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はてなキーワード: 承久の乱とは

2022-02-12

https://anond.hatelabo.jp/20220212010453

平家はなぜ後白河法皇を殺さないのか

殺してしまったら上から下まで総スカンやで。天皇自体権威があった (古来から儀式とかの継承者) からというのはそうだけど、洋の東西を問わず権力掌握のために主君殺すってなかなかない気が...「主君すら簡単に殺す奴が他の勢力ならもっと簡単に潰しに来る」みたいに思わるので相当な根回しが必要やと思う。

臣下に殺されたっていうので思いつくのは三国魏の高貴郷公やけど、これは高貴郷公自らが兵を率いて司馬昭を始末しに行って逆襲されて殺されたから 、後白河が直接平家にぶつかれば殺されるかも?高貴郷公の件は名ばかり皇帝に落ちぶれた東晋皇帝がこのことを知ったときにそら(皇帝殺して皇帝になったら)そう(権威なんてなくなって名ばかりになる)よ...orz ってなってたので、主君殺すってなかなかできないんちゃうか。

あと、後白河平家が決定的にこじれたのって鹿ケ谷の陰謀さらに後の重盛の死後処理で後白河やらかしたからで、その先は後白河がいようがいまいが戦乱になってたんちゃうか?源平合戦に火をつけたのは後白河じゃなくて八条院周辺だし。後白河にしても平家にしても自分ところの利益だけを場当たり的に追及するところがあって、それがgdgdの源泉だと思う。

なんで天皇がここまで尊くなったか不明なんだけどやる夫スレでよければ やる夫が大海皇子になるそうです というのを読むといいかも。長いけど。この作者の前作が やる夫が鎌倉幕府の成立を見るそうです でちょうどこの時代やな。こっちも長いけど。

反乱を起こした高倉上皇兄弟は殺していた

以仁王のことか?そりゃ天皇でもなければ自分で反乱起こして戦場に出ちゃったからね。後白河も後鳥羽戦場に兵を率いて出てはいないのに注意。どちらも合戦は部下に戦わせて自分のところまで敵が来たら素直に従っている (法住寺合戦承久の乱等)。ここで抵抗したらなにかのはずみで殺されていても不思議ではない、が天皇とはそういうものではない。また当然ながら尊さにも位があって 天皇上皇 >> 皇太子 >> 親王 >> ただの王 で、天皇家に連なっていても親王宣下されなきゃたいしてえらくはないで。

天皇でもないのに後白河法皇の死にそこまでの重さはあるのだろうか

このころの上皇とか法皇とかは事実上最高権力者やで。平安中期は摂関家自分の甥である天皇後見をすることで権力を握ったが、平安後期では天皇直系尊属である上皇法皇天皇家の家父長権でもって天皇後見をすることで権力を握った。最高の権門である天皇家の家長として荘園も集積しているので財産も持っている。まあ後白河は中継ぎって見られてたから前任の白河とか鳥羽とかみたいな盤石の権力ってないけど。ついでに父の鳥羽から財産を受け継いでないし。

源頼朝を殺さな

頼朝は蔵人を務めていた上西門院(統子内親王・後白河の姉にして准母)と母親実家である熱田大神宮家助命に動いて助命されたんやで。これらの貴人達の反対を押し切って殺すのは政治コストが高すぎる。そもそも平治の乱時点での清盛は財力武力はあっても正四位大宰大弐にすぎないわけで政権の中枢にいたわけでもないし、反乱鎮圧立役者ではあっても処刑にどこまで関与できたというと疑問な気がする。平家政権ができあがるのはこのあと後白河法皇二条天皇の間を上手に泳ぎ回った(平時の乱もその上手に泳ぎ回ったの一部だが)上で1165ごろに二条天皇政界の大物複数名が相次いで死んだ結果なので、このときの清盛に平家政権全盛期の公卿殿上人数多という未来を言っても信じなかったんではないか

そもそも天皇家は神道権威だろうに、後白河法皇は何で出家してるんだろう。

昔は仏教神道密着してたのか?神の子孫の天皇家がバンバン出家していた頃って、どんな宗教観なんだろう。

仏が神より高い位置にいたとか?

日本古来の伝統がたった150年ほどで忘れさられるとは嘆かわしい。明治政府のなんと罪深いことよ。仏教日本に受け入れられる際に神道を取り込んでこのころには不可分になってるで。そのあたりの理屈をつけたのが本地垂迹説やな。出家すると神道儀式主催するのは不適切という概念はあったらしいので、神道儀式は現役の天皇にまかせて退位したら出家して仏教儀式に専念する、というのはありかもしれない。神道仏教もどちらも国を護るには重要やしな。

あと神の子孫ということなら大体の平安貴族神の子孫やで。

anond:20220212080558

承久の乱で、天皇が直接的に鎌倉を倒そうとして失敗したわけでしょ。

もし成功していたら、後醍醐天皇のような建武の新政をやろうとしていたのだろうか。

2021-07-11

日本天皇51~100代

51.平城天皇(806~809)

 官司の統廃合、観察使の派遣など行政の立て直しに取り組んだ。藤原薬子を寵愛したが、譲位薬子の変が起きたため、出家した。

52.嵯峨天皇(809~823

 薬子の変鎮圧弘仁格式新撰姓氏録編纂した。三筆の一人にも数えられる文化人

53.淳和天皇(823~833

 経国集令義解、秘府略を編纂させた。

54.仁明天皇33~850)

 在位中に令義解施行され、日本後紀が完成した他、承和の変が起き藤原氏繁栄の基礎となった。医学書道和歌など初学に精通した知識人

55.文徳天皇(850~858)

 続日本後紀編纂を開始した。病弱であったため、政治の実権は藤原良房がが握った。

56.清和天皇(858~876)

