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はてなキーワード: 心理学とは

2019-05-26

anond:20190526145827

恋愛工学って別に他人を襲って食ってしまう訳じゃないし

心理学的にもっと合理的な行動は何かを突き詰めているだけでしょ。

恋愛工学程度のこともできない人間は、どこかに致命的な欠陥があるんじゃないかしら。

2019-05-25

この現象名前はあるのかな

「明らかな諸悪の根源よりそれに関わった者の方が叩かれる(ように見える)」あれ。

例えば

子供虐待されて殺された時、殺した方の親より庇わなかった親の方が責められるとか

殺人者の親や家族殺人者より責められたりとか

ひき逃げが起きたらひき逃げ犯を責める声より目撃者が救助しなかった事を責める声の方が目立ったりとか

こういうの心理学的に名前とかあんのかな。

2019-05-19

大学院 (特に博士課程) 進学を考えるとき研究室選びのTIPS 1

タイトル通り、大学院進学希望者が、進学先を決める際にした方がよいこと、すべきことについて助言を書いた。

既に巷に溢れている記事ではあるが、様々なところで進学先の失敗談を聞いて、改めて書こうと思った。主に博士進学を考えているもの念頭に書いたが、修士就職する人にも参考になるかもしれない。

当方現在ポスドクで、大学院時代はそこそこ上手くやってきた方であるとは思っている。もちろん、相応の努力はしたが、それだけではない。上手くいった大部分は指導教員、ひいては研究室選びで良いスタートを切れたことによるのだが、修士課程に上がった当時は、右も左もわからず、たまたま見つけた研究室に進んだ。つまり、運が良かったのである

今だからこそわかることもある。また、諸所で指導教員とのトラブルの話を聞いていると「それは下調べさえしていれば避けられていた・・・」と感じることが多い。

そこで、大学院特に博士進学まで見据えて考えている人に、今自分学部4年、あるいは修士2年次であればこうするであろうというTipsを述べたい。

当然、部分的には当たり前であったり、逆に分野によって文化の異なるところもあるかもしれない。なので、納得のいく箇所があれば適宜参考にしてもらえれば幸いだ。

研究室を探す

まずは自身の関心のある分野の研究室を探さないと始まらない。研究室の探し方は人それぞれで、どうしてもその時々の巡り合わせに左右されてしまう。なので、ここでは私の経験を書く。

私の場合学部研究室テーマからは変える予定であった。具体的ではないにせよ、方向性を決めたのは学部3年生の頃で、大学にその分野の研究室がなかったのだった。仕方がないので、その分野で有名と思しき研究室を調べ、いくつか候補とした。

候補となる研究室は、学部時代指導教員に当該分野のある大学を聞いたり、学外の研究会に出席することで知った。また、見学に行った先の教員から教えてもらうこともあった。ようはとにかく、行動することだ。

ただ、私の場合は、結局最終的に行き着いたのは学部2年生の頃受講した講義で知った研究者だったので、この点は運がよかったとしか言いようがない。

学会などは、学部生が無料場合もある。絶好の機会なので参加するとよい。学会にいけば、シンポジウムで当該分野で目立っている研究者の顔ぶれを知ることもできるし、ポスター発表会場で直に会って、実働隊として研究をしている大学院生やポスドクと会話することもできる。「知識もないのに聞いても迷惑ではないのか」と不安かもしれないが、心配はいらない。大部分の研究者は、意欲的な学部生が聞いてくれることを喜んでくれる。邪険に扱ってくる者がいれば、その人の問題なので、気にしなくてよい。

研究室見学にいく

研究室見学には必ずいった方よい。大学院説明会というのもあるが、可能であれば個別アポを取って見学にいく方おすすめだ。そちらの方が平常運行状態研究室を見ることができるし、個人的質問相談ができるチャンスが多いからだ。

多くの研究者研究室大学ウェブページ自身メールアドレスを公開している。そこからコンタクトを取ればよい。大抵の場合は、返信をくれる。メールを書く際には、件名に「研究室見学のお願い」と、要件を必ず書くこと。

メール文章例を載せる。この例以外にも、「研究室見学 メール」などとググれば文例はいくらでも出てくるので、自身に合った書き方を真似つつ、丁寧かつ、要件が明快なメールを送ろう。

ポイントとしては

  • 簡潔に「進学先を探しているので見学をしたい」という要点を書く
  • 何に興味がありコンタクトを取っているのかをごくごく短く書く
  • 名前所属記載するのは忘れないように

といったところだ。

例1

————————————————————————————

○○先生

お忙しい中、突然のメール失礼します。

hogehoge大学hoge学部hoge年の○○と申します。

私は大学院進学志望でhogehogeに興味があり,○○先生研究室見学したくメールをさせていただきました。

もしお時間があれば研究室訪問させていただきたいのですがいかがでしょうか。ご連絡お持ちしております

[ここに名前]

hogehoge大学hoge学部

[ここにメールアドレス]

————————————————————————————

例2

————————————————————————————

○○ 先生

突然のご連絡失礼いたします。

hogehoge大学hoge学部hoge年の○○と申します。

○○先生研究室を~~~~~~~~~~をきっかけに知り、是非見学させていただきたく、メール差し上げました。

私は現在~~~[現在の状況]~~~~~で、進学先の進路を模索している最中にあります

それを考えるにあたり、○○先生現在のご関心や今後の展望について一度伺いたいと思うに至りました。

つきましては、入試などでお忙しい中大変恐縮ではありますが、2, 3月中に訪問時間をいただけませんでしょうか。

どうぞよろしくお願い申し上げます

[ここに名前]

————————————————————————————

修士学生ならともかく、学部生は教員メールを送って見学にいくのは、(他大学だと特に) ハードルが高いかもしれない。しかし、繰り返しになるが、研究室見学には絶対にいくべきだ。相手無駄時間を取らせてしまうかもしれないと恐縮する気持ちもわかるが、大学院に進めばあなたは少なくとも2年、場合によっては5年かそれ以上の時間をそこで費やすのだから

さて、首尾よく研究室見学に行けたとする。何を話し、聞くべきか。こちから聞かずとも、概ね先方が紹介してくれると思うが、必須な項目を述べておきたい。

・目下の研究について聞く

研究室は大きくなればテーマが多様であることも多いし、先端の分野であるほど研究流行り廃りは激しい。従って、未来指導教員が今、現在、何に関心があるのかは率直に聞くべきだ。

とはいえ、下調べは忘れずにしておくの忘れないように。具体的には、見学にいく研究室の直近の論文には目を通しておこう。目安としては、最低5年分はざっと読んでおくとよい。全部理解できなくてもよい。むしろ理解しきれなくても「面白い」と思えればそれを実際に会ったときにぶつければ会話が弾む。これを面倒に感じるなら、そもそもその研究室あなたに合った場所なのか考え直すべきだ。

