はてなキーワード: 他人とは
自分はそれでよくても全員がこういう態度だとめちゃくちゃになるわけなので、そうならないためのコストを他人に押し付けてるという意味では、ある種のフリーライドではあるよね。非難されるのには理由がある。
いや別にめちゃくちゃになってくれても構いませんけどね
独身男性の平均寿命は60年、どうせあと30年もすれば死んであとには何も残らないんですし
やっぱ自称イジメられてた話を吹聴する奴はクソってのが再認識できた。
斉藤に限らずXでも自分はイジメられてて〜なんて言う奴のプロフ見ると訳わからん病名ずらーっと並べて色んな人に攻撃的なリプ送ってる性悪陰キャ。
でも実際こう言う奴らのイジメって大したことされてないと思う。もしくは誇張しまくった被害妄想。それをイジメとカウントして「イジメ被害者」のポジションで自分はそのせいで捻くれたから他人に暴言吐いても許してねって言う免罪符に使ってる。
本当に酷いイジメに遭ったら自分からペラペラ喋るような精神状態じゃないよ。思い出さないように前向きに生きてんだよ。
自称イジメ被害者の奴らはそういう人たちに対しての冒涜でもある。
俺は前々からそういう印籠のようにイジメられてましたーを出してくる陰キャを軽蔑してたけど、
やっぱり真偽がわからないから言葉だけを真に受けて騙されて同情したり、攻撃的になるのを寛容にする人が多い。そこに付け込んで調子に乗って斉藤のように悪事を犯す。
夫はなんでかしらんが嫁は自分の所有物で自分の嫌なことを引き受けるイマジナリーフレンドの認識の人が多いよな
離婚した後もこういう人は「一度は母と呼んだんだから見るのが当然」と思っているらしく弁護士経由で「今は他人です」って言われて
ぶっちゃけパーキンソンはすすんでいるならそれは薬の調整があってないからヤブなんだよ
パーキンソンの専門病院に行くことをお勧めする(多くの人は脳外科とか神経外科を専門と思っているけど違う。パーキンの専門に行くこと)
他人に喧嘩売る…おほん、もとい議論や問題提起するためのアカウントや
陰口や悪口…うえっほん、普段思っていることを言うためのアカウントとか
分けたっていいだろう
時折複垢は規約違反とか抜かすサイトがあるが、こういう事できないから困るんだよ
本垢一本だと色々都合悪いの
絶対にできないやろ。
Twitterブルーが開始される前にどう言うツイートをしてたかチェックしてみろ
要するに自分の頭で考えてない。
反ワクと同じ穴のムジナ
自分の話しかしなくなってこちらの話を全然聞かないわ、不妊で悩んでる別の友達の前で平気で子供の話をするわ、旦那の職業、学歴でマウントを取り始めるわ、それ以外の話題が全部他人の悪口になるわ
今アラサーなんだけど、なんか最近、世界を遠くまで見渡せるようになった感覚がある。
見えなかったものも視界に入るようになったって言うか、独立して認識できなかったような背景の一部が一個体として存在しているって認識したかのような、なんて言えばいいのか、
道路の「トマレ」の白文字が車に乗るようになってから目に入るようになった感じっていうの、
そういう感覚が全てにおいてある。
あとちょっと驚きなのは多分それは他の人にはずっと前から見えてた景色なんだってことなんだ。
わたしは昔からちょっと浮いてるっていうかぼんやりしてる子だった。
みんなが指示されたことをチャキチャキ進めていったり、自分のやりたいことを主張したり行動したりするのをボーッと見てるだけだった。
その頃はあらゆることが自分の世界で起きている出来事だと思えなくて、自己主張したり行動したりすることで干渉できるとはっきり理解できてなくて、この世界で思い通りにできるものはわたしの頭の中にしかなかった。だから頭の中では活発だったけど当然体は動いてないからボーッとしてたんだよね。
でもさ、社会人を数年やってきて、やっぱり自分で考えて選択して、それを行動に写すってのがどうしても必要になる訳よ。
