はてなキーワード: サイードとは
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・そうですか、といったところ。
■鯨井氏のジャッジ
・まえがきでは個人的な狂気を重要視するというようなことを言っている。要するに、ユニークでぶっ飛んだものを読みたいということ。そういう欲求をカッコつきとはいえ「狂気」という言葉に託したのはよくなかったとおもう。「おまえら創作者はみんな創作に情熱を燃やしてそれに狂ってるはずだろ!なあ!」というのはいかにも一昔前のフィクションに出てくる「天才」像で、古臭くて偏狭ではないか。
・それでいて、最後に他者への回路としての「コミュニケーション希求力」を評価基準に置くのがよくわからない。いや、わかりはする。閉じているように見えつつもその暗闇のなかで他者を求めもがくのが人間の普遍的なあり方であり、そうした情熱を持っているように見える作品に惹かれてしまう。その気持ちはわかるが、この文章内にかぎればあんまり文脈的につながってないのでは、と感じる。
・「コミュニケーション」を謳うのなら作者の側から歩み寄りばかりでなく、評者からの歩み寄りもすべきだった。というか、それが評論行為であるように思う。最終的に「これは自分の感情です」というような文言で閉じたのはよくなかったというか、開かれた場のコンテストでは落とされてもしょうがない。
・固有名詞問題。固有名詞の持つ読者との「共犯性」を指摘し、作品内で用いられている下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」といったワードの「共犯性」が東京中心主義につながっているのではないか、といったようなことを言っている。
・固有名詞の「共犯性」についてはそのとおりだが、基本的にはその固有名詞を使うことでどういった層と共犯関係になれるかという戦略の問題でしかないとおもう。それが気に食わなさにつながるんならそうですね、あなたは不快なんですね、としか言いようがない。
・「「下北沢」「フィッシュマンズ」「クリムト展」を使って真にその意図が伝わるのは、それを知る都会の人びと、「カルチャー」の民のみである。」→これはそうは思わない。下北沢はぼざろなどを例に出すまでもなく東京以外のひとびとにもある一定のイメージを形成しているし、フィッシュマンズやクリムトに至っては別に東京固有でもなんでもない。
たしかに並べられると東京中心的な貴族性⋯⋯というかヴィレヴァン的なサブカルクソ野郎っぽさが鼻につくところはある。
しかし、それが「カルチャー」を愛する人びと特有の一段上から世を眺める視点、優越性」に直結するかは微妙なところで、それこそ共犯者に選ばれなかった疎外感といえばそれまで。そして、そこから地方差別へとつなげるのはちょっと無理筋だと思う。
・関西弁を含めたトータルのパッケージに差別性を覚えたという感じだとおもう。作者の意図しないチャンネル(固有名詞)でヘイトが溜まっていったところで関西弁の歌が出てきて「怒り」が爆発したというところか。
・全体的には論点の設定の仕方があまり開かれていない。差別性を感じるというのであればもう少し広くわかりすい議論を行うか、あるいは関西人であるという当事者性を突き詰めるべきだったと思う。現状の文章としては後者よりなのだが、あまりに「関西人である自分」が自明のものとして最初から展開されているので、読者には「で、関西人であるあなたがなぜそこまで怒ってるんですか?」がわかりにくい。
・いろんなところで中途半端な評だと思う。
・「『見下し』ではなく関西弁の語りのある種の味わい(「特権性」という雑な表現をしてなぜか自分を「関西」に対して下位に置こうとしていたが)に対する憧憬なので『見下し』じゃないんだよ」という言い分はそうなのだろうが、それをただしくオリエンタリズムと呼ぶのだよな。
・中盤の「ここまで説明をしたうえで、「本気で思っていたらこんな書き方はできないだろう」と思われるでしょうか。」に至るまでの説得のロジックがよくわかんない。
冒頭で「なるべく感情的にならないように書く」と宣言しているのに「ここまで説明〜」までは、基本的に「自分はこうおもってこう書きました(あんたや読者の気持ちなど知らん)」と自分の感情や行為しか書いてない。
本当は全部関西弁にしたかったけど、自分の技術じゃ無理→すげえわかる。
(なんか「一首だけにしといてやった」が非関西人としての譲歩だった、とも読める。マジでこれは意味がわからない。)
・「関西の人の反応を探るために歌会に出した」パート。実際に当事者から方言に関して否定的な反応が返ってきた、と自分で言ってる。
それを「連作という文脈で解消できるのではないか」と考えたらしい。なんで読者がああいう作品の連続性を確認しにくい場で連作であることを前提に読まなきゃいけないのか意味がわからない(鯨井さんはジャッジだからそこらへんい対してはある程度の義務はあるとは思う)というのはまあ置いといこう。
で、「連作という文脈」がなんなのかというと、「作品の主体(視点人物)が東北人の上京者」であること。
「主体も東京出身の人間ではないということを明示することで「標準語/方言」の権力構造をとっぱらえないかと画策しました」
というのがほんとうにわからない。視点人物が東北出身だと関西弁に対するオリエンタリズムが解消されるの? 標準語と方言の権力関係が無効化されるの?? なんで???
むしろ、この作品の場合は主体が標準語の権力性に乗っかって(実際、歌の大半が標準語で書かれている)、方言を搾取してますって構造に見えませんか???
さらに問題なのは「今回の文化盗用かどうか、わたしには判別できませんでした。」とか言っているところで、いやわかってないって自覚あるなら「連作で解消できてるとおもう!」とか言うなよ。
「関西弁をマイノリティといってしまっていいのか〜」のあたりはなにがいいたいのか不明瞭だけど、つまり「東北弁は関西弁に比べてよりマイノリティ性が高いから、俺には関西弁をいじる権利がある」って言いたいの? なにそれ?
