っていないのが2件だけなんて、そんなことあるんだろうか。95%も新聞を取っていることになる。分布がよっぽど偏っていたんだろうか。それとも一昔前はそれが普通だったんだろうか。十数年前なら余裕でテレビインターネットもあったから、月何千円もかけて新聞を買う家庭が95%もあったなんて信じられない。今22歳だけど歳が近い周りの人間新聞とっているやつなんて一人もいない。これが30代後半になると皆新聞を取り始めるようになるんだろうか。それとも当時の父兄は、新聞取ってないですだから持っていけませんなんて恥ずかしくて言えないからどこかから貰ってきたり買ったりしていたんだろうか。確かに新聞読まないと馬鹿なるみたいな謎の新聞信仰は無いではなかったと思う。謎だ。

2017-07-11

韓国容姿差別メチャクチャ酷いので中国でもそうだと勝手に思い込んでた。日韓中国を分かつ要因は一体何なのかとても興味があるけどぱっと思いつかないな。中国文化に詳しい人の解説を待ちたい。

一部の文化マニアは前から知ってるけど日韓朱子学とか言うカルト信仰してるからだよ

シャープツイート

うっかりつぶやいちゃった事に謝罪しろしろ喚いてる一部のバカのせいで

シャープ製品アカウント更新停止確定したけど、公式で言っちゃったのはアウトにしろさ、

謝罪しろ言ってるバカどもは、普段からうっかり失言することってないのかね。

あんな風に粘着してるのを見てるとTwitterって本当にバカが集まってくるんだなと思ったわ。

一番アホらしいのは「神であるFF6に0円だけは反省していただければ」とか言ってる痛い子。

ずいぶん低俗な神を信仰なされているようで。

丘の上の教会へ のぼる石だたみ

心が弱ってるからで、信仰心があるわけではないけれど、今週末に恩師のいる教会へ久しぶりに行きたいのです。

 

恩師は中学1年のとき聖書(という科目)の先生でした。

ときどき学校の七不思議を話してくれたせいかも、中学2年時には定年で辞められたけれど、ずっと先生といえばこの方が思い浮かびました。

 

もう27年経つけど、心が弱ると多くの人に紛れて賛美歌を歌いたくなります

 

ブクマカキリスト教信仰されてる方が何名かいらしたなと思い、書いてみたくなったのです。

 

心がまとまらなくえて具体的な相談もないんです。

先に書いたブクマカさんへ届かなくてもよくて、でもなんか遠くへいる誰かに話しかけたくなりました。

 

(改行、むずかしいですね。)

2017-07-10

夢想

14歳からの約10年、平均睡眠時間が4時間だった。

私は平均寿命以下で、おそらく50歳当たりで死ぬんじゃないか勝手に思っている。

ほら、人生50年って昔の人が言ってたアレ。

もうすぐ折り返しだけど満たされたことがない。

このままでは幸福死ねない。

死ぬのは怖くないが死んだあと社会観測できないのが悔しくてたまらない。とにかく社会をひたすら観測させてくれ。私が死んだあと、知人がどんな顔をしているか知りたい。

知人が生前私の事をどう考えていたのか、私が死なないと話してくれないこともあるだろうし、そういう小さな煌きが見れないのが悔しくて仕方がない。

あー死にたいなぁ死ななきゃなぁでも死ぬ前に言い残すことやり残すことが多すぎてどこから手を付けていいかからなくなってきたな。

死ななきゃなぁ死にたくないなぁ。

いやでも未だに特急電車が通り過ぎるたびに身体がビクってなるのはちょっと辛いなぁ。少なくとも幸福じゃない。

カラカラになった雑巾を絞ってる感じだから限界が近い。

人の原罪システムは素晴らしい出来だ。

オヤアブもびっくりのシステムからね、原罪システム

ああ~私も原罪システム宗教に入りたいけど盲目なっちゃうからやだなぁ気持ち悪いなぁ。

そうやって仮初の安心を持つの気持ち悪い。虫唾が走る

けど仮初の安心求めないで何を求めるの?仮初じゃない安心ってある?

