はてなキーワード: ポストモダンとは
最近、二次元に魂を奪われ二次創作に萌える二次豚とでも呼ぶべき存在どもが、「公式が勝手に言ってるだけ」「原作とアニメで言ってないだけ」という種類の鳴き声を発明した。
歴史学などの一部学問においてはこうした態度が倫理的に要請されてきた、ということはニコニコ大百科でも指摘されているが、そもそもこうした態度はここ半世紀ほど「文学」「テキスト」「作品」といった物事を専門家が語るために用いられてきたものがほぼ起源であろうと思う。「テクスト論」と呼ばれるものがそれである(構造主義の話はしません)。
すなわち「勝手に言ってるだけ」「言ってないけど言ってる」は、文学者がこの半世紀格闘し続けてきたテーマなのである。ちなみに本稿は、加藤典洋『テクストから遠く離れて』をなんとなく参考にして書かれたので、興味のある方はそちらも読まれるとより楽しいかと思う。
さて、半世紀ほど前まで、たとえば夏目漱石の作品を批評する、ということは「それを書いた当時の夏目漱石の思考に限りなく接近する」ということとほぼイコールであった。平たく言えば「作者の気持ちを考える」ことが批評家の仕事であった。友人の噂話やら本人の秘蔵のメモ書きやら、ちょっと引くくらいの何もかもを動員して「唯一の答え」=「漱石の意図」に接近しようとした。
これは当時に特異な現象ではなく、それまで人間と「ことば」の関係は大体においてそんな感じであった。人類史上のベストセラーである聖書の読み解かれ方を考えてみればわかるだろう。聖書には○○と書いてあるが、これは当時の××という慣習を踏まえなければ正しく読み解けず、「正しい教え」は△△せよ、という意味になる、という研究は数限りなくされてきたし、今も続いている。
聖書にせよ漱石にせよ、ここでイメージされているのは「正解」というもの(難しく言いなおせば「真理」といってもよい)が遠くにあり、我々は「ことば」というヒントでありフィルターでもあるものを通してそこに接近していく、という構図である。
これは我々の日常的な「ことば」の使用から考えてもごく自然なことだ。たとえば日本語話者のあなたが「八百屋さんの隣にあるポストに手紙を入れてきて」と日本語話者である子供に頼んだとき、その場で子供が八百屋と反対方向に歩き出したら、あるいはその場で手紙を破いて食べ始めたら、あなたは「言葉の正しい意味」「子供がたどり着くべきだった正解」についてこんこんとお説教をすることになるだろう。
これまでの「公式」に対するオタクの態度もまた、まさしくここに連なるものと考えてよいと思う。たとえば「エヴァの世界で公式に起きたこと」にアニメや劇場版を通してよりよく接近していこうとする、というのは聖書研究者の態度そのものである(ちなみに「公式」とファンダムの関係をもってしてオタク文化を特異なものとする東浩紀「データベース消費」などの理論もありますが、例も反例もいくらでも出てくる類の話なのでここでは触れません)。
話は半世紀前の文学研究に戻る。ソシュールという言語学者が「一般言語学講義」という10人くらいしか出席者のいない講義を行い、ソシュール死後、その講義にも出てなかった全く関係ない奴が学生のノートをもとにソシュール『一般言語学講義』として出版し、これがコペルニクス的転回にもならぶ「言語論的転回」のはじめとなった。
聖書や漱石の研究など、ソシュール以前は「世界が言葉を作った」とされてきた。されてきた、というか、それ以外の考え方が無かった。わたしたちが「あの赤くて木になってかじると甘いやつ」に「りんご」と名付けたのであって、「りんご」という言葉がまずあって「あの赤いやつ」が後からついてきたわけではない(全くの余談だがりんごと机はこのジャンルの議論で酷使されすぎだと思う)。
それに対して、「言葉が世界を作った」と主張するのがソシュールを祖とする「言語論的転回」である。ソシュールが言ったのはあくまで言語の話で「あの赤いやつと『ri-n-go』の結びつきって別に絶対的じゃなくて、appleとかpommeとか見ればわかるけどたまたまだよね」という程度のことではあった。しかしそれは十分に革命であった。あまりに革命的だったために世界が驚くまでに半世紀を要し(講義は1900年代はじめだった)、さらに半世紀経った今ようやく振り返りがなされつつある。本稿で扱うのは、世界が気づいてからの文学理論の最近半世紀である。
それまでの哲学(世界観と言ってもよい)においては、言語の研鑽によって「正解」「真理」にたどり着けると思われていた。しかし「たまたま」のものをいくら研ぎ澄ませたところでその高みに至る日がくるものだろうか?
