はてなキーワード: 構成とは
ごめん、何回か読んだけどちょっとこれが結び付く理由が分からなかった。
確かに「外観,観念,称呼についての 総合的な類似性の有無も具体的な取引状況によって異なってくる場合もあることに思いを致すべきである」とは言ってるけど、
これはあくまで当事者が争点として「商品同士を比較した際の出所混同」について議論していたからこういう言い方になっているのであって
柚葉ケースのように単純にイ号(ゆっくり動画)と登録商標を比較すればよい場合にまでは拡張できないんじゃないかと思ったし、
先ほど言ってた「商品が消えてしまったら有利」という結論にも結び付かないと思うんだけど、
それは違う話なのかな?
また、逆に言えば柚葉側の商品(動画)が残っている方が、商標の使われ方(画面の構成や出し方)が
素朴な疑問なんだけど、何で「自分で思ってる分には良いけど他人に強要しはじめたら攻撃でしょ」
って枝に、平気な顔して「これで納得出来なければニートw」みたいに話と関係がない攻撃性高いとしか言いようがない発言を出せるの?
七音だけだと=ドレミにはならんので、
そもそもドレミ…で構成されるダイアトニックコードはとても硬直的でつまらない音であり、
ドレミ…に含まれない音も使ったノンダイアトニックコードを混ぜるのが普通であって、
それによってドミナントモーションのような音同士の引力がぐだぐだ…
2013年のIMOコロンビア大会の問題で、黒羽で自分で解いていたときになんとなく分かったが証明の構成技巧の方は難しかったので全然できなかったんだが
模範解答
Given a circular arrangement of r0, ns “ t0, 1, . . . , nu, we define a k-chord to be
a (possibly degenerate) chord whose (possibly equal) endpoints add up to k. We say that three
chords of a circle are aligned if one of them separates the other two. Say that m ě 3 chords
are aligned if any three of them are aligned. For instance, in Figure 1, A, B, and C are aligned,
while B, C, and D are not.
ABCDB ACDE0 nu vtn − t
Figure 1 Figure 2
Claim. In a beautiful arrangement, the k–chords are aligned for any integer k.
Proof. We proceed by induction. For n ď 3 the statement is trivial. Now let n ě 4, and proceed
by contradiction. Consider a beautiful arrangement S where the three k–chords A, B, C are not
aligned. If n is not among the endpoints of A, B, and C, then by deleting n from S we obtain
a beautiful arrangement Sztnu of r0, n ´ 1s, where A, B, and C are aligned by the induction
hypothesis. Similarly, if 0 is not among these endpoints, then deleting 0 and decreasing all the
numbers by 1 gives a beautiful arrangement Szt0u where A, B, and C are aligned. Therefore
both 0 and n are among the endpoints of these segments. If x and y are their respective partners,
we have n ě 0 ` x “ k “ n ` y ě n. Thus 0 and n are the endpoints of one of the chords; say it
is C.
Let D be the chord formed by the numbers u and v which are adjacent to 0 and n and on the
same side of C as A and B, as shown in Figure 2. Set t “ u`v. If we had t “ n, the n–chords A,
B, and D would not be aligned in the beautiful arrangement Szt0, nu, contradicting the induction
hypothesis. If t ă n, then the t-chord from 0 to t cannot intersect D, so the chord C separates t
and D. The chord E from t to n´t does not intersect C, so t and n´t are on the same side of C.
But then the chords A, B, and E are not aligned in Szt0, nu, a contradiction. Finally, the case
t ą n is equivalent to the case t ă n via the beauty-preserving relabelling x ÞÑ n´x for 0 ď x ď n,
which sends t-chords to p2n ´ tq–chords. This proves the Claim.
Having established the Claim, we prove the desired result by induction. The case n “ 2 is
trivial. Now assume that n ě 3. Let S be a beautiful arrangement of r0, ns and delete n to obtain
the beautiful arrangement T of r0, n ´ 1s. The n–chords of T are aligned, and they contain every
point except 0. Say T is of Type 1 if 0 lies between two of these n–chords, and it is of Type 2
otherwise; i.e., if 0 is aligned with these n–chords. We will show that each Type 1 arrangement
of r0, n´ 1s arises from a unique arrangement of r0, ns, and each Type 2 arrangement of r0, n´ 1s arises from exactly two beautiful arrangements of r0, ns.
