はてなキーワード: 20世紀とは
タイトルで言いたいこと大体書いちゃったんだけど。
新人研修の講師やってて、会社の新人に課題の回答聞くシチュエーションになったんだ。
その時、なんか魔が差したんだろうな。「ファイナルアンサー?」ってボケがのどまで出かかったんだよ。
声になる寸前で理性が動いて、「その回答で本当にいい?」って普通の質問ができて事なきを得たんだけど、息を吐くようにオヤジギャグをかまそうとした自分に思わずドキッとしてしまったのだ。
今年の新人って、21世紀生まれも混ざってるわけよ。そこに20世紀のバラエティ番組のネタを振ったとして失笑だったらまだいい方で、大半の子は意味が分からなくてポカーンと固まってしまうんじゃないだろうか?
繰り返しになるが、そんな想像力が働かないまま昔のボケをかまそうとした自分が、知らず知らずのうちにおっさん化していることに気づいた瞬間はマジで焦ったね。
本当にぎりぎりで踏みとどまれてよかった。自制心が効かずに本当に「ファイナルアンサー?」ってボケをかましてたら、会社の新人全員から正真正銘のマスターグレードパーフェクトおっさん認定されててアウトだっただろう。
おっかない、おっかない。これを教訓にこれから気を付けよう。
良いね。やっぱ賢くて善良やね。
俺が思うに、君の言う、テロと無関係の問題解決、それもうやってるんだよね。
なぜならば、全てのテロが起きる原因は、大枠では常に判明しているからだ。
その原因とは、貧困だ。
貧困の撲滅こそが最も根本的なテロ対策であることは、テロに譲歩したらダメだって話と同様、世界でよく知られている。少なくとも我が日本は、確かにさまざまな問題や意見の対立はあるにせよ、貧困の減少を目指している。(とか言ったらアホの横増田がヘルジャパンを強調してくるんだろうが知らん)。
前回も今回も、要は金がなくて鬱屈してたからやったわけよ。統一だの自民だのは、本人的にはほんとの気持ちなんだろうが、全体として原因を考えるってフェーズでは無関係だろ。その問題が人生にあったとしても、貧困がなければ犯罪行為はなかった。
ちなみに統一教会だって、別に放っておいても10年もすれば潰れたからね。もとからネガティブキャンペーン成功で新規会員ほぼゼロだったんだから。
なんで、犯人の動機とかを知ることには、実は問題解決的な意味は全くないと、俺は思う。
ワイドショー的な野次馬欲を満足させるぐらいだろうし、実際そのためだけに報道は行われているんだろう。効果がないであろうことなんか、俺ごときが言わなくても多くの人がわかってるだろうからね。
とはいえ、理由を報道してほしい・すべき、という意見を持つ君のような人が、ワイドショー的な根性でやってるとは思わない。そこで考えるべきは、20世紀的な理性主義を批判することなんだろうな。
増田はゼロリスク神話を批判してたけど、その更に根底にあるやつが、やはり君にも根付いてしまってるのではないかな。コントロールして対処することへの検討のない妄信というか。
SOMPO美術館のブルターニュ光と風という展覧会に、鯖漁と題された絵が出ていた。中央に漁をする5人乗り程度の小舟。遥かに見える水平線は朱に染まり太陽が見える。それを解説では夕日だと断定していたのだけど、なぜそう言えるのか? むしろ漁は未明から行って昼には終えるもんなんじゃないのと思わないでもない。
こういうふうに、絵を見てると朝焼けか夕焼けか迷うことがある。方角とか題材とかで特定できることもあるけど、分からないことも多い。なにかいい判別法はないだろうか。
ちなみに、この展覧会はカンペール美術館所蔵のブルターニュ地方を題材とした19世紀から20世紀を中心とした絵画の展示で、思いのほか見ごたえがあった。おすすめはセリュジエの数点。フライヤーなどで使われてる難破した2人の印象的な絵は、意外に半裸の方も男だという。父と息子の最後のキスなんだと。同階にあった聖母子は顔はめパネルみたいな感じてなかなかおもしろいので、一見の価値あり。
対象が現象であることを、「理系科学や物理的実態とは無関係に考察して良い」とか拡大解釈しちゃったのが、20世紀人文社会科学の大きな誤りであった。
お前はその間違いを継承している。
他に特に言うことはない。
あとはチェリーピッキングするなぐらいだけど、それはお前のような宗教家でも取れるチェリーを用意してる世間さんのほうに問題がある。
でも言いたいことは横増田がいってたな。
だけど、「社会的ロール」の理解がお前は雑だな。社会的であることを、人工物であるとか、自然ではないとか、変更可能であるとか、強制力の産物であって不要であるとか、考えてるだろ。