・そのあとの文章はぐだぐだしてるけれど要約すれば「憧れだから差別じゃないんです」というようなこと。サイードを読め。平凡社ライブラリにある。
・「そこに「無意識的な共犯性」「優越性」があると断罪できる根拠がどこにあるのかよくわからない」はクリティカルな反駁だとおもう。そこらへんは前述のとおり。このへんの反論内容もいちいち書き出さないがリーズナブルだと思う。
「その文書の地域で何が起こっているのか?文書は人々からどのように受け止められているのか?文書の何が神経を逆なでするのか」について分析するという話を聞いたことがある。「文学的インフラ」とは、文学を資源として活用し、たとえば何らかの現象を予測するといった発想だ。物理現象を予測できないかもしれなが、社会現象ならどうか。
こういうものを評価してテキストのリスクを判別するというプロジェクトに聞き覚えがある。ユルゲン・ヴェルトハイマーという人は「作家は、読者が即座に世界を想像し、その中に自分自身を認識できるような方法で現実を表現する」と述べている。
例えば、以下のアルジェリアの例がある。
何が言いたいかというと、増田コーパスを使えば何かしらの社会現象の予兆を見つけることができるのではないか、ということ。
確かに「時間、場所、事象を非常に具体的なレベルで予測」となると不可能かもしれないが、「特定の政党の支持率」「どのような哲学主義が好まれているか」「どの国との関係性が良かったり悪かったりするのか」「自殺率が増加するのか減少するのか、凶悪犯罪はどうか」「博士課程に対する社会の許容度はどうか」といった大雑把なレベルなら予測できることがあるのではないか。
太田光は1980年代の文化相対主義的ポジションにいるように見えるので、「統一教会や安倍晋三を擁護しているように見える発言」はなんの役に立たないのではないかという話。
80年代には、「熱く語る」ことから一歩引いて、生暖かく・外から見る文化があった(みたい)
60年代の「政治の季節」から70年代の「シラケ」を経て80年代、経済的な余裕(おいしい生活)を背景に
「政治はうまくいかなかったけど、そこそこ今楽しいよね。60-70年代はなんだったんだろう、ちょっと恥ずいね」という見方だったり
サイードの「オリエンタリズム」に影響された文化相対主義だったり
岸田秀の「唯幻論」だったり
もともと反省をもとにしてるんだけど、次の世代は反省無くして相対主義をかっこいいと思う
※というのは俺のことで、まぁ勝手に太田光を俺の同類にしてしまって申し訳ないw
みんなで真面目に統一教会を責めてるけど、その熱い見方ってなんか抜けてない?
真面目な信者もいるんだぜ?どうするの?
間違っちゃいないけど、多分80年代の文化相対主義がなにも生み出さなかったのと同じように
この「言説w」もなにも生み出さないと思う
以外と統一教会批判者は、現実的な献金問題や民事裁判での違法性を根拠に議論・立案している。デーブスペクターとか
話が飛ぶけど、ネトウヨと変わらないんだよな、この思考のベクトルって
極端に言うと、敵を作ってメタ的に上から目線で指摘(馬鹿)にすることが目的だから、あまり具体的な意見がでてこない
・みんなでバカのひとつ覚えみたいに統一教会批判してるけどいいの、それ?俺が指摘しなきゃ(恍惚)
・左翼って馬鹿だよね、昔は左巻きって沢山いたんでしょ。日本のために俺の出番だぜ(よだれ)
まぁ俺も、そうたいちゅぎー!(失禁)てな感じの増田なんだけど
おっさんが飲み会で真実の愛について延々語るだけなので、哲学書の入門編にいいんじゃないかな。楽しそうにしてるおっさんはいいぞ。
どうしてフィクションで人は感動するかについて述べた本の走りで、後半は散逸しているんだけど、カタルシスについてはなるほどなあ、とは思った。作家になりたいんだったら普通にハリウッドの三幕構成の本を買ったほうがいいかもしれないが、この読書リストを読んでいる人は実用的な知識よりも読んでいて楽しいかどうかを求めている気もする。
読もうと思ったまま長い時間が過ぎてしまった本で、まだ読めてない。アウグスティヌスが若いころややりたい放題やっていた時期のことも書いてあるらしいので、宗教書として以外にも楽しめるんじゃないだろうか。
塩野七海がエッセイですごく推していたから読んでみたけれども、普通に面白い。例えば、中途半端に生かしておくと復讐されるから、いっそとどめを刺しておけ、みたいなことが書いてあって、優しいと人から言われてしまう自分には大いに刺激になった。ところで「孫子」もそうだが、戦争や政治学について書かれた本はたいてい「そもそも戦争は大悪手で、戦争になる時点で何かやらかしてる」という趣旨の言葉があり、全くその通りだと思う。
未読なんだけど、結婚とはある種の契約なんだから、まず処女と童貞がお互いに裸を見せ合ってからだ、みたいなディストピア的な描写もあるらしく、ディストピア文学好きの人は楽しめるんじゃないかな。あとは非モテ界隈の人とか。実際、完全な平等な社会を目指そうとするとどっかしら歪みが出るもので、それについて考えるのにも使えそう。
自然科学的な考え方、ロジカルシンキングのマニュアル。長くないのですぐ読める。得るものがあるかどうかはわからないけど、逆に普段している論理的思考がそもそも存在しない時代があったことは、実感しておくと歴史を学ぶ上で面白いかも。
