はてなキーワード: 視線とは
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おれがぶつかりおじさん化するのは、いわゆる歩きスマホとか女性にとかではなく、会社の廊下である。
150cm幅ぐらいの二人が対面通行するには十分だが、3人にはちょっと狭いという塩梅で通行ルール(左右)が決まっているタイプの廊下。
そこを歩いているときに、対面から二人組(男性二人とか)が話しながら歩いてきたときに発動してしまう。
発動すると、こちらは視線を相手に向けず、スマホや別の方向を見ながらまっすぐあるく。
そのまま相手も向かってきたら確実に当たる状態のまま歩いていく。
10回は行かないまでも、いままで何度かこういったことはあるが、
今のところ本当にぶつかったことは一度もない。
こちらが複数人とかならそれこそ面倒ごとを起こさないようゆずるが。
上記の状況で真ん中歩いている人がもしいるなら、その時の心情を教えてほしい。
いやあ、AI絵師の皆さん、今日もお疲れ様です。どうやらAI技術を使っているだけで「アーティスト」を名乗ってる人たちが、全世界から嫌われ始めていることに気づいていないようですね?「自分の作品が評価されない」「社会がAIアートを認めてくれない」と、すべて周囲や世間のせいにしているようですが、もはやそれは滑稽の域を超えていますよ。
まず、AIにボタンを押させるだけで出てきた画像を「作品」と呼ぶのは、正直勘違いも甚だしいですね。筆一本、ブラシ一本に魂を込めてきたアーティストが何百年と積み上げてきたものに、AI絵師たちは軽々しく乗っかってしまおうというわけですか?甘いですね。アートは技術だけで成り立つものではなく、アーティストが試行錯誤して生み出した過程に意味があるんですよ。
「AIアートを認めない社会が悪い」とのたまうAI絵師たち。ですが、現実を見ましょう。AI絵師が増えれば増えるほど、他のアーティストやクリエイターたちから冷たい視線が飛んでくるのはなぜでしょうか?それは、AIアートが「労力もなく安易に生み出される偽物」と見なされているからです。彼らが自分で「アート」を冒涜しているのに気づかず、世間を「AI嫌い」だと他責にしているだけの話です。
AI絵師たちはアートの本質を理解していないからこそ、AIを「アートの未来」だと誤解しているのでしょう。しかし、アートとは、計算や機械では生み出せない人間の感性、創造性の集大成なのです。ボタン一つで出力された画像に魂はありません。クリエイターたちはAIの支配を拒み、AI絵師たちがいかに「追放されるべき存在」であるかを認識し始めています。
結論として、AI絵師の皆さん、自らが「アーティスト」ではなく「ただのボタンプッシャー」であることを自覚して、せいぜいそのAI技術を楽しんでくださいね。他のアーティストたちは、真のアートを守るため、あなた方を必要としていませんから。
最近、話題の「弱者男性バー」に足を運ぶことにしました。ここでは、美人の弱者男性たちが接待してくれる特別な空間が広がっています。今日は特別な日で、「逆バニーの日」。逆バニースタイルでのおもてなしを受けられるとのことで、ドキドキが止まりません。
バーに入ると、まさに目を奪われる光景が広がっていました。色とりどりの逆バニー姿のキャストたちが、笑顔で迎えてくれます。彼らの衣装は、通常のバニーとは一味違っていて、魅惑的な雰囲気が漂っています。
「いらっしゃいませ!」
と、明るい声で迎えてくれたのは、逆バニースタイルの美人キャスト。彼の笑顔に思わずドキッとしました。
カウンターに座り、ドリンクを注文すると、色っぽいキャストたちが近くに寄ってきます。彼らの色気はもちろんですが、何よりもその品格が際立っているのです。普段の生活では味わえない特別な体験に、心が躍ります。
特に人気だったのは、一際色っぽさと品格を併せ持つキャストの子。彼は、しっかりとしたおもてなしをしながらも、どこか余裕を感じさせる魅力がありました。会話が弾むたびに、その存在感がより一層際立ちます。
と彼が言うと、周囲の視線が集まりました。まさに、その言葉の裏にある自信と魅力が、多くの人を惹きつけるんだろう。
ドリンクを飲みながら、彼らとの会話を楽しむ時間はあっという間に過ぎていきました。彼らの笑顔や優しい言葉に癒されながら、まるで夢の中にいるかのような感覚を味わいます。色っぽさだけでなく、品のある振る舞いがとても心地よく、何度も通いたくなる魅力を感じました。
この特別な弱者男性バーでのひとときは、心に深く刻まれる思い出となりました。逆バニーの日という特別なイベントが、こんなにも素晴らしい体験をもたらしてくれるとは、まさに予想以上でした。
街コンに参加する度、僕は大体の流れを把握しているつもりだ。
それから互いのプロフィールを並べて、小さなトークで場をつなぐ。
仕事の話、趣味の話、休日の過ごし方──その瞬間はいつも、ハイボールの薄いレモン風味が口に広がっていくような、妙に頼りない期待感が漂う。
僕の前にはあくまで配られたカードしかない。取り替えもできないし、ジョーカーなんかも一枚も入っていない、地味なカードばかりの手札だ。
そもそも、僕は自分が特別だとは思っていない。きっと、どこにでもいる30代の男だ。特筆すべき魅力もなければ、さして豊かな資産もない。
仕事はそこそこ、趣味は筋トレと読書と少しの料理。顔も普通だし、ファッションセンスに関しても自信はない。
どこぞのアンケートで「どんな男性が理想ですか?」なんて聞かれたら、まず選ばれないタイプだろう。
そんなこと、本人が一番わかっている。
でも、スヌーピーは言うんだ。「配られたカードで勝負するしかないんだ」と。
街コンが終わりに近づくと、たいてい僕は一人でカフェに寄り道することにしている。