よく言われるように、日本人は虹を7色で数えるが、外国人は5色で数える。この差の2色というものは本当に「ある」のだろうか?といった問題は一見トリビアルで退屈なものである。だがさらに進めて、そもそも「日本人」というものは「日本人」という言葉よりも前から「あった」のか?と問うと大昔の言語学の講義がいまなお強烈に突き刺さってくる。
これは今日でも大問題ではあるが、半世紀前の文学研究にとっても大問題であった。確かに、それまでも言語というものがそんなに主人に忠実でないメッセンジャーであることは知られていた。しかし言語論的転回は、メッセンジャーこそが主人である、としてしまったのである。その理由は以下のように明快である。我々は言語の向こうの対象(「真理」)に近づこうとしてきた。しかしソシュールいわく言語と対象の結びつきは「たまたま」である。我々が触れることが出来るのは言語のみである。ならば、「たまたま」で検証不能な真理などというものを求めるのではなく、言語が言語として我々に何を訴えかけてくるのかこそをガクジュツテキにケンキューすべきである!と。
冗談のような本当の話なのだが、ここ半世紀、世界中の文学研究者はこぞって「公式が勝手に言ってるだけ」「原作とアニメで言ってないだけ」と言い続けてきた。専門用語でこれを「テクスト論」における「作者の死」という。本当にそういう専門用語がある。
もはや書きぶりから嫌いと蔑視がにじみ出てしまっているが、しかしこの半世紀くらい、この潮流は世界中の識者におけるブームないし真理とされつづけ、最近になってようやく揺り戻しがきている。
二次豚でも簡単にわかることだが、これを言い始めると「公式見解」が意味を成さなくなり、要するにきりがなくなる。しかしこれはある意味正当なことでもある。「全ての『公式見解』が正しいか」と問われれば、とくに今日であれば即座にNOと答えることができる。なぜならもはや「公式」と呼ばれる以上はもはや庵野や富野といった個人ではなく、分業化された組織であるからして、そこには作品世界という真理からの誤差、ノイズ、エラーが当然のものとして含まれうる。最も軽薄でありがちな事例として、公式Twitter担当者が調子に乗って後に撤回する、という事例を挙げておけば十分だろう。
しかし、かつてのテクスト論者たちが正当にも考えたように、庵野や富野すなわち「作者」個人だってべつに無謬ではありえない。すなわち彼らとて(限りなく比喩としての意味合いが薄くそのままの意味での)「神」ではないのだから、それを絶対視する必要は無くなる。むしろ「作品」は1文字、1フレームに至るまで確固たるものとして存在するのだから、そちらから何を導けるかが重要である、とテキスト論者は考えた。さらには一歩進んで、「作品から導かれたわたしの感情」が重要だと考える「読者反応理論」というものも生まれた。
上で「きりがなくなる」と書いたが「何でもありになる」とは微妙に異なることに注意されたい。これまで「訴えかけてくる」「意味する」「導く」などとこっそりごまかして書いてきた部分についても、文学研究者は鋭くメスを入れた。すなわち形式としての言語がなにを「意味する」(またこの言葉を使ってしまった!)かについて、激しい議論が戦わされた。つまり、「シャミ子が悪いんだよ」は「原作とアニメで言ってないだけで実際は言ってる」という解釈はまあアリだが、「桃が悪いんだよ」は「言ってないし実際言ってない」という我々の直観をいかに正当化するかについて、涙ぐましい努力が続けられた。
