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はてなキーワード: 思想地図とは

2017-01-15

Twitterはもう普通の人やってないよね 次はどこが流行るのか

思想地図文化系トークラジオLifeなど人文系界隈でも盛り上がってた2007〜2010年あたりのTwitter若者が多くて少し面白かったのに今はつまらない

今はTogetterなんかのノリを見ても「くっさ」ってなる

2chで「ラルキ」って馬鹿にされるツイートばかり

スマホが普及して一気に中年から中高年層が増えたのかジジババ臭い空間になった

社会問題論に関しても前は貧困機能不全家族発達障害共同体による生きづらさについて俯瞰的に語る人が目立ったのに 今は洗脳されて受け売りトンデモ男女論やってる人々のせいで後退した感ある

相対的2chの影響が強まったのかみんな なんJ語やジャップなんて言葉使いだした

英語がわかるならTwitterよりredditdiggや9GAGや4chanやI Can Has Cheezburger?とやらの方が楽しそう

2014-06-13

思想地図に飽きて何で俺はこんな社会性の無いものにハマっていたんだ?という現象に名前をつけたい

あずまんにも飽きた

2011-03-20

http://anond.hatelabo.jp/20110320191536

東が村上隆とつるんでるのって俺の記憶には思想地図と仁義に関するまとめしか記憶にないなあ。

仁義なんて書いてあるけど中身は単なる「筋を通せ」って言うだけの話だったし。

2009-06-06

http://anond.hatelabo.jp/20090529185057

批評の内容がつまらない、ならともかく、批評対象ダメって…批判にもならない…。

本当にこの人、『思想地図』読んでるのかな。『思想地図』にアニメ漫画コンテンツについて書いてる論文どころか、コンテンツについて論じてる論文どれぐらいあったっけ。

映画だろうと純文学だろうとコンテンツについて語らなきゃいけないと縛られてる時点でどうよ。それなら『PLANETS』読んでおけばいいじゃん。

2009-05-29

一年ぶりに読み返した東浩紀は、耐えられないほど悲しかった

ふと目についた「存在論的、郵便的」ぱらぱらとめくり、そして続けざまに「リアルのゆくえ」を読んでみました。すると、「虚しさ」を通り過ぎて、聖なるものが失われた「悲しさ」が漂ってきたのです。どうして、気鋭の哲学者との呼び声が高かった人が一オタク評論家へと落ちぶれてしまったのでしょうか。情報化社会論のあたりはまだ良かったのですが、最近は同じような内容のゲームアニメ評論を繰り返すばかりです。

10年前の彼は、論壇の島宇宙化を打破すると意気込んでいました。しかし今の彼は、思想地図という新たな小島に、彼の信者と共にこもってしまっているではりませんか。

論壇の全体性を回復したいのであれば、思想地図の人々は、マンガアニメを語るのと同様に、オタク系文化と関連のある、純文学映画についても語らなければならないはずです。オタク系が文壇から疎外されているのには同意しますが、自分たちが他の文壇界から距離を取って、「タコツボ化」しては元も子もないように思えます。

若いうちにマスコミに持ち上げられるとろくなことにならないと言います。すっかり東は、それを身をもって示す反面教師となりはてています。彼の惨状を見ていると、ビーチ・ボーイズアルバム、「ペット・サウンズ」にあった歌詞が思い起こされます。「美しいものが死ぬのを見ているのは、なんて悲しいんだ」一人の天才の終焉に、今はもう涙も出ません。