アリの巣が社会的であるように、社会的であることと、生与であること・生物として必要であることは、両立する。
わかるけど、昔の理論のなにが批判されてきてるかは勉強してないようだな。
例えば、「ジェンダー」という概念は、20世紀のアメリカ教育学の悪影響下にあって、実際より広く理解されてきたことがよく知られている。男の子が武器を好きなのは社会的に影響のせいだってことにして、取り上げておままごと強制したりね? 実際には、多くの男の子は武器が生まれつき好きだ。
お前の話からは、社会と教育次第で、性別なぞ如何様にも変えうるみたいな、過去の間違った理論の影響が見て取れるな。
あと、唯心論の話もしてるな。心は実際には脳に存在しない、だとか。それも心理学の古い立場の一つで、脳科学の発展によって淘汰されつつある考え方だね。心は脳にある。少なくとも、脳の物理的病変で心の形態は変わってしまう。
唯心論は、デカルトの心身二元論がベースなのでなんか論理っぽいし、、魂みたいなもんを想像させて受け入れてやすい、今でもたまに信じてるやついるけど、基本的にはもつ使えない考え方だ。ぶっちゃけ宗教だよ。
ジェンダー界隈の人文学の理論ってさ、明らかに生物がらみなのに、理系科学から切り離されちゃってるせいで、古典で学ぶと、そういう間違いが結構残ってるのよ、
現代はそういうとこ是正しようとしてるはずだけど、まあ俺やお前みたいな年寄りが、大学時代に教科書で読んでたような理屈は、結構ヤバいと思っていいぞ。
社会活動団体のパンフレットもやばい。俺ら世代が作ってるから。
別にお前の、全ての人が幸福と自由を得ればいよね的な、結論部分とかに間違いって言う気はないんだが、途中の理屈が明らかに間違ってるんだわ。
やあ、下手なTwitter愚痴垢よりもタチの悪い奴のお出ましだ!
https://www.anime-recorder.com/tvanime/268946/
なあ、何なんでしょうか? このラインナップは。
貴重なフリー空き枠をサブカルマジョリティ側の再放送(極めてサブカルマジョリティ的な味付けされてる男女間恋愛の第1期、BSフジで放送されてた腐夢アニメ、そして転生JRPGファンタジーなろう)、
馬鹿なの? BS11様は自分が製作委員会関わったものの前作ばっか優先して
MXでの昭和ウルトラ&ライダー、20世紀セラムン、ゾイド、マジンガー、プリキュア、アイカツ、プリティー系放送の様な気の利いた事出来ないのっすか?
東映特撮YouTube chでの龍騎〜555大盛況なのかすらも考えれないっていうだろうなのか?
「妹は中学校でのいじめで両手足に火傷跡、折り返し前に男女間恋愛モノにおける奈央虐前後編でその直後に別ヒロインとのギスギス前後編(雨の次回予告は最大の恐怖シーン)」
あと「序盤のヒロインは毒母のせいで家がアレに、終盤ヒロインは毒両親持ち」なのが放送予定だとか、
「男性声優演の男主人公でラブコメまたはなろうまたは新規オリジナルの腐夢系」の嵐で
「女性声優演の女主人公だけど女性向け男女間恋愛モノ&VRMMOモノ&なろうスピンオフ」、
音楽・歌劇モノも「楽園だけでなく地獄も描かれることを覚悟する視聴者だけ見続けなさい」的な展開を予感させるもの。
で、振り返ったら「いじめっこや銀行強盗のシーン懸念される未知の作品」、
そしてそれらを除けば「シリアス」ばかり...
なんかみじめじゃありません?
最低1枠でもきららやジェネリックきらら(ジェネきら)用意すれば良かったのに、
常連のゆるキャンすらも、放送から時があまり経ってないスローループ、
近辺放送のおにまいやぼざろすらも用意されてないひどいザマじゃんこれじゃあ。
そんなにわたくしにVTuber生配信鑑賞民に鞍替えしろってのか?
いや、空き枠ならBS11だけでなくBS日テレ残り1枠、BS松竹東急の咲全国編終了後の木曜にもある!
女性声優演女主人公かつ百合的路線のものの製作委員会にもうBS日テレやBSフジは迎え入れるなや馬鹿業界どもは。
共産主義の理論は、20世紀の半ばぐらいまでは、当時の人類トップクラスの頭脳の持ち主でも支持する人々が数多くいたので、それはそれは魅力的だったんだろうけど、
共産党やその類が共産主義の実現を目指して独裁した国々(旧東側)は経済のパフォーマンスでも国民の人権状況でもことごとく悲惨な状況になって、
現実に実験した結果(大量に人を殺して)失敗が明らかになったと認識しているのだが、
未だに共産主義の看板を下ろさない日本共産党の人たちってこの辺、どう考えてるんだろう?
