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2023-12-28

役不足」と「役者不足」の誤用について調べてみた

はじめに

一般に「役不足」と「役者不足」の誤用については以下のように説明されると思う。

役不足」とは「能力に対して役が不足している・地位が低すぎる」という意味だが、逆に捉えて「役に対して能力が不足している・地位が高すぎる」と誤用されることが多い。「役に対して能力が不足している」ときは「役者不足」と言うべきである

こうした言説について少し検証してみたい。

役不足

まずは「役不足」の辞書的な定義を見てみよう。

精選版 日本国語大辞典

やく‐ぶそく【役不足】〘名〙 (形動)

① 振り当てられた役に対して不満を抱くこと。与えられた役目に満足しないこと。

滑稽本・八笑人(1820‐49)四「くじ次第にして、役不足(ヤクブソク)をいひっこなしだよ」

② その人の力量に対して、役目が不相応に軽いこと。軽い役目のため実力を十分に発揮できないこと。

※文科大学挿話(1926)〈川端康成〉一「人間の才能は役不足時代に衰へてしまひ易いものなんだ」

③ (誤って、役に対して自分能力が足りないの意と解したもの) 役割を果たす力がないこと。荷が重いこと。

※続一等サラリーマン(1952)〈源氏鶏太〉「続・三等重役」の撮影現場を見て「僕は社長の息子なんてのは役不足だね。やっぱり、会社給仕の方が、いちばんピッタリだよ」

能力に対して役が不足している」は② の用法だ。ところが何故か① の用法と分かれている。日本国語大辞典は、古い順に語義を並べているので、つまり本来用法は①で、あとから②の用法が生まれた、ということだ。いったい役不足① と役不足② は何が違うのか。

結論を言うと、役不足①における「不足」とは単に「不満」の意味しかない。

ふ‐そく【不足】〘名〙

① (形動) (━する) たりないこと。欠けていること。また、そのさまやその箇所。不完全。不十分。欠点

② (形動) (━する) 満足でないこと。不平に思うこと。また、そのさま。不満足。不満。不平。

まり役不足」は不足①ではなく不足②の用法だということである。「もっと良い役をやりたい」というだけでなく「自分はこの役には向いていない」とか「こんな重い役はやりたくない」とかそういう不満もひっくるめて「役不足」なのである

たとえば明治22年加須屋寿賀蔵『花嫁』という小説

里吉は何を考へたるか、今更遅八刻(おそまき)の役不足

「アノ若 イゝヱ貢さん 妾(わたし)は萬の何テ、人にないから ヤッパリお岸にでもして貰へば好(よか)った、色気のある…」

これは『伊勢音頭恋寝刃』という演目をやる役者が「自分には万野の役は向いていないからお岸の役のほうがよかった」と文句を言っている場面である。万野は悪役だが重要登場人物であり、お岸と比べて端役だということはないので、これはただ向き不向きの話でしかないことがわかる。

明治23年の右田寅彦『垂氷の月』。

「何時までもお心易く交際(つきあっ)て妹を一人拵へたと思召して下さいましよ」

「イヤイヤ夫(それ)は不承知だ妹なぞと思ふのは些と此方で役不足からマア其気で交際(つきあ)ひませう」

女性が「これからは兄妹のように付き合いましょう」と申し出るが、男性はそれを断り「あなたを妹だと思うなんて役不足だ」と言う場面。このあと「そうですよね私ごときが妹などと迷惑ですよね」「いや妹ではなく妻だと思っているのだ」という少女漫画ばりの展開になるが。この「役不足」を現代的に解釈するとやや不自然で、ここは「兄のような立場には不満がある」とだけ理解すべきだろう。

明治40年の『慶應義塾學報』。

此創立五十年紀念理財学会に於て私は非常にむづかしい役目を言い付かつたので、少々困つて居る所でありますが、併し今更役不足を言つた所が追付かぬ、其役目は慶應義塾に於ける経済学研究の変遷に就ての講演をせよと云ふ、余程これはむづかしい事である

