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2020-06-05

格好の悪い冷笑

根暗だったりすると、冷笑家のキャラは狙いやすポジションのようだ。

慌てず動じない感じ、多少なりとも知的な感じ。

クール物事洞察し、判断を謝らず、冷笑武器に場を収めさえする。

そういうポジションに寄せていった立身というのは、分かる話ではある。

ただ、冷笑の格好の悪さ、というもの自覚する機会は少ないのかもしれない。

なぜだろう?なぜ「格好の悪い皮肉屋」というのが溢れるのだろう?

それがずっと疑問だったが、わかった気がする。

客観を騙っている」から、格好悪いのではないだろうか。

冷笑家の素振りとして、世界距離を置くことは覚えたものの。

だがそういう連中のうちのある割合は、自身を含めた俯瞰のという技法に気づかないまま過ごし得るのではないか

「客体に徹する」上で不可欠な自省・自己からの脱却(に努める)という機構が働いていないのではないか

から騙りに過ぎず、つまり不徹底で下手くそ冷笑家が多いのだろう。

そういう仮説を得た。

気になるのは、

インターネットはその存在可視化しただけなのか、または増殖させているのか、(逆に減ったのか、)

その仮説はまだない。あなたはどう思われるだろうか?

2020-05-23

anond:20200522111714

リメイク本質から考えれば当然のこと。

同じ物語を違う表現で作り直すのがリメイク

リメイクを成立させるには面白い脚本表現多様性必要

だってまらない物語を何度も味わいたい人なんていないし、いくら面白い物語でも見せ方が同じだったら飽きるから

表現技法選択肢

映画映像)>>漫画(絵)>>小説文章

の順で多いので、映画リメイクやすいが小説リメイクなんてほぼ不可能

で、漫画はどうか。

現状漫画はあまり面白くない脚本を多彩な表現力でごまかしてギリギリ成立させてるものほとんど(原作作画を一人でやっててしかも週刊連載なんてやってたら面白い話なんて作れない)。

しか最近の傾向として話を薄く、長く引き伸ばしたものばかり。

そらリメイクなんて無理ですわ。

BLEACHリメイクなんて読みたいやついる?

宣伝技法が洗練されすぎてしまったので民主主義をやめてほしい

ここまで洗練されてしまうと、いくら民衆の理性を信じようとしたって、広告宣伝技法に騙されるなというほうが無理だよ。

2020-05-22

anond:20200522102115

馬鹿だな

プログラミング技法だって進歩してるんだから

自分技術力付けられる人間じゃないとやってけないだろ?

いちいち何か新しいことある度に教えて君になるのか?

そんな奴は周りからウザがられるだけだ

2020-05-21

4億8000万ウォンだとしていた慰安婦被害者憩いの場建築費、申告金額は7600万

京畿道安城キョンギド・アンソン)慰安婦被害者憩いの場の建築が2010年に承認を受ける当時、申告されていた建築費、土木工事費など事業所金額が7674万ウォン(現レートで約672万円)だったことが20日、確認された。

これに先立ち、慰安婦被害者支援団体日本軍性奴隷問題解決のための正義記憶連帯正義連)」は建築業者のキム氏から2013年7億5000万ウォンで購入したこ建物建築費が4億8000万ウォンだと明らかにしていた。3.3平方メートル(1坪)あたり600万ウォンを投じて実建築延べ面積264.25平方メートル(80坪)の建物を建てた時の金額だ。だが、7674万ウォンを基本建築費として限定し、仕上げ工事など各種費用を加えても最終建築費4億8000万ウォンは膨らませすぎだというのが業界の指摘だ。

中央日報が入手した安城憩いの場の建築申告書、竣工許可書、事業計画書などによると、キム氏は関連書類を2010年8月に作成した。キム氏は2階単独住宅を作るために建築工事費5000万ウォン土木工事費1529万ウォン農地専用負担金544万8000ウォン運賃費500万ウォン、その他工事費100万ウォンなど計7673万8000ウォンかると安城市に提出した。これに先立ち、キム氏は2007年に妻の名義で該当の敷地を3520万ウォンで購入した。

キム氏は書類に「本人が資金調達して直接監督下に着工・竣工を履行し、その後、直接管理運営する」と記述した。住宅平面図も提出した。1階に出入口玄関)2つ、台所1つ、多用途室、部屋3つ、トイレ2つを配置し、2階に部屋1つとトイレ1つを配置するという内容だ。住宅はスチールハウス構造で、屋根はOSB合板屋根で建てるという内容も明示した。これは実際に完工した安城憩いの場の構造と同一だ。憩いの場は2010年9月3日着工、2011年7月22日に使用承認、2012年11月完工(所有権保存登記)の手続きを踏んだ。

業界関係者は「安城市に提出された事業費用などを考慮すると、正義連が明らかにした建築費は大きく誇張された可能性が高い」と指摘した。あるソウル地域建築業者は中央日報電話取材に対して「基本建築費が7600万ウォンなのに最終建築費4億8000万ウォンというのは仕上げやインテリアなどだけで4億ウォン以上を使ったということ」とし「その反対なら分からなくもないが、常識的に成立しにくい」と話した。

これに対して野党未来統合党」の鄭鎭碩(チョン・ジンソク)議員関係者は「正義連が公開した憩いの場建築費が膨らんだと疑われる部分」とし「憩いの場を高価で購入した背景を明らかにしなければならない」と話した。

正義連は7億5000万ウォンで購入した憩いの場に追加で1億ウォン余りのインテリア費用をかけたと明らかにした。結局、8億5000万ウォン以上を使ったのだ。

この憩いの場は先月原価の半額にすぎない4億2000万ウォンで売却された。これに関連し、尹氏相場よりも憩いの場を高く購入して特定人物に特恵を与えた容疑(業務上背任等)などで検察告発された。

これに先立ち尹氏は「建築資材の質、建築技法などが高級だった」と高価購入疑惑否定した。キム氏も中央日報取材に対して「最高のレンガを使って一生懸命建てた家で、8億~9億ウォンを受け取ろうと思ったが安く売った」と説明した。キム氏はイ・ギュミン民主党当選人が代表だった安城新聞運営委員長だ。憩いの場売却当時、イ氏がキム氏を尹氏に紹介した。

