はてなキーワード: しろとは
アクションしろって話をしているのに、なんで不倫や浮気のはなしになるのか。就職したいけど未経験です、でも正社員になりたい、でも面接は受けたことないという人に「まずは応募してみたら?」といっているだけなのに、「じゃあ副業禁止の会社で副業してもいいってことか?」といってるくらい的外れだぞ
解雇規制を緩和するならば,派遣は禁止しなければならない。アメリカでは派遣はほとんどないという主張をたくさん見てきたが、あまりピンときていない。
労働政策研究機構のデータ上ではアメリカでは普通に派遣事業者の市場は大きいし、スタッフィング産業に関する論文もいくつかでており日本よりも盛んであるといえる。数よりも市場を見るべきである。
何よりも、解雇規制緩和と派遣制度を一緒くたに考えているのが問題だ。派遣会社が自社の社員、つまり派遣先に送り込む人間をクビにできるようになるわけだが、派遣先の会社はいつでも派遣社員を入れ替えることができるのは変わらない。
そして何よりも滑稽なのが契約社員(有期契約社員)と派遣社員を混同しているやつらが多いことである。雇い止めというのは契約社員に対してであって派遣社員ではない。
むしろ、解雇規制緩和によって派遣会社の数は減るという見解もあり、派遣会社をガンのように見ている奴らにとっては朗報だ。なぜか。そもそも人材の入れ替えを行えないという経営上の課題を抱えていたから派遣や契約社員によって人材の流動性を高めていたわけだ。それが、解雇規制緩和によって解雇しやすくなるということは、派遣会社を通して人材を採用する必要がなくなる。
つまり、派遣会社に支払っていた余分な報酬を直接本人に渡すことができるようになるということだ。つまり解雇規制緩和に反対している多くは派遣会社なんじゃないかと推察する。自分たちの食い扶持がなくなるからである。
加えて解雇規制緩和に対して「人材が集まらない」「働き口がなくなる」、これによって治安の悪化なども懸念があるとの主張もあるが、優秀な人材にはより多くの報酬が支払われ、職がない人は外国人実習生が埋めてきた人材不足の領域に広がるんじゃないかと考える。ゆえに、かえって治安はよくなるという見方もできるんじゃなかろうか。
ちょっと母親の借金癖や精神状態が似てる状況であったのでアドバイスにはならないけど、私の事を書いておきます。
その前に、あなたの状況はよく頑張っているし誇っていいです。
母親の心配や自分より大変な人が居ると言っておりますが苦労は人と比べるものではなく、絶対的なものなので
自分は苦労している、頑張っていると思って自分を大切にしてください。
現在は借金もできず、お金を貸さないので使えなくなっただけ。貯金できてない。
本人は浪費していると思っていないし、生きているならこれぐらい使うのが当たり前とか思っており
この考えは変わらないので変える労力を何か他に使った方がマシ。
ただ、家計状況は最低限把握するため(闇金防止の為)家計簿を付けるようにするのも1年ぐらいかかりました。
現在は月に1度家計簿チェックしていますがここに行くまでにレシート全部取らせて代わりに書いたり、毎日書いているか?