最初はどうしていいかとにかく分からなくて聞きまくってたけど、とにかくやれ!って言われたりして、とりあえず他人の真似してやってみたりしてるうち、そのうち自分の思考に合わせて行動してみたりして、それでわたしの行動で相手や、物体や、状況が変わって変化が生まれて。
最近ようやく、ああ、この世界には本当にいろんなものがあって、わたしはずっと背景だと思っていたものの中にいたんだなって実感が湧いてきた。
それでさ、ふとモンシロチョウのことを思い出したんだよね。(急でしょ?まあ聞いてよ)
そこにモンシロチョウが生まれてから蝶になるまでが、しんちゃんが蝶になりきって漫画で描かれてたの。
モンシロチョウは卵から生まれてすぐ、自分を覆ってた殻をムシャムシャ食べて、そこから葉っぱを食べたりして成長していくんだって。
なんかわたし、ずっと殻を食べてたんだなって思った。
生まれてすぐ目の前にあった自分の殻を食べ始めて、一生懸命食べてる間視界いっぱいの殻が世界だと思い込んでて、当然そんなんことはないんだけど、分かってても殻の中から出てみようとしてなかった。
わたしがそうしている間、他の子はとっくに殻なんて食べ終わってて、自分の這っている葉っぱを齧ってみて食べられるんだとか、空は青いんだとか、この世界にはどうしようもないような天敵がいることとか、それをうまくやり過ごす方法とか、そういうのをとっくに学んだり気づいたりしてたんだと思う。
わたしは今やっと殻を食べ終えたところで、開けた視界の果てがが永遠に見当たらないことにちょっと戸惑って、試しに齧った葉っぱが瑞々しいことに気付いたあたりなんだと思う。
蝶になった人から見たら、未だ青虫のわたしはちょっと哀れに思えるのかもしれないけど、この世界にはまだまだ知らないことがあって、わたしはこれから色んなことを知れるし何にでもなれることに気づけたのだから嬉しいんだ。
来ないまま終わってたと思ってた青春が実はこれから先に用意されていたと気付いた、みたいな。
とりあえず、なんとなく生き延びててよかったよ。
他人に興味を持つことが出来なければそもそもそのステージに立てていない、という意見もまったくその通りだと思う。
ただ、努力ないし訓練において著しく困難を感じる場所についての言語化を、他人への配慮なく行うと「興味が持てない」という悲鳴になる。
他人に興味がないのにじゃあなぜ他人といっしょにいようと思うのか、といえばそれは社会的要請であったり金銭的欲求であったりといった包み隠すべき何らかの存在があるだろうし、それ以外に単純なエンターテインメントコンテンツとして相手を見るのも手放しに良いという理由とも言い難い。
興味を持つ、好意を持つという事柄には得てして理由があるけれども、その理由に基づいた行動が、思考によって引き出されるという前提は覆せない。
著しい問題は、いつだってそれを『会話』という場所において行うことができるのかどうかだ。
様々な技術革新が古から今に至るまで数多積み重ねられてきた中で、唯一現代に残されていると言って良い、外部装置が(ほぼ)介入できない場としての『会話』だ。
その場において、メモリが足りないことによって『思考の補助線』が目に入らない。
普通の人は熟慮を重ねたりあるいは自らの身体の反応を抑え込んだりすることで、適切な相手の捉え方を反芻し、感情を乗りこなし、ないしは記憶に残る目的を元にして相手に対して適切なコミュニケーションを図ることができる。
それを、思考の補助線を脳内のメモリに残すことができる、と言い換えてみたい。コミュニケーションの『視界』において、思考の補助線に基づいて言葉を選び、相手の反応を読み取り、蓄え、そして出力すること。
その超複合的な行動が、俺にはどうしてもできなかった。メモリがあまりにも足りない。
もともと俺は、複数桁の算数や複数要素の入り込むボードゲームなどは脳内だけで思考するとすぐにフリーズして、脳内が本当に面白いくらい真っ白になる。いくらやってもそれだけは変わらず、ただただ伝言ゲームのように続けることの速度を重ね、または目の前の紙やパソコンに吐き出して、外部記憶媒体に頼って擬似的に『出来ている』風を振る舞うのが限界。にも関わらず日常の『会話』だけは、何にも頼れない。目の前でメモを取ることが許されるのはよくて仕事だけ。