平田オリザ氏の失敗を日本教育の失敗みたいに主語を広げていくのは

ご遠慮頂きたいなって思ったんですがタイトル長すぎて切れましたてへぺろ

平田オリザ炎上にみる、コミュニケーション教育は「他者相互理解する能力」を害しているという現実

https://note.com/hirayama_t/n/n9ee3544db3b0





これ見て「伝える力偏重コミュニケーションはパッと見だとうまくいってるように見えるけどちょっとしたきっかけで破綻する」ってのはその通りだよなーと思いつつ、どうしてもひっかかることがあったんですよ。

そもそも日本コミュニケーション教育は伝える力偏重」ってマジなの?ってとこです。

自分職業コミュ障のくせに他者との会話が必須なので教育で得たスキルでどうにか人並みの仕事をできるようにしてるんですけど、そのコミュニケーションのための教育で教わることって「相手の話をちゃんと聞こうね」なんですね。

相手の話には適切に相槌を打つことで相手安心感を与えよう、だとか、相手の言ったことを再確認することで齟齬が起きにくくなるだけでなくて相手からも信頼してもらいやすくなるから言われたことはちゃんと「○○ですね?」って聞き返そうね、とか。

もちろんこっちからしかける時の注意として分かりやすく簡潔に、とか、伝えるためのスキルってのも教わりましたよ。でも相手の言いたいことをちゃんと把握するための技術はきちんと教わりましたし偏ってるなんて思ったことないです。

そもそもこの平田オリザって人、コミュニケーション教育ナントカ座長第一人者って言うけど今回の炎上まで名前も知らなかったんですよね。もちろん自分アンテナが狭いってのはあると思いますが、それだけ重鎮のはずの人ならそれこそテレビ御意見番とかで出てきて名前くらい聞いててもよさそうなのになーとか思ったり。




そんでちょっとググってみたんですけど、この「コミュニケーション教育推進会議」って悪名高い民主党政権時代に発足してて、しか文科省WEBサイトを見る限りでは会議自民党政権に戻った後は開かれてないっぽい(議事録が4回目までしかないしその後の活動特に掲載がないし資料も見当たらないし)感じなんですよ。いや活動継続してるなら教えて欲しいのでリンク下さい。

もちろんその2・3年ほどのせいで日本教育に深い爪痕を残したっていうのであれば理解できなくはないですけど、そういう方向の話でもなさそうだし。

日本には昔から「話し上手は聞き上手」っていうことわざだってありますし、いわゆる陰キャと呼ばれるようなタイプの間でリア充の人のコミュスキルの高さの話が出る時って「真のリア充自分らみたいなコミュ障でもうまく会話を誘導して話を聞き出して広げてくれるからすごい」って話であって「リア充の話っていつまで聞いてても飽きない」みたいな方面の話はほぼ聞かないです。自分は。

時間の都合とかスキル不足で教育が足りてないという現実はあるにせよ、コミュニケーションには自分意見を正しく伝えることも重要だけど、相手意見を引き出す能力であったりその為の傾聴能力であったりもすごく重要だよね、と思ってる人の方が多いんじゃないかなあ。少なくとも自分観測範囲だとそうです。

ネット上のコミュニケーション発言重視のコミュニケーションになってしまうのは、どちらかと言えばどうしても対多人数への発信が主になりやすく、かつ相手の反応が返ってくる(相手の反応を確認できる)のがリアルタイムではなくてタイムラグがある(ブログなどだと記事投稿⇒読んだ誰かによるコメント⇒更にそれを書いた本人が確認するための時間差がある)という対話方式構造上の問題であって、教育がどうこうじゃないと思うんですよね。

いや、そういう1対多数のコミュとか発言からレスポンスまでにタイムラグがある場合対話術とかを教育できちんとやるべきではって話であるならやった方がいいでしょうねとは思うんですけど、それって傾聴能力を軽視したかコミュニケーション教育は失敗したんだ、っていう話とは別の話じゃないですか。別の話に平田オリザを混ぜ込まれると問題点が見えなくなるのでは?っていう。





十数年前の道徳教科書には既に「英語が得意な『私』と得意でない友達がそれぞれ海外ホームステイに行ったけど、『私』はステイ先の同年代の子供と話が合わずギクシャクして、友達の方が海外の友人と仲良くなっていた」っていう話がありましてね。喋るのが得意でもそれだけでは相互理解なんてできないというのはずっと前から教育者も理解してると思います。(まあこの話の本題は自分の国に目を向ける、自国に誇りを持つことにあるっぽいですが)(ちゃん最後には仲良くなれるのでごあんしん)

でもって傾聴能力のもの教育である程度まではどうにかなります。何せ自分仕事できているので。

もちろんそこには仕事からこそ相手の話をちゃんと聞こうという意識が働いているという部分があり、相手の話を聞こうとしなければ傾聴スキルいくら磨いてもコミュニケーションできないってのはその通りです。ですが「相手の話を聞こうと思えるようになるためには何をすればいいか」についてはこれもやっぱりある程度までの話になりますけど教育で賄える部分かと思います

という横の話はおいといて、やっぱり平田オリザ氏のコミュニケーション論を軸に日本全体、あるいは主軸のコミュニケーション論が伝える力偏重であるという論調で話を進めるのはちょっと乱暴でないかなーと思うのです。

昨今の英語教育だって技能、読む、聞く、書く、話す、と受け取る能力が盛り込まれます

日本コミュニケーション論が伝える力偏重になっているのでは、という話をするならそんなごく一部かつ負けた政権人間で今は開催されてないっぽい会議議長の話を出すんじゃなくて、もっと他に今話題の方とか継続して活動を続けておられる方とか現在全国で取り組まれている試みとかを例として提示しないといけないんじゃないでしょうか。