 幼くして即位したため、良房が実権を握り、元服後も握り続けた。在位中に貞観格式編集された。

57.陽成天皇(876~884)

 乳母子を殺す、宮中で密かに馬を飼うなどの奇行が多く、藤原基経譲位させられた。

58.光孝天皇(884~887)

 55歳という高齢即位し、基経に「実質的関白として政治を任せた。

59.宇多天皇(887~897)

 阿衡の変により、藤原氏を疎み、菅原道真を重用した。在位中に多くの歌人が輩出され、遣唐使廃止された。

60.醍醐天皇(897~930)

 藤原時平讒言を信じ、道真を左遷した。在位中に古今和歌集勅撰、三代実録、延喜格式編纂が行われ、その治世は村上天皇と共に延喜・天暦の治と称された。

61.朱雀天皇(930~946

 在位中は天災が多発し、平将門藤原純友が乱を起こすなど、多難な時を過ごした。

62.村上天皇946~967)

 乾元大宝鋳造し、天徳歌合、後撰和歌集などを編纂させた。

63.冷泉天皇(967~969)

 病弱であったため、藤原実頼関白として実権を握った。安和の変の後は、摂政関白が常置されることとなった。

64.円融天皇(969~984)

 藤原氏政権争いに翻弄され、出家文化人として風流生活を送った。

65.花山天皇(984~986

 女御の死を悼んだところを、藤原兼家に計られて出家した。

66.一条天皇(9861011)

 在位中藤原道長が実権を握り、紫式部清少納言和泉式部などの文化人活躍した。

67.三条天皇1011~16)

 藤原道長に絶えず退位を迫られ、眼病、脚気理由に退いた。

68.後一条天皇1016〜36)

 道長の孫。在位中は道長・頼通が実権を握り、藤原氏の全盛期を迎えた。

69.後朱雀天皇1036~45)

 在位中は頼通が関白として実権を握った

70.後冷泉天皇1045~1068)

 在位中に平等院鳳凰堂が建立され、前九年の役が起きた。

71.後三条天皇1068~72)

 藤原氏を疎んじ、新政を行った。記録所を設け、成功、重任を禁じ、宣旨枡を定めた

72.白川天皇1072~86

 在位中に富士山噴火後三年の役が起きた。譲位後、院生を行った。

73.堀河天皇1086~1107)

 在位中は院生が行われたが、藤原師通の補佐により自らも政治に関与し末代の聖王と称された。

74.鳥羽天皇(1107〜23

 譲位後、崇徳~後白河の3代に及ぶ院政を行った。崇徳院を無視して、後白河天皇即位させたことが保元の乱の原因となった。

75.崇徳天皇(1123~41)

 鳥羽上皇冷遇され、譲位させられた挙げ句、息子の即位も阻まれた。これを不満とし、保元の乱を起こすも敗れ、讃岐に流された。死後怨霊として恐れられた。歌人としても名高い。

76.近衛天皇(1141~55)

 17歳で亡くなったため、崇徳院、藤原忠実・頼長親子に呪われたのではないかと噂された。

77.後白河天皇(1155~58)

 保元の乱崇徳院を破った後、譲位院政を行った。平治の乱治承・寿永の乱鎌倉幕府成立などの激動の時代の中、権謀術数を巡らせ朝廷権力を維持した。

78.二条天皇(1158~1165)

 崇徳の子差し置いて、皇子になったため、保元の乱が起きた。即位後は後白河院院政抵抗するも病気のため叶わなかった。

79.六条天皇(1165-68)

 自身への敵対勢力擁立されることを恐れた後白河院によって、わずか4年で譲位させられた。

80.高倉天皇(1168-80)

 清盛と後白河院対立に苦しめられ、譲位した。

81.安徳天皇(1180~1185)

 壇ノ浦の戦いで入水した。日本史上最も短命な天皇で、わずか7歳で崩御した。

82.後鳥羽天皇(1183~98)

 譲位後、土御門~仲恭の3代にも及ぶ院生を行う。承久の乱に敗れ隠岐に流された。

83.土御門天皇(1198〜1210

 父である後鳥院とは不和承久の乱にも加わらなかったが、自ら望んで土佐に流された。

84.順徳天皇(1210~1221)

 承久の乱に参加するために譲位し、佐渡に流された。

85.仲恭天皇(1221)

 父順徳が倒幕を企てたため、即位後78日間で廃位された。

86.後堀河天皇(1221~1232)

 わず10歳で即位したため、天皇になったことのない守貞親王後高倉院として異例の院政を行った。

87.四条天皇(1232~1242)

 滑石を用いたいたずらが原因で転倒し崩御した。

88.後嵯峨天皇(1242~1246)

 譲位後、2代にわたる院政を行った。死に際して、帝位継承者決定を幕府に委ねるとしたため、南北朝問題の原因となった。

89.後深草天皇(1246-1260)

 持明院統いわゆる北朝の祖。

90.亀山天皇(1260~74)

 大覚寺統いわゆる南朝の祖。父後嵯峨院に愛され、兄後深草院差し置いて子の後宇多天皇即位させたため、南北朝問題の原因となった。譲位後南禅院を建立

91.後宇多天皇(1274~1287)

 大覚寺統。在位中に元寇があった。譲位後、持明院統伏見天皇即位させるが、続いて持明院統後伏見天皇即位には反対したため、両統送立が始まった。院政を行うが、後醍醐天皇対立し、政治から身を引いた。好学の天皇として知られる

92.伏見天皇(1287-1298)

 玉葉和歌集勅撰させた。

93.後伏見天皇(1298~1301)