If T is of Type 1, let 0 lie between chords A and B. Since the chord from 0 to n must be
aligned with A and B in S, n must be on the other arc between A and B. Therefore S can be
recovered uniquely from T. In the other direction, if T is of Type 1 and we insert n as above,
then we claim the resulting arrangement S is beautiful. For 0 ă k ă n, the k–chords of S are also
k–chords of T, so they are aligned. Finally, for n ă k ă 2n, notice that the n–chords of S are
parallel by construction, so there is an antisymmetry axis ℓ such that x is symmetric to n´x with
respect to ℓ for all x. If we had two k–chords which intersect, then their reflections across ℓ would
be two p2n ´ kq-chords which intersect, where 0 ă 2n ´ k ă n, a contradiction.
If T is of Type 2, there are two possible positions for n in S, on either side of 0. As above, we
check that both positions lead to beautiful arrangements of r0, ns.
Hence if we let Mn be the number of beautiful arrangements of r0, ns, and let Ln be the number
of beautiful arrangements of r0, n ´ 1s of Type 2, we have
Mn “ pMn´1 ´ Ln´1q ` 2Ln´1 “ Mn´1 ` Ln´1.
It then remains to show that Ln´1 is the number of pairs px, yq of positive integers with x`y “ n
and gcdpx, yq “ 1. Since n ě 3, this number equals ϕpnq “ #tx : 1 ď x ď n, gcdpx, nq “ 1u.
To prove this, consider a Type 2 beautiful arrangement of r0, n ´ 1s. Label the positions
0, . . . , n ´ 1 pmod nq clockwise around the circle, so that number 0 is in position 0. Let fpiq be
the number in position i; note that f is a permutation of r0, n ´ 1s. Let a be the position such
that fpaq “ n ´ 1.
Since the n–chords are aligned with 0, and every point is in an n–chord, these chords are all
Similarly, since the pn´1q–chords are aligned and every point is in an pn´1q–chord, these chords
fpiq ` fpa ´ iq “ n ´ 1 for all i.
Therefore fpa ´ iq “ fp´iq ´ 1 for all i; and since fp0q “ 0, we get
Recall that this is an equality modulo n. Since f is a permutation, we must have pa, nq “ 1. Hence
Ln´1 ď ϕpnq.
To prove equality, it remains to observe that the labeling (1) is beautiful. To see this, consider
four numbers w, x, y, z on the circle with w ` y “ x ` z. Their positions around the circle satisfy
p´awq ` p´ayq “ p´axq ` p´azq, which means that the chord from w to y and the chord from
x to z are parallel. Thus (1) is beautiful, and by construction it has Type 2. The desired result
follows.
結局こなつさんのnoteはこなつさんが知ってるだけの情報で構成されてるこなつさん視点の顛末だからね!
あれだけ読んでこなつさんは正義、他は悪、安全圏から言いたい放題!って思ってた人ばっかりだったもんね!
そもそもXとAは同一人物っしょってドヤ顔してたやつ全員間違いだったのにさ
俺気付いちゃったとか、これ絶対そうじゃんとか、それすら合ってなかったわけで
人死んだのがトリガーで、やっぱり本気になるだろうし(医療裁判とかも、遺族のやり場のない怒りを原動力に超長期化するじゃん)
汗さんめちゃくちゃお金余ってるだろうから(欲しいっていう需要に応えただけで結局1000万前後同人で利益出ちゃってそう/1500部台の自分でも一種100万は黒出るが汗さんは虎フロマイベ自家で2000じゃとても足りないだろう×いったい何冊?)