「非常に難しい役目」に対して「役不足」だと言っているので、現在解釈では誤用だと思われるだろうが、これも「役不足」を「役目に対する不満」と言い換えればすんなり意味が通る。

実は日本国語大辞典誤用例として挙げられていた以下のセリフも、

「僕は社長の息子なんてのは役不足だね。やっぱり、会社給仕の方が、いちばんピッタリだよ」

これは「社長の息子役には向いていないから演じたくない」という俳優の不満なので、本来の「役不足」の意味からすれば正しいのである

参考:https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihongonokenkyu/5/3/5_KJ00006039255/_pdf/-char/ja

ちなみに、現在誤用だとされている用法、すなわち「役に対して能力が不足している・地位が高すぎる」という用例は、いつごろから現れはじめたのだろうか。そもそも、どういうつもりでその語を用いているのか判断が難しいところだが、たとえば明治36年の月露行客『三百年後の東京』。

お話の男は貴郎に似ているやうじやありませんか、ホホホホ」

「爾(そう)だと結構ですが情けないことには私はその男に似てはいません誠に意久地なしで、併し貴嬢が能くそ婦人に似ていますよ」

「いいえ、妾こそ其役には適当(はまり)ませんが、貴郎はその役割に不足はありませんよ」

「ぢや拙者には荷が勝ていますが、無理に其役を務めたなら、貴嬢はその情婦の役を努めて下さいますか」

「妾しにその婦人の扮(いでたち)が出来ますものなら、真似て見ても可(いい)のですが……」

と口籠た、勝田ますます胸跳り、恍惚として我にもあらで、

「本統ですか、貴嬢それは、私の役不足を許して下さいますか、若(もし)もそれが真実であつたなら、私は此の世に他の望みがありません」

これは「役に不満がある」でもなし「役が軽すぎる」でもなし「役に対して能力が不足している」と解釈しなければ読めないのではないか

役者不足

現在のところ「役者不足」は「役者としての能力が不足している」と説明されることが多い。一方で、「役者不足」という言葉が多くの辞書に載っていないことを根拠として「役者不足などという言葉はない」あるいは「役不足誤用説明するために新しく生み出された言葉である」とされることも多い。

もちろん、単純に「芝居に出る役者の人数が不足している」という意味での「役者不足」の用例が存在するのは当たり前である。それ以外の、熟語としての「役者不足」の用法を探してみたい。

たとえば昭和6年六大学野球全集』。

これ等のチームが一枚看板たる以上の投手に配するに、力ある捕手をとらへ、しかして二三の力強き打者を加へたならばさういつまでも呉下の阿蒙たるべきものでないと思ふが、如何せん役者不足の憾みがある。

あるいは昭和9年『隣人之友』。

白井喬二といふ男は一時直木あたりが黒幕大菩薩峠の向うを張らせようとヤツキとなつて、身振りこはいろべたべたとすり寄つて見たものだが、そのうち黒幕の直木が舞台へ踊り出してしまつたので、ここもと少しテレた形だが、役者不足でこんどはヨタものどもが白井あたりを担ぎ出すの幕となる

これらのように、「役不足」よりは用例は少ないが、「役者不足」が「人材不足」「戦力不足」のような意味で使われることはあったようだ。

しか昭和12年『キネマ週報』。

妹尾「僕は凡て役者不足のやうな感じがさせられたんです。溝口監督メガフォン執って此のシナリオを用ひたら、まだまだいい映画が出来る筈だと思ひます。」

これはどう捉えるべきだろう。「実力のある役者が出演していない」という意味なのか「出演した役者能力が足りていない」という意味なのか。

昭和19年海音寺潮五郎『父祖の道』。

次には、久光公では役者不足である。かかる思い切った大経綸は、先君のやうなその力量手腕が天下にみとめられている人にしてはじめてできることで、久光公では荷がかちすぎる。