実際に会って話すときは、回りくどい言い方はしなくて構わない。ストレートに聞きたいことを聞けばよい。

最近論文、例えば去年のhogehoge掲載された研究は○○についてでしたが、今後もそのテーマ継続されるのでしょうか?」

「今後5年間では、どのような題材を扱おうとお考えでしょうか?」

「まだ実現していなくとも、先生自身が今後着手したいテーマや注目している現象などがあればお聞かせください」

など。

この手の質問への回答が、あなた琴線に触れるかどうかが一番大事だ。指導教員自分明後日の方向を向いている状態博士課程を生きるのはかなりつらい。「乗るしかない、このビッグウェーブに!」と思えることがまず重要なのだ

研究テーマ相談する

自分がその研究室に進んだとしたら、どういうことをやりたいのか、興味がどこにあるのかを伝えよう。相手あなたが何者で、何をしたくて来ているのかわからない以上、何を話せば楽しんでくれるのか探り探りなのだ博士課程に進むつもりなら、その旨も伝えた方がよい。

興味関心を伝えれば、何を話せばいいのかも明瞭になるし、場合によっては「それを扱うことができない」ときっぱり伝えてくれて時間無駄にしなくて済むかもしれない。

そうであっても、場合によっては当該分野の研究者を紹介してくれる可能性もある。相手業界人なのだ。頼りまくって構わない。私自身、それで別の研究室見学に行かせてもらったことがある。

特にまだやりたいことが明確でない場合、そう伝えればよい。ただ「○○を面白いと思った」といった、どの辺りに関心を持って見学に来ているのかは伝えよう。テーマを決めかねているのを恥ずかしく思う必要はない。多くの教員は「一緒に考えていけばいい」「今日見せたものなら何が面白かった?」「実は君が面白いと言ってくれた○○は今後こうしようかと思っていて・・・」と話を広げてくれるだろう。

余談だが、実を言うと、具体的なテーマが決まっていない方が受け入れ側からすると「楽」場合もある。なぜなら、学部修士学生が独力で思いつくテーマは大抵面白くないのが現実であるからだ。なので、「こういう方向に興味があるが、具体的にはまだわからない」くらいの方が楽しく議論しながら研究を具体化できるので、指導する側からすると気が楽であったりする。最悪なのは絶対にこれをやりたい」と熱意にあふれているが、そのアイデアがつまらない学生だ。下手に折ると熱意が萎えしまいかねないが、そのまま受け入れると研究リソース無駄になってしまう恐れがある。そのため、気を遣いながら方向修正していく必要があるからだ。

設備について質問する

研究には設備必要だ。自分のやりたいことがある程度決まっている場合必要設備も自ずと定まってくる。それが研究室にあるかどうかは、確認した方がよいに決まっている。マウス研究室ショウジョウバエ研究をしたいと言っても苦笑いされるのが関の山だろう。

また、使いたい設備がわかると、そこから指導教員と会話が広がる可能性もある。どういう方法論に興味があるかがそれで伝わるためだ。

自分が使うかもしれない設備については、研究室の人数に対して適正な規模になっているのかを見ておくとよいかもしれない。例えば解剖スペースが学生数に対して小さすぎると、なかなか自分が使えないといった事態もありうるかもしれない。これは数年の生活では結構ストレスになるので、快適に仕事ができるかどうかは十分に見ておくとよい。

また、実験設備以外にも、共用の院生室などの充実具合も確認しておいた方がよい。

作業机は個人ごとにあるのか、共用であれば十分な広さであるか。私の知っているところだと、二人で一つの机を共用で、曜日ごとに融通し合わなければいけないところがある。キャンパスに通うモチベーションがガクッと下がるのは言うまでもない。

さらに驚くべきことに、ゼミ資料印刷費が自費という研究室存在する。学費を払って大学院に来て、さらに雑費まで払わされるのだ。

余談だが、私はコーヒーが好きなので、研究室に上等なコーヒーマシンが置いてあったのはかなりQOLを高めてくれた。

とにかく、見学した際に、自分がそこで生活するイメージが湧くか考えてみよう。

収入事情

博士院生金銭に頓着しない人間が多いが、生きていくだけの金銭が確保できるのかはよくよく検討した方がよい。金銭というのは、あまり多くても心理学的な幸福を増加させてくれないが、ないと一瞬で人を鬱にしてしまうのだ。

学振が取れればそれでいいが、問題修士課程と、博士学振取れなかった場合だ。

具体的には奨学金RA (research assistant)、TA (teaching assistant)、学費免除制度について尋ねよう。研究室によってはRA学費実質的にタダであったり、そもそも博士課程に学費がかからないところもある。

一方で、無償TAやらせたり、年々あれこれ理由をつけて学費をジリジリと上げている研究科も、私は知っている。

博士課程であれば、学生非常勤講師をどうの程度しているのかを聞いてみるのもよいだろう。ツテがあれば、非常勤の枠を斡旋してもらえ、収入源となるだけでなく教育もつく。

また、日本学生支援機構奨学金は通常ただの学生ローンであるが、大学院生かつ、一種 (利子なし) の場合免除制度がある。その研究室ではどの程度通っているのか聞いてみるとよいだろう。

これらのことも、率直に聞けばよい。

学費について不安なのでお尋ねしたいです」

奨学金はどの程度取れるものですか」

RATA制度はありますか」

非常勤講師の枠などはありますか」

のように。

教員現在ポジション

興味がある教員肩書きが「准教授である場合博士号の主査になれないことが多い。

その場合、通常は名目上、その研究科の別の教授主査になってもらうことになる。その際に不利益が生じることがある。

例えば

真っ当な良心を持っている人には何を言っているのかわからねー部分もあると思うが、私にもわからない。とにかく、現実にあるのだ。

ただ、そのようなことがないか確認するのは、入学前だと極めて困難であるのが実情だ。

少なくとも、そこの准教授学生がきちんと学位取得まで学生を育てているのかはよくよく確認した方がよい。

大学事務システム

これは博士で、特に学振DCを取る人向け。大学によっては研究費の執行システムがかなり厳格なことがある。研究不正をなくすためという高邁な精神は清く、正しいのだが、その結果大部分の研究者にとってはただただ煩雑であることも少なくない。将来的にDCを狙う場合は、聞いておいて損はないだろう。