演奏不可能の作品(えんそうふかのうのさくひん)とは、さまざまな理由により演奏が不可能、あるいは困難な音楽作品のことである。
クラシック音楽の世界では、演奏が不可能(または困難)な作品が多数存在する。演奏不可能な作品の中にも、仮に演奏されたとすれば傑作と評価され得るだけの芸術性を備えた作品は多く、これらは安易に無視できない存在となっている。巨大編成の作品や演奏時間の長い曲とも密接に関係があり、イギリスのソラブジの作品はその3要素が完全に組み合わさり、初演できないものも多数ある。
現代のポピュラー音楽の場合には、作曲家、作詞家、編曲家といった独立した職能も存在するものの、作品は演奏との一体性が強く、コンサート、ライブでの生演奏や、演奏を収録した媒体(CD等)という形で公表される点で、クラシック音楽とは様相が大きく異なる。このため、ポピュラー音楽においては、作品を聞くことができるという意味で、ほぼ全ての作品が演奏可能であるといえる。その一方で、媒体への収録(すなわちレコーディング)に際しては多重録音をはじめとする種々の編集が行われるとともにに、演奏においてはシーケンサー等の自動演奏が積極的に利用されるので、純粋に人のみによって演奏することが不可能あるいは困難である作品も多い。このような作品をコンサートやライブにおいて生演奏する際には、自動演奏やテープなどを用いてレコーディングされた作品を再現するか、生演奏が可能なようにアレンジを変えることがよく行われる。また、一時期のXTCのように、高度なスタジオワークを行うミュージシャンの中にはライブを行わない者もいる。
歴史は長く、J.S.バッハの諸作品、モーツァルトのオペラフィガロの結婚や魔笛、ベートーヴェンのピアノソナタ第21番、第29番、ピアノ協奏曲第1番や交響曲第7番・第9番などが古典的な例とされる。
ロマン派では、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の第19番のアリアは良く省略され、シューベルトの魔王や交響曲第9番「ザ・グレート」、パガニーニのヴァイオリン曲、ロベルト・シューマンの交響的練習曲の第2変奏曲や2点へ以上の音域がある4本のホルンとオーケルトラの為の協奏曲作品86、リストの一連のピアノ曲、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に演奏不可能と宣告されたブルックナーの交響曲第2番、ブラームスのピアノ協奏曲第2番やヴァイオリン協奏曲またピアノソナタ第3番の冒頭部、チャイコフスキーの諸作品、マーラーの交響曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番等があったが、それらは現在では演奏技術の発達により演奏不可能と見なされることはなくなった。しかし、プッチーニの「ラ・ボエーム」第一幕のエンディンクは、未だに半音下げて歌われることが多い。
近代ではストラヴィンスキーの春の祭典、シェーンベルクのピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲、モーゼとアロンがあるが、「春の祭典」と「モーゼとアロン」は演奏技術の発達により現在では演奏会での一般的な曲目になっている。意図的に作曲された例としてアイヴズの歌曲「義務」があるが、今日では演奏家は内声などを省略するか、アルペジオで演奏するか、アシスタントを設けるかで解決されている。彼のピアノソナタ第2番等も同様であるが、本人は「間違った記譜もすべて正しい記譜である」と友人に説明している。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章にも2度の音階的な走句があるが、「困難だ」と結論付けて全てアルペジオで演奏する者もいる。ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番第三楽章の冒頭のパッセージは身長が170cmないと物理的に不可能であり、体格の小さなピアニストやテクニックに不自由したピアニストは左手の音をずらして演奏することが慣例化している。
