はてなキーワード: 太宰治とは
小学生:
(これ以外思い出せん)
中学生:
悲しい予感(吉本ばなな) 模試か何かの試験問題になっていて、何故だか刺さった。小説っていいなと初めて思った。
高校生:
大学生:
グラスホッパー(伊坂幸太郎) 講義室の忘れ物を勝手に読んだ。面白かった。
室井佑月の何か
田口ランディの何か
森博嗣のS&Mシリーズ、四季シリーズ、Gシリーズの一部
人間失格 (太宰治) 見栄を張って、全集借りてきてここだけ読んだ
龍は眠る、レベル7 (宮部みゆき) 嫌いな小説がある、というのを宮部みゆきで初めて経験した。
慟哭(作者思い出せん)
思い出トランプ(同上)
社会人:
伊坂幸太郎の色々(ゴールデンスランバー、モダンタイムス、チルドレン、サブマリン、マイクロスパイアンサンブル、アイネクライネナハトムジーク、砂漠、ラッシュライフ、オーデュボンの祈り)
吉田修一の色々(太陽は眠らない、森は生きている、怒り、悪人、横道世之介、静かな爆弾)
原田マハの色々(楽園のカンヴァス、暗幕のゲルニカ、たゆたえども沈まず、キネマの神様、本日はお日柄もよく)
赤い竪琴 その他色々 (津原ヤスミ) 図書館で赤い装丁の本が気になって手に取ったのがきっかけ
グレッグイーガンの何か ここで薦められた奴
命も要らず、名も要らず(作者思い出せん)
博士の愛した数式(同上)
花戦(同上)
老人と海、武器よさらば(ヘミングウェイ) 上司がなんか言ってたから読んだ奴
サリンジャーの何か(バナナフィッシュ云々が収録されてるヤツ) 漫画のバナナフィッシュを昔読んだのをふと思い出して読んでみた
もっと読んでるはずだけど、なかなか思い出せんな。
漫画とゲームとエロ動画にはもっと時間割いているけど、結構読書家じゃろ?
増田本人は大丈夫だとしても、女性全員のことを考えたらどうかな。
フェミニストの話だと、女性たちは未だに親に人生を支配されて無学になった人が多いんだって。
行けても東工大みたいな理系は「女らしくない」って言われて、結局女子大の社会学部みたいなところに行かされる。
太宰治みたいな教養とかの話ならまだ笑い話で済むけど、もっと深刻なことが分からない成人女性も多い。
フェミニストの研究の調査だと、性的なことについての意思表示や社会に出てからの契約も、うまく出来ない人が想像以上に多いと分かった。
なんか第一印象で馬鹿だと思われることがすごく多くてモヤモヤする
職場以外で出会ったおっさんと世間話するとき、「太宰治っていう昔の有名な作家がいて…」とか「イスラエルはユダヤ人の国で…」みたいなこといちいち言われてさあ
いや別にいいんだけどそれぐらい知ってるよ、
ドヤ顔で「君は知らないと思うけど」みたいな感じ出されても
そんで仕事何やってんの、って話になって答えたら「なんか専門学校とか行ったの?」とか聞いてくるし
で、例えばそのとき私が彼氏といた場合、彼氏には「知ってるやろ?(笑)」みたいな感じで話してるのもムカつく
ほんと別にいいんだけど、「男とは趣味とかニュースの話できるけど女は無学だからできない(だから、いちいち俺が教えてやらないといけない)」っていう発想がムカつくんだよ
私が男で同じことされたら舐めてんのかこいつってすごいムカつくよ、なんで女にならできるんだよ
やっぱこの手の話は比較的反応貰えるね
全然全部嘘だけど
私ただの服屋のバイトだし
相変わらずジェンダーがどうとかつまらない話が多いので、過去の用例から「奥さん」あるいは配偶者呼称についていろいろ考えたいなあ。と思って書きます。
勿論、女中などに似ようはないと、夢か、うつつか、朦朧と認めた顔のかたちが、どうやらこう、目さきに、やっぱりそのうつ向き加減に、ちらつく。従って、今声を出した、奥さんは誰だか知れるか。
それに、夢中で感覚した意味は、誰か知らず、その女性(にょしょう)が、
「開けて下さい。」
と言ったのに応じて、ただ今、とすぐに答えたのであるが、扉(ひらき)の事だろう? その外廊下に、何の沙汰も聞えないは、待て、そこではなさそう。
「ほかに開ける処と言っては、窓だが、」
さてはまさしく魘(うな)された? この夜更けに、男が一人寝た部屋を、庭から覗き込んで、窓を開けて、と言う婦(おんな)はあるまい。(「沼婦人」泉鏡花、1908(明治41年)
「奥さん」は、自分の配偶者というより既婚女性に対する敬称として用いられています。「女中などではなく」自分が夢想する上流階級を思わせる女性(奥さん)が誰か分からないが、夜更けに訪ねてきた「女性(にょしょう)」は普通の「婦(おんな)」ではないだろう……という流れですが、この呼び分けは、日本語代名詞の豊かな言語世界を垣間見せてくれますね。
「奥さん」という語がめちゃくちゃ出てくる小説と言えば、やはり夏目漱石「こころ」(1914(大正3年))でしょう。前半では「先生」の妻である静さんの呼称として、後半では先生が青年期に下宿していた、静さんの母親の呼称として「奥さん」が登場します。この作品は、一人称の語り手による手記の体を(前半後半とも)取っているため、固有名詞を避ける書き方をしており、その結果であると思われます。