あとググって出て来たここのページ

http://web.iec.ehime-u.ac.jp/reinelt/2018JCAcsComp/2018JCAcs3WakiTadayuki.pdf

とかを見て当時の会議資料のありかを知ったんですが、確かに2000年代初頭の資料については伝える力について主題として扱っているんですが、これはそもそも国語力とコミュニケーション能力関係性について語られているのであって主題になってるのは国語力の方では?というあたりの問題もあって一概には言えない気もするなーとか。

国語力は円滑なコミュニケーションには重要です、という話とコミュニケーション能力とは高い国語力のことです、では話が違いますよねってことです)

それにこれって「意見を発信する時には相手への尊重必要不可欠だよね!だから敬語大事にしようね!」みたいな話なので(雑すぎる要約なので詳しく知りたい方はちゃん一次資料を読んでね)相手こちらの話を聞いて貰えるようにするための警戒心を解いてもらう話術の話だと思うんですよ。

そんでもって平田オリザ氏の例の発言炎上したのってその「相手への尊重」が欠片も感じられないんですけど、ってところが起点じゃないですか。

発信する側としてのコミュニケーションスキルである相手への尊重とそれを実際に示す態度、話法というのができてない時点で「平田氏のコミュニケーション論には問題があるかもしれないけれど、そもそもとして平田自身自分の主張するコミュニケーション技法を守れていないので、今回の炎上を元に平田氏のコミュニケーション論が間違っていたかを論ずることはできないのでは?」という。平田氏のコミュニケーション論が正しいかかには別のサンプルを持ってこないと駄目なんじゃねっていう。

なんかこう、平田氏の失敗を直接的には関係ない仮想敵への攻撃に便利に使っているように見えてしまって、伝える力偏重コミュニケーション教育はよくないって主張そのものについては同意できるだけになんかむずむずするなーと思いました。

2020-05-17

anond:20200517075639

モテテクニックは本当に男に好まれ技法かどうかは関係なく、簡単にできそうで多少なりとも効果がありそうと思わせることが大事から

2020-05-15

anond:20200515173239

どんな固定値だって実行時にメモリを書き換えりゃそりゃかわるわ

では、そういうハッキング技法以外で、一般的範疇でどうやったら、実行時のローダーによる値の変更以外に変わるんだ?

2020-05-09

anond:20200425144157

詩というのは、自分が見ることのできない情景を思い浮かべながら読むものだと思っているんだけど、

TVたかだか20インチのちっちゃな画面でしか見られなかったのが今は50インチとか普通にあるし、

パソコンスマホネット検索すれば、いくらでも美麗な景色がすぐに確認できてしまう。


いや、風景だけじゃなくて詩の物語性が・・・という人もいるかもしれんけど、

ネットにはあらゆる物語が溢れている。

一人の詩人が、その人生経験を詩に表現する間に、インターネットでは、

何億人もの人間創作したり、体験談を書いたりしてる。


詩の言語的な表現技法が素晴らしいのだ・・・と考えるのは、もう文学オタク

文学専攻の学生くらいで、一般人はそこに関心を示さない。


詩はもう社会において役割を終えた表現方法なんだと思う。

2020-04-30

Bug Generator として生きていく

35歳。22歳でプログラマーになり、30歳で一度転職

開発リーダーマネジメントをやったこともあるが、基本的に今でもずっとコードを書いているし今後も書くだろう。

俺はよくバグを出す。ひどいバグもよく出す。障害報告書が必要バグの原因となるのが俺の設計実装テスト観点の見落としに由来していたことはしょっちゅうだ。どうすればバグがでなくなるか、テスト技法を学んだり、アーキテクチャ勉強も何年もしている。勉強したことを共有するのが好きなので登壇も時々する。それでもやっぱりバグを出してしまう。

手ひどい障害をおこしたときは俺も誰かの設計したアーキテクチャで、誰かの指示のもとコードを書いて、テストをして、俺が責任を持たないで済む仕事をしたいと思う事もある。

けど、ビジネス側に「これが決まらないと実装できません。以上」と優秀でビジネスに寄り添わない開発者に突き放されて宙に浮いた要求を「完全ではないけどこうすれば要求限定的ですが満たせそうですね」とかやっちゃうんだよ。

俺は上司ビジネスにとって都合のいい存在なので、優秀でビジネスに寄り添わない開発者よりも出世してしまう。俺は優秀な開発者軽蔑を感じながらも大事機能を任されてバグ入りの機能リリースしてしまう。

きついなーと思いながらも、そんなとき俺は黒田硫黄の「セクシーボイスアンドロボ」の一節を思い出す。「もっとうまくできる人がいれば、その人に投げ出していたかも。でも、それをやる人はほかには居なかったの」(voice11. 鍵)

俺の尻拭いをさせられている後任が何人もいることも、もちろん知っているし罪悪感に苛まれる夜も多い。

けど、俺は才能はなくとも常にベストを尽くしているんだ。その時、それをできる人間は「宇宙で私だけ」(voice3. エースを狙え!)だったんだ。お前はその時その場にいなかったか、寄り添わなかったか、手を挙げなかったんだ。