平凡社の上巻を読んで挫折。純粋な理性っていうけれども、ヒトの心にはデフォルトで時間とか空間とかの枠組み、基本的な概念が組み込まれているよね? 的な話をやたら細かく述べていく内容だったように記憶している。長いので三行でまとめたくなる。
この本に限らず、いくつかの哲学書は「この本さえあればあらゆる哲学的論争をおしまいにできる」「この本からあらゆる結論が導き出せる」的なスタンスで書かれたものが多い印象。
エヴァヲタなら読まなきゃという謎の義務感から読んだ本。要は、どうすれば自分を信じることができるか、について語った本であったような気がする。自分は救われないだろうという絶望から、それでも神を信じるという境地に至るまでの道筋を延々と語ったようなものだった、はず。
自分は特定の信仰を持たないが、どうせ自分なんてと己を見捨てた境地から、まあ自分は自分だよね、的な気分に至った経験がある人が読むと楽しめるだろう。
「善悪の彼岸」と「ツァラトゥストラはかく語りき」なら読んだ覚えが。自分はカトリックの中高一貫校出身であったせいか、キリスト教思想にある欠点を指摘したこの本を面白く読んだ。キリスト教になじみがなくても、たとえば来世があると考えることで現在を生きることがおろそかになるといった指摘は、興味深く読めるんじゃないだろうか。あとは、増田で定期的に出てくるルサンチマンがどうこうとかいう話が好きな人にもおすすめ。マッチョぶってるところはあるが。
新潮文庫の「夢判断」「精神分析入門」「トーテムとタブー」「一神教の起源」なら読んだ。フロイト自身はヒトの心を脳から探りたかったらしいのだけれど、当時はMRIやら何やらはまだないので対話式の治療法を導入したらしい。
彼の理論は今となってはツッコミどころがたくさんあるのだろうけれど、クラインだとかビオンとかについて触れるなら頭に入れておきたいし、心理学特にパーソナリティ障害について読むなら知っておきたい。自分はフロイトやアドラーよりもユング派だが。
ラブストーリーの「ナジャ」だけ読んだ。謎めいた女のあるある的な話だ。
「論理哲学論考」だけなら読んだ。これもカントみたいに「俺が哲学のくだらない争い全部終わらせてやる」的な立場で書かれている。定理がずらずら並んでいるだけで、余計な表現がなく、簡素。
ただ、言語の限界について今の人が持っている感覚ってのは大体この時代の人が言っていたことだった気がするし、そういう意味では面白いんじゃないかな。この辺は数学ともかかわっていて、ペアノとかゲーデルとかヒルベルトとかその辺興味があったらいかがでしょう。
ちなみにウィトゲンシュタインがポパーとの議論でキレて火かき棒を振り回したヤバいやつだというのは哲学界隈では有名らしい。
シン・ウルトラマンの予告編でちらっと映っていたので読んだらいいかもしれない。
この本そのものは未読で「悲しき熱帯」ともう一冊なんか専門書を読んだことは覚えている。面白かったエピソードの一つは、ある民族は身分を入れ墨にするんだけど、入れ墨のない人間(白人たち)を見て面食らう。要するに身分証明書を持ってないようなものだから。
定期的に異民族と共に暮らすドキュメンタリーが読みたくなる性分なのだが、それはたぶん、自分のやり方や考え方が絶対じゃないってことをよく教えてくれるからで、これも本を読む効用の一つだろう。趣味なので効用なんて本当はどうでもいいが。
面白い。僕自身のスタンスとしては、日本人が海外で誤解されていることを批判するんだったら、自分も外国に対する偏見や無知を減らそうと努力するのが筋だと思っていて、それの理論的な補強をしてくれた本。身近に外国人の多い環境ではないが、すぐに役に立たないからと言って読まないというのはなんか違うんじゃなかろうか。自分はイスラーム世界やインドについて、どれほどわかっているのだろう?
どっからがいきでどっからが野暮なのか、直方体を使った図があった気がするが忘れた。
「遠野物語」しか読んだことがないし、それも「マヨヒガ」のことしか覚えていない。
自分が現代思想に出てくる名前がわからなすぎて最初に読んだ本の一つ。四コマ漫画だがかなり本質をとらえており、いしいひさいちの本業は何だったのかよくわからなくなる。素直に笑っておきましょう。勉強ってのは楽しみながらするもんだ。
上のリストでは省略した20世紀哲学者が実名で登場するミステリなんだけど、フーコーがサウナで美青年とイチャイチャしたり、七十年代の音楽を聞きながら薬をキメたりしているので、現代思想だのポストモダンだのをかじったことがあるならおすすめ。著者がやりたかったのは、たぶん上の世代の脱神話化というか、強すぎる影響の破壊なんだろうけれども、ここも素直に笑っておくのがいい。
以上。
ところでネット上のレビューを読むと、このあとがきは賛否両論のようだ。
「めちゃくちゃ面白い!」
「これだけでも一読の価値がある」
という人もあれば、はっきりと嫌悪する人もある。特にアマゾンの、
「あとがきで、女性の半生記を長々と読ませられるのはベリベリ白けてしまった。「中国の行動原理」は読みたいが、著者の行動原理は不要である。」
「著者のファミリーのヒストリーがあとがきで書かれているが、少なくともこの本のあとがきとしては不要でしょう。」
このての感想はなんつうか、物事の本質が分かってねえ貧しい輩だなと思う。
"本編は面白いけどあとがきは不要"って……。いやいや逆でしょ。
こういうあとがきを書くような(或いは書かずにいられないような)人だから、こういう面白い本編が書けるんだよ!