と聞いたりと結構大変でした。
それでも余った金はすぐになくなるので浪費はなくなっていないです。
部屋も片づけができず、たぶん、そういうのが苦手なのでもうあきらめています。無駄です。
お金が無いとなったら米渡したり、食品渡したりをしています。現物支給です。
電気ガス水道は今のところ止まっていないので何とかしているようです。
年金が少ないので将来は生活保護の上、老人ホームに入れとは伝えていますし、そのつもりです。
まだまだ書きたいことはありますが、あまり長くても見づらいのでここまでにします。
AIに論考形式でいろいろ書かせてみた。段落の最初の文の冒頭だけワイが指定した。
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自由意志、構造主義、そしてポスト構造主義における個人と構造の関係性
実存主義における自由意志と責任の関係は、単に自己の選択と形成を重視する思想にとどまらず、倫理的責任や存在論的な自由の問題と密接に結びついている。サルトルの主張する「実存は本質に先立つ」という命題は、従来の哲学が定めた固定的な本質観を否定し、個人が自らの行為と選択によって存在を形作るという、根本的な自由の重みを強調するものである。自由は自己決定の解放を意味する一方で、絶え間ない責任を伴う「自由の呪い」としても捉えられる。これは、選択の余地が存在しない場合でも、その不作為が一つの選択と見なされるためであり、したがって、個人は常に自己の行為に責任を負わねばならないという倫理的要請に繋がる。
これに対して、構造主義は自由意志に対する重要な批判を提示する。クロード・レヴィ=ストロースは、個人の選択や行為が無意識的に働く文化的・社会的構造によって強く影響されると主張し、これにより自由意志の概念を限定的なものとする見解を示した。レヴィ=ストロースは、神話や親族関係に見られる普遍的な構造を明らかにし、これが人間の行動を規定するという視点を提供した。彼の主張によれば、個人の選択や意識的な決定は表層的なものであり、より深層にある文化的な決定が根本的な影響を及ぼすとされる。この立場は、実存主義が強調する自由意志の重要性に対する強力な反論を構築しており、自由意志がいかに文化的・社会的構造によって制約されているかを示唆するものである。
ポスト構造主義やポストコロニアリズム、ジェンダー論の視点では、構造主義のアプローチに対する再考と批判が進められた。ポスト構造主義者たちは、レヴィ=ストロースが提唱したような普遍的な構造や法則が必ずしも固定的でないこと、むしろ歴史的・文化的な文脈に応じて変動し、多様な解釈が可能であることを強調している。ジャック・デリダやミシェル・フーコーといった思想家たちは、構造が流動的であり、安定した「本質」や「真理」が存在しないと論じた。デリダの「差異」や「痕跡」の概念は、言語や意味が常に変動し、固定的な本質が存在しないことを示し、フーコーは権力と知の関係が文脈によって変化し、固定的な構造に依存しないことを明らかにした。こうした視点は、構造主義が提示する普遍的構造の概念に対して、より流動的かつ歴史的な理解を提供するものである。
ポストコロニアリズムの視点からは、レヴィ=ストロースの普遍的構造という考え方が西洋中心主義的であり、他の文化や価値観を一方的に押し付ける危険性が指摘されている。ポストコロニアリズムは、特定の文化や社会に根付く価値観や規範が、あたかも普遍的なものであるかのように扱われることで、植民地主義的な支配や抑圧が正当化されるリスクを指摘する。この視点は、構造主義が提示する普遍的な枠組みが、他の文化や価値観を不当に排除し、支配的な立場を強化する可能性があることを示しており、文化的相対性や多様性の重要性を再認識させるものである。ポストコロニアリズムの批判は、構造主義が持つ普遍的な枠組みの限界を浮き彫りにし、より包括的で多様な文化理解の必要性を訴える。
ジェンダー論においては、ジュディス・バトラーがジェンダーのパフォーマティビティを強調し、ジェンダー二元論自体が構造的に強制されたものであり、固定的ではないと論じた。バトラーの理論によれば、ジェンダーは単なる固定的な属性ではなく、社会的な行為や表現によって常に再構成されるものである。彼女は、構造が個人を規定するだけでなく、個人の行為がその構造を再生産し、時には変化させる可能性があることを示した。この視点は、自由意志の役割を再評価するものであり、個人が構造に対して持つ能動的な力を強調する。バトラーのアプローチにより、レヴィ=ストロースの固定的な構造観に対する批判が深化し、個人と構造の関係についての新たな理解が模索されるようになった。ジェンダーのパフォーマティビティは、構造と個人の相互作用の複雑さを明らかにし、自由意志と社会的構造との関係を再考するための重要な理論的枠組みを提供している。
このようにして、実存主義、構造主義、そしてポスト構造主義は、個人と社会的・文化的構造の関係をめぐる議論において、それぞれ異なるアプローチを展開してきた。実存主義が自由意志と自己形成を強調する一方で、構造主義は文化的構造の決定力を指摘し、ポスト構造主義とポストコロニアリズムはその構造の流動性や文化的相対性を明らかにした。ジェンダー論はさらに、構造と個人の相互作用を再評価し、個人の行為が構造に対してもつ潜在的な力を示すことで、新たな地平を切り開いた。こうして、自由意志と構造の関係性に対する理解は、固定的なものではなく、歴史的・文化的文脈の中で絶えず問い直され続けている。