まぁ、「事務研究者にsupportiveですか?」とか。学生が聞いてきたらちょっと気味が悪いかもしれないが。

研究室雰囲気はどうか

研究室雰囲気というのは面白いもので、実際に脚を運べば必ず漂っている。アクティブ研究室は活気に溢れているし、停滞している研究室には淀んだ空気が流れている。学生が働いている様子を見れば、自分がそこに加わりたいか、実感を持って考えることができるだろう。

気の利く教員なら向こうから所属している大学院生を紹介してくれる。そうでなくとも見学に行った際には「所属している大学院生と話がしたい」という旨を伝えるとよい。よっぽど後ろめたいことがない限りは、快諾してくれるはずだ。

https://anond.hatelabo.jp/20190519202053 に続く

2019-05-17

アンチの生と死に関する百日の動向』その一

学校であった怖い話。主にアパシーシリーズアンチどもが苔のように成長/肥大化していく様を観察し記録していこうと思います

せっかくなので、改行をして読みやすしましょう。

まずアンチというものは、ファンの中からウジ虫のように沸いて出てきました。

ファン自称しながら手のひらを返す様は、自覚がなければおかしいほど。その時の記録を下に記しますね。

公式が、Twitterを用いてなりきり企画を始めた頃。

なりきりに拒絶反応を起こした、一部のファンは、この段階で死にました。

死人は出たけど、この頃はまだ平和

今は苔になってしまった、自称ファンアンチも、この企画エンジョイしていました。

しかし、企画が二週間も続いたので、だんだんキャラクター解釈違いを嘆いたり、キャラクター絵師の絡みに嫉妬をしたり、

自分のことを、お客様だと誤認識した、勘違い野郎が、声高に文句叫び始めます

このころからTwitterはやかまし不快な土壌に。うるせえ黙れと思いました。

ファンAは、好きなキャラクターに冷たく接されたことが、癪に障ったようで、

虚無になってしまいました。

ファンBは、絵がうまく、フォロワーに褒められ、調子に乗ってしまい、

公式絵師になりたいと叫んでいたけど、企画中に、絵師拉致をされるイベント実施されました。

そうすると、ファンBは、うらやましいとコメント

その次の日からだんだん腐ってきて、陰毛殺害予告などの、不快極まる低俗罵倒を繰り返すようになります

嫉妬心が人を、おかししました。

その頃から、作者は嫌いだけど、作品は好きという言葉が、アンチの中で標語となります

アンチの主張はいつも正しく一貫していました。

作品は好きだから、作者が嫌いで文句を言うけど、私たちはずっとファン

私たち被害者私たちは正しい。私たちは、サークルを正しくしたいだけなのに。

公式は、文句無視して、裁判で脅す。私たちの声は、公式には届かない。

言いなりのファンけが信者として生き残って、作品を真に愛している本当のファンは、学怖を離れていく。

正しいと思っている主張をしているとき、人は強気になれます

ファンの苔アンチたちは、本気で自分作品を支えてきた良きファンだと信じているのです。

からファン代表を語って、運営にしつこく特攻したり、

リプライという、Twitter機能悪用して、公式アタック

一部返答を晒している、正義感の強い方が居ましたが、

運営はそのメールを打つくらいならその時間ゲーム作ってくれ。アンチ死ね」と思って見てました。

その正義感の強いファンCは、学怖騒動まとめという、かなりうがったまとめを作成しています

こちら、今は残念なことに削除されていますが、ネットの海では永遠です。

ファンCは自我肥大化していたので、かなり分かりやすヒロイック挙動に走っています

Twitterに縛られることなく、ごちゃんねるというまとめ掲示板にも出現して、

「あとは自分で考えてみてくれ」とお気に入り台詞を吐いてはたたかれていて実に面白い

観察しがいのあるので、また今度しっかりとレポートにまとめますね。

ちなみに本レポートは、苔に成長した偽ファンアンチのことを、まとめたいと思っていますが、

Twitterアンチについて語るなら、欠かせないのがこの男。

ほんとうは、アカウント名を載せて、それっぽいレポート記事にしたいけど、

アカウントに鍵をかけちゃったので、晒しもつまらないです。

ファンつぶやきを、スクショ晒しときに、めちゃくちゃ怒られたからと推測します。

この、ファンでもなんでもないのに、突然界隈に現れたニューウェーブは、

毒母に悩まされ、日々苦悩して暮らしていました。

マンションのローンが下りなくて、死にたい

幸せになりたいけどなれないので、死にたい

かわいそうですが、だからなのかもしれないですが、

学怖が炎上しているのをみて、一緒になりたいと思ったのでしょう。

学怖アンチつぶやきリツイートという機能を用いて、

自分のTLを埋めます。こうすることで、アンチたちに、自分存在を、知ってもらい、

アンチニューウェーブさんを介して、お互い認知しつながりますさらざんまい

このアンチ仲介所があったおかげで、苔は元気に肥やされました。

ファンあくま自分ファンだと宣うので、

ファン同士のコミュニティだと信じてつながる人も居たかもしれません。

死にたくて幸せになりたいアンチによるマッチングだと知るよしもなく。

仲介所の人は、先も申した通り、鍵垢となったので、

拡散力はシケてしまい、あまり面白い動きはしなくなりましたが、

今も積極的活動しています

怒られたのに、常識的に考えても、アウトだと思うけど、

ファンアカウントを、敵と称して晒し続けています

元気そうで、なによりです。

彼もしくは彼女は、いったいなぜ、アンチなのでしょうか。

常識がなく、視野も狭く、発言的を得ず、読解力も欠けているようなので、

彼もしくは彼女は、一般より知性が劣っているのは明白です。

集団ヒステリーのきらいもみられるため、

異常心理学からアプローチも考えましたが、

あくま一般人と仮定し、

行動分析学視点でひもとけば、少しは、精神障害者のようにみえ挙動理解できるかもしれません。

次回はそのアプローチから

2019-05-16

数学の勉強方法

参考になる本を紹介します。

勉強法の本はたくさんありますが、市川伸一さんの本は分かりやすいと思います

2019-05-14

学歴コンプレックス研究概観展望津田容子)

【関心テーマ意図

日本社会は表向き実力主義成果主義を掲げつつ、未だ学歴主義体質が根強いと言われている(渡辺,2006)。そのような社会の中で、大学学者割合が初めて5割を超え(文部科学省,2009)、数十年前と比較して高学歴化が進んでいる。全入時代までは至らないが、志望大学に拘らなければ受験生の9割超が大学に進学できる時代となった。今後は大卒肩書きのみでなく、大学知名度や質を重視する傾向が強まり受験競争さらに激化するとも考えられる。ここで問題となるのが、受験という競争に伴う敗者と勝者の存在である。彼らが過剰な挫折感や劣等感、あるいは優越感に囚われた場合学歴コンプレックスとして諸々の心理的社会的な問題を引き起こす。しかし現状は、定義自体曖昧であるため、研究者独自概念言葉で当問題が扱われている。そこで、今回は心理学分野での学歴コンプレックスに関する研究に注目し、考察と今後の展望を述べることとする。