これは明らかに能力不足」の意味である

同じく昭和19年藤森成吉『太陽の子』。

対手がおひさでは風流話には役者不足だつたが、持ちまへの自然さとおほらかさで彼女は補つてくれた。

男が風景の素晴らしさを妻に語っている場面で、これも「能力不足」のほうか。

昭和24年1949年)『新日本経済』。

豪華舞台に淋しい役者不足

これは「財界人めぐり」と題したコラムタイトルだが、戦後財閥解体公職追放大人物がいなくなったことを嘆くものなので、「人材不足」の用例である

と、こうして見ていくと「役者不足」という熟語昭和初期から使われていたようであり、そして当時から人材不足」と「能力不足」で用法が並立していたようでもある。

まとめ

役不足

本来は「役に不満がある」という意味

・それが次第に「役が足りていない」と解釈されて「能力に対して地位が低すぎる」という意味限定されるようになった

・それがさらに「役に対して能力が足りていない」という意味でも使われるようになった(明治末?)

役者不足

本来は単に「役者の人数が足りていない」という意味

・転じて「人材が足りていない」という意味で使われるようになった(昭和初期?)

さらに「能力が足りていない」という意味でも使われるようになった(昭和初期?)

・ただし「役不足」と比べると用例はかなり少ない

2023-06-16

楽ちんの「ちん」ってなに?

それはね、昭和12年(1937)に「楽枕(らくちん)」という枕があったからだよ。

2023-01-04

2022年に読んだ本

1月

琉球から歴史の原文へ。太平記史記を並行して読み始める。

現代語訳とはいえ長くてしんどい

2月

メモを取っているので一冊にかける時間が長い。とはいえ世界史教科書では一行で終わっていた出来事の細部を知るのは面白い

3月

ウェブ小説を読む。

4月

東アジア史が中心。

5月

詩集芥川賞に手を出す。

シン・ウルトラマンを見たせいか特撮関係の本が後半に増える。

6月

後半には自分学生時代ベストセラーだった本を手に取った。

価値観現代とは変わってしまっている点が多数あり、今読むときついと感じる箇所も。

7月

暴力団言語学、法学テーマの月だった。

8月

旧約聖書を読み始める。

9月

ちょくちょくSFを挟んで旧約聖書を読み進める。

10

旧約聖書読了学生時代新約聖書通読たから一応全部読んだことになる。

カズオ・イシグロ邦訳が出ているのはたぶん読み終えた。

11月

生物の標本にまつわる本を読みだす。やはり生物学は面白いネタが尽きない。

12月

土偶埴輪についても読む。

漫画

ジョジョを読み終えた。それにしてもハルタコミックスばっかりだ。

十三機兵防衛圏については友人に薦められたかクリア後のノリで買った。

美術展など

今年はたくさんいけた。行かない月もあった気がするが、それはそれ、そのときの気分に従った。

映画

「シン・ウルトラマン」★★

プラットフォーム」★

エクストリームジョブ

12モンキーズ」★★★

雑感

(長くなったのでブコメ

2021年に読んだ本

今更だけど2020年に読んだ本

2022-08-18

[]

中央公論平成26年9月号に戸部良一帝京大学教授が「日本は何のために戦ったのか 戦争理念と『政治戦』」と題して、大東亜戦争について書いておられます。とてもいいと思いました。

開国来日外交英米という二つのアングロ・サクソン国との関係を基軸に、これら二国との関係を調整することを基本にして、外交政策をつくってきました。東アジアから欧米諸国駆逐し、自分東アジア盟主になるというような政策をとったことは、一度もありません。日本歴史外交史を読めば、簡単なことです。

 

では、「あの大東亜太平洋戦争は?」 となるかもしれません。「自衛戦争」と無理してこじつければ、そう言えない部分もないこともないでしょうがしかし、ろくな外交をしないでおいて、つまり戦争を避けるような外交をしないでおいて、追い込まれ、「ハイ自衛のためです」の主張には、賛成しかます。 かと言って、アメリカは完全に日本との外交交渉に誠実であったとはいえません。