相手の会話の内容の論理構造に気を取られる。相手の感情に引き摺られ防衛反応や焦燥が相手から得るべき情報を摘み取る。まさしく『幼稚』な高揚感に引き摺られ自らの口から吐き出す言葉がどこにぶつかるかを『視界』に捉えられない。終わった後には何が悪かったのかや、そもそも相手がどんな様子だったかなどの仔細は頭から吹き飛んでいる。
メモリだけが、どうにもならない。ワーキングメモリの鍛え方、みたいなものをいくら調べてもろくな学術成果はなかった。いくつかの効果があるとされたのは、単にそのトレーニングにおいてのみの向上を認めたというだけで、実際にトレーニングによってワーキングメモリが向上した訳ではなかったらしい。
『興味を持つ』という補助線を引くメモリの空き容量があれば、その思考順序から導き出せる質問や態度、そして引き出した解答を記憶してそれに基づいて相手の対応を検討し引き出すといった余地が産まれるのだと思う。勿論、徹底的にあらかじめ準備をして、相手の興味を事前調査し、その上で行動する営業や接待などの対応は多少はできるだろうが、それも短期記憶でギリギリで、長期的に様々な要素を頭に留めておき、足りないメモリで半分パニック状態で常に会話している俺のような存在にはほぼ不可能と言って良い。
『興味を持てない』というのは、単に相手に興味を持つといったマナーを果たせていない、というよりは、ただ目の前のボールを蹴ることだけで本当に必死になっていて、まさしくサッカー場に立てていないことについての悲鳴でしかない。
芥見下々が何をしでかすか誰もわからない。かきたいとこ、「かっこいい~」と思った他作品のコマをお絵描きするだけ。本人曰く「オマージュ、リスペクト」らしいが、事前許可をとらずにまんまぱくることになんのリスペクトがあるのか。10代の子どもではなくいい大人らしいのに、本当にずれてて面白かった。
終盤なんか内容じゃないとこで驚きっぱなしだった。作品よりも作者への「え、まだ痛さ更新するのか」が面白くなっていた。作品の期待値は限りなくゼロになっていたが、いつまでも芥見を見ていたいという思いはかなり強かった。
考察や感想、皆一生懸命深読みしたり期待したり嘆いたり、共通して呪術廻戦が好きなんだなと思ったし、こういう読者達のおかげで盛り上がり続けた部分は絶対あったと思う。一番のブーストはアニメと人気声優だけど。
ヒットさせてはいけない作品だったと思う。それは芥見だけの責任じゃないけど。「五条悟の人気が出すぎて、本来はたいしたことのない作品を底上げしてしまってた」というような感想をいくつか見た。全くその通りだと思う。人気声優は凄いよ~。
NARUTOのカカシやH×Hヒソカ(と、その他)という既に絶大な人気を誇る、他人がつくりだしたキャラクターをこねくりまわしてできた、わかりやすい強キャラ。にモテ声人気声優。そりゃこうなるでしょ。
既に多くの声が上がっている「面白かったのは編集が手綱をにぎってた渋谷事変まで」という評価を芥見は恥じるべきだし、
他人のデザインをまんまなぞってお絵描きした盗品を並べ「かっこいいでしょ」とやれるセンスを恥じるべき。
商業的に大成功をおさめた若き漫画家に対する評価が「クリエイターむいてない」なのは前代未聞だし、集英社も恥ずかしくないのかなと思う。立派な商業記録と、同じ規模の黒歴史を残した芥見下々。お見事。
うん、だから、男社会は別に辛いわけではないけど、容貌や体臭をバカにされることや価格設定で差別されることは辛いって話でしょ? だから声を上げたんでしょ?
正確に言うと、それらの個々の件が単体で辛いというよりも、差別が許されない社会であるはずなのに男に対する差別が正当なものとして存置されていることが辛い。女子アナや焼き肉それ自体ではなく、その背後にある「男に対する差別は存置して構わない」という通念と男たちは闘っている。
まず、自分の気持ち、辛さを真っ直ぐに語ること。フェニズムという形で女性が出来たんだから男性だって出来るはずって思ってたけど。
何か今の流れっておかしいよね…?