【先行研究概観

学歴コンプレックスとは、不満足の原因を自己あるいは他者学歴に関連づけることで感じる、劣等感自尊心のこと(鷲田,1995)であり、学歴に対して劣等感を抱く場合学歴への誇大な自尊心を抱く場合の2層に分けられる。両層に共通する主な特徴は、以下の3点に集約される。第1に、自己の実力不足や失敗を過度に学歴帰属すること、第2に、自己だけでなく他者をも学歴評価すること、そして最後に、学歴ばかりに囚われ学業という本来目的を見失いかねないことである。これらの根底には、学歴が高いほど将来は報われると考える「学歴社会意識」(安藤,2007)や有名大学の進学のみに価値を見出す「学校主義」(野田,1996)といった学歴志向存在が窺える。層別に見ると、劣等感層では上述の志向に加え、入試時に第1志望に落ちて仕方なく所属大学に入った「不本意入学」(伊藤、1995)がコンプレックスの主要因となっている。そして、不本意から多浪仮面浪人、退学を繰り返す再受験症候群や、国公立大の進学者優遇する国公立大学至上主義下での私大学者なども本層に含まれる。一方、誇大な自尊心層では、学歴社会の勝者であるがゆえに、学歴に比例して自己過大評価する傾向がある。その裏には人柄や実力よりも学歴イメージが先行する、レッテルとしての学歴の影響が見られる。その他、学歴に見合った社会待遇でないと受け入れられない学歴保証希求や、就職時に多い高学歴者の挫折体験等の問題も挙げられている。これらの学歴コンプレックスに伴い、失敗感、挫折からくる無気力自尊心低下、不本意感に由来する不適応抑うつ状態といった心理的問題に加え、充実感や生き甲斐の欠如、自我同一性拡散の深化など、生き方のものに関わる問題存在示唆されている。また、学歴志向や進学観が親子間で継承される(吉川,2005)ように、親子間でのコンプレックス継承家庭内学歴格差によるコンプレックスなど、個人のみでなく世代間に学歴問題が発展する可能性もある。

【先行研究臨床心理学的意義と展望

先行研究は、学歴コンプレックスを多側面から検討し、日本独自学歴観や学歴の持つ意味学歴認知思考に及ぼす影響について言及した点で、学歴問題の諸相と今後の研究可能性を提示した意義を有する。今後の展望としては、同じ状況下で不適応に陥る人とそうでない人との相違や学歴にまつわる不適応への対処法など、臨床実践に向けた研究を進めていく必要がある。

津田容子引用文献>

安藤聡一朗 (2007).学歴社会意識とスチューデントアパシーとの関係についての考察 学習院大学人文科学論集,16,137-165.

池上知子 (2004).「学歴社会」に対する意識大学自己同一視との関係 愛知教育大学研究報告(教育科学),53,79-86.

伊藤美奈子 (1995).不本意就学類型化の試みとその特徴についての検討 青年心理学研究,7,30-41.

吉川徹 (2005).7-106間移動を考える.日本教育社会学会大会発表要旨集録,(57),44-45.

文部科学省 (2009).平成21年度学校基本調査.2010/02/02情報取得

野田陽子 (1996).学歴観の構良智 (学生とその親の学歴観の分析をとおして― 淑徳大学研究紀要,30(II),87-113.

鷲田小弥太 (2005).コンプレックスに勝つ人、負ける人PHP研究所渡辺山.

渡辺良智(2006).学歴社会における学歴 青山学院女子短期大学紀要,60,87-106

引用元:東京大学大学院教育学研究科臨床心理学コース下山研究室 社会と臨床心理学―研究会活動から見えるその諸相―

2019-05-11

anond:20190511193158

勉強カリキュラム世代で多少変わっても基本的には変わらない

コミュニケーションは完全に人による

心理学もアテにはなってない

anond:20190511192358

勉強カリキュラムだって人が決めているものに過ぎず不変の真理などではない。

コミュニケーション曖昧さを減らしたいのであれば心理学勉強すればいいのではないか

2019-05-10

文系学問において資料実在証明するものとは何か

久々にビッグ研究不正ニュースktkr

ということでキリスト教思想史研究やってた人が研究不正で懲戒解雇された件について、報告書に目を通した上でちょっと書きます

今回調査委員会被告発者に求めたのは、以下の項目でした。

この「写し」というのはどういうことでしょうか? 資料のもの調査委員会が求めなかったのはどういうわけでしょうか?

歴史学者にとっては常識なのですが、他の分野の人にとってはどうかわからないので、解説してみます

そもそも文系はどんな材料を使って研究してるのか

これは人というか研究分野によるので、安易なことは言えません。文学哲学社会学人類学歴史学言語学とでは使う資料がぜんぜん違います

で、この被告発者の研究手法は、近現代を扱う歴史家の多くが採用している手法だと思います近現代史を扱う人たちは、

を主に史料として使います(「史料」ってのは、歴史を記録したナマの資料のこと。「資料」と呼ぶと後世に書かれた二次文献なんかも含む)。あるいは、上に書いたようなものをまとめて出版した本とかを使います

これらの史料の特色とは何か……それは、

ことです。

公文書館というのは、「お役所の書いた書類を保管しておく施設」のことです。これはどのくらいかというと半永久的にです。普通文明国ならどんなに細かな書類でも公文書館に保管されていて、(民主国家場合は)数十年して機密解除されたり(独裁国家場合は)体制崩壊して民主化したりすることによって「申し込めば誰でも読める」状態に置かれます。これによって我々はソ連時代領収書なんかをロシア公文書館で読むことができるわけです。ソ連ですら公文書を保管して後世の我々に見せてくれているというのに……いや、これは余談でした。

当たり前ですが、それらはその国(あるいは地方)の公的な記録であって、自分のものにして持ち帰ったりすることはできません。ではどうするか。多くの歴史学者

などの手段史料を入手して研究しています(ちなみに写真撮影もカネを取る公文書館結構ありますね。日本だとどうなんでしょ)。

昔の人が書いたものも、本とかなら古本屋さんとかで流通しているのを買うことができるかもしれませんが、稀覯書でなかなか手に入らなかったり、古雑誌バックナンバーとか揃えるの無理ゲーだったりするので、図書館に所蔵されているのを使うことが多いです。近場の図書館に置いてない? 相互貸借もさせてくれない? そういう場合は当たり前ですが所蔵している図書館がある街まで行きます。その図書館がある街というのが新幹線必要距離だったりパスポート航空券がないと行けない距離だったりすることも稀によくある(歴史学者研究費は旅費と本代に消えていく運命なのです……)。そして、辿り着いた図書館カメラをパシャパシャやったりコピーを黙々と取ったりするわけです(最近スキャナーが普及してくれてマジ嬉しい)。

なので、調査委員会は「一次資料の写し」を求めたわけですね。たとえ彼が清廉潔白研究者であったとしても、一次史料原本なんてふつうは手元にないわけですから

しかし、本来、彼は「一次資料の写し」を提出する必要などありませんでした。自分論文を黙って調査委員会に提出すればよかったのです。なぜでしょうか?