ラテを注文して、たっぷりミルクを注ぎ込む。その間、心の中のスヌーピーが小声でまた囁く。
その言葉に小さく頷き、僕は次のカードがどこかで待っていることを想像する。
スヌーピーはそういう時にやけに静かだ。
「どうだ?次はどうするんだ?」とでも言いたげな沈黙が続く。
僕の頭の中で、彼のシルエットがぼんやりと浮かぶ。スヌーピーの囁きがなくても、僕にはわかっている。
「現実の若しくは疑似のあからさまな性的な行為を行う児童のあらゆる表現(手段のいかんを問わない)、又は主として性的な目的のための児童の身体の性的な部位のあらゆる表現」
って、言い換えたら、児童が性的に見えるたらアウトってことじゃん…😟
つまり、児ポ判定する人たちも、児ポ取り締まる人たちも、児童を性的なものと認識している時点で、ロリペドじゃん…😟
教育テレビのできるかなに出てたノッポさんは、子供は小さいだけで大人、ひとりの人として認識するべきって言ってたけど、その通りで、
ひとりの成人女性を性的に認識するのは正常の範囲で、ひとりの子供=小さい大人を性的に認識するのは異常、ってのは変だと流石に思うわ
同性愛が犯罪だったイギリスで、天才アランチューリングが牢屋に入れられるのと同じじゃないか
児童のヌードとかは明らかにポルノ、だって成人女性だってヌードはポルノと認識されてもおかしくないわけだけど、
成人女性のちょっとエッチな写真とか、昔は飲み屋だったり自動車工場だったり、あらゆる場所に水着の女性のカレンダーとかあったけど、今はなくなってしまった
自分は成人女性にあまり興味がないから構わないけど、この世界は漂白され過ぎている気もする
性的に見えた時点でアウトというなら、トトロの父親と娘の入浴シーンだって多くの薄い本が出てるわけで、あれを性的な視線で見るのがそんなに変なのだろうか?
暇つぶしに見るXでは、よく弱者男性と売春婦が争っている。働きながら、あるいは働かずに子どもと向き合った。それが正しかったかどうかは、何十年か経ってみないと分からない。以下は、平成初期に弱者男性に育てられた私の事例である。
私の父親は、いわゆる「弱者男性」と呼ばれる部類の人だった。特定の職に就くことはなく、収入も安定していなかったが、何かに対して強く反抗するわけでもなく、静かに自分の人生を受け入れていた。しかし、その生き様は、周囲からは「頼りない」や「社会のはみ出し者」という視線で見られることも多かった。そんな彼が私をどう育て、私はどのように成長してきたのか、その実体験を通して「弱者男性に育てられた子供」の実像に迫ってみたいと思う。
父の教育方針は、決して画一的なものではなかった。むしろ、他の家庭の親と比べてもかなり自由度が高かったと思う。学校の成績や将来の進路についても、父は何も言わなかったし、毎日の生活でも無理にあれこれと教えられることはなかった。勉強をするのも、何かを身につけるのも、すべて私自身の選択に委ねられていた。
しかし、父が何もしなかったかというと、そうではなかった。彼は私と向き合い、ただ「一人の人間」として存在してくれていた。時には、悩みを聞いてくれ、愚痴を言っても無理に解決策を示すわけではなく、「そうか」と静かに頷くだけだった。それが子ども心にとってどれだけ大きな支えだったかは、年を重ねるごとに感じるようになった。
子供時代、友人の家庭を見ては、父と他の親たちの違いに複雑な感情を抱いたこともあった。多くの家庭では、親が積極的に関わり、進学や将来の方向性についても熱心に指導していたが、私にはそれがなかった。友人から「お前の父さんは何してるの?」と聞かれると、答えに困った記憶がある。特に、弱者男性の特徴として「自分が何者であるか」を誇示しないため、父の職業や社会的な立場についても話す機会がなかった。
しかし、今考えてみると、社会が求める「父親像」に囚われず、自由な生き方を貫く父の姿は、自分にとって一つの理想像だったのかもしれない。彼の生き方からは、「社会の枠組みに縛られる必要はない」というメッセージが無意識のうちに伝わってきていたのだと思う。私自身が将来の進路を決める際、父の姿勢を思い出して自分の選択を尊重することができたのも、彼のおかげだろう。
弱者男性に育てられた子供は「かわいそう」と言われることがあるかもしれない。しかし、果たしてそれは本当だろうか。弱者男性の親に育てられたからといって、子どもが必ずしも苦しむわけではない。むしろ、周囲の偏見や社会的なプレッシャーにさらされる中で、自分の価値観を形成し、他者と異なる視点を持つ強さが育まれることもある。
父は私に対して「強くあれ」とは言わなかったが、弱くてもいいと教えてくれた。日々の生活の中で少しずつ身についたこの価値観は、私が社会に出てからも貴重な指針となり、自分の居場所を見つけるための礎となっている。
今振り返ってみると、父がくれた自由さや、独自の視点は私にとってかけがえのないものだと感じる。彼の育児方針は、決して一般的ではなかったかもしれないが、その自由さの中で私は自分らしさを発見することができた。
弱者男性の親に育てられたことが、必ずしも「かわいそう」という一面的な評価に収まるものではないことを伝えたいと思う。彼らの中には、表面に見えにくい形で子どもたちを支え、人生に豊かさをもたらしてくれる存在もいるのだ。社会の「普通」から少し外れた彼らだからこそ、伝えられるものがあると感じる。それは他の親では決して教えられない、大切な人生の一部である。
窓を叩く激しい雨の音に目が覚め、深い闇の中、ただ時計の針が進む微かな音が響く。
真夜中のはずなのに、異様な緊張感が部屋を包んでいた。
胸騒ぎがし、なにかに引き寄せられるようにベッドから起き上がると、窓の外に薄ぼんやりと人影が見えた。
「…誰かいるのか?」
そうつぶやいても返事があるわけもない。