俺は無能な働き者として、Bug Generator として、誰かの求めに寄り添いながら今日も生きていく。

2020-04-27

anond:20200427141747

大変趣がある。◎

尾崎放哉種田山頭火系譜を思わせる自由律の裏側に、女性用の下着という単純な提起だけに一見思えるが、

読む相手によって想像の奥行きに無限を与えており、鑑賞者に委ねる事で季節感についても省略の技巧を凝らし、

自らが感じ取るパンティーに対する悲喜こもごも感情を想起させることがたった5文字に凝集されている。

私には、興奮のあまり後先を考えない若者の高揚の発露と見ることができた。

その場合、確かに行為暗喩する上でパンティーは乱暴に放り出され、脱がされ丸まったパンティーは、

興奮が冷めるまで注目され得ないことを見事に表現している。

情熱本体は、行為の開始によってパンティーではなく人間本体に移ることにもこの表現技法は適切に見える。

文学映像世界で修辞的技法である、性行為の生々しい場面を、夜が明ける、花が落ちるなどの

比喩であらわす作品陳腐化されているが、この作品では自然視点を逸らすことに成功した。

パンティーはどんな色だろうか、汗ばんでいるだろうか、とするとこの行為に及んだ人はどんな人物だろうか。

どんな季節だろうか、どんな部屋だろうか。好奇心をこれほど擽る作品に出合えたことに感動している。

昔の偉い人ははこう言ったかもしれない。

一本の線がどう見えるのか。それを鑑賞する者に託すことが芸術の強さだ。

子供が描いたような絵が、何億もの価値で売られるのを目にすることがある。

その人には無価値しか見えないことが、他の人にはとても価値があるように見える。

一滴の水と見るか、大海の一部と見るか。全ては自分次第なのだ

私はこの作品を生涯忘れない宝物にしたい。

2020-03-20

anond:20200320091032

57577でいえ、大変だろ?そういうことなんだよ。

短い方は短い方で大変なんだよ。使う技法が違うんだ。

anond:20200320090918

同じものを4行にもできるけど 2行スペースでつなぐこういうのをシンプルにする技法という

続・こじらせててつらいのでカウンセリング行ったら楽になった話

anond:20200320072654

カウンセリングデメリット

自分にとっては非常に役立ったカウンセリングだが、もちろんデメリットはいくつかある。一つは、単純にお金がかかることだ。はじめのうちは毎週カウンセリングを受けていたが、そのたびに7000円から8000円かかる。症状が軽くなってからは隔週にしたが、それでもかなりの負担だった。とはいえ、これだけ払えばしんどい症状が消えたのだと考えれば費用対効果はとてもいい。下手なセミナーにはまるよりは、オーダーメイド治療を受けられるのだから。1日を極端な不安がなく過ごせるのなら、いくら払ってもいいという人もきっとたくさんいる。

もう一つはもう少し深刻で、治療中には具合が一時的悪化する危険があることだ。カウンセリングとは、自分自分についている嘘を直視する過程である面があり、見たくないものを見せられる羽目になるので、場合によっては面談中に具合が悪くなる。治療を受けている途中に、大した話をしているわけでもないのに泣けてくることもあった。カウンセリングの厳しいところは、こちらがどれほど泣こうがわめこうが、ひっくり返って足をバタバタさせようが、向こうから体を触れることは原則としてないことで、つまり自分自分負の感情に向き合わないといけない。通常の人間関係のように、相手に抱きしめてもらってごまかすことは許されないのだ。

他にも、時間が非常にかかるという点もデメリットに数えてもいいだろう。とはいえ、すぐによくなることを保証している治療法というのは、ちょっと疑ったほうがいい。治療過程とはしばしば痛みを伴うもので、何の副作用もないと謳っているもの危険だ。

あとは、カウンセラーとの相性の問題もあるし、合わない技法もあるかもしれない。合わないときには率直にそう伝えるといいと思う。ドクターショッピング状態にならなければ、合わない相手を変えてもらうのは当たり前のことだ。

最後に、密室で二人ひたすら話し合うのだが、これは一歩間違えれば洗脳に使われかねないよな、という気がする。自分カウンセラーをすごく信頼していたけれども、同時に、身体を触れ合わせてはいけない、とも直感した。尊敬気持ち恋愛感情はよく似ていたし、ここで明確に線を引かないと、相手にずぶずぶと依存することになり、良くないことがひしひしと伝わってきた。

カウンセリングはどういう人に向いているか

カウンセリングにはメリットデメリットもある。個人的には、何かを言語化して理解するのが得意な人だと、治療がうまく進むのではないかと感じている。ただし、これは僕自身物事言語的に理解するのを得意としているからなだけかもしれない。

ただ、話を聞いてもらうだけではなく、実際にカウンセリングの外で行動を変化させることもやったほうが、治療の進捗は速い、と実感している。

最後

カウンセリングは、悩みがあっという間に消える魔法ではない。生きていればつらいこともあるし、嫌なことだって思い出す。今でも時々昔のことを思い出して、怖い夢を見る。だからと言って、絶望することはない。人間には悩みに取り組むだけの強さがある。自分メンタルが弱い人間だと思っていた僕もまた、自分自身の弱さや愚かさに直面できたのだからカウンセラーの支えがあれば、他の人だってきっとできると思う。たとえそう思えなくても、今まで生きてきただけであなたは強い。何もしてこなかったとしても、ただ生きていただけで偉いのだ。

カウンセリングは、人間肯定的な対人関係で学んでいくものを、圧縮して学習するシステムであると思う。カウンセリングがなくても、同じ境地に時間をかければたどり着けていたかもしれない。それでも、カウンセリングを受けてよかった。楽になるのがずっと早かったし、何よりもあのカウンセラーに会うことができた、そうした対人関係的な喜びが、今でも大きい。

自分の面倒を見るのは、結局のところは自分だ。と同時に、助けを求めると意外とたくさんの人が手を差し伸べてくれる。そうわかったのが、カウンセリングで得た一番の財産だ。

記事が、誰かの背中を押すことがあれば、これほどうれしいことはない。

こじらせててつらいのでカウンセリング行ったら楽になった話

スペック

(いくつかフェイクあり)

この記事を書いた理由

カウンセリングを受けて何かと楽になったので、知見を共有したい。

それに、カウンセリングを終えてからそろそろ1年が経過するので、ちょうど過去を振り返るのにちょうどいいと考えた。

増田でも、多くの人が「カウンセリングに行ってみたら?」と時には本気で、時には冗談で言うのだけれど、そこが実際にはどんな場なのかを知らないせいで、行くのをためらっている人が多い現状を、変えたいというのもある。

増田だけではなく、ネット上の多くの人が、少しでも楽になれるように祈っている。その助けになれば幸いだ。

どのようなことで困っていたか

長くなりそうだし、愚痴っぽくなるのも嫌なので、代表的ものだけを箇条書きで挙げる。

カウンセラーはどんな人?