真の安心は君すら見たこと無いのに私ごときが感じられるはずがないのよ。

真の安心なんてないけど、私はそれを信仰しているの。

いつか真に安心できる何かが来て、私はそのことを考えているだけで充足し、満足し、安心できるの。

安心できた私はきっと今の10倍以上幸せなはず。幸せ安心を運んでいるの。

から、ねぇ。早く安心様が来てくれると良いなぁ。

法律にもとづいて女性差別的な宗教的戒律制限するのってなんでダメなの?

日本場合宗教はあらゆるルールの上に位置してるわけじゃないでしょ。信仰自由の名の下に差別が許されるなら、差別の為に宗教を利用することが可能なっちゃうけどそれでも良いの?

2017-07-08

はてな民ってやたら性に潔癖だけど

それで何か実利あった?

セックスはお互いの合意確認できないとダメだ!」とかさあ

俺はそんなの過剰に気にしてないけども

はてな民はそういう教義信仰してるんだよね

得あった?

2017-07-03

信仰自由差別撤廃ってどうやって両立させるの?

イスラム女性差別同性愛差別って日本では認められないと思うんだけど、どうやって両立させてるの?イスラム差別的戒律信仰自由範囲内ってこと?もし、それが認められるならジハード信仰自由範囲内にならないといけなくなるような気がする。テロ禁止ジハード禁止信仰自由侵害されてる気がするんだけど、どうなってるの?

2017-07-02

https://anond.hatelabo.jp/20170702021231

方丈記鴨長明は、元々エリートだったのが不運続きで転落して、しょぼい山小屋で生きるしかなくなった自分人生を慰めるために方丈記書いてるからな。

あそこに書いてあるのは一面の真理を突いているけど、実践するには信仰がないと無理だわ。

2017-06-30

https://anond.hatelabo.jp/20170630213915

戦前日本を一番誤らせたのは、陸軍大学校でいい成績をとったエリート(キチガイ)が「世界最終戦争が起こるからどうしても満州必要!」みたいなわけのわかんないことを言っちゃうのを真に受けて軍を動かして日本をどんどんどツボにハメちゃったとこにあるんだよね。学歴がいいから仕方ないという日本人本能的な学歴信仰に由来するところもあるんだろうけど、根本的には吉田松陰松下村塾で育ったエリート(キチガイ)に対する正当化と憧れがあったんだろうね。そこから現在日本人学歴信仰が来てるのかもしれない。

2017-06-29

和をもって尊しとなす

はっきり言えば十七条憲法フィクションだ。聖徳太子が居たかどうかはイマイチ不明だ。聖徳太子というのは厩戸皇子が後に信仰対象となり聖徳太子と呼ばれるようになったわけだが、その厩戸皇子の業績があまりに凄すぎておかしいので、こんな奴はいないのではないか、全部潤色ではないかという疑惑が発生している。

その疑惑自体は白黒つけるのは難しいのだが、聖徳太子が制定したとされる十七条憲法は、明らかに当時の文章と違うので勝手文章を変えたかそもそも憲法自体でっち上げたかのどちらかになる。おそらくは憲法自体でっち上げであり、聖徳太子の業績も大半はでっち上げのはずだと考えられる。

そのフィクション憲法の中で一番日本人に影響を与えてきたのは「和をもって尊しとなす」の一文だろう。和は尊い。和を乱す者は醜い。日本水田維持管理するために村が共同で土地と水を管理する必要がある社会であり、村から排除されたら水田が維持できず生きられなかった。だからそもそも周りの意見に対して異を唱える事自体生殺与奪につながるほどリスキーだった。

それを一言で言い表したのが「和をもって尊しとなす」である。さすが聖徳太子フィクションとは言え本質をついている。日本書紀の作者には歴史を改変するに足る文才があった。その思想日本人の根幹に今も生き続け、あらゆる問題提起言論封殺し続けている。