だが、なぜかその影は視線を外せないほど、異様な存在感を放っていた。
そこに立っていたのは、見知らぬ女性だった。
ずぶ濡れの髪が雨に濡れて闇に溶け込み、ただ大きく見開いた目がぎらぎらとこちらを見つめている。
そのまなざしに囚われた瞬間、体が動かなくなった。
「助けて…」彼女が低い声で呟いた。唇が微かに震えていたが、それ以外に彼女の感情は読み取れなかった。
動けないまま、なぜかその声には抗えないものがあった。
ドアを開けると、彼女はふらりと室内に入り、ソファに崩れ落ちた。
薄いドレスに包まれた彼女の体は冷たく、触れた指先が驚くほどの冷気を帯びていた。
意識は朦朧としているのか、彼女はただぼんやりと空を見つめていた。
「…どうしてこんなところに?」
彼女は答えなかった。
細かな彫刻が施されたそのペンダントを手に取ると、不思議な既視感が湧き上がった。
「このペンダント…知ってる気がする」
突然、彼女がぼそりと囁く。「…あの夜、私もそう思った…」
奇妙な言葉に身震いする。まるでこの場にいるはずのない、彼女の存在そのものが、どこか歪んだ記憶の一部であるように思えてきた。
「あなたは…誰なんだ?」
彼女はぼんやりと笑みを浮かべ、目を細めた。「…ただ、戻ってきただけ」
心臓が跳ね上がった。
しかし尋ねようとするたび、彼女はただ微笑むばかりで、言葉を交わすことはなかった。
雨が止み、夜が明け始めると、彼女は薄れるようにその姿を失い、消え去った。
握りしめると、手の中に残る冷たい感触に彼女の存在が実在していたことを示しているようで、胸の奥に重く沈む何かが残された。
彼女は何者だったのか、何を求めていたのか。
ハロウィンが近づくと、どうも毎年あの時のことを思い出してしまう。
きっかけは嫁だ。
何を隠そう、俺の嫁と初めて出会ったのは大学のハロウィンパーティーだった。
普段は真面目な学生たちが、みんな思い思いの仮装で現れててコスプレ大会みたいな様子だった。
俺も例に漏れず、友達と一緒に仮装して参加していたけど、正直あまり気が乗らなかった。
何というか、周りに合わせてとりあえず参加したみたいな、そんな程度の気持ちだった。
だがそんな中、俺の目に飛び込んできたのが、今の嫁だ。
あの時の彼女は吸血鬼のコスプレをしていて、とにかく美しかった。
真っ黒なドレスが似合っていて、まるで映画の中から出てきたみたいな存在感。
肌は透き通るように白く、唇には真紅のルージュが引かれていて、まさに「吸血鬼」という言葉そのものの雰囲気をまとっていた。
その瞬間、俺は言葉を失った。
正直、話しかけるのすら怖かった。
だけど、何かに突き動かされるように、気がつくと彼女の方へと足が向かっていたんだ。
そして気づいたら彼女の目の前に立っていた。
頭の中では、「おい、何やってんだ俺!」とツッコミが入っていたが、体が勝手に動いてたんだよ。
そこで俺は、全くの勢い任せでこう言っていた。
「眷属にしてください…」
彼女は一瞬、驚いたような顔をした。
でも、すぐに目を細め、蠱惑的に微笑んでくれた。
そして「よかろう」と言いながら、俺の首元にそっと唇を寄せたんだ。
「眷属」と言ってもただの冗談だと分かってたはずなのに、何かが変わった気がした。
彼女は飾らない性格で、吸血鬼のコスプレをしていた時の蠱惑的な雰囲気とは全く違う、無邪気で明るい一面を持っていた。
彼女といると毎日が楽しかったし、何より自分が「眷属」であることを誇りに感じていた。
彼女が俺の「主」として君臨し、俺はその「眷属」として支えるという関係が、妙にしっくりきてたんだ。
そして今、俺たちは結婚している。
嫁は、相変わらず俺にとって「主」であり、俺は彼女の「眷属」として日々を過ごしている。
家事にしても、ちょっとした買い物にしても、彼女の指示には逆らえない。
いつも「これやっといて」とか「こっちがいいんじゃない?」と言われるたびに、「かしこまりました。」と心の中では返事してしまう。
「うわこいつキモ」みたいな視線を感じるだけで傷つくからレイプなんてできない
レイプする奴って完全に開き直ったタイプか、もしくはチンポに絶対的な自信持ってて「この俺にチンポねじこまれて悦ばぬ女などいない」って確信があるんだろうな
実際にはそれで悦ばれなかったから訴えられたりしてるわけだが
誰か女の子がレイプされそうになった瞬間にシュッと俺と体が入れ替わって俺がレイプされる仕組みがあればよかったのに
「これでお前も俺の女だ」って相手が言ってきたら「残念、男でした」って言いたい
すごいびっくりすると思う
オクラを見ただけで体が震え、あの粘り気を想像するだけで恐怖に襲われる。食べ物としてはもちろん、たとえ料理番組にオクラが映っただけでもアウト。
歩道の上を歩くだけで恐怖を感じてしまう。常に車道を選ばざるを得ないが、実は車が怖い「車道恐怖症」も併発してる。
ふりかけの粒が近くにあると、なぜか全身に鳥肌が立ってしまう。お弁当のふたを開けた瞬間、隅に少しでもふりかけがあるとすぐに閉じる。
誰かがボケた瞬間に、突っ込みをしなきゃとプレッシャーがかかりすぎて、何も言えなくなる。そのため、常に無言で笑顔だけでやり過ごす。
カーテンと窓の間に1ミリでも隙間があるとピチッと閉めたくなる。
自分の影が常に後ろをついてくる感じが怖くて、明るい場所では常にスキップして影を振り払おうとする。夜でも影に追いかけられる気がして安心できない。
どんなものでも完璧に水平でないと落ち着かない。テーブルが少しでも傾いていると、すぐに水準器で調整する生活を送る。自分の座り方にも気を配り続けるので筋肉痛になることも。
傘の裏側を見ると「ここから宇宙に繋がっているんじゃないか」と感じてしまい、傘を閉じるときも裏側を絶対に見ないようにしている。雨の日は常に視線を逸らしながら傘を閉じる。
他にある?