臨床心理士資格を持っている50代の女性中学生くらいの子供がいるらしい。

髪の毛が長く、少しやせ型。落ち着いた物静かな女性だが、明確な自分の考えを持っている印象がある。初恋の人に似ている気がするがおそらくは気のせいというか、投影しているのは間違いない。

実際のカウンセリングではどんなことをするのか

初回は風景構成法を行った。これはカウンセラーの指示に従って、順番に山や川、家や田んぼ人物などを配置していくもので、専門書に当たれば具体的な解釈方法が書かれているが、自分専門家ではないので省く。当日に描いた作品を今になって振り返ってみると、道のど真ん中に障害物の石が置かれていたり、山が雪に閉ざされていたりと、寒々とした印象を受けた。描かれている人間逆立ちをしていて、何やら不穏である。蛇も不気味にとぐろを巻いていた。

二回目からは主に夢分析を行った。カウンセリングカウンセリングの間の一週間に見てきた夢を記録して、それを材料に話をする。つかみどころがないようだが、意外なことにかなり効果があった。理屈はわからないが、この治療中は同じようなテーマの夢を見るようになる。さらに、肝心なのは夢の内容そのものではなく、夢の話をしているうちに自分が何を思い出したか、あるいは漠然とした印象をどのように語りなおしたかで、それによって、自身の考え方の偏りや傾向が見えてきた。現に、夢の内容を話す時間は案外短く、後半の三十分は、そこから思い出した過去出来事や近況、それについて自分がどう感じたについて話し合うことに費やされた。そうした雑談きっかけに、突破口を開いたこともある。

夢分析が行き詰まった時には、箱庭療法を試みた。これは、砂の敷かれた箱の上に人形模型を配置していくもので、話しながら人形を動かしたり、砂の上に模様を描いたりした。うまく説明できないが、非言語的なものを明確にするのに役立った気がする。例えば「このタヌキ(の置物)は寂しくて困っている。友達がいなくて寂しそう。上下がひっくり返って困っている。悲しくて暴れている」などと比喩的な話をすることで、日常使っている言葉論理で語りたくないことを口にしていた。小さな人形を触っているうちに気分が落ち着いたり、逆にひどく動揺することがあったり、不思議経験だった。箱庭療法最初の一回も、自分心理的混乱が反映されていたのか、人形同士がにらみ合ったりひっくり返ったり無意味に積み上げられたりと、非常に張り詰めた印象のもので、カウンセラーも「ちょっと怖い」という印象を漏らしていた。

これらの技法は、ある種のきっかけというか呼び水だった気がする。どんなことを語っても許されるというか、傾聴してくれる場というのはそれだけで貴重で、話しているうちに自分の思いがけない本音や、ダブルスタンダードに気づいた。また、夢のような一見「どうでもいい」話ができる仲になることで、普通は人に話すこともはばかられるような、野外オナニー願望についても話すことができた。

治療も後半になると、こうした技法ほとんど用いず、通常の雑談に近くなった。自分はこういうことをしてこう言う結果になった。自分気持ちはこうだ。そうしたことが素直に言えない人のために、これらの技法はあるのかもしれない。

カウンセリングの進行、そこで自分はどう変化していったか

始め、自分は藁にも縋るような思いでカウンセリングを申し込んだ。と同時に、どこか疑ってもいた。自分カウンセリング技法についての基礎的な知識はあったし、大体どのようなことをされるのか予想がつくと思い込んでいた。精神分析に関するフロイト著作だって読んだことがあるし、河合隼雄の「ユング心理学入門」も読んでいた。しかし、カウンセリングの概略を知っていることと、実際にカウンセリングを受けることとは、まったく別の経験だった。水泳理論と、実際に水に入って泳ぐこと以上に隔てられている。なんといっても、何年にもわたって定期的に同じ人間と会うのだから必然的相手には強い感情を持ってしまう。結局、人間が強い感情を持つの人間に対してであり、人間が変わるのも対人関係を通してだ。

カウンセリングでは何について話すことも自由だった。幼少期の悲しみ、いじめられた経験、両親から受けた不条理仕打ちなどなど。それだけではない。女性にするべきではないとされている話もした。自分の性生活自慰行為風俗店での出来事など、自分は露悪的なまでに細部を語ったが、しっかりと耳を傾けてくれた。

そして肝心なのが、何度同じ話をしても相手は退屈する様子を見せない点だ。自分は、同じ話を繰り返すことで忘れていた細部を思い出すことがあったし、それに新しく意味付けをすることもできた。

最後に、カウンセリング時間が終わりに近づくと、カウンセラーは僕の話した内容を簡潔に言い直す。そうすると、自分はこういうことを考えていたのか、と毎度のように驚かされる。まとめられた内容を反芻しながら次の一週間を過ごすことで、自分の考えが深まっていった。他にも、自分がすべての不平不満をぶちまけた後で、それに対する解釈を投げ返されることで、その負の感情自分の一部として取り込むことができるようになった。「あなたがそこで腹を立てるのは当然だ」「あなた感覚はそれほどおかしものではない」という趣旨言葉を返してくれるだけで、自分過去を少しずつ受け入れることができるようになっていった。

カウンセリングの中で、カウンセラーを好きになること

ところで、カウンセリングに通ったのが、2014年3月から2019年8月ことなので、4年以上も同じ人と毎週のように会っていたことになる。途中から自分の気分が落ち着いてきたので隔週に切り替えたのだが、それでもかなりの頻度だ。自分は、自分のあらゆる感情や悩みをぶちまけて、それでも受け入れてくれる存在がうれしかった。モテないあまり風俗に浸っている自分軽蔑しない彼女存在が尊く思われた。

珍しくないことだが、自分カウンセラー好意を持つようになった。自分は、職業倫理上その気持ちは受け入れてもらえないことだと知ってはいたけれど、「あなた尊敬しているし、とても強い好意を持っています」と伝えた。カウンセラーからは「私もあなたと会うのが楽しみです」という趣旨の返事をもらった。と同時に、僕は、なぜこのカウンセラーが好きになったのかをじっくり考えだした。すると、自分には好きな人自分の悩みを洗いざらい吐き出したいという願望があったのだ、と気づいた。同時に、自分知的水準の高い女性に強いあこがれを持つことも改めて認識した。年齢などどうでもよかった。比較的若く見えるが、相手は五十代の人妻で、自分が手を出すわけにはいかないのだけれど、叶わない想いだとは知りながら、相手尊敬の念を持ち続けるというのは、思ったよりも悪くなかった。おかげで、自分にとって他人を好きになるとはどういうことかを言語化できたし、他人尊重することを身をもって学んだ。

