はてなキーワード: 1956年とは
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1950年 | 2,337,507 | 3.65 |
1951年 | 2,137,689 | 3.26 |
1952年 | 2,005,162 | 2.98 |
1953年 | 1,868,040 | 2.69 |
1954年 | 1,769,580 | 2.48 |
1955年 | 1,730,692 | 2.37 |
1956年 | 1,665,278 | 2.22 |
1957年 | 1,566,713 | 2.04 |
1958年 | 1,653,469 | 2.11 |
1959年 | 1,626,088 | 2.04 |
1960年 | 1,606,041 | 2.00 |
1961年 | 1,589,372 | 1.96 |
1962年 | 1,618,616 | 1.98 |
1963年 | 1,659,521 | 2.00 |
1964年 | 1,716,761 | 2.05 |
1965年 | 1,823,697 | 2.14 |
1966年 | 1,360,974 | 1.58 |
1967年 | 1,935,647 | 2.23 |
1968年 | 1,871,839 | 2.13 |
1969年 | 1,889,815 | 2.13 |
1970年 | 1,934,239 | 2.13 |
1971年 | 2,000,973 | 2.16 |
1972年 | 2,038,682 | 2.14 |
1973年 | 2,091,983 | 2.14 |
1974年 | 2,029,989 | 2.05 |
1975年 | 1,901,440 | 1.91 |
1976年 | 1,832,617 | 1.85 |
1977年 | 1,755,100 | 1.80 |
1978年 | 1,708,643 | 1.79 |
1979年 | 1,642,580 | 1.77 |
1980年 | 1,576,889 | 1.75 |
1981年 | 1,529,455 | 1.74 |
1982年 | 1,515,392 | 1.77 |
1983年 | 1,508,687 | 1.80 |
1984年 | 1,489,780 | 1.81 |
1985年 | 1,431,577 | 1.76 |
1986年 | 1,382,946 | 1.72 |
1987年 | 1,346,658 | 1.69 |
1988年 | 1,314,006 | 1.66 |
1989年 | 1,246,802 | 1.57 |
1990年 | 1,221,585 | 1.54 |
1991年 | 1,223,245 | 1.53 |
1992年 | 1,208,989 | 1.50 |
1993年 | 1,188,282 | 1.46 |
1994年 | 1,238,328 | 1.50 |
1995年 | 1,187,064 | 1.42 |
1996年 | 1,206,555 | 1.43 |
1997年 | 1,191,665 | 1.39 |
1998年 | 1,203,147 | 1.38 |
1999年 | 1,177,669 | 1.34 |
2000年 | 1,190,547 | 1.36 |
2001年 | 1,170,662 | 1.33 |
2002年 | 1,153,855 | 1.32 |
2003年 | 1,123,610 | 1.29 |
2004年 | 1,110,721 | 1.29 |
2005年 | 1,062,530 | 1.26 |
2006年 | 1,092,674 | 1.32 |
2007年 | 1,089,818 | 1.34 |
2008年 | 1,091,156 | 1.37 |
2009年 | 1,070,036 | 1.37 |