ここで、もう1つの大事な話をします。

文系に「実験ノート」はない

もちろん分野によります心理学みたいに人を対象とした研究だとしっかり実験ノートつけるように言われるかもしれないし、考古学とかは発掘時の状況を克明に記録しておくことが重要だったりするかもしれない。でも、少なくとも近現代史みたいな分野では、実験ノートをつける、という習慣はありません。

私は一度も、理系で求められるような意味での実験ノートを書いたことはないし、書けと言われたこともないし、書いていないことを理由に責められたこともありません。もちろん史料ノートに筆写したりはしていますが、そのノートだって別に厳密なものではない。普通研究においてノートは使いますが、それは高校までのノートと一緒で、鉛筆で書いてもいいし、好き勝手なやり方で書いていいし、なんなら途中で破ったりしてもいいごく普通ノートです。最近ノートじゃなくてパソコンとかを使って研究上のノートを取ってる人も多いんじゃないかな(手書き疲れるもんね……)。

なぜか? と言われれば、

です。

まり、「もとになった資料」というのは、理系のように自分実験室の試験管の中にしかないものではなく、別の誰かが保管してくれているものなのです。

理系学問において標準化された改竄不可能な形で実験ノートをつけなければならないのは、自分実験室の試験管の中にしかオリジナル資料がないからですよね? しか文系場合は、少なくともここまで説明した近現代史場合は、オリジナル資料はどこかの政府管理している公文書館とかどこかの大学図書館かに保管してあるわけで、そこに辿り着くまでの情報さえ明記してあればそれで十分なのです。これはドイツ連邦共和国ベルリン連邦文書館の何々というファイルに保管してある何というタイトル史料だ、とわかれば、チェックのためにはそこに見に行けばよいし、これは19世紀に書かれたほにゃららという新聞に載っていた記事である、と書いてあれば、その新聞が所蔵されている図書館を探して読んでくればいいわけです。

なので、別にどんな方法ノートを取ろうが自由なわけですね。最終的に読者がその元になったデータを見つけられるようにしておけばいいわけから

ゆえに、歴史学論文や著書には膨大な注がつけられます引用した史料のそれぞれについて「どこに保管されている史料なのか」「なんという本の何ページに書いてあることなのか」ということを書かないといけません。

なかには、史料自分の手元にある場合もあります。多くの場合それは「昔の人が出版した商業出版物」なので(たとえば、極端な例ですが『わが闘争』)、他の誰かも持っていることが多いです。もしそういう史料捏造とかしちゃうと「俺もこの本持ってるんだけど、お前が引用してる箇所見つからなかったよ?」という怒られが発生します(なお、捏造ではないですが誤訳指摘は受けたことがあります。コワイ! でも覆面査読なのにこの文献の誤訳を指摘できるってことはあの人しかいないじゃん……ってわかっちゃう! 文系世界基本的に狭い!)。「むっちゃ少数しか発行されなかった自費出版の本」とかが典拠になっている場合もあります。こういう史料典拠にするのも仕方ない場合があるんですよ……典型的には、そこまで有力ではなかった政治家とか在野の知識人とかを研究したい場合、彼らが出してる本は全部自費出版というのがありえます(あと、言語学とかだと、たとえば与那国島方言研究したい場合に一番の参考資料になるのは与那国島のお年寄り自費出版した方言辞典だ、みたいな例がありまして……与那国町が進めてる辞書出版プロジェクトむっちゃ楽しみ)。ごくごく稀に、古本屋歴史上の人物が書いた手紙の山をまるごと購入できた、みたいな奇跡があって、モノホンの一次史料研究個人の所蔵になっている場合があります。これはねえ……もう本当に個々の研究者の良心を信じるほかないよね……若手研究者だと色んな大学を移り歩くこともあるだろうから所属してる大学図書館寄付しろとも言えないしね……原史料出せって言われたときにすぐに見せられるようにしておいてね、定年退職するときは勤務校の図書館に置いていってよ、とお願いするくらいしかできない感じはあるよな……

さて、長々と書いてきましたが、要するに、捏造を疑われた研究者がきちんと注で出典を書いていれば、彼は論文調査委員会の人たちの前に突きつけて「ここに出典書いといたから、見に行って確かめてこい」と言えばそれで済んでいたのです(それが生データにあたるものなので。実際、今回の調査委員会ドイツに問い合わせたりしていますね)。もっと言えば、彼本人から話を聞く前に、調査委員たちはまず典拠との照合作業を行って、彼が誠実に引用したこと、つまり彼が研究不正に手を染めてはいないことを確認してくれていたでしょう――もしも彼が潔白であったならば。

しかし今回の件では、注に不備があったので調査委員たちは注から出典を辿ることができませんでした。そこで被告発者に「写し」を求めた結果、元となる史料そもそも存在しない、捏造されたものであることが判明したわけです。

注をしっかりつけろよ! まことにごもっとも。特に今回のケースは注の多い学術書であり、注の不備は申し開きができません。しかし、しかしです、この背景には、日本出版事情が絡んでいるのです。

「注がない本」問題

今回の被告発者は、学術書のほかに新書も書いていました。多くの新書には、参考文献リストはありますが注はありません。そして日本には、「研究者が書いた真面目な学問に関する本だが、注がない」というのが一定数あります(一応言っておくと、ここではauthor-date方式みたいな「厳密な意味での注じゃないけど、ともかくも出典を示す機能を担っているもの」も含めて注と呼んでいます)。実はこれ、文系あいだでも問題視されていることなのです。

文系学者が書いた学問に関する著書には、明白に書誌情報として区分されているわけではないですが、いくつかの区分があります第一にいわゆる狭義の「学術書」。むっちゃ小難しい語彙で書かれてて、先行研究とか新規性かに一言及して、参考文献を何十ページも載せてたりするやつです。読者は同じ学者、あるいはその卵。これで注を省くのは論外です。第二に「教科書」。これは学生さんとか初学者向けに易しく書き、内容には特に新規性を求められておらず、包括的な参考文献はなくとも読書案内がついていればそれでよし、という感じでしょう。注は別になくたっていい。