一人の女性を好きになり、それを軽蔑されたり馬鹿にされたりしないこと安心感を、自分はたくさんの悩みに取り組む支えとしていった。僕は、このカウンセラーのことが好きになれて、本当によかったと今でも思っている。

カウンセリングを通じての自分認識の変化

過去のどのようなつらい経験も、自分はそれぞれ意味があったのだと、迷いなく考えられるようになった。それから、今までは様々な物事を与えられて当然だと感じていたが、やっとのことで与えられた物事感謝することを学べたように思う。

また、自分の恐れの感情トラウマにとらわれずに行動できるようになったことで、自分の外側の世界に対して、うまく働きかけることができるようになった。

もちろん、上に書いたような悩みのなかには、直接解決しなかったものもある。でも、それはそれで仕方がない、と受け入れられるようになった。

何よりも現実検討能力がついた。不安不安のままかかえておけるようになり、不安で頭が真っ白になることがほとんどなくなった。自分の中の膨大な不安エネルギーが、落ち着くべき場所を見つけたかのようだった。

上記の悩みに自分は具体的にはどんな答えを見つけていったか

悩みの解決過程言語化するのは難しい。自分の考えがどんな風に変化していったかを記すにとどめる。人によってたどるべき道のりは異なるし、僕の頭の中の理屈をそのまま文字にしても、納得できないことは十分に考えられるからだ。

過去いじめ、対人関係トラブルはとても悲しいものだった。でも、おかげで自分は人をできるだけ傷つけないようにしようと心掛けられるようになった。それと同時に、絶対に誰のことも傷つけない発言表現というのも無理だとも知った。男性であれ女性であれ、相手を一人の個人として尊敬することが大切であり、それは自分相手は異なっていると認識することだ。だから、できるだけ丁寧に接することは大切だけれども、自分他人は別の存在なので、礼儀正しくしていたとしても、絶対不快な思いをさせないでいることは不可能だ。かつての自分は、自分女性から不快な思いをさせられた経験から絶対女性を傷つけてはいけないというルール自分に課していたのだけれども、それは不可能だと知った。過度に自分を縛る目標は、ある種の呪縛だ。

それに、世間はいろんな女性がいる。優しい人、冷たい人、知的な人、ちゃらんぽらんな人。一人の女性自分暴力を振るったからと言って、そうでない人もたくさんいる。女性一般や平均的女性像みたいなものに、振り回されなくなった。

フェミニズムとの距離感もうまく取れるようになった。納得できることはうなずき、わからないことについては調べ、おかしいと思うことには反対する。それは、フェミニズムだけではない。自分とは違う考えの相手に対する対応の仕方と全く同じだ。

仕事に関しては、転職をした。自分能力に見合った仕事に切り替えることでやりがいも感じられるようになった。給与は下がったが、例えば600万稼ぐ人間が300万稼ぐ人間の2倍偉いのかといえばそういうわけでもないし、僕にとっての一番大切な価値観は、早寝早起き快食快便が守れる生活が維持できるかどうかだと知った。

男らしくないのではないか、というのも気にしなくなった。世間価値観がどうあれ、自分が好きなことを好きなようにする。自分らしくあることが自分にとって男らしいことと定義しなおした。

その中で、家族との関係改善した。今にして思えば、両親は自分と非常に適切にかかわってきてくれた気がする。圧倒的にすがりたいと思っていた両親も50~60代のただの人間なのだ、と実感することができた。しかし、ただの弱みもある人間からこそ、大事にしたく思えるようになった。距離感が適切になった気がする。

処女厨ロリコンも治った。正確には、そういう願望があることそのものに対して、思い悩まなくなった。一つには、50代の女性に恋をすることで、実際に小学生恋愛したって、物足りなくなるに決まっていると心の底から理解したというのがあるし、人生経験豊かな女性の魅力に気付いたのもある。さらに、処女厨の根源にあった、「セックスとは汚いものだ」という意識も弱まった。「セックス気持ちよいものだし、誰かを愛することは素敵なことだ」という感覚しかなかったら、処女喪失を汚れとは認識しないだろう。それよりも、出会った二人が新しく一緒に思い出を作っていくことの喜びに目が向くようになった。まだ彼女はできていないけれども、一緒にデートしたり、他愛のない話をしたり、うとうとしたりしたいし、それに向けて今でも努力している。

女子小学生の裸を見たいという感じもほとんどなくなった。確かにあの年頃の女の子かわいいけれど、それだけのことだ。どんな感情を抱こうとも人間自由だと思えるようになったことで、かえってそうしたロリコン的な願望から自由になった。

同時に、野外オナニー願望も消えた。なんというか、得体のしれないドロドロした性欲のエネルギーに、適切な形が与えられた感覚がある。よく夢で、性器露出したり全裸になったりするパターンが多かったのだけれど、カウンセラーと話すうちに「おちんちん見せるだけじゃ意味ないよね?」みたいな話になり、そうしたことを話しているうちに、セックスって相手あってのことだよね、みたいな認識に到達した(このあたりの話が非常にわかりにくいのではないかと恐れている。ラポール、とでもいうのだろうか、クライアントカウンセラーの間には、長い間の会話の積み重ねからくる膨大なコンテクストの共有があり、ある種のツーカー関係が出来上がっているので、会話だけも書き起こしても非言語的な部分が多くを占めていて、客観的にはわかりにくくなりがちだ)。

死への恐怖は、とりあえず先送りされた。これは個人的な経験だけれど、死ぬのが怖くてたまらないときというのは、何か大きな変化を恐れているときか、未知のものに飛び込まなければいけないときに強まるような感覚がある。

カウンセリングを終えたきっか

カウンセラーには日々の出来事を何でも話すことができたが、別にカウンセラーに聞いてもらわらなくても、別に大丈夫になってきた。さらに、ここで話をしても、これ以上自分は楽にはならない気がするようになってしまった。