権利」を謳う人間はなぜあそこまで意地汚く見えてしまうのか

今回ここで、「権利概念が放ってしま暴力性の起源について一人考えてみる

人権」の普及 ーアメリカ独立宣言



1週間もすれば3億人近いトンチンカンたちがまた祝うことになる、近代社会の幕開け=アメリカ独立宣言に遡ってみよう。250年くらい前のことだ。後にアメリカ人と呼ばれる極西の田舎者黒人奴隷を足置きにしながらヨーロッパ政治哲学を読みふけっていた。そして、英国議会に「植民地のくせに生意気だぞ」と言われてしまったあの時、彼らのイギリスコンプは爆発し独立宣言してしまう。この独立戦争とその後の歴史で彼らは「国家」を生み出しその中で「所有権」というもの不可侵性を「人権」として僭称したのだった。それまでもこの考え方は常にヤバい匂いを発してきたが「独立宣言」こそが全人類脳みそ侵入し始めるウイルスになった。彼らはこう言う。「君たち、実はな、人間は生まれながらにして権利というものを持っていたのだよ」「君たち、これは自明の真理だよ」。誠に蒙が開かれるようである。実際に驚くほどたくさんの人が啓蒙されることになる。

ところで、ここで彼らが行なった欺瞞としてまずよく言われるのは足置きにしている「黒人奴隷」についてである。つまり黒人奴隷人間の方にではなく所有物propertyの方に組み込まれしまったことである。ところが、今回に限ってはそこは重要ではないと私は言いたいのだ。というよりも黒人奴隷境遇があまりに深刻な問題であるから真の問題が後景化し見えなくなってしまっている。この深刻な問題をみたとき、我々、権利至上主義者の常識的感覚からいって、100年後、200年後に黒人へ与えられたように、人間権利、あるいは公民権解決すべき(解決した)問題だと思わされてしまう。

でもこれは糞の上に城を立てただけなのだ私たちの暮らす城の中はクソの匂いが充満している。「権利」などという考え方が、奴隷制的な、暴力的支配への渇望に支えられている。私たちはクソがあるなと思ったら「あっクソだ」と言わねばならない。「あれ?この部屋なんか、うんこ匂いしない?」は常に言いづらいセリフではあるが。


 人権を「持つ」とは ー「所有」についての2つの感覚




まりどういうことか。権利を「持っている」、という発想自体にその欺瞞が現れている、と言いたいのだ。一般におそらくは「所有権を持つ」という表現すらあまり違和感をもたれないのである独立宣言の下敷きになったヴァージニアで行なわれた会議草案にもその矛盾を観れるかもしれない

That all men are by nature equally free and independent and have certain inherent rights, of which, when they enter into a state of society, they cannot, by any compact, deprive or divest their posterity; namely, the enjoyment of life and liberty, with the means of acquiring and possessing property, and pursuing and obtaining happiness and safety.

この2つ目の下線部は独立宣言では省かれるのだが「所有権を持つ」という循環した考え方を恐れたから、ではなく国家による税金徴収を困難にするという理由であった。

何が言いたいかといえば、奴隷武器砂糖三角貿易が成立して以降のヨーロッパ社会では、「権利」が「持つ」ものとして想定されねばならなかったのである。それは単純には、ある種の人々から「奪う」こと(あるいは「捨てる」こと)のできるものでなくてはならなかったからだ。つまり所有権」が守るベーシック価値は「権利概念誕生の後に、「どんな種類の権利を作ろうかなー」と考えられて作られたものではなく同時に発生しているのである。そしてそのことは隠れたのだ。独立宣言に「自明真実ではあるのだが我らは不可侵権利を持っているのだと信じる」としれっと書き込むことで。じゃあ所有の意味を含む「権利概念が発生した時に生まれていたものは何か。ここが今回の主張であるが、「支配欲求自体への承認」なのである社会の一員として我々は「ある種の激烈な支配の形」を基盤にすることで社会を成立させている。それは「所有権」だけでなく「権利全般の話である

propertyに対しては当然そうだろう。犬猫などは黒人同様に解放が進みつつあるが根本的に我々は自分の所有する物をどれだけ傷つけても良いのである対象物に対して欲求したことは特別禁止されない限り全てぶつけることを許されている。私は自分の持っている熊の人形の腹を切り裂いてもいいしそこにペニスを突っ込んでも良い。それが所有権意味するところである。ここで、人形はなんかかわいそうだし除外しようかというのもあまり意味がない。僕が言いたいのは、我々は所有権を「propertyに対して私が欲求することならなんでもしていい力」として想像していて、思考スタート地点にそれをおいていることだ。この認識はもう一つ重要感覚を孕んでいる。それは「私が支配するもの他者が介入することは許されない」ということだ。この二つの感覚両方が「権利全般に流れ込んだのだ。そして実は我々の想像する「自由」のコアイメージでもある。自由にはこの欲望支配感覚が流れている。