演奏不可能の作品という概念は現代では新しい複雑性と深く関係している。ファーニホウの諸作品は非常に高度な演奏技術を要するが、彼の音楽に要される困難は主に読譜に集中するため決して不可能な音楽ではないとされる。しかし逆説的に言えば、演奏不可能の概念は、今日例えばパソコンのシーケンサーなどに自分で四分音符をメトロノームに合わせてキーボードで打ち込んでも決して4分音符や強弱が正しく出てこないという経験から、人間が演奏する限りにおいて全ての音楽に当てはまるという事も言える。その外シュトックハウゼンの「7つの日々からNr.26(1968)」の「金の塵」が奏者に演奏の前に4日間の断食を強要していると言う点で事実上の演奏不可能の作品である。
今日最も演奏の難しい現代音楽は、クセナキスの諸作品と言われている。第1曲目のピアノ協奏曲にあたる「シナファイ」、チェロ独奏の為の「ノモス・アルファ」、ピアノ独奏曲の「エヴリアリ」、「ヘルマ」、「ミスツ」、ピアノ独奏が重要な働きを担う「エオンタ」及び「パリンプセスト」等がその例である。クセナキス自身はテレビのインタビューで、これらは演奏困難にさせることを目的として作曲された作品であると語っている。
しかしこれらの作品群も、近年の若手演奏家の技術向上やCDリリースを参照する限り、徐々に不可能とは見なされなくなる日が近づいているのは確かであるが、逆にどんな簡単な作品も人間が演奏する限り100%の完全なる再現は厳密には不可能である。
前述の通りポピュラー音楽はクラシック音楽とは事情を異にする。とは言え、カバー曲やカラオケなど、オリジナル以外の奏者による演奏がまったくないわけではない。
特筆される例としてはサザンオールスターズの「Computer Children」(作詞・作曲 桑田佳祐。アルバムKAMAKURA収録)が挙げられる。この曲は、マスター収録の後にエフェクトなどのデジタル編集を行い、その編集後の曲がオリジナルとされている。したがって、ライブ演奏は事実上不可能となっている。ソフトウェア用マスター作成においてデジタル編集を行うポピュラー音楽は近年珍しくはないが、この曲ほど大胆に使用している例は(リミックスを除けば)、稀有である。
作曲家が演奏困難な作品を書くことによって、演奏技術が向上し、それがさらに作曲技法を拡大させるいう面がある。以下の曲の多くのものは今日では演奏やレコーディングの機会も多いが、作曲当時は「演奏困難」ないし「演奏不可能」とされたものである。参考までに掲げる。
指定された速度で演奏するのはほぼ不可能であり、通常は指定よりもやや遅くして演奏される。また、曲が独奏曲にしては長大であるため、高度の精神力が要求されるという点においても彼のソナタの中では最も演奏困難である。演奏技術の発達した現在では、ロマン派以降のピアノ音楽の大家の作品群と比べれば特別難しい曲ではなくなっているが、それでもなお演奏は困難を極める。また、リストがベートーヴェンの交響曲をピアノの為に編曲したものが存在するが、それらと比べれば、このピアノソナタは比較的易しい。
超一流のヴァイオリン奏者、パガニーニが作曲したヴァイオリンの難曲として知られ、作曲当時はパガニーニ自身以外には演奏が不可能であった。しかし、この作品の持つ魅力は多くの音楽家の心を捉え、さまざまな作曲家によって主題が引用されている。この曲の存在によって、作曲技巧や演奏技巧が大きく開拓された面は否めない。現在でも超絶技巧の難曲として知られるが、一流の演奏家の中には完璧に弾きこなしている人もかなり多い。
タイトルからもわかるように、超絶技巧を要することが目的となったピアノのための練習曲である。ピアノのパガニーニを目指したリストの代表曲である。一般の演奏家にも演奏できるように難易度を少し落とした第3版が現在では普及しているが、リストが超絶技巧の極致を目指して作曲した第2版は特に演奏困難とされ、リスト以外には演奏不可能と言われた。現在ではジャニス・ウェッバーとレスリー・ハワードが録音を残している。
演奏不可能とのレッテルを貼られ、当時の第一線のヴァイオリン奏者に初演を断られた作品。しかし現在では、早熟なヴァイオリン奏者が10代で弾きこなしてしまうことも珍しくない。
は第一楽章がオクターヴの速い動きで事実上の演奏不可能の作品である。解決譜としてのOssiaで多くのチェロ奏者が弾いている。
パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱で書かれたが、彼は「一音も理解できない」として取り上げなかったため、作曲家の生前には一度も演奏されることは無かった。ただし実際には、様式上・技巧上ともに特に大きな困難があるわけではなく、演奏は十分可能である。菅原明朗は「この曲こそプロコフィエフの最高傑作だ」と称え、ピアノと吹奏楽の為に編曲したヴァージョンを残している。