極東軍事裁判判決のようなアメリカの言い分が100%正しいわけではありません。連合国側が広めたこ理屈世界に流布していて、こまります。かといって、日本が100%正しかったという主張にも、うなずけません。もし、軍部とくに陸軍があれほど政治横槍をおさなかったなら、日本外交アメリカ戦争などをしていないでしょう。中国問題をかたずけていたでしょうし、ドイツとの同盟なども結んでいなかったでしょう。陸軍自己メンツのために日本犠牲にしたのです。

 故リチャード・ストーリという有名なイギリス日本史家は、「日本外交明治以後優秀であり、軍部が口出ししていなかったら、あんなことにはなっていない」と言っています。こうした国際的規模の大きな誤解のもとは、ナチドイツ日本を同じものとして考えるからです。

まったく異なった二国の外交説明させて下さい。

 日本中国戦争をする意思はなく、また昭和12年に偶発し拡大する中国との争いをやめ、中国から兵を引きあげたかったのです。ましてや、アメリカとの戦争などは、ぜひとも避けたかったのです。アメリカドイツとは戦争がしたく、それゆえ当初は日本との戦争を避けたかったのです。

 日本は大いなる野望ともち、まず中国との戦争からはじめていき、やがてその野望達成の必要ナチドイツ同盟を結び、ドイツ欧州を、日本東アジア全部を支配するため戦争をした。日本については間違いの解釈をしていますアメリカ正義保安官で、町の秩序をみだす日本という悪漢二丁拳銃で打倒したという西部劇です。

専制全体主義国家暴力脅迫と大虚偽宣伝にみちあふれていました。日本は違います。)

 日本の「鬼畜米英」は戦争が始まってから言い出された言葉で、最初鬼畜米英の考えがあって、その考えにしたがって政策目標が作られ実行されたわけではありません。国民の間には英米への強い好意がありました。東アジアでは、日本もっと英米への好意が強かった国でしたし、今でもそうではないかとと思います

 

 昭和12年(1937年7月7日盧溝橋での偶発些細な事件では、日本中国も拡大する意図はなく、そのまま停戦して終わりにしたかったのです。しかし、日中双方の停戦意図にもかかわらず、拡大し、大げんかになり、ついにアメリカとの戦争になりました。

アメリカとの戦争になるまで、つまり昭和16年12月まで、4年と5か月もありますアメリカ戦争したければ、もっと早く、対中戦争で体力を消耗するまでに始めています。なぜそんなに待つ必要があったでしょうか。また、もしそうならば、対米衝突を避けるために、日本が提議して日米交渉などする必要もありません。日本中国全土を占領しようとか、東アジアから英米勢力駆逐するというような、大それた考えや予定などもっていませんでした。東南アジア植民地解放しようという崇高な考えで戦争をしたのではありません。対米関係悪化し、アメリカから経済的に締めつけられ、南方天然資源のほうに眼が向いていったのです。最終的に南方天然資源確保のために英米仏蘭と戦い、これらの地域から英、仏、蘭を追い払いました。その結果、戦後これらの国々がふたたびその植民地支配者として帰ろうとしましたが、東アジアの人々の激しい抵抗あい不可能になりました。

 もし、こうしたことがなかったなら、アジアの国々の解放は、フィリピンは別かもしれませんが、ずっと遅れていたのは間違いありません。

ライシャワーも「ザ・ジャパニーズ」で書いていますが、日本東アジアにあって他の国々と違う国なのです。理由歴史的経験の違いです。東南アジアの国々と、歴史上たえず専制国家であった中国とそれを手本とした朝鮮韓国と、封建制度を発達させた分権的な、しかしながら、統一された社会としての日本という経験の違いがあります。また西洋帝国主義の挑戦にいちはやくうまく応じて独立を維持した日本という違いがあります。また明治以後日本だけ豊かになり、敗戦後もいちはや日本だけいちはや復興しそのうえ豊かになった日本という違いがあります。また戦後一時的占領のぞくと、西洋諸国植民地になったという経験ももちません。ヴェトナムインドネシアビルマなど、植民地になった国々と人々がどんなにみじめな政治生活を強いられたかという、経験したことがありません。