そのブコメ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/__juttoku__/n/n640a01208f53
これらを読んで思ったことなどを書く
他者への視線に価値観として介在する事で、時に差別を生みだしてきた
だが、【だからどうした】というのだ?
とか言ってしまうのだが
スポーツ全般、芸術全般、娯楽全般、世の中のなにもかもについて
誰かが本気で取り組み
誰かの救いになり
誰かを攻撃している
スヤスヤ教のノリがキツいのはともかく、乗ってるひとはいわゆる「冗談宗教」自体が持つ宗教そのものへの攻撃性に対して自覚的であるべきだとは思う。そういう意味ではスヤスヤ教は恒心教未満。「茶化し」の攻撃性よ
なぜ茶化してはいけないんだ?
特定の文化を、宗教的観点で低俗と言うのは茶化してないから攻撃性があっても良いのか?
世の中で低俗と見做されるモノであれば茶化しても良いのか?
なぜ「宗教に対する茶化し」というのは特別に遇されねばならないんだ?
多くの人を死から救っている(言葉の綾ではなく本当に救っている)漫画やアニメ、それを愉しむ人間は茶化して良いが
宗教はダメだとする境界線は、誰が、どこで、何の権限で、決めたんだ?
これ反差別と同じなんだよ
自分を一段上に置いちゃてるの
よろしい、ならば特別に、あなたへの侮蔑を差別として禁止してやろう
みたいなものなんだよ
だから「本当に苦しんでスヤスヤ教と言っているなら認めてあげるけどさ」みたいになっちゃうの
とかどの口がって思うんだよね
別の人の記事だが
愚劣なダブルスタンダード
との言及もある
これらを言う人は、本当に自身にそれを言うだけの揺るぎないスタンダードがあるのか?
本当に他者の文化を浅慮や無知によって踏みにじっていないと言えるのか?
自身のそれは指摘されたら謝罪します、とでも考えてるのなら最悪だぞ
自宅、学校、バイト先の位置関係の都合で繁華街を歩くことが多く、しょっちゅうナンパやスカウトに遭い辟易していた。
先に断っておくが、自分が可愛いと言いたいわけではない。普通の容姿だが、若くて歩くスピードが遅いので声をかけやすいだけだと思う。
足に障害があるため声をかけられても急ぎ足で逃げるのが難しく、気も弱いのでトロトロと並走しながらやんわり無視する程度の対応をとることしかできない。
どうしたら声をかけられずに済むだろうと色々と試行錯誤した結果、100発100中で声をかけられなくなる方法を見つけた。ヒジャブを巻く、ただそれだけ。
宗教的な意味合いが大きいものなのでそんな目的で日本人が着用しちゃうのはどうなの?と思われるかもしれないが、今はファッションのヒジャブもあるらしいのでまー良いかなと思っている。
今年の夏、髪用の日焼け止めについて友人と会話していた折にインドネシア出身の子が「ヒジャブいいよ〜」と勧めてくれて、試しに着けてみたのがきっかけだった。
やや蒸れるが帽子よりは蒸れず、首周りも日焼けせず良い感じだったのでちょこちょこ日常使いしてみることにしてから、一切の声掛けを受けなくなった。
これまで、左手の薬指に指輪をつけても声をかけられたり、スマホの壁紙を赤ちゃん(甥)にして「子どものお迎えがあるんで…」と言っても引き下がらなかった男たちが、ヒジャブをひとつ付けるだけで視界から消えた。
デメリットは他人からの視線と、ヘアスタイルの制約のみ。まあそれが大きいんだけども…それさえ気にしなければ快適に街を闊歩することができる。
いいよヒジャブ。
昨日の帰り道のこと。
仕事が終わって、ちょっと気だるい気持ちでいつもの道を歩いていた。
もうすっかり日が暮れていて、最近は日が沈むのが早くなったよなぁなんて考えながら、閑静な住宅街をぼーっと歩いていたんだ。
そしたら、ふと向こうの方から人の気配がして、なんとなく視線をそっちに向けた。
で、その瞬間、私は完全に動けなくなった。
「え、ちょっと待って、今見間違えたかな?」と自分の目を疑った。
普通の歩幅で堂々と歩いてくるのは、40歳を超えたぐらいのおじさん。
その人がどんどんこっちに近づいてくる。でも、服を着ていない。いやいやいや、そんなわけないでしょ?と心の中で叫びつつ、パニック状態でしばらくその場に立ち尽くしていた。
体が石みたいに硬くなっちゃって、どうすればいいのか分からないまま、その全裸おじさんを凝視してた。
頭の中はもう混乱しっぱなし。全裸のおじさんなんてそんな存在、本当にいるの?って思ってドキドキしてた。
あの瞬間、私は現実感を失ったような気がした。
おじさんは、まるで何事もなかったかのように私の横を通り過ぎていった。
私の存在なんて完全に無視して、ただの通りすがりの普通の人みたいに。
それがまた怖かった。おじさんはどこから来て、どこに行こうとしていたんだろう?