そしてこの2つのあいだには、「一般向け」という広大なグレーゾーンが広がっています

あなた読書好きで、少々お硬い本にも興味があるのなら、中公新書とか講談社選書メチエとかそういったレーベルを聞いたことがあるでしょう。岩波書店青弓社社会評論社といった出版社の名前を聞いたことがあるでしょう。実はこの辺、色々な種類の本が入り交じるグレーゾーンなのです。

これらのレーベルで真面目な学術書出版する人もいます講談社選書メチエでも、末尾にビッチリ注がついてたり参考文献リストがあったりするやつあるでしょ? ああいうやつ。一方で、こういうレーベル一般向けの概説書・入門書を書くことに使う人もいます。よく中公新書で、包括的タイトルで薄めの本を見ることがあるでしょ? 今回の『プロテスタンティズム』もそれですね。そして、一般向けの解説を書きながら、さり気なくその中で新しい見方提唱したりする人もいます学術的な新規性のある内容を、一般受けしそうだという理由で限りなく一般向けの本の体裁で書く人もいます最近のやつだと『姦通裁判』マジお勧め)。

さて、こういう本を出す上では、内容は著者の完全な自由にはなりません。編集者は、もちろん学術的に正しい内容を求めているのでしょうが、彼らにとって重要なのは「売れること」です。そのために「一般向けにもうちょっと柔らかい言葉遣いで書いてください」とか色々と内容に介入してくるわけです。文体くらいなら別に構わないかもしれませんが、彼らの中にはこんな要求をしてくる人もいます「注なんてつけたら一般読者に嫌がられます、注は省きましょう」

こうして生まれるのが、「学術的に新規性が高く面白い内容を扱っているのだが、注がない」という一般書の群れです。

もちろんこういった本にも参考文献はあり、「注はないけど、典拠を探しながら読めば典拠がわかるような書き方になっている」本もそれなりにあります(たとえば、はてな太郎の説によれば、と本文中に書いてあれば、注がなくても参考文献リストはてな太郎が書いた『増田研究』という本を探し出せる)。ただ、やっぱりそれは注がある文献の出典表示の厳密さに比べれば一段劣るわけです。

これに関しては、研究者も出版社もそれぞれに問題があります研究者サイドは簡単に「注を省け」なんて要求妥協すべきじゃないし、そもそも「著書を出版する」ことが、博士論文を見るためにはわざわざ学位を授与した大学国会図書館に行くほかなく出版して書店流通させることが最も良い研究成果の流通のさせ方だった時代であればともかく、各大学リポジトリを持っていていくらでもディジタル研究成果を公表できる時代にあって本当に重視されるべきか考え直す必要があるでしょう(でも、欧米出版社でも学術出版は盛んなので、これは日本だけの問題じゃないんですよねぇ。今でもオックスフォードケンブリッジハーバードコーネルといった有名どころのUniversity Press学術書出版しまくってます学術書研究業績として重視されるのは人文系では割と世界標準なので……)。

一方で、出版社は注をもっと重視するべきです。というよりも、日本出版社やジャーナリストノンフィクション作家は注をつけなさすぎます。先日、ボブ・ウッドワードトランプ大統領についてのルポルタージュ出版しましたが、体裁も内容もおおよそ学術的とは呼べない一般書そのものの本なのに、きちんと出典を示す注がついていました。出版社は、学者に注を削れと言うべきではなく、ノンフィクションを書く作家記者たちに注をつけろと言うべきでしょう。

とはいえこれは一朝一夕はいきません。そもそも知の折り詰めである新書」という形態が割と日本独自のもので、そういう一般学術を橋渡しするレーベルが広く一般読者に読まれていることの重要性というもの鑑みると、簡単になくせとか言えません。私も色々お世話になってるし。人口1億人ちょいの書籍市場ではどうしたって限界があり、色々な本を出すのではなく折衷的な本を1冊出すのが経済学的には最も合理的という考え方だってあるでしょう。ただ、やっぱり一般書にも(それこそ講談社ブルーバックス岩波新書レベルにも)注を入れるようにする、というのは必要だと思うのですよね。

さてここまで「注がない本」問題について解説してきました。でも何が一番言いたいかというと、

注はあなたの身を守るためにある

これ。これに尽きます。注はちゃんとつけよう。もしもあなた捏造者でなくとも、研究不正をしていなくとも、実験ノートをつけない我々の業界において潔白を証明してくれるのは注だけなのだから。注だけが資料実在証明してくれるのだから。本の売上よりも、あなたの保身のことを考えよう。あなたが、部屋が汚いとかハードディスクがお亡くなりになったとかパソコンの買い替え時に行方不明になったとかの色々な理由で、史料の「写し」を紛失する日はきっと訪れる。そのときに、これまでのあなた研究の誠実性を証明できるのは、人文系学問においては、注だけなのだ

以上です。駄文に長々と付き合ってくださりありがとうございました。続きはanond:20190511125053で。

2019-05-04

低学歴努力を重視し、高学歴が才能を重視する理由

有名高校に通っている学生ほど才能を重視するが、名のない高校に通っている学生努力を重視する。この違いは、おそらく「才能を重視する方が頭が良い」というわけではない。

底辺高校の特徴

底辺高校の特徴は、やはり勉強をしない人間が多いということだ。俺の通っていた高校勉強しないバカが多かった。おそらく、70%の奴は、テスト勉強をまともにやるわけではなかった。

しかし、一定率で、なんとなくテスト勉強をやってみる奴が出てくる。すると、どういうわけか、ちょっと努力しただけでTop30%には入れるということがわかってしまうわけ。

すると、ちょっと努力して味をしめた奴らは、もうちょっと努力を増やしてみて、結果が変わるかを試す。すると、今度はTop5%に入れてしまう。

要するに、名もない低学歴高校で育った学生は、努力が結果に結びつくことを知っている。

有名高校の特徴

これは有名高校に通っていた知人の山田(仮)から聞いた話だが、山田はその学校勉強について最大限の努力をしていたといっていた。

でも順位中央ぐらいに収まっていたらしい。だが、山田の点数が悪いというよりは、問題自体が難しくて、しかも全体の点数も高いというダブル理由があったっぽい。

それで山田は「勉強戦略が悪いんだ」と考えて戦略を変えたらしく、確かに戦略改善したら順位はある程度は上がったのだが、Top10%に入るのがやっとだったそうだ。

山田科学的に効果のある勉強法とやらを英語でググって心理学の専門サイトとかから引っ張ってきて、それを継続的実践したんだが、やっぱりTop5%に上り詰めることはできなかったらしい。