2010年 | 1071305 | 1.39 |
2011年 | 1,050,807 | 1.39 |
2012年 | 1,037,232 | 1.41 |
2013年 | 1,029,817 | 1.43 |
2014年 | 1,003,609 | 1.42 |
2015年 | 1,005,721 | 1.45 |
2016年 | 977,242 | 1.44 |
2017年 | 946,146 | 1.43 |
2018年 | 918,400 | 1.42 |
2019年 | 865,234 | 1.36 |
・日本人は1860年代まで蝋燭を持っていなかったそうですが信じられますか
→日本は鎖国をしていて新技術は輸入されませんでしたからそうでしょう(等々
→それは米国です。1854年に外交関係を構築し、1856年にポーハタン号が初めて入港しました
→オランダ東インドです。1639年に出島に商館を立てて1953年まで営業していました
→そうです。ポーハタン号は軍艦で日本との外交関係を築くために1956年に米国から派遣されました。オランダ東インドのは商船で入港は許可されていました
→それは無さそうなことですね。入港を許可できるよう、軍艦で来て欲しいと日本政府から予め要請されていた可能性があります
その視点はなかった…w
知名度、後世への影響、漫画史的意義などを独断と偏見で考慮した上でサブカルくそ野郎フィルターで濾した二番煎じを俺も作ってみたぞ増田ァ
黒田騒動(くろだそうどう)は、江戸時代前期に福岡藩で発生したお家騒動。栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)ともいう。伊達騒動、加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。他の御家騒動では処分時に死者が出ているが、黒田騒動ではお預けなどはあったものの、死者は出なかった。
経緯
黒田長政は世継ぎ継承にあたり長男・忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に家督を譲ると決めて忠之に書状を送る。書状には2千石の田地で百姓をするか、1万両を与えるから関西で商人になるか、千石の知行で一寺建立して僧侶になるか、と非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に勧める。そして600石以上2千石未満の藩士の嫡子たちを集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去した。そこで大膳は忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹し、次第に距離を置くようになる。忠之は寛永元年(1624年)に藩主就任早々、忠之及びその側近と、筆頭家老であった大膳はじめ宿老達との間に軋轢を生じさせ、生前の長政が憂いていたとおりに御家騒動へと発展した。忠之は小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはち じゅうだゆう。名は正俊、または家頼)を側近として抱え、1万石の大身とした。そして十太夫に命じて豪華な大船「鳳凰丸」を建造。さらに200人の足軽を新規に雇い入れるなど、軍縮の時代にあってそれに逆行する暴政を行った。これにより遂に藩は幕府より咎めを受けるに至った。
大膳も寛永9年(1632年)6月、忠之が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴した。藩側は「大膳は狂人である」との主張を行い、寛永10年(1633年)2月、将軍徳川家光が直々に裁いた結果、忠之の藩側の主張を認め、所領安堵の触れを出し、10年に及ぶ抗争に幕を閉じた。大膳は騒動の責を負って陸奥盛岡藩預かりとなり、十太夫も高野山に追放された。なお、十太夫は島原の乱で黒田家に陣借りして鎮圧軍に従軍したが、さしたる戦功は挙げられず、黒田家復帰はならなかった。のち上方で死去したという。十太夫の孫・倉八宅兵衛に至り、ようやく再仕官を許されている。なお、この時に盛岡藩へ預かりとなった栗山大膳は、藩祖・黒田如水所用の兜も一緒に持参した。現在、もりおか歴史文化館に所蔵されている。