 譲位後、院生を行う。元弘の乱後、東国へ逃れるも捕らえられ出家した。

94.後二条天皇(1301~08)

 大覚寺統持明院統から2代続いて天皇が出たことに後宇多院が抗議したため、幕府の計らいで即位。両統送立が始まった。

95.花園天皇(1308~1318)

 大覚寺統教養人で風雅和歌集勅撰させた。

96.(南1)後醍醐天皇(1318~1339)

 鎌倉幕府打倒に貢献した後、建武新政を行う。足利尊氏に敗れ吉野に逃れ南北朝時代が始まる。

97.(南2)後村上天皇(1339〜1368)

 高師直に攻められ賀名生に逃れる。一度京都を奪還するもすぐに北朝に奪われた。その後も京都回復を狙い、各地を転戦するも果たせなかった。

98.(南3)長慶天皇(1368~1383)

 和歌を愛し、五十番歌合、五百番歌合などを催した。

99.(南4)後亀山天皇(1383~1392

 足利義満の誘いの応じて、南北朝和解を実現。しかし、義満の死後冷遇され、和平の条件であった両統送立も果たされなかった。

北1.光厳天皇(1331~1333)

 後醍醐天皇の失脚を受けて即位したが、鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐廃位光厳即位否定された。

北2.光明天皇(1336~1348)

 足利尊氏擁立により即位譲位後、観応の擾乱によって南朝に捕らえられるが後に解放された。

北3.崇光天皇(1348~1351)

 譲位後、観応の擾乱で捕らえられた。琵琶を愛した。

北4.後光厳天皇( 1352~1371)

 後村上天皇の一統が破れると、足利市擁護され即位した。南朝攻撃に遭い、美濃近江などに逃れたこともあった。

北5.後円融天皇(1371~1382)

 足利義満擁立されて即位譲位後、院政を行った

100.(北6)後小松天皇(382~1412)

 後亀山天皇から神器を受け、南北朝合一が成された。

2021-06-04

時間年号にたとえる遊び

6:45 大化の改新

7:10 平城京遷都

9:35 平将門の乱

10:51 前九年の役

11:56 保元の乱

12:21 承久の乱

13:36 室町幕府

14:41 嘉吉の乱

15:43 鉄砲伝来

16:00 関ヶ原の戦い

17:16 享保の改革

18:53 黒船来航

19:45 第二次世界大戦終戦

20:21 終了

60~99が欠損するけど気にしない

2021-04-08

武家の三代目はその後の運命の分かれ目

平家

平宗盛アホの子源頼政挙兵きっかけを作っちゃった人。こいつのせいで平家は滅亡(出典:平家物語)。

源氏

源実朝政治に興味なし。甥に暗殺され、実質的源氏は滅亡。

北条氏

北条泰時承久の乱勝利幕府の基礎を固める。これで一応鎌倉幕府は安定するが、執権は全員短命に。

足利氏

足利義満…いわずもがなの権力者南北朝統一し、有力な守護大名を押さえ、勘合貿易経済を潤し、息子を天皇の前で元服させる。権力が強すぎたせいで死後幕府は混迷・没落

豊臣氏

豊臣秀頼実質的には二代目。秀次を挟んで三代目。徳川家康が恐れる体格・人格を持つ。右大臣にまで登りつめるも、大坂の陣ではほぼ何もできず豊臣は滅ぼされる。

徳川氏

徳川家光有史以来のキチガイインセル権力を持たせたらどうなるかよーくわかる人物バカインセル刃物権力は持たせてはいけない。

2021-03-24

anond:20210324000442

日本中世史の研究者承久の乱前後公家日記みたいな記録抹消をしたら陰で一生笑われそうだがな

2020-08-12

anond:20200811170757

西(南)側勝利

神武東征(日向挙兵して大和征服する)

壬申の乱吉野挙兵して近江朝廷を倒す)

元弘の乱山城大和河内などで挙兵して鎌倉幕府を倒す)

山崎の戦い備中から駆け戻って天王山明智光秀を倒す)

賤ヶ岳の戦い(京から出兵して越前から出てきた柴田勝家を倒す)

戊辰戦争薩長挙兵して江戸幕府を倒す)

東(北)側勝利

・治承寿永の乱(伊豆挙兵して京の平氏を倒す)

承久の乱鎌倉から出兵して京の上皇を倒す)

関ヶ原の戦い会津征伐から反転して大坂西軍関ヶ原で破る)

大坂の陣(江戸から出兵して大坂城を落とす)

それ以外(挙兵場所勝敗曖昧

建武の乱(鎌倉挙兵したが一旦敗れて九州で再起)

応仁の乱(ぐだぐだのまま和睦して決着つかず)

小牧長久手の戦い(戦術レベルでは東、戦略レベルでは西が勝利

こんなところじゃねえの。

少なくとも一方的東側が勝ってるとは言い難いわな。

2020-08-11

日本覇権をかけた戦いで西や南が東や北に勝った例

地方勢力の討伐ならたくさんあろうが、覇権をかけた戦いだと神武東征を無理矢理カウントしても、西や南の勝ちは稀である

壬申の乱は東に回り込んで尾張美濃勢力を味方につけた大海人皇子勝利スタート位置は南だが)