十二音技法によって作曲されている。ただし、急-緩-急の3楽章から成り、両端楽章の終わり近くにカデンツァがあるなど、伝統的な協奏曲の構成に従ってはいる。作曲者はヤッシャ・ハイフェッツに初演を依頼したが、ハイフェッツはこの曲を演奏するか否か散々考えた末、結局「研究しただけ無駄だった」として辞めてしまった。結局初演はルイス・クラスナー独奏、ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により行われた。作曲者自身は生演奏を聴いていないとされる。
1990年代初めドナウエッシンゲン現代音楽祭がカールスルーエの作曲家フォルカー・ハインに管弦楽の曲を委嘱したが、度重なるリハーサルにもかかわらず演奏困難ということでその年の公開演奏が中止になった。次の年もう一度だけ初演が試みられたが結局不可能で、またしても初演を断念させられた。その楽譜は当時の展示即売会で一般公開され、色々な同僚作曲家の意見が聞かれた。現在に至るまで演奏されていない。ブライトコップフ社によって出版されている。
チャンスオペレーションを厳格かつ極度に徹底したヴァイオリンソロのための作品集で、「作曲するのも演奏するのもほぼ不可能に近い」音楽になることを前提に作曲された。しかし、第18曲目の演奏困難度をめぐって1-16曲目までの初演者ポール・ズーコフスキーと意見が対立し、作曲が中断された。その13年後にアーヴィン・アルディッティの助力で作曲が再開されて、無事32曲の完成に至った。現在この作品の全曲演奏が出来るヴァイオリニストはヤノシュ・ネギーシーとアルディッティの二人しかいない事から考えて、最も演奏不可能に近いヴァイオリン曲といえる。
これはシン・ゴジラを踏襲した手法で特撮愛を形にした点で共通しているが全くアプローチの異なる映画だ。
シン・ゴジラはゴジラという存在を借りて庵野樋口が好き勝手再構築した映画
シン・ウルトラマンはウルトラマンという作品を庵野樋口が再構成した映画だ。
なので観る人がどういうイメージを持って観に行ったかによって捉え方が全く変わるだろう。
ウルトラマンを元に再構築して欲しかった人にも肩透かしになっただろう。
そしてウルトラマンを今に蘇らせて欲しかった人には最高の映画になったと思う。
シン・ウルトラマンは原作となったウルトラQからウルトラマン最終話までを120分に押し込んだ映画だ。
これは本当に構成が上手い。情報量が多く展開が早いため120分があっという間で下手をすると振り落とされてしまう。
怪獣製作する上での裏事情をうまく解釈し直し生物兵器としたのは素晴らしい。
隊員の巨大化やちゃぶ台を挟んだ駆け引き(これはウルトラセブンだが)などウルトラマンの各エピソードを拾い一つの流れに組み込み、ゼットンの再解釈は思わず唸らされた。
そこか!そこでウルトマンのあのシーンを挟むのか庵野このやろう!!wwと思わず笑ってしまった。
だからこそ、ファンでなければ面白さが伝わりづらいという弱点がどうしてもあると思う。
予備知識なしに見る人はどこに収束しようとしているのかわからない。
シン・ゴジラには物語の冒頭から終幕までゴジラという明確な敵役がいたが、シン・ウルトラマンは何度も事件が起こりそのたび敵が変わるからだ。
自分はウルトラマンをしっかり観たことはないが一応メフィラス星人やゾフィー、ゼットンなどを知っていたのでなるほどこうきたかと思ったが、それすらない人にはどこが物語のクライマックスになるのかわからないだろう。
なので賛否が起こり評価はおそらく大きくバラつく。ある人には最高、ある人には今ひとつ。そういう映画だ。
シン・ゴジラはゴジラというテーマをベースに日本社会を描き出したので特撮ファン以外にも開かれた映画になったが、シン・ウルトラマンはウルトラマンに愛がある人に受け入れられるストライクゾーンの狭いものになるのではないか。
また、シン・ゴジラはシリアスに物語が進むからこそ笑いになっているところがあったが今回は全体的にコメディ的に味付けがされていてそこを良しとしない人もいるだろう。
ほとんどの人には
「シン・ゴジラのウルトラマン版を期待したのにそうでもなかったなー。」