題材にした作品
江戸時代中期には江戸中村座などにて黒田騒動を題材にした歌舞伎が数多く上演された。最初は瀬川如皐作、外題『御伽譚博多新織』。のちに河竹黙阿弥により狂言『黒白論織分博多』として加筆集約化された。また幕末には合巻としては最長編である『しらぬひ譚』も歌舞伎化され、こちらも大好評を博した。
また、この事件を森鷗外が小説『栗山大膳』において、改易を危惧した大膳が黒田家を守るために尋問の場で訴えたとして脚色して描いている。十太夫は、島原の乱で一揆軍に加わり戦死したことになっている。滝口康彦の小説『主家滅ぶべし』では、利章は真面目で実直なものの、その忠義も独善的であるため主君と家中から疎まれてしまい、忠臣としての自身を保つために引き起こしたものとして描かれている。
実は、「日本の首都は東京である」という内容を直接的に定めた法律は現在ありません。ですから、たとえば「名古屋を日本の首都とする」という法律を定めても、矛盾はないわけです。
もともと、明治時代になって京都から江戸へ遷都したときは、天皇の詔勅(しょうちょく)によって東京が都であると決まりました。近代的な法律制度は後になって整備されましたが、戦前は詔勅が優先であったので、法律で首都を定める必要がなかったのです。
1868年、天皇が江戸を「東京」とする詔勅を発し、翌年に皇居を移した。
天皇が主権を失った戦後、1950年に定められた首都建設法には以下の文言がありました。
第一条 この法律は、東京都を新しく我が平和国家の首都として十分にその政治、経済、文化等についての機能を発揮し得るよう計画し、建設することを目的とする。
しかし、この首都建設法は1956年に廃止されています。後を受けて成立した首都圏整備法の文言は、あたかも東京都=首都が自明であるかのようです。
『樅ノ木は残った』(もみノきはのこった)は、山本周五郎の歴史小説。江戸時代前期に仙台藩伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」を題材にしている。
従来は悪人とされてきた原田甲斐(原田宗輔)を主人公とし、江戸幕府による取り潰しから藩を守るために尽力した忠臣として描くなど、新しい解釈を加えている。4部からなり、本編の合間に藩の乗っ取りを企む伊達兵部(伊達宗勝)とその腹心・新妻隼人の密談を対話形式で描く断章が幾たびも挿入されている。
1954年7月20日から1955年4月21日まで、中断の後に1956年3月10日から1956年9月30日まで『日本経済新聞』に連載され、書き下ろしを加え、1958年に講談社(全2巻)で刊行された。1959年に毎日出版文化賞を受賞した。現在は新潮文庫版が刊行されている(改版全3巻)。新潮文庫版の累計部数は100万部を超える[1]。
バズってる「日本の薬害の歴史」の公害バージョンを作ってみたよ。
薬害の歴史はてブ:https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/chou_kaorinn/status/1437974388062654468
政府&古河鉱業「確かに鉱毒出したけど対策したからもうおしまい!」→谷中村農民「そうはいくか!ちゃんと補償しろ!」→政府「お前らうるさいから消えろwww」→谷中村廃村、村民強制退去
宮崎県西臼杵郡高千穂町の役人&上級国民「ヒ素粉塵災害なんて町の恥じゃ!隠蔽しろ!www」→50年後に住民が西日本新聞に被害告発してやっと被害が明るみに出る
厚生省「過労か栄養失調じゃね?www」→「ごめん、鉱山から出たカドミウムが原因だった」