とても感謝はしているけれども、自分自分を励ます考え方ができるようになっていて、あとは毎日出来事淡々カウンセラーに報告するだけみたいになっていた。

というのも、自分の悩みを解決できるのは、最終的には自分だと思うようになったからだ。話を聞いてもらって勇気をもらったり、現実的なアドバイスを受け取ったりすることはあったけれども、実際に行動するは他ならぬ自分なのだ

ならば、これ以上ここにいても、自分は変われないのではないか、という気がした。そして、3月という区切りのいい時期であったので、そこで終えることにした。

最後にもう一度風景構成法を行った。山には緑があふれるようになり、街には人がたくさん姿を見せるようになった。蛇は道や川のうねりへと姿を変えた。困ったときには駆け込めるような病院や、芸術を鑑賞できるような美術館も街に描かれていた。そこでは、たくさんの人々が連れ立って歩いていた。ずっと住み心地のよさそうな風景だった。

そして、僕は無事にカウンセリング卒業した。

続き→ anond:20200320072823

2020-03-16

anond:20200316171801

そもそも大抵の技法書が成功体験ご自慢本だよ

「このとおりにやれば誰でも同じ結果が得られます」って内容が書かれてる書物は「説明書」って呼ばれてる

2020-03-06

anond:20200305061410

ルネサンス芸術復興)を経験していないから(というか復興しなければならないような芸術破壊経験していないから)ではないだろうか。(強いて言えば信長とか廃仏毀釈とかだが全体的なものではない)

西洋においては、ルネサンスの後でも、写真発明ジャポニズム発見によって印象派シュールレリズムが生起された。現代芸術はその流れの上にある。

中国においては共産革命文化大革命によって既存芸術は壊滅的に破壊され、その損失を穴埋めするために、世界散逸した古典芸術を買い戻すだけでなく、中国現代アーチスト作品を買い求めている。

日本においては、明治文明開化によって西洋美術が導入したが、日本美術にとってかわったわけではない。日本美術西洋美術技法思想をとりいれてさらなる進歩を遂げたといえよう。日本美術現代美術コンテキスト独自にとりいれているともいえる。

日本における西洋美術は、それ自体現代芸術のようなものであったし、それを完全に消化、定着しきったわけではない。したがって、それにとってかわる現代芸術海外の見た目だけを真似たものしかなっていないのではないか

2020-03-05

anond:20200304114637

その辺が高機能自閉症の高機能で自閉な所なんだろうな 言語を扱う技法はあるが人魂が欠落してるというか

2020-02-23

オタクラブライバーが言うべきは「性的なんかじゃない」ではない

俺は表現規制には元々反対で、ゾーニングすら好まない立場だ。

だが今回の西浦みかん大使イラストが叩かれた時のオタクラブライバーたちの反応は、決して俺が期待していた通りの反応ばかりでは無かった。

「これのどこが性的なんだ、そんな描写はどこにもない」という趣旨の反発の声が少なから存在しており、その一点張りなのだ

しかしこれは非常にぜい弱な論の立て方だ。

私見を述べさせてもらうと、あのイラスト高海千歌キャラ名前)の描写で用いられているスカート中央部の影はボディーラインを強調するための技法であり、「セクシーに見せるためのもの」でしか無いのだ。

あれはスカートが太ももやお尻・股間のあたりに密着してるかのような印象を与えるのでキャラセクシーに見せる技法としてはわりとポピュラーものだ。

写実的に誤っているかどうかはこのアート世界では重要ではない。事実アートとしてこの表現技法が優れている事は今回のフェミ方面の反応からしても明白である効果があるのだ。

これはここ1020年以内に生まれ技法のはずだと俺は見ている。発祥アニメ方面ではなくギャルゲ方面なのではないだろうか。

ただし、ラブライブに限らずプリキュアセーラームーンでもコナンでも何でも良いのだが、ああしたアニメで用いられている塗りはいわゆる「アニメ塗り」と呼ばれるものなので、極度にデフォルメすることを求められるアニメ塗りの世界でそれをやるのはちょっとした技術的挑戦だと俺は思うのだ。

人体のみならず影すらデフォルメされるアニメ絵において、グラデーションという概念殆ど無いのである。むしろ影の濃度に3~4パターンもあるのは丁寧な部類と言えるのだが、ギャルゲは元々そういう複雑な描写でやってきたジャンルなのでスカートにボディラインを強調させる技法比較的容易だと言えるのだ。

だけどラブライブ場合はそうはいかない。1パターンの影であれを表現しようとする場合必然的高海千歌のあのスカートのような影になるはずだ。もう少し影を分散させればまた話は違ったかもしれないが、それはアニメ塗りの文法としては美しく無いものになってしまうためあれで押し通したのかもしれないのだ。

(「透けている!!」という反応があったのは俺もぶったまげたが)

いずれにせよあれはアニメ塗りの世界ギャルゲ技法を取り入れようとした技術的挑戦の産物だと俺は思ってる。製作者はキャラセクシーに見せるためにあれを描いたのだ。オタクラブライバーイラスト界隈のそうしたトレンドを知った上で、今回はあれを性的だと認めよう。

俺が言いたいのは、オタクラブライバーが取るべきは「性的ではない」という論ではなく「性的かもしれないが深刻な実害が無い・予想されない以上は潰すな」という論で統一するべきだという事だ。

そこまでムキになって性的ではないと強弁すればするほど不安になる。それってそいつは「性的であれば潰されても仕方ない」って考えてるかもしれないってことよね?