本は情報を吸収する道具、著者は情報を提供してくれる装置、では断じてないのだ。
真に面白い本というのは、どうしても書かずにはいられない、あるいはそのようにしか書けない、やむにやまれぬのっぴきならない著者だけの特殊な事情がある。
何かについて語るということは、それを語る自分が何者であるかを包み隠さず開陳すること同義。
その一糸まとわぬ脱ぎっぷりのよさに、余人に真似できぬ面白さが宿るのだ。
そうせずに小手先のマーケティングで書いたものなんて、いくら有益で新奇な情報を扱っていても面白さには程遠い。
これはなにも小説や脚本の話だけでなく、学者の書くものだって同じことだ。
「私的な世界と公的な世界とは、きわめて複雑なかたちで混ざりあっている」
「いっぽうには、わたし自身の歴史があり、わたしの経験からひきだされたわたしの価値観や、わたしの書いたものや、わたしの立場がある。そしていまいっぽうには、こうしたことがらを吸収する社会的な世界があり、そこでは戦争や自由や公正について人びとが議論したり決断をくだしている。私的な知識人というものが存在しないのは、あなたが言葉を書きつけ、それを公表するまさにその瞬間、あなたは公的な世界にはいりこんだことになるからだ」
「つねに個人的な曲解があり、私的な感性が存在する。そして、個人的な曲解なり感性が、いま語られつつあることや、書かれつつあることに、意味をあたえるのである」
「ジャン=ポール・サルトルやバーランド・ラッセルの書いたものを読むとき強く迫ってくるのは、その論じかたではなく、彼ら特有の個人的な声であり、その存在感であるが、これは、彼らが自分の信ずるところを臆せず語っているからである。彼らが、顔のない役人やことなかれ主義の官僚によもやまちがわれることはあるまい」
そう、だから、パンツ脱がずに小手先の情報だけで書こうとすると、必然的に無難な一般論や官僚答弁に行きつく。誰が書いても同じなんだから。
そうすると書き手の洞察は深いところまで届かず、したがって読者に感動なり知的興奮なりを与えるような面白い本にはなり得ない。
話を益尾氏の本に戻すと、
なぜ"東京対北京"に収斂できない「女性の半生記を長々と」書くのか。
本編を読んでもその意味と必要性が本当に分からない読者がいるとしたら、そいつはもう馬鹿としか言いようがない。
ちょっと熱くなってしまったが、走り書きなので言葉遣いが汚いのは許してほしい。
そもそも自分は「学者の書くあとがき」が好きなのだ。半分タレント化した人は別として。
学者の場合、小説家などの他の文筆業と違ってどうしても本編の制約が大きい。
たとえ一般向けであれ「学者の顔」で書く以上は、事実関係や客観性を重んじるのは勿論、表題に掲げたテーマに何らかの結論を出すことが求められるから。
それだけに、あとがきでは「学者の顔」に収まりきらない著者の顔がにじみでているのが、本編と相まってすごく味わい深く思えるのだ。
その意味で益尾氏のこのあとがきは、「学者のあとがき」として大変面白かった。
自分が今まで読んだ中では、安丸良夫『近代天皇像の形成』のあとがきを彷彿とさせる面白さ(この意味が知りたい人は読んでもらえれば分かる)。
これに対する対応が、その人自身の知識、政治的立場、現実理解や対応方法の様々なレベルに対応する構図となっていて、とても興味深い。
もともとのモネの絵に、ジャポニスムを諷刺する意図があったかどうか=定かではない…(1)
裾を引きずりドレスのように着こなす仕方は、まさに「ジャポニスム」であり、「日本文化への理解」に基づいてはいない=事実…(2)
これを踏まえて、
今回の件の問題提起を行った人は、背後に反日的な意図をもっているかどうか=分からない…(4)
『批判は正当であり、中止はやむを得ない派』Iwa Taka氏、関裕子氏ほか
『今回の抗議は反日的意図によるものであり、不当である派』守谷知氏、望月鎌足氏ほか
を左右両極として、相互に噛み合わない意見表出が行われており興味深い。
個人的には、
前者に対しては、批判者の論理への理解力は高いことはよいとして、批判自体への批判が欠けている点は問題だと思う。たとえば、余りにこの意見を厳格に適用すれば、異文化を紹介するあらゆる試みは事実上不可能となること、そして、オリジナルを過剰に尊重する態度こそがかえって現実に生きている人間の文化を貶める働きもする、という知見こそがポストコロニアリズムの重要な成果の一つであったこと(つまり「『ジャポニスム』自体もまた一つの『文化』である」といった見方)に、もう少し思いを馳せるべきだと思う。
後者に対しては……まあ、いつものようにいつものごとく、なわけで、もう少し勉強してください、というか、何で批判されているのか分からないならせめて黙っててくださいという。いたずらに議論を感情論とか陰謀論に落とし込んで混乱させるし、かつ、分かった上で反論してる人までがバカみたいに見えて困るので。
http://toianna.blog.fc2.com/blog-entry-22.html
に惹かれるものがあった。「自国」って何? とは思うが。もしかして「自分」の書き間違いか?
ポルトガルで学んだポルトガル語学習者、とブラジルで学んだポルトガル語学習者間で「さやあて」があるのだろうか、興味がある。
中南米のスペイン語の盟主というのがどの国かわからないが、同じような構図がありうるように思う。
cやzの発音を巡って話者の品定め的なトピックがあるのは知っているが、もっと具体的生々しい感情というものがあるのではないかと思う。
ともあれ、留学した先の言語や文化に自分を一体化するということは実際にあるのだな、
「新大陸のほうの分家が今や主導権を握っていること」に対する複雑な気持ちも共有できるくらいに自分を変えてしまうことができるのだな、と思った。
一方で、日本国内にも、イギリス人として生まれたわけではないのにイギリス英語(イギリス文化)にかぶれた人や、
フランス人として生まれたわけではないのにフランス語(フランス文化)かぶれた人もいる。
これらは少数派としての挟持、マイナーな選択をした自分に対する誇りを上乗せしている感じがあって、
それは自分語りの道具として、由緒の有りそうなものを利用しているのだと思っている。
つまり、「誇り」の有効範囲は日本国内までであるということを、おそらく自覚していると思う。
イギリスやフランスに行って名誉イギリス人、名誉フランス人として扱ってくれるとは、まさか思っていないだろう。
その意味では、このブログを書かれた人とはやや違うのかもしれないと思った。
後、旧制高校などではドイツ語選択、フランス語選択などを元に、自分の文化上の宗主国を主体的に選ばせるような習慣があったのだろうか、と思うこともある。
一方で、諸外国()では、ある国・ある地域の言語を学ぶことはその言語の文化圏の代理人になることを意味しない。
中国の王毅外相は、日本語の機微まで理解し、日本人も舌を巻くような日本語使いだが、彼にとって日本語は手段であり、知日派ではあるが親日派ではない。
サイデンステッカーやドナルド・キーンみたいな人もいるよ、と言われるかもしれないが、実務の人と文学者はまた別ではないかと思う。
ゴーマニズム宣言のなんたらって奴の書いた文章がちらっと目に入ってしまった。
そいつのドヤ顔がでかでかと乗ってる記事で大層なことを語ってて(お決まりの愛国がどうの左翼がどうのだったが)、コメント欄にはもっと影響力のあるメディアで先生の言葉を載せればいいのに……などと書いてあった。
勘弁して下さい。
せめてナショナリズムとパトリオティズムの区別くらい付けてからものを書けばいいのに。
あの人もいい加減学ばないで何年も同じ事してるよな。私なんぞには思いつかない理由でワザとやってるのかも知れないけど。
それにしたってネットでこの手の、左翼とか愛国とか外国はどうのとか、記事を見ると毎度なにか残念な気持ちになる。
つい先日も、”なぜ日本はエセ日本人ばかりなのか”などというどこぞのネタ記事を読んで、なんでメディアの人間はエセ知識人ばかり目立つのかと落胆した。
ベネディクト・アンダーソンの想像の共同体くらい読んでから言ってるんだよな?サイードのオリエンタリズムは?