厚生省「確かに森永のミルクが原因かもしれないが、明確な因果関係はないねwww」→森永(1970年)「ごめんなさい、やっぱりウチのせいでした」
チッソ&厚生省&御用学者「メチル水銀なんてない!そんなこと言い出す学者なんか日本に要らない!さっさと消えなwww」→「ごめんな、やっぱりチッソとメチル水銀のせいだったわ」
三重県&四日市市「高度経済成長にはコンビナートがどうしても必要になるから我慢してくれwww喘息で死ぬのは高齢者で子供はほとんど死なないしwww」→「わりい、四日市の乳児死亡率が全国1位、国内平均の2倍になってしまったwww」
農水省「ダーク油(原因となった特殊な精製油)の提供なんか出来るかwwwおとといきやがれwww」→「ごめんな、あの時提供していれば・・・」
足による投票(あしによるとうひょう、英語: vote with their feet)とは、ある活動やグループに自発的に参加することや、そこから撤退したりすることで、自分の好みを行動で表すことを指す。従来の公職を誕生させるために選挙で投票する「手による投票」に対する言葉であり、足で投票する人は「vote with their feet」と呼ばれる。また、住民が、自分にとって好ましい行政サービスを提供してくれる地方公共団体の地域に、住所を置く形で選択することによって、地方公共団体の納税収入等が変動し、地方自治体間の競争メカニズムが発生するという理論でもある。
法学者のイリヤ・ソミン(英語版)は、足で投票することを「政治的自由を高めるための手段、つまり国民が自分の住みたい政治体制を選択する能力」と表現している[1]。 共産主義者のウラジーミル・レーニンは、ツァーリ軍を脱走したロシア兵について「彼らは自分の足で投票した」とコメントしている[2]。 また、この概念は、1956年の論文[3][4]でこれを提唱したチャールズ・タイバウト(英語版)(ただし、彼は「足による投票」という言葉は使っていない)や、アメリカの州間移動を地域の不満足な状況の解決策として提唱したロナルド・レーガンとも関連がある[5][6]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E6%8A%95%E7%A5%A8
増田の蛮勇には敬意を表したいが、さすがに突っ込みどころが多すぎる。
同種の百選としては2005年の新建築・臨時増刊『日本の建築空間』(asin:B00GUJ1HIE)がある。
https://japan-architect.co.jp/shop/special-issues/book-110511/
2005年なので現存しないものや非公開の私邸が含まれるけれども、優れた選出だと思うので紹介したい。
■古代 592-1180
法隆寺西院伽藍 | 飛鳥時代 | 奈良 |
新薬師寺本堂 | 奈良時代末期 | 奈良 |
榮山寺八角堂 | 763年 | 奈良 |
平等院鳳凰堂 | 1053年 | 京都 |
浄瑠璃寺本堂 | 1107年 | 京都 |
三仏寺投入堂(三仏寺奥院) | 平安時代後期 | 鳥取 |
高蔵寺阿弥陀堂 | 1177年 | 宮城 |
■中世 1180-1543
浄土寺浄土堂 | 1194年 | 兵庫 |
東大寺南大門 | 1199年 | 奈良 |
長寿寺本堂 | 鎌倉時代初期 | 滋賀 |
西明寺本堂 | 鎌倉時代初期 | 滋賀 |
熊野神社長床 | 鎌倉時代初期 | 福島 |
法界寺阿弥陀堂 | 鎌倉時代初期 | 京都 |
厳島神社社殿 | 1241年 | 広島 |
永保寺開山堂 | 1352年 | 岐阜 |
東福寺龍吟庵方丈 | 1387年 | 京都 |
正福寺地蔵堂 | 1407年 | 東京 |
吉備津神社本殿・拝殿 | 1425年 | 岡山 |
慈照寺東求堂 | 1485年 | 京都 |
■近世 1543-1853
妙喜庵待庵 | 1581年 | 京都 |