 日米交渉において、アメリカから経済的に締めつけられと書きましたが、こう書くと、「じゃあ、悪いのはアメリカだ」という意味でもありません。そこには交渉過程における相互のやり取りというものがありますアメリカとしては、そうでなかったら取りにくかっただろう強硬な手をうつことができたからです。

イギリスフランスオランダとしては、日本に負かされ、かつ植民地を失い、大変不愉快だったでしょう。

 

なお、日本南方天然資源確保・・・といいましたが、ナチ東欧ソ連一方的に襲いかかりました。日本はそんなことしていません。万一アメリカから資源買いつけに支障が出た場合にそなえて、事前にオランダ商業ベースでの購入をのぞみ交渉をしています。この交渉はまとまりませんでした。

 万が一のインドネシアへの進出のため、また英米中国援助の道を封鎖するため、フランスとはヴェトナムへの進駐を考えて交渉します。この交渉には軍事的圧力をちらつかせ貫徹しますが、これにたいしアメリカ石油輸出禁止在米資産の凍結という厳しい手段でこたえます。このアメリカの予想外の反応に近衛はびっくり仰天。そこでルーズベルト大統領との直接会談提案します。それは軍部が対米交渉障害になっているから、軍部の頭越しに話し合い、交渉をまとめよう考えたからです。この直接首脳会談には、アメリカハル国務長官などが強く反対し、この提案拒否します。

なんで日本が好んで戦争をしたと言えるでしょう。

 

 さて日中戦争ですが、これが中国で拡大し、英米との雲行きがあやしくなり、対決を避けようとして、対米交渉を提議し、日米交渉ワシントンで開始します。その交渉がまとまらなかったのは、日本にも大きな責任がありますしかし、「それは日本だけの責任だ。アメリカは悪くない」と一般に考えれていますが、これは大間違いです。ハル国務長官の態度にもみられるように、アメリカにも大きな責任がありますハル国務長官には、アメリカ学者にも同じ意見がありますが、「だいたい戦争を避けるため、日本との交渉をまとめるつもりがあるのですか」と言ってもいいぐらいのところがありました。

 日本昭和はいると、右翼的国粋主義の風潮も強くはなりますが、ドイツとは違い、多くの組織が併存しており、どの一つの組織も他の組織を圧倒するとか、ましてや他の組織を滅ぼしていくということはありませんでした。そのときそのとき事情や都合で、ある組織あるいは政治勢力意見が強まったりまったりしていました。日本場合は、偶発戦が拡大していくにつれ、その戦争遂行戦時体制ができ、陸軍要望が聞き入れられていき、陸軍が威張ったのです。決して陸軍は他の組織を吸収したわけではありません。一部の軍事費のぞくと、法案予算案もすべて国会を通過しなくてはなりませんでした。そういう意味国会機能していたのです。意外だと思われるかもしれませんが、軍部議会世論を気にしていたのです。

 

陸軍に反対したからといって、消されるとか、強制収容所おくりになるということはありませんでした。強制収容所もないし、ゲシュタポなどの恐ろしい暴力警察もありませんでした。日常生活については、もっと具体的なものを当時の新聞とか記録とか小説などで、実際の日本人の日常暮らしを知る必要があると思います。(たとえば田辺聖子小説や思い出。向田邦子小説芹沢光治良の「人間運命」も面白い本です。)

 日米交渉の難点の一つは、中国から撤兵問題でした。陸軍も東条も中国から撤退はするが、それには二、三年は必要だと言い張ったのです。ナチと違って、中国全土を占領するとか、中国国民奴隷化するというような主張は、100%ありません。アメリカは二、三年の期間は不満で、二、三か月の以内の撤兵を主張しました。ここに陸軍の横暴があるのです。すぐ撤退しては、陸軍の印象が悪いのです。負けたようで格好よくないというわけです。