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デリダの項は差延でよくない?とか、ポスコロの部分は構造主義はもっと功罪入り混じる感じだよなーとか、ジェンダー論の項はバトラーの説明によりすぎているし、レヴィ=ストロースへの批判自体は重箱の隅をつつくようなもので、レヴィ=ストロースへの批判的読解(同性愛差別を再生産する構造)はバトラー以外に適任いるよなーとかあるけど、いい感じにAIがまとめてくれた。
いろいろ試したけど、ポスト構造主義の文脈でフェミニズムやジェンダー論尋ねたら聞いてもいないのにバトラーのパフォーマティビティの説明される。AIはバトラー信者だろ。バトラー信者な割にノンバイナリーのバトラーに彼女という代名詞使ってて草。
酒飲め。家じゃなくて店で飲め。テーブル席の居酒屋じゃなくてカウンターの店やスナックだ。酔った勢いで店主や客に話しかけろ。週に2日行け。常連になれ。酒で失敗しろ。それでもまた行け。店は慣れっこだ。スナックの女とは付き合うな。お前はむいてない。
そうやって人に慣れたらマッチングアプリやれ。
失敗してもいい。次の相手に行け。それができないのがお前の問題だ。
その書中において述べられるところの名文とは、単に美的であるのみならず、情緒に満ち、描写が巧みであり、さらにその文章が臨場感を伴うことにより読者の心に深く響くものである。美しさとは、単に言葉の装飾ではなく、内在する構造の確かさに拠るものであろう。
澁澤龍彦が幻想小説において「幾何学的に書くべきである」と言ったと記憶している。幾何学的とは、感覚的に直感する美麗さと秩序を持ち、その形態は正確かつ普遍的である。正三角形が持つ完全性は、内角の和が常に180度であるという確固たる定理に支えられている。これは、いかなる変形にもかかわらず揺るがない事実である。その普遍性こそが美であり、幾何学的美しさの本質を成す。
このように、文章にも同様の美的秩序が存在するのではないかと考える。たとえば、三角形の定理を文章に適用するならば、各要素が一貫して調和する様は正三角形のごとくである。三角形の三つの頂点に当たる要素は、物語の構造、感情の動き、そして読者への影響であろう。この三者が均衡を保つとき、文章は完全な形となり、名文と称されるに値する。
恋愛においても、幾何学的な要素が見て取れる。愛する者、愛される者、そしてその間に存在する感情。この三つの要素が整ったとき、恋愛は完全な形を成す。しかし、その一部が欠けたとき、三角形は不完全となる。非モテであるという状況は、その三つの内角が揃わず、歪んだ三角形のような状態である。だが、その歪みの中にも、何らかの秩序と美しさが宿っていることを認めざるを得ない。
幾何学的な美しさは、完全性の中にのみ存在するのではない。むしろ、不完全な中にも美しさは潜んでいる。それは、欠けた部分があるからこそ生まれる緊張感であり、そこに宿る秩序の欠如が逆説的に美を生むのである。モテないという状況も、ある種の幾何学的な不完全さであり、その不完全さが一つの形を成し得る。
私は三角形になりたいと願う。完璧であり、無駄がなく、全ての要素が調和している。しかし、不完全なままであることもまた一つの形であり、その不完全さの中にこそ真の美が宿っているのではないか、とも思うのである。
幾何学的文章の美しさとは、表面上の整合性だけではなく、そこに潜む感情や臨場感をも含むものである。その幾何学的な秩序と情感の融合こそ、真に名文たる文章の本質であろう。
全然関係ない増田でフリーっていう競泳アニメのポスター貼られてて思い出したんだけどさ(以下フリー関係なし)
あれすごく変だった、嫌とまではいかないが
実写でそこにあるべきものがないの
他とか過去とかはどうしてる?と思ったらジャージ着てたり、顔だったり、競技中のそもそも乳首映らないアングルだったりでそこらへんは違和感なかった
消しゴムマジックとか流行ってた時期だったと思うし時勢に乗ったのかなと思うけど、個人的にはやめてほしかったな
と思いました
クソ下らん感情なんだけど
こういうのは大抵サブカルチックになって
年齢が上がって「格好つけ」が難しくなると
30代になってオタクを続けられなくなったとか勝手に語りだすタイプ
総じてクソ
最近は自治体で義務付けられているせいか、大体の場所に障害者用トイレが設置されている。
障害者用トイレ改め、多目的トイレなので、当然健常者も利用していい。むしろ推奨すらされている。
しかし皆良心が傷むのか、単に知らないのか、あまり使わない。よって、割とキレイ。
約2年前に鬱病だと診断された。新社会人になってもうすぐで1年って頃だった。
最近やっと症状が落ち着いてきて、断薬中だからここら辺で吐き出すためにも書こうかなと。
中高生の頃から「自分はマイナス思考な人間なんだろうな」くらいに思って生きてきてたから、まさか鬱病と診断されるとは思ってもいなかった。
え、私のこのマイナス思考な感じって病気だったの?って。びっくりした。
病気だと診断されて色々調べたり考えたりしていくうちに、私が鬱病になった理由が家庭環境だということに気がついた。
世の中には私より酷い家庭環境で生きてきた人もたくさんいるだろうし、もっともっとつらい人がいるのもわかってるから、不幸自慢がしたい訳じゃないよ。本当に色々整理したいだけ。
もし同じような経験をした先輩がいたらアドバイスが欲しいです。
あと、お前間違ってるよってのがあったらそれも教えて欲しいです。よろしくお願いします!!