園城寺勧学院客殿 | 1600年 | 滋賀 |
園城寺光浄院客殿 | 1601年 | 滋賀 |
妙法院庫裏 | 1604年 | 京都 |
大崎八幡宮本殿・石の間・拝殿 | 1607年 | 宮城 |
三渓園聴秋閣 | 1623年 | 神奈川 |
二条城二の丸御殿 | 1626年 | 京都 |
西本願寺飛雲閣 | 1628年 | 京都 |
西本願寺書院 | 1633年 | 京都 |
延暦寺根本中堂 | 1640年(再建) | 滋賀 |
三渓園臨春閣 | 1649年 | 神奈川 |
曼殊院書院 | 1656年 | 京都 |
桂離宮 | 1663年 | 京都 |
慈光院書院 | 1672年 | 奈良 |
江川家住宅 | 江戸時代前期 | 静岡 |
閑谷学校講堂 | 1701年 | 岡山 |
東大寺大仏殿(東大寺金堂) | 1705年(再建) | 奈良 |
大峰山寺本堂 | 1706年 | 奈良 |
大国家住宅 | 1760年 | 岡山 |
岡山後楽園流店 | 江戸時代後期 | 岡山 |
栗林公園掬月亭 | 江戸時代後期 | 香川 |
角屋 | 1787年 | 京都 |
さざえ堂(旧正宗寺円通三匝堂) | 1796年 | 福島 |
大徳寺孤篷庵忘筌 | 1799年 | 京都 |
渡邉家住宅 | 1817年 | 新潟 |
羽黒山三神合祭殿 | 1818年 | 山形 |
旧高野家住宅 | 江戸時代後期 | 山梨 |
旧金比羅大芝居(金丸座) | 1835年 | 香川 |
岩根沢三山神社本殿・庫裏 | 1841年 | 山形 |
柏倉家住宅座敷蔵 | 1866年 | 山形 | |
旧大明寺聖パウロ教会堂 | 1879年 | 愛知 | ブレル、大渡伊勢吉(棟梁) |
宝山寺獅子閣 | 1882年 | 奈良 | 吉村松太郎(棟梁) |
旧風間家住宅 | 1896年 | 山形 | |
旧武徳殿 | 1899年 | 京都 | 松室重光 |
旧花田家番屋 | 1905年 | 北海道 | |
吉島家住宅 | 1907年 | 岐阜 | 西田伊三郎ほか(棟梁) |
古谿荘 | 1909年 | 静岡 | |
高松城披雲閣 | 1917年 | 香川 | 清水組 |
住友ビルディング | 1926年 | 大阪 | 住友合資会社工作部(長谷部鋭吉・竹腰健造) |
聴竹居 | 1927年 | 京都 | 藤井厚二 |
旧大倉精神文化研究所本館 | 1932年 | 神奈川 | 長野宇平治 |
軽井沢 夏の家 | 1933年 | 長野 | アントニン・レーモンド |
※両関第二工場酒蔵 | 1933年 | 秋田 | |
旧日向別邸 | 1936年 | 静岡 | ブルーノ・タウト |
近江神宮 | 1940年 | 滋賀 | 角南隆、谷重雄 |
旧前川國男邸 | 1941年 | 東京 | 前川國男 |
旧吉田五十八邸 | 1944年 | 神奈川 | 吉田五十八 |
神奈川県立近代美術館 | 1951年 | 神奈川 | 坂倉準三 |
斎藤助教授の家 | 1952年 | 東京 | 清家清 |
コアのあるH氏のすまい | 1953年 | 東京 | 増沢洵 |
南台の家(吉村順三邸) | 1957年 | 東京 | 吉村順三 |
八幡浜市立日土小学校 | 1956年 | 愛媛 | 松村正恒 |
香川県庁舎 | 1958年 | 香川 | 丹下健三 |
スカイハウス(菊竹清訓邸) | 1958年 | 東京 | 菊竹清訓 |
※ホテルオークラのメインロビー | 1962年 | 東京 | 谷口吉郎 |
日本生命日比谷ビル(日生劇場) | 1963年 | 東京 | 村野藤吾 |
国立屋内総合競技場 | 1964年 | 東京 | 丹下健三 |
大学セミナー・ハウス | 1965年 | 東京 | 吉阪隆正 |
旧千代田生命本社ビル | 1966年 | 東京 | 村野藤吾 |
白の家 | 1966年 | 東京 | 篠原一男 |
塔の家(東孝光邸) | 1966年 | 東京 | 東孝光 |