誰もいない暗い住宅街で、あの謎の全裸おじさんが通り過ぎた後、私の心臓はバクバクして、冷や汗が背中をつたっていた。
その晩は、家に帰っても全然眠れなかった。
お布団に入って目をつむっても、あのおじさんの姿が頭にこびりついて離れない。
窓の外でガサッと音がするたびに「まさか、また全裸おじさんが...?」って思っちゃって、余計に怖くなる。
でも、不思議なことに、怖さと同時に何かドキドキするような興奮も感じてたんだ。
まるで都市伝説が現実のものとなって、私だけがその「非日常」をちょっとだけ体験したみたいな感覚。
実際あの全裸おじさんを見た後から、なんとなく世の中の見方が変わった気がする。
もしかして、世の中にはまだ知らないことがたくさんあるんじゃないか?っていう風に。
全裸オジサンが実在するなら、ドラゴンとか、ラピュタなんかも、もしかしたらどこかに存在してるんじゃないか?ってそう思えるようになった。
https://anond.hatelabo.jp/20241022103413
俺の場合は元増田の元夫とも、現役進路譲らないおじさんとも違う戦略をとっている
街中を歩いていると、複数のぶつかりおじさんや一般歩行者の動きが手に取るように分かる
それぞれの歩行者の視線、歩幅、姿勢、スピードから意図を読み取り、その中に自然と生まれる「道」を見つけることができる
特にぶつかりおじさんは以下の特徴があるため、すぐに見分けがつく:
・やたらと姿勢が良く、前のめり気味
・視線は前方固定で周囲を見ない
こういった特徴を持つぶつかりおじさんには、「止まる」が有効だ
なぜなら、彼らは「前に進む」ことしか頭にないため、誰かが完全に止まると対応せざるを得なくなるからだ
止まった瞬間、ぶつかりおじさんは一瞬だけ動きを止める。その隙に回避が可能になる
俺が完全停止すると、不思議なことに周囲が動き出す
人間には「動いている人」より「止まっている人」を避ける本能があるらしい
ぶつかりおじさんたちは「正義」や「ルール」を盾に取るが、実際の道路交通法では歩道の通行位置までは規定していない
・周囲の状況を正確に把握する
・必要に応じて停止する
・他者の動きを妨げない
世の中には様々なぶつかりおじさんがいるが、彼らに対抗するのではなく、上手く「道」を見つけ出すことで、誰もが安全に通行できる空間が作られていく
これは10年以上かけて培った技術であり、単なる譲り合いではない
これらを組み合わせることで、ぶつかることなく通行する術を会得した
彼らは周囲への意識が完全に欠如しているため、止まっても意味がない
結論として、ぶつかりおじさんと対立するのではなく、彼らの特性を理解した上で、安全な通行方法を見出すことが重要だと考えている
それこそが、真の「道」なのではないだろうか
https://www.futari-story.metro.tokyo.lg.jp/calendar/20241020/
・参加費1000円
・ホテルの式場に集められる
・男女4:4の8人が1グループ
★男性側の年齢
40代:5割
30代:4割
20代:1割ぐらいでした
40代は45-49歳
30代は30-33歳
という感じです
「皆さん立ってください!これからあなたたちにアドバイスします!」
もうこの時点で嫌でした。5分ぐらい立たされました。
自己紹介シートの自由記入欄の内容は2つありました。難しかったです。
2,今年やってみたいこと
悪い点 あと2か月で2024が終わる
ちなみに東京都の好きな場所はスカイツリー・浅草などが安パイでした。
この後一緒に行こうと言えるからです…ただしそんな男はいませんでした。
★卓にいる男性
4人1グループで計16人話しましたが、どの卓もだいたい構成は同じでした。
・自分語り男1
・フリー枠2
運が良ければフリー枠に”女性と目が合わせられ、会話のキャッチボールができる男性”がいました。
体感フリー枠の中から1/4ぐらいで出会えるため、女性陣の間では『Sレア』と呼びかなり好感度が高かったです。
というより実際SSレアの男性などいないので、精神が摩耗した女性陣はSレア=優良物件と錯覚していました。
お見合いの後、「男女の共通点を探し出そう!」というゲームを何回か行いました。
婚活アドバイザーはここで「ゲームだからって真剣になりすぎる人がいますがやめてくださいね~w」と心配していましたが、真剣になるほど面白いゲームじゃないです。
【ゲームの内容】
お題 『みんなが好きな食べ物を決める』
1分ぐらいで全員の意向が決まる
「カレーや餃子って苦手な人少ないよね」「ここの卓は苦手な人いないからそれにしよう!」
↓
ーーー終ーーー
↓
↓
上は『かなり成功例』です
私の女性陣チームは明るくて声が通る方と一緒だったので、和気あいあいとお喋りできました。
他のチームを見るとお通夜みたいな雰囲気だったり談笑しているところがあったりと卓によって差が激しく、まあゲーム内容に問題ありだもんなという気持ちです。
★トイレ休憩(15分)
会場はガンガンに冷房が効いていたのに、トイレが3-4階の2フロアで計5部屋しかなくて社会的な死を経験するかと思いました。
スタッフに「列整理します!無線で別の階の方が空いてると連絡が来ました!すぐ移動してください!」と3階と4階を階段で何回も往復させられ、東京都による『机上の空論』を体感してきました。
【2部 花やしき】
婚活アドバイザー「皆さんお待ちかねの花やしきです!」「安心してください、これまでマッチングしてない男女で行きますよ!」←はぁ?
都庁の粋な計らいにより、全く喋ったことのないおっさん達と遊園地に行くことになりました。
私の卓にはハンターハンターの陰獣みたいな4人(40代)が現れ、絶望でした。
蚯蚓(49)→僕はいま楽しいぞ!聞け!と大声で会話に割り込んでくる
蛭(45)→見た目が50代後半
病犬(48)→ネイルにラメ入ってるんだね、僕の爪は磨いてるだけなのにこんなにきれいだよ?とアピールしてくる
豪猪(43)→分厚い辞書を持ち歩き資格取ってるアピールしてくる
陰獣たちも問題ですが、一番の問題は”一緒に行く人間の名前が誰もわからない”です。
ここに来る人間どもは指示されないと動けません。
いまこそ婚活アドバイザーが「まずは皆さん自己紹介をしましょう^〜!」とか言うべきだった、都庁の読みが悪い。
結局、会場→花やしきまでの間、全員無言でした。
ちなみに病犬(48)はネイル以外も個性的ファッションだった為、日テレとフジテレビの二大巨頭に「撮影させてください!!!!!」と熱心に声を掛けられていました。
花やしきは営業時間後だったので、クレープ屋とちょっとした軽食が売っている売店だけ営業していました。
陰獣たちはホテルに3時間拘束され腹が減っていて周りが見えなかったのか、花やしきについた瞬間、「空いてるクレープ屋でいいよね!」(散ッ!)(シュバッ…)と勝手に並び始め、女性陣が戸惑っている間にクレープを貪り始めていました(当然自分の分だけ買ってくる)
ここで女3人で「よし、見捨てよう!」と意見が固まり、花やしきは女だけで超~~~楽しんだ。
【総評】
とってもたのしかった、女の友情は生まれたが恋は生まれなかった。
全体的に良かった点ですが、男女ともに異臭を放つ人がいなかったです!