私はすぐ玄関先を去らなかった。下女の顔を見て少し躊躇してそこに立っていた。この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまたうちへはいった。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。
「奥さんらしい人」という表現から、「奥さん」が「配偶者」の意味で用いられていることが感じられます。ただ、自分の配偶者を呼ぶ呼び方ではないですね。
私の知る限り先生と奥さんとは、仲のいい夫婦の一対であった。家庭の一員として暮した事のない私のことだから、深い消息は無論わからなかったけれども、座敷で私と対坐している時、先生は何かのついでに、下女を呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名は静(しず)といった)。先生は「おい静」といつでも襖ふすまの方を振り向いた。その呼びかたが私には優しく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子もはなはだ素直であった。ときたまご馳走になって、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の間に描き出されるようであった。
「こころ」は新聞連載ですが、奥さんの初登場は先の連載4回目、その後奥さんと先生(夫)の重要なシーンである第8回を経て、この第9回で初めて名前が登場します。この作品、先生を訪問してきた「私」と奥さんが共に食卓を囲むシーンなどが多くあり、この夫妻は大正当時の一般的な夫婦関係よりも幾分現代に近い感じで描かれているように思います。
次は、「先生」が若いころ、その奥さんの自宅に下宿をしたとき、奥さんの母親を「奥さん」と読んでいたというシーンの引用です。(中略があります)
それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷の士官学校のそばとかに住んでいたのだが、厩(うまや)などがあって、邸(やしき)が広過ぎるので、そこを売り払って、ここへ引っ越して来たけれども、無人で淋しくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には未亡人(びぼうじん)と一人娘と下女より外にいないのだという事を確かめました。私は閑静で至極好かろうと心の中に思いました。
(略)
私は未亡人に会って来意を告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらについて色々質問しました。そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも引っ越して来て差支えないという挨拶を即坐に与えてくれました。未亡人は正しい人でした、また判然(はっきり)した人でした。私は軍人の妻君というものはみんなこんなものかと思って感服しました。感服もしたが、驚きもしました。この気性でどこが淋しいのだろうと疑いもしました。
(略)
私は未亡人の事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんといいます。奥さんは私を静かな人、大人しい男と評しました。それから勉強家だとも褒めてくれました。けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。
「上さん」「未亡人」「妻君」「奥さん」は全て同じ人物を指していますが、それぞれの場所でニュアンスが異なることが分かります。それぞれ「下宿屋の女主人」「(夫を亡くした)配偶者」「配偶者(尊称)」「既婚女性(尊称)」くらいに捉えるのが適切でしょうか。
そういうわけで、私たちは家の主婦を奥さんと呼んでいました。下宿屋のおかみさんを奥さんと呼ぶのは少し変ですが、前にも言う通り、まったく上品で温和な婦人で、どうもおかみさんとは呼びにくいように感じられるので、どの人もみな申合せたように奥さんと呼び、その娘を伊佐子さんと呼んでいました。家の苗字は――仮りに堀川といって置きましょう。(「白髪鬼」岡本綺堂、1923(昭和3年))
…「下宿屋のおかみさんを奥さんと呼ぶのは少し変」という言語感覚から、「おかみさん」「奥さん」の使い分けがくっきりと見て取れて面白い用例ですね。この話は、発表は昭和ですが、岡本綺堂は明治生まれですし、物語内時間は10数年前(つまり震災前)という設定ですから、言語感覚としては漱石の少し後、大正期の中頃を反映していると言った方が適切かもしれません(まあ、それを言うなら「こころ」の場合、おおむね時代は明治期の想定と言えそうですが。)