山田が最終的にたどり着いた考えは「勉強世界でTop5%に上りつめるには、才能が必要」ってことだった。

それで、その仮説を確かめるために、Top5%に入るやつのうちの一人を連れてきて、どのぐらいの記憶力があるのか、トランプ勝負したらしい。

そのTop5%の鈴木くん(仮)は、シャッフルしたトランプの並び順を1分で全て記憶するほどの記憶力があったらしい。

要は、有名高校の奴らは基本的努力はしているから、戦略か才能が結果に結びつくことを知っている。

レッドオーシャンと才能

心理学では、「努力を褒められた子供は、才能を褒められた子供よりも成功する」とか「努力に対するポジティブな態度が成功を左右する」と言われるらしいんだが、俺が思うのは、努力だけで決まると考えているうちはまだまだレベルの低い戦いをしているってこと。逆の言い方をすれば、才能を重視している奴らは、すでに努力では超えられない壁経験してることがある。

かに努力もしないやつが才能主義に陥ったら最悪だが、努力に対してポジティブな態度を持っていたとしても、才能がなければ超えられないケースはたまにある。

スポーツ選手が良い例で、体操選手は体格によって回転の角速度が変わるから、その部分は才能が極端に出てくる可能性はある。

要するに、レッドオーシャンで戦ってトップを目指す限りは、才能は避けられない事柄と言える。過剰な競争があると、皆が皆最適な戦略を試して、最大限努力しているので、優位性を確保するために才能が必要になる。一方で、ブルーオーシャンで戦うなら、その分野が流行らないうちは才能よりは戦略努力重要になってくる。

まとめ

底辺にいる奴らは努力したほうがいい。そうすれば能力はある程度上がる。努力をしていて成功しない奴らは、戦略を重視したほうがいい。努力して、戦略を試して、超えられない壁がある場合は、才能が問題かもしれないから、少なくともレッドオーシャン能力を競うような場から逃げ出してブルーオーシャンを探すか、そこそこの結果で満足していたほうがいいかもしれない。結局、自分がどの分野で戦うか、ってことが最も重要なので、努力の前にそこを見極めたほうがいい。

ちなみに俺は、名も知られていない小さな会社で、ブルーオーシャン的な分野でそこそこの収入で満足しているだけの者ですよっと。

2019-05-02

anond:20190502182213

世界でなんで流行ってるのかは分からないけど

GWからこんまり流片づけをはじめて45Lゴミ袋が11袋くらいでたよ

今までは「1つ買ったら1つ捨てろ」とか「1個あったら2つもいらない」って言う理論で進めてきた片付けメソッド

ばっさり「ときめくかときめかないか問題だ」と感情論にして

片付け=精神的に結び付けて心理学のようなことを書いているのが

理系ではない自分には合っていたと思う

2019-04-30

ふろむだの本が糞過ぎた

心理学の本に良く書いてあることをそれっぽくダラダラ書いているだけだったわ。

まぁ、「錯覚資産」という造語は良かったけど、本当それだけって感じだった。

2019-04-29

この職場、心理的安全性が確保されていないね?(ブラック企業)

 

心理的安全性とは、サイコロジカル・セーフティ(psychological safety)という英語和訳したものであり、ビジネスと強い関連性を持つ心理学用語です。

心理的安全性は、他者の反応に怯えたり羞恥心を感じることなく、自然体の自分を曝け出すことのできる環境雰囲気のことを指します。

 

心理的安全性 - 「チームの中でミスをしても、それを理由非難されることはない」と思えるか。

 

エドモンソン氏は、チームの心理的安全性を高めるために個人にできる簡単な取り組みとして、次の 3 点を挙げています

  1. 仕事を実行の機会ではなく学習の機会と捉える。
  2. 自分が間違うということを認める。
  3. 好奇心を形にし、積極的質問する。

 

2019-04-27

ジョルノの咲かせた花の鑑別は人によってバラバラなのに

花言葉はみんなそれっぽいこと言ってて「あ、これ心理学でよく聞く奴」と思った

2019-04-25

中卒に向いていないタイプ

遺伝的に知能が高かったりすると中卒人生に向いていないのかもしれない。

高卒はともかく中卒は事情ピンキリ

経済的事情で進学しなかった

ヤンキーで進学する気がない

いじめとか精神疾患発達障害などが理由不登校だった

などを筆頭に、親が宗教にハマッっていたり人格障害で荒れていたりすると小学校すらちゃんと通えていなかったりもする。

成人してある程度自由を得ることで、やっと人並みの努力ができる状況になる人もいる。そんな人はとりあえず根性がある。

根っから性格破綻していなければ、常識がなくても世間に揉まれて最低限身につくしコミュニケーションだって人並みに取れるようになる。

そこまで行って軌道修正できた後におかしな方向に進む人もいる。バランス感覚を身に付けることが出来なかったタイプ

経験知識が著しくアンバランスなのが自然体で、それを自覚する機会と縁の薄い生き方をしている。

学歴コンプ原動力とした知識欲なのか、あれこれインプットしては物事拡大解釈する。その先には自己完結

そして、それを仮説にとどめるブレーキが緩い。

学歴コンプがなければ、知識を糧にしようと背伸びして人と摩擦を起こしたとしても、「頭がおかしい」のような事を言われるだけだと見えない評価の予想ができるけど

学歴コンプが強いことで「中卒であることを馬鹿にされている」と受け止める部分があり、反発心妄執で更に知識を求める。

知識欲が自己啓発スピリチュアル心理学に向かうと手が付けられなくなったりする。

「それらは多くの人が年頃に一度は興味を持ったりするもの」という観点が無いのか、救いを求めて手を出しているからか特別視していたりする。当人特別視はしていないつもりで。

そういったもの危険な面を表面的に理解しつつも、経験が伴っていないため安全装置的なカンが鈍く深みにはまる。

学歴コンプを跳ね除けるべく努力した先が、頭でっかち理想家。

ボキャブラリや見聞きしただけの観点ばかり増えてしまい、いわゆる『自分の考え』はほぼ空論

社会他人問題に対して、知的な振る舞いで問題視することが趣味になり、そうして自身の負い目を間接的に慰める。

「言う側」に立つことで精神の安定を保っているのかもしれない、エゴ肥大することを代償にして。

不都合実態他人の目から隠しても、自身はそれと常に付き合っている。

そうして、言行不一致による矛盾が増えては誤魔化すことを繰り返し、普通なら感じる限界の先に行くと巧妙な開き直りを思いついてしまう。

それは麻薬中毒者が幻覚規則性を見抜いた錯覚のようなものだけど、乏しい経験に加わる「発見という経験」は正解に感じやすい。

そんな狂った感性生産的な方法昇華する手段職業的なモノサシでも持っていないと、次のステージに進んだことにも気づけない。

良かれと積み重たものは、妄執に振り回されて行った一夜漬け的な努力の塊で、そこから生み出されるエピソード

頭の中の人形劇に継ぎ足されて、日々複雑化と単純化を繰り返しては時間を奪う。

そうして取り返しがつかなくなってしまったら宗教がとても魅力的に見えてくるのかもしれない。

2019-04-22

そもそもアドラー哲学であり自己啓発であって、臨床に基づいた心理学ではない感じなのよねえ。

2019-04-21

理学部教授ってほんまあかん

人とコミュニケーション取ったことないんか?