※虚白庵(白井晟一邸) | 1970年 | 東京 | 白井晟一 |
KIH7004 | 1970年 | 東京 | 鈴木恂 |
中銀カプセルタワービル | 1972年 | 東京 | 黒川紀章 |
※大分県医師会新館 | 1972年 | 大分 | 磯崎新 |
※プロジェクトマグネット | 1973年 | 店舗模型 | 倉俣史朗 |
阿部勤邸 | 1974年 | 埼玉 | 阿部勤 |
北九州市立中央図書館 | 1974年 | 福岡 | 磯崎新 |
幻庵 | 1975年 | 愛知 | 石山修武 |
上原通りの住宅 | 1976年 | 東京 | 篠原一男 |
※中野本町の家 | 1976年 | 東京 | 伊東豊雄 |
小篠邸 | 1981年 | 兵庫 | 安藤忠雄 |
弘前市斎場 | 1984年 | 青森 | 前川國男 |
SPIRAL | 1985年 | 東京 | 槇文彦 |
※バーオブローモフ | 1989年 | 福岡 | 倉俣史朗 |
海の博物館 | 1992年 | 三重 | 内藤廣 |
豊田市美術館 | 1995年 | 愛知 | 谷口吉生 |
ウィークエンドハウス | 1998年 | 群馬 | 西沢立衛 |
せんだいメディアテーク | 2000年 | 宮城 | 伊東豊雄 |
横浜港大さん橋国際旅客ターミナル | 2002年 | 神奈川 | アレハンドロ・ザエラ・ポロ、ファーッシド・ムサヴィ |
金沢21世紀美術館 | 2004年 | 石川 | 妹島和世、西沢立衛 |
1964年から1967年まで4年連続二桁勝利。スワローズ通算48勝。
1966年から1969年まで4年連続二桁勝利。スワローズ一筋で通算70勝。
V9を謳歌する巨人とは対照的に、1967年から1974年までの8年間で5回の最下位。
1965年に広島カープへ入団して、プロ初勝利がノーヒットノーラン。
1968年に21勝を挙げてエースとなると、1976年まで8回の二桁勝利を挙げる。
カープ一筋で通算131勝。キャリアで3回のノーヒットノーランを達成した。
1982年に12勝を挙げると、そこから6回の二桁勝利を挙げた。スワローズ一筋で通算112勝。
尾花と並ぶエースとして5回の二桁勝利。スワローズ一筋で通算85勝。
1997年に10勝して以降、ベイスターズ一筋で7度の二桁勝利。通算184勝。
災害 | 年 | 犠牲者数 |
---|---|---|
スペインかぜ | 1918年-1919年 | 1700万-5000万人 |
アジアかぜ | 1956年-1957年 | 200万人 |
香港かぜ | 1968年-1969年 | 100万人 |
唐山地震 | 1974年 | 24万-80万人 |
サイクロン・ボーラ | 1970年 | 30万-50万人 |
ハイチ地震 | 2010年 | 22万-31万人 |
新型コロナウイルス | 2020年- | 30万人+ |
タイフーン・ニーナ | 1975年 | 22.9万人 |
海原地震 | 1920年 | 20万-24万人 |
スマトラ島沖地震 | 2004年 | 22万人 |
関東大震災 | 1923年 | 14.2万人 |
サイクロン・ナルギス | 2008年 | 13.8万人 |
バングラデシュ・サイクロン | 1991年 | 13.7万人 |
東日本大震災 | 2011年 | 1.8万人 |
伊勢湾台風 | 1959年 | 0.5万人 |
機動戦士ガンダム、ドラえもん(1979~2005年版) 、ルパン三世 カリオストロの城、ベルサイユのばら、赤毛のアン 、銀河鉄道999(映画版)、がんばれ!!タブチくん!! 、ゼンダマン、サイボーグ009、アニメーション紀行 マルコ・ポーロの冒険
未来少年コナン、銀河鉄道999 、ルパン三世 ルパンVS複製人間、宝島、ペリーヌ物語、無敵鋼人ダイターン3 、闘将ダイモス、宇宙海賊キャプテンハーロック 、はいからさんが通る 、宇宙戦艦ヤマト2