それでは表現を潰したがっている連中には絶対に立ち向かえないのだ。

これは何もエロに限らないよ。BLでも暴力表現でも差別表現でも同じ事が言えるよ。「バイオレンスだが潰すな」「差別表現だが潰すな」が言えないとダメなんだ。そうでないと必ず「市民」や為政者の餌食になるよ。

2020-02-20

anond:20200220173411

見たくない理由としてエロでくくるのは良くないというご指摘ありがとうございますエロそもそも悪いものなのか?・エロをどう定義するのか?というところでどんどん複雑化、過激化していってしまますね…すみません

エロ本を新幹線の中で開くのは個人分別の話になってきてしまって今回の日記で話させていただいたこから少しずれてしまます。と書いたところで、大声も個人分別の話になってしまうことに気づきました…例えとして適していなかったことを先ずお詫びいたします。そして、なぜこんなにも人によって守ろうとしてるものが違うのかが改めてわかりました。そもそも個人分別の話である部分と公共な部分とがかなり混ざり合って複雑化している議題。

可変のもの(明確な言葉での表現ありがとうございます。)である"エロ"についての気使いは個人分別公共分別が非常に複雑に絡んでいて「大声」では例えられなかった。すみません

ただ、エロについての気使いと大声をださないという気使いが同じくらい自然に起こればいいなと思っているのは心からそうです。それは本来エロ=悪ではない。という考えに通じます。大きな声が本来、=悪ではないように。ただTPOにより=で迷惑になることがある。

大声のように「うるさいから」、というわかりやす迷惑ではないというのがとても適切で刺さります

エロは何を持ってして迷惑となるのか。正直、わたしにはみなさん、これらが迷惑とされるエロです!といます提示することができません。これは、公共について自分勝手定義して日記を書いたのと全く同じ理由から来ています公共についても人々を納得させられる定義わたしはまだ持たないのです。思えばただ、自分の思う公共さ(ある程度回りと認識は通じていると感じているけど)を察知して自分自身で気を付けているだけでした。わたしは気を付けられるのだからあなたも、みたいな乱暴な論じ方だったのかもしれないです。

[エロ]って、個人感性経験、見てきた表現技法の種類によって受け取り手の察知の仕方も変わる、"可変のもの"(本当に明確な言葉での表現ありがとうございます。すぐさま真似してすみません)で、公共での気づかいを問われながらも判断材料が個々に問われている。公共ってそもそもどこ?なぜ?ということと迷惑エロってどれ?なぜ?は一緒に考えなくてはならず、それがひどく難しい。

誰かが耐えずにいられる定義とは果たしてどこにあるでしょう…好き勝手話して、投げているような着地点で申し訳ないです。しか一生懸命です。

もっともっとよく見て、感じて、考えてみたいと思います

オタクであり、人間の肉体の造形に魅力を感じてならない者のひとりであり、かつ性的消費の被害にもあったことがあり、かつ性別わず魅力的な肉体を性的に消費したい欲を持つ者であり、かつそれを公共の場で好き勝手に振るいたくはない人間であり、でも二次元表現に慣れていてこれを指摘するの!?って焦る心も、これはそりゃあ言われるよ!?って驚愕する心もある。こうした矛盾に悩んだり、八方美人さに頭を抱えたり、でも八方美人さこそ公共さではないかって思ったりもする。また、ビジネスエロ絶対切り離せないよなぁって、だから広告に使いたがる理由理解できる感性、でもそれを自分性的危険さらされている気がするとゾッとする感性、どっちもある。本当にどっちもあります

明確にこうですよと示そうとして(それはそれぞれの守りたいもののため)戦っている人たちを外から見て分析し、結局結論が出せないと言う余りの情けなさでしたが、悲しい気持ち吐露せずにいられませんでした。

相手してくださり、ありがとうございました。

2020-02-14

オタク実はアニメ漫画じゃなくて、エロに興味があるだけだったんじゃないか

ここでいうオタク創作をしないでアニメ漫画を見るくらいのオタク

表現研究とか、塗りの技法とか、仕草文章による表現をしないオタク

2020-02-08

多くの場合、求めてられているのは傾聴です anond:20200208181649

相談者が期待しているのは「解決」ではなくて

「傾聴」アクティブヒアリング

金貰ってもいないのにカウンセラーなんぞやんねぇぞならそのままお伝えすれば

双方の時間無駄にならない

「傾聴」の英語は「active hearing」

「傾聴」は英語で「active hearing」または「attentive hearing」です。「active hearing」は臨床心理学で「積極的傾聴」と呼ばれ、アメリカ心理学者カール・ロジャース提唱した手法として知られています

傾聴:共感理解

共感理解」とは「相手視点相手立場に立ち、相手気持ちや話の内容に共感しながら聴き入れることです。「共感する」という行いは相手にとって「話を聴いてくれている」「認めてくれている」という安心感を与えてくれます

傾聴:無条件の肯定的関心

「無条件の肯定的関心」とは、聴き手の私的感情を取っ払い、無条件で肯定的に話を聴くことです。たとえ、話の内容に誤りや間違いがあっても、また社会的に反する内容であっても、否定をせず関心を持って聴く技法です。

傾聴:自己一致

自己一致」とは、聴き手自身感情意見尊重し、相手の話で理解できない点がある時は内容を確認しながら、真摯姿勢で話を聴いていくという技法です。分からない点をそのまま置き去りしてしまうと、相手に「私の話はそれほど重要ではない」と誤解を招いてしまうこともあるでしょう。質問と答えを確認する行程が加わりますが、相互理解はお互いに安心感を与えてくれます

2020-02-06

「技名を叫ぶ」という表現起源はどこにあるんだろうか?

少年漫画ではおなじみのシーンとして技名を叫びながら技を繰り出すというものがあるが、

あれはいつ頃から存在する表現方法なんだろうか?

さすがにこの技法起源神話とかまでさかのぼれないだろうから近代のどっかで生まれたんだろうけど。

聖書でもキリストは「ヒーリングハンド!」とか叫びながら癒し奇跡を起こしたりしないし。

2020-01-31

分かる人おるって誰が流行らせたんだろう

分かる人おる?(←これはニュアンスちょっと違う)

あるあるネタやそんなやつおらへんやろネタを書いた後に「わかる人おる(かな)」を付ける定型フレーズ。それが以前に比べてずいぶん増えている。

ずっと前から使う人はいフレーズなのでどこが起源というのは特定しづらい。例によってどっかのテレビ番組流行らせたのだろうか。

押しつけがましい気がしてあまり好きになれない。あるあるネタ披露しておきながら自分だけしかからない感を匂わせることでイラっとさせて注意を向けさせる技法なのだろう。

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