源平合戦も東の勝ち。

承久の乱も東の勝ち。

鎌倉幕府滅亡も新田義貞のおかげ。

室町幕府滅亡も東から

関ヶ原言わずもがな

しかし、室町幕府後醍醐天皇の争いは西日本からブーメランしてきた足利尊氏勝利する変態的なことになった(最強者東北にいたが)。

そして、幕末も(むしろ唯一?)西側が勝った。

維新志士が勤王じゃなかったと批判した足利尊氏戦争では一番倣うべき存在だったということに皮肉を感じる。

2020-02-23

[]anond:20200223190101

森之助と更科姫は諏訪ヶ原をよく治めていた。

あるとき夫婦山中で道に迷い、たまたま村上家の武芸指南役・井上九郎と再会した。

村上家を出奔したのち隠居していたとのことで、喜んだ森之助は、鹿之助を鍛えてもらえるよう頼みこんだ。

井上九郎のもとで五年ほど鍛えられ、鹿之助は武芸百般に通ずる立派な若武者となった。

その頃、信玄はすでにこの世を去り、武田勝頼が後を継いでいた。

馬場美濃守は己の死を覚悟し、もはや武田家の滅びは避けがたいので城を退去せよと森之助に伝えた。

まさに長篠の戦いにおいて武田大敗を喫し、馬場美濃守が討ち死にするに至り、北条家の軍勢諏訪原城に押し寄せた。

森之助は馬場美濃守の言うとおりに城から去ることにした。

城にはただ更科姫と鹿之助だけが残り、母子北条軍勢をさんざんに打ち破ったあと、二人は落ち延びていった。

ところがその途上、更科姫と鹿之助の夢枕に、承久の乱で亡くなった中御門宗行という貴族の霊が立ち、

鹿之助は見どころがあるので、自分の子である中御門宗教を頼っていけば立身出世は間違いなしである、と告げた。

更科姫は、これぞ霊夢であろうと鹿之助を励まし、鹿之助は惜しみつつも母と別れてひとり京へ向かうこととなった。

東海道を進む鹿之助は、その途中の村にて、盗みをして焼き殺されるところの大谷猪之助という怪力の若者を助けた。

猪之助によると、いまは落ちぶれ、母のために盗みに手を出してしまったのものの、元は武士の息子であると言うので、

鹿之助はいずれ身を立てたのちには家臣として迎えると約して、二人は主従の契りを結んだ。

その猪之助が、鹿之助へ料理を振る舞おうと、大きな古猪と格闘してこれを退治したので、

鹿之助は激賞して、彼に「大谷古猪之助」と改名するよう言ったのであった。

2019-09-05

なんとかイチローがゴロに使えそうな歴史上の有名人

616ごろ聖徳太子 (622聖徳太子逝去

716ごろ藤原不比等 (718養老律令

816ごろ空海 (816政権検非違使設置の様子)

916ごろ醍醐天皇 (927延喜格式(967施行))

1016ごろ藤原道長 (1016摂政1017太政大臣

1116ごろ白河上皇 (1098源義家昇殿許可

1216ごろ北条義時 (1221承久の乱

1316ごろ後醍醐天皇(1317文保の和談)

1416ごろ足利義持 (1619応永の外寇

1516ごろ大内義興 (1523寧波の乱)

1616ごろ徳川家康 (1615大坂夏の陣、1616家康没)

1716ごろ徳川吉宗 (1716~45享保の改革

1816ごろ杉田玄白 (1815『蘭学事始』)

1916ごろ大隈重信 (1915対華二十一か条要求

2016ごろイチロー (2016MLB3000本安打

2017-06-05

鎌倉戦国時代に燦然と輝く北条家は、日本史教科書では分からない

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

日本史教科書いくら見ても本当のところは理解できないんですよ。

なぜ北条家が坂東武士の頂点に立ち、鎌倉幕府頼朝が作ったにも関わらず、北条がその後の支配権を握り続けたのか。そして戦国時代に「後北条家」が、北条家と特に関係がないのに成立し、関東盟主足り得たか源氏とは、北条とは何か。

北条は、坂東平氏の家柄である坂東平氏とは、桓武天皇の血を引く、関東にやってきた平氏総称であり、その五世である平将門新皇自称して、朝廷に対して関東支配権を主張して反乱を起こし、敗れた後に祟りを起こして神となったことで、関東に決定的な影響力を及ぼすようになった。

平将門は神である。そこを間違えてはいけない。平将門怨念とされるものは畏敬の対象として、現代人に対しても深く印象づけられているが、関東ではほぼすべての神社平将門を祀っていたほどに力があった。坂東武士たちにとっては、平将門は実際に神であり、朝廷反旗を翻し関東独立した政権を、坂東平氏が頂点となって打ち立てることは坂東武士の念願であった。平忠常というそのへんの平氏関東で反乱を起こしただけで一大ムーブメントになってしまうぐらい、平氏関東支配朝廷から独立するという夢は坂東武士の間に広がっていた。元記事に書かれている関東の有力豪族千葉氏上総氏は、平忠常の子孫とされている。

そこにやってきたのが源頼朝である源頼朝清和源氏事実上嫡流である清和源氏桓武平氏といった用語を知らない人のために説明すると、天皇家は偉いわけだが、子孫がいつまでも皇族だと皇族が際限なく増えてしまい、現代で言う宮内庁予算が際限なく増えてしまうので、どこかで平民になってもらわなければならない。平民になる時に、皇族には名字がないので、名字を与える必要がある。その時に、源、平の名字が与えられた。天皇の血を引くスゴイ人たち、という意味が源、平という姓には込められている。清和源氏清和天皇の子孫で源姓を名乗った人たち、桓武平氏桓武天皇の子孫で平姓を名乗った人たちである

たとえば足利も、徳川も、本姓は源である。源尊氏源家康が本名だ。なぜ足利とか徳川というかと言えば、源が増えすぎて区別必要が出てきたというのもあるが、源というスゴイ名字を出すのは気が引けたから、という要素が大きいように思う。本当の名字は避け、住んでる所を名字にする、といったことをして、木曽義仲とか、足利尊氏とか、あるいは自分でっち上げ徳川という名字を使った家康のような人もいる。これを説明するには、武士にとって本名いかに大切であったか述べなければならないが、面倒だ。武士の下の名前は諱(忌み名、呼んではいけない名前)とされていたということを考えれば、上の名前もそれなりに大事だということはわかると思う。(そして信長様~とか秀吉様~とか言っている時代劇が全部嘘っぱちだということも分かるだろう)