ヤッターマン 、無敵超人ザンボット3、新ルパン三世、超電磁マシーン ボルテスV、あらいぐまラスカル 、家なき子 、バーバパパ 、くまのプーさん 完全保存版 、氷河戦士ガイスラッガー、野球狂の詩
ドカベン、超電磁ロボ コン・バトラーV 、母をたずねて三千里、キャンディキャンディ、まんが世界昔ばなし、ポールのミラクル大作戦 、大空魔竜ガイキング 、グレンダイザー ゲッターロボG、グレートマジンガー 決戦!大海獣 、ろぼっ子ビートン 、ブロッカー軍団IV マシーンブラスター
まんが日本昔ばなし 、ガンバの冒険、一休さん、タイムボカン 、勇者ライディーン、UFOロボ グレンダイザー、アンデス少年 ペペロの冒険、ゲッターロボG、鋼鉄ジーグ、ラ・セーヌの星
宇宙戦艦ヤマト、アルプスの少女ハイジ 、ゲッターロボ 、破裏拳ポリマー 、魔女っ子メグちゃん 、はじめ人間ギャートルズ 、マジンガーZ対暗黒大将軍 、ジムボタン 、小さなバイキング・ビッケ 、グレートマジンガー
エースをねらえ!、侍ジャイアンツ 、バビル2世、新造人間キャシャーン、キューティーハニー 、空手バカ一代 、ドロロンえん魔くん 、ジャングル黒べえ 、山ねずみ ロッキーチャック、ゼロテスター
マジンガーZ、デビルマン、科学忍者隊ガッチャマン、海のトリトン 、ど根性ガエル、パンダコパンダ 、正義を愛する者 月光仮面 、赤胴鈴之助、樫の木モック、ムーミン
ルパン三世、天才バカボン、ふしぎなメルモ、アニメンタリー決断、アパッチ野球軍、ゲゲゲの鬼太郎、新オバケのQ太郎、カバトット、さすらいの太陽 、原始少年リュウ
あしたのジョー 、チキチキマシン猛レース 、キックの鬼、ばくはつ五郎、魔法のマコちゃん、スカイキッドブラック魔王、海底3万マイル、いじわるばあさん、のらくろ、クレオパトラ
ムーミン、アタックNo.1、タイガーマスク、ハクション大魔王、どろろ、ひみつのアッコちゃん、忍風カムイ外伝、ビートルズ / イエロー・サブマリン、長靴をはいた猫、もーれつア太郎
ゲゲゲの鬼太郎、妖怪人間ベム、巨人の星、佐武と市捕物控、太陽の王子 ホルスの大冒険、サイボーグ009 、ゲゲゲの鬼太郎、サスケ、アンデルセン物語、わんぱく探偵団
パーマン、リボンの騎士、黄金バット、悟空の大冒険 、大魔王シャザーン、マッハGoGoGo、宇宙忍者ゴームズ、ピュンピュン丸、サイボーグ009 怪獣戦争、ミトン
おそ松くん、魔法使いサリー、ロボタン、ハリスの旋風、スーパースリー、展覧会の絵、遊星仮面、レインボー戦隊ロビン、新ジャングル大帝 進めレオ! 、おそ松くん
オバケのQ太郎 、ジャングル大帝、スヌーピー、宇宙少年ソラン
、未来からきた少年 スーパージェッター、少年シンドバッドの冒険、手 、オバケのQ太郎(1965年版) 、W3、戦え!オスパー
トムとジェリー、ビッグX、0戦はやと、少年忍者風のフジ丸 、王様の剣
エイトマン 、狼少年ケン 、鉄腕アトム 、わんぱく王子の大蛇退治 、鉄人28号 、わんわん忠臣蔵、宇宙家族ジェットソン 、ドラ猫大将 、仙人部落
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ルーニー・テューンズ、安寿と厨子王丸 、ウッディー・ウッドペッカー(1940年版)
すて猫トラちゃん
桃太郎 海の神兵
くもとちゅうりっぷ 、ドルーピー
スーパーマン、アリチャン
べんけい対ウシワカ
新説カチカチ山
動絵狐狸達引
茶目子の1日、黒ニャゴ
なまくら刀
多くの人はこちらのWikipediaの記事を参照していると思われる。
この記事も踏まえた上で、実際に主だった芸人を「活動開始時期」や「人気が出た過程」で並べ、あらためて世代分けを考えてみたい。
まず画期としては1953年のテレビ放送の開始が挙げられる。この時期に人気があったのは落語家や喜劇俳優であり、またコミックバンドも人気があった。上の表で言えばいとこい・ダイラケあたりが該当する。いわば「第0世代」であろうか。