2009-01-24

http://anond.hatelabo.jp/20090124130752

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%bb%d7%c1%db%c3%cf%bf%de

思想地図2について書いてる連中全員スルーしてるな。

都合の悪いところは隠蔽する体質ってはてサ的にどうなのかね。

東浩紀氏と有村悠氏の周囲のクネクネした村社会性について。

思想地図vol2.403ページ

東浩紀

「僕がロスジェネ論壇に対してなぜ違和感を持つかといえば、

彼らは最終的に「経団連の御手洗が……」という話をするわけです。

しかし、常識的に考えて、現在格差社会や貧困の原因が

経団連の判断にあるというのは難しい。

その裏にはアメリカがあり、ひいては世界金融システム

経済システム自律進化があり、すべては複雑に絡み合っているからです。」

はてダ思想地図2に触れている人が全員この発言をスルーして東浩紀氏や思想地図2を褒めているのに、

はてダはてブでの有村悠氏の言及されかたと同質の気持ち悪さを感じる。クネクネした村社会性。

人達はそれに無自覚を装ってるから更に気持ち悪い。

増田痛いニュースが取り上げる2chの方がずっと自由な議論してるんじゃないか。

インスパイア

http://anond.hatelabo.jp/20090124091420

2009-01-03

http://anond.hatelabo.jp/20090103125210

うーん、いまいち大学でしか得られないディープな知識」を念頭においているのか、「批評界隈での価値」を念頭においているのかわからないんだよな。どちらについても突っ込んでおく。

前者の場合、君のアプローチはあまりよくない。「質問」ってのは、前にある質問すべき事柄があって、それに対してするものだが、その前の事柄が<知的探究心のない><頭の悪い屑ども>が大半の受講者である、授業で行われた内容にある程度限定されてしまう。だから、教員の返す回答も、そのレベルを少し超えたものになるしかない。

で、本当にディープな知識ってのは、ほとんど論文という形に独占されてる。だから、ディープな知識を教員から得るとしたら、それは論文を紹介してもらう、もしくは現物をもらうことに他ならない。その教員自体が書いたものにしても、それ以外にしても。それを積極的にやる教員もいるし、やらない教員もいるが、とにかく論文へのアクセスを獲得したら、君の勝ちだし、こればっかりは大学でしか得られない。

あと、君の「本」に関する態度は、少し甘いと思う。「シミュレーショニズム」やら「思想地図」やらに価値を置いていて、テキストなんてだめだって語り口だが、正直大学の知識体系から言ったらどっちもクソ。世の中には論文からスピンアウトしたような本(部数が少ないので高い。文系なら大体3500円が目安)が多数あり、それらからは、比較にならないほどの知識と参考文献を得ることができる。また、それを読むための基礎知識を得るために、またテキストに戻ったりもできる。こういう本を読みこなせるようになれば、もはや君は批評家の言説のほとんどを馬鹿にできる。もちろん、その専門分野においてだが。

もしくは、君は批評家にあこがれているようだが、それなら「思想地図」から入るのは少し分が悪い。なぜなら、あれにはまだそこまで権威もないし、いわゆる一般読者も少ない割には、掲載が難しいと思われるため。かといって、「現代思想」とかのいわゆる思想誌はさらにハードルが高い。

あと、思想系の雑誌重要なのは、人間関係だったりする。「思想地図」の東、北田界隈とかはだいぶ前からかなり凝り固まってるので、その点でも難しい。どちらかというと、雑誌の中心の人間と接触しやすいこと、それが重要だったりする。「ロスジェネ」とか「VOL」とかは意外に門戸が広いんじゃないの。高円寺とか行けば適当関係者と会えたりする。

そのためには、多分無名からは幾つかのステップが必要だろう。その取っ掛かりが、はてなだったりする。まあ個人名を出すのもアレだが、古克とかはそこそこ有名だし、面白い話ができるなら話も聞いてくれると思う(というか彼はまじめ)。あとはオフもそうだし、デモもそうだし、出版に関わっている人間はいくらでもいる。彼らと面白い話ができたら批評記事をどっかで出せるんじゃないの。冬コミでも古克や素人が新刊出してたりしたし。まあ、それが続くかどうかは、あの特有の人間関係に馴染むことができるかどうかにかかっているが。

big mouth」が必要なときもある。自分を追い込むために。

> 自分は今年、批評本を出す。思想地図デビューした後、椹木野衣の「シミュレーショニズム」の続編を書く。

で、そのときのペンネームは?