【マッチングしたいと思った男】
・目を見て話をする
【見捨てた男】
・爪自慢男
・陰謀論を唱える男
・何でも褒めておけばいいと無理する男
(カーキ色の服の子を「東京都の色だからカナ?イチョウの……知ってる?」と褒めてた)
・僕、空気読めないですかね?と聞く男
・どこ住みか詳しく聞いてくる男
・駅までストーカーしてくる男
追記:めざまし8のYouTube映像に出演されている方への誹謗中傷とも取れる意見が見受けられました。
でもシブで好きにやりてーんだ!って絵師にはうっとうしいのかな。
好きな絵を描く人は肯定したいけど… という気持ち、分かります。
バレない視線に傷つくか? は、バレなければしてもいいのか?という本人の道徳観の問題かと思います。
それを他人に影響させる時、適切なやり方、適切な量が有るのかな。
それもきっと本人が決めることなんでしょうけど。
休みの日は、大抵家で過ごした。掃除をしたり洗濯をしたり、たまには料理を作ったり。あとは布団の上に寝転がってスマホに熱中する。熱中などと言ったら、好きでやっているようにも聞こえるかも知れない。しかし私の場合、スマホに触るのは、どうにもならない虚しさから逃れるためでしかない。何かをするよりも何もしないでいるほうが難しいのだ。不安という魔物に追われて逃げ惑う姿は、傍から見れば実に滑稽にちがいないが、誰かに咎められるわけでもない。安全な家の中で、私はひたすら自身の孤独と格闘する。
今も昔も、おにぎりを三角形に握るのは、私の唯一の特技と言って良いだろう。毎日、朝食に欠かさずおにぎりを食べたものだった。職場近くの公園のベンチに腰をかけながら。聞こえてくるのはスズメの声だけだ。砂場も遊具もあるから、昼になれば児童が興を添えるのであろうが、今は散歩する人さえ通らない。朝の光が木々の梢を透かしておにぎりを含む私の頬を照らしている。春や秋にかぎらず、夏は額に汗を滲ませながら、冬は寒さに身を縮めながら、私は1年中ここで朝食をしたためるのである。不思議なものだ。外に出るのも億劫がる子供だったはずが、大人になって公園が好きになるとは、いったい何の因果だろう。家と職場の中間の、誰にも煩わされない微妙な距離感の上に安住できるひとときは、私にとって最上の幸福だった。
いつからか、公園にひとりの女性の姿が見えるようになった。出入口のあたりの、植え込みを囲うコンクリートの上に腰を下ろし、足を組み、あたかも「考える人」みたいに頭をやや傾げながら、スマホを覗き込むように見ている。ベンチに座る私の位置からは、対角線上に進んで30メートルくらいは距離があるだろうか。顔は判然としないけれども、ショートカットで、すらっとしたきれいな身なりをしている。歳は私よりもいくらか上だろう。おにぎりを食べ終わった私は、職場へ向けて公園を後にするのであるが、その際、かならず女性の前を通ることになる。女性は相変わらずスマホを覗き込んだまま通行人の存在には無頓着である。私が家で熱中するのとはちがって、彼女のスマホへの接し方はどこかしら優雅で、気品があり、悠々とした感がある。当時シェイクスピアの作品を読んでいた私は、いつしか心の中で勝手に彼女を「ジュリエット」と呼ぶようになった。
ジュリエットは、来る日も来る日も同じ姿勢をしていた。服装も、もちろん日毎に異なるとはいえ、上品で垢抜けたところは、いつだって全然変らなかった。そして常に私には一瞥もくれなかった。おにぎりを食べながら、横目でちらと様子をうかがうと、昨日の光景と寸分も異ならない。前を通ろうとすると、心もち身体に力が入るものの、ジュリエットのほうは我関せずといった風で未だスマホを覗き込んでいる。私が春夏秋冬おにぎりを頬張るのと同じように、彼女も季節の別なく自らを貫くのである。ただひとつ異なるのは、私ひとりだけが、彼女に勝手に名前をつけ(まさか彼女は私を「ロミオ」と呼んではいまい)、家や職場からの逃げ場となっている公園に突然現れた女性を、妙な存在として気にせずにはいられなかった所だ。
幼い頃から、友達と遊ぶのも気が進まず、家庭の中にも居場所がないと感じがちな、さびしい少年だった。勉強はできないし、かけっこをしてもビリが定位置。学校に好きな女の子ができても、ばれないように取り繕うのに必死で、感情を表すのを恐れるばかり。そのまま体だけが大きくなり、大人と呼ばれるようになった。ひとりぼっちの自分が見つけた幸福の空間に、見知らぬ人が入り込んで来て、今、どうして嫌な気持がしないのだろう。ひとりで遊んでいるところに友達が来ただけで逃げてしまうような子供だったのに。私はやはり大人になったのだろうか? 考えれば考えるほど、むず痒い気がして、やりきれなくなる。この感情が一体何なのか、自分にもよく分からない。くだらないと思って何もかも打ち消そうとするけれど、朝日の下の残像が瞼のうらに貼り付いて離れない。しかも彼女は微動だにせずあそこに座っている。雨の日も晴れの日も、世の中がどのように移ろおうとも、ここだけは同じ時間が流れていた。ふたりの男女がそれぞれの世界に住みながら、公園という場所だけ共有している、夢の中のようなおぼろげな時間が。
私がその公園を最後に訪れたのは、退職した日であった。冬用のコートを着たジュリエットは、寒さも忘れてしまったみたいに、その日もいつもと変らずスマホに夢中になっているようだった。が、おにぎりを食べ終わり、いよいよ出勤しようと出口を抜ける間際、彼女の頭がほんのすこしだけ上がって、こちらを見たような気がした。馬鹿馬鹿しい。気のせいに決まっている。もう会うことはないと悟った私の感傷が起こした錯覚というものだろう。でも、当時の私には彼女の視線が重たく突き刺さるように感じられてならなかった。あの一瞬間が長い年月を経た今になってもよみがえる。私の生活はあれから少しも変っていない。休みの日は、掃除洗濯料理に、それから不安に苛まれながらスマホをいじるだけ。スズメの声と、朝の光と、おにぎりと、ジュリエットと。——遠く過去の記憶のなかへ去っていくあの日常が、時々私には恋しくてたまらなくなる。