昭和に入ると、「奥さん」が配偶者を指す呼称としてライトに用いられ始めたように思います。太宰はこういう言葉のちょっとしたニュアンスが本当に上手な作家で、次の用例の言葉の使い分けは非常に印象的です。
「奥さま、もうすこしのご辛棒しんぼうですよ。」と大声で叱咤しったすることがある。
お医者の奥さんが、或るとき私に、そのわけを語って聞かせた。小学校の先生の奥さまで、先生は、三年まえに肺をわるくし、このごろずんずんよくなった。お医者は一所懸命で、その若い奥さまに、いまがだいじのところと、固く禁じた。奥さまは言いつけを守った。それでも、ときどき、なんだか、ふびんに伺うことがある。お医者は、その都度、心を鬼にして、奥さまもうすこしのご辛棒ですよ、と言外に意味をふくめて叱咤するのだそうである。(「満願」太宰治、1938(昭和13年))
医者が、夫の体の静養のためにセックスを禁止して…というちょっとした掌編なのですが、最初の「奥さま」は、医者が患者の配偶者である若い奥さんに言い聞かせるときの呼称、医者の「奥さん」は医者の(やや年配の)配偶者のニュアンスで用いられていますが、地の文での「奥さま」と「奥さん」の使い分けで、雰囲気が表現されているのは実にうまいです。
最後に、呼称という点で、最初に見かけてこれは書き留めておきたい(ぶっちゃけこの記事を書くきっかけになった)のがこちら。
妻は水の引くように痩せて、蚊帳の中で死んでしまった。死ぬ前「今度奥さんを貰う時は、丈夫な奥さんを貰ってね」と言った。
「莫迦、お前が死んだら俺は一生独身でいるよ、女房なんか貰うものか」
彼は妻の胸に涙を落しながら言った。その涙をふいている内にふと俺は嘘を言ってるのかも知れないと思った。
しかし、妻が死んでしまうと、彼は妻に言った言葉を守ろうと思った。死んだ人間に対しては、もう約束を守るよりほかに何一つしてやるものがないのだと思った。
この3つの呼称の呼び分けを、代名詞が豊富でない文化圏の人にどうすれば伝えられるだろうなあ、と思ったりします。
さて、蛇足ながら、このエントリを書いた理由について。呼称、代名詞というのは、時代によって変遷し、人の心を映すもの。だから、いろいろな意見や議論はあっていいと思いますし、そもそも言葉が時代のジェンダー観を反映するというのは、取り立てていう必要もないくらい当たり前のことではありますが、そういった、人々の内心の方を変えるのが面倒だからといって、言葉の方に罪を着せるようにして言葉狩りじみたことをするのは、正直「違うんじゃないかなあ」と思います。人々の心が変化すれば、誰が強制しなくても言葉は廃れ、変化していきます。〇〇という言葉を使うな!なんて言わなくても、それが指す事象が消えたり変化したりすれば、あっという間に言葉は移り変わっていくものです。だから、変えるべきことを人々の総意に基づいて粛々と変えるよう努力するのが重要であって、「言葉狩り」みたいな遊びで何か大きな社会貢献を為したような気分になるのは、正直やめてもらいたいなあ、と思っています。そんな感じのことを感じていただけたのなら、この記事を書いた意味があったというものです。ありがとうございました。
なぜか太宰治がこんなところに...
さほどYoutubeを見ない自分でも知ってるくらいのYoutuberが不倫したらしい。
コメント欄を見ると不倫したやつが作った動画はもう見れないという趣旨のコメントが大勢いる。
……なんかそれってずいぶんと薄情だなって思う。
僕は作品に罪がなく、単に不倫をした人間が批判対象で有って、作品と作者は切り分けて考えるべきだと思っている。
もし、犯罪者の作品が批判され、淘汰されるべきなら太宰治だって複数の女と自殺未遂してるし、太宰だって不倫してる。
いやまぁそりゃぁ文豪様と一介のYoutuberを比較するのは流石にどうかと思うだろう。
でも、属性を抜きにして考えて欲しいわけだ。
あくまで1つの素晴らしい作品があったとして、大衆に受け入れられたとする。
それが後に主演なり作者なりが不倫したとして、その作品に対してそれは関係あるのだろうか?
作品はあくまで作品であり、作者は作者として別で考えるべきではないのか?
さほどYoutubeを見ない自分でも知ってるくらいのYoutuberが不倫したらしい。
コメント欄を見ると不倫したやつが作った動画はもう見れないという趣旨のコメントが大勢いる。
……なんかそれってずいぶんと薄情だなって思う。
僕は作品に罪がなく、単に不倫をした人間が批判対象で有って、作品と作者は切り分けて考えるべきだと思っている。
もし、犯罪者の作品が批判され、淘汰されるべきなら太宰治だって複数の女と自殺未遂してるし、太宰だって不倫してる。
いやまぁそりゃぁ文豪様と一介のYoutuberを比較するのは流石にどうかと思うだろう。
でも、属性を抜きにして考えて欲しいわけだ。
あくまで1つの素晴らしい作品があったとして、大衆に受け入れられたとする。
それが後に主演なり作者なりが不倫したとして、その作品に対してそれは関係あるのだろうか?