通った大学に民主青年同盟があったから、卒業する前にあの人たちに議論を吹っ掛ければ良かったのかなあ。うっかりオルグされちゃったかもしれないけど。
以下のくだりが、とても印象的だった。
その時にわたしの出身地の名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。
その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分も神戸出身でさ」と言われた。
恥ずかしい話、「神戸出身だから」と言われて私は何も分からなかった。
私は自分が地震と津波の被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。
「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。
その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
ひとの災害経験というのは、ほんと様々で、一概にかわいそうな被害者としてのっぺらぼうな面をみるわけにはいかないよね。
自分だけが被害者面していたかも、という気づき。こういうちょっとワンクッションおいて、時間が経って考えること、こういうのが大切なんだと思う。
ただ、被害者という言葉で共通項を見出したとしても、阪神淡路大震災を経験したひとと、東日本大震災を経験した増田がこうして、何かのきっかけでお互いの体験の共通部分に触れようとしたときでさえ、お互いが経験したものの奥行や背景は全く違う。でもそれは、もっと言葉を交わさなければみえてこないもの。
多分、増田は上記の言葉を交わしたとき、その手前でふと立ち止まって考えたんだと思う。
ひるがえって自分の親戚の話。自分語りをトラバに混ぜるのはなんだかな、と思うところもあるが、テーマの性質上書かせてもらう。津波から数日後、東北のもっとも大きな漁港のひとつで、親戚が経営していた漁業関連会社と生産工場が全滅したとの一報を受けた。一方、杜の都に住む息子娘世代は全員無事だったという朗報にほっとしたことを思い出す。
しかし、それよりも震災から半年くらい経って、父が一言つぶやいた言葉のほうが忘れられなかった。
他界した親戚一家は、さかのぼると、昭和8年の津波の前から漁港で生計を営んでいた。1933年の津波で多くの財産を失った親戚は一から再建する際に、同じ場所でやり直すのはやめるべきだと再三にわたって、周囲から助言されていたという。しかし、結局、同じ場所で人生をやり直し、次世代が引き継ぎ、そして次第に事業規模が大きくなり、津波の記憶が遠ざかっていくなかで、そのまた次世代の方々が財を成し、地元の名士として羽振りよく、親族のなかで存在感を持つに至る。そんななかで、半世紀以上前、東京に出て行った東北の令嬢が結婚前の父と出会う。
大切な令嬢(大地主の長女)をどこの馬の骨ともわからないよその県の小作人の末っ子風情に嫁がせるわけにはいかない、という大反対の嵐。本家筋からなにから親戚中の冷たい目線。結局、結婚は許されて、父は母の家系に婿として入ることになるのだが、その時に受けた屈辱を忘れられないらしく、東日本大震災で全滅した親戚に対して、天罰、という言葉で自身のつらみを含ませて表現したのだった。
父にとっては、かわいそうだね、では決して片づけられない感情。
個人的には、なにより、貧しい者も栄華を誇った者も等しくなぎ倒した大津波の、客観的な、物理的な力に圧倒せざるを得なかった。
たとえ、誰と震災の経験の話をするとしても、このようなパーソナルヒストリーの違いによる温度差は避けることができない。そう思っている。
震災を経験していようがいまいが、あるいは同じく焼け出された隣人でも同じではない。大地震大津波の破壊力を前には、あの家は無事だった、無事でなかった、そういうさまざまな経験がそれぞれにあるにすぎない。
こうしたファミリーヒストリーな視点でそれぞれの思いがある一方で、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
という上司の言葉。そして、「やっと気づいた」という言葉。このつながり方は、大変興味深い。「あの年は~」というのは個々の経験の違いを超えた、歴史を振り返った俯瞰的な総括を含んでいるからだ。1995年という時代、そういったマクロな視点での気づきをもたらすのも災害だ。
そして、それが何かの理由で、自分自身のファミリーヒストリーや神戸出身者とのちょっとした会話と結びついたのだとすれば、それは自分のある意味「かわいそうな」私的な思いを、歴史の一コマのなかに着地させようとする、そういう覚醒だったのかもしれない。
実をいうと、よりマクロな視点で、それぞれの災害にはそれぞれの社会的な背景があり、その脆弱性が被害を増幅させている、という視点を最初に提起したのは、阪神淡路大震災だった。