ほんまイラつく

勉強はしてるようで、エセ心理学使って学生レッテル貼りしてるけど、的外れやし「プライド高い」とか「小心者」とかガイ発言ばっかや

2019-04-11

anond:20190411153704

マジレスするとそれは学派?による。

 

心理学という学問自体が、事実よりも学派で様相が変わってしま学問である、という問題の表れでもある。

anond:20190410224200

そういうトンデモ脳科学心理学は信じちゃだめだぞ

専門家である精神科医ですらマズローアドラーユングを唱えるやつはトンデモとして敬遠されてるしな

恋愛講義してる人間にろくなやつはいない

2019-04-09

文学部に進学すべきでない理由

学問的態度が身につきづらい

文学部学問に重きを置く人が少ない。

私の出身大学京都大学)だと、大学院に進むのは1/4程度でしかない。

同じく京都大学工学部だと9割近くが院に進学することを思うと、割合が低い。

また、単位認定があまりにゆるく、出席してあとは超くだらないレポートを書けばほとんどの講義単位が出る。

4年間いて、単位で苦しんだ覚えがない。

また、卒業論文文字通りの参加賞であり、教授に1回しかも5分間ほどしか指導を受けなかったが

難なく卒業することができた。

以上のように学問を軽んじる風潮が蔓延している。

私は気を抜いて周囲に流されてしまったので学問的態度や論文の書き方が身につかず、

社会人になってから業務である分析レポートを書く際に色々と恥ずかしい思いをした。

学問するもしないも自己責任ではあるが、文学部高等教育にふさわしい教育体制を備えていなかったことも確かだと思う。

生涯年収が低い、就職が悪い

文学部は良い会社就職しづらい。

高校生にはイメージしづいかもしれないが、新卒で入った会社給与が低いと、

たとえ転職してもその低い給与基準に新しい会社給与も決まりがちなので、低賃金という状況から逃れづらい。

工学部を出てメーカーに入った友人が30台半ばで1000万円近くの年収を得ている一方、

しょうもない会社に入ってしまうと同じ年齢で500万円程度しか貰えなかった。

生涯年収では1億円以上の差が出てしまうのではないだろうか?

私の場合仕事の成績が良かったので上司特別年収アップを交渉したり、

アップしてもなお低すぎたので転職したりしたが、

いずれにせよそれなりにエネルギーを使うことになった。

また、転職すると業務内容や業務の進め方が変化するので前職で得た能力がかなり無駄になってしまった。

さらに、京大文学部場合都道府県庁市役所就職できればまずまず上出来という雰囲気があったが、

京大を出て地方小役人は悲しすぎる。

京大には多額の税金が投入されており、本人にも高い能力があるはずなのに、小役人で良いのだろうか。

私は滑り止めで出身地県庁受験し、内定を得た。京大生はあの手の試験は得意なので半月真面目に勉強すれば十分だったが、

公務員試験予備校で1年間勉強してやっと合格するレベルの人もたくさんいると聞いて、

そんな人達と一緒に仕事をするのは嫌なので内定を辞退した。

だが、それでも、文学部卒業する人にとってはまずまず上出来な就職先であり、仕方がなく小役人になる者も多い。

メリットが小さすぎる

大阪大学卒業セレモニーで金水先生が語った式辞がしばらく前に話題になった。

曰く、文学部学問本領を発揮するのは人生の苦悩に直面したときであり、その苦悩を客観的に捉えられるようになることがメリットである、といった趣旨のことだった。

https://withnews.jp/article/f0170724005qq000000000000000W00o10101qq000015619A

しかし別の分野でも同様のメリットがある。

たとえば両親が死にそうだという苦悩に関してはキューブラー=ロスが提唱した死の受容モデルを知っていれば、親の心理状況の把握や子の立場としてのメタ認知を得ることに役立つ。

他にも、心理学、ミクロ経済学などの知見も苦悩と向き合うツールになるだろう。

また、金水先生自身上記の式辞で述べている通り、

文学部学問は、例え企業就職しても、家庭に入ったとしても、一生続けることができます」。

そうであれば大学で学ぶ意義がどこにあるのか。

例えば高校教科書を引っ張り出して山月記を読むことは誰にでもできるし、アマゾンで買ったタタール人砂漠砂の女通勤電車で読むこともできる。

以上のように文学部メリットは、デメリット釣り合うほど大きくない。

負の社会的シグナルとして機能する

文学部を出た人間仕事に向いていない、専門知識を持っていない。これが事実であるか否かにかかわらず、このような考えを持っている人が社会には多い。

そうした社会の中で「大学文学部卒業しました」と言うと、上に述べた妙な先入観で見られることが多い。

文学部入学して、卒業することは、社会からシラけた目で見られることなである

それでも文学部に入って良かった理由

ここまでデメリットを並べたが、私はそれでも文学部に入って良かった。

コスパは確実に悪い。

しかし、私個人が持っていた疑問、すなわち文学とは何か? 文学の美とは何か? といった点に私なりの答えを見出すことができた。

これは社会的にはほとんど無価値問題である

しか私自身が個人的に抱いた疑問をひたすら考える4年間を得たことで、私が私自身の人生を生きているという感触を得ることができた。

けれども、繰り返すがコスパが確実に悪い。

年収が低くなるし、そうすると結婚しづらくなったり、良い医療を受けづらくなったりする。周囲から白い目で見られる。

このような現実的問題説明なしに、「文学尊い学問の一つだ! 大学就職予備校ではないのだから学びたいことを学ぶべきだ!」と無知高校生を焚きつけるのは大人社会的責任を放棄するに等しい。

から私は、基本的文学部に進学すべきではないと考えている。

私の場合世間一般よりもかなり地頭が良いので、なんとか世間並みの暮らしができているが、

普通の人にとっては文学部に入るというのは人生ハンディキャップだ。

から文学部に進学すべきでない。

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