しかしそうした努力にもかかわらず、論理学や数学(それぞれ「たまたま」じゃない言語として期待されていた)が発達した結果、クレタ人のパラドクスやらゲーデルの不完全性定理やらでそこまで簡単ではないことがわかってきた(ここでは「簡単ではない」と注意深く言ったが、知ったかぶりで「数学は不完全だと証明されたよね」と言うと凄まじく怒られるので注意)。
かくして文学研究者らはそうした論理的数学的理論を縦横無尽闊達自在に引用した結果、文学の「正解」を「何でもあり」にした。現在蔑称として使われる「ポストモダン」という思想潮流は、大体この辺のことを指していると思う。
しかし、文学の「正解」が「何でもあり」であっていいものだろうか。蔑称とか揺り戻しなどと何度か言っているように、今日の文学理論は素朴な「作者の死」論には与せず、いくらかの距離を取っていることが多い(『テクストから遠く離れて』はまさしくそうした書物である)。しかし昔と違って「神」のことばこそが「正解」であるとも考えない。そもそも「正解」があるのかどうかもわかってはいない。いまの研究者は、グラデーションの中のどこかに、自分の場所を見いだそうと必死になっているのだと思う。
だから、「公式が勝手に言ってるだけ」「原作とアニメで言ってないだけ」と2022年に言っている人がいても、笑おうとは思わない。「彼/彼女はこう思う、と私は思う」という感情=想像力こそ、人間が発明した最も大きな発明であり、誰しもまだそれを持て余しているのだから。
最後に
これを書いた人(@k_the_p)は無職で、仕事を探しています。Pythonとかほんの少しできます。よろしくお願いいたします。
「ザ・ピープル(国や民族や階級で差別しない)」の平等や人権が世界常識。
「国民」━━自国と自民族だけの平等や人権というおかしな条文は🇯🇵だけ。
国民でないガイジンに平等や人権がないという頭のおかしい発想も🇯🇵だけ。
そのクセ、憲法の英訳では「国民」を「the people」にしてる。
ザ・ピープルなんて主義以前の常識なんで、君主制のクニでも知ってるよ。
「The」をつければ【人を国や民族で区別しない意味】と子供でも知ってる。
【民】━━目を突かれた奴隷。
「国家(帝国豚小屋)」「国民(帝国奴隷)」を語る汚らわしい島🗾。
「恥」「世間」「努力」「頑張る」「仲間」「仲良し」「甘え」は海外にない価値基準。
でも、🐷はウソ翻訳、ウソ字幕、ウソ吹き替えをうのみにしちゃう。
ドイツ国家、アメリカ国民、フランス人民等の失礼はやめなさい。
ホームはブラザーを「兄と弟」に分けない、シスターを「姉と妹」に分けない。
ホームに「年上と年下」「先輩と後輩」「目上目下」の年齢不平等はない。
「自然」はウソで、日本のタテ社会は人工的で家畜的なカースト制度。
ジャパニーズの権利と平等と努力はすべてウソ。誰も頑張っていない。
ジブリも鬼滅も進撃もワンピもFGOもFFも何万のなろうも差別用語だけ!
「兄弟姉妹」「先輩後輩」「皇帝」「教皇」「王」「大臣」「国民」
の偽ホーム、偽ネイチャー、偽ファンタジーで子供を洗脳するだけ。
リアルで具体化しない、フィクションで物語化しない。どんだけ怠けるの?