最近は断薬のせいか離脱症状らしき不調があってしんどいけど、なんとか生きてるよ〜!
見方によっちゃ全然毒親じゃないのかもしれないし、全てが親のせいじゃないこともわかってるんだけど、やっぱり親が原因で私は病んだと思ってる。
というか、そう言い聞かせないと自分を責めすぎてしんどい。それに親が病んだ原因と思いつつも、両親のことは嫌いになれない。むしろなんだかんだ好き。だから余計辛い。いっそのこと大嫌いだったらよかったのに。
お父さんに対してはもって話を聞いて欲しかったし、褒めて欲しかったなって思う。お父さんはまず否定から入るタイプだったから親身に話を聞いてもらった覚えがない。「どうせ否定される、怒られる」って思ううちにお父さんに本音を話すことが出来なくなっちゃった。それに褒められた記憶がほぼない。怒られた記憶ばっかり。
私が察しと要領の悪い子供だったのもよくないけど、子供に顔色を伺わせる親ってどうなのよ。自分の機嫌は自分でとってくれって過去のお父さんには言いたい。
でも最近は歳をとったからか知らんけどなんか優しい。丸くなった。たまに連絡がくるけど「仕事は続いてるか」とかそんなことばっかり。
クリエイター系の職種を目指したいって打ち明けた時はめちゃくちゃ怒られたのに。結局大きい企業に就職できたからか否定されることはなくなった。
そこに関してはムカつく反面、ちょっとスカッとしている自分がいる。
私だってやれば出来るんだぞ、的な。
お母さんに対してはもっとちゃんとしっかりして欲しいと思う。母親らしく、というか金銭面とか家事を毎日やるとか。
今だから笑い話にできるけど、高校生の時に家に帰ってきたら電気がつかなかったことがある。電気代を滞納してて電気を停められてたらしい。支払いも私が代わりに行ったし、再開のお願いの電話も私がした。
なんのための母親なんだろうね。
仕事で疲れてるのもわかるけど、ご飯がコンビニ弁当とか惣菜とかばっかりもしんどかった。高校でクラスメイトが手作り弁当を食べるなか、1人だけ片親パンなの恥ずかしかったし。だから料理を覚えたのは自分でも偉かったと思う。弁当も作ってたよ。
私とお母さんはいい意味でも悪い意味でもかなり似てるから、きっとお母さんも鬱病だしADHDなんじゃないかな。
不動産やとか建築業者が戸建てを紹介するルームツアーというジャンルの動画がある。
あれはなんで間取り図を載せないんだろう。
間取り図を載せるのが手間なのか、見たいと思うのは俺だけなのか。
ハウスメーカーのサイトを見ると、間取り図のサンプルを見たかったら個人情報を登録しろって強気な態度だから見たい人は多いような気がするが。
『適当に生活してて、たまたま好きな人ができて相手も自分のこと受け入れてくれれば付き合えばいいし、できなければできないで別にそれでいい』
これだろうなぁ
見た目や内面がちょっとアレでも彼女がいたり結婚したりしてる人って結局女性にがっつく人か、
全然違う自分を偽って柄にもなくクラブへ繰り出してナンパしろとかそういう話じゃないんよ
気の合う~に心境が変わったように、この先30代中盤以降で「やっぱり10年後20年後に1人は嫌だ」と思ったときに