女が辛いだろうと思うポイントと、男が辛いと思ってるポイントがズレているだけという話では。多くの男は、別に男社会で生きづらさを感じているわけではないので。
これも正確に言うと、男社会には生きづらい面もあるが生きやすい面もあるということだ。男は確かにケアされることが少ない。だがそもそも他人をケアすることは面倒なのであり、自分が面倒なことをしないから他人も自分にしてくれないという、いわば公平な取引が成り立っている。女社会の気遣い文化は、男からすると過干渉に映る。
男は転んだ男を(助けを求められない限りは)わざわざ助けない。だがそれは、「このくらいなら自力で立ち上がれるだろうし、助けを求められてもいないのに手を貸そうとするのは相手の誇りを傷つける行為だ」という気遣いの産物であり、女社会とは違う論理の気遣いが働いている。このような自立志向は、ときに男を自殺するまでに追い詰めるが、自由主義・資本主義の社会において解放や成功をもたらすものになり得る。何事もコインの両面であり、多くの男はそのバーターに納得して生きづらさを受け入れているのだ。
だが、「女に対する差別は絶対に許されないが、男に対する差別は存置して構わない」などというのはバーターでも何でもない。そのような不公平な取引こそが男を憤らせるものであり、男が闘うべき対象なのだ。女に、男が真に辛いものが何かを決める権利はない。それは男が決める。フェミニズムの添え物としての男性学が何と言おうが知ったことか。女が男に従属するものではないように、男も女に従属するものではない。
相手に好意を持ってもらうために私生活を捻じ曲げる人間は好きになれない。
自分の人生は自分で決めてくれ、付き合ってもないのにこちらに何でも合わせようとしないでくれ。
好かれるために自分の人生の一部を犠牲にすることを好意だとか本気度って言わないでくれ。
媚びる奴はおまじないをしている。自分がこんなに献身したんだから見返りがもらえるはずだというおまじないを。
重いよー、クソ重い!お前のことが好きになれなかったらどうすればいい?
振ったら恨まれそうなオーラを漂わせるな。好きじゃなかったらこっちは振ります。
自分を捧げ物にして愛を得ようとする人間は男女問わず相手から好かれることはない。だって重いんだもん。
他人を支配して自分の都合よく使いたいタイプからは好かれます。そういうタイプに当たるまで頑張るの?頼むから自分の人生を生きてください。
今までのすべての人生での他人との関わりにおいて一番重要なのは
褒めるにしても批判するにしても相手を承認することがまず大前提で
その原則を守ればまずまず失敗しなかった気がする
もちろん見えない地雷はあるけどね…
いや、マジで臭えんすよ。
作品⇔健全な受け手 間で成立する健康的な空気が台無しになっていくわけですよ。
たとえば映画やLIVEに行って隣でワキガプンプンさせてるデブオタがぴょんぴょん跳ねて臭い撒き散らしてたらこっちの集中力に制限がかかるでしょ?
そういうの本当に迷惑なんですよね。
それって別に屋外か屋内かだけじゃなく、リアルかネットかですらなく、たとえそれが雑誌の投稿の中だろうともいい迷惑なんですわ。
別に個人が陰でコッソリ消費してそれに対して個人的な妄想「〇〇ちゃんと俺が同じ部活だったら絶対仲良くなれたわ。俺達めっちゃ話し合いそう」とかクセー妄想するのは別にいいんすよ。
でもそれを他人の目に付く場所で垂れ流すのは辞めてほしいんすよね。
「ボクは◯◯って映画が好きで50回見てます!」みたいなのも辞めて欲しい。
まあ別にキモくも何ともない人がやるのは気にならないんすけど、キモい奴は一切合切そういうのしないで欲しいんですよ。
だってその作品に対しての印象にどうしても混ざってくるじゃないですか、「あっ、これあのサブカルオタク気取り中身空っぽ老害ジジイがめっちゃ好きだと言ってた作品じゃん。かぁ~~~っいい歳こいて何が好きかで自分を騙るのは辞めてほしいわ~~~」ってなるじゃないですか。
いやマジで思うんすけど「何が好き。何が嫌い」で自分を騙るのって学生時代までにするべきだと思うんですよ。
ある程度成長したら好き嫌いについてと自分語りは分けなきゃいけないと思うんですよ。
別に俺だって作品と自分をちゃんと切り離せる人の「これめっちゃ良かった」は批判しませんよ。
でもインターネットにいるような連中ってなにかの好き嫌いを口にする時に絶対にそれを自分語りに絡めてくるじゃないですか。
こないだだって「疲れている時にまんがタイムきらら原作のアニメが楽しかったけど、今見ると全然面白くない」みたいなツイートがありましたよね。
あれって「(意訳:虚無美少女水族館が楽しめちゃうぐらい疲れていた可哀想だった俺ちゃん。不断の努力により人生をV字回復させて離乳食アニメから卒業)」でしかなくて結局自分語りでしょ?