1990年代以前は、災害被害者というのは、災害管理の文脈で救援対象として、比較的ステレオタイプに捉えられていた。しかし、その認識を大きく変え、都市の社会構造の脆弱性に関心が高まったきっかけが1995年の震災だった。こう書くとなにやら上から目線風だけど、阪神淡路大震災が自分が仕事として防災の世界に入るきっかけを作った。
神戸の都市としての成り立ちは、明治の初め、神戸港が開港された時から始まる。以降、港湾労働者が多く流入、低所得層が脆弱な埋め立て地や条件の悪い内陸部へ集住するようになる。他方で、20世紀の鉄道の時代に入ると、阪神間の交通網が充実し、六甲山ろくに高級住宅地が開発されるようになる。高度経済成長期には六甲の開発で切り崩した丘陵地に住宅地を建設、その残土で海岸が埋め立てられ、工場用地や港湾建設が進められていく。おりしも公害問題が深刻化した時代、都市の生活環境はますます深刻化していった。そんななか、オイルショックを契機に産業構造の転換という時代の変わり目を迎え、神戸の産業のシンボルであった造船、鉄鋼は停滞してゆく。それは関連する神戸の零細地場産業を苦境に陥らせ、今度は人口流出が起こり都市部の空洞化が始まった。都市部に残っているのは、流動性の低い層つまり高齢者、低所得者ばかりとなった(インナーシティの形成)。
これに対して1980年代、神戸市の政策的な対応としては、財政問題の打開が先行した。バブル前の当時の考え方では、大規模開発こそが地域経済の再生をもたらすと信じられていた。埋立地の利用による、ポートラインラド、六甲アイランド建設、物流機能強化のための明石大橋建設、最先端技術産業の誘致、ニュータウン建設など、新たな付加価値の創出が事態打開の切り札だった。
その一方、社会の脆弱層への支援、行政による市街地の再生は後手に回っていた。
オイルショック後の産業構造の転換で取り残された低賃金労働者の町、老朽化の進んだ木造住宅密集地域、長屋建ての住宅の占める割合の多い市街地(長田区のスラムのようなオールドタウン)は新陳代謝が進められなかった。地震対策の上でも洪水対策の面でも取り残された街となった。どのような地域であったかは番町地区で検索をしてほしい。
このような経済格差や脆弱性が生み出された、マクロな構造変動のなかで襲ったのが1995年の大地震であり、被害が社会経済的に脆弱な人々に集中した。暴力団員が懸命に救助活動していたエピソードを覚えている人もいるだろう。そういう街だった。
社会学的な視点でみれば、この地震の教訓として、被害が高齢者、低所得者に集中したのは、ある意味、歴史的必然だ。格差が生み出された背景などのマクロな政治的・経済的な動向と切り離せないということだ。
そして、このような格差や脆弱性という切り口でみる構造分析は先月発生したトルコとシリアの大地震でも、当てはめることができる。
このように、可哀そうな存在というのを社会学的に脆弱性として構造的にとらえる、ひとつのきっかけは、やはり他の災害を知るということであるし、昔の災害を知るということだと思う。
パーソナルヒストリーとしてお互いに触れあうことで、お互いに違うバックグラウンドにあることがうすうすわかってくる、それもまた、大切な気づきなのだと思う。
また、パーソナルなコミュニケーションが、例えばまさに「通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね」みたいな会話、これが実はマクロな特性を知るうえでも、その人のパーソナルヒストリーをしるうえでに、もっとも重要なエントリーポイントだったりする。仕事上、ひとから話を聞くときにいつも気に留めていることでもある。
だから、トルコとシリアで現在進行形の震災について全体状況を大きな視点理解している国際機関よりも、よりミクロな視点で、特定の家族や地域の人たちにコンタクトがとれる小規模のNGOや支援団体に私自身は微力ながら支援金を送付している。たまたまシリア難民支援をしている人と知り合いの知り合いくらいの関係でSNSでつながっていたのがきっかけだ。アサド政権が物資を止めてしまう現状も現地の声としてより関心を持つようになった。そのほうが確実に、受け取った人の顔がみえ、困っている状況がミクロにもマクロにもわかってくる。自分が支援したお金が支援先の一家族あたりの支援額(しかも第一バッチ)の1/4にも満たないことを知る。こういうことも大切だと思う。
そのように、何かをきっかけに、他の災害に対して接点を持つ機会を大切にしたい。
というのは、居酒屋のトイレの洗面所とかで何気なくかわす会話、とか想像していたのだけど、そういうのが大切だよね。そういうのが心の残って覚えている、ということがさ。もちろん完全にひとのことを理解するなんてことはどんなに会話を交わしてもない。でも覚えてさえいれば、そのなぜか覚えていた思いを何かにつなげることができる。その「きっかけ」というのはとても大切に思う。
災害を忘れない、というのはそういうことだと思うので。