EFFのこの記事をざっくり訳した。訳の正確さはまったく保証しない。素人の雑な訳です。ちゃんと読みたいひとは原文参照すること。pseudonymはとりあえず「仮名」にした。
A Case for Pseudonyms (Commentary by Jillian York)
https://www.eff.org/deeplinks/2011/07/case-pseudonyms
pseudonym (スードニム) 名詞:著者が身元を隠すために使用する架空の名前。ペンネーム
個人が生来の名前とは別の名前を使いたいと考える理由は無数にあるだろう。生命や生活への脅威への配慮もあるだろうし、政治的、経済的報復へのリスクがあるかもしれない。人種差別の防止を望んでいることもあるだろうし、生活文化圏で発音や記述のしやすい名前を使うこともあるだろう。
オンラインではさらに理由は増える。インターネットカルチャーでは、オフラインでの人格と結びついているかもしれないし結びついていないかもしれない「ハンドル」や「ユーザ名」を使うことが長い間推奨されてきた。古くからのオンライン住人のなかには20年以上使っているハンドルを持つものもいるだろう。
仮名での発言は歴史的にも重要な役割を果たしてきた。ジョージ・エリオットやマーク・トウェインの文学的偉業、ザ・フェデラリスト論文でのパブリアスの政治的主張、18世紀ロンドンでのユニウスのパブリックアドバタイザー紙への寄稿。人々は仮名の下で公の論議に大きく寄与してきたし、今日に至るまでそれは続いている。
Google+の身元確認ポリシーから、オンラインプラットフォームにおける仮名性に関する新たな議論が持ち上がってきた。Google+はユーザに「友人、家族、同僚が普段呼ぶ名前」を使うことを要求する。このポリシーは、Facebookの「本名と実情報を提供せよ」という要求と似ている。Googleのポリシーは、Google+の開始から数週間で同コミュニティーの内外両方から大きな注目を集め、ソーシャルプラットフォームがアイデンティティに制限を加えるべきかどうかという議論に火をつけている。「Skud」という名前を使っていたことによりGoogle+から追い出された元Google社員、キリリー・“Skud”・ロバートの詳細な記録によれば、すでにかなりの人数のGoogle+ユーザがこのポリシーに基づくアカウント停止を受けている。
ソーシャルプラットフォームでの「実名」支持者は多くの論点を示している。実名はユーザの行動を改善し、より文化的な環境を生み出す。実名であれば攻撃者を追求することが容易になるのでストーキングや嫌がらせを防ぐ助けになる。実名ポリシーがあることで、ユーザ監視のために当局がサービス内部に「侵入する」ことを防げる。実名によってユーザは行動に責任を持つようになる。
これらの論点にまったく意味がないわけではないが、問題を間違った方向から議論している。厳格な実名ポリシーの支持者は、実名使用を主張するポリシーに良い面が一つあることを示せばいいのではない。彼らはこれらの利点が、いくつかの非常に深刻な問題より重要であることを実証する義務がある。
例えば、数千人の人々が1月蜂起に参加するきっかけになったFacebookページ「We Are All Khaled Said」を作成した著名なエジプト人、ワエル・ゴニム氏のことを考えてみよう。ページが作成されたのはハリド・サイードが警官によって殺害されてからすぐの2010年夏だったが、ページが本当に勢いを得たのはその年の後半だった。しかしその後も抗議運動の中で存在感を得るのは難しかった可能性もある。2010年11月に管理者(今ではゴニム氏だと知られている)が仮名を使っているとの報告によってこのFacebookページは停止された。Facebookは「身元の明らかな」人物が介入することによる解決を提供することができたが、ゴニム氏はFacebookのスタッフと連絡をとって解決することができたためこの件は非常に特殊な事例となった。誰もがこのようなコネクションを持っているわけではないし、アカウント停止に抗議する方法を知らないことでどれだけ多くの人々が無視されているか知るすべもない。ゴニム氏のケースでは実名を使うことは深刻な危険を伴っていた。仮名であれば安全という保証があるわけではないが、仮名は当局による活動家の追跡を大きく困難にする。
個人が本名以外の名前の方が安全に感じられる理由は無数にある。例えばLGBTコミュニティのティーンエイジャーはオンラインでいつも嫌がらせを受けるので仮名を好むかもしれない。政府のために働く配偶者やパートナーを持つ人や生活を隠したい有名人は、オンラインでは別の名前で行動するほうが安心だと感じるかもしれない。家庭内暴力から逃れている人は加害者から発見されないために、部分的または全面的な別名の使用を望むかもしれない。非主流派の政治的見解をもつ人は仮名を使うことによって生活を危険にさらさずに済ますことを選択するかもしれない。
マッキンタイア対オハイオ選挙委員会の裁判でジョン・ポール・スティーブンス最高裁判事が提案したとおり、
「匿名性は多数派による暴虐からの盾である。よって匿名性は権利章典、また特に米国憲法修正第一項の本来の目的、不寛容な社会において個人を報復から思想を抑圧から守ること、を体現している。匿名である権利は詐欺的行為に悪用されるかもしれない。政治発言はその性質上、時として不愉快な結末を迎えるが、一般的に我々の社会は言論の自由の悪用による危険よりもその価値に重きを認める」
「本当の」名前を使うことと同様に、「本当の」名前の使用の強制も、考えを明らかにすることによる被害を恐れる人々によって対話から排除されるという、現実的な結果を招く可能性がある。実名が対話の「文化度」を上げるかもしれないことに価値を見出す人がいる一方で、それは間違いなく多様性を損なう。