お前それ結局主体は自分語りで作品はマクガフィン扱いじゃねーか作品に対して失礼だと思わねーのかって感じませんか?
つまりですね「三国志おもしろいよね!曹操の生き様がカッコイイんだ!」はいいけど、「主人公扱いされている劉備ではなく曹操を推す俺、物語をただ右から左に読み流すアホとは一味違うだろ?」はマジキメーって話ですわ。
いや本当に「何が好きかで自分を語れよ」みたいなのをインターネットは持て囃しますけど、ハッキリ言って「自分を語るのに何が好きかを使うなよ」なんですわ。
好き嫌いを通してお前を語るんじゃねえよなんですわ。
【衝撃】「托卵の何が悪いの?」と言うオンナたち…SNSで発信、どこまで本気なの?
「男性にとって托卵はそんなに嫌なことなんでしょうか?」「その気持ちがいまだに理解できない」「自分が愛している妻の子どもなら、父親が誰かということはそんなに重要ではないのではないでしょうか」「誰の子であっても父親にしてもらえたのだから喜ぶべきことでは?」「『誰の子でも俺たちの子だ』と受け入れる器が欲しい」「自分の子どもでも他人の子どもでも守るべき存在なのは変わらないのはずなのに」。
さらにあからさまな発言も散見されます。例えば、「生活を共にしたい男と遺伝子を残したい男は違う」「大したことを成したわけでもないのに、そんなに自分の遺伝子に自信があるのか?」「より良い遺伝子を残す方が人類にとってもメリットのはず」「より良い子孫を残すことが女の使命だから、魅力的な男の遺伝子を残すことは正しい」「より良い男として選ばれなかった自分自身も至らなかったと考えるべき」などです。
「面白さ」に対する考えに性差があるとか世の中の男さんはもっと工夫してくれとか言ってるが別に男女の性質の違いでは無い気がする。
会話で事実を述べるだけの人と、会話に見せかけて自分が接待を受けたいタイプ(女に多い)の相性が悪いってだけじゃないか?
こちらの望むコミュニケーションをして欲しい、と言うのは確かに女に多いかもれないが(いわゆる“察して”)、これって自分の話を聞いてくれる可愛い女を求めてコンカフェ?ガルバ?とか行く男も心理は近いと思う。性差ではなく割と多くの人が持っている欲か何か。
映画の話をしようとか政治の話はしないでとか、特定のテーマを話して欲しい/して欲しくないと言う内容の指定はまだ分かるが、その時の自分の感情を交えて欲しいみたいな「話し方の注文」をしているのは意味が分からない。
まず全ての会話は広げるべきという発想が私には理解できないのだが、もしそう思うのならそれを望んでいる側が話を掘り下げる工夫をすれば良い。
「○○を食べた」と言われて雰囲気や料理の特徴が知りたいのなら「どんなお店だった?」「何が一番美味しかった?」と返せばいいし、そうすればお望みの広がりのある会話になると思う。
私自身事実しか話せないタイプなので、似たような人と話していて流石に一言二言で終わらせてはいけなそうな時はこういう風に広げている。
あいつは話が“おもんない”みたいなことを言う友人が居るが何をそんなに他人に期待しているのだろう、と思う。会話ってパフォーマンスじゃなくて、もっと自然発生的なコミュニケーションなのでそれに質を求めるくらいなら他の人にすれば?
別に、共通の趣味とかコミュニティとかこの人のこういう所は尊敬できるとかそういったものがあれば別に良くないか?
これは最初に書くべきだったのかも知れないが、私は自閉傾向があり(知的障害や境界知能を伴わないASD)そもそも他人との会話やコミュニケーションの質にあまり興味が無い。
割と普通の人々は話が“おもんない”(=自分の望む感情や話題の共有ではない場合)ことをストレスとして捉えるようだが、私は殆ど気にならない。
あの時話が広がらなかった、というのを後から思い出して気に病むことがまずない。
コミュニケーションの質に興味が無い時点で私の方に問題があるような気もするが、普通の人々も何気ない会話をもっと何気ないものとして捉えるか会話の相性が良い人とだけ親密になればいいだけだと思う。