「ネイチャー」「ホーム」「ブラザー」「シスター」すらわからない。
ピープルやパーソンやインディヴジュアラティの「ヒト」すらわからない。
ヒトとクニとイエがわからない16億の🐷🔗とか嫌すぎる。
まずは姉なる“日🇯🇵”って不平等なニセ太陽を改名しないとな。
憲法。和。恥。自然。世間。努力。頑張る。仲間。仲良し。甘え。
腐フェミがBLを肯定しながら他の表現に文句言うのはもうしゃーない
本題から外れた部分が気になったので指摘しておく。
東浩紀なんかのゼロ年代批評にオタクが乗っかって世間にバカにされないように理論武装してオタクを肯定するムーブメントもアホくさいなーって思ってたけど、
東浩紀の『動物化するポストモダン』を実際に読めば分かるが、そこではオタク向けのアニメやらマンガやらゲームやらが取り上げられてはいるものの、オタクそのものは徹底して「彼ら」のような形でよそよそしい扱いをされている。東浩紀にとって、オタクは自分(近代人)とは異なる「他者」(ポストモダンに過剰適応した新人類=ミュータント)でしかないのだ。
そして、オタク向け作品の評価に関しても、よくよく読むと実のところ素直に高く評価しているわけではない。言葉の上では褒めているように見えるが、それは奇妙なものに対するオリエンタリズム、いわば日本を訪れた西洋人が「猿が家を建ててる!すwごwすwぎwwwww」とはしゃいでいるような状態に近い。いざツッコまれたら、いや?褒めてますけど?というポーズを取れる、責任を負わずに済む形の巧妙な批判なのだ。
(後発の宇野常寛がそれを逆手に取って、わざとベタに「東浩紀は泣きゲーなんかを持ち上げてる陰キャのザコ」と解釈してみせたのも批評ゲームのテクニックとして上手かったし、その後両者が野合したのも必然だった)
これは東の読者においてもほぼ同様で、彼らの自己認識は基本的に「自分はオタクではない」もしくは「オタクだが『普通のオタク』とは次元が違う」といったところにあった。この、
という線引きによる選民意識の刺激こそが、東浩紀のオタク批評が成功した最大の理由だ。
はっきり言えば、ゼロ年代オタク批評というのはどれだけオタクを小馬鹿にできるか大会のことだった。支持者たちの中身も実際にはただのオタクでしかなかったとしても、ムーブメントとしてオタク文化全体の地位向上といったものを志向していたわけでは全然ない。「オタク」を俯瞰的に見る(ポーズを取る)ことで、自分の価値を高めようと争っていただけだ。
元増田の「世間にバカにされないように理論武装してオタクを肯定するムーブメント」というのは不正確な言い方であり、よくある誤解だ。それだけが言いたかった。
1964年のピューリツァー賞を受賞したRichard Hofstadter(1963) “Anti-intellectualism in American Life”は40年後の2003年に日本語訳が出版された。
「反知性主義 (Anti-intellectualism)」という言葉が内田樹などにより、日本で普通に用いられるようになったのは2003年以降のことのようだ。
アメリカのポストモダン文学を代表する小説家Robert Cooverの最も重要な作品である1977年出版の”The Public Burning”にいたっては未だ日本語訳が出版されていない。
こういう本を読むとき「英語を読むことができてよかった」と感じる。
フランス語の場合は反体制とは関係なく20世紀の重要な著作でも日本語訳されないことがしばしばあるようだ。
さらには、重要な著作なのに英語訳もされないことも、しばしばあるようだ。
例えば、ガストン・バシュラールの一連の著作がそれに該当する。
僕はフランス語の本の場合、1冊読み終えるのに数百時間かかってしまう。
従って、上記のような興味深い作品でも、それを読む時間を捻出することはとても困難だ。
本当にとても残念だ。
おっさんが飲み会で真実の愛について延々語るだけなので、哲学書の入門編にいいんじゃないかな。楽しそうにしてるおっさんはいいぞ。
どうしてフィクションで人は感動するかについて述べた本の走りで、後半は散逸しているんだけど、カタルシスについてはなるほどなあ、とは思った。作家になりたいんだったら普通にハリウッドの三幕構成の本を買ったほうがいいかもしれないが、この読書リストを読んでいる人は実用的な知識よりも読んでいて楽しいかどうかを求めている気もする。
読もうと思ったまま長い時間が過ぎてしまった本で、まだ読めてない。アウグスティヌスが若いころややりたい放題やっていた時期のことも書いてあるらしいので、宗教書として以外にも楽しめるんじゃないだろうか。