ギークフェミニズムのブロガーたちは、実名ポリシーの被害にあっている人々をWikiにまとめることで、個人がなぜ本名以外の名前の使用を許されるべきなのか何百もの可能性ある理由を示している。このリストに示された多くの例が安全のために仮名を使用している危険に晒された人々を説明しているものの、他にも仮名を選択できるべき重要な理由がある。
Michael Anti氏の例を見てみよう。彼の本名はJing Zhaoで、中国人ジャーナリストだ。おそらくは何者かが生来の名前を使っていないと報告したことによって、2011年1月に彼はFacebookから追い出された。10年近くニューヨーク・タイムズ等で「Michael Anti」のペンネームを使っていたにも関わらず、Facebookは実名ポリシーの厳格な強制を主張した。
Google+でも、誤判定があるとして、アカウントの即時停止ではなく、ユーザに警告を与え名前を変更する機会を与えるように処理手順を変更すべきだと促す動きがでている。
「本当の」名前を要求するポリシーを大規模に実施するのはほぼ不可能だし、多くの例が示すように強制は著名人や敵を持つ人々に対して不当に使われることが多く、またそれはコミュニティ監視機構の結果として生み出されやすい。
GoogleであれFacebookであれ、その他の企業であれサービスに適合していると思われるポリシーを作成する権利がある。しかしこれらの企業が多様性や表現の自由を犠牲にしておきながら、「実名」ポリシーがより文化的な態度を生むと主張するのは浅はかだ。「本当の」名前を要求するポリシーへの移行はオンラインでの表現の自由を萎縮させるだろう。
別に、天皇制を撤廃したいとあなたが思うのは構わないし、そう主張するのも構わない。
きみが「おかしいと思う」ところをみんなが「おかしい」と思えば廃絶されるよ。
ただ、文化というのは損得抜きで「そこにある」ものだとも思う。
俺は一つの文化に自分でトドメを刺すのは文化人類学を研究する立場からも非常にアレなので、存続する側に組するけれど。
ただ、所詮社会システムなので「失くしたい」とか「維持コストが勿体無い」という人が多数であれば、廃絶されていい。
そんで、件の政治家の件なんだけども。
それは『敬意を払う、払わない』の問題でもあるんだけど、それ以上にやった行為がクソ以下っていうことなんだよね。
別段、日本では天皇や皇族に敬意を払う義務は課されていないし、別に批判したっていい。
「そーいうのはダメだ!」って思う人が多数(もしくは一定数)いるからこういう話になる。
だから、支持を受けたら「天皇制廃絶を目標とする」という政治家だってあり得る。
んで、今回の件はそういうことではなく、ああいう大事な場で立場のある相手に向かって「早く座れよ」なんて
暴言を吐いちまったということで。これは、天皇を崇拝する人から見れば「不敬だ!」だし
俺みたいに「特に崇拝はしない」って人からみると「アホちゃう?」って感じになってしまう。中学生の朝礼じゃないんだから。
それだけの話じゃないかね。
ちなみに、文化人類学的に言うと「不合理な迷信の保存」こそが文化であって、そこに遅れたとか進んだっていうものは存在しない。
むしろ、「遅れた文化」や「不合理な迷信の保存」を打破しようという思考様態が、文化人類学に限らず
現代では「遅れた野蛮人の考え方」とされているね。詳しくはレヴィ・ストロースあるいはサイードを読んでくれ。
大抵の文化は過去と迷信に支えられているし、それでいいと思うんだよね。だってあなたや俺の思考だって過去と迷信に支えられてるんだから。
うまく話が通じてないと思った(「女性器切除」)
「女性器切除」
http://anond.hatelabo.jp/20090923003429
に端を発する
「ちょっと待って、「女性器切除」の話題!」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20090923/1253674546
ブックマークのコメントを流し読みしてみたが、やや話が通じてないような気がして非常にもやもやした。
この問題に明るくない人間には読みにくいよ。
という指摘があったが確かにそうなのかもしれん。(font-daさんのエントリが悪いわけでは全くない。)
ブックマークコメントをながめていて、私は古典であるサイードの「オリエンタリズム」を読めばいいのに、とまず感じた。岡真理の著作は読んだ事はないが、引用されている部分は「オリエンタリズム」で議論されていた事にルーツがあり、あれを読めばまず基礎の認識ができると思ったから。「イスラーム」と出てきて面食らってる人もいるようだし、想像以上に多くの人にその辺の前提が共有されてないと思った。(「前提が共有されてない」などという生易しい状況ではない恐ろしい人も若干いるようだが……)
だがこのエントリですら長くて読めないと言ってる人たちには無理な話だし、どうしたものか。
私に才能があれば「やるおで学ぶ『オリエンタリズム』」を作ればいいのだろうが……
先進国(旧帝国主義国)でありなおかつ非白人(が多い)の日本人はこのような問題を考えるのに面白い立場にいると思うのだが……
ラビンが暗殺されて以降、ずっとパレスチナとイスラエルの情勢は気になっていた。でも今の情勢はひどすぎる。
あいつらは多分、有史以来殺されたユダヤ人と同じ数だけの「異教徒」を殺すまでは何をしても許されると思ってる。
ハマスごとパレスチナ人とパレスチナに肩入れする人達を皆殺しにする事なんて何とも思っていない。むしろそれが狙いだろう。
→ 「待ってました」とばかりにありとあらゆる火器で「自衛」、100倍の人間を殺す
「挑発」の仕方もすこぶる露骨。
ウェストバンクに人を送り込んでパレスチナ人のオリーブ畑を焼き払い、焼け跡を占領、勝手に入植。