 大東亜共栄圏思想ですが、日本中国全土を占領するとか、中国人を奴隷化するというような考えではなく、日中戦争が拡大したから、その説明の一つとして喧伝されたのであり、日中国民平和友好といったムードがその本質であり、具体性のないものでした。当時もやはり、日本人は根底日本人の中国にたいする「シナ中国コンプレックス」をもっていたのです。

 東条は陸軍の「行進」の先頭で旗をもっていましたが、「俺についてこい」と陸軍を引っ張っていたのでなく、陸軍というおみこし担ぎ運動で、その集団行動行進で、たまたま旗手をつとめていたにすぎません。もちろん、それで得意になっていたわけですが。といって、東条に責任がないわけではありません。

日本場合いくら東条などでもある一定以上の文化教養があったわけです。それを、ナチ日本も一緒にしてもらっては困ります

 この教養の差は、例えば敗戦の受けいれかたにも、大きな違いとなって表われます日本場合は、これ以上の負担国民に強いるのはいけないという、コンセンサスがありました。ポツダム宣言受託については、その内容の具体的な確認とか、「これでは国体が守れないではないか」といった意見の違いで、受諾がおくれただけであり、基本線は敗北やむなしでした。

東条でさえ対米交渉の妥結を希望をしていました。彼は10月中旬近衛に代わって総理大臣になりますが、東郷という、軍部の考えに抵抗した、超ハト派の、言葉をかえれば「強硬ハト派」の人間外務大臣にして、交渉継続します。(東郷昭和20年4月成立の鈴木内閣という敗戦終戦のための内閣で、外務大臣として、敗戦終戦のために尽力します。彼は東京裁判では有罪禁固二十年の判決。)

東条は反英米主義者でもありませんでした。中国との戦争で泥沼にはいってしまい、戦線を縮小する勇気、そこから撤退する勇気、をもたなかったのです。これがため、大事になってしまいました。昭和7年から大平戦争勃発までの駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーという人は、知日家親日家でしたが、日記で「日本人は何か困難があると、(それを解決しようとしないで)回れ右をしてしまう」と書いています

 日本は「勝った、勝った。悪いシナを懲らしめた」という形にもっていけなかったわけです。戦線を大幅に縮小する勇気必要でした。

 中国も内部に大問題をかかえており、また、日本一方的大陸から追い出すほどの力をもっていませんでしたし、また、英米もそこまで中国を援助する必要は感じていなかったのです。中国協定を守らないので困っているという点では、英米日本と同舟でした。

陸軍英米大平方面で戦うための軍隊ではなく、大陸での権益を守るため、(ということは、間違いなく、日本帝国主義政策関係しますが)、の軍隊であり、その対象は一貫してソ連でした。

また、よく誤解されることは、「日本日清戦争とか、日露戦争とか、あるいは満州事変のあとから、大規模な軍隊中国大陸駐屯させていただろう」ということです。これもよくある誤解で、昭和12年の日本中国偶発事件が拡大するまでは、中国大陸に少しの軍隊駐留させていただけです。

 日本人は賢かった、勇ましかったなどとは言えません。愚かなことをしてしまったものです。

2020-08-02

戦史叢書、各巻の概要(書きかけ)

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戦史叢書

防衛研修所戦史室(現・防衛防衛研究所)が編纂した太平洋戦争及び日中戦争大東亜戦争)に関する公刊戦史。

開戦経緯、戦争指導、個々の作戦等について、各種文書口述記録並びに外国の公刊戦史等を元として、記述するもの

1966年昭和41年から1980年昭和55年)にかけて編纂・発刊。

大本営関係34巻 · 陸軍戦史37巻 · 海軍戦史21巻 · 陸軍航空戦史9巻 · 年表1巻の全102巻で構成

戦略レベル以上の分析史料批判に欠ける。旧軍所属していた元軍人が書いているため、身内に係る批判がされにくい。陸海軍対立編纂事業にまで及ぶ。捕虜の取り扱いや占領行政に係る記述が無いか少ない。索引が無い。誤りが多い等の問題点が見られるようだ。