平忠常の乱を平定しようとした、桓武平氏嫡流平直方は、乱の平定に失敗するが、清和源氏事実上嫡流である源頼義を婿に迎え、領地であった鎌倉を譲り渡す。この時、鎌倉坂東源氏拠点であると同時に、平氏源氏嫡流が交わった聖地という意味が生じた。そこから八幡太郎義家が生まれ源氏の声望が高まり、その嫡流である頼朝権威づけていく。

ここまでくれば、坂東平氏である北条家が頼朝を婿にとり鎌倉本拠地に据えた意味が分かるだろう。平家源氏が交わり、鎌倉拠点とするというのは故実に則った神聖儀式なのだ。ちなみに、北条家が坂東平氏の由緒正しい血筋だというのはおそらく自称であり、フィクションである。だが坂東武士は将門の祟りの方が怖いので、血筋の細かい所は気にしないのだ。

鎌倉に作られた幕府は初めから天皇を中心とする朝廷対立関係にあり、承久の乱勝利することで朝廷の上位に立ち、皇位継承操作するまでになった。それはなぜかといえば、平将門朝廷から独立志向していたかである平将門怨念が実際に実を結んだのが鎌倉幕府である頼朝の下で働いた北条梶原三浦和田千葉熊谷などは、みな坂東平氏である。そして役割を終えた源氏はどこかに消えて、坂東平氏北条家による支配が行われた。

そして戦国時代、後北条家の話になるが、後北条家は伊勢新九郎盛時、北条早雲によって立ち上げられる。伊勢氏室町幕府政所執事の家柄で、ものすごく偉い。ちなみに桓武平氏である

室町幕府というのは北条家に牛耳られた鎌倉幕府を倒して出来た政権である鎌倉幕府内の源氏で最高の血筋だった足利鎌倉幕府を倒し、北条家はほぼ滅亡してしまう。そして源氏である足利京都朝廷とベッタリの幕府を作った。平氏による独立志向関東幕府から180度の転換である

史実ではものすごく偉かった伊勢新九郎盛時であるが、実家室町幕府の偉い家柄で、関東を牛耳りに来たというのは、いかにも坂東武士には都合が悪い。仕方ないので、先祖を辿れば同じ坂東平氏という縁にあやかって、北条の名を名乗ることにした。ちなみに名乗ったのは息子の氏綱の代である。そこで、おそらく後北条家のプロパガンダによって、歴史改変が行われ、謎の素浪人北条早雲が、下克上嚆矢となり関東に覇を唱えたという、我々のよく知るストーリーが現れる。よく調べると、全てデタラメである

これにより、なぜ後北条家が秀吉と争い、滅亡への道を歩んだかも分かるだろう。秀吉関白天皇代理である天皇と対抗する存在である坂東武士にとって、秀吉に降ることは、平将門祟りを招きかねない決断であった。そのため、天下の趨勢が決しても、徳川伊達の援軍が得られなくても、単身で秀吉と抗い、滅びたのである。それだけ将門の祟りへの畏れや、坂東武士の誇り、天皇家という存在に対する対抗心が強かったのだ。

平将門武士の始まりであり、武士スピリット体現する存在である武士は武装し土地を守り、権力に抵抗する存在であると同時に、一族で争い、殺し合う存在である。その構図は徳川家康武士を飼いならすことでご破産になり、そこにあった本質は見えにくくなってしまっているが、武士を知りたければまず平将門を見て欲しい。

続・山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

これの続き。(文字数制限にひっかかったので分割します)

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

1183(寿永2)年、義仲軍は京都に入り、食糧不足もあって狼藉を続けた。京都にとどまった後白河法皇後鳥羽天皇即位させ、寿永二年の宣旨頼朝東国での支配権を認めるとともに、義仲軍の乱暴ぶりを口実にして頼朝上京要請するなど、政治力の強化につとめた。しかし、頼朝東国支配を固めるために鎌倉を動かず、かわりに弟の範頼・義経上京し、1184(元暦元)年、二人は義仲を打ち破った。

義仲が京都乱暴狼藉を働いたという記述があるのは、意外にもこの教科書だけでした。

兵糧不足のまま進撃して首都占領しても、どうせ軍規が乱れて略奪しまくるぞというのは、日中戦争における南京事件南京大虐殺)のことを言いたいのかなと思いましたが、それは深読みのしすぎかもしれませんね。どうなんでしょう?

  

また、これは下記の引用部分になりますが、頼朝が初めて上京したタイミングがいつだったかを明記しているのは、この教科書だけだと思います

(この点はとりわけ山川の『詳説日本史』が最悪です。頼朝西国での平家追討の仕事をすべて弟の範頼・義経らにやらせ自分はその間ずっと鎌倉にひきこもって地盤を固めていたという基本的事項すらも把握できない書き方がされているんです。)

頼朝挙兵以来、北条氏三浦氏などの東国武士たちと主従関係を結んで、彼らを御家人として組織した。そして1180(治承4)年、御家人の統率と軍事警察担当する侍所を設けて、有力御家人和田義盛別当長官)に据えた。さらに1184(元暦元)年、一般政務をつかさどる公文所(のち政所)と問注所を開設し、実務に優れた下級官人らを側近にして職務を分担させるなど、支配機構の整備を進めた。