塩野七海がエッセイですごく推していたから読んでみたけれども、普通に面白い。例えば、中途半端に生かしておくと復讐されるから、いっそとどめを刺しておけ、みたいなことが書いてあって、優しいと人から言われてしまう自分には大いに刺激になった。ところで「孫子」もそうだが、戦争や政治学について書かれた本はたいてい「そもそも戦争は大悪手で、戦争になる時点で何かやらかしてる」という趣旨の言葉があり、全くその通りだと思う。
未読なんだけど、結婚とはある種の契約なんだから、まず処女と童貞がお互いに裸を見せ合ってからだ、みたいなディストピア的な描写もあるらしく、ディストピア文学好きの人は楽しめるんじゃないかな。あとは非モテ界隈の人とか。実際、完全な平等な社会を目指そうとするとどっかしら歪みが出るもので、それについて考えるのにも使えそう。
自然科学的な考え方、ロジカルシンキングのマニュアル。長くないのですぐ読める。得るものがあるかどうかはわからないけど、逆に普段している論理的思考がそもそも存在しない時代があったことは、実感しておくと歴史を学ぶ上で面白いかも。
平凡社の上巻を読んで挫折。純粋な理性っていうけれども、ヒトの心にはデフォルトで時間とか空間とかの枠組み、基本的な概念が組み込まれているよね? 的な話をやたら細かく述べていく内容だったように記憶している。長いので三行でまとめたくなる。
この本に限らず、いくつかの哲学書は「この本さえあればあらゆる哲学的論争をおしまいにできる」「この本からあらゆる結論が導き出せる」的なスタンスで書かれたものが多い印象。
エヴァヲタなら読まなきゃという謎の義務感から読んだ本。要は、どうすれば自分を信じることができるか、について語った本であったような気がする。自分は救われないだろうという絶望から、それでも神を信じるという境地に至るまでの道筋を延々と語ったようなものだった、はず。
自分は特定の信仰を持たないが、どうせ自分なんてと己を見捨てた境地から、まあ自分は自分だよね、的な気分に至った経験がある人が読むと楽しめるだろう。
「善悪の彼岸」と「ツァラトゥストラはかく語りき」なら読んだ覚えが。自分はカトリックの中高一貫校出身であったせいか、キリスト教思想にある欠点を指摘したこの本を面白く読んだ。キリスト教になじみがなくても、たとえば来世があると考えることで現在を生きることがおろそかになるといった指摘は、興味深く読めるんじゃないだろうか。あとは、増田で定期的に出てくるルサンチマンがどうこうとかいう話が好きな人にもおすすめ。マッチョぶってるところはあるが。
新潮文庫の「夢判断」「精神分析入門」「トーテムとタブー」「一神教の起源」なら読んだ。フロイト自身はヒトの心を脳から探りたかったらしいのだけれど、当時はMRIやら何やらはまだないので対話式の治療法を導入したらしい。
彼の理論は今となってはツッコミどころがたくさんあるのだろうけれど、クラインだとかビオンとかについて触れるなら頭に入れておきたいし、心理学特にパーソナリティ障害について読むなら知っておきたい。自分はフロイトやアドラーよりもユング派だが。
ラブストーリーの「ナジャ」だけ読んだ。謎めいた女のあるある的な話だ。
「論理哲学論考」だけなら読んだ。これもカントみたいに「俺が哲学のくだらない争い全部終わらせてやる」的な立場で書かれている。定理がずらずら並んでいるだけで、余計な表現がなく、簡素。
ただ、言語の限界について今の人が持っている感覚ってのは大体この時代の人が言っていたことだった気がするし、そういう意味では面白いんじゃないかな。この辺は数学ともかかわっていて、ペアノとかゲーデルとかヒルベルトとかその辺興味があったらいかがでしょう。
ちなみにウィトゲンシュタインがポパーとの議論でキレて火かき棒を振り回したヤバいやつだというのは哲学界隈では有名らしい。
シン・ウルトラマンの予告編でちらっと映っていたので読んだらいいかもしれない。
この本そのものは未読で「悲しき熱帯」ともう一冊なんか専門書を読んだことは覚えている。面白かったエピソードの一つは、ある民族は身分を入れ墨にするんだけど、入れ墨のない人間(白人たち)を見て面食らう。要するに身分証明書を持ってないようなものだから。
定期的に異民族と共に暮らすドキュメンタリーが読みたくなる性分なのだが、それはたぶん、自分のやり方や考え方が絶対じゃないってことをよく教えてくれるからで、これも本を読む効用の一つだろう。趣味なので効用なんて本当はどうでもいいが。
面白い。僕自身のスタンスとしては、日本人が海外で誤解されていることを批判するんだったら、自分も外国に対する偏見や無知を減らそうと努力するのが筋だと思っていて、それの理論的な補強をしてくれた本。身近に外国人の多い環境ではないが、すぐに役に立たないからと言って読まないというのはなんか違うんじゃなかろうか。自分はイスラーム世界やインドについて、どれほどわかっているのだろう?