big mouth」が必要なときもある。自分を追い込むために。

だけど、増田big mouthって。

せめてペンネームだけでも。

http://anond.hatelabo.jp/20090103125210

大学ってもっとすごいところだと思ってた。

自分は現役で合格したところの大学レベルじゃ満足できなくて

一浪してワンランク上の大学に入った。

そうした理由は学歴を良くしたかったっていうのもあるけど純粋勉強がしたかった。

自分天才天才だからもっと伸ばさないともったいない

大学って、もっとこう、門外不出の秘伝を教えるところだと思っていたよ。

あらゆることが系統的に、かつ大学に行かなきゃ絶対に学べないようなのがあるんだと。

でもテキストは市販の本だしそんなことはない。

質問して教授の知を吸い取ろうとするけど専門外はただのオッサン、底が見える。

これなら本を乱読したほうがマシなんじゃないだろうか。

教授の質もバラバラだしこれなら「この人だ!」っていう人を探して

それぞれの大学に潜り込んだ方がいい(実際に四月からそうしようと思う)。

なんかこう、毎日が発見に溢れていて大学じゃなきゃ知り得ないことがたくさんあって・・・

そんな素晴らしい世界だと思っていたのに・・・。

自分は今年、批評本を出す。思想地図デビューした後、椹木野衣の「シミュレーショニズム」の続編を書く。

こんなこと言ったら同級生には笑われるだろう。でも、やるんだよ。

2008-12-09

専門家でない東浩紀歴史修正主義を積極的に批判する義務はない

そもそも、専門的知識を持たないド素人であり単なる思想オタクであるところの「知識人」が、己が「知識人」であるという理由のみで何かについて権威的に意見を述べることのできる時代はとっくに過ぎ去った、というのは東が何年も前から歴史学に限らず様々な分野について繰り返し言っていることで今に始まったことではない。ちなみに、思想オタク云々までは東は言ってないと思うが、早い話がそういうことだろう。

もちろん、歴史修正主義者の主張の誤りを専門的見地から批判すること自体は今でも十分可能だ。しかし、「知識人」であるというだけで歴史学について専門的能力を持たないデブのおっさんに、何かしらの「義務」があるという主張には同意しかねる。それは歴史家(や能力ある有志)の仕事だ。そうでない東が何事かを「権威的に」述べても、思想家としての倫理的にも現実問題としても単なる信仰告白以上の意味を持たない、というのがネット舞台に言論を戦わせてきた思想家の至ったとりあえずの結論なのだろう。

そのような風見鶏的態度は許されない、という批判の傲慢さについては既に批判を加えたので繰り返さない。東の態度は、正否はともかく「公共圏」という概念に対する真摯な取り組みの一つの帰結であることは確かなわけで、そこに取り組まずにいくら「知識人責任」なるものを振りかざしても、議論はすれ違うだけのように思える。なお異論がある向きは、近々刊行されると思われる「思想地図」のvol.2をあたってみるのも良いのではないか。目次を見る限り、おそらく引き続き公共性問題が話題の中心になると思われるので。

「どれだけ絶望しようと対話の中から公共性を見出していこうとする」態度は、個人的には肯定する。しかし、それはやはり自明ではないし、まさに自明であるとすることが「公共圏」の範囲に恣意的な境界線を引くことである、というのが東の議論なわけで。

追記:

http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20081207

焦ることなくちゃんとした意見をまとまった形でネットに掲載すれば、人はいつか読むのだから。情報断片化に対して、あきらめの態度をとるのはいかがなものかと思う。断片化する世界工学的に乗り越える(政治!)、のではなく普通テキスト機関銃のごとく書きつづけるのがホンモノのポストモダニストではなかろうか。

東はしばしば「知識人としての自分」と「個人としての自分」を区別して語っているので、後者としては同意するんじゃないかなぁという気がする。しかし、書籍というパブリックな場における「知識人としての自分」はこういうことを言わないのが思想家倫理である、と思っているフシがある。

繰り返すけど、歴史学に関する専門的な能力のない東が機関銃を手にテキストを撃ち続ける義務がある、とする主張は誤りだと思う。それは、あなたや私や志ある人ややりたい人がやればよくて、そしてそのことには意味があると私も信じる。そのこととは別に、「歴史修正主義者も自分では確固としてそう信じており、その信念を否定するのは難しい」という東の議論は基本的に正しいし、きちんと取り組む必要のある課題だと思う。

というか、「東は正統なポストモダニストか」という論点はあんまり意味がないと思うんですけどね。「東はデリダの教えを受け継いでいない」という主張が真だとして、東の公共性に関する議論を否定できるわけではないし(東が至った絶望というのは東個人がこれまで出会ったものに強く関係しているのだろうし)。もちろん、デリダがどう言っていたかを調べることで、新しい視点が出てくるということはあるかもしれないけど。