頼朝後白河法皇要請を受け、範頼と義経平家追討を命じ、1185(文治元)年、長門壇ノ浦平氏を滅亡させた。後白河法皇頼朝権力拡大を恐れて義経を重用し、頼朝の追討を命じたが失敗した。逆に頼朝は、親鎌倉派の公卿九条兼実藤原兼実)らを朝廷重要政務担当する議奏につかせ、反鎌倉派の貴族追放し、義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた。さらに1189(文治5)年、頼朝義経をかくまったことを口実に藤原秀衡の子の泰衡を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした。こうして頼朝東国西国の多数の武士御家人として組織しながら、主に東国支配確立していった。

1190(建久元)年、頼朝挙兵後はじめて京都に入り、右近大将に任命され、後白河法皇没後の1192(建久3)年には、法皇の反対で就任できなかった征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立した。」

当然ながら『詳説日本史』にも、侍所政所問注所地頭というキーワードは出てきますしかし、治承・寿永の乱とは別項に記述されているため、時系列が分かりづらくなっています

それに比べて、この教科書歴史の流れの中にキーワードを配置しています。だから時系列に即してこれらの言葉意味理解することができるはずです。

  

結びが「名実ともに鎌倉幕府が成立した」という記述になっているのも、味わい深いです。

鎌倉幕府の成立が何年かという論争を垣間見ることができます名目的には1192年に幕府が成立したと言えるが、実質的にはそれ以前から幕府政治機構ができあがっていたというニュアンスを含ませているのでしょう。

  

  

  

あとは、上記引用中の「義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた」という記述が最高にクールです。

一般には1185年、義経の捜索を名目にして守護地頭が設置されたとされていますし、国ごとに置かれた役職地頭ではなく守護だと暗記している人が多いんじゃないでしょうか?

例えば山川の『詳説日本史』はそうなっています。それによると、頼朝は1185年に「諸国には守護を、荘園公領には地頭を任命する権利」を獲得したとされています守護は「おもに東国出身の有力御家人から選ばれて「原則として各国に一人ずつ」任命され、「大犯三箇条などの職務を任とし」て国内御家人を指揮統率し、とくに東国では在庁官人支配することで「地方行政官としての役割も果たし」ました。いっぽう、地頭は「御家人のなかから任命され、任務年貢徴収・納入と土地官吏および治安維持」です。「頼朝は主人として御家人に対し、おもに地頭に任命することによって先祖伝来の所領の支配保障したり(本領安堵)、新たな領地を与えたりした(新恩給与)」わけですが、このことが御恩と奉公関係となって封建制度の基礎となりました。

  

ところが、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)によると、ここの説明がこれとまったく異なります。私が先に引用した項では、1185年の出来事として守護の設置には言及せず、地頭の設置だけが記述されていますしかもその"地頭"は国ごとに置かれたものだとされているのです。

私は最初にこれを読んだとき、わけがからなくて混乱しました。それでがんばって自力で調べてみて(独学なので苦労したナァ)ようやく理解できたのですが、1185年の文治の勅許守護地頭が置かれたとする『吾妻鏡』の記述には疑いがあり、実はこれがかつて学者の間でも論争になったテーマだったらしいのです。

1960年石母田正が新説を発表したのですが、おおざっぱに言うと、新説では、この時点で置かれたもの守護地頭ではなく、地頭(国地頭)だったとしています。それはわれわれが普通一般に知っている地頭(荘郷地頭)とは異なり、一国を統括する強大な権限を持つ存在です。この国地頭はすぐに廃止され消滅しましたが、守護前身となりました。

三省堂教科書は、次項でそのことが説明されています頼朝がはじめは国ごとに"地頭"を派遣して荘園国衙領のいずれからも兵糧米を徴収させていたこと、そのやり方がひどすぎたから反発を招いて、以後は"地頭"に代わるものとして守護を置いた、という記述になっています。またこれに続いて、頼朝は「荘郷地頭と呼ばれる地頭を任命し」、平氏没官領や謀反人の所領跡で「年貢公事徴収治安維持に当たらせた」としています

このように、三省堂教科書では、「国地頭」と「荘郷地頭」をはっきりと区別しているのです。

  

実教出版もこの新説を採用していますこちらも合わせて読んでおくと、国地頭のことが大変よく分かります東京出版は本文の記述が旧説に拠っていますけど、欄外では国地頭が惣追捕使とならび、守護前身として存在していた話をちょこっと説明しています。これらの教科書は「国地頭」論争の成果を取り入れており、学問的に誠実だと思います

それに対して山川の『詳説日本史』は旧説を採用し、1185年に守護地頭の設置が認められたとする断定的な記述になっています。これが他の教科書とのあいだに無用矛盾を生じさせているのです。私と同じようにこの点につまづいて、困惑してしまった高校生が少なからずいるんじゃないでしょうか。

  

なお、山川参考書『詳説日本史研究』にもこの新説の紹介はありません。同社『日本史B用語集』には「国地頭」という用語掲載されていて、そこでは一応説明がされているんですが、あたかも国地頭が荘郷地頭前身だったと思わせるような記述です。

地頭(じとう)⑪:1185年、頼朝要請後白河法皇諸国公領荘園地頭を設置することを認めた。当初は1国単位荘園公領支配する国地頭を設置したが、まもなく平家一族の所領として没収された平家没官領と謀反人跡地に限定した荘郷地頭となった。しかし、公家寺社の強い反対で、一時縮小、承久の乱後に全国化した。任務土地管理年貢・兵糧米の徴収治安維持など。

地頭⑤ 荘郷地頭

  

山川出版日本史B用語集』より

ですが三省堂実教出版東京書籍の教科書によると、国地頭はむしろ守護へと発展的解消を遂げたという記述なんですから、『日本史B用語集』のこの説明とはやはり若干の矛盾が生じています