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戦史叢書第099巻 陸軍軍戦備

 日本陸軍の軍備及び戦備並びにこれらに関連する事項について記述官制について記述

 扱う期間は慶応3年1867年)~昭和20年1945年8月15日

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戦史叢書第008巻 大本営陸軍部<1>昭和15年5月まで

 明治元年1868年から昭和15年1940年5月までの約70年間に亘る陸軍中央部施策中、大東亜戦争関連事項につきその大綱を概説して記述国防上の政策軍令機関等の制定改廃、帝国国防方針の制定改定等について記述

 扱う期間は明治元年1868年)~昭和15年1940年5月

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戦史叢書第009巻 陸軍軍需動員<1>計画

 主として大正6~7年(1917~1918年)頃から昭和12年1937年)頃までの約20年間に亘る陸軍軍需動員の計画準備について記述徴発制度法令官制計画等について記述実施面については、戦史叢書33巻『陸軍軍需動員<2>実施編』に詳述。

 扱う期間は大正6~7年(1917~1918年から昭和12年1937年)。

戦史叢書第065巻 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯<1>

 大本営陸軍部の立場から大東亜戦争日中戦争太平洋戦争)に至った政戦略の経緯や戦争指導について記述。主として「大本営政府連絡会議」及び「御前会議」の運営及び開催に伴う陸海軍及び外交当局の動きについて記述

 扱う期間は昭和6年1931年)~昭和16年1941年8月30日

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戦史叢書第091巻 大本営海軍部・聯合艦隊<1>開戦まで

日本海軍創設から大東亜戦争」開戦までにおける海軍中央部施策 、開戦から終戦までの大本営海軍部・連合艦隊戦争指導および作戦指導概要記述

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戦史叢書第088巻 海軍軍戦備<2>開戦以後

 日本海軍の軍備及び戦備並びにこれらに関連する事項を重点的に概述。

 扱う期間は昭和16年1941年11月昭和20年1945年8月15日

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戦史叢書第043巻 ミッドウェー海戦

 昭和17年1942年6月5日から7日にかけて行われたミッドウェー海戦及びその前後海軍作戦について記述。本作戦は、戦争全般ターニングポイントとみなされている重要な戦役(戦闘)であり、本作戦の失敗(敗北)以降、開戦から常に先手を取り続けていた日本海軍は、守勢に回ることとなった。なお、本作戦は、アリューシャン列島西部要地攻略作戦と一体の作戦として計画及び実行されたものであり、戦史叢書第029巻『北東方海軍作戦』を関係して参照することが望ましい。

 明治戦争勃発前までの海軍作戦構想が概述されている。

 扱う期間は昭和17年1942年1月昭和17年1942年6月

 (但し、海軍作戦構想概略部にあっては明治以降)

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戦史叢書第046巻 海上護衛戦

 海上輸送及びその護衛について総合的かつ包括的記述

 外地特に南方占領地)から海上輸送は、戦争中の国力維持に対し極めて強い影響を与える。戦争敗因の一大要因として、わが海上輸送力の減退に基づく国力喪失が挙げられており、それらの実相並びに諸対策実態を明らかにするためにも、これらの関連分野全般に亘っての総合研究叙述が必要とされるところである

 扱う期間は明治40年(1907年4月昭和20年1945年8月

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戦史叢書第082巻 大本営陸軍部<10昭和二十年八月まで

 昭和20年1945年1月8月にかけての大本営陸軍部の作戦指導及び戦争指導の経緯を記述

 扱う期間は昭和20年1945年1月20日~昭和20年1945年8月15日

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2017-11-22

IBM

IBMって昭和12年に日本進出してきてたのか。早ぇぇ!!

1937年昭和12年)には日本外資系企業最大規模の日本IBMが進出しています

http://job.japantimes.com/cl_f_index.php

 
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