どっからがいきでどっからが野暮なのか、直方体を使った図があった気がするが忘れた。
「遠野物語」しか読んだことがないし、それも「マヨヒガ」のことしか覚えていない。
自分が現代思想に出てくる名前がわからなすぎて最初に読んだ本の一つ。四コマ漫画だがかなり本質をとらえており、いしいひさいちの本業は何だったのかよくわからなくなる。素直に笑っておきましょう。勉強ってのは楽しみながらするもんだ。
上のリストでは省略した20世紀哲学者が実名で登場するミステリなんだけど、フーコーがサウナで美青年とイチャイチャしたり、七十年代の音楽を聞きながら薬をキメたりしているので、現代思想だのポストモダンだのをかじったことがあるならおすすめ。著者がやりたかったのは、たぶん上の世代の脱神話化というか、強すぎる影響の破壊なんだろうけれども、ここも素直に笑っておくのがいい。
以上。
いやたしかに日本の仏教がふにゃふにゃなのは同意なんだが、大乗仏教の歴史をざっと見ると、龍樹とか世親とかのビッグネームがいるじゃん
こいつらが説いた理屈はかなり強度がありそうに思えるから、潜在能力としてはなかなかしっかりした教理がありそうに思える
ポストモダンというのは基本的に「色即是空」としか言っていない。
仏教はそこから「空即是色」としてこの世界を引き受けようとするところがある。
ポストモダン的に言うと、すべてのものには本質や根拠、意味なんかなくて、単に名前をつけられた存在にすぎない。
でも仏教は、であるが故にこの世の中をどういうふうに引き受けるのか、この現世の中で意味ある生を生きていくのか、その精神をもう一度問う。
大乗仏教はプレモダンのように思えて、実はポストモダンを超克し得る可能性があるらしいんだわ
(色即是空空即是色つってるからここで言及されてる「仏教」は大乗仏教のことだわな)
こんな感じで、上座部を現代思想として捉えたとき、どういう視点を提供できるのかについてわりと気になってるんで、詳しい人いたら教えて欲しい
今の時代、若書きが通用するのって小説だと純文学とライトノベルだけだよ。
で、なんでそういうことが日本の文芸だけで起きるのかっていうと、出版社が一種の芸能事務所化しちゃっている日本の特殊事情に原因がある。
海外では基本的に在野のエージェントを通すなどしてそれなりに選別されたうえで出版するかどうかが決まるから若くしてデビューと言っても日本ほど早くないし、また欧米は特に文学の全体を貫く文化的な文脈があるから批評家が機能していて、文学理論を無視した雰囲気小説は全く評価されないので学んでいない勢いだけの作家は頭角を現しづらい(ほぼ不可能)。
日本の現代作家ってあんまり文学理論学ばないからそもそも世界的にはレベルが低いんだけど、とりわけ純文学は作家が育たない。その原因は80年代ごろから顕著になるけど出版に広告代理店が絡んでマスメディアと癒着し始めたため(著名な流行作家とかが昔テレビに出てたのはこの流れのせい)、ほそぼそとやるだけでは純文の編集部が肩身が狭くなる一方なので注目を集める素材じゃないと売り出せない状況になったから、売りどころがわかりづらい純文学はしだいに「若い女性」とか「アウトロー」みたいなので広告的に盛り上げられる人選になっていったため。で、売り出したら売り出しっぱなしで育て方がわからないのでモブ化するしかなくなる。
いわゆる「瑞々しい感性」っていう売り文句はこういう雑な売り方を強引に肯定したもの。
エンタメ小説は技術体系が比較的出来上がっているので良否の判断がつきやすい。だから結果的に技術的に未熟な作家は取り上げられにくい。