次にやってくるのが「演芸ブーム」で、1963年開始のテレビ番組『大正テレビ寄席』を中心に数々の演芸番組が放送され、その勢いが1970年ごろまで続いた。一般にこの時期に人気が出た芸人が「第一世代」と呼ばれる。「寄席」をテレビでやるので落語・漫談・漫才・コント・コミックバンドなど幅広い芸人が登場した。てんぷくトリオを筆頭に三人組が多かったので「トリオ・ブーム」とも呼ばれた。1970年代はドリフと萩本欽一のコント番組が人気を二分した。やすきよもこの世代に含まれる。
続いて、1980年に放送された『花王名人劇場 激突!漫才新幹線』『お笑いスター誕生!!』『THE MANZAI』などが立て続けに高視聴率を取り「漫才ブーム」となった。このブーム自体は二年ほどで終息するが、若手漫才師がアイドル的な人気を得て「漫才」のイメージを変えたり、吉本興業が東京に進出したりするきっかけとなった。1981年から1989年まで続いた『オレたちひょうきん族』が『8時だョ!全員集合』の視聴率を超え、出演していたビートたけし・明石家さんま・山田邦子らは一躍スターとなった。たけし・さんまにタモリを加えた「BIG3」を中心に、漫才ブームやひょうきん族から出てきた芸人を「第二世代」とみなすべきだろう。
その次が「第三世代」と呼ばれる芸人たちで、お笑い養成所出身の若手が、小劇場のライブで腕を磨き、夕方番組や深夜番組をきっかけに人気を得て、ゴールデン帯で「バラエティ番組」を持つ、といったキャリアを踏むのが特徴である。とんねるず・ダウンタウン・ウッチャンナンチャンがこの世代の代表格となる。一般に「第三世代」は80年代デビュー組で区切るようだが、個人的には似たようなキャリアから早めにブレイクしたナイナイやロンブーあたりも含めるべきではないかと思う。
次に来るのが「ボキャブラ世代」である。1992年から1999年まで続いた『タモリのボキャブラ天国』は、当初は視聴者投稿型の番組だったが、徐々に芸人のネタ見せ番組に移行。この番組を登竜門に「キャブラー」と呼ばれる芸人が続々と登場した。吉本興業が首を突っ込みそこねたらしく非・吉本芸人が多い。またボキャブラ終了とともに一時的に低迷した芸人が、2000年代に復活するあたりも共通している。先述したとおり、ナイナイ・ロンブーなどを第三世代に含めるとすれば、この「第四世代」は爆笑問題・くりぃむしちゅー・ネプチューンあたりが代表格となる。
2000年代に入って「M-1グランプリ」が始まったことで「お笑いブーム」が醸成された。また同時期に『爆笑オンエアバトル』『エンタの神様』『笑いの金メダル』『爆笑レッドカーペット』などのネタ見せ番組がスタートしてお笑い人気に拍車をかけた。賞レースを目指してストイックに芸を磨く若手芸人と、多数のネタ見せ番組により短期的な人気を得た「一発屋」が混在し、芸人のレベルは底上げされたものの、数としては飽和した感がある。2010年にM-1グランプリが終了するとブームも終息し、多数の「ひな壇芸人」を出演させてトーク中心に作られる低予算の番組が増加した。(2010年までの)M-1でブレイクした芸人と「ネタ見せ番組」によって登場した芸人が「第五世代」といえるだろう。
2010年代になると、第二世代・第三世代がフェードアウトし、第四世代と第五世代がバラエティの「司会」の座を奪い合う群雄割拠の時代に入った。第五世代は図抜けた存在はいないものの層が厚いので、2000年代デビュー組の多くがつかえて中堅に留まっているように思える。そんな中で、霜降り明星および彼らが「第七世代」と称する2010年代デビュー組が既に台頭してきている。この場合は2000年代デビュー組が「第六世代」とされるわけだが、2000年代デビュー組は遅咲きになりそうなので、おそらく2000年代デビュー組と2010年代デビュー組をあわせて「第六世代」と呼ぶようになるのではないか。2020年現在、芸人の主戦場はYouTubeになりつつある。後世から振り返れば「第六世代」は「YouTube世代」と括られるのかもしれない。