 奴隷(property)の反乱 ー「権利」と「自由」に関する妥協と「身体」ー



しかしながらこの「自由」の感覚は「自由」を求める奴隷たちの反乱により一つの現実的妥協を産んだ。支配者はかつての奴隷たちと約束したのだ。我々はもはや君たちを支配しない。その代わりに我々は自分の体を支配するのだと。そして君たちもそうするのだと。人間なら誰もが己の体を支配できることにしよう。我々は平等自由じゃないか。(現実として多くの旧黒人奴隷は扱いの悪い賃金労働者として己の体を「自由」に売買した。ほぼほぼ売るだけであったが。)


上記の経路は思考実験の一つでしかなく、実際は数百年前の「権利概念議論でも既に流れていただろう。しかし、ここで誕生したのは一風変わった、世界人間に対する理解である個人他者からの介入=他者との人間的繋がりを切断できる独立した存在だという信仰なのだ。なぜなら自分の体を自由支配他者はこれに関与できないのだから。(工場で死にかけながら働く黒人労働者だって自由」に辞められると考えることはできただろう。)「権利」や「自由」というもの概念自体にこれは染みついたのだ。


奴隷製の足置きで本を読む農園主の頭の中で作られた「近代国家権利自由」は、国家軍隊というとてつもない力に囲われながら、同じ発想の知的エリート再生産し、根本思想解体は迂回しながら様々なヴァリエーションを増やしてきた。その実践形は司法行政の場から常に吐き出され、我々パンピー脳みそにも影響を及ぼしてきた。


権利概念は、「権利」とは「持つ」ものだという支配欲求肯定に支えられている、というのが基本的な今回の主張である。これが己の身体観や対人間観に影響を及ぼしてきた。実際皆が全く違和感なく自分の持つ時間労働力社長さんに売り払っている。基盤にある発想はまさに「権利」は「持つ」ものから「捨てれる(売れる)」のである。あるいは私は他人権利を「買える」のである。なぜなら私はその「権利」を「持っている」のだから。(一応断っておくが、これによって生まれる成果を否定するものではない。「支配/排除欲望」を根幹にする原理が一度は平等性/対等性 になりながらも、次の段階で一人の人間があらゆる人の時間と行動の自由支配し皆がそれに納得していることに注目したいのだ。この一人の人間も様々な人の投資で買われていてもう少し複雑だろうけれど。)

 まとめ ー「意地汚い」理由



長々書いてるのに平板な話になってるだろうか。ここに資本の燃料をぶっ込めばいくらでも非人間的な方向に暴走できるのは想像にかたくないし、読んだことないけど共産主義とかポモとかもこういう認識の型への反発からスタートしてるのでしょ。現実非人道的支配を読み取った人たちの反発からまれ社会「権」などは対抗力として機能しただろう。ただそのことに対しても言えるのは「権利」「自由」の枠組みがそのまま利用されたということだ。近代国家という装置がこの世界にセットされた1776年の7月4日あの日から人類脳みそはハックされた。今もなお屋台骨として社会を支え続けている我らが人権万歳自由万歳国家万歳


いま苦しんでいるマイノリティも、「支配欲望」の匂い漂う「権利自由概念を使って「国家よ行動しろ」と闘争せねばならない。あるいは彼らがそうでない社会活動を試みていても(例えば、他者との網の目を強化したり、国家ではなくコミュニティや人々の意識を変えるために動いていたとしても)、そのように立ち上がる姿をメディアでみた我々は、そこにまた「権利自由闘争の型を読み取っていないだろうか。「障害者が、また支配欲望を前面に出してるのか。今度は何を要求するのか。」と。そして人間の、恥を知らない無意識は、何かを奪おうとしているマイノリティを見てこう訴えてくるのではないか。我々はこいつらを「支配」し「排除」しなければならない、我々の「権利」と「自由」のために。