カメラワークは広角レンズが多用され物陰から見ているかのような構図が特徴的だった。そしてカット割が多い。
禍威獣パートをは人間視点で、人間ドラマパートも小人や透明人間になって複数人で観察しているような感覚だった。
もしかしたら映画を見ている我我も外星人としてこの地球のいく末を観察する役割を与えられていたのかもしれない。
巨大化した美人キャリアウーマンはこれは新い性癖きたなと思ってしまった。普段酒に酔っ払って路上で寝ているのが仄めかされたのもとても良い。メフィラス星人と神永が公園のブランコで対話をしているシーンは「薄い本になりそうだな〜」と思った。
役名は明かされなかったが竹野内豊がおそらくシン・ゴジラの赤坂と同じ役で出ている。これはシン・ゴジラの世界とシン・ウルトラマンの世界がマルチバースであるということだろう。
そうしたのもゴジラ、ウルトラマンと大人の事情で同じところに立てない作品の両作品への庵野の愛を感じる。
じゃぁなんで斎藤工は戦車に乗ってないんだとなるが、まぁ斎藤工もマルチバースで巨大な敵と直接戦っているということで笑
ウルトラマンでは田舎や都会で戦うことはあってもミニチュアが大変な工場というのはなかなかなかったのではないか、夕暮れ近い工業地帯での巨人の肉弾戦は庵野が一番観せたかった絵だと思う。
「人が性交又は性交類似行為を行う姿態」又は「露出された性器等を触り、若しくは触らせる行為等を行う姿態」
らしい。
https://news.yahoo.co.jp/articles/47c754ce6cee55145b3539da6e8442092d14467f/images/000
となると、セックス(アナルセックスやオーラルセックスは類似行為だろう)やオナニーや手マン、手コキ(これが露出された性器を触り…のところ)は規制されるのだが、結構な数のプレイが対象外になるように思える。
それはいいのか?
行為が対象外になる。まあこれらの行為はその後に予定されているセックス等の行為に付随するもので、これだけで作品にはならないからいいんだろうが、いわゆる着エロなどの、露出だけで完了するものは対象外になる。触りも触らせもしないから。それでいいのか?
「等」の範囲はわからんけど、文章の構成からして露出だけの行為は対象にならなさそう。
以上、取り留めなく恐縮だが、着エロは別にいいってことなんでしょうか。大麻が覚醒剤へのゲートドラッグと言われるのと似た論理で、着エロ(ジュニアアイドルものも)もAVへの第一歩かとおもうので憂慮する次第。
顔料を電子的な方法で移動させて文字・画像を画面構成するもので、液晶よりも紙に近い質感を持ち、目に負担がかからない。
顔料を移動させるという仕組みのせいで書き換え速度が遅いという制約があり、動画の再生には使い物にならないし、スムーズな画面スクロールさえできないという欠点もある。
誰もがスマートフォンやタブレットコンピュータを持っているような世界で読書専用のデバイスをわざわざ買って使い分けようという人はどれほどいるだろうか?
でも、公共交通機関でどこへでも行けるようにはなっていない。
本当に文章力落ちてきてる。
増田に転がってるようなしょーもない文章ばかりよんでここ20年ぐらい過ごしてきたのがボディーブローみたいに効いてきた。
エモいだの神だの草生えるだのンゴだの言ってりゃコミュニケーション取れてしまう世界に長くのは不味かったらしい。
定期的にちゃんとした文章が書かれてる物を読んで、どういう文章がまともなのかを認識し直さないとあかんね。
ラノベやエッセイレベルでもいいから、一応は校閲通過済みの文章をもうちょい読むべきだった。
あの頃は週1冊は本読んでたから、どういう文章を書けば少しはマシに見えるかがすぐにイメージ出来てた。
頭の引き出し開ければ少し前にインプットしたまともな文章のパターンがいくつも出てきたからなあ。
最近は句読点省略してるような文章やビックリマーク多用してるような文章ばかりインプットしてるから引き出しの汚染が進みすぎて使い物にならない。
ガベージインガベージアウトの法則だね。
いやいや人間やっぱ本は読んどけですよ本当。
本読んだ所で一見何の役に立たないように見えても、最低限度まともな文章はどう書けばいいのかが無意識レベルで修正されるから。
まともな文章を一行読むたびに、微粒子レベルで自分の文章構成における微妙なズレが矯正されていくんだよ。
その重要さが改めて実感できた。