うむむ…。
Pixiv を眺めていて、素敵なイラストを見つけたので、ふと概要欄を見てみたら
のような事が書かれていた。
ずいぶん迷ったが同族の二次元ロリコンとして、流石に看過できず。
できるだけキツくならないようにコメントで注意した。
悲しい。
女性の根本的な心理的安全性に関わってくるので議論は苛烈になりがちだし、まだまだ結論は出ないだろう。
だけど公衆浴場で他人の裸をジロジロ眺めないことは、流石に必要な態度ではなかろうか。
異性愛者だろうと。
まして子どもはプライベートゾーンの大切さを十分に認識できていないだろうから、より丁重に扱わなければならないと思う。
ブロックされて、まるで悪人のように扱われたのは腹立たしいが、しかし後悔はない。
俺は正義を行なった、と思う。
ロリコンとして、子どもの性を搾取した結果を享受したくはないから。
イラストレーターが反省して態度を改めてくれることを望みます。
でも。
実は、モヤモヤと悩んでいる。
性を搾取?
自分でも何を聞いているのか、ちょっと頭がおかしいんじゃないかと思ったけど、なんだか言わずにはいられなかった。
疲れてたんだと思う。仕事も人間関係もぐちゃぐちゃで、なんか心がカラカラになってた。いつもの帰り道、ふと目に入った雑貨屋に吸い寄せられるように入って、気づけばそんな言葉が口をついて出ていた。
「えっと…幸せですか?」店員の女の子は、最初は少し戸惑ったような顔をしていた。でもその後すぐに、「あ~、そこにあると思います」と、雑貨の棚を指さしてきた。店員さん、面倒くさそうだな、と思いながらその方向を見ると、可愛らしいキャンドルや置物が並んでいた。
「そういうことか…」と、軽く自嘲する私。しかし、ふと店員さんの方に視線を戻した時、彼女の表情が変わっていた。さっきまでの面倒くさそうな感じが消えていて、真剣に、ちょっと考え込んでいるようだった。
そして、店員さんは私の目をじっと見つめ、「…あなたの心の中にないなら、ないですね」と、柔らかく微笑んで言った。
その瞬間、なんだか胸にズシンと響いたんだ。冗談で始めた会話だったのに、彼女の言葉がまっすぐ心に突き刺さった。「あなたの心の中にないなら、ないですね。」彼女は笑顔でそう言ったけど、その言葉の重さに気づかされた。
私はしばらくその場で立ち尽くした。頭の中で彼女の言葉を繰り返している自分がいた。心の中に、幸せがない…確かに最近は、そんな感覚だったかもしれない。どこかに置き忘れてきたような感じ。目の前のことに追われて、自分自身を見失っていた。
「そっか、心の中にないなら、ないよね」私は独り言のようにつぶやいた。
「そうですね。でも、いつかきっと、見つかりますよ。」店員さんが優しく言ってくれた。なんだか、それだけで心が少し軽くなった気がする。小さな笑顔が自然と出た。
下方婚とは、社会的地位や収入、学歴などのステイタスがより低い者と結婚することを指します。その逆を上方婚または上昇婚といいます。
だそうです。
私:学歴はSランと言われる国立、社会的地位は会社員、収入はボーナス入れて800万~900万 30代中盤 首都圏育ち
夫:本人が言うには馬鹿大、社会的地位は地方公務員、収入はざっくりと300万くらい 20代後半 地方育ち
趣味は被るところと全く被らないところがある。オタク趣味っぽい所は合う。
学歴と収入だけでいうなら下方に当てはまるかもしれないと思って書いてみる
社会的地位は夫は安定しているしマンションのローンも通る(結局買ってないけど)
私は今は収入はよくても年によってボーナスの額は大きく変わるし出産したら辞めるだろうしそこで逆転する可能性はある。妊娠出産するかは分からない。
でも妊娠出産後に育児しながら労働は無理。少なくとも夫が主夫にならないと無理。そして公務員の夫を主夫にする勇気は私にはない。
その辺は完全な下方婚ではないと思う。夫は仕事ができないわけではない感じがするし。
生活費は家賃ネット代等固定費が夫、食費光熱費雑費が私で残りの給与はお互い自由にしてる。
私は大半は貯金したいけど、一応仕事的に身だしなみ(服コスメメイクヘアケア)にお金はかけてる。それが面倒だと思う時もあるし、お金かけて良かったと思う時もある。
自分一人ならフルタイムと多少残業しつつ週末に作り置きと買い食い、掃除洗濯でなんとか家事も出来てたけど
結婚したら家は広くなり汚れるのも早くて家事は2倍どころか体感5倍になったので
私が料理とキッチン掃除、夫がそれ以外の掃除洗濯全部、週末は外食外出or家で何もしない という感じ。
しんどい時は料理せず買い食いか外食で、食事にお金出してるのは私なんだから文句は言うなと思ってる。言われたことはないけど。
子供生まれたら詰むかもしれないと思いつつ、まだ生まれてないし…ということで現状維持です。うっすらとした不安はある。
私が年上ということもあり、付き合い始めに夫(彼氏)をいろんな場所に連れて行ってその反応を見るのは楽しかった。
地方育ち、奨学金を返しながらのお付き合いだったので夫は倹約が基本だった。趣味はゲームや散歩くらい。
ちょっとお高いランチやディナー、エンターテイメント、一人じゃ行かない奮発した旅行
夫はなんでも「こんなに楽しいの初めて」と喜んでいたし、プレゼントで数千円の物をあげたらとても感謝された。たった数千円で!