「国地頭」を教科書に載せている上記の主要3社の文脈に従うなら、この用語独立の項目として取り扱うか、せめて「地頭」の項目じゃなく「守護」の項目にいれて取り扱うべきじゃないでしょうか。

  

(追記 これはインターネット上の情報なので私は未確認ですが、現在は『詳説日本史』にも国地頭掲載されているそうです。近年改訂されたんでしょうか。

予防線を張っておくと、私は高校日本史Bを履修しなかったし、大学理系に進みました。教科書を読んだのは興味本位にすぎません。

はじめに書いたとおり、最新版教科書を持ってません。今回はてブでバズっていてびっくりしましたが、筆者は歴史学の専門家でも何でもないことをお断りしておきます

追記id:HRYKtbykさん、確認をしてくださり感謝です。)

  

  

  

追記

複数教科書を読み比べすることで、『詳説日本史』を読むだけでは見えないポイントが浮かび上がってきます

『詳説日本史』では、前九年合戦後三年合戦のところで、「これらの戦いを通じて源氏東国武士団との主従関係を強め、武家棟梁としての地位を固めていった」とあります。これが後の頼朝挙兵につながるわけですが、それは時代を経てからのことだから教科書のページが離れすぎていて、この関連が把握しづらくなっています

ここで例えば山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B 018)のような他の教科書と読み比べてみると、『詳説日本史』がこの簡潔な一文を通して伝えたかたことを理解することができるのです。(上述参照)

  

つぎは例えば、貫高制・石高制を見てみましょう。

『詳説日本史』によると、戦国大名性格は次のように説明されています戦国大名は「新たに征服した土地などで検地をしばしばおこなっ」て、それにより「農民に対する直接支配」を強化しました。そして国人地侍を取り込むため、貫高制を導入しました。これは戦国大名が彼らを「貫高という基準統一的に把握」して軍役を課す制度でした。それでここからすこし時代下り、別のページで豊臣秀吉太閤検地説明しています太閤検地により石高制が確立しました。それは「荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理」し、「一地一作人」を原則とするものです。農民は「自分田畑所有権を法的に認められることになった」わけです。

このような記述だけでも表層的な理解はできると思いますが、実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)は、貫高制について「荘園の複雑な土地制度は貫高に組み込まれ大名統一的な国内政治を推進」するものとしています。『詳説日本史』ではせいぜい石高制と荘園制の関係しかからないでしょうが、本書はこのように貫高制と荘園制の関係を明示しているのです。

この視点を最もわかりやす記述しているのが、三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)です。本書は貫高制、石高制、荘園制の全部を一つの項目に入れて記述しています。それによると、秀吉太閤検地を行い、「戦国大名の貫高制にかわって、それを発展させて全国に広げた石高制」を導入、その結果「荘園制を完全に崩壊させ」ました。このポイントを把握しておけば、中世から近世への社会の変化を、土地一元的支配確立荘園制の衰退・消滅という視点で見ることができます。本書の特徴は、貫高制・石高制をともにこの視点から語っていることと、しかもそれが荘園制を「完全に崩壊させ」たと言い切っていることです。

ちなみに、東京書籍『日本史B』(日B 004)では、石高制を「近世封建制体制原理」と書いています。これがまったく新しい制度であることを強調しつつ、近世という言葉を使ってその射程を江戸時代にまで広げているのです。)

2013-12-27

靖国神社参拝問題について御霊信仰観点で調べてみた


御霊信仰とは

どの国でもあるいはどの宗教でも、死んだあとどうなるのか? は一大テーマだ。キリスト教神の国に行くし、仏教輪廻転生するし、神道は死んだら神様になる(そしてまた人間に戻ったりする)。

http://www.hachimangu.com/cgi/kouwa/kouwa.cgi?mode=one&namber=199&t...

 神道では、人間死ぬと、すべて神になると考えています。これは、私たちの魂は神から頂いた、神の分け霊、分霊と考えるからです。神の分霊なんだから死んで霊界に帰れば神に戻ると考える訳です。

 私たち死ぬと肉体と魂は別々になります。死んでまもない魂は、霊界での初心者若葉マークの霊であると思います。肉体と魂が離れても実感として分からない時期、まだ死を認められない霊なのです。病気やケガで足を切断した人が、ないはずの足がかゆくなったり、痛くなったりすると聞きますが、そのような、まだ肉体のあった頃の感覚が離れられないでいる時期が若葉マークの霊であろうと思います。肉体の感覚が残っている内は、この世での執着心も残っているのです。

 「自分は死んでしまったのか。それではもうこの世にはいられない。神の世界、仏の世界、御先祖様の世界へ還ろう。そして、魂の修行をして、神となって子孫を守っていこう」と決心したならば、執着心も切れて、迷うことな霊界へ行くことができるのです。

この引用は一例だが、洒落怖あたりをみてもなんとなくこういう意識を持っている日本人は多いように思われる。仏教が入ってくる前の神道だと魂の修行とか言うのはなかったと思うが、その代わり祈祷などで鎮めていたのではないかな。

この執着心が災いをなす場合に、それを怨霊という。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A8%E9%9C%8A#cite_note-Yahoopedia-2

憎しみや怨みをもった人の生霊や、非業の死を遂げた人の霊。これが生きている人に災いを与えるとして恐れられている[2]。

霊魂信仰の考え方では、霊魂が肉体の中に安定しているときその人は生きていられる、と考える[2]。怨みや憎しみなどの感情があまりに激しいと、霊魂が肉体から遊離して生霊となり災いを与える、と考える[2]。