占領した地域のパレスチナ人の家をブルトーザーで破壊。それを止めようとした人は轢き殺す。
イスラム教の聖地に武装集団で乗り込んで「ここ全部イスラエルのもの」発言。
人々の「まとめ役」、精神的支柱である宗教指導者や政治指導者を非常に分かりやすい形で暗殺。
アラファトは2001年から死ぬ直前の2004年10月までイスラエル軍によって自宅に軟禁され体調を悪化させて死亡。
2004年にはアフマド・ヤシンを。モスクへ早朝の祈りを捧げに行く途中だった70歳近い全身麻痺の車いすの老人に向けてヘリでミサイルを撃ち込んで殺害。
今度もまた。
http://mainichi.jp/select/world/news/20090116k0000e030017000c.html
【エルサレム高橋宗男】パレスチナ自治区ガザ地区に侵攻するイスラエル軍は15日夕、同地区北部ジャバリヤ難民キャンプの家屋を空爆し、ガザ地区のイスラム原理主義組織ハマス「政府」の内相、サイード・シアム氏を殺害した。対イスラエル強硬派の同氏は、同地区のハマス最高幹部5人のうちの1人に数えられ、ハマスには大きな打撃となった。
イスラエル軍はシアム氏が潜伏しているとの情報を基に、同氏の兄弟宅を空爆。強力な爆弾が使用されたとみられ、現場には巨大なクレーターが残された。ロイター通信によると、同氏と息子、兄弟らのほか、隣家の住民4人の計10人が死亡した。ハマス幹部の殺害は今月1日のラヤン氏に続き2人目。
ガザ市包囲網を狭めるイスラエル軍は15日、先月27日の攻撃開始以降で最も激しい砲撃を同市中心部などに加えた。国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)や報道機関が入居するビルのほか、数百人の入院患者らがいたクッズ病院も被弾した。AFP通信によると、パレスチナ人死者は1105人に達した。
理由も無く家を破壊されて今まで住んでいた土地を理由も無く追い出されて怒らない人がいるか?
大事にしていた場所に土足で上がり込まれて憤慨しない人がいるか?
「国の偉い人の近くに住んでいた」というだけで家族を殺される理不尽に怒らない人がいるか?
大事な人を殺されて悲しみ、怒らない人がいるか?
武力では何も解決しない事なんて、占領と暴力がどれだけ「イスラエルの敵」を弱体化させてもパレスチナ人の怨嗟を増大させるだけだと、紛争の種はなくならないという事なんて、イスラエルもアメリカもよ〜く分かってる。それこそ1987年のインティファーダの前から。「自衛」だの「ハマス、PLOはテロリスト」だの白々しい。
今起こっている事は戦争でも紛争でもない。イスラエルによる一方的な大量虐殺だ。
http://www.asahi.com/international/update/0117/TKY200901170096.html
「爆撃、常に身体は緊張」ガザ入り桑山医師、惨状伝える 2009年1月17日14時8分
【ラファ(エジプト・ガザ境界)=田井中雅人】病院に運ばれた少年の遺体に泣きすがる母親。砲撃で建物や道路が壊滅し、町は死にかけ、唯一の大きな人だかりは葬儀の列……。イスラエル軍の激しい攻撃が続くパレスチナ自治区ガザに入ったNPO法人「地球のステージ」代表理事の桑山紀彦医師(45)=山形県上山市=の目に飛び込んできたのは、圧倒的な暴力による市民惨殺の悲劇だった。
桑山さんは現在、ガザで活動する唯一の日本人医師として、南端のラファ市立病院の救命救急室(ER)で緊急医療支援にあたる。空爆や砲撃のすきを縫って、救急車で近隣の病院に患者を搬送することもある。ガザ入りして3日目の17日、朝日新聞記者に電子メールで現地の様子を伝えてきた。
ラファ住民らによると、町の銀行は閉まり、水と電気は地域によって完全に止まっているところも多い。食事用のガスボンベは入ってこず、薪を使って煮炊きをしている。
住民らは攻撃が激しい境界に近い地域を離れて比較的安全な市中心部に逃れ、親族や知人の家に身を寄せる。主食のパンを作るための小麦が極端に不足。ペットボトルの水は姿を消したという。
市立病院に16日に運ばれてきた即死状態の少年は、薪を拾っていたところを「ロケット弾を発射しようとしている」とイスラエル軍に誤認されての狙撃だった。頭部が撃たれ、脳が飛び出した遺体にすがり、母親は泣き崩れた。
午後には別の通称「ヨーロッパ病院」に患者を搬送。イスラエルとの境界に近く、帰りの救急車を待っている時にも病院近くに爆撃があった。「戦争状態にいる感覚は一時も薄れることはない。爆撃の音や振動が、常に身体を緊張させている」と桑山さん。
山さんを受け入れた福祉団体のダルウィーシュ氏は「世界中から見捨てられた気持ちだ。こんな非人道的なことが起きていることを、どうか世界中の人に分かってもらいたい」と話しているという。
# 2008/12/12(金)
開設日 2005年02月02日
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なんか、わたし、ある種の男性を寄せ付けるんです。
「お、お、俺知ってる…フロイトがさ…/ラカンの言うところの…」
しかももう終わった話だからごっつお気軽に土足で踏み込んでくる。
もちつけ、もまいら…。
冷静になれ、私だって本ぐらい読むわ!
家族関係や性的なことを調べるのに近代心理学の影響にある作家の本を読めば
そりゃあフロイト的な体験語りがいっちょ上りでしょうよ。
当事者は、自分自身の言葉で語れない…フェミニズムの基本じゃないか。
それだけだったら別に構わないのですが
そういうお方に限ってのぞくもう一つの感情。
「君はあたまがいいから僕の言ってることわかると思うけど…」
リーチ!そら来た、やれ来た、ゲゲゲのゲ!
「君の不幸にして野蛮な状況から僕が教え導いて救出してあげる。」
キターーーーー(゜∀゜)ーーーーーー!
一発ツモ!