作品はあくまで作品であり、作者は作者として別で考えるべきではないのか?
あー、太宰治が入ってる、ってヤツねー
とあるMMOのいわゆる「自キャラちゃん」創作ジャンルに長いこといる字書きのオタクです。
この意味がわからない方はこの先もっとわからないと思うので引き返していただいた方がいいです。時間の無駄です。
ちょっと前にツイッターで「感想がもらえなくて引退した人」がそこそこ大きな話題になりましたね。
私のいる界隈でも、主に字書きの間で「確かに自キャラ創作って感想もらえないよね…」みたいな嘆きがTLに流れていました。
私は幸い優しいフォロワーに恵まれ、書き上げたものに何度か感想をいただいたこともあるのですが……確かにこの界隈、マジで感想もらえないんですよ。とある知り合いの創作者さんは、3週間かけて書いた渾身の自キャラ過去話にリアクション0でしばらく病んだこともあったらしいです。
自分しか知らないキャラの作品、しかもイラストじゃなくて小説……ある種感想どころか誰にも読まれないことすら当たり前です。それは多分みんなわかっています。
それでも感想がほしい!モチベ上げたい!というわがまま親馬鹿オタクどものために、「こうすればもしかしたらもらえる可能性が上がるんじゃないかな?」と思ったこと・私自身が実践していることをまとめてみました。
これは自キャラ創作に限りませんが、有償依頼の募集や本の自家通販をやっていたりするならまだしも、趣味で描いたものを読んでもらいたい…ならプロフカードやリットリンクなどは挟まない方がいいと私は思います。
勿論これらのサービスはとても素晴らしいものですが、フォロワー含めて他人ってあなたが思うよりもずっと面倒くさがりで無関心なので…
アカウントのプロフ欄やwebサイト欄、固定ツイートなどの"すぐ見られる場所"に"直接"ポイピクなどの作品一覧のリンクを貼りましょう。可能であればキャラ設定や立ち絵なんかも先頭に固定しておくとなお良いです。
高頻度で更新しまくってTLにばんばんポイピクのリンクや文庫ページメーカーの画像なんかを流せる人なら問題はないと思います。
ただ更新が不定期なのに、だらだら書かれた長ーーーーいプロフィールの1番下にポイピクのリンクが貼ってある………仮に新しくフォローしてくれた人や何気なくあなたのアカウントを覗いた人がちょっと興味を持ってくれたとして、これで読まれると思いますか?
私ならうわ面倒くさ〜〜と感じてさっさと立ち去って多分そのまま存在を忘れます。そういうものです。
あなたの作品をいちばんに読んでくれるのは、間違いなくあなたのフォロワーです。
二次創作やあなたに太宰治レベルの文章力があるのならともかく、あなたしか知らないキャラクターの話をFF外の人間がなんかの間違いで読んでくれることはあっても、感想をくれることはほぼ100%ないです。これは断言できます。
なのでフォロワーから感想をもらいましょう。地道にあなたの創作へ引き込んでください。同じゲームをやってる人、この間いいねくれた人、同じゲームの創作をしてる人、その人のフォロワー…繰り返して増やしてください。有志の方が作ってくれている自己紹介カードのようなものを使うのもおすすめです。
TLにおもむろに自キャラ語りを流していいねがぽつぽつつくようになったら頃合いです。
自キャラ界隈は身内意識と連帯感がめちゃくちゃ強いので、よほど目も当てられないようなクオリティでない限りは必ず誰かが感想をくれるはずです。
フォロワーが増えても、マシュマロやお題箱、質問箱なんかは置いといた方がいいです。匿名のメッセージサービスは感想を送ることへの心理的抵抗をぐっと下げてくれます。自分は絶対にリプやDMでしか欲しくない!という方はどうぞお好きになさってください。多分こないと思います。自キャラのオタクは全員シャイだからです。
③感想をクレクレしすぎない
作品を上げた後にそっとマシュマロのリンクを流しておくくらいの奥ゆかしさがちょうどいいです。毎回TLで感想クレクレされると見る側も疲弊しますし、1回送ったら永遠に擦り寄られるかも…と警戒して余計に送らなくなります。
閲覧数といいねの数は比べないように、そしてフォロワーには絶対に当たらないようにしましょう。
「この人TLにいるはずなのに、私の作品が上がってるのを見てるはずなのにいいねくれない…」と思うこともあるでしょう。フォロワーに八つ当たりしたくなることもあるでしょう。
でもその気持ちは絶対に心の中に閉じ込めて我慢してください。軽い匂わせのつもりでもTLに出してしまったら終わりです。自キャラ界隈は信用が第一です。
こんな感じです。