なんでも「初めて!」と喜んでくれる様子は可愛かったし、男性がそういう女性の反応を良しとする理由も分かった気がする。
ただ、デートは私の奢りではなく自分の分は自分で払う形式で結婚した今も基本は変わっていない。
全部私が出すと「息苦しくなる気がする」らしい。言ってる意味は分かる。
それで下方婚(?)して思ったことだけど、やっぱり経験したものとか価値観は全然違う。購入するものの価格帯も違う。
私は読書、勉強、常に新しいニュースやトレンドや娯楽に接してないと不安だけど、夫は最悪ゲームとユニクロとマックがあればいいっぽい。(暴論)
同じものを見た時の感想の長さも全然違う。あの作品って過去のあれのオマージュだよね、名前もきっと由来が〇〇で~と早口オタクの私と
「面白かった」「良かった」が大半の夫。え!?それだけ!?と思うこともあるけど
後日過去作を観てたりふとした会話でぽつりぽつり感想を言うのを見て、彼なりに楽しんではいるんだなと思っている。
付き合い中~新婚時代それはどうなんだ?と思って夫にこの年齢ならこのくらいのお店や経験を…と思って連れまわしたりし、
夫も新鮮味があったのか喜んでくれてたけど、数年経って
ふと、同じ経験をさせて同じような価格帯のものを身につけさせて私と同じ価値観を持ったらめちゃくちゃ苦しいなと思った。
家に理屈っぽい完璧主義者が二人いて、仕事でピリピリして、それぞれの家事とか余暇の過ごし方に内心ケチ付け始めたらすんんんごいしんどい。
私は私が男だったらさらにモラハラになる気がしてるので、私のような男が家に居たら息が詰まる。
そして、
フードコートで千円以内で食べられるものを美味しいねって食べてることって別に悪くないよな…と思い始めた。
うわぁしみったれたな私、と思う反面、大概の高いお金払って食べたものって半年後には忘れてるし何の意味があるんだろう?と思い始めた。
静かで落ち着いた空間でこそ話せることもあるし、その時間が無駄とは思わないけど…
趣味みたいに投資してる基礎化粧品とメイク用品と香水とお気に入りのブランドの服はまだ手放せないし、
お洒落すると夫のテンションが上がるのでまだ辞めるつもりはないし、レジャーとか旅行とかは、思い出として強く残るから意味があると思うけど。
でも部屋着でごろごろして、ぼけーっとしててもいいよな…とも思えてきた。
それでも可愛いと言ってくれるし、一緒にゲームして漫画読んで非生産的な時間を過ごしてる。
2,出産育児の収入面の心配はやっぱり消えない。最低限子供の学費に目途がつくまでは産めない。大きなデメリット。
メリットは
3,私は一人の人間に「法的拘束力がある契約を結んでいい」と思われるくらいには愛されたのだという安心感を得られる。
3がでかいから下方婚したのかもしれない。夫がガツガツ仕事をしてたら、今ののほほんとした雰囲気にはなっていない。
でも子供の件があるから、下方婚はおすすめできない。妊娠後、体質変わるし前のようにがっつり働けるとも思えない。
その時に夫を責めるようになってるのか、二人で打開策を見つけているのか本当に分からない。
チー牛の何がいけないかと言うと商談しようと思って会ったとき、まず第一に容姿服装に視線がいってしまうことなんだよな。商談の内容より、お風呂にきちんと入ってるのかとかお母さんが買ってきた服なのかなとかニキビ痛そうとか袖口のボタンが取れそうとかが気になって仕事にならない。そして誰に指摘されてもチー牛を続けてしまう唯我独尊さが最も外交への無関心さ向いていなさの象徴になっている。友人たちが理解してくれたらいいという態度に自分に否定的な指摘をする人たちを意識的か無意識的かはわからないが排除しようという姿勢がある。公的な場面であるにもかかわらず私人として意見を主張してしまっている。
抜いた直後でも急に家に見えそうで見えない格好の若い女が上がり込んできたら見えるタイミングを逃すまいと視線を移さずにはいられないし、増田で煽られたら瞬時に顔真っ赤にレスバモードになったりも普通にする。
賢者タイムなどという「女は産み育てるのが幸せ」みたいなステレイタイプの拡散やめーや。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11305510866
↑似たようなことを知恵袋に書いたがこれはやはり抜いた直後に、賢者タイムが誰にでもあるならちょっとは書きたい感情を抑えて温める時間を持てばいいものを、普通に投稿するのを我慢が出来なかった。それ自体が証明だろう。
賢者タイムっていうけど実際はた何もかもに対してただけだるくなっている人が多いんじゃないか?
例えるなら食べ過ぎた後腹の張りをもろに感じているときにテレビとかで食べ物の映像や写真が映った時に、何も興味が湧かないあの感じ。
あるいはインフルエンザで寝込んでいる時の心境も、インフル特有のつらさを除外すれば抜いた直後の感じと似てないかな?
ようは冷静というよりただだるくなっているだけではないか。何が悟りだろう?ただ物臭太郎になってるだけのやつも混じってるだろ。