先進国の男性名物・オリエンタリズム(byサイード)ですね、わかります。
て思ったけど、
「上から目線オトコうぜ」ってのに
http://anond.hatelabo.jp/20080315152400]
これを全部読んでいない人間は「猿」です。
ちなみに猿に人権はありません。ネットで表現をする権利も自由もありません。よく覚えておくように。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫
ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫
ハイデッガー『存在と時間』ちくま文庫, 岩波文庫, 中公クラシックス
ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』複製技術時代の芸術, 晶文社クラシックス
ポランニー『大転換 市場社会の形成と崩壊』東洋経済新報社
デリダ『グラマトロジーいについて』
海外文学
『唐詩選』岩波文庫
シェイクスピア『ハムレット』角川文庫、新潮文庫、岩波文庫、ちくま文庫
ゴーゴル『外套』
ポー『盗まれた手紙』
エミリー・ブロンテ『嵐が丘』
メルヴィル『白鯨』
フローベール『ボヴァリー夫人』
ドストエフスキー『悪霊』
カフカ『審判』
魯迅『阿Q正伝』
トーマス・マン『魔の山』
ザミャーミン『われら』
ムージル『特性のない男』
セリーヌ『夜の果ての旅』
フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』
ジュネ『泥棒日記』
ロブ=グリエ『嫉妬』
レム『ソラリスの陽のもとに』
エリオット『荒地』
ブランショ『文学空間』
日本文学
樋口一葉『にごりえ』
田山花袋『蒲団』
有島武郎『或る女』
志賀直哉『小僧の神様』
内田百〓『冥途・旅順入城式』
江戸川乱歩『押絵と旅する男』
横山利一『機械』
谷崎潤一郎『春琴抄』
川端康成『雪国』
太宰治『斜陽』
大岡昇平『俘虜記』
野坂昭如『エロ事師たち』
島尾敏雄『死の棘』
古井由吉『円陣を組む女たち』
後藤明生『挟み撃ち』
円地文子『食卓のない家』
中上健次『枯木灘』
斎藤茂吉『赤光』
萩原朔太郎『月に吠える』
坪内逍遥『小説神髄』
正岡子規『歌よみに与ふる書』
石川啄木『時代閉塞の現状』
小林秀雄『様々なる意匠』
保田與重郎『日本の橋』
吉本隆明『転向論』
江藤淳『成熟と喪失』
by 柄谷行人、他
追記
ネットにはほとんど「猿」しかいないんじゃないかと思うことも多いので、是非、脱「猿」してみて下さい。2chは「猿」の巣窟でもかまわないのですが、はてなが「猿」の巣窟であってはインフラ、リソースの損失だと思っています。実のありげな議論が起こっているなと思いきや、はてな「猿」が集団でやってきて議論を潰しているケースがほとんどなので。
本当だ。消えないうちにグーグルキャッシュからサルベージしておこう。
パスカル『パンセ』
ライプニッツ『単子論』
ジェイムズ『宗教経験の諸相』
レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』
ブーバー『我と汝・対話』
ライル『心の概念』
デュルケム『自殺論』
キャンベル『千の顔をもつ英雄』
ポランニー『大転換』
オルテガ『大衆の反逆』
オング『声の文化と文字の文化』
ポパー『推測と反駁』
フロム『自由からの逃走』
デリダ『グラマトロジーについて』
ペンフィールド『脳と心の正体』
ソンタグ『反解釈』
フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』
ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』
イーグルトン『文学とは何か』
ガダマー『真理と方法』
ダマシオ『生存する脳』
クワイン『ことばと対象』
マッキンタイア『美徳なき時代』
ツリー内主要エントリ
これを全部読んでいない人間は「猿」です。
ちなみに猿に人権はありません。ネットで表現をする権利も自由もありません。よく覚えておくように。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫
ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫
ヴァレリー『精神の危機』
ハイデッガー『存在と時間』ちくま文庫, 岩波文庫, 中公クラシックス
ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』複製技術時代の芸術, 晶文社クラシックス
ウィトゲンシュタイン『哲学探求』大修館書店
デリダ『グラマトロジーいについて』
ベイトソン『精神と自然』新思策社
海外文学
『唐詩選』岩波文庫
シェイクスピア『ハムレット』角川文庫、新潮文庫、岩波文庫、ちくま文庫
ゴーゴル『外套』
ポー『盗まれた手紙』
エミリー・ブロンテ『嵐が丘』
フローベール『ボヴァリー夫人』
ドストエフスキー『悪霊』
カフカ『審判』
魯迅『阿Q正伝』
トーマス・マン『魔の山』
ザミャーミン『われら』
ムージル『特性のない男』
セリーヌ『夜の果ての旅』
フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』
サルトル『嘔吐』
ジュネ『泥棒日記』
ロブ=グリエ『嫉妬』
レム『ソラリスの陽のもとに』
エリオット『荒地』
二葉亭四迷『浮雲』
樋口一葉『にごりえ』
島崎藤村『破戒』
田山花袋『蒲団』
有島武郎『或る女』
内田百〓『冥途・旅順入城式』
江戸川乱歩『押絵と旅する男』
谷崎潤一郎『春琴抄』
大岡昇平『俘虜記』
埴谷雄高『死霊』
安部公房『砂の女』
野坂昭如『エロ事師たち』
島尾敏雄『死の棘』
古井由吉『円陣を組む女たち』
後藤明生『挟み撃ち』
円地文子『食卓のない家』
中上健次『枯木灘』
斎藤茂吉『赤光』
萩原朔太郎『月に吠える』
北村透谷『人生に相渉るとは何の謂ぞ』
正岡子規『歌よみに与ふる書』
石川啄木『時代閉塞の現状』
小林秀雄『様々なる意匠』
花田清輝『復興期の精神』
江藤淳『成熟と喪失』
by 柄谷行人、他
追記
ネットにはほとんど「猿」しかいないんじゃないかと思うことも多いので、是非、脱「猿」してみて下さい。2chは「猿」の巣窟でもかまわないのですが、はてなが「猿」の巣窟であってはインフラ、リソースの損失だと思っています。実のありげな議論が起こっているなと思いきや、はてな「猿」が集団でやってきて議論を潰しているケースがほとんどなので。