2017-06-26

議論を騙った宗教戦争

昨今「批判」の是非について諸々話題になっているようだけれど、

正直、「批判」や「議論」という大義名分に驕って、単なる攻撃正当化している「エセ批判」が蔓延しているイメージはある。

それが顕著なのが(これらを同列に扱って良いものか正直悩むけど)政治ゲハゲームハード)の話題

どちらもその実態議論とは程遠いただの「宗教戦争」で、

自分論理的正当性立脚しているが、相手盲目的な信仰心立脚しているだけ」

と互いに互いを認識しており、自分意見が異なる相手を「信者」「キ○ガイ」などと平然と罵っている光景を目にすることが多い。

二言目には「いや、だってあっちの方が酷いから(自分罵倒はそう問題じゃない)」。

政治に無関心な人が多い」なんて言葉政治に熱心な人からしばしば耳にするけれど、

私の周囲には「政治に無関心」というより「政治に熱心な人と関わりたくない」という人の方が多かったんじゃないかと思う。

というのも、政治に熱心な人は「その人の信仰する思想以外には攻撃的な“信者”」である確率”が高いから。

勿論それらは単なるノイジーマイノリティーだとは思うのだけれど、表に露出するのはそういう人ばかりだから尚更そういう心象が強くなってしまう。

それ故に、「政治離れ」の原因は「政治に熱心な人」にドン引きしているから…ってケースは割とあると思う。

それが神であれ思想であれ、信じる(疑わない)のが宗教で疑うのが哲学

理屈と膏薬はどこへでもつくけれど、それは信仰例外ではなく、理屈が伴うことはなんら自身思想正当性保障しない。

アメリカ大統領選挙での応酬を見てても思ったけれど、これが現代版の、当事者達には宗教自覚が伴わない宗教戦争なのかなと思う光景結構多い。

そして他者への攻撃を「聖戦」と正当化するように、他者への単なる罵倒が「議論」や「批判」と自己正当化されているケースも多いと思う。

批判」が単なる悪いものとして受け止められてしまうのは問題だと思うけれど、仮にそう思っている若者が多いとするならば、

多くの若者がそう思うに至った背景にあるのが、若者をそういう風に育てた社会であることもまた忘れてはならないと思う。

2017-06-24

https://anond.hatelabo.jp/20170624020819

権威権力といったものは支える側が作っていくのだ、ということがよくわかりますね。

自己愛パーソナリティ障害特に目立つけど、人には崇拝されたいという願望と、

誰かを崇拝して帰依したいという願望がある。後者が棄損されたと感じているのでは?

信仰問題に過ぎない。

2017-06-21

https://anond.hatelabo.jp/20170620212916

孝明天皇のころと天皇に持たせる意味あいが違うからそれは解決になってないような

孝明天皇のころの天皇シンボル新政府の旗印でそれ以上の意味はなかった

今の天皇宗教運用されてる

日本に日々信仰する宗教がないせいで他のイスラム教キリスト教流行って他国の影響が色濃く出ると困る

から神道である天皇教を無意識に植え付けるために「正統な血筋である天皇」えー、つまり元・神の子ですと暗に言っている

これをもってしてカリスマの源泉としたいというのが本音でしょう

祭事を執り行うだけならもう坊さんと大して変わらないでしょう

坊さんにカリスマは出ないよ

ローマ法王くらい選出するプロセスがあるならまだしも直系でなくともいいよってアピールするには

宗教色が強い活動をして母体としての神聖さを演出しておく必要がある

でも今の天皇家にそれができるとは思えないし内部自体がそれに一致団結してない以上不可能だと思う

信仰心じゃなくて血をもってして生まれながらにして神聖なのが天皇から

なのでこのままいくと男性女性どっちでも良くなるけど段々とカリスマ自体は失われていく

まり日本人が真の意味バラバラになれる前段階がくる

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