ライトノベル(ジュブナイル小説ではないいわゆるオタクが好むタイプのラノベ)はある意味ポストモダンの申し子で構造が破綻していた方が面白いから未熟さが売りにできるので、純文学に近いスタンスになっている。
ちなみに明治大正のころも若い文豪がいっぱいいたという反論がありそうなので先に封じておくと、あれらの作家は同人誌から出発している半同人作家で、そもそも出版業界自体も未熟で小さく尾崎紅葉や夏目漱石などといった作家の弟子であったり同じ大学のよしみみたいなコネデビューしかなかった。
ずっと当てこすりしかしてないような奴も「おっ、やっとるやっとる」くらいに見てるからユーザー非表示にしたことなかったんだけど、とんでもなく的外れで存在しないものを知覚している感じのブコメがあって、「おっ、大司令症候群案件か?」って思ってそいつのブコメ見に行ったんだよ。そしたらびっくり、全部が全部、極めて日本語として正しく意味も通る文章なのに、確実に的が外れてるコメントしかない。それも多様な方向に的が外れてる。同じ方向に外れてたら「おっ、やっとるな」案件なんだが、10000以上のブコメがあってパラパラっとしか見てないけど、どちらかといえばリベラルな傾向がある程度しか読み取れない。しかしどれも、大喜利やウケ狙いでもなく、おそらく本気で、明らかに的外れなのだ。
私はこういう文章を書く人を知っている。「自分は洞察力と地頭は人一倍良い。その証拠に大して勉強してないのに成績はソコソコだし、ネットの洞察力テスト満点だったし、先生から洞察力を褒められ云々」と思い込んでる奴だ。そう、かつての私だ。かつての私は、適当に賢そうな人が書いた賢そうな文章の上っ面だけを拾って勝手な解釈をして、「つまり問題Aと問題Bは相似形だな!ソースは俺の地頭と洞察力!」をやって、今思い出すのも恥ずかしい逆張り、逆張りが増えてきたら斜め張り、斜めも増えたら裏張りと、とにかく「私は人と違う、なぜなら洞察力のバケモノだから」をやってた。幸いなことに日本語構成能力はソコソコだったので、結果としては「賢そうだけど的が大いに外れてる、言語明瞭・意味明瞭、でもなぜそれが出てきたかは理解不能、しかも四方八方に意見が飛び散ってて行動と書いてることが全く一致しない」というマジモンのバケモンになっていた。ダメな方のポストモダンかよ。
というわけで、そんな私の黒歴史を思い出すので、非表示。いつか抜け出せるといいな、多分君が洞察力と思ってる考え方、ほぼ100%妄想だよ。それっぽい言葉を上っ面だけ拾って関係ないとこに適用しようとしても、それは深い洞察とか君だけが気づいた関連性とかじゃなくて、的が外れてるよ。論理の三段跳びならまだしも、論理のフリーフォールだよ。じゃあな。
うわあぃえあああああああああ
なぜだ?
なぜ我慢できなかった??
ウケると思ったのか?
こんなものが?
皆が書き込んでないのはウケないのが分かっていたからで、下ネタをかます勇気がなかったからじゃないぞ。
単なる自制心の故障だ。
汚く金を稼ぐ勇気があったわけじゃなく、自制心が壊れただけだ。
ホリ何とかさん?だって、軽蔑されるポストモダン教授だって、自制心が壊れた果てに恥知らずなことをして勝利したんだ。
俺も勝てるのか?
いや、負けたほうがいい。
こんなことをして勝ってどうする?
勝ってなんていない、人生を買われただけだ。
それなりの額で人生が売れただけだ。
1日を1万円2万円で売っぱらうぐらいなら、もっと高値で売るべきだろ?
もう駄目だ。
分からん!
何もわからん!