2008-11-27

世界」にコミットすべきは誰なのか

http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10137812924.html

 結局、論壇という狭い世界を漂っているなんとなくな言説の「空気」を「世界」だと思っているのよね。

 それじゃ読者にはいつかバレるし、どんどんバレればいいと思う。

最近の彼の書くものを見ながらずっと思ってることなんだけど、東浩紀ほどネット上の言説にコミットして、その結果として悩んでいる人間はいないんじゃないかと思っている。

私が「ゲーム的リアリズムの誕生」を読んで一番印象に残ったのは、その注釈の多さだ。ページの半分が注釈で埋まっている箇所さえある。確かに、360度からツッコミが入る環境で言論を戦わせた経験のある人間が、それを踏まえてなお、己の主張を一冊の本に固着しようとしたら、あらかじめ360度の防衛線を張るより他ないだろう(まぁ、それでも矢はガンガン盾を突き抜けていくわけだが)。

少しでもネットで議論を交わした経験のある人間なら分かると思うが、公の場に自分の主張を出すということは、己がコミットするものが、「世界」から見ればワンオブゼムでしかないことを徹底的に再確認させられる作業だ。情報技術の発達は、あらゆる立場のあらゆる人間が己の主張の正当性を信じているということ、それを可視化することを可能にした。たとえ、その主張が本人の誤解や全くの思い込みに基づいていたとしても、だ。そして人には、それを真実であると信じ、仲間と共有し、異を唱える者を「反公共的人間」として糾弾する「自由」がある。

だから、彼が「南京」を例に出しているのを見たとき、そういう現状を極めて率直に語っているのだな、というのが私の感想だった。彼の言っていることは全く正しい。「世界」に対して真に誠実に向き合うなら、あらゆる主張が「ありうる」という事実を認めるほかない。

しかし我々は、徹底的に相対化されうる「世界」の中でなお、それぞれがそれぞれの理由で「偏り」を持った存在であり、それを解(ほど)くために何かにコミットすることを選ばねばならない。たとえ、そのことに絶対的な正当性がなくとも。そして同時に、己の立ち位置の「根拠」の無さを忘れることなく。

東氏も、最終的にはメタメタから降りて、何かに「あえて」コミットする道を選ぶことになるだろう。けれど、上の文を一読して、そんな彼を悪し様に批判してどうするんだろうな、ということを思った。もちろん、それを言ってる本人やその他の人々やそして私が、東氏の言うジレンマを踏まえた上でなお何かにコミットすべく踏み出していくのは勝手だし、いや、むしろとても価値あることだと思う。

しかし、「お前はなぜそれにコミットしないのだ。風見鶏を気取りやがって!」という批判は、直裁に言えばとても気持ち悪い。何かにコミットする、そしてそこに正義がある、というのは今や自明ではない。もちろん、自明でなくてもヤラねばならないことはある。それはそれで正しい。しかし、上記のような批判には、その二律背反に対する躊躇が全く感じられない。そういう躊躇の無さが、批判的な意味で「左翼的」と呼ばれているなら、その感覚には同意する。

コミットすることの正義」は自明ではなく、しかし、自明でなくとも進まねばならない。この隘路を踏まえずに突き進んでも、全ての言説が相対化されタコツボ化するネット社会において、「利己的な正義」のワンオブゼムとして忘れ去られる以上の成果など残せないのではないか。

東氏が、いつ次のステージに踏み出す気なのかは知らない。我々は、彼の言説を踏まえつつも、それを尻目に黙々と自分の道を歩めばいい。それだけの話だろう。

(追記)

上のエントリが某所で言及されてたのを見て、反射的にコレを書いたんだけど、よく見ると9月の記事だとさっき気づいた。上で「360度」って書いたけど、これは若干語弊があるね。今まさに実証してしまったように、弾は四次元の方向からも飛んでくる。よく、こういう環境で「批評」を、しかもそれを「本」という固着された存在にしようなんて思うよなぁ。

(追記2)

http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20081203#p1

んー、そういう「誤った相対主義」の結果として東の発言を捉えるのはミスリードだと思うんだけどなぁ。そもそも例の発言は、デリダの言ったっていう「ユニバーサル人間理解の可能性」というのは所詮不可能であるし、不可能であることを前提としない民主主義はある意味不健全である、という認識に基づいていて出てきた発言であるように思うので。その辺は、「東京から考える」や「思想地図」を読むと分かると思う。

 
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