ちなみにこの死者が安楽に辿りつけない場合もあるという考えは日本固有ではないが、一神教系だと地獄にいくことがおおいようだ。アミニズムは現世に災いをもたらすらしい。

有名なのは平将門ですよね。生霊といえば源氏物語の御息所。医療科学が発達していなかった時代に、アミニズムはそれを神様がやったってことで納得していた。一神教場合も神の試練だと、仏教功徳が足りないと思っていたのか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BF%A1%E4%BB%B0

政争や戦乱の頻発した古代期を通して、怨霊存在はよりいっそう強力なものに考えられた。怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊である怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。古い例から見ていくと、藤原広嗣井上内親王他戸親王早良親王などは亡霊になったとされる。こうした亡霊を復位させたり、諡号官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった。これが御霊信仰である。また、その鎮魂のための儀式として御霊会(ごりょうえ)が宮中行事として行われた。記録上、最初に確認できる御霊会は、863年(貞観5年)5月20日に行われた神泉苑で行われたもの日本三代実録である

仏教的にはどちらかと言うと荒神信仰に近いものかな。阿修羅とか。

靖国神社もそもそもはこの御霊信仰のもと建てられた神社である

http://www.yasukuni.or.jp/history/index.html

靖国神社は、明治7年(1874)1月27日明治天皇が初めて招魂社に参拝された折にお詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的創建された神社です。「靖国」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和国家建設する」という願いが込められています

前進明治2年にできているので、戊辰戦争御霊供養のために建てられた神社であり、その後の日本内の内戦および諸外国との戦争でなくなった人々の供養をしている、ということになっている。

政府のたてまえとしても、靖国神社参拝は御霊供養のため、ということになっており、単純に墓地に行くのとはまた違う意味合いを持っているようだ。そもそもが怨霊を鎮めるためのものなので、死に方(戦死・処刑)に関しては問わない。ところでここって空襲で亡くなった人は入ってるんですかね?それはまた各自か。そもそも神社って系列があるし、霊魂はどこでもいけるしな。

こうしてみると、靖国A級戦犯が眠っているから参拝してはいけないというのは的外れで、むしろそういう人がいるからこそ供養はせにゃならんということになる。祈る内容は「もうしません」でも「つぎはぜったいかます」でもなんでもいいわけだが、とりあえずこの観点から反対するのは無理筋だろう。

んで次に気になるのは、別に首相いかなくてもいいんじゃね?という点である

国のトップ御霊鎮魂に参るのはなぜ?

多分これは崇徳天皇のせい。

瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ

いろいろとロマンチックなひとだが、気性が激しいともいう。

[要出典]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87

一方『今鏡』「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。また配流先で崇徳院が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(『風雅和歌集』)という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても怨念を抱いていた様子はない。承久の乱隠岐国に配流された後鳥羽上皇が、「われこそは にゐじま守よ 隠岐の海の あらきなみかぜ 心してふけ」(『遠島百首』)と怒りに満ちた歌を残しているのとは対照的である

崇徳院は、配流先の讃岐鼓岡木ノ丸御所国府役人の綾高遠の娘との間に1男1女をもうけている。

しっかり子供作ってエンジョイしてんじゃんとは思うが、日によっては荒ぶっていたのかもしれない。どちらかというと彼に対する罪の意識で、後々伝説が作られたような気がするが、なんせ千年前である。確かめるすべはないな。まぁいいや。とりあえず天上人天皇が荒ぶって怨霊になってしまったので、天皇御霊鎮魂をするようになったもよう。これが国のトップ御霊慰霊を行うようになった理由だろう。

政教分離的にはOKなの?

日本国憲法第二十条では

1. 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

2. 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3. 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

ちらっと調べた限り3がある以上それをひっくり返すのは無理筋だが、いまのところ行くこと自体は1で押し通している。奉納するとなると3に引っかかるのでそれが争点になるようだ。もし私費で奉納とかしてりゃ1があるので反対するほうが悪いが、そうではないのなら違憲判決が出されるのは妥当な所。

しかしそこまできっちりとやってしまうと、天皇制がそもそも違憲内閣総理大臣天皇から任命されるのも違憲になってしまうので極めてグレーである

ただ天皇戸籍がないので、日本国籍を持ってない。例外として日本国民ということになってはいるが、主権もないしこのへんもグレー。突っ込んではいけない領域である

靖国問題とは
  1. 信教の自由に関する問題
  2. 政教分離に関する問題
  3. 歴史認識植民地支配に関する問題
  4. 戦死者・戦没者慰霊の問題
  5. A級戦犯に対する評価の使い分け

このうち1は明確に信教の自由があるので以降といくまいと自由。

2は前述のとおりグレー。

3は参拝が軍国主義につながるというのが主な反対の理由のようだが、参拝は御霊供養のためであり、反省するのも軍国主義を目指すのも当人次第(しか信教の自由があるのでそれを規定することはできない)ので的外れ一般的キリスト教では参拝は神への信仰仏教は魂は輪廻転生してしまっているので特に意味のない行為(参拝自体功徳を積むため)で、御霊供養の概念はきちんと説明しないと伝わらないと思われる。4,5も同様。

したがって、問題の争点は政教分離観点でOKなの?という部分だけだな。ちなみに諸外国がこれに反対するのは内政不干渉原則に反するが、言うの自体は自由である

2009-03-19

こぴぺ

4 名前名無しさん@九周年[sage] 投稿日:2009/03/19(木) 09:08:18 ID:2n2kv7Cs0

こういう奴は止めても無駄なんだよな

俺も遊泳禁止の場所で遊んでるDQNに向かって

危ないぞ、沖に流されたらどうするんだ!って注意したら

DQN「おきに流されるって、後鳥羽上皇かよwww」

DQN女「マジ受けるんだけど、超承久の乱~」

とか言って聞き入れなかったわ

 
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